『礎』藍物語シリーズ【24】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

『礎』藍物語シリーズ【24】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物

 

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藍物語シリーズ【24】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『礎』

 

 

「この2・3日、クマゼミの鳴き声が随分小さくなった気がしますね。」
ダイニングで一緒に夕食の準備をしていた姫が、寂しそうに呟いた。
確かに...8月も終わりに近づき、日差しが少し柔らかくなったような気がする。
「とても忙しかったから意識してませんでしたが、もう、夏も終わりなんですね。」
あの大災害に関わる仕事も一段落して、お屋敷にも平穏な日々が戻っている。
しかし夏の終わりはいつも感傷的な気分。 その時、俺のケイタイが鳴った。
榊さんに依頼された仕事、そろそろ結果の連絡が来る頃だと思って電源を入れていた。
しかし、画面に表示されていたのは別の名前。『瑞紀ちゃん』。
彼女は去年高校を卒業して沖縄に戻り、ノロになるための修行を続けている。

 

去年の夏。瑞紀ちゃんとの約束通りに、俺は翠を連れて沖縄を訪れた。
翠は彼女にとても懐いていたから、沖縄で彼女と再会するのをとても喜んだ。
俺たちは彼女の祖母、その集落のノロクモイの家に泊めてもらい、楽しい時間を過ごした。
だが今年は震災に関わる仕事でいつの間にか夏も終わり。出来れば今からでも約束を。
「もしもし、瑞紀ちゃん?」 「はい、瑞紀です。」
「久し振りだね。少し遅くなったけど、旅行の話がしたかったから丁度良かった。」
「今日は旅行の件じゃなくて、あの、もちろん沖縄には来て欲しいんですけど。」
何だか歯切れが悪い。いつもなら俺が後ろめたさを感じる程、嬉しそうな声なのに。
「どうかした?何だか元気が無いみたいだけど。」
「いいえ、大丈夫です。Sさん、いますか?」 「いるよ。翠と絵本読んでる。」
「御免なさい。都合が悪くなければ、Sさんに替わって下さい。」
??? 瑞紀ちゃんはSさんのケイタイの番号を知っているのに、何故俺の。
ああ、掛け間違えたのか。それなら少し気まずい感じなのも納得だ。
「分かった、すぐに替わる。ちょっと待ってね。」 急いでリビングへ向かった。
「Sさん、電話です。瑞紀ちゃんから。何か相談事かも知れません。」
「瑞紀ちゃん?何かしら。」 翠は絵本に夢中、電話の邪魔にはならないだろう。
キッチンに戻って夕食の準備を続けた。

 

「みんなで沖縄に行く事になった。9月の8日から、18日まで。10泊11日の旅行。
仕事も一段落したし、骨休めの旅行がてらノロクモイのお手伝いをするのも悪くないわよね。」
夕食後の一時、お茶の時間。翠と姫は小さなケーキのデザート付き。
「みずきちゃんのところに行くの?うれしい~。」
「翠ちゃんは瑞紀ちゃん大好きだから、良かったね。」 「うん!」
きんちゃん、あの青い金魚は未だ碧さんと暁君の家にいる。
2人はきんちゃんをいたく気に入っているので、預けたまま旅行しても不都合はない。ただ。
「あの、ノロクモイのお手伝いっていうのは、一体何を?」
一瞬、Sさんはイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「今年は12年に一度の大切な祭事があるんだって。その祭事のお手伝い。
ノロクモイがあの状態だし、瑞紀ちゃんはまだ修行中。だから、ね。」
成る程。系統は違っても、Sさんや姫なら代理で祭事を仕切る位なら。しかし。
「それは集落の人間じゃなくても良いんですか?大切な祭事なのに。」
余所者の関与はもちろん、研究目的の参観すら許されない祭事もある。
「余所者の方がかえって都合が良いそうよ。ノロクモイが招いた余所者、『マレビト』ね。」
マレビト、稀人か。それなら確かに余所者でも不都合はない。
「そんな大切な祭事が1日だけって事は、ないですよね?」
「3日間。でも、10泊の内3日だから余裕がある。R君、早速飛行機と車、予約してね。」
「了解です。」 「うん、良い返事。」

 

その集落に着いたのは昼過ぎ、瑞紀ちゃんはノロクモイの家の前で俺たちを待っていた。
すぐに翠が瑞紀ちゃんに飛びつく。瑞紀ちゃんが翠を抱き上げた。
「こんにちは、翠ちゃん。」 「ほんものの、みずきちゃんだ~。」
「瑞紀おねえちゃんとか、瑞紀さんって呼ばなきゃ駄目でしょ。年上なんだから。」
「お父さんの言うとおり、おねえちゃんって呼んだほうが良いの?」
「おねえちゃんでも良いけど、何時か、お母さんって呼んでくれたら嬉しいな。」
「みずきちゃんが、お母さん?どうして?」
「Rさんのお嫁さんになりたいから。もしそうなったら、私も翠ちゃんのお母さんでしょ?」
...藪蛇だ。去年の夏の記憶が蘇る。
「ちょっと、ストップ。何処で誰が聞いてるのか分からないのに、そんな。」
「誰かに聞かれて困る事なんかないですよ~。じゃ、翠ちゃん、行こっか。」 「うん!」
翠を抱いた瑞紀ちゃんはさっさと門の中に入ってしまった。 そう、去年もあの調子。
彼方此方であけすけな説明、一体俺はこの集落の人達にどんな人間だと思われている事やら。
「『好きな人がいます。』って宣言しておけば、言い寄る男もいないわね。はい、荷物運んで。」
Sさんの笑顔。少し、目眩がした。

 

沖縄に到着した日の夜、みんなでノロクモイの部屋に挨拶に行った。
翠との再会を喜んでくれているようだったし、翠もずっとノロクモイの傍に座っていた。
最初に沖縄を訪れた時の事からして、2人の間にはきっと深い縁があるのだろう。
次の日。Sさんと姫は夕方一時間ほど公民館での打ち合わせに参加した。その次の日も。
祭事とその前後の数日間は、たか子さんも家を空ける事が多いので、
親戚の人だという初老の女性が手伝いに来ていた。名前は○子さん。
無口だが、とても親切にしてくれたから翠と藍の世話にも困ることは無かった。
そんなこんなで、とうとう祭事は明日から。一体どんな祭事だろうか?

 

次の日、瑞紀ちゃんは朝食を済ませると直ぐに家を出た。祭事の準備だろう。
Sさんと姫も、昼食を済ませた後で祭事の手伝いに向かった。
俺はさらに2時間ほど遅れて家を出た。目的地は集落の公民館。
翠と藍を連れて、公民館前の広場で祭事を見学することになっている。
広場には小学生くらいの男の子から初老の男性まで、20名ほどが集まっていた。
軽く会釈をしながらSさんと姫の姿を探す。しかし見当たらない。瑞紀ちゃんも。
祭事を仕切っているのはたか子さん、瑞紀ちゃんの叔母にあたる女性。
暫くすると男達は草の髪飾りをつけて歩き出した。集落の外れの山へ向かっているようだ。
「暑いですから、中でお待ち下さい。翠ちゃんも、どうぞ。」
たか子さんに促されるまま、公民館の中に入る。
広間の椅子に座ると、厨房で作業をする女性達の中にSさんと姫の姿を見つけた。
食事の用意?これなら別に2人でなくても。それに、瑞紀ちゃんは何処に?
翠が厨房の入り口に駆け寄った。「おかあさん、瑞紀ちゃんは?」
「ノロクモイのお手伝いしてるけど、邪魔しちゃ駄目よ。」 「は~い。」

