泣ける話 短編 全10話
わたしの人生は短かったけど
昨日、恋人が死んじゃったんです。病気で。そしたらなんか通夜が終わって病院に置いて来た荷物とか改めて取りに行ったら
その荷物の中に俺宛に手紙が入ってたんです。
で、よく見たらなんか「わたしの人生は普通の人よりも短かった、だけど〇〇君と一緒に過ごせたことで普通の人よりもずっと幸せな日々を送れた」、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前な、そんなこといまさら言ってんじゃねーよ、ボケが。
死んだ後だよ、もうお前いねぇんだよ。 なんか最後の方はろくに起き上がれもしなかったくせに。
弱々しい字で必死で書いてたのか。おめでてーな。
よーし〇〇君のことずっと見守ってるぞー、とか書いてるの。もう見てらんない。
お前な、俺だってまだ言いたいこと沢山あったんだから生き返ってこいと。
愛の言葉ってのはな、もっと生きてるうちに伝えるべきなんだよ。初めて出会った頃みたいにドギマギして恥ずかしさの余りいつ心臓が破裂してもおかしくない、
言おうか言わざるべきか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。
今になってこんな事言い出すやつは、すっこんでろ
で、やっと涙堪えながら読み終わったと思ったら、最後の方に、
「わたしの事は忘れて他の人と幸せになって欲しい」、とか書いてあるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、俺はお前がホントに死んだなんて信じらんねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、見守ってる、だ。
お前は本当にこの世にいないのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、これは全部タチの悪い夢でホントはどっかで生きてるんちゃうんかと。
独り残された俺から言わせてもらえば今、お前に対してできる供養はやっぱり、お前の事を忘れないこと、これだね。
たとえジジイになってボケたとしても。これが俺の生き方。
お前との思い出ってのは俺には辛すぎる。そん代わり忘れない。これ。
で、それにお前の事をずっと想い続ける。これ最強。
しかしこれを貫くと次から恋人が2度と出来ないかもしれないという危険も伴う、諸刃の剣。
軟弱者にはお薦め出来ない。
まあお前みたいな寂しがりやは、俺がいつかそっちに行くまで待ってなさいってこった
マーチありがとう、これからもげんきでね
新車を購入する為、6年間乗ったマーチを手放すことになりました。
小1の長男は声をあげて泣きました。
長男は妹と一緒にマーチの中に
「マーチへ。いままでいろんなところにつれていってくれてありがとう。
これからもげんきでね」
と書いた手紙をしのばせ、マーチとお別れしました。
それから9ヶ月余りが過ぎた先日、郵便受けに「マーチより」と書かれた
長男と妹あての手紙が届きました。その手紙には
今マーチは新しいオーナーの赤ちゃんを乗せて毎日元気に走っていること、
その赤ちゃんが手紙をくれた2人のように優しい子になってほしいということが
書かれていました。
メニューの漢字が読めない
20年前ぐらいの前の話
当時俺の家はいわゆる片親ってやつで、すげぇー貧乏だった。
子供3人養うために、かぁちゃんは夜も寝ないで働いてた。
それでもどん底だった・・・
俺は中学卒業してすぐ働きに出た。
死ぬほど働いた。遊んでる暇なんてなかった。
1年ぐらいして同級生に久しぶりに会った。
飯食いに行こうって話になった。
メニューの漢字・・・読めなかった。
読めたのは、一つだけカタカナで書いてあった「オムライス」だけ。
同級生は「焼きそばとごはん」って注文した。
無知な俺は「じゃあ俺はオムライスとごはん」って店員に言った。
店員、固まってた。
クスクスって笑い声も聞こえてきた。
そしたら同級生
「さっきのキャンセルね!!俺もオムライスとごはん!!」
・・・
店出た後、同級生が一言
「うまかったな」って言った。
「仕事がんばれよ」って言ってくれた。
泣けてきた
心の底から人に「ありがとう」って思った。
そいつは今でも親友です。
お世話になりました。
3年前俺は高校生だった。
俺は反抗期だったのか荒れた高校生活を送っていた。
授業はサボって遊んでばっかりだし、ちょっと危ない遊びとかもしていた。その時、普通では毎年クラス変えがあるんだけど俺は3年間同じ先生が担任だった。
