『プール』
【霊感持ちの】シリーズ物総合スレ10【友人・知人】
21 :プール ◆oJUBn2VTGE:2009/06/19(金) 22:43:16 fg91v0gN0
太陽の中に水しぶきが跳ねた。
それが一瞬キラキラと輝き、眩しさに目を細める。空には雲が一つだけ浮かんでいる。
目に見えない大気の層の向こうに、まっさらな青い色が伸びていて、
プールサイドのベンチに仰向けになっている僕にも、突き刺すような日差しとともに生ぬるい風が頬を撫でてくる。
「ひと、いませんねえ」
「……なにか言ったか」
水音を涼しげに響かせながら師匠が腕を止める。
大学一回生の夏だった。
午前中、ダラダラと師匠の部屋で無駄話をしていたが、
あまりに暑いので、昼下がりに二人連れ立って市内のプールへやってきたのである。
ところが、今日あたりさぞ込んでいるだろうと思っていたそのプールが、ガラガラだったのだ。
受付のおばちゃんがうちわで顔を扇ぎながら、「今日はすいてるよ」とだるそうに言っていたときは、
「まさか」と冗談を言っていると思っていたのに、
更衣室を出て階段を登りプールサイドに立つと、僕は自分の目を疑った。
陽炎が立つ焼けたコンクリートの向こう、太陽の光が照り返す一面の水の中には、誰一人泳いでいなかった。
これほどのプール日和だというのに、敷地の中には僕らのほか動くものの影ひとつない、奇妙な空間がそこにあった。
師匠は全く気にしない様子で、準備運動もそこそこに泳ぎ始め、
僕はプールサイドにあったベンチに寝転がり、身体を焼くことにした。
泳ぐのは得意でなかったのと、師匠があんまり「なまっ白い」と言って馬鹿にするからだ。
「今日、土曜日ですよね。どうしてこんな日の真っ昼間にガラガラなんでしょう」
「暑くて外出たくないんじゃねえか、みんな」
そんなことはないだろう。暑い日にこそ繁盛するのがプールのはずだ。
「なんか、街なかでデカいイベントやってましたっけ」
「いや、特にないな」
「じゃあコンサートとか、サッカーの試合とかもなかったですかね」
「さあ、あったかも知れないが」と師匠は言ったあと、水に沈み込んでターンをした。
「あったとしても、何万人だかの周辺住民すべてに、影響するとも思えないな」
その通りだった。集客においてプールと競合するようなものがあっても、分母のデカすぎるゼロサムゲームだ。
あるいは、サッカーの日本代表の試合や、甲子園の地元チームの出る試合なら、
テレビの前にかなりの市民を縛り付けるかも知れない。
しかしそれでも、総和の半数もいかないだろう。
残りの半数は依然自由意志で、猛暑日のすごし方を選択するはずだ。
そしてなにより、そんな番組は今日の朝刊には載っていなかった。
もやもやした頭のまま、タオルで目に入りそうな汗を拭う。
もう三十分以上経ったが、誰も入り口に姿を現さない。僕と師匠だけの無人の世界だ。
「なんか、このプールで感染症発生の噂があったとかでしょうか」
僕が言うと、師匠が泳ぎながら返す。
「ないな。だったらとっくに閉鎖してるだろ。
一人二人の噂ならともかく、街中にガボガボゴベ広がってるなら、事実がどうあれ取り合えず閉鎖だ」
なるほど。それにそんな話まったく聞かない。
他になにか人々の足をプールから遠ざける要因がないか頭を巡らせた。
プールに入るという目的に対する阻害要因のうち、
分母である不特定多数の住民の中の、少数の分子である入場客に影響を与えるものはなにか。
考えてもさっぱりわからない。少しは発想の転換をしようと、思いつくまま口にしてみた。
「周辺道路の通行止め!」
「そんな様子があったか?」
確かに、人通りはいつもと変わらなかった気がする。
「料金値上げ」
「ずっと据え置きだ」
「今日から近所に最新プールがオープン」
「それはあるかも知れないな。でもそんな情報、二人とも今日までまったく目にしていない。
同じようにそれを知らなかった人がガボガボガボ他にいないというもガボガボゴホゴホゴホ……
ゴホッ、ゴホッ……変だろうが」
確かに、二人とも新聞はとっているし、ローカル情報番組もわりと見ている方だと思う。
折り込みチラシでも見た覚えがないので、最新プールの新規オープンは、あまり現実的ではないように思えてきた。
なにより、プールの窓口のおばちゃんが、小首を傾げていたではないか。
「泳ぎながら喋るからですよ」と声を張り上げてやると、
師匠は軽く咳き込みながら、クロールのままクルリとターンをする。
見上げると、遥か上空を鳥が泳いでいる。その空の下に、師匠が立てる水音だけが響く。
誰もいないプールはどこか現実感が希薄で、
ジリジリと焼け付く太陽の光も身体の表面を舐めるばかりで、魂の奥底までは届かない感じがする。
そろそろ泳ごうかなと、身体を起こそうとしたときだ。
視界の端に、水の中からプールサイドへざばりと上る人影が目に入った。