 

30分程して、男達は広場に戻ってきた。
皆、全身びしょ濡れ、それぞれ両手で濡れた木の枝を持っている。
「あの枝で村中の家を祓って廻ります。それが今日の祭事の中心で、夜は宴会ですね。」
たか子さんは穏やかな笑顔で広場から男達の後ろ姿を見送った。
幾つかのグループに分かれた男たちが家々の祓いを全て終えたのは4時半頃。
男達は髪飾りと木の枝を広場の中央で焚かれた火に投げ込み、三々五々に散って行く。
「家で着替えてからもう一度此処に集合して宴会なんだって。私たちはもう帰りましょ。」
振り返るとSさんと姫が立っていた。
「もう、お手伝いは終わりなんですか?」
「そう、残りはまた明日...何だか不満そうね。 自治会長さんから
『宴会にも参加して欲しい。』って言われたのを断ったのに、参加した方が良いかしら?」
「いや、不満なんか。SさんとLさんが炊事係なんて、すごく贅沢な祭事だと思っただけで。」
実は姫から妊娠の兆しがあると聞かされていたから、軽い仕事ならむしろ安心だ。
皆でノロクモイの家に戻り、夕食の後は庭で花火。それからお風呂。公民館の方向から
聞こえる賑やかな声と音楽以外、とても12年に一度の祭事中とは思えない穏やかな夜。
ただ、相変わらず瑞紀ちゃんの姿が見えない。
ノロクモイの手伝いをしながら勉強することが沢山有るのだろう。

 

翌日の祭事が始まったのは午後4時過ぎ、その日の主役は集落の女性達だった。
宴会の用意は既に終了していて、今日は家族5人そろって見学。
公民館から集落の外れ、砂浜に移動した女性達が輪になって踊り、厳かに神歌を唱う。
揃いの白い着物に鉢巻き。鉢巻きの巻き方が違うのは未婚・既婚による違いらしい。
祭事を仕切るのはやはり、たか子さん。凛々しい表情。うん、何だか本格的、素敵だ。
やがて踊りの輪が解けた。たか子さんを先頭に女性達がゆっくりと海の中に入っていく。
全員が腰の辺りまで海に入ったところで先程とは違う神歌が始まった。
何処か賑やかな調子。女性達は皆、沖に向かって手招きをしている。
海の神様を招き、豊漁を祈願する儀式。似たような儀式は他の集落にもあると聞いた。
昨日は男性達が主役で山に、今日は女性達が主役で海に。対になる祭事。
神歌が終わると、たか子さんを先頭に女性達が海から上がった。公民館に戻るのだろう。
宴会が始まるまで、公民館と公民館前の広場は男子禁制らしい。
女性達の列を見送ってからノロクモイの家に戻った。

 

その日の夕食は宴会料理のお裾分けらしく、とても豪華だった。
紅白の厚切り蒲鉾。マグロとハマフエフキとソデイカのお造り三種盛り。
そして根菜と豚肉と昆布の煮込み、これがまた滅茶苦茶に美味い。
きゅっと結んだ昆布は柔らかく、豚肉はまるで角煮のお化けみたいに大きい。
白味噌(?)の味噌汁にはお椀からはみ出しそうな白身魚の切り身。
みんなでワイワイ言いながら食べていると、たか子さんがやってきた。
「これ、差し入れです。どうぞ、Rさんに。」 「有難う御座います。」 泡盛の、一升瓶。
Sさんがすぐに水割りを作ってくれた。氷の音が涼しく響く。
波照間という島の酒らしい。泡盛だけど微かにウイスキーみたいな風味、美味い酒だ。
美味しい料理に美味しいお酒。 こんな幸せで良いのか?俺、見学してただけなのに。
Sさんと姫はニコニコしながらどんどん水割りを作る。俺はどんどん食べて、飲む。
酒は好きだが、弱いし量を飲める質ではない。
意識が飛ぶのに、それほど時間はかからなかったと思う。

 

「Rさん、起きて下さい。祭事のお手伝いはこれからですよ。Rさん。」
畳間で爆睡していたらしい。上体を起こし両手で顔をゴシゴシ擦る。まだ、酔いが。
「済みません。飲み過ぎました。」
「大丈夫です。お酒を飲むのもお手伝いの内ですから。すぐにシャワーを使って下さいね。」
??どういうことだ。それに、もう今日の祭事は終わった筈ではなかったのか。
シャワーから出ると多少頭がスッキリしたが、やはり酔いは残っている。
廊下の時計は9時前、夕食を食べ始めてまだ2時間弱。これじゃどうしたって酔いは醒めない。
畳間に戻るとSさんと姫、そしてたか子さんがいた。翠と藍は並べた座布団の上で寝ている。
「R君此処へ座って。たか子さんがお面を着けてくれるから。そのあと着物に着替えてね。」
「あの、何で僕がお面と着物を?」 姫が笑いをかみ殺している。
「マレビトは普通男性です。私たちの中でこの役目を担えるのはRさんだけですよ。」
Sさんと姫ではなく、俺が、マレビト?

 

お面を着け終わるとたか子さんは玄関から出て行った。
木製の、口から下だけ残して顔を覆う面。かなり厚みがあるが、
目の部分に大きな穴が開いているので視界はまあまあ。微かに、潮の匂い。
マレビトは時折その地を訪れ恵みをもたらす存在と考えられている。それに倣う儀式なのか。
例えばナマハゲ。沖縄ならもっと南の島のパーントゥのような?
白い着物に着替えながらSさんに尋ねた。
「家々の祓いは終わってますよね?これから何か祝いの品物を配って廻るんですか?」
「R君、あまり時間がないから一度で憶えてね。この祭事の流れ。」 「はい、何とか。」
これからあなたはこの集落の聖地である御嶽(ウタキ)に行くの。
其処で集落の祖霊神からセジを授かる。その後ある場所に瑞紀ちゃんを訪ねて。」
「ちょっと待って下さい。」 Sさんは人差し指で俺の唇を押さえた。
「セジは霊力のことよ。祖霊神に代わってそれを瑞紀ちゃんに授けるのがあなたの役目。
その場所で瑞紀ちゃんからお餅とお酒を勧められるから、あなたは黙ってそれを全部頂く。
それから瑞紀ちゃんの着替えと身支度を手伝って、それが済んだらこの祭事は終了。
さあ、行きましょ。きっと皆が、もう待ってる。じゃL、翠と藍をお願いね。」
「任せて下さい。」 Sさんは翠と藍の頭を軽く撫でてから立ち上がった。
『きっと皆が』って。一体誰が?