女の先生でいちいちウルサイやつでいつも怒られ俺は本気で嫌いだった。
そんなある日。
俺はいつものように学校をサボっていたら電話がきた。
電話をでたら母さんからで『あんた退学なるよ』って言われた。
俺はべつに退学なってもいいやと思ったけど、その時なんとなく学校に戻った。
授業中だったらしく廊下には誰もいなかった。
そんな中、どっからか声が聞こえた。
どうせ暇だから行ってみた。
だんだん近づくにつれてその声が担任の声だというのがわかった。
内容はわからないけど『お願いします』と泣いた声で言っていた。
俺は人が泣いてるのみても楽しいと思わないから、また歩きだしとりあえず授業だけでようと思い教室に行った。
そんな毎日をすごして卒業した。
正直自分でもよく卒業したなと思う。
そして2ヶ月前。担任だった先生が亡くなった。
俺は一応迷惑かけたのでお世話になりましたという意味で葬式にいった。
そしたら高校生のとき校長に呼ばれ、こう言われた。『今だから話します。
君が卒業できたのは〇〇先生のおかげだよ。
職員会議で君を退学にするかどうかを話していたところ、〇〇先生は私に土下座までして泣いてお願いしてきたからなんだ。』と聞いた瞬間、涙がとまらなかった。
今になってだけど先生に本当に感謝してる。
本当に本当にお世話になりました。
ありがとう。
私は中3の時、
学校も行けなくて
部活も行けなくて
親とも喧嘩ばっかり
リスカとか毎日してて
頭おかしくなってた。
で、ある日親が
私の携帯見てたんだ。
それでムカついて
親の携帯も見てやる!って
思って見たら
同じ部活の子の親から
メールが来てて
「あなたの娘さんが部活や
学校に来ないのはあなたの
教育が悪いからじゃないの?」
と。
その時、本当怒りが
込み上げた。
けどお母さんはその人に
「あなたにあの子の
何が分かるんですか?
私はあの子の事誰よりも
分かっています。」
ってメールを送ってた。
その時、泣いた。
あぁお母さんはうちの事
やっぱり誰よりも
分かってくれてたって。
考えると
私が学校に行かないって
言っても、
部活に行かないって
言っても、
何も言わずに自分が
行きたい!って
思ったら行きなさいって
言ってくれたね。
リスカしてたことも
知ってたんだってね。
そのメール見た翌日から
学校行った。
部活にも出た。
頑張ったよ。
今は私も一児の母。
お母さんみたいなお母さんに
なりたいな。
愛してるから。
お母さん、ホントごめん。
こんな娘でホントごめん。
受験生なのに全然勉強しなくて、いつもお母さんが「勉強しなさい」って言われた。
その時はスゴクうざかったし、ムカついた。
ずっと無視し続けてきた。
でもある夜、自分の部屋で友達にいつものように電話で母親の悪口を言ってた。
その時。
冷静なお父さんの声が隣の部屋から聞こえた。
「アイツ、ろくに勉強もしないで何やってるんだ。俺もうアイツの面倒みきれない、あんな子に育てた覚えない。」
そんな声が聞こえた。
なんだ、お父さんもうウチのコト嫌いなんじゃん。
どうでもいいって思ってんじゃん。
どうせお母さんもなんでしょ??
今の状況を友達に話した。
でもその数分後。
お母さんの声が聞こえた。
「そんなこと言わないで。あの子もやればできる子なの。私はあの子を信じる。どんなにウザがられても信じる。
あの子を愛してるから」
って。
その言葉を聞いた途端、胸がいっぱいになった。
無意識に涙を流していた。
電話を切り、今までのお母さんへの態度を振り返ってみた。
口答えをして、暴力ふるって、悪口言って、お母さんの言うこと1つも聞いてないかも。
罪悪感がハンパなかった。
ゴメン、こんな娘で。
今は素直になれなくて口答えするかもしれないけど、
いつか大人になって素直になれたとき。
「ありがとう」
笑顔で言う。
その時でも肩もみしてあげようかな??
ある有名サッカー選手の話。
ある有名サッカー選手(キーパー)の話。
ある時彼はチャリティーイベントに招待された。
主催者曰く「チビッ子達と軽いゲームをしてほしい」と。
それは子供達10人とPKをして、子供達が1本ゴールを決めるたびに
企業が100万(だっけ?)づつ募金箱に寄付をしていくという、遊びのゲームだった。
企業も最初から分かっていて、すでに100万と書いた小切手を10枚用意していた。
人だかりが出来る中、子供達10人とのPKが始まった。
集まった人々はみんなある同じ事を思っていた。
『彼はチャリティーの為に小学生が蹴ったボールを止めずにやり過ごすに違いない』と。
しかし実際は違った!
