泣ける話『おとうさんのガンがなおるくすり』『父の日』など【短編】全10話 |切ない話・泣ける話まとめ

泣ける話『おとうさんのガンがなおるくすり』『父の日』など【短編】全10話 |切ない話・泣ける話まとめ 泣ける話

 

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泣ける話 短編 全10話

 

小さい頃は遠足の弁当が嫌いだった。

飲んだくれ親父のせいで貧乏育ち。だから小さい頃は遠足の弁当が嫌いだった。
麦の混じったご飯に梅干しと佃煮。恥ずかしいから
「見て~!俺オッサン弁当!父ちゃんが『お前の方が旨そうだ』って取り変えるんだよ~!」
とクラス中でネタにして凌いでいた。貧乏に負けない為にはクラスのお調子者になるしかない。
そう思っていた気がする。

その賜物か、破れた服を着ていても自転車が無くてもそんなキャラクターなのだと、からかわれる事も虐められる事もなかった。
むしろ一人っ子の同級生が服とか自転車くれたりして。本当は悲しかったけどね。

中学に入ると毎日弁当だったがもはや
「いや~毎回この弁当だとかえって親しみ湧いてさw」
と笑って食べていた。そう思うしか無かった。

母親はよく言っていたっけ。「いつもニコニコ笑っていなさい」って。
せっせとやりくりして給料日に作ってくれるコロッケとふわふわの甘い卵焼きが母ちゃんの味。

そんな母には感謝しているが、今でも弁当だけがトラウマで、嫁さんと幼稚園児の坊主の弁当は俺が作ってる。
もう毎夜仕込みが楽しいのなんのってw
三角おにぎりに、たこさんウィンナーに、ピカチュウの蒲鉾。甘めに炒めた金平に、更に甘々の卵焼き。
可愛いピックまで付けてやる。全部あの頃“憧れた世界”だ。

嫁さんは「乙女かw」と笑い、息子は「あのね、父さんの卵焼き甘くて美味しいよ。」と喜んでくれる。あの頃の俺みたいに。
今はもう心から笑える。毎日幸せです。

 

兄との生活

私が幼い頃、母兄私の3人で仲良く暮らしていました。

しかし兄が14歳になる頃、母が事故死してからは親戚をたらい回しされ、私はまだ4歳でその時の記憶がほとんど無いのですが、兄はかなり肩身の狭い思いをしたと言っていました。

我慢ができず兄は家を飛び出し、幼い私は一人取り残されました。
親戚の家では初めての女の子でまだ小さかったのもあり、かわいがってもらったのですが、それでも兄のいない寂しさは今でも覚えています。

1年ほど経った頃、兄が私を迎えに来ました。住み込みで働ける所を見つけてきたのです。
親戚と揉めたりもしたが、私は兄を選び、兄妹二人の貧乏生活が始まりました。

と言っても、私は事の大変さが解っておらず、いつもわがままを言い兄を困らせていました。
小学校に上がる時、ランドセルを譲ってくれないかと中学生の家に行って町中を必死に探してきてくれたのに、回りの子と比べ新品じゃないとごねた事もありました。

人形が欲しい、服が欲しいとだだをこねても困って笑うだけで私を叱らない優しい兄が、私が靴を万引きしたときはすごく叱りました。
一時兄と気まずい時がありましたが、事件から3日後、玄関に新しい靴がおいてあるのです。

