父親の泣ける話 – 感動エピソード【6】
星形のにんじん
俺の母親は、俺が2歳の時にがんで死んだそうだ。
まだ物心つく前のことだから、当時はあまり寂しいなんていう感情もあまりわかなかった。
この手の話でよくあるような、「母親がいない事を理由にいじめられる」なんて事も全然なくて、良い友達に恵まれて、それなりに充実した少年時代だったと思う。
こんな風に片親なのに人並み以上に楽しく毎日を送れていたのは、
やはり他ならぬ父の頑張りがあったからだと今も思う。
あれは俺が小学校に入学してすぐにあった、父母同伴の遠足から帰ってきたときのこと。
父は仕事で忙しいことがわかっていたので、一緒に来られないことを憎んだりはしなかった。
一人お弁当を食べる俺を、友達のY君とそのお母さんが一緒に食べようって誘ってくれて、寂しくもなかった。
でもなんとなく、Y君のお弁当に入っていた星形のにんじんがなぜだかとっても羨ましくなって、その日仕事から帰ったばかりの父に「僕のお弁当のにんじんも星の形がいい」ってお願いしたんだ。
当時の俺はガキなりにも母親がいないという家庭環境に気を使ったりしてて、
「何でうちにはお母さんがいないの」なんてことも父には一度だって聞いたことがなかった。
星の形のにんじんだって、ただ単純にかっこいいからって、羨ましかっただけだったんだ。
でも父にはそれが、母親がいない俺が一生懸命文句を言っているみたいに見えて、とても悲しかったらしい。
突然俺をかき抱いて「ごめんな、ごめんな」って言ってわんわん泣いたんだ。
いつも厳しくって、何かいたずらをしようものなら遠慮なくゲンコツを落としてきた父の泣き顔を見たのはそれがはじめて。
同時に何で親父が泣いてるかわかっちゃって、俺も悲しくなって台所で男二人抱き合ってわんわん泣いたっけ。
それからというもの、俺の弁当に入ってるにんじんは、ずっと星の形をしてた。
高校になってもそれは続いて、いい加減恥ずかしくなってきて「もういいよ」なんて俺が言っても、
「お前だってそれを見るたび恥ずかしい過去を思い出せるだろ」って冗談めかして笑ったっけ。
そんな父も、今年結婚をした。相手は俺が羨ましくなるくらい気立てのいい女性だ。
結婚式のスピーチの時、俺が「星の形のにんじん」の話をしたとき、親父は人前だってのに、またわんわん泣いた。
でもそんな親父よりも、再婚相手の女の人のほうがもらい泣きしてもっとわんわん泣いてたっけ。
良い相手を見つけられて、ほんとうに良かったね。
心からおめでとう。そしてありがとう、お父さん。
ずっと嫌いだった親父
おれは今22歳の誕生日を迎えようとしている。
家族は姉、母、血の繋がっていない父がいる。
おれが7歳のとき離婚したのだ。
おれが小学校のとき学校から帰ってくると家には親父がいた。
母は働いて帰りが遅いし、姉も遊びに行ってしまっていなかった。
毎日毎日喧嘩ばかりしていた親。やさしくなんかなかった親父。
その親父がおれにファミコンを持ってきてくれた。
勿論うちは貧乏だって幼いながらわかっていた。
友達の周りにはスーパーファミコンを持っているヤツがチラホラ出てきたころだ。
でもおれは嬉しかった。
しかし感謝の言葉がうまく出なかったのを覚えている。
ドクターマリオも買ってきてくれたので二人して遊んだ。
親父はすぐ帰ってしまった。
母に来たことは内緒なと言われたがそのとき意味はわからなかった。
その日から母の帰ってくるまで毎日二人でドクターマリオをやっていた。
ただ純粋に幸せだった。
ずっと厳しかった親父。すぐ殴る親父。おれにも母にも。ずっと嫌いだった親父。
だから感謝の言葉が出なかった。
中学に上がり自然と親父とは会わなくなってきた。年に数回会うくらいに。
おれが19歳のとき、親父は大腸癌の為、亡くなった。
涙が、止まらなかった。何故か、止まらなかった。
いい思い出なんかなかったのに・・・。
今この歳になり、あのとき親父がおれにしてくれたやさしさがわかった。
淋しかったおれの為に・・・。
おれの部屋にはまだファミコンがインテリアとして置いてある。
彼女にはいい加減捨てなよと言われるが笑って流している。
捨てるわけにはいかない。大切なものだ。
素直に『ありがとう』と言えなかった後悔を忘れないために。
今いくら言っても届きはしないが、この場を借りて
