人が死なない泣ける話 – 感動エピソード【11】
母が来た
GW,
大学進学のため、上京して一人暮らしをしている俺のアパートに
母が来た。 相変わらず口うるさく、イロイロ言うのが、ウザくて
いる間中、小さい口げんか状態だった。
いよいよ帰る日、駅のホームで見送ることになって・・・
電車のドアが閉まろうとしてる時、「あんたにイロイロ買ってやろうと
ヘソクリ持ってきたんよ。でも使わんかった。 お母さん、電車に乗ったら
もうお金使うことないし、これ、持っていきな。」
と、財布をポンと投げてくれた。
俺が、返答を考えている間にドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き始めた。
笑顔で手を振る母・・・
財布には万札より千円札の方が多い計9万円
頑張りませう。
実家から遠く離れた地域に転勤になり、なかなか馴染めなくて辛い思いをしていた時。
83歳のジィちゃんがダンボールの小包を送って来た。
田舎の古い商店でしか売ってないような昔のお菓子が一杯詰まってた。
こんな昔のお菓子、今は売ってる店ないっつーの。
こんな一杯食えねぇーっての。
孫の為にとどんな表情でこれを買って送ったのか想像させるなっつーの。
「頑張りませう。」
こんな手紙を入れるなっつーの!!
あの時は参った・・・。
貧乏だったから
俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、
「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの
母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。
どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。
これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の
前まで来て買うのやめた。そのかわりに小3の妹にアシックスの
ジャージを買ってやった。いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリーム買ってやった。いっつも手が荒れてたから。
去年俺は結婚したんだけど、結婚式前日に母に大事そうに錆びた
ハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね、、。初めて言ったよ「生んでくれてありがとう」って。
田舎のババア
さっき田舎のババアの所から帰ってきた
で、ババアはすでにボケてるみたいで俺の顔を見ると「あー、あー」とか言う
ババアウゼーと思う俺。で帰ろうとしたらババアがまた来て、何だよと思うと
その手には俺が小さい頃大好物だった鮭の皮の部分が握られていた・・・
南の島の老人
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ……」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。
「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の
民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。
そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に
避難させたのである。
そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、
兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という
歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を
出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。
最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。
その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。
戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の
亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミと
ショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して
作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。
そして当時を知るパラオの長老たちは今でも日本をこう呼ぶという。
「内地」
と。
ペ島の桜を讃える歌
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた
強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜”に意味深し
日本の”桜”は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜”は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
今守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る
平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし”桜花” 今では平和が甦る
どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる
戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを
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