歩行者
今から20年ほど前、私は交際していた女性を自殺によって失った。
怪我をして入院していた病院の窓から、彼女は飛降りた。
病院の脇の道路は急な下り坂になっており、建物のすぐそばには植え込みが並び、植え込みと道路は厚み30cmほどのコンクリートの土台で仕切られ、そのコンクリートで顔面を強打し顎を砕かれ、彼女は死んだ。
その2週間前、彼女は自宅の居間で何かの拍子に転び、ガラスのテーブルに頭から落ちて顔に大きな傷を負い、入院した。
ガラスの破片で頬はざっくりと切れ、下唇は原型をとどめないほどに崩れ、ぶら下がっていた。
命に別状はなかったが、彼女が受けた精神的ダメージは重く、私は有休を使って彼女に付き添っていた。
幾度かの形成手術を乗り越え、2週間もすると容態は安定し落ち着きも取り戻しつつあったため、薬によって深い眠りに落ちた彼女を病室に残し、私は彼女の着替えを取りに自宅へ戻った。深夜11時ごろのことであった。
彼女の荷物を持って病院へ戻ってみると、
赤色灯を明滅させた数台のパトカーが目に入った。
警察が事故処理のために被害者に事情を訊くことはよくあることだと思うので、
私もさほど気にせずエレベーターに乗り、彼女の病室に向かった。
エレベーターを降りると、廊下がやけに騒々しい。
何人かの夜勤の看護士が走り回り、ナースセンターの前では私服の警察官が看護士から事情を訊いている。
それぞれの病室のドアからはいくつかの入院患者の頭がのぞいていた。
警察官に事情を訊かれていた看護士が私に気付き、はっと表情を変えた。
看護士の表情を見逃さなかった警察官はすぐさま私の元に駆け寄り、腕を掴んだ。
私は警察官と看護士に付き添われて、ナースセンターに入った。
その際、廊下のつきあたりに一足のスリッパが置かれたままになっているのに気付いた。
看護士を交えた事情聴取の中で私は、彼女が廊下の窓から飛降り、ほぼ即死であったことを知った。
荷物を取りに帰ってくることは看護士に伝えてあったから私があらぬ疑いをかけられるようなことはなかったが、直前の彼女の様子についてはあれこれと訊かれた。
彼女は決して弱い人ではなかったし、顔の怪我によって受けた精神的ダメージからも立ち直りつつあった、それでもやはり気に病んでいたのかもしれない、と答えた。
そう答えるほかなかった。そのとき私の頭をよぎった浅はかな考えは、口にすべきではないことなど明白だった。
彼女はあの出来事以来、ひどく怯えていた。気丈に振舞おうとすればするほど
彼女の中の恐怖心が甦り、仕事ではミスが目立ち、退職を口にするまでになっていた。
私はそばにいて声をかけてやることしかできず、同時に、私がそばにいることが彼女をより怖がらせてしまっているのではないか、とも思った。
私の右腕には赤紫色の痣のようなものが残っており、彼女はその痣を憎々しげに見つめ、あるときは鋏を突き立てようとさえした。
彼女の怪我は、そんな不安定な状態の最中に起こった事故だった。
彼女が自宅で怪我をする一月ほど前、ある災難が私と彼女に降りかかってきた。
そのことで私と彼女はまるで逃亡者のような心境に陥り、周囲の視線をひどく
気にするようになった。通勤途上で出会う人々に対して神経を尖らせ、電信柱や
路上の看板などの物陰を恐れた。頭の中で否定しようとも、私の右腕の痣は消えない。
最悪の結末が訪れるのではないかという根拠のない怯えに、
ふたりで泣き明かしたこともあった。
私と彼女は、彼女が購入したばかりの新車の初めての遠乗りの目的場所に、ある遊園地を選択した。かなりの遠方だったため当初は一泊することも考えたが、翌日に大事な用を控えていたので無理をしてその日のうちに帰宅することにした。
予想したほどの疲れもなく、途中で何度か運転を交代しながら帰路を急いだ。
時刻は22時を過ぎたころで、高速道路は驚くほど空いていた。
当時は車載ナビなどはなく、高速を走りきって降りてしまえば自宅までの道を迷うこともなかったので道路地図も携行していなかった。
途中、食事と飲み物を調達するために高速をいったん降りた。
できればどこかで食事を採りたかったのだが、めぼしい店を発見できず、仕方なくコンビニエンス・ストアでパンと飲み物を買い、ふたたび高速へ上がった。
違和感はその直後からふたりとも感じていた。
助手席の彼女は時おり不安げに窓の外に視線を移し、何かを探すかのように
あたりの景色を見渡す。私は妙な胸騒ぎを覚えつつ、行き先を示す標識を探していた。
方向を間違えたか…?
