心が温まる『自衛隊のいい話・逸話』30選

心が温まる『自衛隊のいい話』30選 心が温まる話

 

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心が温まる『自衛隊のいい話』30選

 

 

No. 1

2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。

 

 

No.2

2000年7月4日、20世紀最後のアメリカ独立記念日を祝う洋上式典に参加するため、
世界各国の帆船170隻、海軍の艦艇70隻がニューヨーク港に集結した。
翌日の5日に英国の豪華客船「クイーンエリザベス号」が入港してきたのだが、
折悪しくも2ノット半の急流となっていたハドソン河の流れに押された

巨大な客船は、あれよあれよと言う間もなく、
係留中の我が海上自衛隊の自衛艦「かしま」の船首部分に接触してしまったのである。
着岸した「QE」からすぐさま、船長のメッセージを携えた機関長と
一等航海士が謝罪にやってきた。
相手の詫び言に対応した「かしま」艦長はこう答えた。

「幸い損傷も軽かったし、別段気にしておりません。
それよりも女王陛下にキスされて光栄に思っております」

これが何千人もの船乗りたちの間で大評判になり、
ニューヨークだけでなく、ロンドンにも伝わって
「タイムズ」や「イブニング・スタンダード」も記事にし
日本のネイバル・オフィサーのユーモアのセンスを評価する声が高かったそうである。
「かしま」艦長、上田勝恵一等海佐の対応の見事さは勲章ものではないでしょうか。

 

 

No.3

文芸春秋で自衛隊の面白い話が載ってた

自衛隊員A(以下A)「おい、デモ隊がここ(宿営地)に向かっているらしいぞ」
自衛隊員B(いry「うえ、この間アブグレイブでイラク人虐待があったばかりじゃん、どうすんだよ」
A「それが、どうも支援デモらしいぞ」
B「は? 支援デモ? 私怨じゃなくて? そんなデモ聞いたことね?よ」
A「俺もね?よ。ま、一応、本当に応援だった時の為に飲み物とアイスでも用意しておこや。暑いし」

デモ隊参上
彼らの持つ旗には自衛隊を支持する言葉が書かれていた

A「うあ、本当に支援デモだ。おい、アイス配れ、冷たい水あげれ」
B「アイス足らねーよ。弾幕薄いぞ、何やってんの。アイス追送頼む」

デモ隊、にこにこ顔でアイス頬張る、でもゴミぽい捨て。
自衛隊員見かねてゴミを拾う、すると、何てことでしょう、彼らもゴミを拾い出したのです。

そんなこんなで後日
米&英軍「おい、こないだのあれ、いくら使ってやったんだ?」
自衛隊「あれ?」
米&英「あれだよあれ、支援デモ」
自「あれは、住民が自発的にやってきたんだよ」
米&英「ははっそんなわけあるかよ。吐けよ、同盟国じゃん」
自「・・・・・・(やっぱ信じないよなあ、自分でも信じられないし)」

と、イラクではそんな感じだったらしいぞ。
小泉首相は間違ってなかった。自衛隊のいる所「が」非戦闘地域だわw

 

 

No.4

一昨年の夏、私は息子(5歳)を連れて家から車で1時間のところにある、
自然博物館の昆虫展に向かっていました。
ムシキングの影響で息子はとても楽しみにしていました。
あと数キロと言う地点で渋滞の最後尾に。
止まった瞬間、ものすごい衝撃に襲われました。
後方から来た大型トラックに追突されたのです。
一瞬何が起こったのか理解できませんでしたが、
すぐに追突されたと判断できました。
即座に助手席に居た息子の安否を確認しようしたのですが、
そこには息子の姿がありませんでした。
子供の名前を叫ぶと、助手席の足元から「痛い」という声が。
息子は衝撃でシートから足元にずれ落ち、挟まれていました。
正直半狂乱になってしまいました。
あのときの私は完全に冷静さを失っていました。

