『忘れ形見』藍物語シリーズ【18】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

『忘れ形見』藍物語シリーズ【18】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物

 

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藍物語シリーズ【18】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『忘れ形見』

 

「2月の終わりに榊さんから依頼された仕事なの。R君は入院中だったし、
とても依頼を受ける状況じゃ無かったから、少し待ってもらってた。
でも捜査が全然進まないし、状況が悪化する前にどうしてもって。
だから、瑞紀ちゃんがいる間にLと2人で準備を進めてた。
そう、2人だけお屋敷に残して残して私たちが出かけた日とか。憶えてるでしょ?
あなたに知らせたら気に病むと思ったから、悪く思わないで。」

翠と藍は昼寝をしている。2人を寝かしつけた後、リビングで3人、お茶の時間。
小さくて綺麗なケーキ。姫が淹れてくれた、今年初めてのアイスコーヒー。
もうそろそろ、冷たい飲み物が美味しい季節。

 

「捜査が進まないって、何かが妨害をしてるってことですか?」
以前、ある男の生き霊が榊さんたちの捜査を妨害し、
榊さんの部下が精神に変調をきたしたという話は良く憶えている。
そんな妨害でもなければ、チーム榊の捜査が滞ることはないだろう。
「少し特殊なケースです。国内の系統ではない術者が関わっていますから。」
外国の、術者ということか。確かに、外国にだって『力』を持つ人間はいるはずだ。
「具体的な依頼の内容はどんな?」
「簡単に言うと、若い女性が4人行方不明になっていて、そのうち1人は遺体で見つかってる。
その遺体の状況が少し変だったから、榊さんは私たちの仕事の範疇だと判断した訳。
ショック症状で亡くなったのなら特に珍しくもない状況なんだけど、
遺体にはショック症状の原因になりそうな外傷や火傷が全く無かった。それで。
事件に関係ありそうな場所の捜索に協力して欲しいという依頼。出来れば逮捕まで。」
「捜査の妨害はどんな風に?やっぱり生き霊、ですか?」
「いいえ、妨害ではなくて、手がかりが無い。それに、もし、捜査の対象になってると知られたら、
唯一のルートが断たれる可能性がある。だからチーム榊といえど下手に動けない。
でも、このまま放置すれば新しい行方不明者が出るかもしれない。
R君も回復したし、さすがにこれ以上、待ってもらう訳にはいかないでしょ?」

 

「遺体で見つかったのは1人だけなんですよね。それ以外の人たちは今何処に?
連続殺人なら、見つかった遺体が1つだけなのはおかしいし、
人身売買絡みなら、被害者の動向が榊さん達の網にかかるんじゃ?」
性犯罪関連か、臓器売買のドナーか、どちらにしてもチーム榊なら尻尾を掴むだろう。
「さすが、冴えてる。そろそろ本調子ね。あなたの感じた通りよ。
犯行の目的がはっきりしない。だから榊さんは焦ってる。無理もないわね。」
「国内の系統ではない術者が関わっているのは間違い有りません。
でも今の所、行方不明になった女性達が国外へ送られた形跡は無いそうです。
4人とも、二十歳前後の若い女性。モデルの募集に応募すると言い残した人がいて、
そのルートから榊さんたちがあるプロダクションの事務所を突き止めたと聞きました。」
「ただ、噂話程度でまともな証拠が無いから事務所の捜査令状は出ない。
事務所にいる人間の身柄を押さえようにも、どの程度事件に関わってるかが分からない。
それに、もし警察が動いてる事を知られて事務所が閉鎖されたらお手上げ。
でも結果的には、榊さんの判断は正しかった。
先週、下見に行ったら事務所には特殊な結界が張られてたから。」
「どんな、結界ですか?」
「入れないの、男の人は。無理に結界を抜けようとすれば、多分命に関わる。」
「へ?男だけが入れないって、そんな。」

 

「女人禁制の術や場所があるように、男子禁制の術もあるにはある。
父親や兄弟と一緒に事務所に来た女の子への対応かとも思ったけれど、
母親や姉が一緒だった場合は無意味だし。正直、理由は分からない。
もしかしたら、ただ、男性がもの凄く嫌いなだけかも知れない。
自分のパーソナルスペースには絶対に男性を入れたくない。そんな感じ。
だからってチーム榊には20歳前後の女性捜査官なんていないし、
もしいたとしても、何が起こるか分からない以上、潜入させるのはさすがに危険。
その点、術者であれば中から結界を破れるし、不測の事態にも対応出来る。
最初にその事務所からモデルの募集があったのは去年の年末。ほら、これ。」
Sさんはオーディションやモデル募集の広告が載った情報誌を広げた。
「給料や待遇の条件はかなり良い。18~24歳の女の子。
その後も時々募集があるし、受付は今でも続いてる。」
ぞく、と、首筋の毛が逆立った。もしかして、それは。
「電話、かけたんですか?その事務所に?」
「私じゃなくてLが、ね。Lは20歳、それに身長があるからモデルに向いてる。好都合。」
心拍が上がり、口の中が乾く。