 

門を潜って通りに出る。何だ、これは!?
集落中の人が集まったのかという程沢山の人が、俺を見つめていた。
老若男女、皆笑顔を浮かべ、その目がキラキラと光っている。辺りに満ちる熱気。
たか子さんが大声で何事か口上を述べると大きな拍手が起きた。
たか子さんに手を引かれて歩く。通りを山の方向へ、そしてすぐ角を曲がった。
そしてもう一度角を...これではノロクモイの家に戻る方向じゃないか?
満月が明るい。たか子さんは懐中電灯を持っているが点灯はしていない。
何時の間に先回りしたのか、Sさんが途中で合流した。
Sさんも懐中電灯を持っているが、やはり点灯していない。
2・3分程歩いただろうか、少し開けた場所に出た。そこから更に急な坂道を上る。
坂道を上り切ると、正面に大きな岩が見えた。
「あの岩の前で一礼、跪いたら目を伏せる。後は私に任せて、鍵を掛けちゃ駄目よ。」
言われるままに歩を進め、岩の前で一礼、跪いて目を伏せた。
「この集落を開いた方々の御魂、祖霊神様に申し上げます。」
Sさんの澄んだ声。3度繰り返して呼びかける。
「私は大和の国◎◆の巫女、S。訳あってノロクモイの代理を務めます。
皆様方に御伝えするのはノロクモイから託された言葉。どうぞお聞き下さい。
この度、60年ぶりにノロの後継者が現れました。ノロクモイの孫娘、瑞紀。
どうかその娘にセジを授け、ノロの正当な後継者と認めて下さいますように。」
その言葉を2度繰り返した時、空気が、変わった。

 

すぐ目の前の大きな岩、そのまわりに複数の気配を感じる。
ザワザワと何事か話し合うような声、それは次第に大きくなった。
いや、声ではない。流れ込んで来る何かの意識が、俺の中で言葉に再構成されている。
「瑞紀...本当なら目出度いことだ。早速セジを授けてやろう。」
「しかし我らには体が、どうやって。」 「体が無ければ此処からは出られない。」
「どうか御静まり下さい。」 Sさんの声が響く。
「ここに皆様方の代として、大和の国から来た旅人を連れて参りました。
どうかこの者の体を使い、存分にお働き下さいますように。」
直後、酷い目眩と吐き気。必死で堪える。
「さあ、娘のいる場所へ御案内致します。」 Sさんが俺の手を取った。何とか立ち上がる。

 

ゆっくりと歩き出した。違和感。何かが俺の体に重なるように、俺と一緒に歩いている。
まるで二人三脚をしているようで動きがぎこちない。足がもつれて転びそうだ。
漸く坂道を降りると、小さな灯籠が地面に並んでいるのが見えた。さっき、こんなものは。
「娘は、あの小屋の中で御座います。どうぞ。」
灯籠の列の奥に小さな小屋。ゆっくりと近づき、入り口の戸を叩く。すぐに戸が開いた。
「お待ちしておりました。どうぞ。」 草履を脱ぎ、小屋に入る。壁に蝋燭の灯。
畳張りの床に三方が3つ。1つ目には銚子と杯。紙皿の上に小さく切った餅。
2つ目にはピシッと畳まれた白い着物と帯。
3つ目には勾玉の付いた首飾りと鮮やかに彩色された大きな鳥の羽根。
「どうぞ、これを。」 差し出された三方の前に座る。餅を食べ、杯に注がれた酒を飲み干した。
「私にノロの資格があるかどうか、どうぞ御検め下さい。」 娘が立ち上がる。
するすると音を立てて帯を解いた。脱いだ着物を軽く畳んで足元に置く。一糸まとわぬ裸身。
俺が立ち上がると、娘は目を閉じた。蝋燭の灯りがゆらゆらと、娘の肌を照らしている。

 

俺の両手がひとりでに動いて娘の髪を撫でた、そして頬と首。
肩から両腕、両手から腰へ、ゆっくり、そっと撫でていく。
我々の血を引く子孫。美しい娘。 愛しい。心の底から温かい思いが湧き上がる。
回り込んで背後から娘を抱いた。娘の体が小さく震える。
大丈夫。セジを受け容れる器を持ち、そして、健やかな子を産む娘だ。
「お前には資格がある。セジを授けよう。」
三方の着物を取り、娘に着せた。帯を締め、鉢巻きを巻く。
勾玉の首飾りをかけ、最後に鉢巻きと髪の間に鳥の羽を挿してやる。
本当に、愛しい娘。そして、将来ノロを継ぎ、この土地を護る者。
「これで良い。さあ、外へ。」 娘を促して戸を開けた。
いつの間にか、娘の草履が用意されている。
娘の後に小屋を出た。酷い目眩、思わず膝を着いた。
「首尾は上々。御苦労様、大丈夫?」 お面が外され、視界が広がる。
この女性は? ああ、Sさんだ。 俺は今まで何を?
Sさんの手を借りて立ち上がる。体は軽くなっているが、まだ彼方此方に違和感。
たか子さんの後に続いて歩く、瑞紀ちゃんの後ろ姿が見えた。

 

たか子さんと瑞紀ちゃんの後を追わず、Sさんはすぐに脇道へ入った。
「何処へ行くんですか?」 「裏口からノロクモイの家に。先回りするの。」
Sさんを追って早足で歩く。大丈夫、体の感覚はほとんど元通り。
裏口から台所に入った所で歓声が聞こえた。集落の人々がノロの後継者を迎えたのだろう。
Sさんが面を箱に納め、姫が翠を揺り起こしていると、玄関にたか子さんの姿。
その後から瑞紀ちゃん。見違えるような、神々しい表情。台所を抜けて奥の部屋へ。
「正式な後継者として認められたって、ノロクモイに報告するんですね?」
「報告して、名前を授けてもらうの。ノロとしての新しい名前。
それで瑞紀ちゃんは正統な後継者として、今後もノロとしての修行を続ける。」
「ねむ~い。おねえちゃん、これからどこか行くの?」
「瑞紀ちゃんが大切なお仕事をするんだって。翠ちゃんも見たいでしょ?」
「みずきちゃんが?それなら見たい。」
「あの、まだお手伝いする祭事が残ってるんですか?」
「これからはお手伝いじゃなくて報酬。今日の夕方までの祭事は毎年行うもの。
さっきの祭事はノロの後継者が現れた時だけ行われるもの。
12年に一度の祭事はこれからよ。見学できるのはノロクモイから特別な許可を得た者だけ。
見学して、その場の気に浸るのはきっと翠と藍のためになる。」

 

程なく瑞紀ちゃんが台所を抜けて玄関に向かった。
その後に続いてたか子さん。大きな紙袋を持っている。俺たちに軽く会釈をして玄関へ。
「さあ、行くわよ。この集落を護る力の秘密、見せてもらいましょう。」
Sさんは藍を抱いて立ち上がった。姫が続く、俺も翠を抱いて後を追った。
門をくぐって通りへ出る。驚いた。さっきまでの賑やかさが嘘のように、人の姿が全く見えない。
静かだ。締め切った雨戸やカーテン。人々は恐らく家の中で息を潜めている。
「この集落に住む人々の『信じる心』が、祭事を今も生かしている。羨ましいですね。」
「それはノロクモイの力が、住む人々の心を正しく導いているからこそ。持ちつ持たれつ、ね。」
藍を抱いたSさんと姫の会話。翠はまだ眠そうだ。腕の中の感触が柔らかくて頼りない。
20m程の距離を保って瑞紀ちゃんとたか子さんの後を追った。

 

 