半狂乱の私も足を挟まれて動けない事に気づきました。
動けない私は叫ぶしかなかったのです。

追突から時間にして1~2分でしょうか。
いきなり運転席側の変形したドアを無理やり開けてくれた人たちが居ました。
緑色のヘルメットに迷彩服の数人の自衛隊員。
私の足が挟まれているのを知った後、何やらバールのようなもので運転席をこじって、
後ろにずらし私を出してくれました。
「息子が助手席の足元に挟まれてます!助けてください!」
お礼の前にそう叫んでいました。
すると若い隊員さんは運転席同様、助手席シートを無理やりはずし、
潜り込むように助手席に入っていきました。
他の隊員さんと大声で作業指示しながら懸命に救助されていました。
数分でしたが私にとってはとんでもなく長い時間に感じられました。
そして息子は挟まっていた車体から外に助けていただきました。

と同時に救急車と工作車が到着。
息子は救急隊の方にゆだねられました。
私も両足が痛くて立てなかったのですが、
せめてお礼だけはと思い、その隊員さんのもと這って行きました。

私「本当にありがとうございました!ありがとうございました!!」
自「いえいえ、当たり前のことをしただけです。怪我は治ります。
命が無事でよかったです」

その隊員さんをよく見てみると、右肩付近が黒く濡れている。

私「もしかして怪我されているんじゃ?」
自「え?ああ、潜ったときにチョット何かが刺さったみたいです」

隊員が体をひねって右肩を見せようとしたところ背中はさらにベッチョリと
濡れていました。普通に考えたら大量出血です。
それでもその隊員さんは笑いながら「チョット痛いだけです。大丈夫です」と。
その後私は息子と共に救急車で運ばれていきました。

息子は両足の骨折、私は右足の骨折でした。
治療が終わって息子のベットに行きました。
「よく泣かなかったね、がんばったね」
と声を掛けてやると、息子は
「お兄ちゃんが笑ってたから泣かなかったよ。クワガタの話もしたよ」
冷静さを失っていた私は聞こえませんでしたが、
隊員さんと何やらムシキングの話をしていたそうです。
その為、息子は安心したらしく痛くても我慢できたそうです。
嬉しくて有難くてそこで初めて涙を流しました。

その後、救援に来ていただいた消防署に出向き、
その隊員さんの所属を教えていただきました。
駐屯地の場所をネットで探し出しました。
そのページを見ると「記念行事」なるものが2週間後にあることが判明。
怪我の治療状況と相談し、記念行事にお邪魔する事にしました。

初めて入る駐屯地。
意外と来客も多くビックリしました。
どこに行けば良いかも判らず、車椅子に乗せた息子とウロウロしてしまいました。
そのうち式典や訓練?が始まり、大砲や戦車の音にビックリ。
なんだか息子も私も楽しんでしまっていました。
午後になっても結局ウロウロ・・・。
と、その時1人の隊員さんが声を掛けてきました。
大怪我をしてまで息子を助けてくれた隊員さんでした。
ニコニコした笑顔に私は男ながら涙がこぼれてしまいました。
「あの時は本当にありがとうございました!」
この一言がどれだけ言いたかったか、息子の回復振りを見てもらいたかったか。

色々とお話を聞かせていただきました。
背中の怪我は何かが刺さったのではなく、車体の金属部分で切った事。
17針縫った事。助けられて自分の子供のように嬉しかった事。
私にとっても息子にとってもそこに居たのは正にヒーローでした。

その後その隊員さんは普段訓練で乗られている緑色のバイクを見せてくれました。
足が完治していない息子を抱き上げ、一緒にバイクに跨ってくれました。
そのときの息子の顔はとても嬉しそうで、一緒にバイクに乗っている隊員さんは
まさにテレビに出てくる戦隊物のヒーローに見えました。
その時一緒に撮らせていただいた写真は、息子の宝物になっています。
ムシキングよりも自衛隊のお兄ちゃんの方が大好きみたいです。

自衛隊に関しては色々な意見があるようですが、
少なくとも私たち親子にとって自衛隊の皆さんはヒーローです。
たった1家族の小さな力ですが、私たち家族は自衛隊の皆さんを応援します。

 

 

