藍物語シリーズ【4】
『新しい命』
「仲○様ー。」 看護師さんが待合室に呼びかけ、女性が1人診察室に入っていく。
4週に一回、Sさんの定期検診で産婦人科の病院に来ていた。
混んで長く待つとSさんの体に負担が掛かると思い、姫を送ってそのまま来たのだが
既に数人の女性が待っている。大抵待合室に男性は俺1人だけで、何となく落ち着かない。
暫くして先程の女性が診察室から出てきたと思ったら、直ぐに白衣の女性が出てきた。
「あらSさん、今日検診だったわね。もう少し待ってて下さい。」
眼鏡に軽く触れた後、ちらっと俺を見る。「この方が、その、彼氏?」
「はい。 Rさん、こちらが私の担当の○川先生。」 Sさんが微笑む。
「どうも、初めまして。宜しくお願いします。」 一応立ち上がって一礼する。
「直ぐに戻ります。」
Sさんの担当医というその女性はもう一度俺を見てそう言うと
廊下を奥の方に向かって歩いていった。
検診の結果は異常無し、子供の発育は順調だった。その日の夜。
Sさんは病院でもらったエコーの写真をベッドの上で飽きもせず眺めている。
「そう言えば担当のお医者さん、女性なんですね。」
「そうよ。だってわざわざ障りの無い方位で評判の良い女医さんを探したんだから。」
成る程、それで車で片道40分もかかるような病院を。
「やっぱり女医さんの方が、何かと気が楽なんですか?」
「気が楽っていうか、いくら産婦人科の検診でも、あなた以外の男の人に
あちこち触られるなんて絶対嫌。そんなの考えただけで気持ち悪いもの。」
まあ検診の内容が内容だけに、Sさんのような美人を診察する時にはお医者さんといえど
少しだけ変な事を考えてしまう事もあるだろう。Sさんにはそれが伝わってしまう訳で
俺以外に触られたくないって言いたくなるのも無理は...え、俺以外?
「R君、今まで口に出して聞かれた事は無かったし、
そんなの自慢するのもおかしいから黙ってたけど。私、男性経験はあなた1人だけよ。」
「え、ええと、そう聞くと何だか嬉しいですね。」 Sさんは小さく溜め息をついた。
「全然信じて無いわね。あなたに妹の力を使った時、あなたも『初めて』だったけど、
私もあの夜が『初めて』だったの。でも、あなたは私の事『経験豊富』だと思ってる。
もし、口に出して言われたり聞かれたりしたら思い切りひっぱたいてやるつもりだったけど。」
実は何度か聞こうと思った事があったので肝を冷やした。危ね~、取り敢えずセーフ。
「いや、それはSさんがとても上手で、その。」
「あなたがどうしたいか、どうされたいか、それがどんどん伝わって来るんだから
その中で私も気持ち良い事を選んでるだけで良いんだもの。当然でしょ。」
そして、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「あなたのお気に入りの女優さんの顔も伝わって来るわよ。
もう何人かは顔を憶えちゃった。今度ネットで名前調べてみようかしら。」
「や、止めて下さい、そんな。昔の事を持ち出すなんてSさんらしく無いですよ。」
「冗談よ。私への『好き』と彼女たちへの『好き』が違う事、ちゃんと分かってるから。」
Sさんはベッドから出て俺の隣に座った。俺の首に両手を絡める。
「ね、もう分かったと思うけど、私には一生あなただけよ。あなたはそうでなくても、ね。」
心の底の方から、何か温かいものがじわじわと湧き上がってきた。
「ありがとうございます。何だか、とても感動してます。」
俺はSさんを抱き上げてベッドに運んだ後、部屋の灯りを消した。
「まだ安定期に入ってないんだから、盛り上げてもダメよ?」 「わ・かっ・て・ます!」
「いつか聞こうと思っていたんですが。」 「なあに?」
妊娠六ヶ月を過ぎて、Sさんのお腹もやや大きく目立つようになっていた。
就寝前のひととき、寝室のソファに並んで座り、Sさんは俺の右肩に頭を預けている。
「あ、もう安定期に入ってるから、『しても』大丈夫よ。前にも言ったでしょ?」
「...心が読めるくせに、何で変な方向に話を持っていくんですか?」
「ごめん、ちょっとした出来心。それに。」
Sさんは声を潜めた。「今夜は私も久し振りに『したい』気分なの。」
そして俺に熱く長いキスをした。「じゃ、質問を続けて。」
「そんな事されたら、質問どころじゃ無くなりますよ。」 「そう?」
普段の隙のない行動様式や、抑制の効いた感情表現に比べて、2人きりでいる時の
この人の『性』に関する態度はとても積極的で、本当に驚かされる事が多い。
「魔術とか呪術の類では、術者にとって『性』は禁忌という話が多い気がするんですが。」
「私が『性』を禁忌にしていないから不思議に思ったって事ね?」 「そうです。」
『性』が禁忌どころか、以前Sさんは「一夫多妻」でも「一妻多夫」でも、
それに「未婚の母」でも構わないと言った。
実際、あと4ヶ月もすれば、日本の法律上はSさん自身が「未婚の母」だ。
「特別な祀りをする時や、ある系統の術を使う時は『性』に関わる事を
一定の期間避ける事はあるわよ。『斎戒』って言うんだけど。」
「そう『斎戒』、それです。ある期間異性との関係を断つ、みたいな。」
「でも、それは『殺生をしない』とか『生臭ものを食べない』とか、
いくつかある忌み事の1つであって『性』だけが特別な訳じゃない。」
「じゃあ何故術者に『性』は禁忌のような話が広まってるんでしょうね?
