『田舎 完全版』
909 田舎 前編 ◆oJUBn2VTGE ウニ 2007/03/07(水) 19:47:40 ID:OPG460nV0
田舎 前編
大学1回生の秋。
その頃うちの大学には試験休みというものがあって、夏休み→前期試験→試験休みというなんとも中途半端なカリキュラムとなっていた。
夏休みは我ながらやりすぎと思うほど遊びまくり、実家への帰省もごく短い間だった。
そこへ降って沸いた試験休みなる微妙な長さの休暇。
俺はこの休みを、母方の田舎への帰省に使おうと考えた。
高校生の時に祖母が亡くなってその時には足を運んだが、まともに逗留するとなると中学生以来か。
母の兄である伯父も「一度顔を出しなさい」と言っていたので、ちょうどいい。
その計画を、試験シーズンの始まったころにサークルの先輩になんとはなしに話した。
「すごい田舎ですよ」
とその田舎っぷりを語っていたのであるが、ふと思い出して小学生のころにそこで体験した「犬の幽霊」の話をした。
夜中に赤ん坊の胴体を銜えた犬が家の前を走り、その赤ん坊の首が笑いながら後を追いかけていくという、なんとも夢ともうつつともつかない奇妙な体験だった。
先輩は「ふーん」とあまり興味なさそうに聞いていたが、俺がその田舎の村の名前を出した途端に身を乗り出した。
「いまなんてった?」
面食らって復唱すると、先輩は目をギラギラさせて「つれてけ」と言う。
俺が師匠と呼び、オカルトのいろはを教わっているその人の琴線に触れるものがあったようだ。
伯父の家はデカイので一人二人増えても全然大丈夫だったし、おおらかな土地柄なので友人を連れて行くくらいなんでもないことだった。
「いいですけど」
結局師匠を伴って帰省することとなったのだが、それだけでは終わらなかった。
試験期間中にもかかわらず俺は地元のオカルト系ネット仲間が集まるオフ会に参加していた。
そんな時期に試験があるなんてウチの大学くらいなわけで、フリーターや社会人が多いそのオフ会はお構いなしに開かれた。
それなら参加しなければいいだけの話のはずだが、オカルトに関することに触れている時間がなにより楽しかったそのころの俺は、あたりまえのようにファミレスに足を運んだのだった。
その後の2年間の留年の契機がもう始まっていたと言える。
「試験休みに入ったら、母方の田舎に行くんスよ」
そこでも少年時代の奇妙な体験を披露した。
反応はまずまずだったが「子供のころの話」というフィルターのためか、オカルトマニア度の高い方々のハートにはあまり響かなかったようだ。
すぐにそのころホットだった心霊スポットであるヒャクトウ団地への突撃計画へ話が移っていった。
ところがそれを尻目に、ある先輩がつつッと俺の隣へやってきて「おまえの田舎は四国だよな」と言う。
オフでも「京介」というネット上のハンドルネームで呼ばれる人で、ハッとするほど整った顔立ちの女性だった。
俺はこの人に話しかけられると、いつもドキドキしてそれに慣れることがない。
「そうです」
と答えると、真面目な顔をして「四国には犬にまつわる怪談が多い」と言った。
そして「なんと言っても、おまえの故郷は犬神の本場だ」と、何故か俺の肩をバンバンと叩くのだった。
「犬神ってなんですか」という俺の問いに、紺屋の白袴だと笑い「犬を使って人を呪う術だよ」と耳元で囁いた。
ヒャクトウ団地突撃団の怪気炎が騒々しかったためだが、耳に息が掛かって、それがどうしようもなく俺をゾクゾクさせた。
田舎はどんなところだと聞くので、先日師匠にしたような話をした。
そして村の名前をだした瞬間に、まるで先日の再現のように身を起こして「ほんとか」と言うのである。
これには俺の方が狐につままれたような気持ちで、誘うというより半ば疑問系に「一緒に行きますか?」と言った。
京介さんは綺麗な眉毛を曲げて「うーん」と唸ったあと、「バイトがあるからなあ」とこぼした。
「コラ、おまえらも行くんだぞヒャクトウ団地」
他のメンバーから本日のメインテーマを振られて、その話はそれまでだった。
けれど俺は見逃さなかった。
「バイトがあるから」と言った京介さんが、そのあと突撃団の輪に背を向けて小さなスケジュール帳をなんども確認しているのを。
京介さんはたぶん、行きたがっている。
バイトがあるのも本当だろうが、なかば弟分とはいえ、男である俺と二人で旅行というのにも抵抗があるのだろう。
いや、案外そんなことおかまいなしに「いいよ」とあっさり承知するような人かもしれない。
「一緒に行きますか」などとサラリと言えてしまったのも、きっとそういうイメージがあったからだ。
ともかく、あと一押しだという感触はあった。
一瞬、二人で行けたらなあという楽しげな妄想が浮かんだが、師匠も来るのだということを思い出し、少し残念な気持ちになった。
しかし、師匠と京介さんというコンビの面白さは実感していたので、これはなんとしても二人セットで来させたい。
ところがこの二人、水と油のように仲が悪い。
一計を案じた。
オフ会がハネたあと、散会していく人の中からCoCoさんという、その集まりの中心人物をつかまえた。
彼女も俺と同じ大学だったが、試験などよりこちらのほうが大事なのだろう。
そして彼女は師匠の恋人であり、京介さんとも親しい仲であるという、まさに味方に引き入れなければならない人だった。
CoCoさんはあっさりと俺の計画に乗ってくれた。
むしろノリノリで、ああしてこうして、という指示まで俺に飛ばし始めた。
簡単に言うと、師匠には「師匠、俺、CoCoさん」の3人旅行だと思わせ、京介さんには「京介さん、俺、CoCoさん」の3人旅だと思わせるのだ。
いずれ当然バレるが、現地についてしまえばなし崩し的にどうとでもなる。
つまりいつもの俺の手口なのだった。
翌日、CoCoさんから「キョースケOK」とのメールが来た。
同じ日に、「なんか、一緒に来たいって行ってるけどいいか?」と、CoCoさんの同行を少し申し訳なさそうに師匠が尋ねてきた。
もちろん気持ちよく了承する。
これで里帰りの準備が整った。
そして試験の出来はやはり酷いものだった。
俺と師匠は南風という特急電車で南へ向かっていた。
甘栗を食べながら、俺は師匠に「何故俺の田舎に興味があるのか」という最大の疑問をぶつけていた。
京介さんとCoCoさんは一つ後の南風で来るはずだ。
師匠にはCoCoさんが用事があり、少し遅れて来ることになっており、京介さんに対しては、俺は一日早く帰省して待っていることになっていた。
「う~ん」
と言ったあと、もう種明かしをするのはもったいないな、という風を装いながらも、師匠は俺の田舎に伝わる民間信仰の名前を挙げた。
なんだ。
そんな拍子抜けするような感じがした。
田舎で生活する中でわりと耳にする機会のある名前だった。
別段特別なものという印象はない。
具体的にどんなものかと言われると少し出てこないが、まあ困ったことがあったら、太夫(たゆう)さんを呼んで拝んでもらうというようなイメージだ。
それは田舎での生活の中に自然に存在していたもので、別段怪しげなものでもない。
もっとも、一度か二度、小さいときになにかの儀式を見た記憶があるだけで、どういうものかは実際はよくわからない。
どうして師匠がそんなマイナーな地元の信仰を知っているのだろうと、ふと思った。
京介さんもやっぱりそれに対して反応したのだろうか。
「それ、なんですか」
窓の外に広がる海を頬杖をついて見ていた師匠の首筋に、紐のようなものが見えた。
「アクセ」
こっちを見もせずにそう言ったものの、師匠がアクセサリーの類をつけるところを見たことがない俺は首を捻った。
俺の視線を感じたのか胸元に手をあてて、師匠はかすかに笑った。
その瞬間、なんとも言えない嫌な予感に襲われたのだった。
ガタンガタンと電車が線路の連結部で跳ねる音が大きくなった気がして、俺は理由もなく車内を見回した。
いくつかの駅で停まったあと、電車はとりあえずの目的地についた。
「ひどイ駅」
と開口一番、師匠は我が故郷の駅をバカにした。
駅周辺にある椰子の木を指差してゲラゲラ笑う師匠を連れて街を歩く。
「遅れて」来るCoCoさんを待つ間、昼飯を腹に入れるためだ。
途中、ボーリング場の前にある電信柱に立ち寄った。
地元では通の間で有名な心霊スポットだ。
夜中、その前を歩くと電信柱に寄り添うように立つ影を見るという。
見たあとどんな目に会うかという部分は、様々なヴァリエーションが存在する。
話を聞いた師匠は「ふーん」と鼻で返事をして周囲を観察していたかと思うと、やがて興味を無くして首を振った。