明るい月光に照らされた、瑞紀ちゃんとたか子さんの後ろ姿。
2人は急ぐでもなく、躊躇うでもなく、しっかりとした足取りで歩き続ける。
やがて、山の方へ向かう道の脇道に入った。暫く歩くと立派な石組みの泉に着く筈。
その泉の名は『ウブガー(産泉)』、名前の通り古くからその水はこの集落で生まれた赤子の
産湯に使われてきたと聞いた。もちろん生活用水、農業用水としても。
この地に集落が開かれた当時から人々の命を繋いできた、古い泉。
祭事の初日、男達がびしょ濡れだったのはこの泉で沐浴をしたからだろう。
泉まで十数m、たか子さんが立ち止まった。泉に向かうのは瑞紀ちゃん一人。
俺たちが行けるのも其処までという事。たか子さんに追いついて指示を待つ。
「どうぞ、こちらで。」 たか子さんは外灯に照らされた小さな階段を指し示した。
階段を上るとコンクリートの小さな東屋。木製のベンチに腰掛ける。
「水を汲みに来る人たちの待合所です。あの泉から此処に水を引いていて。
あ、始まりますよ。山と水の神へ呼びかける神歌。」
泉を囲む石組みより一段高くなった場所、小さな祠の前に瑞紀ちゃんが正座している。
古い言葉を紡ぐ、通りの良い、少しだけハスキーな声。 何だか懐かしい響き。
ふと、風に乗って微かな芳香が届いた。 何故? 線香を焚いている様子もないのに。
「お父さん、へびさんだよ。すごく大きいの。」 蛇? じゃあこの香りは蛇の、でも何処に?
「翠、これからお母さんが良いと言うまで喋っちゃ駄目よ。
私達の声を聞かれると瑞紀ちゃんが危ないから。分かった?」
翠は両手で口を押さえ、大きく頷いた。その仕草が堪らなく可愛い、しっかりと抱き締める。

 

祈祷を終えたのか、瑞紀ちゃんが立ち上がり、泉の中に降りていく。
石組みに設けられた3つの湧き出し口。それぞれ幅1m、高さ50cm程。
湧き出した水はいったん浅いプールのような場所に流れ込み、そこから水路に流れている。
瑞紀ちゃんはプールの真ん中辺りに跪いた...??水が、光っている。
いや、強い光を放つ小さな緑色の粒子が、湧き出した水とともに流れている。
まるで大量の蛍が水の中を流れていくようだ。
光の粒の数はどんどん増え、もう泉全体がボンヤリと光って見える。
そして湧き出す泉の水音を乱して、それは現れた。
真ん中の湧き出し口から伸びる首と大きな頭。緑色の燐光に包まれた、巨大な蛇の頭部。
とにかくデカい。まるで超大型のニシキヘビ。文字通りの大蛇。
瑞紀ちゃんは跪いたまま胸の前で手を合わせている。小さく呟く言葉は聞き取れない。
やがて、大蛇はゆっくりとその全身を現した。瑞紀ちゃんを囲むようにプールを一周、
更にもたげた鎌首の高さが約1m強。おそらく全長はゆうに10m以上。

 

50cm程の距離で、正面から瑞紀ちゃんを見下ろす大蛇。チロチロと蠢く舌。近い。
さっきSさんが言った通り、声さえ聞かれなければ大丈夫なのか...あ。
瑞紀ちゃんの右隣、そして背後に跪く女性の姿。一体何処から、いつの間に?
瑞紀ちゃん以外に、4・5・6、7人。白い着物と鉢巻き、勾玉と髪飾り。
最前列が瑞紀ちゃんを含む2人。その後ろに3人ずつの二列、計8人。
曲玉の首飾りと、鳥の羽根の鮮やかな髪飾り。瑞紀ちゃんと同じ、ノロの衣装。
細面、丸顔。横顔や体格はそれぞれ違うが、皆20代から30代に見える。
そして、胸の前で合わせた両手から感じる、どこかしら瑞紀ちゃんに似た雰囲気。
そうか。おそらく、集落の成立以来この地と人々を護ってきた、代々のノロクモイ達。
死してなお、この集落を想うその魂も加わって、神と人々の縁を結ぶ仲人の大役を担う。
去った12年間の恵みに感謝し、更に今後12年間の恵みを乞う祭事。
瑞紀ちゃんの右隣に跪いたノロクモイが唄い始めた。神歌、女性にしては低く、渋い声。
どうやら瑞紀ちゃんの少しだけハスキーな声は、御先祖様からの遺伝らしい。
次々と声が加わっていく。最後に加わったのは瑞紀ちゃんの声。
重なり合い響き合う声が、力強く空気を震わせる。何とも言えない荘厳な響き。
全身に、鳥肌。 この神歌こそ、集落に豊かな恵みをもたらす約束の礎。
人々からは神々への信仰を、神々からは人々への恵みを。それを仲介する、ノロクモイ達。
大蛇は目を閉じ、じっと神歌に聞き入っている。
神歌を三度繰り返して唄い、ノロクモイ達は揃って深く頭を下げた。
深夜の泉に、流れる水の音だけが響く。

 

満足そうに、大蛇が眼を開けた。動き出す。その体はゆっくりと湧き出し口の中へ。
大蛇の尾が湧き出し口に消えて数十秒、詰めていた息を吐く。もう、大丈夫。
プールに視線を戻すと、既にノロクモイ達の姿は消えていた。瑞紀ちゃんが一人だけ。
それを待っていたように、たか子さんが大きな紙袋を持って階段を降りた。
瑞紀ちゃんは両手で掬った泉の水を肩からかけている。
神々しい横顔。白い着物を彩る緑色の光の粒。美しい、まるで天女のようだ。
ずっと見詰めていたいが、紙袋の中身は替えの着物だろう。気を遣って目を逸らした。
瑞紀ちゃんとたか子さんが戻ってきたのは2~3分後。俺たちに構わず、集落への道を。
「翠、もう喋っても良いわよ。お利口さんでした。」 Sさんは藍を抱いたまま翠の頭を撫でた。
「お母さん、あの大きなへびさんはかみさまだよね?」
「そう、でも蛇じゃなくて蛟(みずち)。だから龍神の仲間。あ!」 Sさんの視線を辿る。
瑞紀ちゃんが立ち止まった。たか子さんが振り向いた瞬間、その体は地面に頽れた。
「お父さん!みずきちゃんが。」
翠を姫に託して走る。瑞紀ちゃんの傍、たか子さんの隣りに膝を着いた。
「瑞紀を家まで、お願いします。」 「はい。」 良かった、呼吸に乱れはない。
初仕事にしては重過ぎる役目。力を消耗して気を失ったのだろう。短期間に、よくぞここまで。
立派に役目を果たしたノロの後継者、その体を抱き上げた。一刻も早く、ノロクモイの家へ。

 

翌朝、目が覚めると寝室には俺1人。慌てて着替え、台所へ向かう。
藍を抱いたSさんが新聞を読んでいた。たか子さんは鍋の火加減を見ている。
味噌汁の、良い香り。
「あら、昨夜は頑張ったんだからもう少し寝てても良かったのに。
Lと翠は散歩。瑞紀ちゃんはまだ寝てるけど、先に朝御飯にする?」
藍を抱いたSさんの笑顔。
「あ、いえ。それより、あの泉に行ってみたいんですが。」
「昨夜で祭事は全部済んだから問題ない筈。たか子さん、どうですか?」
「構いませんよ。」 振り向いたたか子さんの、穏やかな微笑。
「写真も?」 「勿論です。」
二日酔いで頭痛と微かな吐き気。しかし、デジカメを持って俺は玄関を飛び出した。
昨夜はすっかり感覚が麻痺していたが、蛟、あの大蛇は立派なUMAではないか。
もし何か痕跡が残っていれば是非記録して置きたい、そう思った。 しかし。
泉に通じる道には沢山の軽トラックやオートバイ、水缶やペットボトルを持った大勢の人々。
昨夜俺たちが祭事を見学した東屋も、賑やかに談笑する人たちで超満員だ。

