母親の泣ける話 – 感動エピソード【2】
リンゴが食べたい
私は、2歳のとき父を亡くしました。
以来、私をひとりで育ててくれた母も私が中学二年生の時、突然の心臓病でなくなりました。
その日の話です。
近所のスーパーに勤めていた母ですが、学校から帰ると勤めを早退した母は床に臥していました。
「お母さん、どうしたの?」
と聞くと
「心配しないでもいいよ、ちょっと風邪をこじらせただけだから」
とか細い声で答えました。
昨日からなにも食べてない様子だったので
「なにか買ってこようか」
と聞くと
「おまえも今、期末試験中で大変なのに、いいの?もし、よかったらリンゴが食べたい」
「じゃあ、すぐ買ってくる」
リンゴを買って家に着いたとき、母はもう死んでいました。
枕元に、ほんのわずかな時間に、苦しみながら書いた母の言葉の走り書きがありました。
「哲、ひとりになってもお母さんお父さんはいつもおまえを守っているよ ありがとう」
とありました。
私はそれ以来、リンゴを食べることも、見ることさえもできなくなりました。
あれから九度目の桜を見る季節がもうすぐやってきます。
私にとっての桜の季節は、ただリンゴをにぎりしめながら泣きつづけた日々の思い出なのです。
沖縄に行こうよ
「沖縄に行かない?」
いきなり母が電話で聞いてきた。
当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。
「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。
「どうしても駄目?」
「今大事な時期だから。就職決まったらね」
「そう・・・」
母は残念そうに電話を切った。
急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。
それから半年後に母が死んだ。癌だった。
医者からは余命半年と言われてたらしい。
医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。
父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。
沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。
叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。
パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。
絵日記には
「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。
ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」
・・・というような事が書いてあった。すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。
自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。
というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。
母はそれをずっと覚えていたのだ。
そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。
自分は母が電話をしてきた時、どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。
もう恩返しする事が出来ない・・・
涙がぶわっと溢れてきて止められなかった。
カーチャンやさしすぎるぜ
俺も5年ほど前に2年くらいひきこもりやってた。
親にパラサイトして外出は一週間に一回、ジャンプ買いに行く時だけ。
当然、家事なんて一切やらなかった。
そんな俺でもカーチャンは、俺の事を信じてずっとやさしく、何も言わずに見守ってくれてたんだよ。
ひきこもる以前は、ちゃんと仕事してたから、貯金も200万くらいもってたので、2年くらいは何とかなった。
でも、2年たった時に、その貯金も底を尽きて、もう何もかも嫌になって本気で自殺しようと思ったんだ。
ある日、ネットで購入した睡眠薬を大量に飲んだ。本気で死ぬ覚悟だった。
でも、幸か不幸か、そのネットで買った薬が個人輸入代行業者でよくある偽薬だったようで…
もう2度と迎える事がないと覚悟した朝を迎えてしまったんだ…
そして目覚めてしまった朝に布団の中で絶望した。
もうこのまま、ベランダから飛び降りようかと思った瞬間、
カーチャンが
「○○○~朝ごはんできたよ~おきろ~おいしいご飯がさめちゃうよ~」
って…
本気で涙がドバドバあふれ出してきた。
どうしてカーチャンは、こんな人間のクズのような俺に、ここまで優しいんだってね。
いま死んだらこんなに優しいカーチャンに恩返しできないじゃないか!!
いま死んだら、こんなに迷惑をかけてしまったカーチャンに、またさらに迷惑かけっぱなしじゃないか!!
本気で思った。
その日から、とりあえずアルバイトからでも始めようと即、派遣会社に登録して次の日から仕事を始めた。
あれから5年。
今は、派遣先の会社で認められて正社員をやっている。
給料はそんなに多くないけど、カーチャンにも生活費として毎月10万わたしてる。
カーチャンはいまでもかわらず、毎日ニコニコして俺にいろんな話をしてくる。
そして最近知ったが、俺が毎月渡してるお金も使わずに貯金してくれてるようだ(兄弟経由で聞いた情報)
カーチャンやさしすぎるぜ…一生俺が面倒みてやるから安心しろ!
あのハンバーグの味
俺の母さんは、生まれつき両腕が不自由だった。
なので料理は基本的に父が作っていた。
でも遠足などで弁当がいる時は、母さんが頑張って作ってくれていた。
でも、小学校6年の時の遠足で、見た目が悪い母さんの弁当を友達に見られるのが嫌で、とうとう
「弁当はコンビニで買っていくから、この弁当はいらない!!」
と言ってしまった。
母さんはそんな馬鹿な俺に、ただ
「うまく作れなくて、ごめんね」
としか言わなかった・・・・。
時は過ぎ、小・中は給食だったのだが、高校になってからは給食はないので、いつも昼は購買のパンですませていた。
しかし、高校2年生になったある日、母さんが
「弁当を作る」
と言い出した。
遠足の時に作ってくれたものとは違い、味も見た目もよくなっていた。
『不自由な手で、一生懸命作ってくれたのだ』と思っていたのも、つかの間だった。
母さんは、肺炎で入院したかと思うと、ぽっくり逝ってしまった。
弁当を作り始めてから3ヶ月しかたたぬうちに・・・。
母さんが死んだ後、親父から聞いたのだが、どうやら母さんは俺のために、定食屋をやっている知り合いの所に、一年間料理を習いに行っていたらしい。
そして後日、その定食屋に行ってみた。
定食屋のおばちゃんと俺は直接のかかわりはないけど、やさしそうな人だった。
そして母がよく弁当に入れていたハンバーグの定食を頼んだ。
そして、それを口にしたとたん、ボロボロと涙がこぼれてきた。
たった3ヶ月しか食べられなかったけど、確かに母さんのハンバーグの味にそっくりなのだ。
腕がまともに動かせないのに、頑張って作ってくれた『あのハンバーグの味』。
形は少し不細工だったけど、とてもおいしかった『あのハンバーグの味』。
付録
小さい頃さあ
紙石鹸が好きだったんだよな
たまたま小学○年生の付録についてきたんだ
そんで紙石鹸もっと欲しいからカーチャンに買ってくれって頼んだらさあ
スーパーいっても薬局行っても無かったって言われた
だけど半紙に石鹸水染み込ませて俺のためにいっぱい紙石鹸作ってくれて
でも俺、あれ全部捨てちゃったんだよな
こんなの紙石鹸じゃないって怒ったんだよなー
今カーチャンは糖質だ
そんで病院にいる
いつもすごい暗い顔してる
でもこないだとても明るかったからなんだろうと思ったら
病院の売店に紙石鹸があったって言って、いい歳こいた俺にいっぱいくれたよ
馬鹿かよ
ごめんクソつまらねえ
語りたくなった
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