No.5

広島の平和集会にゲストとして呼ばれた自衛隊員に浴びせられた言葉

市民「自衛隊は無くすべきだと思いますが、自衛隊員の○○さんはどう思いますか?」
市民「自衛隊が有るから軍事的緊張が発生する、憲法違反だから自衛隊は無くすべきだと思います、自衛隊員の○○さんはどう思いますか?」

そこで自衛隊員の返事、俺はこの言葉をこれからもずっと忘れないと思う

自衛隊員「そう言う人達も守るのが、自衛隊です」

 

No.6

そういや、自衛隊の練度の高さはアメリカでも語りぐさになっているそうですな。

・演習後、アメリカの誇るトップガン出のエリートたちが口をそろえて
「空自とだけは戦りたくない」と明言。
エリートのプライドを木っ端微塵に打ち砕かれたか、再教育志願者が続出した。
・実弾射撃演習のためにアメリカ派遣された陸自砲兵部隊。ばかばかしいほどの命中率に
アメリカ側が恐慌を起こした。
アメリカ側が、「超エリートを集めた特殊部隊を作っても意味がない」と本気で忠告してきた
(もちろん陸自は通常編成のまま)。
ついでに、その演習を見に来ていたWWII&ベトナム生き残りの退役将校が、
「彼らがいてくれればベトコンを一掃できたし、あんなに死人が出なくてすんだのに」と 泣いたというオチが付く。
・ホークだかパトリオットだか忘れたけど、演習でアメリカ側の発射したトマホークの
迎撃訓練で、数十発を全弾撃墜した。
なお、数十発のうち、後半は超低空・対地誘導その他、隠蔽技術をフルに活用した上で
この成績。 (このエピソードこのスレで知ったんだっけかな?)

スターファイターでイーグル相手に撃墜判定をたたき出した故ロック氏の例を挙げるまでもなく、少数で、様々な制約を課せられているが故に、その制限枠内ギリギリ
まで戦力を高めようとする努力の結果なんでしょうけどね。人種の優越とか、
才能とかじゃなくて、文字通り体が擦り切れるような過酷な訓練の成果だと思うと、
自然と頭が下がります。こんな人々に守られて、私らは平和と繁栄を謳歌してるんだなぁ、
としみじみ感謝の念を噛み締めることがありますよ。

 

 

No.7

自衛隊がカンボジアに行った年の翌年、観光に足を伸ばした印度のある町で。
その町から日帰りで行けそうな、目当ての遺跡のある町への鉄道チケットが
取れないかと、ツーリストインフォメーションでいろいろ聞いていたところ
後ろから声を掛けられた

「日本人か?」
振り返ると背丈190cmはあろうかと思われる、サングラスにワイシャツ・綿パン、
オールバックで髭まで生やした印度の偉丈夫。
「○○まで行きたいのか?」
…てっきり観光地によく居ると噂に聞いた
ヤウ゛ァイ人…にしては英語が丁寧で、様子も良い御仁。

「ちょっとこっちについて来なさい」
インフォメーションをちらりと見ると、係の兄ちゃんが
「んだんだ、そうすっとええだ」みたいなスマイル。
半信半疑でついて行くと、駅のチケットオフィスへ。
当時まだ、外国人用と自国民用で切符売り場は分けてあったのだが
ずんずんと脇のドアからチケットオフィスの内側へ。

承前。
その印度の偉丈夫は何やら中年の駅員と話している。
すると駅員がこちらを見て
「明日の朝7時に出る急行がある。
帰りは特急で向こうを16時発、ざっと6時間は見物が出来るだろう…○○ルピー」
予想より遥かに安く、予約も入れていないのに急行+特急で発券してしてくれた。

謝意を呈すると偉丈夫氏、にこやかに
「まあ、明日無事に帰ったらにしておくれ」
翌日、目的の遺跡を堪能して戻ると、
インフォメーションの兄ちゃんの横に居た偉丈夫が微笑んで待っていた。
改めて謝意を呈するとはにかんで
「いや、実は去年カンボジアに行っていてね…」
この偉丈夫氏は地元の警察官。