 

「おやRさん、あなたは水を汲まないんですか?」
ノロクモイの家の近く、俺たちが良く買い物をする商店の店主。
俺と翠は去年の夏休みからの顔馴染みで、買い物の度に話し掛けてくれる。
「というか、今朝は何故こんなに沢山の人が水を汲みに来てるんですか?
前に瑞紀ちゃんに案内して貰った時には誰も居なかったのに。」
「祭事の翌朝、此処で汲んだ水には不思議な力があると言われてるんですよ。
この水でお茶やコーヒーを淹れて飲むと体が丈夫になるってね。
まあ、私はもっぱら島酒の水割りです。」 店主の手には2Lのペットボトル。
「じゃあ毎年、祭事の翌朝はこんなに沢山の人が?」
「はい。ただ、その中でも今年は特別です。何しろ24年に一度の機会ですから。
是非Rさんも水を汲んで下さい。瑞紀ちゃんがノロになるって決めたのはRさんのお陰だし、
昨夜は大事な役も立派にこなしてくれたと聞きました。
私たちは皆、Rさん達には本当に感謝してるんですよ。」

 

24年に一度?12年に一度じゃなく?
それに『大事な役』って? 昨夜、俺は見学してただけだぞ。
質問を口に出す前に、店主は一礼して歩き出した。きっと一刻も早く水割りを。
振り返る。水汲みの順番を待つ人々の列、皆の明るい笑顔。
あれだけの人が出入りしたのでは、この泉にはもう何の痕跡も。
まあ、仕方ない。俺の個人的な興味より、集落の人々の信仰が優先するのは当然だ。
泉から帰る途中で姫と翠に会った。走り寄ってきた翠を抱き上げる。
「お父さん、どこに行ってたの?」 「昨夜の泉。一緒に帰ろう。」 「うん!」
3人でノロクモイの家に戻ると瑞紀ちゃんも起きていて、皆で朝御飯を食べた。
食後。たか子さんが淹れてくれたお茶を飲むと、二日酔いがすうっと消えて楽になった。
「このお茶を飲んだら二日酔いが消えたんですけど、もしかして。」
「昨夜、あの泉で汲んだ水で淹れました。祭事の直後は力が強過ぎて
体に合わない人もいますから、一晩おいた後で使う方が良いんです。」
たか子さんは廊下の奥へ歩いて行く。きっとノロクモイには先にその水で淹れたお茶を。
「その水で作ったジュースを藍に飲ませたの。きっと御利益があるわね。」
Sさんは藍に頬ずりをした。翠も姫も、もちろんSさんと瑞紀ちゃんも美味しそうにお茶を飲む。
「Sさん、さっき泉に行ったら□◆商店のおじさんがいて、
今年は24年に一度の機会って言ってたんですけど、12年に一度じゃないんですか?」
「私じゃなくて、その祭事を執り行った本人に直接聞いたら良いじゃない。ね、瑞紀ちゃん?」
はにかんだような笑顔。 そう言えば今朝の瑞紀ちゃんは口数が少ない。

 

「瑞紀ちゃん。何故24年に一度の機会なのか、教えてくれる?」
「はい。12年後は、泉じゃなくて浜での祭事です。12年おきに泉と砂浜で交互に。
スクという小魚の群れが海岸に寄る時期ですから、その祭事は旧暦の6月~7月頃ですね。」
(※スクはアミアイゴなどアイゴ類の幼魚、毎年決まった時期に数万匹単位の群れで現れる。)
成る程、それなら泉での祭事は24年周期。そして、もしかしたら。
「浜の祭事でも実際に現れるのかな?その、昨日の蛟みたいな神様が。」
「現れる筈です。でも、それを知ってるのは祖母とたか子おばさんだけですね。」
そこに、茶器を載せたお盆を持ったたか子さんが戻ってきた。
「たか子おばさん、おばさんは前回の祭事もお祖母さんの補佐をしたんですよね?
Rさんが、その時に現れた神様の事を知りたいって。おばさんはその神様を見たんですか?」
たか子さんは少し考えた後、小さく呟いた。 「昨夜見学を許可されたのだから。」 笑顔。
「見ましたよ。『大きな亀の神様』って言う意味の名前で呼ばれてる神様。
でも、首がとても長くて胴体も細長いから、亀には見えませんでした。
その神様がノロクモイの呼びかけに応じて、海の恵みを連れて来て下さる。あの浜に。
青く光る小さなモノたちが浜に打ち上げられ、砂に溶けていく景色は、今でも忘れられません。」
「瑞紀ちゃん、紙と鉛筆貸してくれる?」 「はい。」
たか子さんの証言に基づいて俺が描き上げたスケッチ。
細長い胴体、長い首と小さな頭。体の割に大きくて丈夫そうな4枚のヒレ。
それは亀と言うより、むしろ太古の海棲爬虫類、首長竜に似ていた。

 

「お父さん、これネッシーだよね。海のかみさまはネッシーなの?」
「ネス湖にいるからネッシーでしょ。だからこれは。」 「玄武、かも。」 「え?」
Sさんは俺の描いたスケッチをじっと見つめている。
「これが『大きな亀の神様』なら、昨夜の蛟と合わせて玄武のイメージに重なる。」
確かに、玄武は大きな亀と大蛇の組み合わせとして描かれることが多い。
「あるいは亀の胴体と蛇のように長い首、これ単独でも玄武の...まあ、それは置いといて。
2柱の神の恵みで豊作と豊漁を約束された集落。人々と神々の縁を結ぶノロクモイ。
本当に素敵。引退した後この集落で暮らす夢、ますます魅力的だわ。」
ノロとの契約に基づいて、この地に豊かな恵みをもたらす神々。それはつまり。
「その神々は式に近い存在なんですね。だから化生している間は実体を持つ。
もし同じような存在が他にもいて、何かの条件で化生して実体を持つのなら、
世界中で目撃されてきた未確認動物は、殆ど説明が付きます。」
「神格を持っている以上、式よりずっと高位の存在。ただ、術者やノロとの契約がなくても
自在に化生できるから、その姿を目撃した人には未確認動物そのものに見えるでしょうね。
古今東西、数ある未確認動物の正体の1つが、あのような存在であることは間違いない。」
そうか、化生している間は実体を持つのだから、目撃されるだけでなく攻撃を受ければ
深手を負い、死体のようになることもあるだろう。しかしそうなれば化生が解けて、
その体はやがて霧消する。もちろんその『本体』は無傷。
恐らくそれが、未確認動物の死体が保管されているという確実な事例が1つも無い理由。
日本で射殺されたという『鵬』も、記録だけでその死体は残っていない。

 

「お父さん、みどりはみずきちゃんのことがききたい。ノロになれるってきまったんでしょ?」
そう言えば、昨夜瑞紀ちゃんは。俺はたか子さんに面を着けてもらって、それから?
「瑞紀ちゃんはどうやってノロの後継者って認められたの? 瑞紀ちゃんが間違って
俺のケイタイに電話して来た時は、てっきりSさんかLさんがノロクモイの代わりに」
「間違ってない!私、Rさんに。」
瑞紀ちゃんは突然席を立ち、足早に廊下を。 とてつもなく、気まずい時間。

 