先に進みながら師匠を振り返り、「どうでした」と聞くと、Tシャツの襟元をパタパタさせながら「なにかいるっぽい」と言った。
なにかいるっぽいけど、よくわかんない。
よくわかんないってことは、大したことない。
大したことないってことは、よけいに歩いて暑いってことだよ。
不満げにそう言うのだった。
確かに暑い日だった。
本格的な秋が来る前の最後の地熱がそこかしこから吹き上がって来ているようだった。
師匠が「サワチ料理が食いたい」と、まるでトルコに旅行した日本人がいきなりシシケバブを食べたがるようなことを言うので、昼から食べるものではないということを苦心して納得させ、二人で蕎麦を食べた。
アーケード街をぶらぶらと散策したあと駅に戻ると、ワンピース姿のCoCoさんといつもと同じジャケット&ジーンズの京介さんがちょうど改札を出て来る所だった。
「よお」と手を上げかけて、京介さんの動きが止まる。師匠も止まる。
と思ったのもつかの間、一瞬の隙をつかれてチョークスリーパーに取られる。
「何度引っ掛けるんだお前は」
頭の後ろから師匠の声がする。
口調が笑ってない。
「何度引っ掛かるんですか」
俺は右手を必死に腕の隙間に入れようとしながらも強気にそう言った。
向こうでは、踵を返そうとする京介さんをCoCoさんが押しとどめている。
俺とCocoさんの説明を中心に、師匠がよけいなことを言って京介さんが本気で怒る場面などを経て、実に15分後。
「暑いし、もういいよ」
という京介さんの疲れたような一言で、同行四人という状況が追認されることになった。
思うにこの二人、共通点が多いのが同族嫌悪となっているのではないだろうか。
無類のオカルト好きであり、ジーンズをこよなく愛し、俺という共通の弟分を持ち、それからこの後に知ったのであるが二人とも剣道の有段者だった。
俺はよくこの二人を称して磁石のS極とS極と言った。
その時もお互いの磁場の分だけ距離を置いていたので、その真ん中でCoCoさんにだけ聞こえるようにその例えを耳打ちすると、彼女は何を思ったのか「二人とも絶対Mだ」とわけのわからない断言をして、俺にはその意味がその日の夜までわからなかった。
夜になにかあったわけではない。
ただ俺がそれだけ鈍かったという話だ。
ただ一つ、そのときに気になることがあった。
さっき師匠にチョークスリーパーを掛けられた時に感じた不思議な香りが、かすかに鼻腔に残っている。
まさかな。
そう思ってCoCoさんを見たが、あいかわらず何を考えているのかよくわからない表情をしていた。
そうしているうちに、駅のロータリーに車がついた。
四人の前で作業着を着た初老の男性が車から降りながら手を振る。伯父だった。
バスなり電車なりで行けるよ、とあれほど言ったのに「ちょうどこっちに出てくる用事があるき」と車で迎えに来てくれたのだった。
ところどころに真新しい汚れのついた作業着を見て、そんな用事なんてなかったことはすぐわかる。
久しぶりの俺の帰省が嬉しかったのだろう。
俺が連れてきた初対面の3人と愛想よく握手をして、「さあ乗ったり乗ったり」と笑う。
ここから村までは車で3時間は掛かる。
車内でも伯父はよく喋り、よく笑い、それまでの険悪なムードはひとまず影を潜めた。
日差しの眩しい国道を気持ち良く疾走する車の、窓の向こうに広がる景色を眺めながら、俺は来て良かったなあと気の早いことを考えていた。
思えば、その無類のオカルト好きが二人揃って俺の帰省について来ると言い出した事態の意味を、その時もう少し考えてみるべきだったのかも知れない。
紺屋の白袴と笑われても仕方がない。
俺は、俺のルーツでもある山間部の因習と深い闇を、知らな過ぎたのだった。
だがとりあえず今のところは、ひたすらに暑い日だった。
田舎 中編
そもそもの始まりは、大学1回生の秋に実に半端な長さの試験休みなるものがぽっこりと出現したことによる。
その休みに、随分久しかった母方の田舎への帰省旅行を思いついたのだが、それがどういうわけか師匠、CoCoさん、京介さんという3人の先輩を引き連れての道ゆきとなってしまった。
楽しみではあったが、そこはかとない不安がどんよりと道の先にあるのを俺は見て見ぬ振りをしていたのだった。
駅まで迎えに来てくれた伯父の車は7人乗りだったが、助手席に伯父の家で飼っている柴犬が丸まって寝ていたので京介さんとCoCoさん、俺と師匠という並びでそれぞれ中部座席、後部座席に収まっていた。
俺としては、その柴犬がまだ生きていたことにまず驚いた。
耳の形に見覚えのある特徴があったので、その子供かと思ったのだが「リュウ」本人なのだという。
20歳は確実に超えているはずだ。
伯父にリュウの歳を聞くと、「忘れた」と言って笑うだけだった。
「こいつはドライブが好きでなあ、昔ゃよう連れてったもんじゃけんど、最近は全然出たがらんなっちょったがよ。今日は珍しい」
京介さんが頷きながら手を伸ばし、前の座席で寝そべっているリュウのお尻のあたりを撫でる。
リュウはちらっとだけ視線を向けて、また静かに目を閉じた。
車は快調に国道をとばしていた。
山間の道をひたすらに東へ進む。
右手に川が現れて、ゴツゴツした巨大な岩が視界に入ってはすぐに後方へ飛び去っていった。
「なんちゃあないろう」
何もないところだろう。
そういう伯父の言葉には変に飾ったところも、卑屈なところもなく、気持ちが良かった。
CoCoさんが土地のことなどあれこれを聞き、京介さんもいつになく口が滑らかだった。
伯父が言った冗談に師匠がやたらウケて笑い声をあげ、その余韻で楽しそうに隣の俺の肩を叩きながら顔を寄せて、表情とまったく違う冷めた調子で「ところで」と言った。
「僕が今見ているものを、伝えてもいいか」
俺にしか聞こえないくらいの小さな囁き声に、いきなり冷水をかけられたような気分になった。
日差しの強かったはずの窓の外が急に暗くなり、国道のすぐ横を流れている川は闇に消えるように水面も見えなくなった。
そしてあたりから音が消え、車のフロントガラスの向こうには黒い霧が渦を巻いている。
やがて川沿いのガードレールのあたりに、凍りついたような青白い人の顔がいくつも並びはじめた。
暗くて首から下は見えない。
顔だけがのっぺりと浮かび上がっている。
男の顔もあれば女の顔もある。
それも、大人が道路ぶちに立っているような高さのものもあれば、その半分の高さのもの、はるか見上げるような位置にあるもの、地面に落ちているもの、様々な顔が、しかしどれも無表情でこちらを見ているのだった。
そして無表情のまま、その顔たちはそれぞれ口を微かに開いている。
音もなく車の窓ガラス越しに視界は走り、手を伸ばせば届きそうな距離に、暗闇に浮かぶ顔がまるで上下にうねる様な連続体となって見えた。
それぞれの口の形は、連続することによっていくつかの単語を脳裏に強制的に想起させようとしていた。
自分の心臓の音だけが響き、俺は暗い窓の外から目を離せないでいる。
「なにを吹き込んでるんだ」
京介さんのその声に、ふいに我に返った。
世界に、音が戻ってきた。
暗かった視界も一瞬のうちに霧が晴れたように元に戻り、アスファルトの照り返しが目に飛び込んでくる。
師匠がすぅっ、と近づけていた顔を遠ざける。
「別に、なにも」
京介さんがこちらを睨む。
「あと30分くらいで着くきに」
伯父が能天気な声でそう言った。
京介さんが前に向き直ると、師匠はまた顔を寄せてきて「怖いな、アイツ」と言う。
俺はさっきの体験を反芻して、どうやら「師匠が見ているもの」の説明を聞かされているうちに、まるで白昼夢のようにリアルな再構築を脳内で行ってしまったと結論づける。
もちろん、催眠術をかじっているという師匠のイタズラには違いない。
その師匠が「僕の見ている世界はどうだった」と聞いてくる。
「あの顔はなんですか」と囁き返す。
あの幻からは”拒絶”という確かな悪意が感じられた。
ところが師匠は、それをお化けとも悪霊とも呼ばなかった。
「神様だよ」
塞の神。
馴染み深い言葉でいえば道祖神。
そんな言葉が耳元に流れてくる。
「男の顔も、女の顔もあっただろう。
双体道祖神といって、それほど珍しくもない男女2対の道の神様だ。
辻や道の端にあり旅人の安全を祈願すると同時に、村や集落といった共同体への異物の侵入を防ぐ役割を果たしている。
たぶんこの道路沿いのどこかに石に彫られたものがあったはずだ」
「……異物ってなんですか」
俺の問いに師匠は可笑しそうに囁いた。