印度からカンボジア派遣の文民警察官として行っていた際ににわかに虫垂炎に襲われて苦悶する羽目になった。
最寄りに駐屯しているのは日本の自衛隊。
電話で照会するとわざわざ車輛で迎えに来てくれた。
自衛隊の軍医による手術は成功、その後しばらく
自衛隊のところで御世話になっていたらしい。

「ジャパンのアーミーは、素晴らしい連中ばかりだった…
臥せっている、ゆかりも無い外国人の自分に、必ず誰かが付き添ったり、
話をしに来てくれた。嬉しくて、特に親しくなった隊員に自分の○○
(残念ながら、この品物が何だったのかは忘れました)を贈ったところ、
彼はいつも掛けていたサングラスを呉れた…

以前冗談で、サングラスを誉めて借りて掛けてみた事があるんだ…
『御礼にお返しは必要ありません、あなたの、いつも使っているものでしょうに!』
と言うと、
『御礼の品は受け取れませんが、
我々の友情の印に、御互いの愛用品を交換させて頂けるなら嬉しい』と彼は言ったんだ。
『他に出来る事はありませんか』と聞いたら、
『貴方がもし、日本人が困っているのに遭遇したら親切にしてあげて下さい』
と言っていた…

だから、君を見た時に何か出来ないかと思ってね…
こんな事では返しきれない友情を、日本の友人は示してくれた、だから御礼なんて」
必死に単語を並べ立てて、御礼を言ったおいらにその人は最後にこう言った。
「それじゃあ、日本で印度の人間に会ったら親切にしてやってくれ、
そしてそいつには『次に会った日本人に、そうしてやってくれ』
と伝えて欲しい…」。

その後、帰国して印度の人とは何人か縁もあったが、
そう伝える事になった人はまだ居ない。
けれどもこの約束を果たすのには、やぶさかではないつもりでいる。

 

 

No.8

民家を避けようと、故障した愛機を最後の最後まで操縦し殉職された隊員もいました。
1999年11月12日午後、航空自衛隊入間基地所属のT33型ジェット練習機が入間川河川敷に墜落しました。
操縦されていたのは47歳と48歳の二佐と三佐。
これが米軍だったら、かまわず脱出して助かったことでしょうね。

戦後60年の間、彼ら自衛隊でクーデターや秘密組織化の話しも寡聞にして聞きません。
彼らの実績を信じてあげる時間はもう十分積み重ねました。
もういいでしょう。

 

 

No.9

ちょい前の春先こと。
アメリカのロッキー山脈のあたりで陸自と米陸軍の合同演習がありました。
「この場所からこの場所まで移動しろ」っての。
同じ演習だけど、陸自と米軍は別経路で集合地点まで向かいます、徒歩で。

……演習が開始したら数十年ぶりの大寒波で大雪・吹雪!
レスキューを飛ばそうにもそれすら出来ない悪天候!
米陸軍側には死者まで出る大騒ぎ!!

「……はたして自衛隊は大丈夫だろうか……」
米陸軍のレスキューは集合地点に向かった。
そこで、米陸軍の見たものは……

……そんな事故があったとはつゆ知らず雪合戦をしてのんきに遊ぶ自衛隊の姿でした……

まあ、米陸軍が個人では水や食料等の補給物資をあまり持たないで、輸送には
ヘリを活用してたしてたとか、陸自が使い捨てカイロ持っていってたとか原因
はいろいろあるらしいんだそうですが、でも米軍に
「自衛隊すげぇタフだ!」
と思わせたのは本当だそうな。

 

 

No.10

1999年の台湾大地震の際、いち早く救援に駆けつけた
日本の国際救援救助隊に関して

彼らは大地震が発生したその日のうちに台湾入りし、災害現場に急行するや
不眠不休で生存者の捜索に尽力してくれたのである。
瓦礫を掘り起こし、最新鋭機材を駆使して懸命に生存者を捜索する日本の
救助隊の献身的な姿は人々の胸を打ち、そして皆は心の中で手を合わせた。