単調な高速道路を走りながら、さらなる異変に気付くまでにさほどの時間は必要なかった。
私たちと同じ方向に向かう車が一台もいなければ、中央分離帯越しに見えるはずの
対向車のライトもまったく見当らない。方角からして、対向車線越しには
先ほど立ち寄ったコンビニがある街の灯りが見えていてもおかしくないが、暗闇を切り裂いたようなガードレールの向こう側には何も見えない。
道路脇のオレンジ色の外灯が路上を昼間のように照らし、
本でも読めるくらいに明るい。
見間違えるはずはなかった。歩行者だ。
水色っぽい縞のワンピースを着て、私たちと同じ方向に向かって路肩を歩いている。
背中の中ほどまでに伸びた黒髪が微かになびいていた。
当然ながら、彼女も気付いた。私たちはお互いの顔を見て、それから答を探した。
「人、いたよね?」彼女の声が心なしか震えているように聞こえる。
私は頷くことしかできず、正面を睨みつけたままアクセルをさらに踏み込んだ。
車を停めることなど思いつきもしなかった。
それは、先ほどからずっと感じていた違和感のせいだったのかもしれない。
いくつかのトンネルを過ぎたのは覚えている。しかしその頃には、私たちはどこを走っているのかまったくわからなくなっていた。
いくつもあるはずの行き先を示す標識がひとつもない。
路上の細い線がどこまでも延び、はるか遠くの闇へと消えていた。
先に気付いたのは彼女のほうだった。彼女は音を立てて座席に背中を押し付け、声にならない悲鳴にも近い声を発しながら
前方を指差した。私もすぐに気付いた。先ほどと同様の姿格好をした歩行者が前方数十メートル先のあたりの路肩を歩いている。
私は車を中央線寄りの車線に移し、スピードを落とすことなく歩行者を追い抜いた。彼女が震えているのがわかった。
「どういうこと?」
「わからない」
ふたりを包み込もうとする嫌な予感を拭い去ろうと、私はカーステレオのボリュームを上げ、インターチェンジを探してひたすら車を走らせた。
ふたたびいくつかのトンネルを抜けた直後だった。相変わらず、私たち以外の車は一台も見当らない。
ふたりともすでに言葉は出てこない。オレンジ色の外灯に照らされて目に見えているものが、現実だとも思えなかった。
歩行者は路上にいた。左側の車線のほぼ真ん中を歩いている。そのまま高速で傍を走り過ぎる危険性は十分に認識しながらも、減速したり立ち止まったりすることはそれ以上の危うさを含んでいると私は思った。
私の判断に誤りはなかったけれども、歩行者の動きを予測することはできなかった。
歩行者は突然倒れた。まるで脚を固定され、首に縄を掛けられ、強い力で引き倒されたかのように、私たちの目前でぱたんと倒れた。私たちの車は歩行者の身体に乗り上げて大きく弾み、車体の下からはごとごとと不気味な音が聞こえた。
いま正直に言えば、私がブレーキを踏んだのは車が歩行者の身体に乗り上げ、通り過ぎた後のことだ。
車はスリップして左側の車線にはみ出し、やや右斜めの方向を向いて停まった。
おおかたの人がするように、私は咄嗟に後ろを振り返った。彼女も上半身をひねって、いま走って来た方向を見ている。
もう一度正直に言うが、このとき私たちふたりがほんの一瞬だけ安堵のため息を漏らしたことは否定しない。
私たちの視界に飛び込んでくると思われた歩行者の横たわった身体が、どこにも見当らなかったのだ。
私は深呼吸をし、それから車を降りた。歩行者を轢いたと思われるあたりまで歩いてみる。
外灯に照らされた路上には、これといった痕跡が見当らない。もちろん、歩行者の身体や血液のような染みも。
私は少し考え、車のほうへ戻った。
彼女は不安げに私を見ていた。脇を締め両腕を抱きかかえるようにして、怯えた眼差しを私に投げた。
私は彼女を見ながら車の脇を回り込み、前方から車体の下を覗き込んだ。何もない。バンパーやボディ、ヘッドライトのレンズにも傷ひとつなかった。歩行者を轢いたと思われる左前輪も点検した。それから後輪も。
ふたたび、前に戻ってもう一度車の下を見た。やはり何もない。
私はヘッドライトの灯りに照らされながら、車の前にしゃがみ込んだまましばし考えた。
あらゆる可能性を考慮しても結論は出てこない。ふと車のルーフを見上げたが、想像したようなものは何もなかった。
