月蛍
高校1年の秋。
その日、授業が終わって帰ろうとしたら、校門の所で山岳部2年の石田先輩に捕まった。
「これこれ、何処へ行く気かな?今から来週の割り振りするっちゅうのに…」
山岳部が、恒例の体育の日の『誰でも参加1泊キャンプ』を企画しているのは知っていた。
俺は山岳部ではないが、1年生部員の大半が同じ中学出身と言う事もあって、ちょっとした山行には
一緒に連れて行ってもらう事が多く、何となく部外部員のような形になっている。
「あ、先輩。俺、今回はパスなんで。ちょっと真面目にバイトやんないと、金がない…」
「はいはい、部室で聞くよ」
言い訳も何もない。既に俺には、荷物運び&炊事係と言う役目が決まっていた。
小さな駅を降りると、辺り一面に広がる収穫間近な金色の田んぼ。その所々に赤く燃える、畦道の
ヒガンバナ。点在する家々の庭に植えられた柿が、お日様の鈴のように生っている。
そんな里の中の道を抜けた所から、通称クロソ山の登山道は始まっている。
標高はほんの600メーター程、決して高い山ではない。けれどもこの季節、中腹では紅葉が見られ、
頂上付近のキャンプ場の周囲には一面のススキ野原が広がる、景色の良い所だ。
今日の参加人数は40名。山岳部が2年10名、1年は俺を含めて8名。
俺と、親友で山岳部の梶は、俺の同級生で山岳部の星野が連れて来た小学生の従妹たちに、何故か
気に入られたようで、ずっと並んで歩いていた。
俺の方が姉の芽衣ちゃん、小5でヒバリのようによく喋る。
梶の方が妹の萌ちゃん、小3で姉とは対照的に無口な子だ。時折、梶とぽつんぽつんと話している。
自然林の中の緩やかな坂道を2時間余り登っていると、鮮やかな紅に燃えるナナカマドに出会う。
道はやがて、展望の開けたクマザサ道へと変わり、小さなアップダウンを繰り返しながら、樹齢
数百年の大杉とその側にある小さな鏡池の側に出る。
そこで遅いお弁当を使い、1時間程休憩して再出発。頂上まではもうさほどかからない。
道の周囲がススキに変わり、少し行った所にキャンプ場がある。少し離れた所でテントを張る事も
出来るが、今回は『誰でも参加』なのでバンガローを借りていた。
秋の日は釣瓶落とし。
あっと言う間に日が落ちると、たちまち空気がひんやりして来る。
そんな時に薪の明かりとパチパチ爆ぜる音、火の温もりはとても人を引き付ける。
バーベキューが終わっても、みんなバンガローに戻ろうとはせず、その場であれこれ賑やかに話を
していたが、薪が残り少なくなってくると、それに合わせるように段々減り始める。
俺たち1年は頃合を見て片付けにかかった。そこに、芽衣ちゃんと萌ちゃんが俺と梶の側に付き、
何かと手伝いをしてくれる。俺たちの邪魔だろうと星野が、
「芽衣、萌、おまえらもうあっち行けよ」と言えば、逆に芽衣ちゃんに
「アツ兄、うるさい。あっち行って」と、返される始末。
他の人はみんな建物の中に戻ってしまい、最後は火の始末をするだけになった。
空にはいつしか大きな月。中秋よりの頃より、ずいぶん透明度を増している。
夕暮れに、オレンジから金へのグラデーションで出来ていた世界は、今や銀と黒で彩られている
空間を埋めるのは、水晶が響きあうような澄んだ虫の音。
「こんなもんでいいか」
梶にそう声をかけた時だった。月影が、一瞬翳ったような気がした。
「あ…」芽衣ちゃんと萌ちゃんが同時に声を上げ、顔を見合わせる。
(何だ?)梶の目が俺に問いかけてくる。
「変な感じだった、今」芽衣ちゃんが眉間に軽くしわを寄せれば、
「お月様が揺れた…」と、不安そうな萌ちゃん。
手を止め、黙ってしまった俺たちに、星野が不思議そうな顔をする。「ん、どうした?」
こいつだけではなく、俺たちが感じた事を、他の連中は全く感じていないらしかった。
ぶぅわッくシュン!!うぉい!
