泣ける話『一人娘の結婚式』『オムライスとごはん』など【短編】全10話 |切ない話・泣ける話まとめ

泣ける話『一人娘の結婚式』『オムライスとごはん』など【短編】全10話 |切ない話・泣ける話まとめ 泣ける話

 

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泣ける話 短編 全10話

 

一人娘の結婚式

土曜日、一人娘の結婚式だったんさ。

当時俺25歳、嫁33歳、娘13歳。
まぁ、要するに嫁の連れ子だったんだけど。
娘も大きかったから、多少ギクシャクしながらも数年過ぎた。

子供はあえてつくらなかった。
収入の問題もあったけど、娘の気持ちを考えたら、
子供は娘1人いればいいって事になった。

突然嫁が交通事故で逝った。
娘17の時。
突然2人きりになった&現実味がなくて二人して呆然。
これからどうしようと思った。

生活の面では収入も安定してたし、娘も家事の一通りは出来た。
何の問題もないはずだったけど、嫁側親戚が騒ぎ立てた。

そらそーか。
血の繋がらない29の男と17の女。
ある意味カップルでもおかしくない歳の差だもんな。

「あなたはまだ若いんだから」とか、
「再婚するにも子供がいちゃ・・・しかも自分の子供じゃないのに・・・」
とか、散々言われた。

でも、俺は間違いなく娘は俺の娘だと思ってた。
何よりも、嫁のたった一人の忘れ形見だ。
俺が育てて行く以外の選択肢は全く頭になかった。

そんな親戚の騒ぎは右から左に流した。
娘も「今更こんな足の臭いオッサンとどーにかなるかw」と笑ってた。
当たり前の様に言う娘の気持ちが嬉しかった。

やっぱり影であらぬ噂を立てられた事もあった。
三者懇談や進路面談で学校に行くと、必ず教師に変な顔をされた。

部活で遅くなった娘を迎えに行って「お宅の生徒が円光をしている」と
近隣住民から学校に通報された事もある。

それでも2人で暮らして来た。
再婚なんか考えた事もなかった。
それくらい娘には穏やかな、幸せな時間を与えてもらってた。

娘に話があると言われた。
「結婚したい人がいる。」と。
娘は25になってた。

俺が嫁と結婚したのと同じ歳。
正直複雑な心境だった。

次の日曜に相手の男に会った。
娘を見る目が優しかった。

こいつなら大丈夫だと思った。
安心した。
諦めもついた。(笑)

あっという間に披露宴だ。

「お母さんが亡くなった時、本当にどうしようかと思った。
お父さんはまだ若かったから、私がいたら絶対に足枷になると思ってた。
だから、これからも一緒に暮らすのが当たり前みたいな態度でいてくれたのが
本当に本当に嬉しかった。

私のお父さんは、お父さんだけです。
今まで本当にありがとう。
お母さんが亡くなってからも、今までずっと幸せな子のままでいられたのは
お父さんがお父さんだったからです。」

娘がしゃくりあげながら読む花嫁からの手紙を聞いてたら
バージンロード一緒に歩いてた時点で必死で堪えてた涙がどっと溢れた。

娘が出て行く前に、箪笥の引き出し一つ一つに
「ぱんつ」「しゃつ」「とれーなー」「くつした」とか書いた紙をはっつけていった。

そこまで俺自分で何も出来ない父親かよwww
しかも平仮名www

近いうち娘に良く似た孫とか出来ちゃうんだろうな。
そんで「俺まだじーちゃんとかいう歳じゃねーし」とか言っちゃうんだろうな。

俺、間違ってなかった。
大変だったけど、父親って立場、選んでよかった。

嫁と結婚して良かった。
娘の父親になって良かった。

1人になって部屋は何か広くなっちゃったけど。
微妙な抜け殻感は否めないけど。
今度はいつか生まれて来る孫の為に頑張ってみようかな。

 