ありがとう親父。
そして今日もホコリをかぶったファミコンにはドクターマリオがささっている。
もう少しだけ
それまですぐ近くにあるものでも
自分でとらないほど不精者の父が
母親が倒れてから、
人が変わったように甲斐甲斐しく看病してた
俺が世話しようとする間も与えないくらい、
まるでお前の母親の前に
俺の嫁なんだと主張するようだった
母親が逝ったのが倒れてからすぐだったので、
母親がやりかけだった食器の洗い物が
台所でそのままになっていた
俺の嫁がそれに気づいて洗おうとしたら
父が
「あ、俺がやるからいいよ、あんたも疲れてるんだから」
と言われたが
嫁は「大丈夫、すぐ終わっちゃいますから」
と洗い続けようとしたら
父が横へ来て
「もう少しだけ、そのままにしておいてくれるかな」
と照れ笑いをしながら言ったそうだ
少し泣いた
子連れ同士の再婚
腹違いの兄貴が居る。
俺小学5年、兄貴大学生の時に子連れ同士の再婚。
一回り近く年が離れていたせいか、何だか打ち解けられないまま。
大学入試の時、入学金の事親に言えないでいたら、兄貴が知らない内に払っていた。
俺「気を遣わないでよ。いざとなれば働けば…」
兄貴「馬鹿野郎。俺はお前の兄ちゃんだ。」後でちょっと泣いた。
姪っ子が大怪我した時、限界まで輸血した。
兄貴「もういい止めろ。死んでしまう」
俺「うるさい。俺は○子の叔父さんだ」義姉共々泣かした。お返しだ。ザマミロ。
姪っ子の結婚式の時、「私にはお父さんとお母さんと、叔父さんの血が流れています」
って言われて図らずも号泣。兄貴夫婦以上に号泣。大恥かいた。
○子綺麗だったなあ…。
1004
僕の親父は本当に無口な人間でした。
近所付き合いも下手でマジで、
人間としておかしいんじゃないかと思うくらい静かな人間でした。
僕が物心ついた時から親父は仕事人間で
親父と母ちゃん、僕と弟の四人で出掛けた事は一回しかありません。
客観的に見たら、ものすごいダメな父親なんでしょうけど
今思えば、これほどまでに男としてカッコイイ親父は、
日本中どこ探してもいないんじゃないだろうかと思っています。
僕は小さい頃から野球好きで、小学生の時も地元のクラブに入ってました。
弟とはよくキャッチボールをやったんですが、
親父とはやった覚えがありません。
母親は、保母さんをやってて昼は家にはいません。
親父は夜勤だったので昼は家で寝てます。
なので友達を家に呼ぶ事は許されませんでした。
僕はそんな親父が本当に本当に大嫌いで正直な話、
ぶん殴ってやろうと思った事も何度もありました。
弟も親父の事は嫌いでした。
なのでよく2人で小さい頃親父の部屋をメチャメチャにしたりと
くだらない反抗をしていました。
でも親父に怒られた事は一度もありません。
練習試合の時は、
母は仕事とかで来れない事が多かったのですが
来れる時は必ず来てくれました。
しかし親父は一度も来てくれた事はありませんでした。
僕が覚えてる中で一回だけ親父に叱られた事があります。
それは小5の時の林間学校の出発当日。
僕は冗談半分で夜勤から帰って来た親父に
『俺このまま帰って来ないかもしれねーよ』と言いました。
すると親父の目つきが一気に変わり
『そういう事は言っちゃだめなんだ』と静かに、
しかしものすごい重い言い方で言われました。
笑えるかもしれませんが、
親父に叱られたのは後にも先にもこの一回だけだったと思います。
2年前、2008年の11月4日の朝
僕は高校3年になってました。
弟は三つ下なので中3。
普段通り朝6時に起きて、
朝飯食って歯磨いてさぁ学校へ行こうと玄関へ向かいました。
母ちゃんに「行ってきます」と言うと、
母ちゃんも「気をつけなさいよ!!」と普段通りの朝でした。
扉を閉め鍵をかけ、エレベーターへ向かいます。
エレベーターが六階まで上がって来るのを待っていました。
すると大きな声で『幸正!!!!!!』と僕の名前を呼ぶ声がしました。
僕は慌てて家の方を見ました。
すると母ちゃんの顔が凍りついたようにかたまっていました。
『お父さん事故・・・・・』と呟くと
母ちゃんは扉を開けたまま玄関に倒れこんでしまいました。
僕は慌てて玄関へ向かい母ちゃんを抱き抱えました。
『病院・・・行かないと・・・お父さん・・・』と言いながら
母ちゃんはものすごい勢いで泣き崩れました。