こうした光景を目の当たりにした年配者は「やっぱり日本だ!」と目頭を熱く
するのだった。そして続々と台湾へやってくる日本の民間ボランティア、多くの
台湾人が頼れる“友人”が誰であるかを再認識したのである。
台湾人が心から信用できる国は“日本”なのだ。

 

 

No.11

そういえばどこだったか、自衛隊が治安維持に出向いた時に、
「日本軍に発砲した者は我々の敵とみなす!」と指令出した組織があったらしい。

シリア政府は自衛隊を歓迎した。アサド大統領は隊長である本松敬史三等陸佐(当時)を呼び、
「日本の自衛隊は決して事件に巻き込まれることはない」と約束をしてくれた。
大統領は、シリア軍に対して、その支配下にあったイスラム原理主義組織ハマスとヒズボラが
日の丸と自衛隊に対して一発でも銃弾を撃ち込んだら、全面攻撃を加える旨の命令を出していた。

戦後、自衛隊の発足に伴い、自衛艦に掲げる自衛艦旗をどうするかが問題となった。
結論は簡単に出ず、そこで米内光政海軍大将の親戚で海上警備隊(海自の前身)の
良き理解者でもあった画家、米内穂豊画伯に旭光をモチーフにした新たな旗の製作を依頼した。

米内画伯はこれを快諾したが、画伯が提出したのは帝国海軍の軍艦旗と全く同じ図柄だった。米内画伯は、
「旧海軍の軍艦旗は、黄金分割による形状、日章の大きさ、位置、光線の配合等実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがありません。
それで、旧軍艦旗そのままの寸法で1枚描き上げました。これがお気に召さなければご辞退いたします。

ご迷惑をおかけして済みませんが、画家の良心が許しませんので……」
と申し出たという。
その後、この旧軍艦旗と同じ図案に関して議論が重ねられたが、吉田茂首相に最終的な判断を仰ぐことになった。
説明を聞き終えた吉田首相は次のように述べた。

「世界中で、この旗を知らない国はない。どこの海に在っても日本の艦であることが一目瞭然で誠に結構だ。旧海軍の良い伝統を受け継いで、海国日本の護りをしっかりやってもらいたい」
かくして、昇る太陽をかたどった旭日の軍艦旗は、今日も護衛艦の旗竿に堂々と翻っているのである……。

 

 

No.12

死者6433人、重軽傷者43792人。被害額約10兆円。

「若者の代表としてひとつだけ言いたいことがあります・・・」
焼け野原に立つ避難所の一角で、その青年は拡声器を握り締めて話し始めた。
真っ赤に泣きはらした瞳から流れる涙をぬぐいながら、搾り出すように、しかしハッキリと話を続ける。

「これから僕らがこの神戸を立て直していかなければなりません。その後ろを押してくれたのが自衛隊の人達です」
周りにいた大人達も涙を流し、そして思わず、今日別れることになった陸自・災害派遣部隊の人々に駆け寄る。
「長い間、ありがとうございました!」

青年はそう叫ぶと、ひとりの自衛官の胸に飛び込み、そして声を出して泣き出した。
自衛官も頼もしい腕で抱きしめ、共に泣いた。
”自衛隊さん、ありがとう”
そう書かれた横断幕が風で揺れる中、自衛隊最大の任務はここに幕を閉じた。

 

 

No.13

湾岸戦争の掃海艇での会話。

「いいか、もしかすると、お前達が喰う食料の入った冷蔵庫に、お前達
を入れて帰ってこねばならんかもしれん。それでもいってくれるか??」
「はい。」

北朝鮮のミサイル事件での会話。

「北朝鮮のミサイル施設を爆撃できるか?」
「片道でなら出来ますし命令ならばやりますが、片道攻撃を部下に命じる
事はできません。命令が出れば、私が行きます。」

あるイーグルドライバーの言葉。

「私達がミサイルを撃つ時は、私達の作戦は失敗したときです。私たちは
常に抑止力でなければならないのですから。」

 

 