なんだ、一人いたじゃん。
やけに青白い背中を見ながらそう思った瞬間だ。そんなことはありえないことに気づく。
僕は敷地のすべてが見通せる場所にいて、誰もいないことはずっと見ていたはずなのだ。
僕らがプールサイドに足を踏み入れてから、ずっと水の中に潜っててでもいない限り。
ゾクゾクと身体の中から急激に冷え始めた。
そんなはずはない。生身で三十分以上潜っていられる人間なんているはずがない。
学校指定のような水泳パンツをはいて、頭には青いキャップ。後ろ姿だけ見ていると小柄な男の子のようだ。
その背中が振り返りもせず入り口の方へ遠ざかっていく。ゆらゆらと揺れながら。
僕は身体を起こそうとしたその姿勢のまま硬直して、喉だけがひくひくと動いていた。
「……あ、あれ」
ようやく言葉を発すると、水しぶきを派手に上げていた師匠がピタリと止まって、僕の視線の先を見た。
揺れる背中が階段へ消えていく所だった。
スーッと師匠が僕の方へ寄ってくる。
「やっと諦めたか」
なにを言っているのかわからず、「はあ」と聞き返した。
「さっきから、ずっと水の中で足を引っ張ってきてたんだ」
プールサイドに肘を乗せて師匠はそう言った。
もう男の子の姿は見えない。
「ちょっと水飲んじまったけど、完璧無視してやったら、ついに諦めたらしいな」
ニヤニヤと底意地の悪そうな顔をする。
この人はずっとあの子の存在に気づいていて、なおかつこの僕とプールに人がいないことについて無駄口を叩いていたのか。
唖然として二の句が継げなかった。
「ここで死んだ子どもの霊かなにかだろう。で、今日は命日ってとこじゃないか。そうとうヤバイやつらしいな。
周辺住民の深層意識の中に、今日はプールに行きたくないっていう心理を刷り込むほどに」
プールがガラガラだったのは、みんなの無意識の自己防衛本能だというのか。
だったら、今日来ている僕らはなんだ。
男の子の去っていった方向に、水が滴った跡が伸びている。そこから陽炎が揺らめき立っているように見えた。
「そんなこともわからないのか」と、師匠は笑いながら言った。
そのとき、なんだかこの夏は、
僕の知っている夏ではないという、確信にも似た予感が胸のうちにわいてきたのだった。
「とっくに踏み出してんだよ」
師匠はそう言うと、背面で水の中に飛び込んでいった。
バシャン、という音が耳を打ち、ついで「楽しいぞぉ」という声が空に弾けた。
『喫茶店の話』
【僕】 師匠シリーズを語るスレ 第8夜 【俺】
321 :喫茶店の話 ◆oJUBn2VTGE:2009/03/15(日) 21:16:05 ID:kR+moc+u0
師匠の部屋のドアを開けるなり俺は言った。
「い、いました。いました。いましたよ」
師匠は寝起きのような顔で床に広げた新聞を読んでいたが、めんどくさそうに視線を上げる。
「まあ落ち着け。なにがいたんだ。……その前にドア閉めて。さむい」
急いで来たので身体が温まっている今の俺には感じないが、今日はかなり冷え込んでいるらしい。
「いたんですよ」
靴を脱ぎドアを閉めた俺は、師匠の前に滑り込むように座った。
「なにが」
「愛想の悪いウエイトレスが」
「へえ、そう」
師匠はまた目を落とし、新聞紙を一枚めくる。
俺は目の前の人間が、どうしてこんなに落ち着いていられるのか分からず、
苛立ちが足から頭まで駆け回るのを抑えられなかった。
「へえ、そうって、冷静な振りしても無駄ですよ」
後から考えると、かなり無茶なことを言っていたが、
伝えたつもりの情報と、相手に伝わった情報の、格差のことを考えるゆとりがなかったのも事実だった。
「京介さんのバイト先、見つけたんですよ」
「なに?」
師匠が顔を突き出す。そして、「どこだ」と言いながら新聞を畳む。
「だから、喫茶店です。ウエイトレスを……」
説明も半ばで師匠は凄い勢いで立ち上がり、その場でぐるぐる歩き回り始めた。
「喫茶店と言ったね。どこだ。入ったのか?」
俺はついさっきあったことを説明する。
美味いという評判のラーメン屋を探して街なかを歩いている時に、
通り掛かった喫茶店の前で、京介さんらしき人を見つけたのだ。
思わず身を隠してそちらを伺うと、店の入り口のそばに置いてある観葉植物に、水を遣っているところだった。
それも、普段見たことのないスカート姿に、白い前掛けをしている。
フリーターをしている京介さんのバイト先は二つあるらしいのだが、どちらも教えてくれなかった。
知ったからといって、別に嫌がらせをしに行くわけでもなし、なぜ教えてくれないのか分からなかったが、
ずっと気になっていた。
その現場をついに押さえてしまったのだ。
俺はドキドキしながら電信柱の影から様子を見ていると、
出入り口のドアが開き、中から客らしき中年の男性が出てきた。
男性は外でジョウロを持っている京介さんに、片手を上げて声を掛けた。