「疫病とか悪霊とか、ソトからもたらされる害悪の源。鬼はソト、福はウチってね。
幸いをもたらすものは歓迎し、災いをもたらすものは拒絶する。
道祖神はその線引きをする、果断な性格の神様だね」
もちろんウチにいる者にとっては、何も気にする必要のない、無害な神様さ。
師匠はそう言って嬉しそうに続ける。
「僕くらい、いろんなビョーキを持ってソトからやってくる人間は別だけど」
ビョーキ。
ここではなんの隠語なのか、すごく気になるところだったが師匠は京介さんの視線を感じたらしく、また自分の座り位置に戻っていった。
車は国道から離れ、村道だか県道だかの山道へと入っていった。
窓の外いっぱいに広がる緑の木々を視界の端に捕らえながら、俺の頭の中には『僕の見ている世界』という単語がへばりつく様に離れないでいた。
師匠はいつも、あんな底冷えのするような悪意の中を生きているのだろうか。
伯父がまたなにか冗談を言ってCoCoさんが笑い声をあげたとき、師匠がふいに顔を寄せ、囁いた。
「あんなに強いのは珍しい。これも土地柄かな」
車が、ようやく止まった。
思ったより早く着いた。
道がよくなったのだろうか。
連れてこられたことしかない自分にはよくわからなかった。
「さあ降りとうせ」という伯父の声に、俺たちは外に出る。
見渡す限りの山の中だ。
目を上げると、谷を隔てた山向こうの峰はなお高い。
思わず小さいころよくやった「ヤッホー」という声をあげたくなる。
そして懐かしい伯父の家が、ささやかな石垣の中の広い敷地に、昔のままで立っていた。
それは子供のころは、「おばあちゃんの家」だった。
高校1年生の時に祖母が亡くなるまでは。
その時の滞在は、葬式のために慌しく過ぎてしまって、あまり印象が無い。
「ヘェヘェ」と疲れたような声を出して、リュウが足元を通り過ぎようとした。
ガシッと捕まえて、顔を両手でグリグリと揉む。
「こらおまえ、葬式ン時もいたか?」
されていることに全く関心が無い様子で、何も言わずにされるがままになっている。
「あらあらあら」
という甲高い声とともに、家の玄関から布巾で手を拭きながら伯母が出てきた。
その後は、久しぶりに会った親戚の子どもに対するごく一般的なやりとりが続き、連れの仲間たちの紹介を終えて、ようやく俺は伯父の家の畳の上に尻を落ち着けた。
「みんなお昼は食べたが?」という伯母の言葉に頷くと、「じゃあ晩御飯はご馳走にしちゃおき、体でも動かしてきぃ」と言われた。
それに適当に返事をし、あてがわれた部屋に荷物を置くと、とりあえず大の字になって、車内でずっと曲げっぱなしだった足を思う存分伸ばす。
さすがに田舎の家は広い。
記憶の中ではもっと広かった。
2階建てのその家は、大昔に民宿をしていたというだけあって、部屋の数も多い。
俺たち4人全員に一部屋ずつあてがっても十分足りたのだろうが、男2女2ということでふた部屋を間借りすることにした。
「広れェー」と言いながら師匠と二人でゴロゴロ転がったあとで、廊下を隔てた女部屋を覗いた。
襖の隙間に片目を当てながら、「おい」「どっちが広い」「おい、こっちの部屋より広いか」などという師匠の声を背中で受け流していると、いきなり中から現れた京介さんに「死ね」と言われながらドツかれた。
すごすごと部屋に戻ると玄関の方から若い男の声が聞こえた。
出て行くと、近所に住む親戚のユキオだった。
顔を見ると懐かしさがこみ上げてくる。
子供のころは夏休みにこの家へやってくるたびに遊んだものだ。
どうしてる、と聞くと「役場で、しがない公務員じゃ」と、はにかんだように笑う。
そういえばたしか俺より2つ歳上だった。
「じゃ、今は昼休みじゃき、また晩にでも寄るわ」
ユキオはそう言って家にも上がらずにスクーターにまたがった。
どうやら仕事に戻った伯父が、道ですれ違いざまに俺が来てることを話したらしい。
時計を見ると、15時をだいぶ回っている。ずいぶんと大らかな昼休みだ。
「さあ、これからどうしましょうか」
4人で集まって、何をするか話し合った。
じっとしていると背中に汗が浮いてくる。
男部屋は窓を大きく開け放ち、クーラーなどつけていない。
「らしき」ものはあるが、スイッチを押しても反応はなかった。
「泳ぎに行きましょう」
という俺の意見に、全員が賛成した。
旅行に発つ前にあらかじめ、水の綺麗な川があるから泳げるような準備をしておいてくださいと伝えてあったので、一も二もない。
少し山を下るので、伯父の家の車を借りた。
向かう先に着替える場所がないので、部屋で水着に着替え、服を羽織って出かけることにした。
師匠が来た時とは別の白いバンのハンドルを握り、他の3人が乗り込む。
蝉の声の中を車は走り、くねくねと山道を下りていくとやがて一軒の家の前に出た。
「ここに止めてください」
川の近くには車を止められそうなところがない。
いつもこの家の敷地の端を借りてとめさせてもらっていた。
車を降りた。
暑い。
蒸すわけではなかったが、とにかく日差しが強かった。
サンダルに履き替えた足が気持ちいい。
舗装もされていない田舎道を、「次暑いって言ったヤツ罰金」などと言い合いながら歩いていると、それなりに仲間らしく見えるのだから不思議だ。
つい数時間前に、「どうしてコイツがいるのか」と師匠と京介さん、ともに喧嘩腰だったのを忘れそうになる。
わりとねちっこい師匠に対して、さっぱりしている京介さんの大人の対応が奏功しているように思えた。
見通しのいい四つ辻に差し掛かったとき、ふいに俺の前を歩いていた京介さんが「アツッ」と言ってしゃがみこんだ。
師匠が嬉しそうに「今暑いって言った? 暑いって言った?」と言いながら振り返る。
「言ってない」
京介さんはすぐ立ち上がり、右足を気にしながら、なんでもないと手を振ってみせる。
CoCoさんがどうしたのと聞き、京介さんは歩き始めながら「何か踏んだかも」と答える。
そんなやりとりのあと、数分とかからずに川に辿り着いた。
山に囲まれた渓谷の中に、ひんやりとした水面がキラキラと輝いている。
昔とちっとも変わらない、澄んだ水だった。
カラカラに乾いた大きな岩の上に服とサンダルを放り投げ、海パン姿になって玉砂利の浅瀬にそろそろと足を浸す。
冷たい。
でも気持ちがいい。
ゆっくりと腰まで浸かって、川の流れを肌で感じる。
師匠はというと、準備運動もそこそこにいきなり飛び込んで早くもスイスイと泳いでいる。
女性陣の二人は水辺で沢ガニを見つけたらしく、しばらくウロウロと足の先を濡らすだけだったが、俺が肩まで浸かるころ、ようやく羽織っていた服を脱ぎ水着姿になって川の中に入って来た。
下流の方から派手なクロールで戻って来た師匠が、膝まで浸かった女性二人の前で止まり、水中から首だけを出して「うーん」と唸ったあとでCoCoさんの方に向かって右手で退ける仕草をした。
「もう少し、離れたほうがいい」
その言葉を聞いてきょとんとした後、CoCoさんはおもむろに隣の京介さんの方を見上げて、ついで足元まで見下ろし、芝居がかった様子でうんうんと頷いてから、どういう意味だコラというようなことを言って師匠に向かって水を蹴り上げた。
そのあとしばらく4人入り乱れての水の掛け合いが続いた。
やがて俺は疲れて川からあがり、熱い岩の上にたっぷり水をかけて冷ましてから座り込む。
他の3人は気持ちよさそうに、深さのある下流のあたりを泳ぎ回っている。
俺も泳げたらなあ、と思う。
完全なカナヅチというわけではないが、足がつかないところへは怖くてとても行けない。
溺れる、という恐怖感というよりは、足がつかない場所そのものに対する潜在的な恐怖心なのだろう。
なにも足に触れるはずのない水深で、「なにか」に触ってしまったら……
そう思うと、いてもたってもいられず、水から出たくなる。
まして今、川の真ん中に誰のものともつかない土気色をした「手」が突き出ているのが見えている状況では、とても無理だ。
「手」に気がついた時にはかなりドキッとしたが、その脈絡のなさに自分でもどう反応していいのかわからない感じで、とりあえず深呼吸をした。
師匠たちの泳いでいる場所からさらに下流。
岩肌の斜面から覆いかぶさるような藪が突き出ていて、その影が落ちているあたり。
どう見ても人間の手に見えるそれが、二の腕から上を水面に出して、なにかを掴もうとするように手のひらを広げている。
師匠たちは気づいていない。
俺は眼鏡をそろそろとずらしてみる。
ぼやけていく視界の中で、その「手」だけが輪郭を保っていた。
ああ、やっぱりと、思う。