 

「ちょっと待って下さい。もしかしてLさんがその事務所に?」
「そう、榊さんたちが捜査を始めてからは合格者が出ていないけれど、
Lなら多分合格するから、それで面接の合格者がどうなるかが分かる。
一旦事務所を出て、指定された場所に出向くのか。それともその場で何かが起こるのか。」
「もしも、中にとんでもない術者がいたらどうするんです。僕は反対ですよ。絶対に。」
「心配するのも分かるけど、Lだって一人前の術者なんだから。」
「いや、駄目です。これだけは譲れません。もし、Lさんに」
何故か滲んだ涙を慌てて拭う。 「Rさん...」 姫は少し困ったような顔をした。
勿論、俺も頭では分かっている。それは我が儘、過保護かも知れない。
姫は俺よりも強い力を持っているのだから、反対する事自体がそもそもおかしい。
だが、行方不明になっているのは、姫と同じ年頃の若い女の子たち。
その犯人たちがどんな精神構造を持っているのか、それは容易に想像がつく。
万が一姫が、そう考えるだけで、自分がおかしくなってしまいそうだ。
「仕方ないわね。じゃ、私がLの代わりに事務所に入る。
でも、さすがに厳しいかな。いくら服と化粧で工夫しても、5歳以上鯖読むのは。」
「いや、Sさんが身代わりになるんじゃ、何の解決にもなりませんよ。僕はLさんもSさんも」
待て、身代わり?それなら。
「僕が行きます。結界を破る方法をSさんが教えてくれれば」
「だ・か・ら、男の人は...R君、あなた、もしかして。」

 

「そうです。Sさんが相続した宝玉。あれを使って結界を抜けられませんか?」
元々は神事に使う宝玉。神様相手に通用する女装なら、術者の結界だって誤魔化せるかも。
「Rさん、駄目です。ようやく傷が癒えたばかりなのに。」
「L、待って。それ、案外、良い案かもしれない。
もしR君があの宝玉を使うのなら、中に入って結界を破るのは簡単。
あの結界は内部から『男性』を排除しなければ維持出来ない。
つまりR君が宝玉を身につけたまま結界の中に入り、宝玉を外すだけで結界は崩壊する。
それにLは背が高いから、R君の方が身代わりには向いてる。
年の差も、疑われるほど大きくない。試してみる価値はあるわね。」
「それならやっぱり僕がやります。いいえ、是非やらせて下さい。」
「Rさん、あの。」 「何ですか?」
事務所の前で宝玉を身につけて着替える訳にはいきません。前もっての準備は必要ですよ。
女物の服とか、それにお化粧とか。本当に、大丈夫なんですか?」
それは、考えていなかった。正直、全然。これっぽっちも。
「サイズの大きな服は手に入るし、スカートじゃなければそんなに抵抗もないでしょ。
此処で全部準備を済ませて移動するのが一番。途中、変な目で見られることもない。
でも、万全を期すなら、やっぱりスカートよね。膝丈くらいの。一体どうなるのか、楽しみだわ。」
Sさんの悪戯っぽい笑顔。姫は横を向いて笑いを噛み殺している。
少し、目眩がした。

 

「さて、宝玉を使ってR君は結界を抜け、事務所に入る。問題はその後ね。」
「どういう事ですか?」
「中にいるのが誰なのか、って事。もし術者ではなく、ただの下っ端だったら
結界を破ってはいけない。術者が何処にいても、結界を破られたらすぐに分かる。
当然警戒されるし、術者はおそらくあの事務所を捨てて逃げてしまう。
ただでさえ時間的な余裕はないんだから、捜査が振り出しに戻るのは最悪だわ。
だから下っ端なら面接を受けるだけ、合格すればその後どうするか指示されるはず。
別の場所や連絡先が指示されたら、それを手がかりにして榊さんたちが捜査出来る。
「中にいるのが下っ端でない場合というのは?」
「結界を張った術者が結界の中にいる場合ね。考慮すべき可能性は2つ。
1つは結界を張った術者1人だけがいる場合、
もう1つは術者が複数いるか、あるいは術者が式使いである場合。どちらにしても、
中にいるのが術者なら、その場で何かが起こる可能性が高い。つまりR君の拉致。」
「結界を張った術者の力は予想出来ますけど、外からは結界の中を探れません。
他に術者がいるとしても、力の予想が出来ないんです。それにもし式使いがいたら、
相手の式の能力によっては、少し危険な状況になるかも知れませんね。」

 

