母親の泣ける話 – 感動エピソード【1】全5話

母親の泣ける話 - 感動エピソード【1】 泣ける話

 

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母親の泣ける話 – 感動エピソード【1】

 

 

会いたいよ

お母さん

台所に立つとあなたが横に立って居る気がします。

お母さん

洗濯物を畳んでいると、ずぼらな私に

『ほらもっとキレイに畳まないと』

ってあなたの声が聞こえる気がします。

お母さん

泣いていると『ほら、おいで』と撫でてくれる気がします。

もう2児の母だと言うのに、あなたが死んだ事をどこか受け入れられません。

お葬式で長男が

『早く起きないかなぁ』

なんて言うから、弔問者に挨拶しなければいけないのに涙が止まらなくなりました。

ほとんどあなたと会話なんてなかったお父さんは、お礼の挨拶で言葉を詰まらせ書いてある文字を読むことも出来ず、必死で言葉に出来たのは

『ありがとうございました』

だけでした。

お母さん

さよならするなら、もっと覚悟をしたかった。

『具合が悪い』と言い、入院してたかが8日で逝かれたらどうしようもありません。

まだ下の子は、生まれて2ヶ月ですよ。

もっともっと抱っこしたかったでしょう。

私はお母さんみたいな母親になりたい。

なれますか?

優しい優しいお母さんになりたい、強いお母さんになりたい、笑顔が素敵なお母さんになりたい。

お母さん、会いたいよ。

『本当にいつまでたっても子供ね』

と笑わないでね

大好きです。

 

バカでごめんね

幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。

学もなく、技術もなかった母は、

個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。

それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、

何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、

日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに遊びに行っていた。

給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。

俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、

母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。

母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。

チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わなければいけないと言われ、

帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、

外のベンチで弁当を食べて帰った。

電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、

母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。

新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、

母に孫を見せてやることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。

死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように

「野球、ごめんね」と言った。

俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。

 

現実は違う

友達が、20代前半で第二子を妊娠中、検査で子宮ガン発見。

若いとガンの進行が早いこと。

絶対に母体が無事では済まないこと。

お腹の赤ちゃんにも転移する可能性が高いこと。

などを告げられていたけど、彼女は

「子供を殺すことは出来ない」

と産んだ。

産後、全身にガンが転移した状態で、手術すら出来なかった。

命がけで産んだ赤ちゃんも、すでにガンが転移していた。

赤ちゃんは小さな体で何回も大手術をうけたけど、ダメだった。

たった半年も生きることは出来なかった。

やせ細って、意識も朦朧としている中、彼女はベッドの上で毎日毎日、

「赤ちゃんはどう?」

「淋しがってない?」

と周囲に聞いていた。

お見舞いに行った友達は、赤ちゃんがすでに亡くなっていることを知っていたので、

「もう赤ちゃんに会ってくれた?可愛いい?私も早く会いたい」

と言われるたびに、涙をこらえるのが必死だった。

ドラマでこういうシチュエーションの時、

「私の命はどうなってもいいんです」

なんて言って、出産して、運がよければ母子ともに無事。

悪くても母親が死んで

「あなた(子供)を助けるために、お母さんは・・・」

なんてことが多い。

現実は、全然違うんだと言うことを思い知らされた。

何一つ良い事はなかった。

この事が無かったら、向井亜紀さんのような子供を諦めたケースを

「結局、自分の命の方が大切なんだな」

なんて冷たい目で見てしまったかもしれない。

命がけで産んだ我が子の苦しみも、死も、何も知ることなく死んでしまった彼女。

残された3歳のお兄ちゃん。

何が正しいことなのか、わかりません。

というより、今でも思い出すと辛くて悔しくて泣いてしまう話です。

 

貧乏

俺の母親は俺が2歳時に死んだ。 だからあまり母親の顔を覚えていない。

俺が小学生3年生になった時、父が再婚した。新 しく来てくれた母(かーちゃん)は俺にメチャク チャ優しくしてくれた。だから血は繋がっていな くても俺はかーちゃんが大好きだった。

