3ヶ月
678 3ヶ月 ◆lWKWoo9iYU sage 2009/06/17(水) 20:31:32 ID:kOT+Y6Db0
あの北海道ツーリングから3ヶ月。
俺は今、都内の駅前広場のベンチに座っている。
夏の暑さも終わり、街に冬の気配が漂う秋風の季節だった。
季節の流れに街の色が移ろうように、3ヶ月間で俺の人生も大きく変わった。
あの日、俺と一緒に北海道を旅したバイクは、もう居ない。
トラックと正面衝突を起こし、跡形も無く大破した。
俺はその事故で左脚と左腕、左側の鎖骨と肋骨4本を骨折する重傷を負った。
全治5ヶ月と診断された。
生きていただけ有難いが、全治5ヶ月の人間を俺の会社は不必要と判断し
書類一枚の郵送で解雇した。
おかげで、バイクも失い、仕事も失い、残ったのは僅かばかりの貯金と
ポンコツの身体だけだった。
幸い、後遺症も無く回復しそうな感じではあるが、左腕の回復が妙に遅い。
左脚、肋骨、鎖骨は、もう殆ど治っているのに左腕は未だに折れたままだ。
医者も不思議がっていた。俺も不思議だ。
あの時、俺は何故、事故を起してしまったのか記憶が無い。
医者は事故のショックに因る一時的な記憶障害と言っていた。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
俺はすっかり社会から逸脱していた。
例え、怪我が癒えても俺には帰るべき職場も無い。
俺はすっかり生きていく自身を失っていた。
このまま俺は社会不適合者として、枯葉の様に朽ち果てるのではないだろうか。
そんな事ばかりを考えていた。
俺が今、駅前広場のベンチに座っている理由は一週間前の出来事に遡る。
俺は病院に行く為にこの駅を利用している。
俺の体は俺の思うように動いてくれない。不意に人の波に足を取られ転倒した。
そんな時、俺を助けてくれる人間は皆無だ。
ほんの少し、こちらに目線をくれるだけで、人々は通り過ぎていく。
別にそれでも良かった。助けて欲しいとは思わない。
妬む気持ちや、恨めしいという気持ちは無い。ただ自分が惨めで仕方なかった。
弱いということは孤独で惨めな感情を引き立てる。毎日が泣きたい日常だった。
駅前広場のベンチに座り、俺は休んでいた。
人々の流れを見ながら、俺はかつての日常を思い出していた。
あの頃に戻りたい。過去に戻れたら、どんなに良いだろうか。
不意に若い男が俺の隣に座った。
若い男はタバコに火を点け、煙を空に向かって吐き出した。
「お兄さん、やばそうだね」
若い男が俺に話しかけてきた。俺は黙って人々の流れを見ていた。
「別に怪しいもんじゃないよ。
ただ今のお兄さん見てると助けが必要なのかなって思ってさ」
「助け?助けなんか要らないさ。体が治れば俺だって自力で生きていける」
若い男は溜息をつくように煙を吐き出す。
「その体はもう治らないよ。治ったとしても、また同じ事を繰り返すだけだ」
俺は黙って人々の流れを見る。言い返す気力も湧かない。
「一週間後にさ、またここに来てよ。そしたら俺たちが、お兄さんの力になるからさ」
そう言って若い男はその場から立ち去った。
俺は虚空を眺めていた。
俺はあんな奴にあんな事を言われるまでに落ちぶれたか。
その日の夜、俺はアパートのベッドの上で横になっていた。
姉が時折、俺の面倒を見に来る以外に誰も訪れない。
俺は孤独な狭いアパートの中で、ただ天井を眺めていた。
暫くして眠りに落ちると不意に目が覚める。
天井に穴が開いている。それも人一人が通れそうなほどの大きな穴が開いていた。
突然、現れた天井の穴に驚いた俺は、体を起そうとするが
まるで拘束具で縛り付けられたように体が動かない。
俺は一瞬、パニックを起しかけた。
天井を一点に見つめたまま身動き一つ取れない。
なんとか体を動かそうと、足掻く俺の耳に何かが這いずるような音が聞こえた。
音の発信源は天井の穴の中。
俺の全身に警戒信号が流れ出す。嫌な気配が天井の穴の中から満ち溢れていた。
俺は目を閉じた。これは夢なのだと自分に言い聞かせた。
起きろ!起きろ!起きろ!