「大丈夫、R君が男に戻れば結界は一瞬で崩壊する。それに合わせて発動する術を
前もって仕込んでおいて、相手が術や式を使う前に決着を付ければ良い。
相手は私たちが術者であることは知らないし、結界の中からでは外の様子を感知出来ない。
相手がR君の面接に気を取られている間に術を仕込めば完璧ね。
中にいるのが術者なら、事件の核心に関わってるのは間違いない。
取り敢えず始末して、その記憶を辿れば必ず手がかりが見つかる。
「取り敢えず始末って。それは相手の事情を調べてからでも良いような気がしますが。」
「同じ女性でありながら拉致に荷担する、そんな術者に酌量の余地なんて無い。
甘い考えでいると、思わぬ失敗をして泣きを見ることになるわよ。」
Sさんは冷たい微笑を浮かべて俺を見つめた。
確かに、既に少なくとも1人の命が失われている。それだけで、報いを受けるに十分な罪だ。
「さて、話が決まったら即行動。早速街で服を買って来なきゃね。R君も一緒にどう?
サイズは分かってるから私だけでも大丈夫だけど、何かご希望があれば自分で選んだほうが。」
「いいえ、遠慮します。あと、お願いですからスカートは止めて下さいよ。絶・対・に。」
「え~?、折角の機会なのに。膝丈のスカート、見たいな~。
いつもは私たちの服に色々注文付けるんだから、こんな時くらい。ね、L。」 「はい。」
「やっぱり一緒に行きます。」
同行して必死で抵抗しないとスカートに決定してしまう。しかも膝丈の。
店員には変な眼で見られるだろうが、スカートの方がはるかに恥ずかしい。
「冗談よ。何とか我慢出来そうなのを選んで来るから、安心して。」
Sさんはあっと言う間に支度を済ませて買い物に出掛けて行った。

3日後、とうとう面接の日。
早めの昼食を済ませ、歯を磨く。顔を洗い、丁寧に髭を剃って自分の部屋へ戻った。
薄いグレーのパンツスーツ、白いブラウス。そして赤の宝玉がベッドの上にある。
膝丈のスカートは回避したものの、これはこれでかなり...。
何処でそんなサイズを見つけてきたのか、玄関には真新しい靴も置いてあった。
27.5cm、黒いエナメルのローファー。 女物だから一つ大きめのサイズということだろう。
まあ長い時間歩く訳じゃないし、いざとなれば脱げば良い。
OK、覚悟を決めた。 思い切って着替え、最後に赤の宝玉を左手首に嵌める。
暫く床屋に行ってなかったのは好都合か、手櫛で髪を適当に整えて部屋を出た。
さすがに鏡を見る勇気は無い。もし変な所があればSさんか姫が直してくれるだろう。
それに、恥ずかしがれば恥ずかしがる程、2人が面白がるだけだ。いっそ、ここは堂々と。
「Sさん、着替えましたよ。本当にこれで、大丈夫ですかね?」
リビングのソファで資料を読んでいたSさんが、顔を上げる。
直後、その表情が変わった。見開いた眼、驚いたような、表情?
「R、君...あなた。」

 

声を聞きつけたのか、姫もリビングにやってきた。
「すご~い、Rさん、完璧に女の人ですね。あれ?でも。」
「あの、何処か変な所があるんですか?」 どうしても小声になる。
「声も、変わるんですね。あ、変な所はありませんよ。凄く奇麗です。
でも不思議、何だか見覚えがあるような。それに、声も。」
「やっぱりLに良く似てる、まるで姉妹だわ。見覚えがあるのも当然よ。」
「そうですか?うーん、私より。」 「さ、それより準備。R君、そこへ座って。」
何故かSさんは目尻を薬指で拭った。 涙?
「面接なんだから化粧してた方が自然よね。ちょっと派手目に。」
Sさんは俺の顔に軽く化粧をし、最後に口紅をさした。ますます鏡を見るのが怖い。
「これで良し。仕上げはこれ。」 スーツの襟に良い香りの香水。
「じゃ、出掛けましょ。翠と藍は帰りに迎えに行けば丁度良い。」

 

30分程車を走らせて、Sさんは裏通りの有料駐車場に車を停めた。
「事務所のあるビルは、此処から歩いて2~3分。榊さんたちが近くで待機してるはず。」
姫と並んでSさんの後を追う。裏通りとは言え、歩道にはそこそこ人影が見えた。
歩いていると、どうしてもすれ違う人の視線が気になる。姫が耳許で囁いた。
「Rさん、少し猫背になってますよ。モデルの面接に行くんですから、背筋を伸ばして下さい。」
「あ、はい。」 そうだ、大事なのは、モデル志願の若い女性に成り切ること。
面接に合格しなければ、この作戦の成功はおぼつかない。人の命が、かかっている。
「ほら、あのビルよ。2階、廊下の一番奥に事務所がある。」
5階建ての雑居ビル。入り口近くに榊さんの姿が見えた。
榊さん自身は守護されているから、結界に近づくだけなら影響は受けない。
俺たちが声を掛けて一礼すると、榊さんは眼を丸くした。
「こりゃ驚いた。R君が、こんな。
信じられなかったが、Sちゃんの話の通りだな。じゃ、R君、宜しく頼むよ。」
「こちらこそ、宜しくお願いします。」 榊さんは口をポカンと開けて俺を見つめた。
「成る程、女装じゃないという意味がやっと分かった。
術が効いてる間は本当に女の子、か。じゃ、改めて宜しく頼むよ、Rちゃん。」
「もう、榊さんまで、止めて下さいよ。」 「うーん、良い声だ。分かっててもゾクゾクする。」