処女崇拝なんかもその類だし、あと僧侶の妻帯禁止とか。」
「現代の仏教では女性を穢れたものと考えるから、
表向きだけは妻帯禁止という戒律があるんでしょ。
大元の教祖様が妻帯者だったのはどう説明してるのか知らないけど。
それに、全ての男が解脱して穢れを避けたら100年以内に人類滅亡ね。」
Sさんは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「陰陽道では女性を穢れたものとは考えないんですね。」
「新しい命を宿す、と言う点ではむしろ男性より女性の方が『根源』に近い存在とされてる。
『力』を持って産まれてくる子に女の子が多いのも、その関係らしいし。」
「だから『性』は特別な禁忌にはならない、と。」
「禁忌どころか、さっき言ったような限られた場合を除けば、
『性』は術者の能力を高めてくれる事の方がずっと多いわ。あなたへの恋愛感情で
Lに仕込まれていた術を抑えられたのは、恋愛が象徴的な『性』の形の1つだから。
あなたへの恋愛感情が、術に対するLの抵抗力を高めていたの。
いつかあなたと結ばれたら、Lは今よりもっと強い力を使えるようになるはずよ。
「もしかして、妊娠したら妊娠前より能力が高まるんですか?」
「勿論。私の力も自己記録絶賛更新中。術の系統や種類によって
どの位能力が高まるかはまちまちだから、当社比何%UPって細かくは言えないけど。」
「...妊娠中より出産後は更に?」
「そう、『母は強し』っていうでしょ?妊娠した時と違って出産後は
能力全体が底上げされるみたいだから、今からちょっと楽しみにしてるの。」
「向上した能力に体がついていけなくなるって事はありませんか?」
姫の母親の『強過ぎる力』が胸をよぎり、心に不安が湧き上がってくる。
「心配してくれてありがと。でも大丈夫。これは私の器自体が成長した分だから平気。」
「なら良いんですけど。」 本当に大丈夫なんだろうか。
「今夜は気分が良いから、ちょっと面白いもの見せてあげる。」
きっと俺の不安を感じ取って、気を紛らわせてくれる気なんだろう。
「面白いものって何ですか?」 「最初は蝶々なんてどう?金色の。」
金色の蝶といえば、お正月に姫の術で見た幻視だ。
「いや、『あの声』はちょっと。」 「あれ、私は得意じゃないって言ったでしょ。」
Sさんはソファから立ち上がり、机の引き出しから白紙と鋏を取り出してきた。
「私の得意な術も、一度見て欲しかったし。」 言いながら両手を動かす。
「ほら、綺麗でしょ?」 右手の掌に紙の蝶が3片、重なって載っている。
「手先が器用なのは知ってますけど。」 「不満そうね。でも、これならどう?」
Sさんは小声で何か呟きながら紙の蝶を天井に向かって投げ上げた。
まさか、これは。
金色に輝く蝶が3片、細かな金粉をまき散らしながら天井近くを飛び回っている。
微かに鈴を鳴らすような音が聞こえる、蝶の羽音なのか。幻想的な美しさだ。