俺が中学1年生の3学期の時、父が交通事故で死ん だ。

当時の俺は父が大手の会社に務めていたので 裕福な暮らしをしていた。

塾に通っていたりして いて成績も学年上位だった。

だから父が死んだこ とによって今ままでの裕福な暮らしがいっきにド ン底になった。

マンションで暮らしていたんだけ ど家賃が払えなくなってかーちゃんと一緒にボロ のアパートに住むことになった。

そっからかーちゃんは毎日昼から夜までずっと働 いていた。家に帰ってたらクタクタなのに

「勇介(俺の名前)お腹空いたろ?今からご飯作っ てあげるからね!」

といつも上手い飯を作ってくれた。自分のことは いつも後回し。かーちゃんは父が死んでも俺に優 しくしてくれた。

ある日俺はクラスのやつに

「お前の家汚いし、ほんま貧乏よなー」

って馬鹿にされた。「貧乏」って言われたことが メチャクチャ腹が立って本当ならそいつに怒りを ぶつけばよかったのに俺はかーちゃんに怒りをぶ つけてしまった。

「お前が全然働かないせいで俺は貧乏って言われ たじゃ!」

かーちゃんはめっちゃ悲しそうだった。言い過ぎ たかな?と思うとかーちゃんは

「ごめんね。かーちゃんもっと頑張るから」

って言ってきた。

一週間後、かーちゃんは朝から夜まで働くように なった。

俺は勉強の成績が下がって勉強をするのが嫌に なってしまって、俺は不良になってしまった。 万引きや喧嘩は当たり前。万引きで何回も警察や 学校の先生にかーちゃんと一緒に呼び出された。 その度にかーちゃんは「すいません。」と頭を下 げていた。んで、そいつらの説教が終わって家に 帰ったらいつも

「ごめんね。かーちゃんのお給料が少ないか ら…。かーちゃんもっと頑張るから!」

知ってたよかーちゃん。かーちゃんが俺のために 必死で働いてくれてたことを。けど俺は素直にな れなかった。

かーちゃんは頑張り過ぎてか、俺が中学3年生に なりたてのころに倒れた。過労だった。俺はその 時今まで自分がしてきたことを後悔した。

「中学卒業したら働くから!」

って言ったら顔をビンタされた。初めてかーちゃ んに叩かれたからめちゃ焦った。

「働かなくていい!だから勉強をしなさい!お金 のことは…かーちゃん もっと頑張るから」

俺は泣いた。もうめっちゃ泣いた。そして心底か ら感謝した。

俺はそっから猛勉強して偏差値の高い公立高校に 合格することができた。かーちゃんも泣いて喜ん でくれた。高校生になった俺はバイトを始めた。 それで初給料でエプロン買ってあげたら、かー ちゃん泣き出したw

「ありがとう。かーちゃんもっと頑張るから ね!」

(いやいやwもうそんなに頑張らなくてもいいから)

かーちゃんは大学にも行かしてくれた。そして無 事大学も卒業することができて就職もできた。こ こから親孝行して行こうと思った矢先、かーちゃ んが病気で倒れた。癌だった。しかも末期で余命 3ヶ月を宣告された。医者曰く

「ずっと苦しかったはずだ。どうしてもっと早く 来なかったんだ。」と。

かーちゃんは俺のために歩くことも辛いはずなの にずっと頑張ってくれてたんだ。医者の話を聞い た時、いい歳なのに先生と看護婦の前で大泣きし ちゃったよ。

俺は仕事が終わった後毎日見舞いに行った。抗がん剤で日に日に弱っていくかーちゃんを見るのが メチャクチャ辛かった。

2ヶ月経ったと時、医者から連絡があった。

「お母様の容体が急変しました」

俺は仕事を抜け出して急いで病院に行った。かー ちゃんは辛うじて生きている状態だった。そして 俺が病院に来て5分後くらいにかーちゃんは死ん だ。俺は泣いた。もう自分が立っているのかわか らないほど泣いた。少し落ち着いて医者と話した 時、医者から「君を待っていたんだろう」と言わ れて、また泣いてしまった。