弟の書いた物語

私の家族は父、母、私、弟の四人家族。

弟がまだ六歳の時の話。
弟と私は十二才離れてる。凄く可愛い弟。
だけど遊びさかりだったし家に居れば父と母の取っ組み合いに巻き込まれる。
だからほとんど家には帰らない日々だった。
弟は毎日恐く淋しかっただろう。
ある日家に帰ったら、お酒ばかり飲んで人の顔を見れば殴る父が座って一冊のノートを見ながら泣いていた。
私もノートを覗き込んだんだ。
そしたらね父が急に「ごめんな」って言うの。
よく見たら弟がまだ汚い字で物語を書いてた。
僕には楽しいパパ、優しいママ、いつも笑顔のお姉ちゃんがいる。
いつも皆でおいしいご飯を笑いながら食べる。
毎週日曜日は家族でお出かけをする。
僕は皆にいつもいい子されて幸せいっぱい。
毎日笑顔がいっぱい。
そんなような事が沢山書かれてた。
普通なら当たり前なのに私の家では出来ていなかった事が想像で沢山かかれてた。
紛れもなく弟の夢が描かれてた。
父と泣いて読んだ。
母がパートから帰ってきて母も読み泣いた。
その日の夜は揃って鍋をした。弟は初めての体験。
凄い笑ってた。
父も母も私も照れながら
笑った。
それから
少しづつ弟の物語は現実になった。
今では笑顔沢山の家族になりました。

弟の物語はあれ以来書かれなくなった。

 

小学校から一緒の親友

俺たち小学校から高校までずっと一緒だったよな。
高卒後俺は就職、お前はフリーター
学歴社会の昨今「俺たちゃ負け組じゃねぇよな!がんばろうぜ!」ってよく鼓舞しあってたな…

25歳になった頃…俺も初めての役職に就いた日…嬉しくてすぐに連絡したよな…その時お前の言った言葉
「そんな普通な生き方楽しいか?」
俺は悲しくて頭に来て言ったよ「25でフリーターやってるお前にはわからねぇよ」

あの日から俺たちは連絡取らなくなって……もう14年か……お互い39なんてオッサンだな…

実は来年娘が中学生になるんだ。俺もそれなりの役職にステップアップしたよ。

お前はどうだ?……なんて聞かないよ……その身なりをみれば久々の訪問理由も想像つく…
何も聞かないさ…持っていけよ…普通の40歳の給料2ヶ月分は入ってるからさ…
「…スマン」お前の呟きも聞こえないふりをするよ…
さぁ帰ってくれ…金は返さないでいいから…家族に見られたくないんだ…
こんな姿の親友がいるなんて知られたくない…近所の目もある……

何度も振り返り頭を下げて小さくなっていくお前を見ながら思った

俺はいつから人目を気にするようになったのかな…親友を厄介者扱いするような人間になったのかな……
俺たちゃ負け組じゃねぇよな…がんばろうぜ…

 

オムライスとごはん

20年前ぐらいの前の話

当時俺の家はいわゆる片親ってやつで、すげぇー貧乏だった。
子供3人養うために、かぁちゃんは夜も寝ないで働いてた。
それでもどん底だった・・・

俺は中学卒業してすぐ働きに出た。
死ぬほど働いた。遊んでる暇なんてなかった。

1年ぐらいして同級生に久しぶりに会った。
飯食いに行こうって話になった。
メニューの漢字・・・読めなかった。
読めたのは、一つだけカタカナで書いてあった「オムライス」だけ。
同級生は「焼きそばとごはん」って注文した。

無知な俺は「じゃあ俺はオムライスとごはん」って店員に言った。
店員、固まってた。
クスクスって笑い声も聞こえてきた。
そしたら同級生
「さっきのキャンセルね!!俺もオムライスとごはん!!」

・・・
店出た後、同級生が一言
「うまかったな」って言った。
「仕事がんばれよ」って言ってくれた。

泣けてきた
心の底から人に「ありがとう」って思った。
そいつは今でも親友です。

 