京介さんはほんのわずか、そうと言われないと分からない程度に頭を下げて、ボソリと返事をする。
男性は苦笑するような表情を浮かべて去っていった。
やがて京介さんが店の中に消えると、俺はとんでもない秘密を見つけてしまったような気がして、
逸る気持ちを抑えきれずに、師匠の家まで飛んで来たのだった。
そんなことを身振り手振りで説明すると、師匠は目を輝かせて言った。
「僕は子どものころから、こう言われて育ったんだ。
『どんなことでも一生懸命やりなさい。人の嫌がるようなことを進んでやりなさい』ってね」
そこで言葉を切り、迷いのない爽やかな笑顔を浮かべる。
「行くぞ。嫌がらせをしに」
これか。
俺はその瞬間にすべてが分かってしまった。
師匠は急に跳ね上がった異様なテンションのまま、部屋の中を這いずり始めた。
なにをしているのかと見ている俺の前で、
座布団をめくったり、部屋の隅の古新聞の束をどかしたりと、忙しなく動いている。
そして、台所に置いてあった紙で出来た家を取り上げて覗き込み、吐き捨てるようにこう言った。
「こんな時に限っていないなんて!」
俺はそれを聞いて尻の座りが悪くなった。
畳を叩いて悔しがっていた師匠だが、外から雨音が聞こえ始めたのきっかけに、
何ごとか悪巧みを練るような顔をしていたかと思うと、押入れに首を突っ込んだ。
俺は窓辺に立ち、「ええー。傘持ってきてねぇよ」と呟く。
けれど、せっかく水を遣ったのに京介さんも間が悪いな、と思うと少し微笑ましかった。
「どうだ、まだ降りそうか」
師匠が押入れからなにかけったいなものを取り出してきてそう言う。
「さあ、たぶん」
ふん、と頷くと、それを身に着け始める。藁で出来た身体を覆う服。
蓑だ。それに笠。
いつの時代の人かと思うような奇態な格好だ。
「いいかい。僕はその店に入るなりこれを脱ぐ。それで、ビショビショのこれを掛ける場所を店内に探す。
そしたらやっこさんが、『困りますお客様』ってやって来るから、
おまえは、『この店は雨具を掛ける場所もないのか』って怒鳴るんだ」
「嫌です」
「そうか。では、一人で演ずるとしよう」
テキパキと蓑笠を身に着け終った師匠は、踊り出さんばかりの足取りでドアに向かう。
「あ、僕の傘、使っていいから」
俺は、この人を止めるべきか、一緒に楽しむべきか、判断に迷いながら部屋を出た。
その店は繁華街から少し外れた場所にあった。
薄汚れた雑居ビルが立ち並ぶ一角で、雨の中にあるとその周囲はすべて灰色のモノトーンに包まれているようだった。
空は一層暗くなり、雨はまだ降り続きそうな気配だ。
俺は傘を持っていない方の手で、その三階建てのビルを指差す。
後ろに立っている人物が頷く。
蓑と笠の風変わりな出で立ちに、通り掛かった人が遠慮がちな視線を向けてくる。
どうぞ見てください。それではっきり言ってやって下さい。おかしいって。
雨脚が強くなった。
ズボンの足元が濡れて来て、嫌な感触が広がり始める。
なんでもいいから早く入ろうと足を速めた時、隣の師匠がハッとしたように動きを止めた。
喫茶店はもう目と鼻の先だ。どうしたんだろうと師匠を伺うと、その顔つきが変わっている。
上ずったような熱気が急に冷めたようだった。
「どうしたんです」
そう問い掛けるのもためらわれるような変化だった。
師匠は喫茶店の店構えを見つめ、それからビル全体を眺める。つられて俺も傘を上げた。
なんの変哲もない雑居ビルだ。
喫茶店は『ボストン』という名前らしく、入り口にそんな看板があった。
すりガラスが嵌っているドアからは、中の様子が伺えない。
小さな窓はあったが、内側に帆船の模型のようなものが飾ってあって、同じく中は見えない。
ビルの二階の窓には、消費者金融の名前が出ている。
そして三階には、なんとか調査事務所という控えめな看板が掛かっていた。
「ここなのか」
師匠は呟くように言った。
ゆるやかな円錐形をした笠の縁から、雨が流れ落ちていく。
その流れの向こうに、深く沈んだような瞳があった。
俺は何も言えずに、二人並んで降りしきる雨の中にずっと佇んでいた。
まだ訊けない、重い過去への扉が、その向こうにあるような気がした。
『三人目の大人』
死ぬほど洒落にならない怖い話を集めてみない?194
626 :三人目の大人 ◆oJUBn2VTGE:2008/07/10(木) 20:33:33 ID:lK8rj6z40
小学校2年生の教室で、図工の時間に『あなたの家族を描いてね』という課題が出た。
みんなお喋りをしながら、色鉛筆で画用紙いっぱいに絵を描いた。
原っぱにお父さんとお母さんと女の子が、ニコニコ笑いながら並んでいる絵。
スベリ台のようなものに乗って遊んでいる子ども二人を、お父さんとお母さんが見ている絵。
お父さんとお母さんだけではなく、おじいちゃんおばあちゃんも一緒に並んでいる絵。