「手を伸ばして。掌を上に向けて。」 「こう、ですか?」 「そう。」
3片の蝶が俺の掌に相次いで舞い降りた。
そして俺の掌に舞い降りた途端、目の前で切り紙細工の蝶に戻る。信じられない。
「これは、幻視なんですか?」 「違う。幻視じゃない。」
「じゃ金色の蝶は、俺は何を見たんですか?」 「見た通りよ。金色の蝶々。」
「あれが現実だって言うんですか?」 「その目で見たものが現実じゃないの?」
「そんな。」 「Lの術を再現した後だから、次はKが得意だった術を再現してあげる。」
「Kって、『あの人』の得意な術を、ですか?」 「そう、見えるだけじゃなくて、触れる。」
Sさんは体を起こし、前屈みになってテーブルの上で両手を向かい合わせた。
「手品でも幻視でもないから、何が見えるかは前もって教えないわよ。」
Sさんがゆっくりと深呼吸を繰り返し、机の上で両掌を向かい合わせた。
両掌の間隔は30cm位。既にその間にうっすらと光の固まりが見える。
Sさんの集中力が高まる。今にもチリチリと火花が散りそうだ、その直後。
Sさんの両掌の間、テーブルの上に、白い小さな龍がいた。
丸まって寝ているが、大きさは30cm位だろう。本当に小さい。
「何が見える?あ、待って。手品じゃないから聞き直し。小さな龍が見える?白い龍。」
これが幻視じゃないというのか?「見えます。白い小さな龍。」
「幻視だと思う?」 「判りません。」 「じゃ触ってみて、背中を、そっとね。」
右手を龍に向かってそろそろと伸ばす。!?中指が、龍の背中に触れた。
細かい鱗の感触、乾いた手触り。その時、龍が目を覚まして頭をもたげた。
小さく欠伸をして俺の顔を見つめる。首を伸ばして俺の指に鼻先をこすりつけた。
また欠伸をして丸くなる。寝てしまったようだ。
「やっぱり懐いちゃったわね。」
Sさんが掌をゆっくりと合わせるにつれ、龍の姿は薄れて消えた。跡形も無く。
「あれは式なんですか?」 「違う、術者でなければ式には触れない。」
「じゃ、あれは何です?」 「だから、見たものそのままよ。龍。どんな感触だった?」
「乾いた、さらさらした鱗の手触りでした。あれも、現実なんですか?」
「見えるもの、触れるもの、それが現実かどうかはあなたが決める事、そうでしょ?
それじゃ、最後に大サービス。気に入ってもらえると良いんだけど。」
Sさんは三面鏡の引き出しから手鏡を取り出してきて俺に手渡した。
「鏡を見て。何が見える?」
Sさんの眼はきらきらと輝いている。ドキドキしながら手鏡を覗いた。
長円形の鏡には俺の顔が映っている。凡庸な、さえない顔。いつも通りだ。
あたりまえなのに、何となくがっかりする。「俺の顔です。いつもの。」
手鏡をSさんに返す。Sさんは手鏡を胸にあてて両手を添えた。
「そうよね。私とL以外の、世界中の皆が見てるあなたの顔だわ。」
どういう意味だ? Sさんと姫が見ている俺の顔は、あれじゃないというのか?
