道理
10年ほど勤めた会社を辞めた。
その間の事情は関係ないんで省くが、それなりに貯金もあったし再就職を誘われてもいた。
家族があるわけでもないし、数ヶ月は精神的な充電と体のメインテナンスにあてようとジム通いを始めた。
やってみたら思った以上に体がなまってることがわかった。ただランニングマシンは単調で好きになれない。
そこでジョギングをしようと思った。日中は気恥ずかしいので夕方から走ることにした。
コースはたしか河原沿いに市が造ったランニングコースがあったはずなので、スポーツウエアて行ってみた。
そこに来るのは数年ぶりだったが、ホームレスの青テントが増えているんで驚いた。
前は数百メートルおきに一つくらいだったのが、数十に増えてる。どこかの公園から追われてきたのかもしれない。
走る人はほとんどいない。これはちょうど会社からの帰宅時間頃のせいなのかもしれないが、
ホームレスが増えて治安に不安があるのが大きいのだろうと思った。
ゆっくり走っていると前のほうで人だかりがしている。炊き出しのようだった。
薄暮の中を近づいて見ると、20代後半くらいの男女が5~6人、長机にカセットコンロを置いて鍋をかけ、
十数人の列に並んだホームレスにおかゆのようなものをふるまっていた。
名前はわからないが外国のハーブのようなにおいがあたりにただよっている。
その男女は皆、白いトーガ?のようなものを着てそれには胸に一字梵字のマークが入ってる。
何かの宗教団体の事前行為なのだろうと思った。
そのとき立ち止まっていた俺の肩を後ろからかすめるようにして、足早に前に出て行った人がいた。
僧侶のような衣の大柄な人物で、髪は剃っておらずオールバックにしていた。
僧侶風の人は炊き出しの机の前に来ると、「まだこんな非道なことをしてるのかっ!」と一喝した。
宗教団体のメンバーは、その人の存在がないかのようにそちらを向くこともしなかったが、
続けてその人が呪文のような声をたてると体ががくがくと揺れた。
列に並んでがやがや話していたホームレスの人たちは困惑したように押し黙った。
すると宗教団体の簡易テントの後ろから、
スーツを着た中背のサラリーマン風の男が歩いてきて僧侶風の前に立った。
僧侶風はリーマン風に向かって「いつまでこんなことを続ける。復活などあたうものではない
この世に必要がないのはお前たちのほうだ」と怒鳴りつけた。
リーマン風はまったく意に介した様子もなく、
「あなたとはいく道が違うんです。それにこの宗教団体の人たちは何も知らないし、もう必要分は済みましたから」
と激する風でもなく、ごく事務的な口調で言った。
そして「じゃまする気でしょう。べつにいいですがうまくいきますかねえ」そう付け加えると、
若い男女にかたづけろというような合図をし、今度は列のホームレスのほうを向いて、
「みなさん!炊き出しは終了です。すみませんね、このお坊さんがやめろと言うので。また来ますよ」そう告げた。
男女らはあわただしく片付けをはじめ、ホームレスたちは不満をもらしながら散らばっていった。
それからしばらく僧侶風とリーマン風は向き合っていたが、
リーマン風はくるりとふり向いて、テントのほうにゆっくり歩み去った。
僧侶風は「けっ!」というような声を出して、
それから後ろに立っていた俺に始めて気がついたというように声をかけてきた。
「あんた・・・こちらが非道い人間だと思ってるだろう。せっかくの炊き出しをやめさせるなんてな」
「まあどちらがどうかなどどうでもいい。それよりやらなくてはいけないことができた。
道理を直すために。あんた午前2時頃にここにこれるか?手伝ってもらいたいことがある。
あんたが想像もできないようなことが見られる」その口調には有無をいわせない呪文のような響きがあった。
夜中の2時なんてキチガイ沙汰だと思ったが、どうせ明日何かやることがあるわけでもない。
それにまだ寒い季節でもないし、ここまでの出来事を見ていて好奇心がわき上がってもきていた。
それで「・・・いいですよ」と答えてしまった。
2時前に懐中電灯と半分に短く切った木刀を持って約束していたランニングコース脇の休み屋に向かった。
川向こうの町並みもおおかた消えていて物音はほとんどしない。