かーちゃんは死ぬ寸前に

「今までありがとう」

って言って死んでいった。 俺が一番かーちゃんに伝えたかった言葉。なのに かーちゃんが俺に言ってきた。俺はかーちゃんに 何もしてあげてない。むしろ迷惑をかけただけ。 なのに何でかーちゃんが俺にありがとうって言う んだよ。何であの時、俺はもっとかーちゃんに親 孝行できなかったんだろうって今だに後悔してい る。

俺はかーちゃんが死んで何ヶ月も立ち直れなかっ た。けど、かーちゃんが死んで半年後、今の奥さ んと出会って付き合うようになった。そしてその 1年後に結婚。今は中学2年の男の子と小学6年の 女の子がいる。子育ては大変だけど奥さんと協力 して何とかやっていけてる。

俺は子どもができて子育ての辛さがわかった。 かーちゃんは一人で俺を育てるのに凄く苦労した んだね。今ならはっきりわかるよ。かーちゃんが 俺のためにどれだけ頑張っていてくれていたか を。

俺はかーちゃんに育てられて本当に幸せだった。 でも一つ気になることがあるんだ。

かーちゃんは幸せだったのかな~って。

かーちゃんはとーちゃんが死んでから再婚せずに ずっと育てくれた。かーちゃんは若かったから再 婚することもできたのに、かーちゃんは自分の女 としての幸せを捨ててまで俺を育ててくれた。赤 の他人である俺を。

親孝行したい。肩を揉んであげたい。旅行に連れ て行ってあげたい。けどもうかーちゃんはいな い。

だから今これを見ている皆さんは今のうちにしっ かり親孝行してあげてください。そしてたまにで いいから、「ありがとう」っていってあげてくだ さい。俺みたいな親不孝者にならないでくださ い。

~かーちゃんへ~

また会える日まで、僕はこっちでかーちゃんのよ うに頑張ります。だから俺がそっちに行ったとき 今度こそ親孝行するね。 かーちゃんと血は繋がっていないけどあなたは世 界一のそして最高の僕の母です。

 