そこに質量を持って存在する物体であるなら、裸眼で見ると他の景色と同じようにぼやけるはずなのだ。
この世のものではないモノを見分ける方法として師匠に習ったのだったが、俺は夢から覚めるための技術として似たようなことをしていたので、わりと抵抗なく受け入れられた。
悪夢を見てしまうとほっぺたをつねって目を覚ます、なんていうやり方が効かなくなってきた中学生のころ、俺は「夢なんてしょせん、俺の脳味噌が作り出した世界だ」という醒めた思考のもとに、その脳味噌が処理しきれないことをしてやれば夢はそこで終わると考えた。
夢から覚めたいと思ったら、本を探すのだ。
もしくは新聞でもいい。
とにかく、俺が知るはずのないものを見ること。
そして、そこに書いてある情報量がページを構成するのに足りないことを確認し、「ざまあみろ脳味噌」と嗤う。
本質からして都合よくできている夢なのだから、「本を読もう」とすると、それなりに本っぽいつくりになっているかも知れない。
しかし、中身は無理なのだ。
世界を否定したくて文章を読んでいる俺と、世界を成り立たせるために一瞬で構築される文章、その二つを同時に行うには脳の処理速度が絶対に追いつかない。
そして、化けの皮が剥がれたように夢が壊れていく。
そうして目を覚ますのは俺の快感でもあった。
それと同じことが、この眼鏡をずらす手法にも言える。
仮に途方もなくリアルな生首の幻覚を見たとして、ああ、これは現実だろうかと考えたとき、眼鏡をずらしてみる。
すると、現実には存在しない生首だけは、ぼやけていく世界から取り残されたように、くっきりと浮かび上がってくる。
もし脳のなんらかの作用で、「眼鏡をずらしたら生首もぼやける」という潜在的な認識のもとに生首もぼやけて見えたとしても、それは「その距離であればこのくらいぼやける」という正確な姿を示さない。
必ず他の景色とは「ぼやけ具合」が食い違って見える。
それが一瞬で様々な処理をしなくてはならない脳味噌の限界なのだと思う。
だが、幻覚はまた、夢とも違う。
ああ、コイツは幻だと気づいたところで、消えてくれるものと消えないものとがあるのだ。
「うおっ」
という声があがり、CoCoさんとぶつかりそうになった師匠が立ち泳ぎに切り替える。
「川でバタフライするな」
そんなことを言いながらCoCoさんのほうへ水鉄砲を飛ばす。
そのすぐ背後には、水面から突き出た手。
思わず師匠に警告しようとした。
しかし、なにか危険なものであるなら、俺が気づいて師匠が気づかないなんてことがあるのだろうか。
ならばこれはただの幻なのだ。
俺の個人的な幻覚を、他人が怯える必要はない。
けれど、なぜ今そんなものが見えるのか……
薄ら寒いものが背中を這い上がってくる。
師匠はなにも気づかない様子で再び平泳ぎに戻り、「手」から離れて上流の方へやってくる。
俺は「手」から目を離せない。
肘も曲げず、まるで一本の葦のように流れに逆らってひとつ所に留まっている。
そこからなんらかの意思を感じようとして、じっと見つめる。
ふいにCoCoさんが川縁で声をあげた。
「これって、なんだろう」
そちらを見ると、水面からわずかに出っ張っている石にへばりつくように、白いものがある。
近寄って来た京介さんが無造作に指でつまむ。
それは水に濡れた紙のように見えた。
あっ、と思う間もなくその白いものが千切れて水に落ち、流されていった。
指に残ったものをしげしげと見ていた京介さんが、「紙だ」と言う。
「目がある」
そう続けて、残された部分にあるわずかな切れ込みを空にかざした。
たしかにそこには二つぽっかりと穴が開き、それまるで生き物の目を象っているように見えた。
「よくそんなの触れるな」
師匠がざぶざぶと川から上がりながら言う。
京介さんの視線が冷たく移り、何も返さずにその白い紙を水に投げた。
紙は沈みそうになりながらも流れに乗った。
全員の視線が自然とそこに向かう。
下流で、藪の影が落ちているあたりを通り過ぎるとき、あの「手」がもう見えないことに気がついた。
まるで溶けるように消えてしまっていた。
持参していたタオルで体を拭いて、俺たちは河原を出た。
冷たい川の水に浸かったことで、さっきまでのまとわりつくような熱い空気が嘘のように霧消して、涼しいくらいだった。
けれどそれも一瞬のことで、歩き始めるとすぐにまたじっとりと汗が浮き出てくる。
車に戻る前に寄り道をして、近くの商店でアイスを買った。
店のおばちゃんは見知らぬ若者たちを不審そうに見ながらも、棒アイスを4本出してくれた。
そういえば今日は平日なのだった。
まして若者の極端に少ない過疎の村だ。
小さい頃、何度かここでアイスを買っただけの俺の顔を覚えていないのも無理はなく、よそ者が来たという程度の認識しかなかっただろう。
開いてるのかどうかもよくわからない店が3、4軒並んでいるだけの、道端のささやかな一角だった。
食べながら帰ろうというみんなに、ちょっと待ってくださいと言いながら俺は店のおばちゃんに「この先の河原って、最近水難事故かなにか起きましたか」と聞いてみた。
おばちゃんは眉をひそめ、「最近はないねえ」とだけ言って次の言葉も待たず店の奥に引っ込んでいった。
ああ、俺もすっかりよそ者なのだなぁと、少し寂しくなった。
その後、アイスをかじりつつ元来た道を歩きながら師匠が言う。
「あの紙は幣だね」
たぶんそうだと答えた。
神様や悪霊を象った紙人形とでも言えばしっくりくるだろうか。
この村では、さまざまな儀式にその幣を使う。
「なんの幣だった?」
遠目に見ただけだし、目がふたつ開いてるというだけではさっぱりわからない。
なにより俺自身が詳しくない。
「川ミサキか、水神かな」
師匠はさらっとそう言う。
どこで調べたのか知らないが、俺より知っていそうな口ぶりだ。
日が翳り始めた道をだらだらと歩いていると、さっきの四つ辻に差し掛かった。
すると、まるでさっきの再現のように京介さんが短い声をあげて道に屈みこむ。
さすがに驚いて大丈夫ですかと様子を伺うと、手で押さえている右のふくらはぎから薄っすらと血が流れているのが目に入った。
CoCoさんがしゃがみこんで「なにかで切った?」と聞いている。
京介さんは首を横に振る。
切ったって、いったい何で?
俺は周囲を見渡したが、見通しもよく、なにもない道の上なのだ。
カマイタチ。
そんな単語が頭に浮かんだが、師匠が道の真ん中に両手をついて這いつくばっているのを見て、一瞬で消える。
目を輝かせて、まるでコンタクトレンズでも探すように土の上に視線を這わせている。
なにをしてるんですか。
その言葉を飲み込んだ。
周囲の空気が変わった気がしたからだ。
足元から、ゆらゆらと悪意が立ちのぼってくるような錯覚を覚えて、身を硬くする。
「おい、よせ」
京介さんは羽織っている上着のポケットから小さな絆創膏を取り出してふくらはぎに貼り、立ち上がりながらそう言った。
師匠はそれが聞こえなかったように地面を食い入る様に見つめ、独り言のように呟く。
「なにか、埋まっているな、ここに」
心臓に悪い言葉が俺の耳を撫でるように通り過ぎる。
京介さんが師匠に近づこうとしたとき、チリリンと耳障りな音がして自転車が通りがかった。
泥のついた作業着を着込んだ中年の男性が、不審そうな目つきでこちらを見ている。
同じ方角からは似たような格好をした数人が自転車で近づいてきている。
四つ辻の真ん中で這いつくばっていた師匠は、なにを思ったかピョンと勢いよく立ち上がると「腹減った。帰ろう」と言った。
俺は気まずい思いで道をあけて自転車たちをやり過ごす。
通り過ぎた後も、ちらちらと視線を感じた。
ヨソモノヨソモノ。
そんな声が聞こえた気がした。
それも含めて、俺は早くここを立ち去りたかった。
率先してもと来た道へ進んで行き、民家のそばに停めてあった車に乗り込む。
ようやく嫌な感じが収まった。
師匠は上機嫌でエンジンをかけ、ふたたび蛇行する山道を登り始める。
CoCoさんはなにを思ったか京介さんの絆創膏をつっつき、「痛いって」と怒られた。(ほんとうに傷口があるのか確かめた)
助手席に身を沈めながら、後部座席のやりとりにふとそんなことを思う。
ミラーにうつるCoCoさんの表情からはやはりなにも読み取れなかった。
伯父の家に帰ると、従兄妹のハツコさんが来ていた。
伯父夫婦の長女だ。
年が離れていたのであまり印象は残っていないが、今は同じ集落の家に嫁いでいるらしい。
「今日は応援」と言って小太りの体を機敏に動かしながら、伯母の炊事を手伝っている。