「やりくりすればこれくらい買えるんだからな」

と言うと、仕事へ出って行った兄。
こんなかわいらしい靴をどんな顔で買ったのやらと想像して笑って泣いた。

それからは私はわがままを言わず、進んで兄の手伝いをしました。
高校へ行かず働く、と言った時は久々に兄と喧嘩になったが、ガンコさに負けて高校へ進学、そして卒業。

生活もたまに外食するくらい余裕が出てきた頃、残念な事に兄が事故死しました。

散々泣いて泣いて、なかなか立ち直れなかったのですが、素敵な男性と出会い、支えてもらいやっと立ち直れました。

その男性と結婚が決まり、結婚式前の夜。
兄がやってきたのです。

「お前が結婚か~」

と、のんびりと話し出しました。

その時、私は何かの催眠術にかかった様に動けず、しゃべれなかった。
本当は大声で泣いて抱きつきたかったのに。

「あのな、今日は謝りに来たんや。お前が4つの時一人置いていった事、なーんにも買ってやれんかった事…他にもいっぱいあるんやけどな、お前がわがまま言わんくなったとき俺はちょっとつらかった、高校へ行かんと言った時本当はこっそり泣いてんぞ、不憫で自分が情けなくて」

私はぽろぽろ涙を流しながら、

「何で謝るん? 私の方がいっぱい謝らんなんのに…ランドセルありがとう、制服も、学費も…靴今も大事に持ってるんよ…いっぱい迷惑かけてごめんね」

心の中でそう言うと、兄に聞こえたのか笑ってゆっくり消えて行った。

その日の夜は昔の夢を見ました。
住み込みのボロアパートの前で、兄と雪だるまを作っていました。

母兄私の3つの雪だるまを楽しそうに作っていると、この頃もう亡くなっているはずの母が現れ、兄の手を取って

「じゃ行って来るね。外は寒いからお家にはいってなさい」

と、私に笑いかけました。

私は何の疑いもなくうんと言うと、走ってアパートの階段を駆け上がりました。
後ろから兄が声をかけてきました。

「おい、お前の事迷惑や何て思ったこと無いぞ。後、先に死んですまんな」

振り返った瞬間、目が覚めました。

起きて号泣したせいで顔がパンパンに腫れた花嫁になってしまって、本当は結婚式の写真は見たくないのですが、何処かに兄が写ってるのでは? と何度も写真を見たものです。

今日は結婚記念日だったので、思い出してみました。

 

開店した電気屋が焼きそばを無料配布

小さいころ新聞に折り込まれた広告を見ると近所に出来た電気屋さんの開店セールのチラシが入っていた。

そのチラシには「開店記念、ホットプレートで作った焼きそばを無料配布」の文字が!

焼きそばが大好きだった俺は、タダで焼きそばか食べられるのかとワクワクしながら弟を一緒に電気屋の前まで行ったが電気屋の近くまで来た時に目にした光景は

閑散とした客が誰一人としていない店頭で一生懸命呼び込みをしながら焼きそばを小さなホットプレートで焼きつづける電気店主夫婦・・・

子供の目にもあまりにも寂しい雰囲気だったので「焼きそば下さい」と店の前まで行く勇気が湧かず弟と一緒に遠巻きに電気屋を見て、そのままそそくさと帰宅した。

それから月日は経ち電気屋は無くなった。

 

沖縄に行かない?

「沖縄に行かない?」
いきなり母が電話で聞いてきた。
当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。
「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。
「どうしても駄目?」「今大事な時期だから。就職決まったらね」
「そう・・・」母は残念そうに電話を切った。
急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。

それから半年後に母が死んだ。癌だった。
医者からは余命半年と言われてたらしい。
医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。
父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。
沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。

叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。
パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。
絵日記には
「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。
ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」
・・・というような事が書いてあった。すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。

自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。
というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。
母はそれをずっと覚えていたのだ。
そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。

自分は母が電話をしてきた時、どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。
もう恩返しする事が出来ない・・・
涙がぶわっと溢れてきて止められなかった。

 

100万回生きた猫

死んでは生き返ってを繰り返し、100万回もの生を受けた猫がいました。猫にはいつも飼い主がいました・・・その数100万人。

皆、猫が死ぬとワンワンと嘆き悲しみましたが、猫自身は一度も泣いたことがありませんでした。

ところが、この猫に見向きもしないものがいました。それは美しい白い猫でした。猫は腹を立てました。そして毎日毎日、白猫に「俺はすごいんだぜ、なんてったって100万回も生きたんだから」と、自慢話をしに行きました。