本当の親子のよう

私が妊娠7ヶ月ごろのこと。

大阪で娘家族と暮らしていたダンナのおかあさんが突然東京にいる私達と一緒に暮らしたいと言ってきた。

義姉は性格がかなりキツく、あきれるほどお金に汚い人で、きっといろいろあったのだろう。

義母は「我が子ながら・・・くたびれた」とつぶやいた。

疲れ果てた義母を快く迎えてあげたかったのだが、そのときの私にはかなりの覚悟が必要だった。

なぜなら、ダンナは全く働かず、大きなお腹の私の収入でカツカツの生活をしていたからだ。

生まれてくる赤ちゃんにかわいらしいベビー服を用意してやるどころか、

ダンナの借金もあり、赤ん坊を抱えて今後どうやって働いていくのか先が見えない状況だった。

が、義姉の「かあちゃんそっちに送るからな!」という一言で私の心は決まった。

母親をまるで荷物扱いの口調が許せなかった。

何不自由ない生活は無理っぽいけど、今より心穏やかな生活はさせてあげれる。

今だって苦労してるんだし、お義母さん一人増えたところで苦労ついでだわ・・・

そう決心すればあとはなにも躊躇する理由はない。

私は最大限の歓迎の気持ちをこめて、義母を迎えた。

小さなカバンひとつ持って、駅のホームに降り立った義母の姿を初めて見たとき(この時が初対面)私は心の底から安心感を覚えた。

それは義母に対する同情ではなく、実の母に対する愛情と同じものだった。

初めて会う人にそんな感情を抱くのが不思議だったが前世というものがあるのなら、義母と私はその昔、本当の親子だったのかもしれない。

実際、私と義母は本当の親子のように仲がよかった。

よく話し、そしてよく笑った。親子げんかもした。

仕事で遅く帰ってくる私を、義母は寝ないで待っていてくれた。

二人でホットミルクを飲みながら、寝るまでのわずかな時間、義母はアルバムを開いては自分の半生を私に語った。

それはむすこであるダンナも知らない話ばかりで、語るというよりも私に伝える作業に似ていた。

私は女の子を出産した。

義母もとても喜んでくれた。そして私に、

「あんた、次もすぐだよ。次は男の子や。」

そういった。

「ええっ!冗談じゃないですよぉ。これ以上はやってけないですよぉ。」

「いやいや。そうじゃない。これは決まりごとだからね。大丈夫。いい子に育つよ。宝物だよ。」

そう言って、義母はにっこり微笑み赤ちゃんに頬ずりした。

出産したからといって休んでいる暇は私にはなかった。なにせ食い扶持がまたひとり増えたのだから。

飢えさせてなるものか。退院するとすぐにまた働き出した。

そんな生活でも私は確かに幸せだった。

幸か不幸かは自分で決めるものだとつくづく思う。

義母も幸せであったと信じたい。

そんな中、義母が突然「大阪に帰りたい」と言い出した。

孫の顔も見せてもらった。

あんたにも会えた。

次の孫の顔を見れないのが心残りだけどしょうがない。

生まれ育った大阪で死にたい・・・・と。

とても元気な義母から「死ぬ」という言葉を聞き、不自然な不安を感じたのだが引き止めてはいけないような気がした。

で、義母の気持ちに沿えるように、義母にはちょっと待っててもらってお金の工面をしたり、義姉と交渉したりして、義姉の近所にアパートを借りることができた。

義母を送り出した日、手を振る義母の姿を最後にするつもりは毛頭なかったのに。

三ヶ月ほど経った頃だろうか。

義姉から義母が亡くなったという連絡を受けた。

無意識に覚悟をしていたのか、その連絡を私は厳粛な気持ちで受け止めた。

しかし、お葬式に行き、義母の遺品整理のため義母のアパートを訪れた時は胸をかきむしられた。

広告の裏に几帳面な小さな文字で、ここに来てからの家計簿が記されていた。

わずかな年金と、わずかな私の仕送りを細々と書き記す義母の姿を思うといたたまれなかった。

何もしてあげられなかったと思う。

おいしいものをたくさん食べさせてあげたかったし、旅行にも一緒に行きたかった。

義母のために何かをプレゼントもしたかった。

結局なにもできずじまい。

心の中で義母に詫びた。

悲しみふさぐ気持ちを払拭してくれたのが義姉だった。

義姉も、義母が大阪に戻ってきた時に、私と同じような予感を感じたらしい。

そして彼女は母親に生命保険をかけたのだ。

悲しみは義姉に対する怒りにかわった。

「この金はあんたにやる義理はないからな!」

「面倒みて何ももらえんとおあいにくさまやな。」

そんな下品な言葉を聞き、一発なぐってやろうかとさえ思った。

だが義母の霊前でその娘をなぐるわけにもいかず、どんな無神経な発言も耐えることにした。

義姉を憎む気持ちはお葬式から帰ってきてからも消えなかった。

深夜、ふと人の気配で目が覚めた。

見れば義母が正座して私を見つめている。

驚いて「お義母さん、どうしたの!?」と、飛び起きてたずねた。

