母親の泣ける話 – 感動エピソード【13】全5話

母親の泣ける話 - 感動エピソード【13】 泣ける話

 

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母親の泣ける話 – 感動エピソード【13】

 

 

また『お母さん』って呼んでね

私には、お母さんが二人いた。

一人は、私に生きるチャンスを与えてくれた。

もう一人は……

私の17歳の誕生日に母が継母であったことを聞かされた。

私を生んでくれたお母さんは、産後すぐに亡くなったそうだ。

生みの親より育ての親…

なんていうが、そのときの私は今まで騙されてきたという怒りと、馴れ親しんだ母が急に他人に思え、両親の話もきかず部屋でふてくされて泣いていた。

翌日から母を「おばさん」と呼ぶようになった。

そう呼ぶと母はたまらなく悲しそうな顔をした。

その後、なにかと私に気をつかいだし、必死になる母をよけいに煩わしく感じ、口もきかなくなってしまった。

なんとなく家に居ずらくなったので、夜は出かけるようになった。

それから一ヶ月がたとうとする頃、シカトし続ける私に母が「部屋で読んでね」と手紙を差し出してきた。

が、私はその場でぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に捨ててしまった。

それを見ていた父が私をはり倒し、震える声で「母さんはなあ…」と言ったが、私はろくすっぽ聞かずに泣きながら自分の部屋に逃げた。

・・・翌日、母は帰らぬ人となった。

居眠り運転をしていたトラックが赤信号を無視し、母に突っ込んだそうだ。

即死だった。

あまりに急な出来事のため、泣くこともできず、通夜が終わった後も母のそばでぼう然としていた私に、父がボロボロの紙きれを渡し、一言「読め」といった。

昨日の手紙であった。

そこには母らしい温かい字でこう書いてあった。

「千夏ちゃんへ

17年間騙していてごめんなさい。

お父さんはもっと早くに言おうとしてたんですが、あなたに嫌われるんじゃないかと思い、あんなに遅くなってしまいました。

あなたの気持ち、とてもよくわかる。

だってお母さん、偽者だったんだもんね…。

でもね、お母さん、あなたのことを本当のお母さんに負けないぐらい愛してるんだよ。

千夏が成人しても、旦那さんができてもずーっと…」

泣きながら書いたのか、字のところどころがにじんでいる。

そして最後に震える字でこうあった。

「…だから、、、また『お母さん』って呼んでね。」

私が感じた寂しさを、母は17年も耐えていたのだ。

人の気持ちを考えられなかった私は、一ヶ月もの間、母を苦しめたのだ。

「お母さん…」

一ヶ月ぶりに発したその言葉は、冷たくなった母の耳には届かない。

 

去年、母が癌で亡くなった。

3ヶ月間母がすごしていた病室を片付けていると、

引き出しから封筒が見つかった封筒には一言

「お母さんへ」

と書かれていた。

思い出した。

俺がリア厨の時、林間学校で強制的に書かされたものだった。

俺の母校では、林間学校に行く前に学校側が生徒の家族に生徒に手紙を書いて欲しいと秘密裏に依頼して

その手紙を故郷を離れた時に突然生徒に渡すというドッキリ企画が代々あったらしい。

で、実際担任から生徒に手紙が渡されると、大半の生徒は

「なんだよこれ?バカじゃねえの?ギャハハ。」

って感じのリアクション。

しかしクラスで一番派手な女が泣いているのを見た担任は俺たちを叱った。

しぶしぶ返事を書く生徒たち。

もちろん心はこもっ ていない。

担任の教師が

「何か記念になるものを入れておくといい。」

っていったから俺は紅葉をいれておいた・・・。

母の病室で見つけた封筒の中には、

汚く、短く、おざなりな文章の書かれた手紙と

ぼろぼろになった紅葉の破片。

こんなものを長年とっておくほど、俺は母に言葉をかけられず思い出を作ってあげられなかったことを思って

母がかわいそうで、とにかく泣きじゃくった

 