白猫は気のない相づちを打つばかりでした。今日も猫は「俺はすごいんだぜ」と言いかけて、途中でやめました。

そして「そばにいてもいいかい?」と尋ねました。白猫は「ええ」とだけ言いました。

2匹は常に寄り添うようになり、一緒にいることがなによりも大切に感じるようになりました。

それからかわいい子猫がたくさん生まれ、猫はもう得意の台詞、「俺はすごいんだぜ」を言わなくなりました。いつのまにか自分よりも、白猫や子猫たちのことを大切に思うようになっていました。

やがて子猫達は巣立って行き、白猫は少しお婆さんになりました。猫は、白猫と一緒にいつまでも生きていたいと思いました。

ある日、白猫は猫の隣で、静かに動かなくなっていました。

猫は白猫の亡骸を抱いて、生まれて初めて泣きました。
100万回泣きました。そしてぴたりと泣きやみました。

猫は、白猫の隣で静かに動かなくなっていました。
それから猫は、もう決して生き返りませんでした。

 

父の日

小さい頃に両親が離婚して
それからしばらくして父が亡くなったので
私の中で父という存在をあまり知りませんでした

小学校の時おじいちゃんおばあちゃん
の家に母と住みました

よく遊びに行ってたけど
おじいちゃんは顔が少し怖くて
いつもおばあちゃんの方に行ってました

しばらくして母が病気で2週間くらい入院
しました

今まで苦手だったけどおじいちゃんと
話すきかいが増えた

思ったより思った以上にイイ人でした

それからおじいちゃんと
すごく仲良くなって

一緒にご飯に食べに行ったり
花の世話したり

おじいちゃんっ子になりました

小学校4年生の父の日に私はマフラーと
手紙をおじいちゃんにあげました

小4ながらおじいちゃんへの感謝を
伝えました

かわいがってた愛犬が死んでも
涙を出さなかったおじいちゃんが
私の手紙でボロボロ泣き出しました

おじいちゃん。お父さんの素晴らしさ
教えてくれてありがとう
いつも間違った道それても
味方ついてくれてありがとう

おじいちゃんはうちの世界一素敵な
お父さんです

 

おとうさんのガンがなおるくすり

6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、
早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、
こう書いてあった。
「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」
夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃったよw
昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」
と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って
嬉しい叫びを上げてた。
早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って
「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」っていって、
夫に薬を飲ませた。
夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、
「ああ! 良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、
動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」……っていうと夫がだんだんと顔を
悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。
私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って
無理やり飲み込んで態勢を整えた。
夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。
その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が
「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、
わあわあ泣き続けた。
お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。

 

彼女

俺には可愛い彼女がいた
性格は素直でスタイルも良かったが周囲からは
「えwあの女と付き合ってるのwwwお幸せにw」とよく馬鹿にされた

彼女は頭が非常に弱かった
高校を中退し、通信制の学校を4年かけてやっと卒業、まともな職にもつけず
派遣会社で毎日を繋ぐどうしようもない女
おまけに中学時代から周りの男に騙されては性欲処理に使われていた
友人の紹介で彼女と付き合い始めたのだが、これは、彼女が妊娠しても俺に責任を押し付けられるという算段があっての事だったらしい

付き合って1年は仲良く過ごしたがやはり彼女といるのが恥ずかしくなっていった
周りの目を気にしていたのは言うまでも無い
彼女は俺に甘えたり、俺の気を引こうとしていたがそれも逆にウザく感じるようになった
大学で良い結果が出せないことでイライラしていた俺は彼女に冷たくするようになった

ある日胃腸炎で寝込んだ俺の家に彼女が来る事になった
嫌な予感はしていたが全く予感は的中した
皿は割る、洗剤はこぼす、まだ乾いてない洗濯物をベッドに放り込む、お粥は煮えすぎて不味い