No.14

昨年10月8日に起きたパキスタン地震の被災者を支援した
陸上自衛隊のヘリコプター部隊の本隊約百三十人が12月1日、
北海道・帯広に帰還した。10月中旬に現地入りし、約一カ月
半にわたり、イスラマバード近郊の空軍基地から、約130キ
ロ離れた同国北部のバタグラム地区に陸自ヘリ6機で約百回往
復し、援助物資約40トンと緊急患者など約720人を運んだ。

パキスタン軍の現地旅団長は、「日本隊だけが休まず、毎日
来てくれた」「物資を運んだだけでなく、村人に希望と勇気を
与えてくれた。おかげで笑顔が戻った」と称賛したという。支
援のためにヘリを派遣した国は、日本に加え、米英独など六カ
国だ。日本は「真心支援」と名付け、現地の人たちと同じ目線
に立ち、住民の信頼を勝ち取った。イラク・サマワでの陸自の
人道復興支援活動とも相通じる。誠実、勤勉な「自衛隊流」が、
ここでも現地の人々の心をとらえた。

ムシャラフ大統領が11月12日、陸自部隊を突然訪問し、
「私をはじめ、パキスタン人は日本に特別の思い入れがある。
日本は偉大な国であり、尊敬している」と述べた。現地の有力
紙も報道し、両国のきずなは深まった。(産経新聞、H171203)

 

 

No.15

日本国を体を張って守ってくれている
「自衛隊」に心から敬意を表する
自衛隊の方々は日本人の中の日本人
男の中の男だと信じている
なぜそう思うか?

自分は生まれも育ちも長崎県島原の雲仙だ
あの日の地獄の中、いち早く救援に来てくださり
我々を救済し、その後の復興や治安に尽力してくださったのは
自衛隊の皆様です
あらためてお礼を述べます「本当にありがとうございました」
あなた方は命の恩人であり、真心の保護者でした
我々雲仙の人間はけしてあなた方の救済を、忘れることはありません
これからも必ずや語り継いでいきます

 

No.16

私がホテル勤めをしていた頃の話。

ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。

自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には
苦労を掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。

同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが
段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。
挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり
直立不動で敬礼を送りました。

おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。

 

 

No.17

自衛隊の基地が近くにある田舎なんだが、自衛隊は毎年山で訓練してる。

ある日、下の方の茶畑で知り合いの爺ちゃんの軽トラが道寄せ駐車する際に、側溝に嵌って脱輪。
俺は茶摘みの手を止めて救助に行った。
爺ちゃんは怪我はしてなかったけど、見事にタイヤが側溝にはまって脱出不可能。

何とか側溝から出せないか木の棒を突っ込んでいた時「手伝いましょうか?」声を掛けられた。
振り向いたら迷彩服とリュックを持った男の人が一人。
あ、上の方の訓練地から来た自衛官の人だと思って「すみません。お願いします」って言った。
そしたらその角刈りのお兄さんが大声で「集合!」ドドドドドド
(茶畑の横の獣道からゾロゾロと自衛官が出てくる)「整列!」ビシッ!

総勢15名の隊員達が現れた。

マジであれはビビった。まさか山の上から出てくるとは思ってなかったし、
全員すげぇ装備担いでるし、さらに模擬銃?を担いでたからテンぱったわwww
爺ちゃんも「おぉぅ…」とか言ってたしw

「5分、脱輪解除。始め!」

キーを渡して4分で軽トラ脱出www
すんげぇ早業で、自衛隊の凄さを思い知ったわ。
こういう訓練もしてるというのにも驚いた。

脱出した後は車両点検してくれて、爺ちゃんが何度も頭を下げてた。
隊長っぽい角刈りの兄ちゃんは「これも我々の任務です」とサラリ
その後は敬礼して農道を下って行った。

自衛隊の凄さと“任務”に感動したわ。

 

 

No.18

友人は空自だったんだが、なんかの練習で陸自との対戦訓練をする事になったんだと。
お互いの基地もあり情報操作やスネークやったり、夜襲あり何でもありありの壮大な戦争ごっこ。