二人乗り

昔、俺がまだ中学3年生だった頃、中学生だった妹がトラックに轢かれた事があった。

しばらくは入院してたんだけど家が貧乏すぎた事もあり両足のギブスも取れないまま退院になった。

でもやっぱり通院はしなきゃならなくて隣町の病院まで約5kmの道程を俺が自転車で送り迎えしてたんだ。

無論、貧乏なので保険証と病院代だけ握りしめてせっせと二人乗りして行ってた、そんなある日。

「君等、二人乗りは禁止だぞ?」

振り向くとパトカーだった。俺は妹がこんな状態で一人では病院に行けない、貧乏だからタクシーも無理。

隣町の病院だから徒歩なんて絶対無理だと必死に必死に説明した。でも警官は

「ん~、そうやってね、偽装して二人乗りでひったくりしまくってる中学生のカップルの目撃通報が多いんだよね」

幼心に(そんなことあるかい!)と思ったが「違う! そんな事してない! 妹は事故の被害者なんだ!」って必死に訴えるしかなかった。

でも警官は

「まぁ、でも、一応、君等違反者だからね。ん? 家近いの? じゃあ自転車置いて来てパトカー乗って。警察署行くから」

妹は泣きながらパトカーに乗せられた。放っておく訳にもいかないから泣く泣く自転車を置きに戻り俺も大人しくパトカーに乗った。

車中にて。

「まぁ本当に病院行くっていうのなら診察券くらいもってるだろ? 子供でも身分証明提示してもらわないと」

もう泣きたかった。でも妹が泣いている。一緒に泣く訳にはいかなかった。

「ふぅ~ん。この診察券いつの?」

バカ、そこまで偽装するかよ。

「いくら子供でも違反は違反。やっちゃ駄目なんだからね」

お前等、妹のこの姿見ても平気でそんな事言えるのな。お前等無性生殖で産まれたミュータントだろ。

「まぁ今回は大目にみるけど…次からは考えなきゃ駄目だよ?  はい、着いたよ」

降りてみると隣町の病院だった。俺と妹は違う意味で泣いた。万引きなんてしたことのないチキン中学生が連行されるかと思ったら病院まで送ってもらえて、そのあまりにもの落差でもの凄く泣いた。

さっきまで鬼の形相だった警官はニッコリと敬礼しながら去って行った。俺たちは何度も何度も頭を下げて病院に入った。

そして無事に診察を終え、診察料を払い、丁度残った100円で妹にブリックパックを買ってやり、俺たちは手を繋いで自転車置き場に向かった。

 

絵が上手だけど少し遅いA君

小学生のとき、少し足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅いA君がいた。
でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。
抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。

担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。
N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。

クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、
全校集会で先生のお別れ会をやることになった。
生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。
先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。
お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。

私は、A君の言葉を忘れない。

「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」

A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。
水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。
放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。
N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。

 

亡き母からのビデオテープ

俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。

それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにグレた。
親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。
俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。
そしたら・・・
病室のベットの上にお母さんがうつってた。
『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』
10分くらいのビデオテープだった。

俺、泣いた、本気で泣いた。
次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
みんなにバカにされるくらい勉強した。
俺が一浪だけどマーチに合格した時、
親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。

そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。
また、よく見てみたら。
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。
お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。
俺また泣いちゃったよ。
父親も辛かったんだろうな、
親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、
就職決まった時、
親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。

俺このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

 

3年前、金融屋をやっていた

3年前の話。
当時、金融屋をやっていたんだけど<裏金>その年の夏。
いつものように追い込みかけに行ったら、親はとっくに消えていたんだけど
子供が2人置いてかれてた。
5歳と3歳。<上は男の子、下は女の子
俺はまだペーペーで、周りの兄さんらと違って顔も怖くなかったらしく
家に行ったときすぐに下の子になつかれた。
ボロボロの服で風呂にも入ってなくて、「いつから親はいないんだ?」って
聞いても答えない。
「何食ってたんだ?」って聞いたら、上の子は下をむいて泣いた。
下の子が「こっち」って手を引いて裏庭に俺をつれていった。
破れた金網を通ってでたところは、小学校の裏庭だった。
「あのね、みーちゃんこれ食べたの」って池を指す。
嫌な予感がした。
だってさ、その池って金魚がウヨウヨ泳いでるんだよ・・・。
2人を抱きかかえて家に戻ると、テーブルに小さいボウルと茶碗。
「お前ら・・・金魚食ってたのか・・・」って聞いたら「・・・うん」
すっげーやるせなくて涙がでて、俺もその場にいた兄さんらも泣いた。
すぐに兄さんがたくさん食べ物と洋服を買ってきた。
近くの銭湯で体を洗ってやった。
その後、俺らじゃどうしようもないから施設に連絡をいれた。
連れていかれる時に「お兄ちゃんありがとう」っていってた。
・・・全然ありがとうじゃねーよ・・・俺たちがお前らの親を追いつめたのに。
俺を含めて何人かは、この後仕事を抜けた。

