泣ける話 短編 全10話
最高のママ
もう10年も前の話。
妻が他界して1年がたった頃、当時8歳の娘と3歳の息子がいた。
妻がいなくなったことをまだ理解できないでいる息子に対して、
私はどう接してやればいいのか、父親としての不甲斐なさに悩まされていた。
実際私も、妻の面影を追う毎日であった。
寂しさが家中を包み込んでいるようだった。
そんな時、私は仕事の都合で家を空けることになり、
実家の母にしばらくきてもらうことになった。
出張中、何度も自宅へ電話をかけ、子供たちの声を聞いた。
2人を安心させるつもりだったが、心安らぐのは私のほうだった気がする。
そんな矢先、息子の通っている幼稚園の運動会があった。
“ママとおどろう”だったか、そんなタイトルのプログラムがあり、
園児と母親が手をつなぎ、輪になってお遊戯をするような内容だった。
こんなときにそんなプログラムを組むなんて・・・
「まぁ、行くよ♪」 娘だった。
息子も笑顔で娘の手をとり、二人は楽しそうに走っていった。
一瞬、私は訳が分からずに呆然としていた。
隣に座っていた母がこう言った。
あなたがこの間、九州へ行っていた時に、
正樹はいつものように泣いて、お姉ちゃんを困らせていたのね。
そうしたら、お姉ちゃんは正樹に、
「ママはもういなくなっちゃったけど、お姉ちゃんがいるでしょ?」
「本当はパパだってとってもさみしいの、」
「だけどパパは泣いたりしないでしょ?」
「それはね、パパが男の子だからなんだよ。まぁも男の子だよね。」
「だから、だいじょうぶだよね?」
「お姉ちゃんが、パパとまぁのママになるから。」
そう言っていたのよ。
何ということだ。
娘が私の変わりにこの家を守ろうとしている。
場所もわきまえず、流れてくる涙を止めることが出来なかった。
10年たった今、無性にあの頃のことを思い出し、また涙が出てくる。
来年から上京する娘、おとうさんは君に何かしてあげられたかい?
君に今、どうしても伝えたいことがある。
支えてくれてありがとう。君は最高のママだったよ。
私にとっても、正樹にとっても。
ありがとう。
守れなかった存在
桜の咲く季節になると思い出す。
俺は、小学校からの悪友3人とよくつるんで、高校生になっても遊んでいた。
A、B、Cの悪友3人と俺。そしてもう1人、同じく小学校からの付き合いがある“さくら”って言う女と。
さくらは俺らの中では、アイドルって程羨望の存在ではなかったが、他に女の子との付き合いも無かった中、そこそこ清純で可愛らしかったこともあって
『付き合いたい』という思いが全員の中に有りつつも、それをどこかお互いに悟られまいとしていた。
そんな歯がゆい関係だった。
高校3年の夏、俺ら5人は夏祭りのあと酒を買い、近所の公園で飲んだ。
酒の勢いもあってか、話題はいつしか『肝試し』になっていた。
近くの林の中には塚があり、塚の前で手を合わせると恐ろしい姿の女が現れ、女の姿を見た者は発狂するという、他愛もない噂が当時、半ば伝説のように伝播していたからだ。
「行ってみようぜ。俺らでさ」
当時、一番悪ぶっていたCが切り出した。
お調子者のBは気のせいかいつもの元気がなく、「やめよう……」と子犬のような顔でCを見る。
文武両道、正義感も強い俺らのヒーローAは乗り気なようで、さくらに「お前どうする?帰るか?」と気遣いも見せていた。
俺はといえば、さくらも一緒に行って、俺の肝が据わっていることを見せつけ、好意を寄せてくれれば幸いと、当時皆が思っていたであろうことを考え、 Aの問いかけに首を振るさくらの姿を期待していた。
「私も行く!あんた達だけじゃ不安!」
さくらも同行の意思を示し、俺達は林へ向かった。
あんなことになるとも知らず。
林を分け入って黙々と進んでいく。酒の力も徐々に薄れ、口数が少なくなっていく。
幸運にもさくらは俺の隣を歩いており、俺のシャツの袖を引っつかんでいた。
夜の林は、月の光とAの照らす懐中電灯のか細い光が頼りだったが、程なくして噂の塚に辿り着いた。
「ここで手を合わせる、んだっけ?」
Cはまだ酒が抜けていないのか、恐怖を表に出すまいと強がっているのか、普段見せないおどけた様子で塚に近づく。
Bは既に顔面蒼白で、「帰ろう……」と、Aと俺の顔を交互に見ている。
Aはつとめて冷静を保とうと、周りを注意深く観察していた。
さくらは相変わらず俺のシャツを掴んでいたが、もはやシャツが引きちぎれんばかりの力で、シャツを持つ手も心なしか震えていた。
「わあああああ!!!!!!」