「ええっと、憑依が上手く行くようにってRさんにお酒を勧め過ぎたのは失敗でした。」
「おねえちゃんとおかあさんは、何か、しっぱいしたの?」 翠は泣き出しそうだ。
「昨夜の事、ホントに憶えてない?」 「はい、お面を着けて皆が喜んだ後の事は。」
「小屋で瑞紀ちゃんの着替えを手伝ったでしょ?それで勾玉の首飾りと鳥の羽根の髪飾りを。」
あ! 突然、蝋燭の灯りと裸体の映像。柔らかな感触、俺は昨夜瑞紀ちゃんの素肌に。
「憑依が深くなりすぎて記憶が飛んだのは私とSさんに責任が有りますけど、電話の件は。」
「確かに、『間違い電話』って言ったのは、挽回できるかどうか怪しいわね。」
「あの、一体何の話ですか?」
「昨夜、瑞紀ちゃんの着替えを手伝った、それは思い出したのね?」
「はい。でも、それは僕じゃなくても。だって代々のノロは。」
「R君?」 「はい。」 「裸を見せるなら、せめて好きな人にって思う気持ち、分からない?」
「じゃあ、あの時。」 「そう、瑞紀ちゃんは最初からあなたに頼みたかったのよ。その役を。」
「きっと、瑞紀ちゃんは部屋にいます。修復するなら今しかありません。」
「いや、だって代々のノロが稀人にセジを授けられるなら、個人的な好き嫌いは。痛ててて。」
「R君、君、思い上がってる?」 「思い上がるなんてそんな。だって前回もそれ以前も。」
「基本、稀人は公募制なの。だから。」
ふと、甦る記憶。お面を着けた時の、微かな潮の香り。もしかしてあれは。
「そう。前回、稀人役を勤めたのは瑞紀ちゃんの祖父。
必死で村一番の漁師になって、その役を勝ち取ったのよ。大好きな女性のために。」
「Rさん、行ってらっしゃい。それでも駄目だったら私たちも協力しますから。」 姫の、微笑。

 

廊下の奥、ノロクモイの部屋の1つ手前。瑞紀ちゃんの寝室。深呼吸して、襖をノックした。
「瑞紀ちゃん、居るんでしょ?入るよ。」 返事はない。 5秒待って襖を開ける。
瑞紀ちゃんは窓際に座っていた。振り向いてはくれない。寂しそうな後ろ姿。
「御免。昨夜は、飲み過ぎて。だから憑依は上手く行ったけど、記憶が飛んでた。
でも、さっき全部思い出したよ。昨夜、瑞紀ちゃんは、とても綺麗だった。」
「私、あの役は、絶対Rさんに。それは私の、我が儘だって分かって居たけど。」
「瑞紀ちゃん、俺はSさんとは違う。色々な事が前もって分かる程の力は無いんだ。だから。」
小さな肩にそっと触れる。何もかもが愛しくて、胸の奥が痛む。
「私も、SさんやLさんみたいに綺麗じゃないし、2人みたいな力もないから。」
「違う。それは違う。悪いのは俺。瑞紀ちゃんの気持ちを分かって上げられなかった。」
柔らかな体をしっかり抱きしめる。薔薇の花の、香り。
「瑞紀ちゃんの御両親に、会わせてくれないかな?」 「え?でもそれは。」
「きっと、俺たちの関係が宙ぶらりんだから、こんな擦れ違いが起こるんだよ。
だから区切りを付ける。ちゃんと瑞紀ちゃんの御両親に話をして、許してもらおう。」
「本当に、良いんですか?」 「うん。なるべく早くにね。」

 

祭りの3日目は月曜日、昨日までに比べれば静かな雰囲気。
夕方から、公民館で祭事というよりは豊年祭っぽい演し物が色々あるらしい。
午前中は皆でのんびりと昼寝をし、午後からお祭りの雰囲気を楽しんだ。
瑞紀ちゃんの両親と会ったのはその翌日。あるレストランの個室、夕食に招待した。
まずは2人に頭を下げる。「初めまして、Rです。今夜は御出頂き感謝します。」
「こちらこそ、御招待頂いて。有り難う御座います。」
しかし、父親の言葉はそれ以上続かない。すぐに料理が運ばれてきた。
当然だが、何とも気まずい雰囲気。殆ど誰も喋らないまま夕食を食べる。
やがて飲み物とデザート。沈黙に耐えかねたように、父親が口を開いた。
「Rさん、瑞紀の命を助けて頂いて有り難う御座いました。このような場を設けて頂いてから
改めてお礼を申し上げるのではなく、すぐにでもそちらに伺うべきでした。
しかし家の事情でそれもままならず、どうか失礼をお許し下さい。」
「僕たちの出会いが縁となり、こちらが望んだ事ですから、どうかお気遣い無く。
むしろあの出会いが瑞紀ちゃんの、いえ、瑞紀さんのノロになりたいという希望を生みました。
結果的にそれが御両親の御心労の原因となっている事を、申し訳なく思っています。」
瑞紀ちゃんが沖縄を離れたのは、本人と両親がノロになる事を希望していなかったからだ。
「瑞紀。お前の正直な気持ちを聞かせて。たか子姉さんから話は聞いてるけど、
お前の気持ちが分からないと母さん達はどうしようもない。」 初めて母親が口を開いた。

 

「Sさんは、お祖母さんが立派なノロで、今もあの集落を護ってると私に教えてくれた。
それからRさんたちは『何時か引退したら、立派なノロに護られてる土地で暮らしたい。』って。
だから私、ノロになりたいって思ったの。何時かRさんたちがあの集落で暮らしてくれるように。」
「お前、何言ってるの。そんな気持ちでノロになんて。」
「最後まで聞いて!」 「駄目だよ、瑞紀ちゃん。」 固く握りしめた手を、そっと押さえる。
「...大声、出して御免なさい。確かに始めはその気持ちだけだった。
でも、お祖母さんとたか子おばさんの手伝いをする内に、分かってきたの。
お祖母さんとたか子おばさんが、あの集落の人達にどれだけ尊敬されてるか、
集落を護ることがどれだけ大切で、どれだけやりがいのある仕事なのか。そういう事が。
だから今はRさんたちの事だけじゃなく、私自身が絶対ノロになりたいと思ってる。
大好きなあの集落を、何時か私の力で護れるようになりたい。」
「ノロである間は、入籍出来ない。それは、聞いてるでしょ?本当に、それで良いの?」
「SさんとLさんの事は最初から知ってた。だから入籍なんて全然考えてない。
私、力を玩具にして占いのバイトしてたから、始めはRさんに嫌われてた。
でも今は少し好きになってくれて、翠ちゃんと一緒に旅行にも来てくれて。だから...」
黙って俯いた瑞紀ちゃんを見つめ、両親は溜息をついた。

 

「Rさん、私達の一番の望みは瑞紀の幸せです。」
「はい。僕にも娘がいますから、お母さんの御気持は分かるつもりです。」
「あの集落でノロになることが、本当に瑞紀にとっての幸せでしょうか?
しかも絶対に籍を入れられない、Rさんとの事実婚以外選択肢が無いなんて。」
「勿論、御両親が許して下さるまで、友人としてのお付き合いから先には進みません。」
瑞紀ちゃんは驚いたように俺を見詰めた。縋るような瞳、胸が痛む。でも、言わねばならない。
「僕たちの一族のしきたりが、今の日本の常識から大きく外れている事は理解しています。
御両親がそれをとんでもないことだと考えるのも、ごく当たり前のことでしょう。
ただ、瑞紀さんの優れた資質を活かすのは全く別の問題です。
瑞紀さんの力、その優れた資質を活かすためには、ノロになるしかありません。
お願いです、どうかそれだけは信じて下さい。
何故僕たちのように力を持って生まれてくる人間がいるのかは分かりません。
でも、僕たちには、この力を使って果たすべき天命があると信じています。
僕は沖縄で言うならユタのような立場、術を使う仕事の報酬で生計を立てています。
決して人の道に反した事はしていないし、出来る限りの人助けもしてきました。
それでも、僕たちのような人間を、胡散臭い蔑むべき存在だと思う人もいるでしょう。
それはそれで仕方の無いことだし、宿命だと思って受け容れるしかありません。
その点、瑞紀さんは僕たちとは全く違います。」