「そうよ。じゃ、もう一度鏡を見て。」
だから喋る前に答えるのは止めて下さいって。
Sさんは唇に人差し指を当てて、俺に手鏡を差し出した。 指示通り、黙って受け取る。
息を止めたまま、もう一度鏡を覗く。思わず声が漏れる。「そんな、これって?」
そこには、どこかしらKの面影のある端正な顔が映っていた。しかし髪は短く、男の顔だ。
「悪い冗談は止めてください。何を考えてるんですか。」
「冗談なんかじゃない。私とLが見てるあなたの顔、真実の顔はそれ。美形でしょ?」
これが俺の顔?もう一度鏡を覗くと、やはりKに似た端正な顔が鏡の中から俺を見つめる。
俺が左目を閉じると鏡の中の顔は右目を閉じる。
両目を閉じて、もう一度開いても鏡の中の顔は変わらない。
「あ、間違ってた。さっきは私とLだけと言ったけど、あなたのお母様と、
おそらくあなたのお父様も見ているあなたの顔がそれよ。ご感想は?」
「信じられない。こんな、まさか。」見る人によって俺の顔が違うなんてあり得ない。
「じゃあ写真は?Sさんは僕の写真を見てもこの顔に見えるんですか?」
「そうよ、当たり前じゃない。そうじゃなかったらおかしいでしょ。」
「見る人によって同じ写真が違う顔に見える方がよっぽどおかしいですよ。」
「R君、君、自分の写真に『本当は』どんな顔が写ってるか確認できるの?」
「『本当は』って...」自分の常識が崩れていくようで妙に不安になる。
「人は自分の顔を鏡で見る方がずっと多いでしょ?写真で見るよりも。
鏡で見る顔と写真の顔は左右が完全に反転してる。なのにほとんどの人は
写真の顔を全く不自然に思わず、鏡の顔と同じ自分の顔だと認識する。
違うものを見てるのに、それらが同じに見える事があるのなら、
同じものを見ているのに、それらが違うものに見える事があっても全然おかしくない。」
「そんな、じゃあ、あの蝶は、龍は。 僕は一体何を...」
Sさんは俺の手から手鏡を取り上げて、耳許で囁いた。
「さて、私、あなたを楽しませる為にいっぱい頑張ったんだから、
今度はあなたが私を気持ち良くさせてくれる番よね?分かってる?」
夢を見ていた。
草原の中の小さな公園、Sさんと並んで俺はベンチに腰掛けている。
雲ひとつ無い青空、太陽がまぶしい。Sさんは白い日傘をさしていた。
「名前を考えたんです。子供の名前を。」
「どんな名前?」 Sさんは優しい笑顔で俺を見つめた。
「『みどり』ってどうですか?翡翠の『翠』って漢字を考えてるんですが。」
「みどり、素敵ね。良い名前。漢字は少し難しいかもしれないけれど。
緑の草原のみどり、『あの人』があなたと出会った、この綺麗な草原のみどり。」
Sさんの声の調子は、まるで短歌や俳句を詠唱しているようだ
「この場所に因んだ名前だとして、何か障りはありますか?」
「それは大丈夫、障りがあるのは名前の読みや漢字が同じ時だけ。」
数日前、寝室のソファでSさんと話した記憶が変形して夢に出てきている。
俺は自分が夢を見ている事を自覚しながらSさんとの会話を楽しんでいた。
「R君。あなた、起きて頂戴。お腹が、少し変なの。」Sさんの声だ。
俺は飛び起きた。「どうしたんです。」 「お腹、いつもと違う。いよいよかも。」
時計を見る、6時12分。出掛ける支度に30分、病院まで車で40分。
診療開始は9時だがそれより早くても対応はしてくれるだろう。「痛みはありますか?」
「痛いっていうより、いつもより張りが強い感じ。まだ充分余裕はあると思うけど。」
「Lさんの学校はどうしましょう。」
「Lに判断させて。学校に行くならLを送ってからでも多分大丈夫。」
「分かりました。」 俺は一階の姫の部屋へ向かった。ドアをノックする。
「Lさん、起きて下さい。Sさんがいよいよみたいなんです。」
すぐに姫がドアを開けた。「本当に?直ぐに着替えて行きます。」
「今日、学校はどうしますか?」 「お休みします。7時半になったら学校に電話して下さい。」
「了解です。」 俺と姫はかねてからの打ち合わせ通り準備にかかった。
姫はSさんと相談しながら当座の荷物を手際よくまとめていく。
俺はマセラティの助手席をぎりぎりまで後ろに寄せ、背もたれを倒してタオルケットを敷き
ヘッドレストに小さなクッションをタオルで縛り付けて簡易ベッドを作った。
姫には運転席側から後部座席に乗ってもらえば良い。
荷物を車に載せ、出発の準備が出来たのは6時40分だった。
家の中に戻るとSさんはダイニングの椅子に座り、姫が朝食の支度をしていた。