俺たちはというと、夕飯までの時間をそれぞれの部屋で過ごした。
ろくに泳いでいないのに俺はやたら疲れていて、ウトウトしっぱなしだった。
ほどなく茶の間に呼ばれ大所帯での食事が始まった。
近くの山で採れた山菜をふんだんに使った田舎料理は、実家の母が作るものより「お袋の味」がして、なんだか感傷的になる。
俺たち4人と伯父夫婦。
ハツコさんとその小さな子ども。
そして実にタイミングよく現れたユキオ。
9人で囲む食卓だった。
なにが凄いって、その人数で囲めるちゃぶ台があることだ。
「いまはもう、こんなでっかいのがいる時代じゃないけんどのう」
と伯父は苦笑した。
この家にはあと一人、ジッサンと呼ばれるお爺さんがいるのだが、寝たきりに近いらしく食卓には出てこない。
ジッサンと言っても俺の祖父にあたる人ではなく、祖母の兄らしい。
らしいというのは、会ったことがないからだ。
身寄りがなくなっていたところをこの家で引き取ったそうだ。
俺の足が遠のいてからのことだった。
「にゃあにゃあ」
ユキオがひそひそと口を寄せて来る。
「どっちが彼女なが」
これには彼なりの期待も含まれているのだろう。
京介さんCoCoさんも一般的には美人の部類に入るだろうから。
「どっちも違う」
そう言うと喜ぶかと思いきや、残念そうな様子で、
「両方あの兄さんのか」
と溜息をつくのだ。
「片方だけ」と言ってやると、「ふーん」と鼻で返事をしながら肉系ばかりを箸でかき集めていった。
その時、家の外に犬の遠吠えが響いた。
「あ、リュウの晩御飯忘れちょった」
そう言って伯母が腰をあげようとするとハツコさんが笑って先に立ち上がった。
俺はふと思い出して、伯父に祖母の葬式の時にリュウがいたかどうか聞いた。
「おらんかったかや」
伯父が首を傾げていると伯母が手首から先を器用に折り曲げながら言う。
「ほら、ジッサンが捨てたあとじゃき」
伯父はオオ、と合点していきさつを話してくれた。
どうやらリュウは祖母の葬式の2ヶ月ほど前に「死んだ」のだそうだ。
目をとじて動かないリュウを見て、まだ足腰がしゃんとしていたジッサンが死んだ死んだと大騒ぎし、裏山の大杉の根本に埋めに行ったのだが、なんとこれが早合点。
自力で土から這い出てきたらしく、半年くらいたって山中で野良犬をやっていたところを近くの集落の人が見つけて連れて来てくれたのだそうだ。
この話、俺の連れには大いにウケた。
が、俺は(なんだ、やっぱり別の犬なんじゃないか)と思ったが、長年暮らした家族がリュウだというんだから、と考えるとなんだかあやふやになる。
あとでもう一度じっくり顔を見てみようと心に決めた。
それから目の前の料理が減るのに反比例して食卓の会話が増えていき、俺は頃合を見計らって、口を開いた。
「なんか、いざなぎ流のことを知りたがってるみたいなんだけど」
目で師匠と京介さんを指す。
するとすぐさまユキオが身を乗り出した。
「だったらオレオレ。オレ今、先生について習いゆうがよ」
意外に思って、適当なコト言ってないかコイツ、と疑った。
すると伯母が「あんたは神楽ばあじゃろがね」と笑う。
どうやら先生についているのは本当らしい。
ただ、神楽舞を習っているだけのようだ。
いざなぎ流の深奥は神楽ではなく、祈祷術にあるというのは俺でもわかる。
「まあでもいざなぎ流のことが知りたかったら、誰かに聞かんとわからんき」
ユキオの先生に会わせてもらったらどうか、そう言うのだ。
伯父のその言葉は、いざなぎ流の秘匿性を端的に表している。
そもそも俺の田舎に伝わるいざなぎ流とは、陰陽道や修験道、密教や神道が混淆した民間信仰であり、それらが混じっているとはいえ、古く、純粋な形で残っている全国的に見ても貴重な伝承だそうだ。
祭りや祓い、鎮めなどを行うそのわざはしかし、ほとんど公にはされない。
なぜならそれらは「太夫」から「太夫」へ、原則口伝によって相伝されていくからである。
もちろん、その膨大な祈祷術体系を丸暗記はできない。
しかしそのための「覚え書」はまた、師匠から弟子へと門外不出の「祭文」として伝えられるのみなのである。
なにかのお祭りには必ずと言っていいほど太夫さんが絡むが、俺の記憶の中ではその祈祷はただ「そういうもの」としてそこにあるだけで、「何故」には答えてくれない。
「何をするために、何故その祈祷が選ばれるのか」
何をするためにというのは分かる。
川で行われるなら水の神様を祭り鎮めるためで、家で行われるなら家の安泰のためだ。
だが「何故」その祈祷なのか、という部分には天幕がかかったように見えてこない。
祈祷はさまざまな系統に分かれ、使う幣だけで数百種類もあるのである。
「よっしゃ、明日さっそく行こう」
ユキオは箸をくるくると回して俺たちの顔を見る。
師匠は願ってもない、と頷いた。
京介さんは「頼みます」と軽く頭を下げる。
俺は明日も平日だったことを思い出し、ユキオをつついたが「大丈夫、大丈夫」と請合った。
いろいろと大丈夫な職場らしい。
ユキオとハツコさんたちが帰っていったあと、俺たちは順番に風呂に入ることにした。
夜になってようやく涼しくなってきたが、汗を重ねた肌が気持ち悪い。
女性陣はあとがいいと言うので、まず俺、ついで師匠という順番で入ることにした。
早々に俺が風呂からあがり、3人でトランプをしているとTシャツ姿で頭から湯気を昇らせながら師匠が出てくる。
「あー、気持ちよかったー。風呂に入ったのって半年ぶりくらいだ」
その言葉に女性二人の目が冷たくなる。
「ちょっと」
「寄らないでくださる」
ステレオで言われ、師匠は憤慨する。
「って、おい。僕はシャワー派なんだって」
弁解する師匠に冷たい視線を向けたまま二人は女部屋に戻っていく。
「知ってるだろ!」
わめく師匠に、振り向いた京介さんがいつもより強い調子で「死ね」と言った。
俺は笑いをこらえるのに必死だった。
これだよ。
二人を無理やりセットにした甲斐があったというものだ。
それから疲れていた俺たちは早々に床についた。
若者のいないこの田舎の家は寝付くのが早く、あまり遅くまで起きて騒がしくしても悪いという思いもある。
寝る前にリュウの顔を拝もうと思ったが、犬小屋に引っ込んでしまいお尻しか見えなかった。
部屋の明かりを消し、扇風機に首を振らせたまま横になるとあっというまに眠りに落ちた。
どのくらい経っただろうか。
バイクの音を遠くで聞いた気がして、なぜかユキオがまた来た、と思った。
そんなはずはない、と思いながら徐々に頭が覚醒し、むくりと起きる。
腕時計を見ると深夜2時過ぎ。
トイレに行こうと起き上がると、隣の布団がカラになっていることに気づく。
「師匠」と小声で呼びかけるが、部屋のどこにもいない。
とりあえずトイレで用を足しに行くと、部屋に帰るときに縁側に誰かの影が映っている。
そっと障子を開けると、京介さんが縁側に腰掛けて夜陰に佇んでいる。
右手には煙草。
こちらに気づいて視線を向けてくる。
「深い森だ」
そうか。
京介さんは自分の部屋でないと眠れないということを今更ながら思い出す。
「浄暗という言葉があるだろう。清浄な闇という意味だ」
ここは空気がいい。
そう言って目の前に広がる木々の黒い陰を眺めている。
遠くで湧き水の流れる音が聞こえる。
「師匠を見ませんでしたか」
そう問うと、煙を吐きながら答えてくれた。
「バイクで出て行ったな」
そういえば、伯父から滞在中自由に使いなさいと言われていたことを思い出す。
どこに、と聞こうとしてすぐに聞くまでもないと思いなおした。
明日もいろいろありそうだ。
そう思って、今日のところはきちんと寝ておくことにする。
「おやすみなさい」という言葉に、京介さんは小さく手を振った。
朝が来た。
目を覚ますと、隣で師匠がひどい寝相をしている。
少しほっとする。
伯父夫婦と合わせて6人で朝食をとる。
なにか足らない気がした。
そうだ。新聞がない。
「ああ、昼にならんと来ん」
そういえばそうだった。
俺のPHSも師匠の携帯も通じない、情報を制限された田舎なのだ。
食べ終わって、部屋に帰ると師匠に夜のことを聞いてみた。
「行ったんですよね、あの京介さんが怪我をした場所へ」
「うん」と師匠は答え、扇風機のスイッチを入れながら胡坐をかいた。
「なにかあったんですか」
「いや、なにもなかった」
煮え切らない答えに少しイラッとする。
あんなやり取りをしておいて、なにもないはずはない。
すると師匠は意味深に目を細めると、ゆっくりと語った。
「昼にはあり、夜にはなかった」