必死で念じた。
目を開けた次の瞬間。俺は我が眼を疑った。
あの北海道で遭遇したキチガイ女が天井の穴の中に居る。
俺の心臓は張り裂けんばかりに強く鼓動した。
キチガイ女は黙ってこちらを見ている。
身動き一つ取れない俺は、ただひたすらに震えていた。
キチガイ女の口が、モゴモゴと奇妙な動きをする。
まるでガムを噛むような素振りの後、女の口からゆっくりと血が流れ落ちてきた。
その血が滴となって、俺の顔にこびりつく。
女の口から吐き出された血は、人の血とは思えない冷たさだった。
死体の血。俺の頭の中で連想した物はそれだった。
俺は絶叫した。誰でもいい。気付いてくれ。誰か助けてくれ。
俺の顔を埋め尽くすほどに、尚も女は血を吐き出し続けている。
俺は叫んだ。心の底から叫んだ。助けを求め、狂ったように叫んだ。
すると女は穴から這いずるように身を乗り出すと、そのまま天井から落ちて来た。
俺の心臓は停止寸前だった。
落ちてきた女は天井にぶら下がるように首を吊っていた。
冷たい無表情な顔で俺を見下ろしている。
女の口からは大量の血が流れ出ていた。冷たい血が女の白いワンピースを赤く染める。
唐突に女の首のロープが切れる。
まるで操り人形の糸が切れた様に、女は力なく俺の腹部に落下した。
俺の恐怖は頂点に達していた。
這いずるように女の顔が俺の耳元に近づく。
「もうお前は私のなの…」
そう言いながら女は俺の体を弄る。
俺は恐怖で涙が止まらなかった。
「許してくれ、助けてくれ」
懇願することしか俺には出来なかった。
女は俺の口にねじ込むような不快なキスをしてきた。
俺は泣きながら、くぐもった声で絶叫した。
その刹那、女は消えた。
俺は大量の汚物を口から吐き出した。
朝。目覚めた俺の周囲は俺の吐いた汚物にまみれていた。
鏡を手に取り、顔を見る。女の血は付いていない。
ベッドの周囲にも女の血は無かった。天井にも穴は無かった。
ただ俺のゲロだけが散乱していた。
俺は荷物をまとめるとアパートを飛び出した。
昼間は駅の構内で休み。夜はファミレスで明かした。
俺は、もう一人になる環境に耐えられなかった。
誰でも良いから人の居るところに居たかった。
そんな生活が一週間続いた。俺の心身は限界に近づいていた。
癒えきらない体。慣れない生活環境。俺の中で色々なものが崩壊した。
ほんの少し前まで俺はバリバリ仕事をこなし、一端の社会人として生きてきた。
それが今じゃ、ホームレスと変わらない。
その理由が、あのキチガイ女に纏わり憑かれているからだ。
そんな理由で俺はこんな生活をしている。こんな事は誰にも言えない。
精神異常者と思われても仕方が無い。俺はもう駄目かもしれない。本気でそう思えた。
俺の心は半分死んでいた。何もかもが絶望的に思えた。
気が付くと俺は、あの若い男と出会った駅前広場のベンチに座っていた。
最後の拠り所とでも思ったのかもしれない。俺はただ何も考えずにベンチに座っていた。
夏の暑さも終わり、街に冬の気配が漂う秋風の季節だった。
俺は彼を待っていた。
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