月はないが街灯がコース沿いにいくつかあって真っ暗というわけではない。
休み屋では僧侶風の男が待っていたが、俺の手にしている半木刀を見てせせら嗤うように、
「そんなもの持ってきたのか、不審尋問されたらまずかっただろう。それに物理的な力は役にたたない」と言った。
俺が「剣道をやってたんで、まあ・・・」とあいまいな答えをすると「ふん、修行は少しは役に立つか」と鼻を鳴らした。
それから俺をうながして、ホームレスのテントが固まっている一画に歩いていった。
そこは川沿いに木立が少しあって風がいくらか防げるようだ。ホームレスたちも完全に寝静まってる。
「もうすぐ川をお迎え船が流れてくる。あの炊き出しのお粥がさそい水になってるんだ。
粥を口にしたものの大半はのっていってしまうだろう」
そうささやいてきたが、意味がわからないのでだまっていた。
川は両岸が笹などの藪で、そこは大きく蛇行した先になっててある程度までしか流れは見えない。
そのときかすかにトントンと机を指で叩く音が聞こえてきた。そしてその音はだんだん強くなっていく。
法華の太鼓を連想させるような音だ。「そら来るぞ」と僧侶風がいった。
何かが川の蛇行を曲がって流れてきているようだ、白っぽくて大きいものではない。
僧侶風が俺をうながして草の中を水面近くまで走って近づいた。護岸ブロックがあるところまでくると足元がしっかりした。
流れてくるものが見えてきた。1mくらいの木と紙でできた船。
前にテレビで見た、紙の武者人形と子どもの願い事を書いた紙をのせた鹿島流しという伝承行事の船に似ている。
それが十数個、どこにも引っかからず集団で流れてくる。船の上には埴輪のような小さな泥人形がひしめいて立ってる。
そのとき、ホームレスたちのテントから動くものの気配がする。
一つまた一つと四つんばいの影がテントから出てきて近くの水面に向かっていく。
俺たちにやや近いところにきたホームレスがテトラポットの上に寝そべって顔を出し、声を上げて吐き始めた。
あちこちで嘔吐の声と、どこから聞こえるのかわからない太鼓の音がする。
「時間がない」僧侶風はそう言って懐から金色に見える棒を取り出した。
「これを船の固まっているどこかに投げてくれ。私は肩を痛めているので届かない。
これ一本しかないから外さないように十分近づいてからやってくれ」とそれを俺に手渡してよこした。
思ったより軽く複雑な形をしている。金属に見えたが木製のようだ。
近くで吐いていたホームレスが水を飲もうとしたのか、前にはいずっていって水の中に落ちた。
そのままバタフライのような格好で体を上下に激しく揺らしている。
「まずい!もう投げろ!!」と耳もとで言われて、船団まで20mくらいか。
俺は足場を確認して慎重に投げた。棒は宙を飛んでいるところは見えなかったが。
船団の中ほどで水音がした。
その瞬間「おーーん」という魂消るような響きがして太鼓の音が消え、
船団は川の流れを無視してその場にとまり、濡れた紙が破れるようにグズグズと沈み始めた。
「破れたぞ、よし」と僧侶風が俺に向かって言った。
僧侶風がパンと手を叩くと近くのホームレスが立ち上がって黙ってテントに戻っていった。
僧侶風はあちこち歩き回って手を叩き、川に落ちている人は体の一部を無造作につかむと軽々と岸に引き上げた。
すごい力だった。俺が「肩を痛めてるんじゃ・・・」と言うと、
「そんなこと言ったか」と、とぼけた口調で答えてきた。続けて「この場はこれで済んだが、きりがないな」
そして俺の顔を見て「質問したいだろうが、答えられない。ただ・・・あんたは善根を積んだ」と言った。
ふっと川面を見ると、もう何も見えなかった。
俺が重ねて「どうして自分で投げなかったんです?」と聞くと、「剣道、十年以上やったんだろう」とだけ答えた。
後日談としては、2週間ほど後、大々的な行政の強制撤去があり河原のホームレスはいなくなった。
俺は再就職し、僧侶風にもリーマン風にもあれ以後一度も会っていない。
ただしあの宗教団体と同じと思われる人たちが駅前で募金をしているのを何度か見かけた。
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