父親の泣ける話 – 感動エピソード【11】
虹の画像
社会人になって約八ヶ月。
まだ雪は降ってないけど、これからの季節が厳しい豪雪地帯に長期出張になった。
実家から二時間も離れたところだし、新しい人間関係にも環境にも慣れることができずにちょっとさびしい思いをしていた。
そんなとき、お昼ご飯を食べていると父からのメール着信。
『虹が出ていたよ』と虹の画像つき、ただそれだけのメールだった。
ときどきよくわからないメールを送ってくることもある父親だったし、ちょうど実家に帰ってきていた姉とどこかにでかけたのかな?と、画像もちらっと見ただけで、たいして気にもとめてなかった。
その日、会社から帰ろうとすると、なんか車が変。
朝は半分くらいだったガソリンのメーターがなんと満タンをさしている。
ギョッとして、急に車が止まっちゃったらどうしようとかどこに行ったら修理してもらえるかなとか、考えつつも、とりあえず無事にホテルまでたどり着いた。
部屋に戻ってしばらくしてると実家から電話が・・・。
出てみると姉だった。
「元気でやってる?」等、普通に世間話をちょっとした後、姉はおもむろに「今日、なんか不思議なことなかった??」と一言。
最初は思いつかなかったけど、そういえば・・・と思い出し、車のガソリンメーターのことを話した。
そうすると姉は電話の向こうでちょっと(・∀・)ニヤニヤした様子。
話を聞いてみると、実は昼間、私が仕事をしている間に父と姉、2人で私の車のタイヤを換えに来てくれたらしい。いつ雪が降るかと離れたところで心配してい るのも気を揉むので、もう冬用のスタッドレスタイヤに換えてしまおうと、私に内緒で二時間かけて車で来て、雨の中、交換してくれていたのだ。
ついでにそのときにガソリンも満タンにしておいてくれたらしい。
そのときはあんまりびっくりして、とりあえずのお礼しか言えなかったけれど、電話を切って一人になったら、自分は本当に幸せ者だなぁと、ちょっと涙が出てきた。
父からのメールの虹の画像。
よく見ると、その虹の根元には私の働いている店がちっちゃく映ってた。
50円
まったく関係ない話だが。
昔、父親に誕生日プレゼント買ってやると言われ、おもちゃ屋に行ったときのこと。
本当はゴジラの電動ラジコンみたいなのが欲しかったんだが、貧乏な家だったので漏れは父親の財布を心配してラジコンより50円安かったゴジラのプラモを選んだ。
父親は「ラジコンでもええねんぞ」と言ってくれたが、50円といえば5円チョコを10個も買える。
大金だと思った。だからプラモを選んだ。
家に帰ってさっそくプラモを作った。
ちんぷんかんぷんだったが、父親とワイワイ言いながら結局1週間ぐらいかかったかなぁ。
一緒に笑いあったあの時間は、今思い返すと50円以上の価値があったと思う。
ゴジラは去年、父親の遺骨と一緒に墓に納めました。
覚えてくれてるかな。
一緒に作った楽しかった時間。
難病
多発性硬化症という難病に侵されてから早10年が経ちますね。
生死の狭間を彷徨うこともありましたが、今日まで生きてくれて何よりです。
あなたの意識がない時、父は嗚咽にまみれて泣いていましたよ。
父があんなに取り乱したのは初めて見ました。
私はあなたに似たのか涙一滴流れませんでしたよ。
あなたは、私がいじめにあっていた幼い頃、
「自分が正しいと思うなら理不尽なことで泣く必要はない。」と言いましたよね?
私は必ず帰って来ると信じていました。あなたの意志を継いで泣きませんでした。
あなたは障がいを負って正気を取り戻して以来、以前のあなたではなくなった。
「一人息子の母がこんなでは将来、貴方の嫁に見せる姿がない。」と弱音を吐き、
父の前で涙していますね。
その涙は理不尽な涙だ。
そんな理由で、あなたが泣く必要はない。
もう少ししたら、将来の嫁を連れて行くよ。
どこかあなたに似ている女性さ。小柄だが頑固で美人だぞ。
あなたが泣くのはその時でいい。
十数年ぶりに俺も泣くだろう。
23年間世話になったね。本当に感謝しています。
これからも末長くよろしく。
こんなの面と向かって言えないんだよ。つまらんとこが似たね。
この想いは、知らない誰かに聞いてもらうとするよ。
親父を傷つけてしまった
うちの親父は、軽い知的障害を持っていた。
早くから職人として修行を積んできたので稼ぎはあったが、
普段の生活がトロい。
お袋は、そんな親父と幼い俺を捨て家を出た。
親父は俺を溺愛して一生懸命に育ててくれた。
親父の怒った顔は見たことがない。
小さい頃は大好きだったけど、思春期が始まった頃からは
親父のトロさが嫌で嫌で、堪らなくなった。
中学2年のある日、弁当を持参する日に親父が弁当を作ってくれた。
みんなパンとか買っていくので俺もそのつもりだったけど、
起きたら親父が嬉しそうに弁当作ってた。
正直鬱陶しかった。
しかもできあがった弁当を、小一のときの俺に見せたのと同じ笑顔で
「ほら、お弁当だよ」と見せた。
俺は朝飯を食いながら「ああ」と気のない返事をして、
醤油を取ろうと手を伸ばしたら、
その手がぶつかって弁当が床に落ちてしまった。
わざとぶつけたのかも知れないが、よくは覚えていない。
親父は子供のように
「○○のためにつくったお弁当が落ちちゃった!」とパニックになった。
俺はその様子にうんざりして、
無言で家の財布から500円を抜いて
「これでパン買うから!」とそのまま家を出た。
その後、大人になって社会に出て、結婚して子供ができて。
時間が経つに連れて親父の優しさ、ありがたさ、
そして思春期のときに取ったあのことへの後ろめたさが大きくなっていった。
あの弁当をどれだけ苦労して、どれだけの想いで作ってくれたのか、
そしてどれだけ親父を傷つけてしまったのか。
俺に子供ができたとき、親父は赤ん坊を抱きながら
何度も俺の名前と間違えて呼んでいた。
そんな親父があっけなくガンで死んだ。
死に際、意識を取り戻して俺の顔を見ると、俺の手を取って
「ごめんな、ごめんな」と謝ってばかりいる。
絶対に言って欲しくないと思っていたら、
案の定、親父は「お弁当ごめんな」と言った。
俺は涙と鼻水で息が詰まりそうになった。
横では女房が自分のことのように鼻を垂らして泣いていた。
それを見て、こいつは一生大事にしようと思った。
レスキュー隊
父親がレスキュー隊員だった。
自分にとって父ちゃんは誇りだったけど、危険な仕事だって分かってからは
仕事に行く父ちゃんに縋りついてわんわん泣く子供だったらしい。
でも、父ちゃんは「父ちゃんがお前や母ちゃんのことが好きなように
父ちゃんが助ける人たちにも、大好きな人がいるんだ」ってよく言ってた。
誰かを助けるたびに、自分が助けられてるような気がしたって。
だから、頑張って欲しい。頑張れ。新潟のレスキュー隊超頑張れ。
誰かを愛してる誰かのために、超頑張れ。
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