なんと彼は子供が一生懸命に蹴った緩いシュートをガッチリとキャッチしてしまった。
最初はちょっとしたジョークかと思っていたが、彼は次の子シュートも止めた。
そして、次も次も次も…結局子供達10人全員のシュートを止めてしまったのだ。
お前空気嫁と。
「軽い遊びのゲームであろうと、僕の守るゴールにボールを入れさせる訳にはいかない」
静まり返る会場…。
このままではチャリティー金額はゼロ。
主催者や関係者が真っ青になっていると、彼は自前の小切手帳を取り出し
「しかし、ぜひ寄付はさせてもらうよ」と言うと、金額欄に1000万と記入し
サイン欄にオリバー・カーンと書くと、それをカラの募金箱に入れた。
おばあちゃんからの手紙
おばあちゃんは私が
小学5年生のときに死んでしまった。
病気がわかり入院が決まった前日おばあちゃんと
家族で買い物に行った。
入院の用意をそろえるため。
おばあちゃんは私の手を握って
「Oちゃん、ばあちゃんエラいよ・・・」
と言ったのを覚えている。
入院した頃にはもう手遅れだったらしい。
母と毎日病院に通った。
とても長い間通った。
私はおばあちゃんが大好きだった。
いまでも「Oちゃん」と呼びかけてくるあの
優しい声が忘れられない。
始めのうちは私もまさか死んでしまうなんて
思っていなかった。
それはおばあちゃんもそうだったらしく
かなり病状が悪くなってから
「あかんねぇ・・・・」とつぶやいていた。
おばあちゃんに会える病院は好きだった。
売店でお菓子を買うのも病室で絵を描くもの
楽しかった。
おばあちゃんが車椅子で散歩した時
売店で見つけたキティーちゃんのぬいぐるみ。
おそろいで買ってくれた。
日にちとともに病状は悪化した。
私は助けてあげれなかった。
おばあちゃんが久しぶりに食べたいといった
イチゴ。母は雨の中買いに行った。
美味しそうに食べたがすぐに吐いてしまった。
おばあちゃんが危ないとはっきり
言われるようになった。
新学期だった。実感がなかった私は
「O日に代表委員の選挙があるんだ。頑張るね。」
とノンキに話しかけた。
返事はなかった。
その選挙の少し前おばあちゃんは死んだ。
家族で病院に泊まっていた。
私は眠っていた。看護婦さんが飛びこんできて
起きた。私は泣き喚いた。
母は最期まで暖かい手をしていたといっていた。
普通ならお通夜とお葬式で学校にいけるはずのなかった選挙の日。私は学校にいて選挙に
でた。
演説ではおばあちゃんのことを言った、泣いた。
私は委員長になった。
おばあちゃんはあの時の私の言葉を聞いてくれていたのだ。葬式会場の都合でちょうど選
挙の日
学校に行けた。おばあちゃん・・・・
おそろいのキティーちゃんは今も部屋にいる。
おばあちゃんも天国へ持って行った。
今一番会いたい人は大好きなおばあちゃんです。
ただ一言「ありがとう」といいたい。
知らなかった事実
小学5年生になったある日、祖母が親戚の法事で遠く離れた親戚の家に泊まりで行った。
その頃、祖父は病気で入院していた。
祖母は3日間位で帰ってくる予定だったのに、心臓が悪かった為倒れてあっちの病院に入院してしまった。病状がかなり悪かったらしく、手術をしてしまうはめになり、思ったより入院は長くかかってしまった。 その頃、地元では祖父の容態が急変しそのまま帰らぬ人となってしまった。
祖父が亡くなって1か月後、祖母が退院して地元に帰ってきた。祖母は、心臓に悪いからと祖父が亡くなった事を知らされてなかった。仏壇の前に連れて行かれ、始めは何が何だか分からないという感じだったが、ようやく現実を受け止めたようで、仏壇の前にしゃがみこんで大きな声で泣いていた。
それを陰から見て、私は幼いながらも涙が止まらなかった。
今になっても、その時の光景が頭から離れない。
愛する人の死
愛している誰かが死ぬとき、しかも予想していないときに死なれた場合、
一度にその人を失うわけではない。
長い時間をかけて、少しずつ少しずつ失っていくのだ。
しだいに郵便物が来なくなり、
枕やクローゼットにある衣類からにおいが薄れていく。
少しずつ、なくなった部分、欠けた部分が積み重ねられていき、
そしてその日がやってくる。
ふと、あのひとが永久にいなくなったのだということに気づかされ、
痛切な思いにかられる。
そしてまた一日、すっかり忘れて何ごともなく過ぎたと思っていると、
ある日突然、失われた部分、欠けた部分に再度気づかされるのだ。
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