飼っている猫や犬も一緒に描いている子が多かった。
その年代の子どもは、ペットも家族の一員という認識が強いのだろう。
授業が終わり、描きあがった作品をひとつひとつ見ていた先生は、ふと、ある子が描いた絵に首を傾げた。
それはクラスでも大人しい、目立たない男の子が描いたもので、
見た目には何色もの色鉛筆をふんだんに使い、賑やかで楽しい絵になっている。
けれど、そこには奇妙な違和感があった。
画用紙には、家族がテーブルらしきものを囲んで座っている絵が描かれている。
食事どきの団欒の風景だろうか。
みんなこちらがわを向いているのだが、その構成がどこかおかしい。
左から、お父さんらしい眼鏡を掛けた大人と、お母さんらしいパーマ頭の大人、そして男の子が一人。
さらに右端には、もう一人の大人がいる。
みんな笑っていて、口の中は赤い色で豪快に塗られているのに、
右端の大人だけは口を閉じたまま、無表情で座っている。
目は糸のように細い。
大人だということは身体の大きさで分かる。
クラスの子どもたちはみんな、子どもである自分と大人をはっきり大きさで区別している。
その右端の無表情の大人は、年齢はよくわからないが、
皺を表す線がまったくないので、少なくとも老人ではないようだった。
三人の大人と一人の子ども。
……
それはどこか、人を不安な気持ちにさせる絵だった。
先生はその男の子の家族構成を思い出す。
団地のアパートの一室に住んでいる一家で、お父さんとお母さんとその一人息子の、三人家族だったはず。
では、この三人目の大人はいったい誰なのだろう。
最近、親戚でも遊びに来ていたのだろうか?
そう思って、先生はこびり付くような気持ちの悪さを振り払う。
気を取り直して次の絵をめくる。
けれど頭の片隅では、その三人目の大人が、
どうして笑っている家族の中で、一人だけ無表情に描かれているのだろうと、考えずにはいられなかった。
――2週間が過ぎた。
その日は参観日で、教室の後ろにズラリと並ぶ着飾った大人たちに、子どもたちは気もそぞろ。
いつもは張り切って悪さをする子も、その時ばかりはカチンコチンに緊張して、大人しくなってしまっている。
先生は授業の終わりに、「このあいだの図工の時間に、みんな家族の絵を描いたよね」と言った。
きゃあ、という子どもたちの歓声。
そして先生は、授業参観をしている父兄たちの後ろを手で示し、
「後ろの壁に貼っているのがその絵です」と言った。
父兄たちは一斉に振り返り、我が子の作品を見ようと、絵の下に貼られた名前を頼りに探し始める。
そしてお母さんたちは、「いやぁ」と口々に言って、大げさな身振りで恥ずかしがる。
お父さんたちは静かに苦笑をする。
子どもたちは、てんでに騒ぎ始めて大はしゃぎ。
そんな光景を微笑ましく眺めていた先生は、父兄たちに話しかけようと、教壇を降りて歩き始める。
その瞬間、つんざくような悲鳴が上った。
悲鳴は教室中に響き渡り、大人も子どもも息を呑んで動きを止める。
その声の主は、壁の隅の絵を見ていたパーマ頭の女性だった。
先生が駆け寄ると、その女性は目を剥き、指を鉤のように折り曲げて口元にあてたまま叫び続けている。
その視線の先には、絵の中でテーブルの端に座る、三人目の大人の無表情な顔があった。
「という怪談があってな」と師匠は言った。
大学に入ったばかりの春のことだった。
彼は大学のサークルの先輩だったが、サークル活動とはまったく無関係に重度のオカルトマニアで、
僕はその後ろをヨチヨチとついていく、弟子というか子どものような存在だった。
「ここはどこですか」
一応聞いてみたが、答えは薄々わかっていた。
僕たちは人気のない団地の、打ち捨てられて廃墟同然になっている、アパートの一室に忍び込んでいた。
僕たちがしゃがみ込む畳には、土足の跡や、空き缶、何かが焦げた跡などがある。
少なくとも、人が住まなくなって5年以上は経っている様子だった。
師匠は言う。
「その三人目の大人を描いた子どもが、家族と住んでいた部屋だ」
「実話なんですか」
そう聞くと、頷きながら、
「もともと巷の怪談として広まってるわけじゃなくて、個人的なツテで収集した話だ」
と言って、部屋を照らしていた懐中電灯を消した。
深夜の1時過ぎ。辺りは暗闇に覆われる。
どうして明かりを消すんだろうと思いながら、じわじわとした恐怖心が鎌首をもたげてくる。
「怪談の意味はわかったよな」と、師匠らしき声が暗がりから聞こえる。
なんとなく、わかる。
母親が最後に悲鳴を上げるのは、その三人目の大人が、本来そこに描かれていてはおかしい人物だったからだ。
まったく心当たりのない人物ではない。
そうならば、『誰かしら』と首を捻るくらいで、そこまで過剰な反応は起こさないだろう。
知っているのに、そこにいてはいけない人物。