弟も部屋から飛び起きてきて、事の重大さに気付き玄関へ走ってきました。
僕ら3人は病院へ向かおうとしたのですが、
母ちゃんがとても運転出来る状態では無かったのでタクシーを呼んで行きました。
病院についたらもう何もかも終わってました。
ドラマで見た事のある光景でした。本当に信じられませんでした。
親父の顔には白い布。白い布団を被され、頭のとこには線香。
母ちゃんは何が何なのかわからず泣き喚いていました。
ただ僕は涙が出ませんでした。その時は正直悲しくなかったんです。
弟もそうみたいでした。僕は2人は顔を見合わせたんですが
どうしたらいいのかわからない状況でした。
一ヶ月半がたちました
お通夜もお葬式も終わって、もう普段の生活に戻っていました。
人間の死ってあっけないなぁと思っていました。
死んだ人はどこに行くんだろうとかそんな変な事を考えていました。
世間はもう年越しシーズンで賑わっています。
うちも3人で大掃除をする事になりました。
母は親父の部屋は見たくないという事だったので、
僕と弟が親父の部屋と自分たちの部屋を
担当する事になりました。
親父の部屋はまだ誰か暮らしてる感がプンプンしてて
お化けが出そうだなとか弟と2人で言い合ってました。
弟が親父の部屋のロフトの掃除を始めました。
僕は親父の布団を片付け、いらない物をゴミ袋に捨てていました。
10分か15分くらい経ったでしょうか。
スースー何かを吸う様な変な音が部屋に響いていました。
何だろうと思い耳を澄ましてみると、
それはロフトから聴こえてきました。
ロフトへ行ってみると弟がいました。
弟は背中を丸めながら泣いてました。 弟の泣き声でした。
泣くというか、もう死にそうなくらい涙を零してうずくまっていました。
『どした?』と言いながら、僕は弟の目の前にあった何かを見てみました。
『会社の物なので絶対に触るな』と書かれた紙が一枚貼ってある金庫でした。
開けようにも数字を合わせてあける鍵なので、
開かないだろと思っていたらもうすでに開いてました。
『お前開けたの?』と弟に言うと
『あぁ』と泣きながらうなずきました。
数字を見てみると『1004』。
なんの数字だろうと思って弟に『お前なんで分かったの?』と聞きました
すると『兄ちゃんと俺の誕生日』と弟は小さな声で呟きました。
僕の誕生日は6月の10日。弟の誕生日は6月の4日。
親父はどうやらちゃんと俺らの誕生日を覚えてたんだなぁと思い感心しました。
箱の中を見てみました。
まず出てきた物
『幸正 2年 5月22日』 『幸正 2年 6月16日』
このように僕の名前と○年 そして月日が書かれたテープが出てきました。
3分くらい考えて僕はあっ!!と思いました。
これ僕のクラブチームの練習試合の日にちでした。
だって一番最後に
『幸正 6年 8月1日 頑張ったな幸正』と書かれたテープがあったんです。
僕が少年野球辞めた日です。
しかもこの日は練習試合でもなんでもなくただの練習です。
それを見てものすごい勢いで泣いてました。
あとは弟の表彰状やら、誕生日にあげたフリスクケース、
色々出て来ました。全部俺たちの思い出のもの。
2人でロフトで泣きました。
一度だって練習試合見にきてくれなかったくせに。
全然関心ないそぶりしてたのに。
こんなもの大事にしまってるなんて恥ずかしがり屋な親父らしいなと。
母親にそれを言うと母親も泣き崩れました。
そして急に少しまじめま顔になり、僕らに話す事があると言って来ました。
『実はお父さんはねぇ・・・・・・本当のお父さんじゃなかったのよ』
と一言呟きました。
本当の父親は、弟が母ちゃんのお腹にいた時に蒸発したらしいです。
親父はその時の母ちゃんのバイト先の先輩。
そんとき途方にくれていた母ちゃんの支えになってくれた。
そして俺たちの父親になってくれた。
だからなのか。
無口だったんでなくて、
本当は親父は僕たちと話したかったんじゃないか。
なんでもっと会話しなかったんだろうとか・・
そんな事いまさら言い出してもキリがないです。
だけど一言だけ親父に言いたいです。
本当にごめんなさいとかありがとうとか
そんなんじゃなくて 一言だけ
『あなたは何が何だろうと僕らの父親です!』
世界一カッコイイ男に育てられた僕ら兄弟は幸せ者です。
コメント