「あの、直ぐに病院に行かなくて良いんですか?」
「急がせて御免なさい。Lが学校を休んでくれるなら朝食の後で大丈夫。」
Sさんが涼しい顔をしているので俺も安心した。途端にお腹が鳴って空腹を自覚する。
「そういえばいつもの朝ご飯の時間ですね。」 姫が料理の皿を並べていく。
3人でお喋りしながら朝食を食べ、朝食の後のコーヒーまでしっかり飲み、
出発したのは7時50分だった。その頃には陣痛が始まったらしく
Sさんは『少し痛くなってきたかも』と言っていたが、まだ表情には余裕があった。
病院に着いたのは8時40分過ぎで、まだ診療開始時間では無かったが
先に看護師さんが入院の手続きをしてくれた。俺と姫はSさんを待合室に残して
部屋に荷物を運んだ。Sさんの希望通りの個室で、家族も宿泊できるようになっている。
待合室に戻ると既にSさんの姿は無かった。診察室の中で診察を受けているのだろう。
10分程するとSさんと担当医の○川先生が出てきた。
Sさんは心なしかげんなりした表情に見える。
「陣痛は始まってますが、もう少し待った方が良いと思います。
お部屋で待ってもらって陣痛が強くなったら看護師に連絡して下さい。」
「今もこんなに痛いのに、もっと痛くなるんですって。そしたら私、絶対歩けない。」
Sさんの声に力が無い。こんなSさんは初めて見た。
「Sさんらしくないですよ。頑張って下さい。車椅子をお貸ししまょうか?」
「お願いします。」 Sさんは借りた車椅子にぐったりと座り、俺の手を握った。
姫が車椅子を押し、俺がSさんを励ましながら部屋へ戻った。
部屋のベッドに横になっても、Sさんは周期的に強くなる痛みに耐えながら唸っていた。
「痛い。本当に、もっと痛くなってきた。」眼を赤くして涙ぐんでいる。
陣痛が強くなる度、俺と姫が交代でSさんの手を握っていたが、見ている方も辛い位だ。
「術で痛みを消すとか、無理なんですか?」取り敢えず聞いてみた。
「...出来るけど、痛みを消したらタイミングが分からない、きっと。」
確かに、それはそうだ。だからといって俺にはどうすることも出来ない。
ただSさんの手を握り、背中や腰をさすってあげるしかなかった。
ちっとも進まない時計の針にじりじりしながら3時間程が経った。
陣痛の間隔は短くなり、痛みはさらに強くなっているようだ。
「もうお昼ご飯の時間ですね。私、ちょっと行って買ってきます。
Sさん、何か食べたいものはないですか?」 姫が心配そうに尋ねた。
「いらない、何も食べたくない。」 Sさんは消え入りそうな声で答える。
「こんな時だからこそ食べておかないと、最後はきっと体力勝負ですよ。」
俺はSさんの眼を見つめながら精一杯励ました。
「...じゃあ、何か甘いもの、ケーキとか。」 「分かりました。」
姫が部屋を出て暫くすると、Sさんの唸り声が聞こえなくなった。
陣痛が弱まり、疲れて寝てしまったらしい。このまま寝ていられたら楽だろうに。
俺も朝から気を張っていて疲れていたのだろう。
Sさんの右手を両手で握ったまま、ついうとうとと居眠りをしてしまった。
どのくらい寝ていたのか、部屋に満ちる濃密な気配を感じて眼が覚めた。
Sさんはベッドで上体を起こし、緊張した顔で前を見ている。
そろそろとSさんの視線を辿り、俺は凍り付いた。
Sさんの顔から50cmくらい離れたところ、俺の真正面に手が浮いていた。
白く細い指、おそらく女性の右手だ。Sさんが左手を伸ばして、そっとその手を取る。
すると次第に腕が、そして肩が、胴体と頭がはっきりと見えてきた。
一糸まとわぬ裸体の若い女性が、ベッドの上、Sさんの膝の辺りに立っている。
眩しいほどに白い肌、形の良い乳房、そして端正な横顔。俺はその女性を知っていた。
そう、K、『あの人』が穏やかな表情でSさんを見下ろしている。
その右手はSさんの左手をしっかりと握っていた。
思わず声を掛けようとした時、Sさんの右手が俺の手を強く握ったので
すんでの所で俺は声を飲み込んだ。
KはしばらくSさんを見下ろしていたが、やがて静かに眼を閉じた。すると。
ゆっくりとKの体が小さくなっていく。高校生から中学生、そして小学生と
成長の過程を逆に辿るように。もう身長は1mもない、眼を閉じたままの幼児の姿だ。
赤子の大きさに近づくにつれ、その姿はボンヤリと薄れ、微かな光に包まれている。
やがて、その姿は完全に、消えた。
Sさんはゆっくりと左手を開き、優しい笑顔で俺に声を掛ける。