それも、死んでいなくなった家族などであれば、
それを絵の中に描いた男の子の感性に涙ぐみこそすれ、恐怖のあまり悲鳴を上げたりはしないだろう。
知ってはいるが、家族であったこともなく、しかもテーブルを囲んでいてはいけない人物。
暗い部屋に微かな月の光が滲むように射し込み、
柱や壁や目の前に座っているはずの師匠の輪郭を、おぼろげに映し出している。
かつてテーブルが置かれていたであろう6畳の居間に、僕は身を硬くして座っている。
闇の中に青白い無表情の顔が浮かび上がりそうな気がして、どうしようもない寒気に襲われる。
師匠が張り詰めた空気を震わせるように囁く。
「実は、気づいていないかも知れないが、この話を聞いた人間にも、ある影響が自然と及ぼされる」
ふーっ、という息を吐き出す音。
僕も息を吸って、吐く。
「話を聞いただけなのに、おまえは何故かもう、その顔を想像している」
心臓が脈打ち、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
「大人と聞いただけなのに、何故かおまえはその顔を、
女ではなく、口を閉じた無表情の男の顔として想像してしまっている」
僕は耳を塞いだ。そして目を瞑る。頭が勝手に虚空に浮かぶ顔を想像している。
どこからともなく声が聞こえてくる。
それがここにいてはいけない三人目の顔だよ
『花』
【霊感持ちの】シリーズ物総合スレ18【友人・知人】
221 :花 ◆oJUBn2VTGE :2011/06/25(土) 23:09:26.24 ID:JgZLuGov0
大学二回生の春だった。
その日は土曜の朝から友人の家に集まり、学生らしく麻雀を打っていた。
最初は調子の良かった俺も、ノーマークだった男に国士無双の直撃を受けたあたりから雲行きが怪しくなり、
半チャンを重ねるたびにズブズブと沈んでいった。
結局ほぼ一人負けの状態で、ギブアップ宣言をした時には夜の十二時を回っていた。
「お疲れ」と、みんな疲れ切った表情でそれぞれの帰路へ散っていく。
俺も自転車に跨って、民家の明かりもまばらな寂しい通りを力なく進んでいった。
季節柄、虫の音もほとんど聞こえない。
その友人宅での麻雀のあとは、いつもこの暗く静かな帰り道が嫌だった。
けっして山奥というわけでもないのに、すれ違う人もいない道で、
自分の自転車のホイールが回転する音だけを聞いていると、なんだか薄気味の悪い気分になってくる。
ところどころに漏れている民家の明かり。
その前を通るとき、その明かりの向こうには本当は人間は一人もいず、
ただ町を模した箱庭のなかに据えられた、空虚な構造物にすぎないのではないかと、
そんな奇妙な想像が脳裏を掠める。
その日も眠気とそんな薄気味悪さから逃げるように、スピードを上げて自転車のペダルを漕いでいた。
線路沿いの道からカーブして、山裾に近づいていくあたりでのことだった。
ふいに、ずしんと内臓に重い石を入れられたような感覚があった。
目の前、切れかけてまばたきをしている街路灯の下あたりに、人影が見えたのだ。
車道だ。ガードレールの外側により沿うように何かが立っている。
異様な気配。思わず前方に目を凝らす。
確かに人の形をしている。
夜とはいえ月明かりはある。そして街路灯のまたたく淡い明かりも。なのにそれは人影のままだった。
じっと見つめていても、真っ暗で色のない人影のままだった。
自分が歩道、つまりガードレールの内側を走っていることを確認する。
あれと近づきたくなかった。しかしこの道を通らないと家には帰れない。
俺は息を止めて、その人影の横を駆け抜けた。
ガードレールの向こうで、真っ黒な人の形をしたものがこちらを向いている。
前後など分からない。なのにそれがこちらを見ているような気がする。
わずか一メートルの距離。道路側にさらした二の腕の皮膚がゾゾゾと波立つ。
一瞬がやけに長く感じられた。
そのままペダルを踏む足に力を込め、振り返りもせずに俺は全力でそこを立ち去った。
異様な気配はそれでもしばらく、うなじのあたりにチリチリと続いていた。
その翌日。
俺は師匠の家に行った。オカルト道の師匠だ。こんな話にはめっぽう詳しい。
昨日体験したことを話すと、思いのほか興味を引かれた顔で食いついてきた。
体験した自分には恐ろしくても、話自体はそれほど衝撃的なところもおどろおどろしいところもなく、
浴びるほどそんな体験を見聞きしてきたという師匠ほどになると、
この程度の話では「ふうん」と鼻で笑われると思っていたのだ。
その師匠が身を乗り出してやけに真剣に聞いてくれる。逆に気持ちが悪い。
なのにそのくせ聞き終わるとこう言うのだ。
「それは幽霊じゃないよ」
俺は唖然として、「なぜですか」と言った。
「幽霊ってのが、死人の身体から離れた肉体を持たないなにか、と定義づけるなら、そいつは違う」
肉体?