 

「榊さん、あの女は今日も事務所に出勤してますか?」
「ああ、いつも通り9時半ピッタリに出勤したよ。毎日一体何の仕事をしてるのかは知らんが。」
「やっぱりプロダクションはペーパーカンパニーだったんですね?」
「Sちゃんの予想通りさ。女の住んでいるマンションの名義は●木恵子。
プロダクションの代表者と同じ名前だが、女が本人かどうかは分からん。
既に『成り変わり』されているかも知れない訳だし。」
「マンションか事務所に行方不明の女の子がいる可能性はありそうですか?」
「買い物の様子からすると可能性は低い。少食だとしても、2人がやっとだろうな。」
「拠点が別にあるとすれば、合格した時にその場所を指示するのか。
あるいは事務所内で術を使い、女の子を操って其処まで移動させるのか。どちらにしても。」
Sさんは俺を見つめて微笑んだ。
「どちらにしても、R君に面接頑張ってもらわないと、ね。」
「ははは、大丈夫。Rちゃんなら合格間違い無しだ。賭けても良い。」
「だから榊さん。Rちゃんは」 「はい、打ち合わせは終了。約束の時間はもうすぐよ。」

 

少し寂れた雰囲気のビル、薄暗い階段を上って2階の廊下に出る。
バーや同伴喫茶の看板が出ているが、この時間だと人影はない。空き部屋も目立つ。
廊下の一番奥、ガラス張りのドア。金色の文字、『●プロダクション事務所』。
室内の灯りが点いているのを確かめてから、3人は廊下の端まで戻った。
これから先は俺1人の、いや『私1人』の役目だ。
深呼吸。 『鍵』を掛けるのではなく、心に『煙幕』を張る。
雑多なイメージの断片を鏤めて、真の意図を覆い隠す。『鍵』を掛けるより少しだけ高等な術。
相手が術者なら間違いなく『鍵』には気付く。しかし『煙幕』に気付くのは難しい。
まして、面接を受ける女性の意識は緊張で混乱気味の筈。カムフラージュには最高の条件。
もう一度深呼吸。 よし、私は大丈夫、何もかも上手く行く。

 

インターホンのボタンを押した。暫くして女性の声。
「はい、どちらさま?」
「今日2時にモデルの面接を予約しているんですが。」
「ああ、じゃLさんですね?お待ちしてました。鍵は開いてますから中へどうぞ。」
胸を張って事務所のドアをくぐる。違和感は無い。無事に、結界を抜けたらしい。
「失礼します。Lです。宜しくお願いします。」
声を掛けると事務所の奥から女性が出てきた。黒いスーツにタイトスカート、金縁の眼鏡。
年は40歳くらい?厚化粧の白い顔に、真っ赤な口紅が目立つ。
女性は眼を細め、値踏みをするように私を見つめた。舐めるような視線が絡みつく。
「素敵なお嬢さんね。即採用でも良い位だけど、一応決まりだから。さあ、奥へどうぞ。」
衝立の向こう側に案内された。豪華な応接セット、言われるままソファに。
そうだ、Sさんの指示を思い出す。膝と足先を軽く揃え、少し斜めに。両手は重ねて膝の上。
うげ...いや、考えるな。今更素に戻ってどうする。姫の所作を思い浮かべて、背筋を。
「ちょっと待ってて。」 女性は事務所の奥へ向かった。
空気が重く澱んでいる。私と女性以外の気配は感じない。他に人がいる可能性は無さそう。
なら、あの女性が術者かどうか。それが問題。

 

女性が戻ってきて、テーブルの上にコーヒーカップを2つ並べた。
「どうぞ。」 「有難う御座います。頂きます。」
「面接と言っても、簡単な質問ばかりだから緊張しないでね。」 「はい、お願いします。」
黒い革表紙のノートを開く。姫があらかじめ送付してあった書類が見えた。
「年は二十歳、念のために生年月日と干支を教えて頂戴。」
「平成元年11月26日、巳年です。」
「大学生ね。どうしてモデルの仕事を?」
「小さい頃から芸能界に興味がありました。でも歌が下手だから、モデルならって。」
Sさんと姫、2人と事前に打ち合わせをしてあるので問題はない。
ほぼ想定通りの質問が続いた。しっかり女性の目を見て答える。滞りなく面接は進んだ。
「大学生を採用するとしたら、保護者の了解が必要だけど。大丈夫?」
「はい。必要なら両親とはいつでも連絡取れます。」
「連絡って、あなた、今一人暮らし?」
「はい。大学に入る少し前から○◇市のアパートに。実家は、△県なので。」
「そう、大変ね。でも、その方が。通学にも、それにモデルの仕事にも。」
女性は書類を見つめて俯いたまま、微笑を浮かべた。
やはり、Sさんの予想通り。拉致するなら、当然一人暮らしの方が好都合。
女性は顔を上げて私を見つめた。その目に妖しい光が宿っている。
「身長、167って書いてるけど、もう少しありそうじゃない?」
「背は未だ伸びてるので、今は170センチ位あるかも知れません。」
(勿論、この質問も想定内。私の身長は172cm。)
「ね、ちょっと立ってみて。それからくるっと一回転。」
「はい。」 立ち上がり、背筋を伸ばしたまま右回りに一回転。
「ありがとう、座って。」