もっと実家に帰っていれば

夫の仕事の都合で、東京に引っ越してからは、あまり実家に帰らなくなっていました。

ある時、数年ぶりに実家に戻ると、

「連絡をよこせ」

「孫の顔が見たい」

と母がうるさく言うので、携帯電話をプレゼントして、写真付きのメールを送ることにしました。

ところが、機械オンチの母はメールの返信ができないようでした。

反応がないせいか、私の送る頻度もだんだんと減っていきました。

そんなある日、母の急死の知らせが入りました。

実家に戻ると、母の枕元には10年以上前に私が渡した携帯が置いてありました。

塗装が剥げてボロボロになった携帯を手に取ると、

「お前から届いたメールが消えるのを嫌って、替えなかったんだ。暇さえあるとメールを読み返していた」

と父。

壁紙には、娘が11才の誕生日に写した写真が。

娘はその時16才です。

母の中で、娘は11才で止まったままだったのです。

忙しさを言い訳にして、母の気持ちを考えようともしなかった自分が情けなくなりました。

もっと実家に帰っていれば…。

こんなに早く会えなくなるとは思わなかったなんて、言い訳にもなりません。

お母さん、本当にごめんなさい。

それからは、毎年家族写真を撮り、父に写真付きの年賀状を送っています。

 