 

「それは、どんな?」
「瑞紀さんの言った通り、ノロは皆から尊敬される存在です。その地域を護り、
皆の精神的な支えとなる。だからこそクモイ(雲上)という敬称で呼ばれるのだし、
土地や財産など、生活の基盤を王府から保証され、それを代々相続してきました。」
あの集落でも、ノロクモイの家とその敷地、それからかなりの広さの畑を
代々のノロクモイが相続してきたと、たか子さんから聞いていた。
「だからノロは『この仕事は幾ら、ここまでするなら幾ら。』そんな金勘定とは無縁の存在。
瑞紀さんのお祖母さんは、僕たちの一族にも滅多に居ないような力の持ち主ですが、
恐らく瑞紀さんもお祖母さんに並ぶ程の力を身につけ、立派なノロになれる筈。
ノロになるのは瑞紀さんの天命。どうかその希望を受け容れて、応援してあげて下さい。
天命に従う瑞紀さんの幸せには、御両親の変わらぬ愛情と応援が絶対に必要です。」

 

「今、分かりました。」 黙っていた父親が口を開いた。
「瑞紀には、力を持っていることを鼻に掛けて、他人を少し見下したような所がありました。
でも、本土から帰ってきた瑞紀は変わっていたんです。親の私達がビックリする位に。
大学の勉強も、ノロの修行も、その他何事にも真剣で一生懸命で。
Rさんの親戚の家で働かせてもらいながら色々教えて頂いたと聞いていましたが、
それだけでは無かったんですね。Rさんたちがどれ程真剣に自分の力と向き合っているか、
それを肌で感じたから、瑞紀は変わったんです。恵子、これなら安心して良いんじゃないか?」
「はい。考えたくもなかったけど、力を持って生まれた以上、ノロにならないとしたら、
将来ユタになるしか道はない。それよりはずっと、ずっとノロになってくれた方が...」
? いや、本物ならユタはユタで立派な仕事だろう。
思わず俺は怪訝そうな表情を浮かべたかも知れない。 父親は俺の顔を見て微笑んだ。
「Rさん、ユタという言葉はユタの前では使いません。何故だか分かりますか?」
「いいえ。それは、何故ですか?」
術者、術師、あるいは陰陽師。俺たち自身も他人も、その名を憚る事などないのに。
「ユタに相談することを『ユタを買う』と言うんです。金を積めば都合の良い事を言ってくれる、
人の不幸につけこんで金を毟り取ろうとする、そんなイメージが強いからでしょうね。
ユタになって、『買われて』暮らすより、
例え入籍出来なくても本当に好きな人と一緒になった方が幸せです。
Rさんなら、きっと瑞紀を大切にしてくれる。」

 

「瑞紀さんの気持ちはとても嬉しいし、僕も瑞紀さんが好きです。
だからこそこれからも真剣にお付き合いして、お互いの気持ちを育てたい。
でも、正直僕たちの気持ちがどんな風に育つのか、それは未だ分かりません。
友情のままなのか、兄弟のような愛情に育つのか、それとも男女の愛情に育つのか。
それに、瑞紀さんにはこれからも御両親の助けが絶対に必要です。
御両親に賛成して頂けないなら、友人から先の段階には進みません。
御両親に賛成して頂けるまで待つつもりですが、勿論他に好きな人が出来たらそれでも。」
「他に好きな人なんて、絶対無い!どうして...」
瑞紀ちゃんは両手で顔を覆って俯いた。小さな肩が震えている。
母親が見かねたように瑞紀ちゃんの肩を抱いた。「大丈夫。ずっと応援するから、頑張って。」
「Rさん、私達は賛成です。どうか、これからも瑞紀を、宜しくお願いします。」
「有り難う御座います。僕は絶対に瑞紀さんを裏切りません。御安心下さい。」

 

レストランからの帰り道、小さな公園の駐車場に車を停めた。
瑞紀ちゃんはあれから一言も喋らず、目も合わせてくれない。
「瑞紀ちゃん。折角御両親のお許しをもらえたんだから、もう、機嫌直して。ね。」
「...許してもらえなかったら友だちで良いって。他に好きな人が出来たらって。酷い。」
「酷いかもしれないけど、方便じゃない。本当の気持ちだよ。」
「私、両親の許しなんてなくてもRさんの」 その唇を人差し指でそっと抑えた。
「将来、子供が生まれても、瑞紀ちゃんはそれで良いの?」 「え?」
「お父さんが一族の当主に即位したから、Sさんは小さい頃に親戚の養女になった。
翠や藍をSさんの実の御両親に会わせるだけでも特別な許可が必要なんだ。
Lさんは、早くに死別した御両親の顔も覚えていない。だから自分の子供を愛せるのか
自信が持てなくて、子供を受け容れる覚悟が中々出来なかった。それで今年、やっと。」
「私、全然知りませんでした。2人はいつも素敵で、思い通りに生きているとばっかり。」
「今、此処に瑞紀ちゃんがいるのは、御両親のお陰だよね。
何時か瑞紀ちゃんを女性として好きになって、俺達に子供が出来たら、
一番に瑞紀ちゃんの御両親に喜んでもらいたい。
それが出来ない事情を経験してきたから、これだけは譲れない。どんなに君が好きでも。」
「R、さん。」

 

「俺がずっと君と一緒に住めるとしたら、運良く生き残ってお爺さんになってから。だから
僕達の子供を育てるには、どうしたって君の負担が大きくなる。御両親の助けが絶対に必要。
もし御両親の助けが得られないなら、君一人に子育ての負担は掛けられない。分かって」
不意に胸が詰まって言葉が途切れた。今夜は言霊を使わないと決めていた事も、
最後までそれを守れた事も、何一つ気休めにはならない。本当に俺は、間違っていないのか。
次の瞬間、目の前に綺麗な顔、吸い込まれるような、黒い双眸。
「やっぱり、私、馬鹿ですね。いっつも我が儘で、自分勝手で。」
「そうじゃ無い。俺たちの一族のしきたりが、常識とかけ離れているだけだよ。」
「その一族の人のお嫁さんになるのに、自分の考えだけにこだわって。だから私、馬鹿。
Rさんは、こんなに私の事を大切に思ってくれているのに。それに私達の子供の事も。」
俺の首に回った手に力が篭もる。

慌てて柔らかい体を引き離し、距離を取る。
「ストップ。そこまで。まだ友達、なんだから。」 「もう、両親は許してくれたのに。」
「瑞紀ちゃんはまだノロになってない。約束、したでしょ?」 「...分かった、ことにする。」
何とか理性を保ちつつノロクモイの家に帰り着くと、玄関で翠が迎えてくれた。
その後ろに藍を抱いたSさんと姫。2人は俺をそっちのけで瑞紀ちゃんの肩を抱いた。
「良かったね、瑞紀ちゃん。」 「Rさんは瑞紀ちゃんの事になると妙に鈍いんです。
去年の旅行の時にキチンとしてくれたと思ってたのに、結局今年まで。御免なさい。」
「いいえ。Rさんは、ちゃんと話してくれて。両親も許してくれたから、もう。」
「みずきちゃん。お祝いのおかしがあるよ。」 「うん、有り難う。」
ええっと、成功以外考えていなかったらしいこの段取りは一体?