掘り出されていた、というのだ。
「僕らが気づいたことを、知られたようだ」
言葉の端に、気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「なにが、埋まっていたんですか」
師匠は畳の上にごろんと寝転がった。
「犬神を知ってるかい」
「聞いたことは」
京介さんがこの旅の前に口にしていたのを覚えている。
「古くは呪禁道の蠱術に由来すると言われる邪悪な術だよ。
犬神を使役する人間が他人の物を欲しがれば、犬神はたちまちにその人に災いをなし、その物を与えるまで止むことはない。
犬神は親から子へと受け継がれ、その家は犬神筋とか犬神統などと呼ばれる。
犬神筋は共同体の中で忌み嫌われ、婚姻に代表される多くの交流は忌避される。
そのために犬神筋は一族間での通婚を重ね、ますますその”血”を濃くしていく」
師匠は秘密めかして仰向けのまま指を立てる。
「犬神というのはその名前とは裏腹に、小さな鼠のような姿で描かれることが多い。
もしくは豆粒大の大きさの犬だとする記録もある。
犬神筋はそれらを敵対する者にけしかけ、腹痛や高熱など急激な変調をもたらす。
犬神にとりつかれた者は山伏や坊主などに原因を探ってもらい、どこの誰それの犬神が障っているのだと明らかにする。
その後は、原因と判じられた犬神筋の家へ赴いて……」
「貢物を差し出すわけですか」
口を挟んだ俺に、師匠は首を振る。
「文句を言いに行くんだよ。人の道に外れたことをしやがって、と」
犬神の伝説が息づいているのは、農村地帯がほとんどなのだそうだ。
人と人との関わりが深く濃密な、狭い共同体の中でなにか理不尽な災いが起こった場合、それを誰か特定の人間のせいにしてしまうのは、日本の古い社会構造の歯車の一つなのだろう。
それが差別階級を生む要因にもなっている。
ところが師匠は、この犬神筋についてはいわゆる被差別部落民とは少し意味合いが違うと言う。
「犬神筋は、裕福な家と相場が決まっている。
それも、農村に商品経済、貨幣経済が浸透しはじめたころに生まれた新興地主がほとんだ。
土地を持つこと、そして畑を耕すことがすべてだった農村の中に、土地を貸し、貨幣を貸し、商品作物を流通させることで魔法のように豊かになっていく家が出現する。
そしてこのパラダイムシフトを理解できない人々は思う。
“あの家が金持ちになったのは、犬神を使っているからだ”と。
我々の土地を、財を、貪欲に欲しがり、犬神を使役してそれらを搾取しているのだと。
金がないのも、土地がないのも、腹を下したのも、怪我をしたのも全部犬神筋のせいだ、というんだ。
そう信じることで、共同体としてなんらかのバランスを保とうとしているのかも知れない」
気がふれるということを、昔の人は狐がついたとか、犬がついたとか言うだろう?
師匠はそう続けながら指を頭のあたりで回す。
「これは犬神に限らず、狐憑きも蛇神筋も猿神筋も同じだ。
気がふれたフリをするのはとても簡単で、しかも何が憑いているのかを容易に表現できるからだ。
狐なら狐の真似を、犬なら犬の真似をすればいい。
そうすれば、憑き物筋という家が存在し、それが他に害を成しているということを、搾取されている人々の間で再確認することができる」
ようするに「やらせ」なのだ、というように俺には聞こえた。
犬神は、なにかおどろおどろしい存在なのではなく、いや、それ自体が人の心の闇を秘めているにせよ、農村における具体的な不満解消のシステムの一つに過ぎないのだと。
そう聞こえたのだった。
しかし師匠はふいに押し黙る。
俺はその沈黙の中で、前日にあの四つ辻で京介さんが倒れたシーンと、そのあとに襲われた悪寒が脳裏をかすめ、ジワジワと気分が悪くなっていった。
「犬神の作り方として伝えられる記録に、こんなものがある。
まず、犬を土中に埋め、首だけを出して飢えさせる。
そして飢えが極限にきたところで餌を鼻先に置き、犬がそれにかぶりつこうと首を伸ばした瞬間にその首を鉈で刎ねる。
“念”の篭ったその首を箱に納めて術を掛け、犬神とする。
その時、残された胴体 は道に埋めたままとし、その上を踏みつけられることで犬の「念」は継続し、また強固なものになっていく。
その道が人の行き来の多い、四つ辻であればなお理想的とされる」
「うっ」
思わず吐き気がして口を押さえた。
嫌な予感が頭の中でパチパチと音を立てているような気がした。
ユキオが原付に乗ってやって来たのは、朝の10時過ぎだった。
「おー、リュウ。お出迎えとは珍しいにゃあ」
そう言いながら、軒先に座っているリュウの頭を撫でた。
俺も朝方、飯を食べにノソノソと犬小屋から這い出てきたリュウの顔をじっくりと観察したが、記憶のヴェールは「自信ないけど、リュウらしい」という程度にしか、真実に近寄らせてくれなかった。
「じゃあさっそく行こう」
ユキオが原付で先導し、俺たちは師匠の運転で伯父に借りた車に乗ってついていった。
最初京介さんが運転席に乗ろうとすると、師匠が「初心者マークは大人しく後ろに乗ってろ」というようなことを言って、「そっちも大した腕じゃないくせに」と言い返され、険悪なムードになりかけたことを言い添えておく。
ユキオの「先生」は、本当に学校の先生だったらしい。
ユキオは小学校の頃に教わったことがあるそうだ。
定年になり、子供たちが独り立ちすると山奥に土地を買って住まいを構えて奥さんと二人で暮らしているとのことだった。
「こんな田舎で公務員なんてやってると、デントーってのを守る義務から逃げれんがよ」
出掛けにユキオはそう言ったが、神楽を習っていること自体はまんざら嫌でもない様子だった。
「先生はちょっと気難しいき、変なこと言うても気ぃ悪うせんとって下さい」
俺は幼い頃に見た白装束の太夫さんの神秘的な横顔を姿を思い浮かべた。
車は一度国道に出てから川沿いを走り、再び山側へ折れるとそこからは延々と山道を上って行った。
道は悪く、割れた岩のかけらのようなものがアスファルトの上のそこかしこに転がっている。
「これって落石じゃないのか」と師匠はぶつぶつ言いながらも慎重に石を避けていく。
昨日より幾分日差しは穏やかで、車の窓を開けると風が入ってちょうどいい涼しさだ。
山の斜面に蛇の黒い胴体を見た気がして身を乗り出した時、後部座席のCoCoさんがふいに口を開いた。
「バイクから、離れない方がいい」
さっきまで隣の京介さんを意味なくくすぐって騒いでいたのに、一変して真剣な響きの声だったので思わず前方に視線をうつす。
ユキオを見失いそうになっているのかと思ったが、適度な距離を保ったまま車はついていけている。
どういう意味だったのだろうとCoCoさんの方を振り返ろうとした時、不思議なことが起こった。
ユキオの原付が加速した様子もないのにスルスルと先へ先へと遠ざかって行くのだ。
坂道でこっちの車の速度が落ちたのかと一瞬思ったが、そうではない。
速度メーターは同じ位置を指したままだ。
何が起こっているのか理解できないうちに車は原付から離され、ユキオの白いヘルメットはこちらを振り向きもしないで曲がりくねる山道の奥へと消えて行こうとしていた。
「アクセル」
京介さんが鋭く言ったが、師匠は「踏んでる」とだけ答えて真剣に正面を見据えている。
こちらが遅くなったわけでも、原付が早くなったわけでもない。
俺の目には道が伸びていっているように見えた。
周囲を見回すが、同じような山中の景色が繰り返されるだけで、一体どこが「歪んで」いるのかわからない。
そうしているうちに完全にユキオの原付を見失った。
道は一本道だ。
追いつくまでは、このまま進むしかない。
師匠は一度ギアを落としたが、回転音が派手になるだけで効果がない。
「まずいなあ」
ギアを戻しながら呟く。
「これって、なんの祟り?」
師匠の軽い調子に、京介さんは「知らない」と突き放す。
俺は今起きていることを信じられずに、ひたすら目をキョロキョロさせていた。
まだ午前中の早い時間帯だ。
すべてが冗談のように思える。
「実にまずい」
前方に目を向けると、道がますます狭くなっているような気がした。
カーブもきつくなっていて、フロントガラスの向こう側の景色はいちめんに屹立する木、木、木。
緑色と山の黒い地肌が壁となって迫ってくるかのようだ。
ギリギリ二車線の幅が、今は完全に一車線になっている。
ガードレールも消えさってしまった。
右側は渓谷だ。
転落したらまず、命はない。
反応を見る限り、俺が見ているものを他の3人も見ているのは間違いない。
集団幻覚?