私は考えがまとまらぬまま立ち上がり、車の中の彼女を見た。
彼女の顔は蒼ざめ、唇が小刻みに震えているのが見て取れた。私は何もないというふうに顔を左右に振り、それから彼女の不安を取り除くために笑顔を作ろうとボンネットに両手をついたその時だった。
彼女の顔が凍りついた。私には助手席に座る彼女の姿が見えていたが、彼女には私のほかに別の何かが見えていた。
私は悟った。私の背後に何者かが立っていることを。
これから先には、後日彼女が語った話と多分に私の想像が含まれていることを考慮願いたい。
彼女が自殺したとき、私が警察官の聴取に対して彼女は弱い人ではなかったと答えたのには相応の理由がある。
あのとき彼女の決断と勇敢な行動とどちらかひとつでも欠けていたなら、私がいまこうしてこの文章を書いていることもなかったのかもしれない。
私は幼い頃から霊的な存在や異形の物どもをひどく恐れていた性質で、図書館からそういった類の物語を借りてきては、眠れぬ夜を幾度となく過ごしてきた。9歳のころ手脚から血を吸う吸血鬼の紹介文を読んだときには、真夏でも頭から足の先まですっぽりと布団に包まって眠っていたものだ。
スポーツは大好きで、学生時代にはそれなりの成績を修め、この年になった今でも人並み以上の自信はあるが、ある特定の存在に対する恐怖心が拭われることはない。私があのとき全身で感じた恐れは、まさにその手のものであった。
窮地に立ったときの人間の行動というものは大方の予想さえも覆し、後に振り返ってみると
それが事実であったかどうかさえ危うくする。それ故に余計な疑念が生じ、想像を働かせざるを得なくなるのだ。
今でも不思議に思うのだが、あのとき助手席に座った彼女の顔が凍りついていく様を、
私はたとえば自然の神秘を捉えたスローモーションの映像でも見るかのように食い入るように見つめていた。
美しいとさえ感じた。そしてすぐさま、巨大な諦めと絶望の念に囚われた。
やれやれ。どうにもならない――。信じられないかもしれないが、事実だ。
私は全身が泡立つのを覚え、振り返った。
この高速道路を走っているあいだに私たちが何度も見かけた水色の縞のワンピースを着たあの歩行者が、
たったいま私が1トンの鉄の塊で踏み潰したと思われるあの女が、私のまさに目の前に立っていた。
女の動きと私の反応はほぼ同時だった。女の顔が口元のあたりから真一文字に裂け、上半分が仰け反るように後方に倒れた。
一面が真っ赤で、その中に舌のようなものが蠢いていた。私は咄嗟に両腕を顔の前で交差し、目を固く閉じた。
両腕に生臭い息吹を感じた。ひんやりとした、ざらついた感触が右腕を這った。それから、彼女の叫び声が聞こえた。
私は彼女に引き立てられるようにして車に乗り込み、彼女の運転で帰路についた。
先ほどまでひとつとして見つけられなかった標識は、いつもの場所にいつものように幾つもあって、
迷うことはなかった。運転をしているあいだの彼女の横顔は血の気を失い、ハンドルを掴む腕は小刻みに震え続けた。
私が聞いた彼女の叫び声は、「早く!」だった。私が腕を交差して身構えたとき、彼女は既に車から飛び出し、
私のそばに駆け寄ろうとしていた。その時の私は「逃げなければ」という発想は微塵もなく、
ただ彼女にされるがまま助手席に押し込まれ、彼女が運転席に乗り込む様子をぼんやりと眺めていた。
彼女の話によれば、彼女は車を30メートルほど後退させ、それからアクセルを踏み込み女の脇を走り抜けた。
女は何かを掴もうとするかのように両腕を突き出し、走り抜ける車に向かってきたそうだ。
しかし走り過ぎたあと彼女が見たバックミラーに、その女の姿は映らなかったと言う。
帰宅した後、私の腕の痣に最初に気付いたのは、彼女のほうだった。5×3cmほどの赤紫色の痣で、
私が記憶する限りその時まで私の腕にそのような痣はなかった。同時に、
先ほどの出来事の最中にちょうどその痣のあたりに何かが触れたことも鮮明に覚えていた。
私は、この痣はあの女の顔が開いたときに見えた舌のようなもので舐められた痕だと考えた。
彼女は、あの女が私に圧し掛かるようにして顔を近づけた様子を克明に覚えており、私が噛み付かれるのではないかと思ったそうだ。