Bが物凄い声で叫んだ。
途端、俺たちは恐怖と緊張のピークを超え、脱兎の如く散り散りに逃げ出した。
誰がどう逃げたか、どこをどう走ったかも覚えていない。ただ、闇雲に転げ周りながら走った。
林からどうにか抜け出すことができた俺。
公園に帰り着きしばし呆然としていると、少し遅れてAが戻ってきた。
「他のやつらは?BとCとさくらは?一緒じゃないか?」
Aにきつめの口調で問われ、一人で逃げてきたことを後悔しつつも、会っていないことを伝える。
Aは舌打ちをすると、一緒に探しに行くよう俺に求めた。だがさすがのAも怖かったのか、懐中電灯を落としてきたという。
公園から一番家が近い俺が、懐中電灯を取りに戻り、その後再度林に入ることとなった。
家から懐中電灯を持って、公園に戻ったときには、Cも公園に命からがら辿り着いたところだった。
Cも俺と同様、Bとさくらは見ていなかった。更に、探しに戻るのも嫌だと言うC。
「言いだしっぺはお前だろ!」
AがCを睨み付ける。
Cはばつが悪そうに、「悪かったよ……」とAに詫び、続けた。
「でも、俺見たんだよ。女みたいな影がさ、塚の後ろから出てこようとしてんのをさ……」
普段悪ぶって、俺らを鼻で笑う態度のCはそこになく、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「女が顔を上げようとしたときBが叫んだから、『やべぇ!』って思ってさ……」
それを聞くと、俺も先刻の光景を思い出し、行くことが躊躇われた。
行くことを拒むC、行って2人を探すことを主張するA、どっちつかずの俺。
3人が膠着状態となっていた時、土まみれのBがとぼとぼ歩いてきた。
息は乱れ、Tシャツは伸び、あちこちから血も出ている。
「大丈夫か」と駆け寄り、「さくらは」とBに問いかける。
Bは泣きながら、「わかんない」と答えるだけだった。
それぞれの親に事情を話し、警察にも連絡して、その日の夜は町内総出でさくらの捜索が行われたが、行方はわからなかった。
件の塚周辺も重点的に捜索されたが、手がかりさえ何も見つからずその後何週間にもわたって捜索は続いたが、さくらは見つからなかった。
俺らも自発的に毎日林に集まってはさくらを探した。
1週間もするとある程度の覚悟はできていたが、『さくらを探す』のであって、『さくらの亡骸を探す』のではない。と自分に言い聞かせて探し続けた。
さくらが見つかったのは翌年の春、桜の咲く頃だった。
さくらは林の出口付近で、白骨化した状態で見つかった。衣服と持ち物からさくらだと確認された。
くまなく探したはずなのに、なぜ見つけてやれなかったのか。俺らは悔やみながら、葬儀に参列した。
さくらのご両親は、俺らの事を決して悪く言わず、娘の良き友達として接してくれた。
それがどれ程辛いことか、当時の俺らにも痛いほどよくわかっていた。
Aはご両親に深々と頭を下げ、俺らが事前に決めておいた、さくらの弔いの為のお願いを始めた。
「さくらさんのお骨を、分けて頂けますか……?」
訝しげにAを見るご両親。
「5人でよく遊んだ公園の、桜の木の下に埋めてあげたいんです」
俺が続ける。
「気持ちは分かるけど、お寺さんに相談しないと……」
ご両親が戸惑っていると、やり取りを聞いていた住職が、「ご家族がお許しになれば、いいでしょう」と許可してくれた。
俺らは葬儀のあと、泣きながらさくらの一部を、満開の桜の木の下に埋めた。
俺らは進学、就職と、別々の道を歩いた。俺とAは進学、Bはフリーター、Cは就職した。
それぞれが忙しく日々を過ごし、さくらの忌まわしい出来事は考えないようにした。
もちろん、何かの折には公園を訪れ、桜の木の下で座りながらさくらのことを考え、語りかけたりもした。自分勝手だが、さくらとの綺麗な思い出だけを考えていた。
翌年の成人式。久々に4人で顔を会わせ、近くの居酒屋で昔話に花を咲かせた俺ら。
酔いが回り始めた頃、Cが唐突に言った。
「さくらに会わないか?」
Aが過敏に反応した。
「お前、よくそんなことが……」
慌ててCが釈明する。
「いや、公園に行こうって言ってんだよ!」
Bはあの時のようにあまり乗り気ではなく、「ゆ、幽霊にでもなって出てきたらどうすんだよ……」と怯えている。
CはBの背中を叩き、「さくらなら幽霊でも会いたいだろ」と笑って言った。
Cなりにあの出来事にけじめをつけようとしている、と思った俺とAは、公園に行く事に同意した。
4人で公園に来るのは、さくらを埋めたあの日以来だった。