実弾は使えないからどうやって敵を倒すかというと、明らかに射程距離範囲内で
先に武器を構えて「ズキューン!」とか言った方が勝ち。
陸上戦で空VS陸でやったら陸が強いに決まっている。仲間達がどんどん減っていく。
罠にはまり人質に取られたり、敵地でまったりしっこ中に殉職した者もいた。

陸自が全滅しそうになり上層部は困った。これでは訓練にならない。
友人が基地内で仲間の死を悼んでいたその時、緊張感のないチャイムが鳴り響いた。
緊急放送。
「全隊に告ぐ、全隊に告ぐ。現時点で空軍兵○○名の痛ましい犠牲があった。
しかし只今入った情報によると、○○名が最先端科学医療の力によって甦った!!」
大歓声と大爆笑が沸き起こり、空自の士気が上がったのは言うまでもない。
けどやっぱり負けちゃったんだって。ダメじゃん。

 

 

No.19

救難のメディックはマジキチ
高山病にかかった女子高生2人を同時に抱えて下山
通常なれた人でも4時間はかかるルートを1時間で走破する

 

 

No.20

「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、
歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、
外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、
国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。
言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。
どうか、耐えてもらいたい。」

吉田茂(昭和32年2月、防衛大学第1回卒業式にて)

 

 

No.21

山古志村の中学校 村長はそこにいた。
半分崩れかけた校庭は、チヌーク1機かブラックホーク3機の同時降着がやっと。
「隣の小学校に避難民がいますが、とても余震に持ちこたえられません。
ぜひ、村民を長岡市に連れていってください・・・」
村長の要請に、連隊長は無線で県庁TACにいる旅団長へ。

旅団長は苦渋の判断
とても旅団のヘリを回す余裕はない・・・
そこへ、1機の大型ヘリが。
海上保安庁か航空自衛隊か。
「あれに頼んでみましょう・・・」
駆け出す隊員
ヘリパイは、快諾

任務はないが、とにかくここへ向かえとのことだったらしい。
現場での省庁を超えた統合作戦
小学校の避難民は、無事にピストンで空輸された。
村役場の職員が徒歩で報告
山向こうの小学校にも避難民がいる。しかも病人や高齢者が・・・

村長の要請で、連隊長がまたも無線でヘリの要請
ヘリは、ある。が、地積と植生が邪魔をしてとても夜間着陸は出来ない。
飛行隊長の判断
村長がすがる。せめて、病人だけでも・・・

ヘリパイは、全員昼間の任務で疲労困憊、とてもそんな微妙な夜間着陸はできそうにない。
「1回だけ、着陸を試みてみます。もし、危険だと判断したら引き返します。」
飛行隊長自らが操縦桿を握ってやってきた。

連隊長が現場確認に、村長が村民への説明のために同乗
「村民は、かなり不安がっています。できれば全員、せめて病人や高齢者の7~8人だけでも・・・」
村長が暗いヘリの中ですがる。
「あっ!」
明るい。小学校の校庭付近がまばゆい明かりに包まれている。

「これなら行けます。ピストンで全員輸送します。」
飛行隊長は決心する。
地上では、ヘリのために避難民が明かりをつけていた。
小学校にあった盆踊りに使うライトを発電機を回していたのだ。
「よかった・・・」
村長は、胸をなでおろした。

山古志村全村民ヘリボン避難作戦は、夜明けとともに海上・航空・海保等のヘリにより続けられた・・・

 

 

No.22

自衛隊と米軍が演習をしたんだそうな。
米軍は敵に向かうときに、でかい声を出して騒がしく向かっていくんだと。
しかし自衛隊は、無言でほぼ手振りと目配せだけで隊を指揮し、敵をいつの間にか包囲していた。
日本には忍者がまだ生きていると思われたそうな。

 

 

No.23

自衛隊の擬装は世界一で各国陸軍の格言になってるほど
「カムフラージュはニンジャに学べ」
各国の幹部クラスが講習受けに訪れるんだって

 

 