 

ソファに腰を下ろすと、女性はノートを閉じてテーブルに置いた。
「去年から面接してるけど、こんなにスタイルの良い娘は初めて。少し驚いた。
合格、あなたを採用する。今、3人キープしてるけど、あなたが一番良い。」
「有難う御座います。」
背後から、微かな金属音が聞こえた。おそらく入り口の鍵が掛かった音。
何かを操作する仕草はなかった。なら、この女性は恐らく。
女性は立ち上がってテーブルを回り込み、私の右隣に座った。
「すぐにでもお仕事してもらいたいけど、その前に、まずは仲良くならないとね。」
女性は右手を伸ばし、掌で私の左頬に触れた。
「こんな娘が使えるなんて、本当に楽しみで仕方ない。」
頬がじんわりと熱い。そして意識が...やはりこの女性は術者、間違いない。
「止めて下さい。私に、触らないで。」
女性はゆっくりと手を引っ込めた。怪訝そうな表情。
「あらら、あなたも術が効かない人?これで2人目、そんなに沢山いるはず無いけど。
でも、あなた運が悪い。術が効く人、怖い思い痛い思いしないのに。」
成る程、遺体で見つかった女の子は、この術者の術が効かない霊質だった。それで。
女性の表情がゆっくりと歪んでいく。両眼と口角がつり上がった、気味の悪い笑顔。
壁の時計を見た。事務所に入って既に10分近くが経っている。
『力を蓄えた代を配置するから、5分だけ我慢して。』とSさんは言った。もう十分。

 

「違う。運が悪いのはあなたの方。」
術者が一度に使える力には限りがある。しかし、前もって代に力を蓄えておくのなら、
代の容量によっては普段の2~3倍もの力を使えると聞いていた。
しかも代を作ったのはSさん。どんな術者であろうと、対抗するのはおそらく不可能。
「こんなに良い体。やっと見つけた。絶対手に入れる。そして、使う。」
「いや、使えない。」 左手首の宝玉に手をかけた。ゆっくりと外す。
「俺は、男だから。」
激しい破裂音がして、部屋の空気が変わった。耳の奥が痛む。
女性は弾かれるように飛び退り、背中を壁に打ち付けた。
その直後、強い閃光。視界が白く遮られ、思わず眼を閉じる。
視界が戻った時、女性は動かなくなっていた。
壁に背中をつけ、眼を大きく見開いたまま、完全に硬直している。
廊下を走る足音が近づいてきた。ノックの音。「R君、大丈夫か?」
俺はドアに駆け寄って鍵を開けた。ドアが開いて榊さんが入ってくる。続いて姫、Sさん。
「大丈夫です。何ともありません。」 3人の安堵の表情、俺はSさんに宝玉を手渡した。
「うわ、おっかねぇ。何だ、コイツは?」
振り向くと、壁際で硬直していた女性の顔が崩壊していた。肉が解けるように崩れていく。
やがてその体もズルズルと壁から床に滑り落ちた。俺たちが近づいた時には、
既に骨しか残っていなかった。骨を覆う黒いスーツ、金縁の眼鏡は床の上に落ちている。
骨の周辺、床を濡らす濁った液体。そして、微かな腐臭。

 

「やっぱりね。連続殺人でも人身売買でもないとすれば、予想は簡単。
不老不死と言えば聞こえは良いけど、ほとんどの場合、実体はこれよ。
外法を使い、次々と他人の体を乗っ取って自らを不死とする。
外法を使うペナルティーも、次々と体を乗り換えていけば回避出来る。
外中の外、最も卑劣な術の1つ。それを繰り返す内に、術者の魂は異形に変化していく。
いいえ、これはもう異形というより化け物だわ。とても人間とはいえない。」
「これ程に変化が進んでいるなら、相当に長く生きてきたんでしょうね。
100年か、200年、もしかしたらもっと。でも、不思議です。男性を拒絶しながら、
何故、奇麗な女の子に執着したんでしょう? 私、Rさんに褒めてもらえないなら
『もっと綺麗になりたい』なんて望まないと思います。それに、不老不死であることを
誰にも知られずに生き続けるには、むしろ目立たない容姿の方が良いはずなのに。」
「いやあ、お嬢ちゃん、言うねえ。ホントにR君が羨ましいよ。ところで、R君。」
「はい。」 榊さんだけでなく、Sさんと姫も、微妙な表情で俺を見ていた。
「あの、どうか、しましたか?」
3人は黙って顔を見合わせた後、Sさんが口を開いた。
「あのね、言いにくいんだけど。宝玉、身につけておいた方が良い。
その、折角綺麗な服着てるんだし、前の方が、ね?
宝玉を外すのは、お屋敷に戻ってからでも遅くないわ。」
...宝玉を身につけている間は良いとしても、今、俺はただの『女装した男』だ。
赤面するのが自分でも分かる、耳が熱い。それに、この格好で駐車場まで歩く訳には。