夜風が酒で温まった体を容赦なく冷ましていく。桜の木の幹は冷たく、春の訪れを遠く思わせた。
「さくら、会いてぇよ……」
Cが呟いた。
「ずっと好きだったのに」と続けた言葉に、全員が頷いた。
皆が言いたくて言えなかった言葉だ。
「俺もだよ」とAが、俺が言う。
「いつまでも好きだ」
Bが言い、誰ともなく手を合わせた。
「ひいいいいいい!!!!!!」
あの日と同じようにBが叫んだ。
桜の木の後ろから、あの日のさくらが、あの日の姿でゆっくり現れた。
あの日と違うのは、憤怒の表情と、体全体を覆う痛々しい生傷。そして、股間からの夥しい出血だった。
さくらはゆっくりと俺らの方に、Bの方に近づいていく。Bは腰を抜かし、口からは泡を吹いている。
俺、A、Cは、金縛りにあったようにその場を動けずにいた。
「許して、許してぇ!!」
Bが震え、上ずった調子外れの声をあげる。
さくらはBの目の前まで来ると、Bの中に入り込むようにスッと消えた。
途端、Bが物凄い勢いで嘔吐を始めた。ガックリと膝を折り、うつ伏せて吐く。血も混じっていた。
吐き終わると、今度は口を滅茶苦茶に動かし始めた。Bの口からは血と汚物がとめどなく流れた。
舌と口の内側を食い千切っていると気づいたときには、Bの体は痙攣し、Bは呻き声を上げながら白目を剥いていた。
ようやくBの元へ駆け寄った俺らの頭上で、「ごめんね」という声が聞こえた。
見上げた先には、きれいなままの姿のさくらがいた。うっすらと涙を浮かべ、さくらは消えた。
「さくら!行くな!」
Aが叫んだ。
Cは倒れているBの元へ駆け寄り、瀕死のBを更に殴りつけた。
「お前が!お前がぁ!なんてことを!」
Cは泣きながらBを殴り続けた。俺はそれを止めることもできなかった。
Bはその後救急車で運ばれ、何とか一命は取り留めたが、口内と内臓に重大な損傷があり、顔の骨も折れていた(これはCが殴ったせいだったが)。
そして何より、精神に異常を来たしており、傷が癒えた後は精神病院で暮らすことになった。
CはBの怪我の責任を全て負うこととなり、傷害罪で逮捕されたが、「酔った勢いでの喧嘩」扱いで罰金刑となった。
春になり、俺とAは公園を訪れた。
さくらは無事に天国へ行けただろうか。
そんなことを考えていると、Aが言った。
「さくらは、強かったな……あの日、塚の後ろから女が出てきたとき俺もびびって逃げちまったけど、振り返ったとき俺見たんだよ。
さくらが逃げ遅れたBをかばってる姿を。それなのにBは、そのあとさくらを……」
Aの言葉に、言い知れぬ悲しさと空しさが滲んでいた。
俺は桜の木に手を合わせて祈った。
どうか、さくらが天国で幸せに暮らせるようにと。
天国への手紙
米国の4歳の女の子が愛犬の死を受けて、神様に手紙を送ったと
いう話が米ニュースサイトの ニュースバインで紹介された。
このエピソードは、女の子の母親から送られてきたメールを見た記者が
「伝えずにはいられない」と思い、紹介したもの。
それによると、この母親の家ではアビーという14歳になるメス犬を
飼っていたが、先月、病気で亡くなってしまったそうだ。
ずっと一緒に生活を送っていた4歳の娘メレディスちゃんは涙を流し、
「どんなに寂しいか」を母親に訴えていたという。
そして、アビーへの愛情を忘れられないメレディスちゃんは、母親にこんなことを言った。
「神様に手紙を書いたら、アビーが天国に着いたとき、神様はちゃんと『アビーだ』ってわかってくれるかな」。
母親はメレディスちゃんが話す言葉を書き留め、手紙をしたためた。
その中身は「神様、アビーがいなくなり、とても寂しいです。
どうか天国でアビーと遊んであげてください。 アビーはボール遊びと
泳ぐのが好きです。神様がアビーを見つけたとき、すぐに私の犬だと
分かるように、 写真を送ります」という内容。
幼いメレディスちゃんの精一杯の愛情が込められた手紙だ。
手紙と写真を入れた封筒には「天国の神様」とあて名が書かれ、
ポストに投函された。
手紙が届いたか心配する娘に、母親は「きっと届いたよ」と励ましていたそう。
すると10月27日、家の玄関前に金の紙で包まれた「メレディスへ」という小包が置かれていた。
中には「ペットが死んだ時」という本。
そして、そこには“神様からの手紙”が添えられていた。
「親愛なるメレディス。アビーは天国につきました。写真が
入っていたので、すぐにアビーと分かりましたよ。 もうアビーは
病気ではありません。アビーはあなたと居るのが好きでした。