次に会うときは

私の父は、私が5歳のときに白血病で亡くなりました。

それからは母が働き、祖母が私と弟の面倒をみるようになりました。

母は、仕事を始めてからは料理はしないし、洗濯もしないので、家事は全て祖母がやっていました。

だから、私は母親の手料理の味を覚えていません。

母はそういう面では、母親らしい人ではありませんでした。

でも、私はそんな母が大好きでした。

身だしなみにすごく気を使っていたので、友達のお母さんよりも綺麗でした。

音楽やファッションもわりと若々しく、友達のような感じでした。

そんな母が、乳癌だとわかったのは私が小学校6年生の時でした。

そのときは本当に驚いたのですが、手術をすれば大丈夫だと思っていたので、

『お母さんはすぐに元気になるんだ』

と思っていました。

そのとおり、摘出手術をしてからは仕事にも無事復帰。

通院は続いていましたが、私は根拠のない大丈夫を信じていました。

私が中学1年生の夏ごろ、癌細胞が肝臓に転移しているのがわかりました。

私は癌に全然詳しくなかったので

『また手術すればすぐに治る』

と思っていました。

しかし、容態は良くなる気配を見せず、母は見る見るうちに衰えていきました。

仕事も辞め、家と病院を行き来する毎日が続きます。

抗がん剤の作用で髪が抜け落ちたり、吐き気がひどかったりすることもありました。

そして私が中学二年生の夏ごろから、入院生活になりました。

それでも心のどこかで

『わたしのお母さんが死ぬわけない』

と思っていました。

最初の頃はたくさんお見舞いも行きましたが、だんだんその回数も減っていきました。

冬のはじめのある日、母から電話がきました。

「ちゃんとおばあちゃんの言うこときいてね。お手伝いもちゃんとしなきゃだめだよ」

すごく疲れた声でした。

それから一週間後の早朝に、母は亡くなりました。

母が亡くなる前日の夜、なぜか私はすごく不安になり、しばらく眠れなかったのを覚えています。

祖母から電話がきて、朝早く弟と一緒にタクシーで来てといわれ、弟とタクシーで病院へ向かいました。

そのときは全く実感がわかなく、そして弟を不安にさせちゃいけないと思い、すごく冷静だったと思います。

母の病室のある階につき、祖母の震えた声で私たちを呼ぶ声が聞こえた瞬間、糸が切れたように涙がでてきました。

『あぁ、本当にお母さんは死んでしまったんだ』と。

亡くなる直前の母は、モルヒネによる副作用で、幻覚がみえたりしてとてもやつれていたそうです。

だから本当は、あまり私や弟にお見舞いにきてほしくなかったそうです。

髪の毛がないこともたぶん、とても気にしていたと思います。

最期の最期まで、母は私の母らしい人でした。

祖母から聞いた話ですが、母は亡くなる前、

『○○(弟の名前)が高校卒業するぐらいまでは生きたいな』

と言っていたそうです。

その話を聞いて、また涙がでました。

お母さんに会いたいです。

会ってたくさん話したいです。

学校のこと、部活のこと、音楽のこと、たくさんたくさんきいて欲しいです。

以前より成長した今の私なら、お母さんとたくさん語れる気がするよ。

これからはおばあちゃんの手伝いをしたりして、お母さんに心配かけないようにするね。

今でもたまにお母さんの夢をみて泣いてしまうことはあるけど、私は大丈夫です。

次に会うときは、たくさんわたしの話聞いてね。

おもしろい話たくさん用意しておくね。

 

母と交わした最後の言葉

僕のお母さんは、癌で死にました。

今僕は中学1年ですが、小さいころから母は何度も入院したりしていて、子供ながらに何でだろうと思っていました。

小学5年生の時ぐらいから、母はいつも帽子をかぶるようになっていきました。

今思えば、それは辛く苦しい抗癌剤の副作用なのでした。

母は旅行などでも笑顔を絶やさない人で、いつも笑っていました。

そして小学5年生の春休み前、母は父と一緒に

「行ってきます」

と行って、病院へ行ってしまいました。

それが、母と交わした最後の言葉でした。

それから祖母の家で過ごしていました。

しかし、3月の下旬、いきなり午前4時ごろに起こされ、車で病院へ行きました。

病院へ着き、急ぎ足で病室へ行くと、そこには電源のついていない医療機器と気持ちよさそうに寝ている母の姿がありました。

近くに行ったら父が

「お母さんは、すごく頑張ったぞ」

と泣きそうな顔で言いました。その時僕は悟りました。

『母は逝ってしまったと・・・』

頭が真っ白になった僕を、父は抱きました。

そのまま祖母の家に帰された僕は、布団の中でずっとずっと泣いていました。

翌日、葬式があり告別式も済み出棺されました。

骨を拾っているときも、僕は涙をこらえていました。

その後、母の遺品を見ていると

「ハッピーバースデー

1歳の君へ

もう歩けるようになったかなぁ」

という手紙が出てきました。

他にもいろいろな手紙が出てきました。

それは、母が僕宛に書いたけれど、照れがあったためしまっておいた手紙の数々なんだなぁと思い大号泣しました。

母は僕のことを1番に考えてくれていたのです。

そんな母に、たいした親孝行もできなかった僕は後悔しました。

でも、僕は今精一杯生きています。

母にできなかった分、父に親孝行するために。

 

うちは貧乏な母子家庭で、俺が生まれた時はカメラなんてなかった

だから写真の変わりに母さんが色鉛筆で俺の絵を描いて、アルバムにしてた

絵は上手じゃない

ただ、どうにかして形に残したかったらしい

ほぼ毎日、赤ん坊の俺を一生懸命描いてた

絵の隣に『キゲンが悪いのかな??』とか『すやすや眠ってます?』ってコメント付きで

小学四年生の時、家に遊びに来た友達数人に、そのアルバムを発見された

めちゃくちゃ笑われて、貧乏を馬鹿にされた

友達が帰って直ぐ、俺はアルバム三冊をバラバラに破いてゴミ箱に捨てた

パートから帰って来た母さんがそれを見つけて、泣きだした

破いた理由を言っても、変わらず泣き続けた

翌朝起きると、居間で母さんがゴミ箱から絵の破片を集めてセロハンテープでとめてた

「恥ずかしい思いさせてごめんね。でもね、これ、母さんの宝物なんよ」

申し訳なさそうに優しくそう言われると、涙が溢れ、俺はごめんなさいと謝った

 

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