ではあれが肉体をもっていたというのだろうか。
「違う違う」
師匠は右手をひらひらさせる。
「でも、あとから思い出したんですよ。
あの街灯の下のガードレールのあたりに、いつも花が飾ってあったんです。
こう……地面に置いた空き缶とか空き瓶に花を挿してたんです。こういう花ですよ」
俺は散らかった師匠の部屋の窓際に置かれている、小さなプランターを指さした。
黄色い花弁の中に黒い染みがある。パンジーという名前だったか。
「今日、近くに住んでる友だちに聞いたら、あそこで昔、交通事故があったらしいんですよ。
子どもが車に轢かれて、即死したらしいです。
それで、その事故現場のあたりを夜中通ってると、
今でもその子どもがそこに立っているのが見えてしまうらしいです」
確かに麻雀をしにその友人の家に行くときは、いつもその手向けられた花が目に入っていた。
お菓子の袋なども添えられていることがあった。
ぞっとする。
それでも成仏できずに、今もその子が彷徨い出てくるのだろう。
何気なく見過ごしてきた日常の風景の中にも、消えることのない人の思いが潜んでいる。
なんだか暗い気持ちになって僕は肩を落とした。
その僕の思いが全く伝わっていないかのように、師匠は「違う違う」と左手をひらひらさせた。
なにが違うのか。気分に水を挿され、少しムッとしながら一応言い分を聞いてみる。
「それって、あそこだろう。交通安全の看板が近くにある……」
ああ、そういえば、間抜けな標語が書かれた看板があった気がする。
師匠は立ち上がり、プランターのパンジーを引き抜いて、台所の転がっていた空き缶に挿してから、俺の前に置いた。
「で、その花ってこんなだろう」
「そうですけど」
「これだよ」
「は?」
「だから、これ、僕が置いてるんだ」
ぽかんとした。
「どこから話せばいいかな……まあ、めんどくさいんで端的にいうと、僕の仕業だ」
唖然とする僕を尻目に師匠は続ける。
「もともとは僕の師匠の研究だったんだ。
まったく何の謂れもない、その変の道端に花を飾るとどうなるか、っていう。
もちろん交通事故なんて起こってないし、死んだ子どももいない。
花が枯れてもしばらくすると、また新しい花を置きに行くんだ。何度も何度も。
誰が置いてるかばれないように、人気のない夜中を選んで。
そうしていると、ある日置いた覚えのない花が置かれてるんだ。誰か他の人が置いたんだよ」
師匠は嬉々として語る。胸糞の悪くなるような、それでいて聞き逃せない、奇妙な話を。
空き缶の中のパンジーの花びらをつまみながら師匠は続けた。
「ガードレールの下の花に、手を合わせる人も現れた。お菓子を置いていく人もいる。
一ヶ月や二ヶ月なら、そこで事故なんて起こってないってことは、地元の人なら分かってるさ。
でもそれが何年も続いていると、記憶が曖昧になってくる。
あの花はいつから置かれていたっけ?
自分の知らない間に、そんな事故があったのかも知れない。
あそこで事故があった?他の人にそう尋ねる。
何年も経つと、周辺の住民にも人の入れ替わりがある。
引っ越してきて以来、ガードレールの下の花を見るたびに、事故でもあったんだろうかと思っていたその人は、
こう答える。
事故が、あったみたいですねえ」
師匠は声色を変えて演じる。
気持ちが悪い。その声が、ではない。人の心を操るようなその不遜さが。
「人々の心の中に、死者が生まれたんだ。
人は花を飾り、手を合わせ、祈る。死者の冥福を。魂の安らぎを。
そうして生まれてしまった死者は、人の言葉から言葉へと感染する。
ガードレールのそばで車に跳ねられた子どもとして。あるいは老婆として、あるいは妊婦として。
元々の形をもたないそれは、様々な姿をしている。
コミュニティを媒介する摸倣子は、情報伝達の過程で変異する。
あるはずのない、怪談話が生まれるまではもうすぐだ」
ただ花を置いただけだ。道端に、ただ花を。
たったそれだけで。
俺は得体の知れない寒気が身体の中を走るのを感じていた。
「十年だ。僕の師匠が街中に花を飾り始めて」
師匠はニヤリと笑った。
『街に花を飾ろう』という運動は聞いたことがある。しかしこれは似て非なるものだ。
まちじゅう?
少し遅れてその意味を認識する。
そう言えば、師匠のアパートには部屋の中だけではなく、玄関の外にもプランターがいくつかあったことを思い出す。
この人にしては妙な趣味だと思っていた。
街中にそんな花が飾られているのか。
そして、その花の中から湧き出るように、名前のない死者たちが……
「幽霊ってのが、死人の身体から離れた肉体を持たないなにか、と定義づけるなら、
昨日見たそれは幽霊ではない。
死人の身体から離れたものではなく、はじめから死人としてしか存在していないんだから。
そしてどれほど多くの人が冥福を祈っても、成仏を願っても、叶うことはない。
本来の意味で言う、死者ですらないそれは、
人々が冥福を祈ることで、成仏を願うことで、そして畏れることでこそ、存在し続ける」
なんてことをするんだ。と思った。
語りながら恍惚とした表情を浮かべるこの人は、
普通の人とは違う倫理観を持っているということを、今更ながら思い知らされた。
人から人へと感染し続けるウイルス。
目に見えないその存在のことを考えた時、脳裏に浮かんだのはそれだった。感染が人の心に幻を生むのだ。
そして自分の中にもそれは入り込んでいる。
だが。
「おかしいですよ」
ようやくその言葉を搾り出した。
「なにが」
「その、ガードレールのところに花が飾られていたのを思い出したのは、通り過ぎた後です。
それにそこで交通事故があって、子どもの霊が彷徨っているなんて話を友だちから聞いたのは、
今日になってからです」
「だから?」
「だから、誰からもそんな話を聞いていないし、なにも知らなかったのに、存在しないものをどうして見られるんです?