天国では体を必要としないので、 写真を入れておくポケットがありません。
だから、あなたがアビーを思い出せるように、この本と一緒に写真を
返します。 素晴らしい手紙をありがとう。それから、手紙を書くのを
手伝ってくれたお母さんにお礼を言ってください」
ニュースバインの記事の最後は「誰が答えたかは分かっていません。
でも、米国郵便公社の配達できない手紙を扱う部署には、美しい魂があります」と結ばれている。
大人しい子に恋をした
バイト先に彼氏いない歴25年らしい大人しい子がいた。
局の子にお昼おごらされたり、派遣社員の子から高額なマルチ商法の商品買わされたりしてた。
皆が「アイツはお人好しだから何言っても絶対断らない」と
学生のイジメのようにバカにして嫌な事押し付けたりしていた。
もともとその子を優しくて良い女だと好感を抱いていた上に
この子なら断らないかもと思った俺は彼女を休日に食事に誘ってみた。
生まれて初めて女性からOKをもらい、嬉しくて店を色々調べて下準備し、
当日は思いきりお洒落してピカピカに洗った車で迎えに行き、
頑張って話を盛り上げてご飯を御馳走し、家まで送り届けた。
とても楽しくて何度も誘った。彼女も楽しんでくれていると思った。
段々好きになって今度告白しようと決心して食事に誘った時、
「本当はずっと嫌だった。もう誘わないで欲しい」と言われた。
彼女の顔は気の毒になる位必死だった。きっと決死の思いで言ったのだろう。
「ほら~!麻衣、ちゃんと断れるじゃないですか!今度から嫌な事
頼まれたら、今みたいにビシッと言えよ!俺、ずっと麻衣が
何言っても断れないの、心配したよ!」
と、俺は泣き出しそうなのをこらえて出来るだけ明るく元気に取り繕った。
彼女はとてもホッとしたような顔をして何度も俺にお礼を言った。
俺から好かれている訳じゃない事がわかって、そんなに嬉しかったのかな。
昨日の話です。もう色恋は諦めますた。一生童貞でかまいません。
毎日犬と散歩するお婆ちゃん
近所に住むお婆ちゃん。
もう90歳近いお婆ちゃん。
足腰弱ってるが毎日の散歩は欠かさない。
白いレトリバーを連れてゆっくりゆっくり歩いてた。
はた目には「ばあちゃん本当に歩いてるw?」ってくらい遅くて
見方によっては滑稽にすら見える。
でも、犬が5歩歩いてピタッ、4歩歩いてピタッとお婆ちゃんのペースに
合わせて待ちながら歩く姿が可愛いやら微笑ましいやらで大好きな光景だった。
ある日、団地のバカ小学生どもがゆっくりしか歩けないお婆ちゃんを
馬鹿にしてからかった。
バカガキはエスカレートしてお婆ちゃんにボールをぶつけた。
更にエスカレートしたバカガキの一人が石を投げつけようとしたとき
大人しかったラブラドールがリードを振りほどいて石を持ったバカガキに
飛びかかった。噛まれてはいなかったらしいが、ビックリしてこけた
拍子に腕の骨にヒビが入ったらしい。
目撃者が証言してくれたらしいが、バカガキのDQN親が大騒ぎして
「人殺し!」「こんな犬さっさと保健所に持ってけ!」だのと
お婆ちゃんを罵倒したそうだ。
今、お婆ちゃんは一人で寂しそうに散歩している。
生活苦
京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、
認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
ALSになった同級生
大学のとき、高校の同級生の女の子がALSを発症した。
そう親しくもない子だったし、ALSってどんな病気かも知らなくて軽い気持ちで大学の近くにあったその病院に、ひまつぶしで見舞いに行っていた。
ある日彼女が、病室で言った。
「あたし処女のまま死ぬのってイヤだなあ、ねえ今度夜這いにこない?」
その晩実際に夜這いに行った俺を迎えた彼女は、病院の寝巻姿ではあったが髪はちゃんと整えてあり、うっすら化粧をして、下着も当時流行り始めたTバックだった。
行為そのものは少々やっかいで、彼女は自分で脚を開くこともできなかった。
彼女はわざとらしい喘ぎ声をあげて、なんとか無事終ることができた。
そのあと俺に寝巻きを着せてもらいながら、彼女は嗚咽していた。
翌日俺の実家に彼女の母親から、「息子さんの優しいお見舞いに感謝します。」と電話があったという。俺はまさかと思ったが、しばらくして戦慄した。
彼女はもう、起き上がることすらできない。トイレだって行けないからたぶんおむつの世話になっているはずだ。
では誰が?