すると頭の中に直接義母の声が響いた。

「あんたになにも残してあげれなくてごめんな。」

そういって、義母は畳に手をついて頭を下げた。

いよいよ驚いて、私も布団の上に正座して

「そんなこと、なんにも思ってませんってば!!」

「○子(義姉の名前)のこと、許してやってね。あの子も今つらいんや。許したってね。」

母親の気持ちは母親になれば痛いほどわかる。

どんな子供であってもかわいいし、子供の欠点は自分のせいだと自分を責めるし、ましてや子供が苦しんでいるのなら自分が死んでたって心配するものだ。

私も手をついて義母に頭を下げた。

「お義母さんごめんなさい。もうお義姉さんのこと許したから。もう悪く言いません。」

そういって頭を上げると、義母はすーっと消えていった。

私は布団の上に正座したまま、しばらく、義母と会話をした幸せな余韻を楽しんでいた。

義母とはその後、もう一度再会した。

義母の予言どおり、私はすぐに男の子をみごもり、そして出産。

ダンナの改心を願っての出産だった。

しかし願いは届かず、あいかわらず働かないのだ。二人の子供の父親なのに。

私は全てに失望しかけていた。

生活に疲れすぎていたんだと思う。

ある朝、仕事に行く時間が迫っても私はがんばる気力が出なくて

「仕事行きたくない・・・」などとぼんやり考えながら椅子に座っていた。

私ばっかりなんでこんなにつらいんだろ・・・

そう思うと涙がでそうになった。

その時だった。

「この甲斐性なしっっっ!!!!」

突然頭の中にとどろいた怒鳴り声。

しかしそれはなつかしい、まぎれもなく義母の声だった。

びっくりして顔を上げると目の前に義母が立っていた。

義母は生まれたばかりの息子をだっこしている。

そして、「この子を飢えさせる気?」と言わんばかりの表情で、私に息子を突きつけてきた。

「あのぉ・・・甲斐性なしはあなたのむすこさんなんですけど・・・」

そうつぶやいてみたら、なぜだか急に笑えてきた。

きっと義母は何度もダンナの尻を叩きにきていたに違いない。

そのたびに「やれやれ・・」と消えては、また何度も出直す義母の姿を想像すると可笑しくて。

ひとしきり笑ったら元気がでた。

「そうだね、がんばらなくっちゃね。ありがとう、お義母さん。」

そういうと、義母はにっこり微笑み、「大丈夫だから。」と言い残して消えていった。

ふいに赤ん坊の泣き声が聞こえた。

いつから泣いていたんだろう。

泣き声が耳に入らないほど、私はどうかしていた。

もしかしたらノイローゼの一歩手前だったのかも。

それを義母が叱って助けてくれたものだと思っている。

きっとずっと見守っていてくれたのだと思う。

自分の努力で切り開いて生きてきたと思っていたけど、

振り返れば、信じられないほどの幸運と転機がいくつもあった。

ダンナとはその後、離婚することになってしまったが。

義母も理解してくれていると思う。

現在、子供ふたりとも高校生。

あっというまです。

娘はますますきれいに、息子は私を見下ろすぐらいに大きくたくましい青年に。

ふたりとも大学へむけての勉強に忙しくしています。

でも、仕事で忙しい私を気遣って、家事を分担してやってくれるやさしい子供達です。

経営する会社も今のところ順調で、親孝行をする余裕もできました。

たくさん心配をかけた両親と、旅行に行ったり買い物をしたり。

そんなときには、心の中に必ず義母がいます。

義母との思い出をここに投稿させてもらったのは、先日義母と十数年ぶりに再会したからです。

その日は娘の誕生日でした。

夜中目を覚ますと、義母がまた正座して私を見ていました。

私もまた、義母と向かい合うようにベッドの上に正座しました。

義母は何も言いません。

ただ微笑んで「うんうん。」とうなずいているだけでした。

やがて静かに立ち上がるとすーっと消えていきました。

きっと私が建てた家を見に来てくれたんだろうと思います。

義母に見せたかったから。

そして大きくなった孫を見て、私を誉めてくれたんだと思います。

ここまでこれたのはあなたのおかげです。

消えていく義母の後姿に手をついて頭を下げました。

その瞬間、義母と過ごした光景が鮮明に脳裏にうかびあがりました。

それは二人でよく行ったあの公園のベンチ。

並んでアイスクリームを食べたあの日の光景。

義母は、娘としたかったことを全部私にしてくれたんだと・・・

私を嫁ではなく娘として愛してくれていたんだと、改めて気づきました。

そう思うと涙がぽろぽろこぼれて、頭を上げることができませんでした。

またいつか、義母に会いたい。

そして来世というものがあるのなら、また巡り会いたい。

私には母が二人います。

なんて幸せなことなんでしょう。

 

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