そんな言葉が頭をよぎる。
しかし、車のアクセルの効果までそんなものに束縛されてしまうのだろうか。
「なあ」と師匠がCoCoさんに呼びかけた。
「これって、夢じゃない?」
CoCoさんは首を横に振る。
師匠は少し経ってから頷く。
奇妙なやりとりだ。
「なにか他に異変が起きてくれれば、ヒントになるんだけどな。たとえば木の枝に」
人間がつりさがっているとか……
囁くような師匠の口調に、思わず身を竦める。
本当に周囲の山林のなかにそんな不気味な光景が現れるような気がして、チリチリとうなじの毛が逆立つ。
前へ伸びる道と後ろへ伸びる道。
その両端が、曲がりくねる山のどこかで繋がっているようなイメージが頭を掠め、ゾクリとした。
師匠は迫ってくる鋭いカーブに際どくハンドルを切り続けている。
まるで止まることを畏れているようだった。
異変、異変。
そんなフレーズが頭の中で繰り返されていると、視線の中に見覚えのあるものがチラッと映った気がした。
山の斜面に目を凝らすが、あっと言う間に通り過ぎる。
少しして、前方にもう一度同じものが現れた。
それを見た瞬間俺は叫んだ。
「蛇が!」
師匠が素晴らしい反応でブレーキを掛ける。
車はカーブする斜面に半ば擦りそうになりがら止まった。
京介さんが後部座席のドアを開けて飛び降りる。
そしてすぐさま木の根っこをよじ登り、山肌に横たわった黒い蛇の姿をとらえた。
俺たちも車から降りて近づく。
見ると、その黒い頭には長い釘が深々と突き通っている。
頭から顎まで貫かれて地面に縫い付けられ、蛇は死んでいた。
丈の短い草の中にのたうつその体が、地下水のように湧き出たどす黒い血のように見える。
京介さんが右手の指を絡ませ、その釘を抜いた。
その瞬間、上空から。
上空から、としか言いようがない場所から耳をつんざく様な悲鳴が聞こえた。
男とも女とも、そして人とも獣ともつかない声だった。
しかし次の瞬間、説明しがたい感覚なのであるが、一瞬にしてそれが幻聴だとわかったのだった。
そしてなにか目の前の光景が今にもペロリと裏返りそうな、そんな不気味な予感に襲われる。
ざわざわと木の枝が鳴って、俺は足を棒のように固まらせていた。
「車に戻れ」という師匠の声に我に返ると、逃げ込むように助手席に飛び乗った。
シートベルトをする暇もなく、車は急発進する。
そして次のカーブを曲がるや否や、ユキオの原付が目の前に現れた。
遠ざかって行く前となにも変わらない様子で山道を走り、白いヘルメットがゴトゴトと揺れている。
道もいつの間にか元の幅に戻り、ガードレールも所々へこみながらもちゃんと両側にある。
俺は言葉を失って、首をゆるゆると振る。
まるでさっきまで緑色の迷宮に閉じ込められていた間、時間がまったく経過していなかったかのように、すべてはすっきりと繋がっていた。
今まで心霊体験の類を数知れず味わってきた俺にも、まるで白昼夢のような出来事に呆然とせざるをえなかった。
「やってくれたな」
師匠が深く息を吐いて、背もたれに体を預けた。
「今のが人間の仕業とは」
言葉の端から、ゆらゆらと青白い炎が立つような声だった。
京介さんの方を見ると、さっきの蛇に打ち込まれていた釘を手にしている。
「持っていろ」
そう師匠が言ったとたん、京介さんは窓からそれを投げ捨てた。
「おい」
怒るというより、溜息をつくような調子で師匠が咎める。
京介さんは、「よけいな物がよけいな物を招くんだよ」と言って横を向いた。
師匠は恨めしそうにバックミラー越しに睨んでいる。
前を行くユキオがハンドルから片手を離し、山側を指さした。
もうすぐ目的地だ。ということらしい。
まもなく俺たちは山の中にぽつんと立つ一軒家に辿り着いた。
伯父の家によく似た造りの日本家屋だ。広い庭に鶏を飼っている。
ユキオがヘルメットを脱ぎながら「せんせー」と家に向かって声をかけ、俺は後ろから近づいてその耳元に囁いた。
「なあ、さっき俺たちの車を見失わなかったか」
「いや」
ユキオは怪訝そうに首を振る。
そうだろうとは思った。
おそらくあれは、俺たちの霊感に反応したのだろう。
ユキオには何事もない山道にすぎなかったはずだ。
だが、俺たちが狙われたのは明らかだった。
なにか、「警告」じみた悪意を感じたからだ。
それは、京介さんが足から血を流したあの四つ辻で感じたものと同質のものだった。
俺は師匠の顔を見たが、首を横に振るだけだった。
なりゆきにまかせよう、というように。
「電話しといた例の人たちです」
ユキオが玄関の中に体を入れながら奥に向かって言葉をかける。
奥からいらえがあって俺たちは家の中へ招き入れられた。
畳敷きの客間に通され、その整然とした室内の雰囲気から正座して待った。
廊下がきしむ音が聞こえ、白髪の男性が襖の向こうから姿を現した。
ユキオの小学校の先生だったというので、もう少し若いイメージだったが、70に届こうという歳に見えた。
先生は客間の入り口に立ったままで室内を睥睨し、胡坐をかいているユキオを怒鳴った。
「おんしゃあ、どこのもんを連れてきたがじゃ」
「え」
と言ってユキオは目を剥いた。
俺は驚いて仲間たちの顔を見る。
先生は険しい表情をしたまま踵を返すと、足音も乱暴にその場から去ってしまった。
それを慌ててユキオが追いかける。
残された俺たちは呆然とするしかなかった。
しかし師匠は妙に嬉しそうな顔をしてこう言う。
「あの爺さん、どこのモノを連れてきたのか、と言ったね。そのモノはシャと書く”者”じゃなくて、モノノケの”物”だぜ」
あるいは、オニと書く鬼(モノ)か……
師匠はくすぐったそうに身をわずかによじる。
京介さんがその様子を冷たい目で見ている。
やがてもう一度襖が開いて、先生の奥さんと思しきお婆さんが静々と俺たちの前にお茶を並べてくれた。
「あの」
口を開きかけた時、ユキオを伴って再び先生が眉間に皺を寄せたままで現れた。
入れ違いにお婆さんが襖の向こうに消える。
座布団をスッと引き寄せながら先生は俺たちの前に座った。ユキオも頭を掻きながらその横に控える。
「で、」
先生は深い皺の奥から厳しく光る眼光をこちらに向けて口を開いた。
「先に言うちょくが、わしは本来おまんのようなもんを祓う役目がある」
その目は師匠を見据えている。
「その上で聞きたいことというがはなんぞ」
師匠は怯んだ様子もなくあっさりと口を開いた。
「いざなぎ流の勉強を少し、させてもらいました。密教、陰陽道、修験道、そして呪禁道。それらが渾然一体となっているような印象を受けましたが、陰陽道の影響がかなり強く出ているようです。明治3年の天社神道禁止令とその後の弾圧から土御門宗家はもちろん、有象無象の民間陰陽師も息の根を止められていったはずですが、この地ではどうしてこんな現実的な形で残っているのでしょう」
先生は表情を崩さずに、「知らん」とだけ答えた。
「まあいいでしょう。法律の不知ってやつですか。そういえば『むささび・もま事件』ってのも舞台はこのあたりじゃなかったかな。……話がそれました。ともかくいざなぎ流はこの平成の時代に、未だに因縁調伏だとか病人祈祷だとかを真剣に行っているばかりか、”式”を打つこともあるそうですね」
「式王子のことか。……生半可に、言葉ばかり」
「まあ付け焼刃なのは認めますが。僕が知りたいのは実は犬神筋についてなのです」
「わしらには関係ない」
先生は淡々と返す。
「まあ聞いてください。ご存知でしょうが、犬神筋というのは四国に広く分布する伝承です」
師匠は正座したまま語った。
曰く、犬神を祓うことのできるわざの伝わる場所には、それゆえに犬神が社会の深層に潜む余地があるのだと。
ましてそんな技法が日々の生活の中に織り込まれているこの地では、犬神もまた日常のすぐ隣に存在している。
「ここに来る途中、頭を釘で貫かれた蛇を見ました。明らかに呪いをかけるための道具立てです。もし仮に、誰かの使っている犬神の、その胴体を埋めてある秘密の場所を見つけられてしまったとしたら、その誰かは一体どうするのでしょうか」
師匠が言葉を途切れさせたその瞬間、みんなの手元に置いてある湯飲みが一斉にカタカタと鳴りはじめた。
地震かと思い、とっさに電灯の紐を見る。
紐はわずかに揺れていて、外から光の射す障子の白い紙も微かに振動していた。
こぼれたお茶の雫を京介さんが指で掬い、じっと見つめている。
俺はどうやらただの微弱な地震らしいと思ってなお、得体の知れない胸騒ぎがした。
揺れが収まってから先生はゆっくりと口を開く。
「いね」
え? と問い返す師匠に、「帰れ、という方言です」と耳打ちする。
「それは、この地を去るほかないということですか」
師匠は急に立ち上がり、障子に近づくと骨に手をかける。
サーッと木が擦れる心地よい音とともに、眩しい光が飛び込んできた。
縁側の向こうでは、庭につくられた垣根の中で鶏が地面をついばんでいる。