 

Sさんが掌に載せて差し出した宝玉を受け取り、もう一度左手首に嵌める。
「おお!こりゃ凄い。その方がずっと良いよ、Rちゃん。
今度からそれで分署に来てくれ。部下たちにはSちゃんの妹って紹介するからさ。」
「榊さん!」 「さて。」 榊さんは俺に頓着せず、膝を折って床に残った骨を見つめた。
「この骨が誰のものか突き止めたとしても、それは犯人じゃない。どうしたもんかな。うお!」
突然立ち上がった。「今、何か動いたぞ、胸のあたり。」
確かに。骨を覆うスーツ、胸ポケット付近の布地が波打つように動いている。
「やっぱり、Sさんに見せてもらった記録の通りですね。」
「そうね。L、お願い。」
姫は骨に向かって右手をかざした。 小声で呟く。「・・・・晒せ・・・が眼に・・・」
思わず目を疑った。骨を覆う黒いスーツ、胸のあたりから赤黒いものが流れ出している。
それはゆっくりと床に流れ、ナメクジのようにずるずると移動していった。
移動する先には金縁の眼鏡。 やがて、それは眼鏡に絡みつき、そして消えた。
「此処に張られてた結界から予想はしてたけど、極限まで『保身』に特化した術者だわ。
次々と体を乗り換えることで実現する不死。術の力で、老化を遅らせる。
でも、生身の体を使うのだから不死身ではない。急病や不慮の事故、術者からの攻撃、
死の可能性を完全には排除できない。だから万一に備えてこの術を残してある。」

 

「Sちゃん、もしかして、あのドロドロしたもの...あの女は未だ?」
「はい。最悪の場合は厳重な結界で本体を守り、一旦は物に自らを封じて
次の機会を待つ。いわゆる『●解』は、恐らくこの術を元にした伝承です。」
「そりゃまずいな。このままじゃ、また同じ事になるんだろ?」
「はい。でも私たちは逃がしません。他人の体を乗り継いで目指す永遠への旅、
それも今日でお終い。ここで途中下車してもらいます。L、お願いね。」
「はい。任せて下さい。」
姫は眼を閉じて左手の上に右手を重ねた。
小声で何事か呟きながら左掌を眼鏡に向ける。 微かに、眼鏡が動いたように見えた。
そして、Sさんが厚いカーテンを開けた。傾いた太陽の光が差し込んで床を照らす。
軋むような音を立てて、眼鏡が捻れた。レンズが砕け散る。
微かに立ち上る煙、漂う異臭。これは...そう、『塵滅』。太陽の力を借りた破邪の術。
軽い音がして、残っていた骨が一気に崩れた。灰色の砂のようなものが濁った液体に溶ける。
「あ~あ、骨まで無くなっちまったか。死体が無いんじゃ『被疑者死亡』は難しい。
被疑者逃亡ってことにするのが無難かな。もう犯人の始末はついた訳だし、
こっちとしては女の子たちの行方が分かればOK。助けられたら更に良いんだが。」
「そう言えば、面接の時『他に3人キープしてる』って話してましたよ。」
「それなら、多分3人は生きいてる。術で眠らせているなら、いや、時間が長過ぎる。
多分、心を封じて記憶を変えたのね。」

 

Sさんは事務所の奥へ入り、すぐに鍵束を持って戻ってきた。
「ラベルが部屋の記号と同じだから、これが事務所の鍵。記号の違う別の鍵もあります。
このビルの何処かにもう1つ、部屋を借りているんですね。女の子たちは多分その部屋に。
別の階を見て結界の跡を探せば、どの部屋かすぐに分かります。」
「じゃあ、そっちが最優先だな。Sちゃん、早速頼むよ。大丈夫かい?」
「勿論です。R君、L、先に帰ってて。女の子たちが見つかったら私も帰るから。」
事務所から出る時、榊さんが振り返り、俺に向かって投げキスをしたので
思い切りアッカンベーをした。全く、今日の榊さんは本当にムカつくオジさんだ。
Sさんからも榊さんに...? Sさんが真剣な表情で俺を見つめていた。 一体何故?
俺の視線に気付くと、表情を緩めた。穏やかな笑顔、小さく手を振ってドアをくぐる。
「あの、Rさん。」 「あ、はい。」 我に返る。
「榊さんにいちいち反応するなとは言いません。でも、Rさんの反応は、
むしろ榊さんへの『ご褒美』になってますよ。分かってますか?」
酷い、目眩がした。