「破水したみたい。看護師さんに電話して頂戴。」 声に力が戻っていた。
「あの、痛みは、痛みは無いんですか?」 俺はベッドの脇の電話を取りながら聞いた。
「さっきより、もっと、ずっと痛いわ。でも、私、もう大丈夫。心配しないで。
母親になるんだから、しっかりしないと。早く、少しでも早く、この子に会いたい。」
看護師さんがストレッチャーにSさんを乗せ、部屋から運び出した直後に姫が帰ってきた。
看護師さんについて俺と姫も一階の分娩室に向かう。○川先生が待っていてくれた。
「出産に家族の付き添いを希望しますか?」 「いいえ、1人で大丈夫です。」
「Rさんについていてもらった方が良くありませんか?」姫は心配そうだ。
「僕でも、Lさんでも、2人一緒でも、付き添い出来ますよ。」
Sさんは俺の手を握って優しく笑った。
「そんなに沢山いたら部屋が満員になっちゃうわ。大丈夫だからLと一緒に待ってて。」
俺はSさんの額にキスをした。「じゃ、2人で待ってます。頑張って下さい。」
Sさんは小さく手を振って分娩室に入っていった。
元気な産声が聞こえたのは、Sさんが分娩室に入ってから40分程した時だった。
暫くして俺たちは看護師さんに呼ばれて分娩室の中に入った。
Sさんは小さな赤子を胸に抱いて微笑んでいる。部屋を満たす血の匂い。
21世紀の現代でも、出産は昔と同じく本当に命がけ。今更にそれを思い知らされる。
「おめでとうございます。元気な女の子、母子共に健康です。○川先生は満面の笑みだ。
朝の様子ではどうなる事かと心配しましたが、初産にしては思いの外に安産でした。」
その時、Sさんが澄んだ声で歌い出した。短い歌で、古い言葉だったが
無事に産まれてきた子に感謝し、これから大切に育てる事を誓う歌詞が聞き取れた。
Sさんはその歌を3度繰り返して歌い、3度目は姫も声を合わせた。
厳かな、でも優しくて何故か懐かしい調べ。
その歌を聴いているうちに涙が溢れてきて止まらなくなった。
○川先生も、看護師さん達も涙を拭っている。
「ねえ、とても可愛い子よ。あなたに良く似てる。抱いてあげて。」
姫に背中を押され、俺は涙を拭いてSさんから赤子を受け取った。
これがSさんと俺の子、俺たちの娘なのか。可愛いかどうかなんて分からない。
俺の腕の中で安らかな寝息を立てる赤子は、思っていたよりずっと軽かった。
「あの、私にも、抱かせて下さい。」 姫がおずおずと言った。
タオルでくるまれた赤子を姫にそっと渡す。
赤子を胸に抱いて、その髪を撫でた姫の両眼から、大粒の涙が溢れた。
「赤ちゃんて、新しい命って、こんなに、こんなに可愛いんですね。私が...」
「そう。Lが生まれた時も、Lのお母さんはそうやってLを抱いて、
さっきの歌を歌ったの。私たちはみんなあなたを祝福したわ。」
「...お母さん...」
Sさんの回復は順調で、予定通り出産から5日後に退院してお屋敷に戻ってきた。
「ねえ、L。そろそろミルクの時間なんだけど。」
「あ、ごめんなさい。翠ちゃん、ミルクだって。また後でね。」
『子供を可愛いと思えるか自信が無い』という言葉とは正反対に、
姫は翠を文字通り溺愛していた。
高校へ行く前、高校から帰った後、時間さえあればずっと翠を抱いている。
休日ともなれば一日中翠の傍を離れず、翠を抱いている時間は俺やSさんより長かった。
「平日の昼間はあなた、平日の朝夕、休日は一日中L。
2人がずっと翠を抱いていてくれるから、私、子育て疲れとは縁が無さそう。
でも、このままだと翠が私の事を母親だと思ってくれないような気がして心配だわ。」
「大丈夫ですよ。Sさんは毎晩ずっと翠ちゃんと一緒にいられるじゃないですか。
できれば私も毎晩翠ちゃんと一緒に寝たいのに。
あ、だから旅行とかどんどん行って下さいね。翠ちゃんは私に任せて。」
「そんな事したら、私、本当に忘れられちゃうじゃないの。」
「そ・こ・で、私、良い考えがあるんです。」 「何?」
「出来るだけ早く、もう1人赤ちゃんを産んで下さい。そしたらSさんと私で
1人ずつ抱いて寝られるじゃないですか、ね。」
「L、あなた、そんな簡単に...でも、確かに良い考えね。男の子も欲しいし。」
「あのう、済みません。僕の立場は?」
暫く顔を見合わせた後、2人の口から出たのは同じ言葉だった。
「それじゃ、3人目も。」
『新しい命』 完
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