『あれ』はなんだったんですか」
自分で言っていてゾクリとした。
俺は『感染』していない。誰からもそこで起きた、ありもしない事故の噂を聞いていない。
自転車で通るときに、花があるなあとは思ったことがあったが、
そこで誰か死んだのではないかという思いを抱いたことはなかった。
連想すれば自然にたどり着くかも知れないが、そこまでの興味を持たなかった。
ただ視界に入った、というだけの景色の一部に過ぎない。
そしてそんな花のことも思い出さず、ただ自転車をこいでいただけの俺の前に、
どうしてそんな得体の知れないものが現れる道理があるのか。
人間心理を利用して人為的に作り出されたはずの、幻としての『死者』がまるで…………
まるで、人の心の外へと滲み出して、ひとりでに歩き出したかのようではないか。
俺が見つめているその先で、師匠が空き缶に挿したパンジーの茎に指先を添えて、ゆっくりと口を開いた。
「だから、研究を続ける価値があるんじゃないか」
そうして静かに花の首を手折った。
『トイレ』
死ぬほど洒落にならない怖い話を集めてみない?194
160 :トイレ ◆oJUBn2VTGE:2008/06/28(土) 23:43:52 ID:quV+YcYD0
大学1回生の春だった。
休日に僕は一人で街に出て、デパートで一人暮らしに必要なこまごまとしたものを買った。
レジを済ませてから、本屋にでも寄って帰ろうかなと思いつつトイレを探す。
天井から吊り下がった男と女のマークを頼りにフロアをうろつき、ようやく隅の方に最後の矢印を見つけた。
角を曲がると、のっぺりした壁に囲まれた通路があり、さらに途中で何度か道が折れて、
結局トイレルームに至るまでには、人の気配はまったくなくなっていた。
ざわざわとした独特の喧騒がどこか遠くへ行ってしまい、自分の足音がやけに大きく響いた。
ふと、師匠から聞いた話を思い出す。
『あのデパートの4階のトイレ、出るぜ』
オカルト道の師匠の言うことだ。もちろんゴキブリやなにかのことではないだろう。
僕はここが4階のフロアだったことを記憶で確認し、「よし、ちょうどいい。確かめてやろう」と思う。
確か師匠はこう続けたはずだ。
『4階の身障者用のトイレでな、自分以外誰もいないはずなのに近くで声が聞こえるんだ。
その声は小さくて、何を言っているのかとても聞き取れない。キョロキョロしたって駄目だ。
小さい音を聞くために、どうしたらいいか、考えるんだ』
ドキドキしてきた。
通路を進むと、男性用と女性用のマークがはめ込まれている壁の手前に、車椅子のマークのドアがあった。
身体障害者用の個室だ。
入るのは初めてだった。
クリーム色の取っ手を横に引くと、ドアは大した力もいらずにスムーズに滑った。
パッと明かりがつく。自動センサーのようだ。内側に入り、ドアから手を離すと自然に閉まっていった。
中は思ったより広い。普通のトイレの個室とはかなり違う。
入り口から正面に洋式の便座があり、右手側には洗面台がある。
その洗面台の上部に取り付けられている鏡を見て少し違和感を覚える。
鏡の真正面に立っているのに自分の顔が見えない。胸元が見えているだけだ。
よく見ると鏡は前のめりに傾けられていた。
なるほど、車椅子の人が使うことを想定して、低い位置から正対できるようになっているらしい。
顔の見えない鏡の中の自分と向かい合っていると、
まるで鏡に映っているのが見知らぬ誰かであるような気がして気持ちが悪かった。
僕は鏡から目を逸らし便座に近づく。
手すりが壁に取り付けられ、壁から遠い側には床から丈夫そうなパイプが伸びている。
グッと体重をかけて、手すりとパイプを両手で掴みながら体を反転させる。
ストン、と便座に腰を落とす。
静かだ。換気扇の回る振動だけが伝わってくる。
心霊スポットだからって、いつもいつも『出る』わけでもないだろう。
ましてこんなに明々とした個室で、しかも昼間っからだ。
残念に思いながらも少しホッとした僕は、ついでだからとズボンを下ろし、用を足した。
水を流すボタンはどれだ?