No.24

自衛隊生え抜きのエリートとして知られるレンジャー部隊。レンジャー部隊の訓練は過酷に過酷を極め、
同じ自衛官からも「同じ自衛官とは思えない」と噂になるほどキツい。

ある日の訓練中、数十キロある装備を背負って山野を駆け巡っている途中に夜になってしまった。
みんながへとへとになり、すっかり人気の消えた山道を走っていたときだ。
闇の中からドサッという湿った音が聞こえ、指揮官の表情が変わった。

隊員の一人が橋の下へ落ちたのだった。あわてて訓練を一時中断し、救助する訓練生たち。
しかし、どう考えてもおかしい。その橋は高さこそないがガードレールがあり、
どう考えても足を踏み外して落ちるような場所ではない。

下に落っこちた隊員は足を捻挫していたが、それ以上に視点の定まらないうつろな目をしている。
「いったいどうして橋から落ちた?」と上官に聞かれ、その隊員はしどろもどろに答えた。

「走っているうちにガードレールが見えて、ここを飛び越えたら家に帰れるんじゃないかと……」

レンジャー訓練の辛さを物語るような逸話だが、一番怖いのはこの手の話が訓練のたびに毎回あること。

 

 

No.25

レンジャー教育訓練はマジキチ。
精神やられて暴れだすやつとか、
何もしてないのに突然泣き出すやつとか居た。大の大人がだよ?

俺も訓練の総仕上げで最終想定ってのがあるんだけど、
余りの空腹と渇きにカエル生きたまま丸飲みしちゃったよ。
でもカエル君のおかげで元気出て、なんとか乗りきれたなぁ
やっぱ腹に何か入れば力出るなと思ったわ。

 

No.26

レンジャー課程は例年、5月下旬から約3ヶ月間行われ、
前半の体力訓練と後半の実戦訓練に分かれる。

前半(体力訓練)
かがみ跳躍
ロープ渡り、ロープ登り
執銃(小銃を両手で持ち上げた状態で行う長距離走)
20キロ走-炎天下で、小銃と戦闘服を着用。
アスファルトの地面を戦闘靴で蹴るので、相当な苦を味わうことになる。

後半(実戦訓練)
爆破、狙撃、襲撃、伏撃、斥候、徒手格闘、隠密処理
通信術(FM無線機での戦術交話)、手信号
野戦築城、潜伏
ヘリボーン、舟艇潜入、武装水泳、緊急脱出(水中において装具、靴等を放棄する訓練)
森林戦、夜戦、山岳戦、雪中戦、市街戦
生存自活、野外衛生、対尋問行動、パルチザン(協力者獲得)

 

 

No.27

駐屯地祭であったこと。

きつねうどん 300円(油揚げ・揚げ玉・わかめ・かまぼこ入り)

「班長!油揚げがもうありません!」

たぬきうどん 150円

「班長!揚げ玉が(ry」

うどん 100円

良心的過ぎるだろjk…
油揚げはお稲荷さん用のが豪快に5枚くらい入っててクソフイタwww

 

 

No.8

イラク・サマーワ基地の自衛隊が設営したテント群は杭の位置や紐の角度まで
すべて寸分違わぬように統一されており、端から見ればロープは全て重なる状態だった。
これを見た各国の高級士官は、さすが日本の軍隊は士気が高いと絶賛した。

兵法に、整然と統率され規律の取れた軍隊は士気が高いため攻撃を加えてはいけないとある。

 

 

No.29

PKOで自衛隊がカンボジアかどっかに派遣された時
各国がどのレーションが一番美味しいか持ち寄って食べたら日本が一番レーションが美味しかったらしい
ちなみに最下位は当たり前のごとくアメリカが選ばれたって

 

 

No.30

自衛隊員しか見れない、広報部が撮影したドキュメンタリーがある
精神教育の時に見せられるものだけど
阪神淡路大震災、新潟中越地震、イラク支援の動画はいつみても泣ける

自衛隊からの視線で録画したやつ
広報班が記録した物をまとめた動画だけど、絶対にテレビじゃ流さないのもある
イラク支援の動画には、家族からのメッセージとか、隊員の個人的な写真とかもあって
知ってる顔、同期の顔とか映ると感動が膨れあがるよ

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