 

花が手向けられている電信柱

よく通る道に花が手向けられている電信柱があり、
通る度に供えられた花の種類が変わっていたので
よほど大切な人を亡くしたんだろうなと気になって見ていた。
ある時、その電信柱の前を通ったらその花が荒らされていた。
次の日通ると花は綺麗に新しくなっている。
その日の夕方に通るとまた花が荒らされていた。
その後荒らされる→新しい花→また荒らされるというのが暫く続いた。
猫や鳥にやられたのかな?と思いつつ通り過ぎていたが、
ある日偶然にもその花を荒らしている最中の人を発見。
俺はとっさに車を降り、
「何してるんですか!」と咎めた。
するとこちらを向いた40~50代位の女性に女性が
「○○ちゃんを返して~」と号泣。
虚をつかれうろたえながら彼女を宥めつつ話しを聞くと、
彼女は娘さんをここで亡くした。
娘さんは歩いていて、車に突っ込まれた。
運転していた男性もこの電信柱にぶつかった衝撃で亡くなった。
この花は加害者の男性の家族が供えている。
その花を見る度に娘を思い出してしまい、いたたまれなくなって
花を荒らすようになってしまった。
といった感じでした。
「もうこんな事はしませんから・・・」
と泣きながらふらふら帰っていく彼女を見て
やるせない気持ちになり暫くそこに立ち尽くしてしまいました。

 

親父の作った星の形のにんじん

俺の母親は、俺が2歳の時にがんで死んだそうだ。
まだ物心つく前のことだから、当時はあまり寂しいなんていう感情もあまりわかなかった。
この手の話でよくあるような、「母親がいない事を理由にいじめられる」なんて事も全然なくて、
良い友達に恵まれて、それなりに充実した少年時代だったと思う。
こんな風に片親なのに人並み以上に楽しく毎日を送れていたのは、
やはり他ならぬ父の頑張りがあったからだと今も思う。

あれは俺が小学校に入学してすぐにあった、父母同伴の遠足から帰ってきたときのこと。
父は仕事で忙しいことがわかっていたので、一緒に来られないことを憎んだりはしなかった。
一人お弁当を食べる俺を、友達のY君とそのお母さんが一緒に食べようって誘ってくれて、寂しくもなかった。
でもなんとなく、Y君のお弁当に入っていた星形のにんじんがなぜだかとっても羨ましくなって、
その日仕事から帰ったばかりの父に「僕のお弁当のにんじんも星の形がいい」ってお願いしたんだ。

当時の俺はガキなりにも母親がいないという家庭環境に気を使ったりしてて、
「何でうちにはお母さんがいないの」なんてことも父には一度だって聞いたことがなかった。
星の形のにんじんだって、ただ単純にかっこいいからって、羨ましかっただけだったんだ。
でも父にはそれが、母親がいない俺が一生懸命文句を言っているみたいに見えて、とても悲しかったらしい。
突然俺をかき抱いて「ごめんな、ごめんな」って言ってわんわん泣いたんだ。
いつも厳しくって、何かいたずらをしようものなら遠慮なくゲンコツを落としてきた父の泣き顔を見たのはそれがはじめて。
同時に何で親父が泣いてるかわかっちゃって、俺も悲しくなって台所で男二人抱き合ってわんわん泣いたっけ。

それからというもの、俺の弁当に入ってるにんじんは、ずっと星の形をしてた。
高校になってもそれは続いて、いい加減恥ずかしくなってきて「もういいよ」なんて俺が言っても、
「お前だってそれを見るたび恥ずかしい過去を思い出せるだろ」って冗談めかして笑ったっけ。

そんな父も、今年結婚をした。相手は俺が羨ましくなるくらい気立てのいい女性だ。
結婚式のスピーチの時、俺が「星の形のにんじん」の話をしたとき、親父は人前だってのに、またわんわん泣いた。
でもそんな親父よりも、再婚相手の女の人のほうがもらい泣きしてもっとわんわん泣いてたっけ。
良い相手を見つけられて、ほんとうに良かったね。
心からおめでとう。そしてありがとう、お父さん。

 

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