壁側を探ると赤いボタンが目に付いた。あやうく押すところで思いとどまる。
『緊急呼出』
そんな文字が書いてあった。
危ない。緊急時の呼び出しボタンらしい。
紛らわしい所に置くなよと文句を言いそうになるが、少し考えて合点がいく。
体調急変時のボタンなのだから、手が届くところで、かつ目立つ場所にないといけないのだろう。
『洗浄』のボタンをその近くに見つけて、押し込む。
ザーッという水が流れる音がして、そしてまた静かな時間が戻ってくる。
が……
立ち上がろうとした瞬間、僕の耳はなにかの異変を捉らえた。
……ボソ……ボソ……ボソ……
何か小さな声が聞こえる。
瞬間に空気が変わる。重くねっとりした空気に。
僕は頭を動かさず、目だけで室内を見回す。
天井、照明、換気扇、ドア、洗面台、鏡、壁、手すり、床。
なにも変化はない。音は目には見えない。
ボソ、ボソ、という誰かが囁く様な音は続いている。
ここから逃げたい。
けれど、足が竦んでいる。
そして、足が竦んでいること以上に、僕はその声の正体を知りたかった。
『キョロキョロしたって駄目だ』
師匠の言葉が脳裏を掠める。
僕は考える。誰かの口が動いているイメージ。イヤホンから何かが聞こえるイメージ。
ラジオのスピーカーの無数の穴からそれが聞こえるイメージ。
そうだ。音はいつも『穴』から聞こえてくる。
僕は視線を床に落とした。
タイルの真ん中に排水溝の銀色の蓋が嵌っている。
便座から立ち上がり、屈んでその排水溝を覗き込む。中は暗い。照明を遮る僕自身の影の下で何も見えない。
……ボソ……ボソ……ボソ……
囁き声はこの下から聞こえてくる。
僕はタイルに手をついて、排水溝に耳をつけた。正面の白い無地の壁を見ながら、心は真下に向けて耳を澄ます。
…………ボソ…………ボソ…………
遠い。聞き取れない。さっきよりももっと遠い。
何も聞き取れないままやがて音は消えた。
僕は身を起こし、その場にしゃがみ込む。
なんだ?
何事も起きないまま怪異は去った。
いや、そもそも怪異だったのかすらよく分からない。ただ小さな声、いや、音が聞こえたというだけだ。
その時、僕の頭にある閃きが走った。
もう一度『洗浄』のボタンを押す。水が流れる音がして、やがてその一連の音も収まる。そして聞こえてきた。
……ボソ……ボソ……ボソ……
もう一度排水溝に耳をつける。
今度は空気の流れを耳の奥にはっきりと感じる。
どういう仕組みかわからないが、便座洗浄をするための水が流れると、
振動だか水圧だかのせいで、排水溝からこんな音が聞こえてくるのだ。
くだらない。
肩の力が抜けた。
師匠もこんな単純なオチに気づかないなんて大したことないな。
そんなことを考えていると、笑いが込み上げてくる。
このトイレの話をした時の、彼の真剣な顔が道化じみて思い出される。
そういえば、最後に変なことを言ってたな。確か……
『利き耳はだめだ。利き耳は、現実の音を聞くために進化した耳だからだ。
いつだって、この世のものではない音を聞くのは、反対側の耳さ』
バカバカしい。
師匠のハッタリもヤキが回ったってものだ。
僕は薄笑いを浮かべながら左の耳たぶを触る。
今まで確かになんの意識もせずに右の耳を排水溝に近づけていた。
考えたことはなかったが、右が僕の利き耳だったのだろう。
だけど左で聞いたからってどうなるっていうんだ?
師匠を馬鹿にしたい気持ちで、僕はもう一度床のタイルに両手をついた。
さっきと同じ格好だ。入り口のドア側から体を倒して床に這いつくばっている。
排水溝は個室の真ん中にある。奥側は便座がある分、這いつくばるようなスペースがないからだ。
スッと左の耳を床に向けた時、得体の知れない悪寒が背筋を走りぬけた。
何だろう。タイルについた膝が震える。
だけど止まらない。僕の頭は排水溝の銀色の蓋に近づき、その穴に左の耳がぴったりとくっついた。
さっきとは違う。右と左では明らかな違いがある。どうしてこんなことに気がつかなかったのか。
心臓は痛いくらい収縮して、針のような寒気を全身に張り巡らせていく。
今、僕の目の前には壁がない。右耳を排水溝にくっつけた時にはあった、あの白い無機質な壁が、今はない。
左耳で聞こうとしている僕の目の前には今、洗面台の基部と床との間にできたわずかな隙間がある。
モップさえ入りそうもないその隙間の奥、光の届かない暗闇から、誰かの瞳が覗いている。
暗く輝く眼球が、確かにこちらを見ている。
……ボソ……ボソ……ボソ……
左耳が囁きを捉える。地面の奥底から這い上がってくるような声を。
僕はその小さな声が言葉を結ぶ前に跳ね起きてドアを開け、外に転がり出た。
ドアから出る瞬間、視線の端に洗面台の鏡が見えた。顔のない僕。あれは本当に僕なのか。
振り返りもせずに駆け出す。角を何度か曲がる。
フロアに出た時、騒々しいデパート特有の様々な音が耳に飛び込んで来た。
冷たい汗が胸元に滑り込んでいく。今見たものが脳裏に焼きついて離れない。
僕は壁際のベンチの横で、寒気のする安堵を覚えていた。
たぶん、床の隙間のあの眼を見てしまった後、あの個室から逃げ出すまでの間に、
一瞬でも『このドアは開かないんじゃないか』と思ってしまっていたら、
きっとあのドアは開かなかったんじゃないかという、薄気味の悪い想像。
そんな想像が沸いてくるのを止められなかった。
コメント