極めつけは、俺が大事にしていたエンタープライズ(戦艦)のプラモをぶっ壊したことだ
棚を掃除しようとして落っことしてしまったらしい
俺は完全にキレた
「もう、何やってんだよ!!死ね!帰れ!」と叫び彼女を突き飛ばした
彼女は泣きながら「ごめんね」とつぶやいて玄関に消えていった

それから一週間後、彼女は交通事故に遭った
連絡を受けて病室に入ると、医者が「ご家族の方ですか?」と言ってきた
俺は首を横に振った
「お友達?良かった、家族の方と連絡が取れなくて困ってたんです」
そう言って医者は彼女の酸素マスクを取って一言残して部屋を出て行った
「手を尽くしましたが今夜が最後です」

どれだけ時間が経っただろうか、深夜になり彼女が目を覚ました
崩れてゼリー状になった目から血が混じった涙がこぼれた

「ゆう君(←俺)・・・」
彼女は俺の手を握った
もう、握るというほどの力も無かったが

「・・ゆう君のこと考えてたら・・・私、信号見てなくて・・・」
彼女の息が荒くなった
「・・・・ゆう君の家、また行っていい?仲直り・・」
「いつでも来いよ・・元気になったら」
彼女はニコっと笑った
「・・・ゆう君・・」
「料理も掃除も教えてやる。でもその前に怪我治せ・・・おい!」
彼女は死んでいた

その後のことは良く覚えていない
医者と看護士が慌しく入ってきて死亡判断?のような事をやっているのを眺めていた
そして気がついたら彼女は棺桶に入っていた
のろのろと病院に来た家族の人たちは冷めた表情だった
葬式も告別式も身全てが事務的だった
悲しんでる人はいなかった
「ああめんどくさい」と愚痴るやつもいたと思う

後日、家族の人に頼まれて彼女の家を整理しに行った
古ぼけたアパートで部屋も狭かった
相当質素な生活をしていただろう
机に日記帳があったので開けてみると下手な字で俺との出来事が書き込まれていた
日付は交通事故の前日で止まっていた
涙が止まらなかった

「ゆう君の大せつなエンターぷラいずをぷラモデルやさんでつくった
みせの人にてつだってもらったけどじょうずにできたかな
あしたはこれをもってゆう君のいえにゆこう
おかゆもそうじもれんしゅうしたから
ゆう君は、よろこんでほしいな」

今、彼女の墓は吉祥寺にある
もし願い事が一つ叶うなら、この愚かな俺に、もう一度彼女を会わせて欲しい

 

合唱

中学3年の秋に、保育園からの友人が亡くなった。
そいつは重い病気で、中学2年の始めから入退院を繰り返していた奴で、病気してからはほとんどの行事に出てなかった。

彼女が亡くなって半年が経ち、卒業も間近になった。
ウチの学校は、中学3年間で歌ってきた合唱を録音してあって、それをCDにして卒業アルバムと一緒に配っている。
そのCDには既に録音してある曲の他に、卒業式で歌う予定の曲も収録した。

卒業式も終わり、家でCDを聞いていたとき、すごく驚いた。
何故なら、そいつが亡くなった後にあった行事の合唱や、卒業式間近に収録した合唱に、亡くなった彼女の歌声が入っていたからだ。

ウチの学年は16人しか居なかったから、1人1人の声の聞き分けは簡単に出来るから絶対に聞き間違いではない。

歌う事が好きだった彼女は、亡くなった後もみんなと一緒に歌ってくれていたんだと思う。

 

最後の家族写真

俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病(失念)を宣告されていて
それほど持たないだろうと言われ、入院前に今生最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。
俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は
特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
ぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり
無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。

しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、
まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。

普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、
人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
祖父、祖母、母、妹、俺・・・。

その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、
崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。

 

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