その様子を見ながら、師匠がボソっと言った。
「全然騒ぎませんでしたね」
さっきの地震のことを言っているのだと気づくまで、少しかかった。
確かに鶏の騒ぐ音はしなかった。
「なんとかなりませんか」
師匠の言葉に、先生は首を横に振るだけだった。
ユキオはよくわからないままにオロオロしているように見えた。
「どうも僕はここではやたら嫌われてるみたいだなあ。
フィールドワークのために郷土史研究家だとか民俗学の研究者が訪ねてくることだってあるでしょうに。
そんな部外者もみんな追い返すんですか」
「人じゃのうて魔物がやってくりゃあ、つぶてで追い払うががつねじゃ」
魔物と来たよ。
師匠は声になるかならぬかという小声で足元にこぼし、また顔を上げた。
「魔物と言えば、いざなぎ流では目に見えない魔物を儀式に引っ張り出すために”幣”という紙細工を作るそうですね。
魔群というんですか。川ミサキだとか、水神めんたつだとか、蛇おんたつだとか。神様を模したものも多いようですが。
それぞれに決まった形の幣があって、切り方・折り方は師匠から弟子へ御幣集という形で伝えられると聞きました。ある資料で何点か挿絵を見たことがあります。
ヤツラオだとかクツラオだとか、おどろおどろしい怪物も幣になってしまえば随分可愛らしくなってしまうと思いました。……ところで」
師匠は障子を閉め、一瞬室内が暗くなる。
「犬神の幣がないのはどうしてですか」
誰の気配ともしれない、ハッとした空気が漂う。
俺は固唾を飲んで師匠を見ている。
「どの資料を見ても出てこないんですよ。犬神を象った幣が。たまたまかも知れない。あるいは見落としかも知れない。
でもどこか引っかかるんです。犬神は深く土地に食い込んだ魔物で、四国の各地に隠然と広がっている。
いざなぎ流によって祓われる対象として、どうしてもっと目立っていないんでしょうか」
先生は師匠の視線を逸らすように天を仰ぎ、深く溜息をついた。
そしてそれきり目を閉じて、なにも言葉を発しようとしなかった。
「わかりました。いにますよ」
いにますって、使い方合ってるよね。
師匠は俺にそう言うと、先生に向かって頭を下げ、止める間もなく部屋から出て行ってしまった。
残された俺たちもいたたまれない雰囲気になって、腰を上げざるを得なかった。
出されたお茶に誰ひとり手もつけないままに退散する羽目になるとは思わなかった。
と、俺の隣で京介さんが目の前の湯飲みに手を伸ばし、一気に飲み干した。
帰れと言われた去り際にそんなことをするなんて、少し京介さんのイメージとはズレがあり、奇妙な行動に思えた。
すると立ち上がりざま、俺にだけ聞こえる声でこうささやくのだ。
「貸してるタリスマンは持ってきたか」
かぶりを振ると、独り言のように「気をつけろよ」と言って部屋から出て行った。
俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。
冷たかった。
思わず手を離す。
出された時は確かに湯気が出ていた。間違いない。
あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。
一瞬のうちに熱を奪われたかのように、湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。
まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。
田舎 後編
※この作品はウニ氏の作品ではなく、前編中編の続きを別の方が書いたものです
田舎(前編・中編)の伏線にふれつつ、中編の続きからです。
ユキオの先生の家からの帰り道、全員が終始無言だった。
行きのような目には合わなかったが、帰り道がやけに長く感じられた。
ユキオは何か言いたそうにしているが何も聞いてこない。
叔父さんの家に着き、ユキオと別れて部屋に戻ると師匠が口を開いた。
「なあ」
「はい」
「僕に聞きたいことはないかい」
「…何を聞けばいいか教えて下さい」
聞きたいことは山ほどあって何を聞いていいかわからない。
師匠は俺の質問にひとつ頷いた。
師匠は懐から人を象った小さな板を1枚出して俺に見せた。
「ヒトガタだ」
「それって、あの呪いの?」
思わず聞き返すと、「まぁ、そうだ」とのこと。
「ヒトガタを傷つけることでヒトガタの主が傷つくなら逆もまたしかり。霊的な攻撃は代わってくれる筈だ。
名前と生年月日書いて髪の毛貼っとけ。
扱いに気をつけろよ」と俺に渡した。
書き終わり髪の毛を貼り付けたのを確認すると、師匠は言った。
「弊をつくる」
師匠が鞄から和紙を取り出し、弊をつくり出した。
これが川ミサキ、水神めんたつ、蛇おんたつ、と、次々に紙細工を机に放る。師匠の言う通り、『怪物』にしては随分とかわいらしい。
「何故犬神の弊が無いのか」
机の弊が十を超えたころ、唐突に師匠が話だした。
「最初に考えうる理由は『必要無いから』かな。
まず第一の可能性。僕が前に言った通り、犬神の存在自体が『やらせ』で農村の不満解消システムの場合だ。存在しないからそれを象った弊も無い」
師匠は話ながら和紙を折りつづけている。
「でも、『フリ』ならフリで祓うからには弊を用意するんじゃないですか?その方が説得力ありますし」
「存在しないモノに形を用意したらそれは存在してしまうじゃないか。つくる奴が呪術師ならなおさらだ」
「次に第二の可能性。
犬神をつくり祟っているのは」
師匠は唐突に言葉を切った。
どうしたんですか、と問うより先に、何事も無かったかのように話を再開した。
「それを祓う筈の太夫(たゆう)だという可能性だ。
自身らの益になる犬神を祓う弊がある筈がない。
あるいは…」
反論しようとして俺は気付いた。机の上の弊がカサカサと音を立ている。
「師匠」
呼びかけたが師匠は黙って和紙を折り続ける。
机に置いたヒトガタがカタカタと震えだした。
「師匠」
師匠は答えない。
カタカタを止めたくてヒトガタを手にとった途端、ヒトガタに亀裂が入った。
「師匠~」
幾分、涙声になっているのが自分でもわかる。
それでも、師匠は答えずに『何か』をつくり続ける。
………………。
「何を、つくっているんですか」
師匠の手がピタリと止まった。
その口元にニヤっとした笑みが浮かぶ。
「犬神の弊」
師匠の言葉に反応したように窓がドアが壁一面がバンバンと叩かれる音がする。
机の弊はカサカサ鳴き、手で押さえきれない程ヒトガタが震え、亀裂が酷くなった。
師匠はなおも弊を折り続ける。
その場から動けずに耳を塞ぎうずくまった。何をとか何でとかもうどうでもいい。泣きそうだった。
バンッ、
と一際大きな音がし、誰かが近寄ってくる気配がした。
顔をあげると悪鬼の形相をした京介さんで、それでも救われた気がして頼りすがろうとしたが無視される。
京介さんは真っ直ぐ師匠のもとへ行き、その手に握られた紙片―師匠いわく『犬神の弊』―をむしり取ると容赦なく破り捨てた。
同時にピタリと音が止んだ。
「こんなことだろうと思った」
険しい顔のまま京介さんが言う。
灰皿にしているドロップの空き缶に破った『犬神の弊』と机の他の弊を詰め、火のついたマッチを入れた。
燃えるのを見届けずに俺の方を見ると一言。「帰るぞ」
俺はのろのろと立ち上がった。
ふと、師匠を見ると手に俺のとは違うヒトガタが握られていた。
行きに師匠の首にあった紐が板に複雑に結ばれ、ヒトガタの胸にあたる部分が刃物で切られたようにずたずたになっていた。
4時間後、俺たちは駅にいた。
突然帰ると言い出したにもかかわらず駅まで送ってくれた叔父さんに感謝した。
師匠は帰ることを渋っていたが、CoCoさんの「夢を思い出した」発言で帰ることに同意した。
俺は予知能力のあるCoCoさんが何の夢を見たのか聞かなかった。聞けなかったのだ。
「結局、どういうことだったんですか」
帰りの電車内、俺の質問に師匠は「わからない」と首をふった。
「僕の仮説の中に正解があったのか、僕の霊感に反応したのか、それともあの、」
「存在しないんじゃなかったんですか」
「存在しない。だからつくってみたんだよ。他の弊のつくりを参考にしてさ。
多分ありふれた感情が、存在しない筈のモノをつくってさ、存在しないけど『それ』を望んだ気持ってのは存在するわけで。
そこに存在しない筈のカタチを与えようとしたことで反発がおきたんじゃないかな」
「よく、わかりません」
それでいい、と師匠ではなく京介さんが言った。
足の絆創膏を剥がしてみせる。一瞬、小さな犬の歯形のような青アザが見えた気がしたが、よく見ても何の傷も無かった。
「結局、何もなかった。それでいいじゃないか」
京介さんの言葉に曖昧に頷き、俺の里帰りは終わったのだ。
[完]
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