彼女の髪をとかし整えてやったのか
彼女に薄化粧を施してやったのか
彼女のおむつを脱がし、流行りの下着をはかせてやったのか
それがわかったとき、嗚咽とはいかないが不覚にも涙が出てきた。
あれから8年、
彼女はもはや目も動かせない状態で今も闘病を続けているという。..
訓練が始まる前に全員へ配られた子犬
おれがいた組織ではな、訓練が始まる前に全員に子犬が配られるんだ
その子犬と寝食を共にし、一緒に訓練課程を消化していく
1日分の食料と水、ペイント弾を装填したMP5を背負って森に放り込まれる
雨の中泥の中に埋もれて1週間の殺し合い演習、ペイント弾を食らえば即、脱落
犬といってもな、辛い地獄のような訓練を共にすれば絶対的な感情が芽生えてくるもんだどんなに辛い環境でも、小さな命が近くにいるというだけで安心できる
相棒のようなもんだったよ本当に
で、訓練最終日、与えられた最後の訓練課程はなんだったと思う?
それまでの地獄のような訓練を生き抜いてきた奴の大半がそこで脱落していった
訓練内容に納得できずに泣き出す者、嗚咽をこらえて動かない者
教官に殴りかかる奴までいたよ
だが俺は食った、無心でな
メロンのカップで親友と結んだ盃の契り
小学校6年くらいの時の事
親友と、先生の資料整理の手伝いをしていた時、
親友が「アッ」と小さく叫んだのでそちらを見たら、名簿の私の名前の後ろに『養女』と書いてあった。
その時まで実の両親だと思っていたので心底衝撃を受けた。
帰り道、どんな顔で家に帰っていいか分からず、
公園のブランコに座って立てなくなった私に、親友はずっと付き添っていてくれ、
「よし、じゃあ私と姉妹の盃を交そう」とか言って、
カバンからメロンのアイスの容器(メロンの形のやつ)を出して、水道の水をくんで飲んだ。
一体何のテレビを見たのか、「盃の契りは血のつながりより強いんだよっ」なんて
メロンのカップ片手に言う親友がおかしくて、思わず泣きながら笑いあった。
十数年たって私が結婚する事になり、結婚直前に二人で酒でも飲む事にした。
『あの時はありがとう』と、驚かそうと思って、あの時もらったメロンのカップを
カバンにこっそり忍ばせて飲んでたら、突然親友がポロポロ泣き出して
「あの時、あの時、気付かせてしまってごめんね」と。
『養女』の文字を隠さなかった事をずっとずっと悔やんでいたと泣いた。
そんな事、反抗期に親に反発しそうな時も、進学の学費面で親に言えなくて悩んだ時も、
机の上でメロンのカップが見守っていてくれたから、
あなたがいてくれたからやってこれたんだと伝えたかったのに、
ダーダー涙流しながらダミ声でドラえもんのように「ごれ゛ぇ~」とメロンのカップを出すしかできなかった。
親友もダーダー涙流しながら「あ゛~ぞれ゛ぇ!」と言って、お互い笑って泣いて、酒を酌んだ。
もちろんメロンのカップで。
もうすぐ親友の結婚式があるので思い出した。
海軍にいた新郎のおじいさんの挨拶
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
一通りの祝いの言葉の後に、
「自分は海軍にいた。孫が艦に乗っている事を誇りに思う。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
掛けていると思う。」
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき
神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が
「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で
「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり、イスが倒れる
のも無視して、直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。
ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。
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