 

姫と2人で事務所を出ると、若い男が2人、カラーコーンとテープを設置していた。
事務所を封鎖する準備。榊さんの部下だろう。軽く会釈をして廊下を歩く。
「質問が、有るんですけど。」 「はい、私に答えられる質問なら。」
「さっきの話の通りだとしたら、何百年も生きている術者が、他にもいるんでしょうか?」
「可能性はあります。ただ、かなり複雑な術のようですから、誰にでも使える術ではありません。
それに、どんな系統であれ、外法は外法。一族以外の系統でも、その使い手は問答無用で
殲滅の対象になった筈です。未だ生き残っているとすれば、国外からの流入でしょうね。
「Sさんはその術を『げちゅうのげ』と言いましたよね。『げ』は『外』ですか?」
「はい。それと、多分『下』の意味もあると思います。最低とか最悪という意味ですね。
あの術、始めて使う相手が他人では絶対に成功しないそうです。
始めのうちは魂の変形が十分じゃ無いから、他人の体を騙せないと聞きました。」
ざわ。首筋の毛が逆立って、酷い寒気がした。相手が他人でないとすれば。
「じゃあ、最初に乗っ取る相手というのは。」
「親が子の体を、あるいは子が親の体を、どちらか1つです。
不老不死が目的なら、子が親の体を乗っ取ることに意味があるとは思えませんよね。」
成る程、それなら合点がいく。今回、Sさんは強引とも思える術で一気に始末を着けた。
普段なら、強い術を使うのを極力避け、事情を探るのを最優先にするのに。
今回は相手に斟酌の余地を全く認めてはいない。ようやく、その理由が分かった。

「行ってきます。すぐ戻りますから。」 「お願いします。」
姫の後ろ姿を後部座席の窓から見送る。広いガレージ、大きな家。
今朝から、碧さんと暁君に翠と藍を預かってもらっている。
お屋敷に戻る前に2人を迎えに来た訳だ。本来、俺が直接礼を言うのが筋だろうがこの格好。
今回は失礼して3人が戻るのを待つことにした。しかし、もしこの姿を見たら、碧さんと暁君は
一体何と言うだろう。ちょっとだけ会って反応を見たい気も、いや待て、俺は何を考えてる?
もしかして俺の心も、赤の宝玉の影響を受けているのか。
『7日を過ぎたら戻れなくなる。』とSさんは言った。何だかそれも、分かる気がする。
その時、助手席のドアが開いた。「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してて。」
「平気です。翠ちゃん、どうぞ。」
後部座席に乗り込んできた翠は、不思議そうに俺の顔を見つめた。
「おとうさん。おとうさんなのに、どうしておんなのひとになってるの?ねえ、どうして?」
女性に見えていても、翠は俺だと分かるらしい。不思議だ。
「お仕事するために女の人に化けたんだよ。凄いでしょ?」
「うん、すごい。それに、きれい。」

 

藍をベビーシートに乗せて姫は車を出した。
姫は去年の夏休みに自動車の免許を取り、それからもう10ヶ月。
身体能力が高いこともあって、運転はとても上手い。安心して乗っていられる。
Sさんも運転はもの凄く上手なのだが、スピードを出し過ぎるのでちょっと怖い。
そう言えば、行方不明の女の子たちは見つかったのだろうか。
翠を抱いたまま、窓の外を流れる光の河を眺めていた。

榊さんの車でSさんが帰ってきたのは8時前。
帰ってくるなり、俺が作っておいた夕食をもの凄い勢いで食べ、シャワーから出てくると、
リビングのソファに倒れるように体を埋めた。藍を抱いたままで居眠りをしている。
「おとうさん、おかあさんはつかれてるの?」
「そうだよ。今日お母さんはお仕事凄く頑張ったから。そっとしておいてあげようね。」 「うん。」
一昨日から代を作り、今日は女の子たちの捜索。女の子たちは生きていたと話していたから、
その手当にも力を使ったはずだ。限界近くまで消耗したとしても無理はない。
姫が藍をそっと抱き取り、翠の手を引いて部屋へ向かう。
慎重にSさんを抱き上げて部屋まで運んだ。ベッドに寝かせ、そっと髪を撫でる。
額にキスすると、Sさんは今まで聞いたことのない名前を呟いた。寝言?
起こさないように布団を掛け、灯りを消して部屋を出た。

 