伊藤がいきなり派手なくしゃみをし、手の甲で鼻を擦する。
「どおー、寒!中入ろうぜ」
それをきっかけに、梶が子供たちに声を掛けた。
「さ、おしまい。中へ入ろう」
間もなく、消灯時間になった。
直ぐに寝息を立てる奴の横で、小声で雑談を続ける奴らもいたが、やがて夜更けと共に静かになる。
俺は上着を引っ掛け、みんなを起こさないよう、そうっと表へ出た。
相変わらず、月は静かに世界を照らしている。
アッシュ・ブルーの竜雲が、悠々と天空を行く。
月影の下、地上では、白銀色に輝く幾千ものススキの穂。ときおり通う風にそよいでいる。
空を見上げる俺の背後から、すたすたと足音が近づいて来た。言わずと知れた我が親友。横に並び、
当たり前のようにほい、と煙草を寄越す。ついでに火も借り、そのまま一服、二服。
俺たちの紫煙が雲に重なる。
「…どうかしたか?」
「月蛍が見られるかな、と思って…」
「つきほたる?」
俺たちの背後から、パタパタ軽い足音がダブって聞こえた。
「不良!!」大声で、あまりにも直截的な指摘を受け、俺と梶は思いっきりむせ込んだ。
芽衣ちゃんと萌ちゃんだった。
「いっけないんだー!高校生なのにタバコなんか吸っちゃって…不良!」
腰に手を当て、芽衣ちゃんが俺たちを睨む。萌ちゃんは黙って後ろで控えている。
「こんな時間まで起きてたのか?」梶が聞く。
「だって寝られないんだもん、他の人寝てるけど、静か過ぎて気味が悪くて…萌も寝られないって
言うし…」
たぶん、部屋へ帰れと言っても、これは一歩も引かないだろう。
「じゃあ、ここで少しお月見して、それから部屋へ戻ろう」
「そうね、それがいい」子供だが、いっぱしの口を利く。
「その代わり、眠たくなったらすぐに言う事」
そう言いながら、梶が自分の上着を脱ぎ、萌ちゃんに着せ掛けてやった。俺もそれに倣い、自分の
上着を芽衣ちゃんに羽織らせる。
しばらく二人のおしゃべりに付き合っていると、月影がトクン、と脈打ったような気がした。
「あ、また」芽衣ちゃんが口を開きかける前に、俺は急いで言った。
「始まるよ、見てればわかる。静かにね」
トクン、再び月影が脈打った。
天上から投げかけられる月光が一瞬翳り、霧雨のような光の粒が、一面のススキの上に降り注ぐ。
音もなく、しんしんと、ただ降り積もる微粒子。
ススキの穂も葉も、全てが真珠色の光沢を放ち始める。
「きれい…!」芽衣ちゃんと萌ちゃんが小さな声を上げる。
そんな事とは知らぬげに、虫の音は続いている。
言葉もなく見守る俺たちの前で、やがて、それらはふっつりと降り止んだ。
すぅっと風が通り過ぎる。
すると、ススキの上に万遍なく積もっていたものが、小さく粒に丸まって穂に集まり始め、地上には、
たちまち数知れぬ玉珠華が現れる。
「うわぁ…!」子供たちから歓声が上がる。
天上から発せられる艶めいた月光。受けては返す地上の光珠。
澄んだ虫の音に、風にそよぐ光珠が触れ合って発する、鈴のような音色が加わる。
天と地と、冷たくも柔らかい光の応酬が続く中、大きなアッシュ・ブルーの雲がゆっくり夜空を蔽い、
月をその背後へ隠してしまった。
ほの暗がりの中、地上の真珠たちは黒真珠へと姿をかえ、なおも輝き続けようとする。
突然、ある一粒が強い朱鷺色に輝いた。
それが合図だったのか、あちこちで同じような小さな光が明滅し始める。
本物の蛍のように強く弱く、命の歌を歌うように光っている。
「すごい…!」梶でなくても感嘆する、美しい光景だ。
月蛍の名はこれに由縁する。
最初、銘々勝手に光っていた月蛍だが、そのうち、互いの呼吸を確かめ合うように、明滅の早さが
揃い始める。そこから外れるものたちの数が段々減って行き、とうとう全部の明滅が完全に揃った。
…輝…闇…輝…闇…輝…
その時、懸かる雲が過ぎ去り、再び月が姿を現した。
白銀の光に射抜かれた月蛍たちは、炎の色を保ったまま。
不意に、俺たちの髪を乱す程、少し強い風が吹き抜けた。
玉珠華たちは、ぐっと踏ん張ってそれを堪えたが、次の瞬間、自ら大きく身じろいだ。
すると、月蛍たちが次々に真珠色の小さな粒になり、ふわりと風に乗って昇り始めた。
不思議な、光の粒が集まって、やがて何時しか流れになる。
その天の川が目指すのは、天空で白々と強い光を放つ銀の月。
煌く光の帯が、最後の最後、紺碧の夜空に浮かぶ月輪の中へ完全に溶けてしまうまで、俺たちは
黙ってそれを見つめていた。
夢見顔の子供たちを部屋まで送り届け、俺たちは再び表へ出る。
今はただ、雲に半ば隠れた月と、何の変哲もないススキ野原に、虫が鳴いているばかり。
月蛍は、生まれなかった魂、夭逝した魂だと聞いた。
それらが、神無月の夜、美しい月の光に乗って現れる時がある。
ススキに宿る訳は、穂の形が、優しく背を撫で、癒してくれる母の手を思わせるから。
送り出されて天に還れば、また人に生まれてくる事が出来ると言う。
俺がそう話すと、梶の瞳が潤んだように見えた。
「…次は、幸せになれるといいな」
「そうだな…」
俺たちの紫煙が、風に乗って流れて行った。
コメント