彼女は死ぬ間際まで私の腕にできた忌々しい痣をひどく気にしていた。食事を共にしている時やふたりして居間で
本を読んでいるときなどに、ふと気付くと彼女がじっと私の腕を見つめていることがあった。
翌日から、私たちはテレビのニュースと新聞をしらみつぶしに当たった。もし本当に人身事故を起こしたのであれば、
既に私たちは逃げてしまっている。恐怖よりも後ろめたさに支配され、幾日かは激しい罵り合いと深く沈み込む時を繰り返した。
それらしいニュースはどこにも見当らず、一週間後、私たちは意を決して最寄の警察を訪ねた。
私たちの自宅の所在地と私たちが当日訪れた遊園地とを結ぶ高速道路が端から端まで点検された。周辺の病院への確認も、
当然ながら真っ先に行われた。彼女の車も綿密に調べられた。しかし、何も出てこなかった。私たちが走行したはずの、
オレンジ色の外灯に昼間のように明るく照らし出された高速道路自体が、とうとう警察にも見つけられなかった。
結論として、警察が私たちの話をどのように受け止め、どう処理したのかはわからない。
数日後に警察から報告を受けたとき、私たちには謂れのない恐怖心と後味の悪さだけが残った。
高速道路での出来事があって以来、彼女とは何度も話をし、時には互いを傷つけ合うこともしたが、
私は彼女を愛していたし、彼女もまた私を愛し続けてくれた。
私も彼女も早く忘れようと努めていたし、気にかけてくれた警察官にも同様のことを言われた。
彼女が自宅で転んで顔に大怪我を負った際にも、ふたりの会話の中でこの事故と高速道路での出来事とが
結びつくことはなかった。彼女は少しずつ元気になっているはずだった。
彼女が何の素振りも見せず、なぜあのようなかたちで発作的に死を選ばなければならなかったのか、今となっては知る術もない。
彼女の葬儀には、高速道路の探索で世話になった警察官が何人か弔問に訪れたが、その中の女性警察官は深い同情心からか
旧知の知人を失ったかのように泣いた。私も女性警察官と同様に泣きたかったが、棺の中の彼女を見たとき
ふたたび恐怖心が湧き上がり、かつてない自責の念に囚われ、その場から逃げ出してしまいたいほどであった。
彼女が死んだその夜、彼女はベッドの中から両手を差し出し、まるで痣を消そうとでもするかのように
しきりに私の右腕をさすっていた。私は「心配しなくていい。いつかは消えるから」と言って彼女を諌めたが、
彼女は微笑むばかりで自らの手を止めようとしなかった。
それから彼女は眠りに落ち、悠長な私は彼女をひとり残して病室をあとにした。
彼女を衝き動かしたものが何であったのか、知りたいとは思わない。それでも、私は思う。
もしかすると彼女の死は彼女が望んだ死ではなかったのではないか、と。
棺の中の彼女の顔は下半分が白い布で覆われ、左目のふちから縫合された傷跡が白い布の下へと消えていた。
頭部はいびつに変形し、美しかった髪の毛のかわりに不似合いなかつらが取り付けてあった。左目には義眼が入っていた。
身体の前で重ねられた両手には、いくつものかすり傷があった。転落した際にできたものだろう。
私の隣りに立った弔問客が一輪の花を彼女の手元に手向けた。
その時、既に彼女の身体の上にあった花がはずみでこぼれ落ち、
彼女の右袖がほんの少しめくれ上がった。私は彼女の青白い右腕に釘付けとなり、
他の弔問客に急かされるまで身動きが取れなくなっていた。
私は彼女の棺のそばで自分の喪服の右腕を捲った。
痣は跡形もなく消えていた。
私と彼女に如何なる理由からあのような災難が降りかかったのか、
またそれは私と彼女をどこへ導こうとしたのか、今もわからない。
彼女は何を知り何を悟り、どのような気持ちで死んでいったのか、
それさえも私にはわからない。
ただ彼女の墓前に立つと、葬儀のときにさえこぼれなかった涙が、
今でも静かに溢れてくるのだ。そのたびに、私の妻は言う。
「あなたが死んだら、あなたは彼女の元へ行ってあげてください。
彼女が受けた痛みや苦しみを考えれば、私はひとりでも平気です」と。
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