翌朝、姫を大学に送って戻ってくると、Sさんは既に起きていて、
リビングで藍を抱きながら資料を読んでいた。翠はソファの上で寝ている。
邪魔をしないように合図だけして、ダイニングに向かった。
食器を洗って片付けた後、コーヒーを淹れてリビングに戻る。
Sさんはまだ資料を読んでいた。テープルの端にポットとカップを並べる。
「ありがと。昨夜はゴメンね。少し疲れてたから。
女の子たちを見つけたのは良いけど、意識は戻せなかったの。
だから、何か良い方法はないかと思って。」
あんなに疲れ果てていたのに、朝食を食べたらすぐに資料を。本当にこの人は。
藍とSさんをまとめて抱きしめる。綺麗な眼を見つめて唇にキスをした。
本当に、たまらなく愛しい人。でも、いつまでもこうしている訳にはいかない。
「女の子たちは、記憶を変えられていたんじゃなかったんですか?」
「術で寝かされてるの。入院して栄養を点滴してるのでもなければ、
こんな長期間寝かせて置くのは無理だと思ったんだけど。でも大丈夫、
効果のありそうな術を見つけたから。然るべき術者に依頼すれば上手くいくと思う。」
「それなら安心ですね。あの宝玉を使ってまで、女装した甲斐がありますよ。
あと、宝玉は箱に戻しておきました。服と靴は僕の部屋です。」

 

「榊さんはいたく『Rちゃん』を気に入ったみたいよ。帰りの車ではほとんどその話題。」
「事務所から出る時、Lさんに言われました。いちいち反応するから『ご褒美』になってるって。」
「『ご褒美』、そうね。でも、それは私も同じ。特に昨日、あなたがアッカンベーをした時。」
Sさんにも『ご褒美』、どういうことだ?そう言えばSさんは初めて俺の女装を見た時に。
「僕が宝玉を使って女装したのを見てもらった時、Sさんが涙を拭ったように見えました。
それに昨夜、Sさんをベッドまで運んだら、寝言で僕が知らない人の名前を。」
Sさんの涙と、あの名前。きっと何か関わりがある。何故か分からないが、確信があった。
すい、と、Sさんは視線を逸らした。窓の外、遠い目。数秒の沈黙、何となく気まずい時間。
やがて、真っ直ぐに俺の眼を見つめた。黒く美しい双眸、胸が熱くなる。
「それ、どんな名前?」 「◇、です。確かにそう聞こえました。」
「その名前は◇、その人はLの母親。」 「え?」
これまでSさんから姫の母親について聞いた内容はそれ程多くない。
とてつもない力を持っていたこと、そのために『後々は神の嫁になる娘』と言われていたこと。
でも人の世に生きる道を選び、姫を産んで暫くして亡くなったこと。他には。
「とても、快活で素敵な人だった。私を妹のように大事にしてくれて。
術も、お洒落も、料理も、みんな彼女が教えてくれた。」
Sさんは言葉を切り、俯いて涙を拭った。

 

「父と母が即位した時、私はある夫婦の養女になった。
彼女を引き取ったのもその夫婦だったから、私は彼女と一緒に暮らしてたの。」
そうだったのか、その縁があったからSさんは姫を。
「よく笑って、よく怒って、いっつも急いでて。一目惚れしたって教えてくれてから、
Lを産むまで1年と少し。本当に、毎日毎日、彼女が原因の大騒ぎが続いてた。」
その人は、早死にすることを承知の上で、人の世に生きる道を選んだ。だから。
「まるで一秒も無駄に出来ないというように、日々を走り抜けて。そして、行ってしまった。」
Sさんは赤く潤んだ眼で俺を見つめ、優しく微笑んだ。胸の奥が疼く、何だ?この感情は?
「姿も声も、彼女に生き写しなの。宝玉を身に着けたあなたは。 だから本当に、驚いた。
あの事務所に向かう車の中、歩いている間も、ずっと彼女と一緒にいるみたいで。
それで思ったの。『あなたをLと私に引き合わせてくれたのは、彼女かも知れない。』って。
私にとってあなたは、愛する夫であり、そして彼女の忘れ形見。ね、お願いがあるの。」
「何ですか?僕に出来ることなら何でも。」
Sさんは藍をベビーベッドに寝かせたあと、俺の左隣りに座った。
「時々で良い。また、彼女に会わせて頂戴。」
「ええと、それはちょっと...」
「たま~にで良いから、ね?」

 

左肩に感じるSさんの温もり。静かに、穏やかに過ぎていく時間。
俺は、口に出かかった質問を飲み込んだ。そう、Sさんは俺の心を読める。
答えてくれないのは、今が未だその時期ではないということ。何も、急ぐ必要はない。
少しだけ開いた窓から吹き込む爽やかな風が、小鳥の鳴き声を乗せてくる。
メジロ?賑やかな鳴き声に耳を澄ませていると、微かな寝息が聞こえた。
安らかな寝顔。このまま寝かせて毛布を掛けた方が良いのか。
それとも抱き上げて部屋まで運んだ方が良いのか。
Sさんの髪をそっと撫でながら、俺はそんな事を考えていた。

 

 

『忘れ形見』 完

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

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