 

「元々、この問題は恵子が許す許さないでは有りません。
力を持って生まれたのですから、ノロになるかどうかを決めるのは瑞紀自身です。
そしてノロになると決めた切っ掛けはRさんへの想い。瑞紀にはRさんとの縁があるという事。
瑞紀は本当に幸せです。出来れば、私はノロになりたかった。でも器が足りなくて。
母と、瑞紀の助けになるなら、私の人生にも意味があるのだと信じる事が出来ますけど。」
そうか、だから結婚せずにノロクモイの補佐をして、通常の祭事なら仕切れる程の修行を。
「たか子さん、あなたはこの集落に是非必要な人です。今までも、そしてこれからも。
もしあなたがいなければ、ノロクモイは引退するしかなかった。
そうなれば、この集落にノロは不在。神々との契約も更新されぬまま、何時か尽きる。」
その言葉の、ゆったりと温かい響き。 でも、Sさんでなければ語れない、重い言葉。
「ノロは花、あなたは花を支える枝。枝なしに咲く花など、普通はないのですから。」
「有り難う、御座います。」 たか子さんはハンカチで目尻を押さえた

 

「それで、瑞紀ちゃんがノロになるのに、どれくらいかかりますか?」
「その母は、後継者と認められてから3年かかったと聞きました。
でも瑞紀は、既に昨夜母の代役を。もしかしたら、あと3年かからないかも知れません。」
「ノロになったら、この集落を長期間、離れることは出来ませんよね?」
「はい。どんなに長くても、二泊三日がギリギリです。」
「私はそれまでに、瑞紀ちゃんに出来るだけ沢山の経験をして欲しいと思っています。
もちろん旅費も、旅行の段取りも、全部Rが責任を持ちますから。」
「宜しくお願いします。」 「あの、Sさん。僕は綺麗さっぱり置いてけぼりですが。」
「日本の美しい四季の景色、数ある古くからの祭事、それらを瑞紀ちゃんに体験してもらうの。
そのナビゲーターをあなたにお願いしたいんだけど、やっぱり無理かしら?」
「いいえ、今は無理でも、それまでに頑張ります。絶対です。」 「うん、良い返事。」

 

 

「お父さん、お父さん。」
背後から心細げな声。翠?寂しい夢でも見て目が覚めたのか。殆ど条件反射で寝返りを打つ。
左腕で腕枕、右腕でそっと抱きしめて背中を...大きい、誰?
さらさらとした長い髪、薔薇の花の香り。これは。
心臓の鼓動が一気に高鳴る。冷や汗。まさか、瑞紀ちゃん?
薄目を開けると、笑いを堪えて小さく震える背中...ああ、悪戯、か。
確かに聞こえた『お父さん』という台詞。なら首謀者は恐らくSさんだ。
すっ、と心が冷静になり、心臓の鼓動も収まっていく。
昨夜Sさんは『御両親の許しが出たんだから今夜から寝室は一緒で良いわね。』と。
これ以上俺を玩具にする人が増えたら堪らない。首謀者のSさんが止めに入る事は
ないだろう。多分共犯者の姫も。此処はしっかり反撃しておかないと後々困る。
右手に力を込め、その体を強く抱きしめてその動きを封じた。
「あれ?翠は急に大きくなったね。お父さん嬉しいな~。」 頬にそっとキス。
瑞紀ちゃんの体が小さく震える。 「Rさん、駄目。」 少し掠れた声。
「どうして?翠はお父さんのこと大好きでしょ?」
「お父さん?」 思わす飛び起きる。 恐る恐る振り向くと、翠が立っていた。

 

「どうしてみどりとみずきちゃんをまちがうの?」
「あれ、瑞紀は此処に?お父さん寝惚けてたのかな?でないと間違うはず無いよね。」
硬直する俺の傍をすり抜けた瑞紀ちゃんが翠を抱き上げる。
「私が夢を見て『お父さん』って言ったの。それで。Rさんは翠ちゃんが大好きだから、ね?」
「みずきちゃんもお父さんも、ねぼけてゆめを見たの?」 「そう、だから。」
「な~んだ。お父さんがみずきちゃんにいじわるしてたんじゃないんだね。」 満足そうな笑顔。
「あさごはんできたって、お母さんが。今日は水族館だよ、ヤンバルクイナも。」
「お布団片付けたら直ぐ行くから、待っててね。」 「うん。」 遠ざかる。軽い足音。
「Rさん、不意打ちは禁止。」 「瑞紀ちゃんこそ、あんな悪戯はなし。反則だよ。」
一度だけ、お互いの頬にキスをしてから、2人で布団を片付けた。

 

「R君。あの人達、朝、名護のコンビニで見かけたような気がするんだけど。」
ロードレーサー(※競技用の自転車)に乗った一団が急な山道を駆け上っていく。
ユニフォームらしい青基調のジャージの列に、ちらほらと別のジャージが混じる。
水族館を見学し、其処のカフェで食事を済ませた後で山道をドライブ中。
勿論ドライブの目的はヤンバルクイナだが、時折見かけるのはロードレーサーの集団ばかり。
「はい。確か沖縄では有名なチームですよ。前に雑誌で読んだ覚えがあります。よっ、と。」
見通しの良い右カーブから直線にかけてアクセルを踏み、一気に集団を追い抜いた。
「11月に国内最大規模のレースがありますから、そろそろ本格的な練習の時期でしょうね。」
「こんな山道でレースをするんですか?自転車で?」
「はい、210kmと140kmは間違いなく国内の市民レースの最高峰ですよ。」
バックミラーに映る姫の笑顔。 助手席のSさんは溜息をついた。
「わざわざこんな山道でレース。しかも210kmとか140km?不思議な人たちね。
まるで故郷を目指して急流を遡る鮭の群れ。でも、それらは人の形をしてる。
それだけで充分にUMAだわ。ヤンバルクイナより個体数は多いみたいだけど。」
「あ、Rさん、あれ!」 姫の隣で藍を抱いていた瑞紀ちゃんが突然左前方を指さした。
...間違いない。パンフレットの写真の通りだ。ヤンバルクイナ。しかも、2羽。
すぐに車を路肩に停めた。思っていたより大きな身体。連れ立って道路を横切っていく。
「かわいい~。お父さん、あれヤンバルクイナでしょ?」 「間違いないと思う。」
それは俺たちにとってリアルUMAとの出会い。沖縄旅行の大事な思い出がまた1つ。

 

「もう!翠は置いていくわよ。空港に行く時間なのに、間に合わないじゃないの。」
玄関から、Sさんの優しい声。翠はまだ姫と一緒にリビングの飾り付けをしている。
今日は12月23日だが、クリスマスの準備ではない(一応クリスマスパーティーもするが)。
それは、年末からお正月にかけて、お屋敷で過ごす瑞紀ちゃんの歓迎パーティーの準備。
旧暦の正月が来年1月の後半。瑞紀ちゃんの旅行は集落の祭事に影響しない。
既にSさんは幾つかの祭事に瑞紀ちゃんを同席させると決めていたから、好都合。
「お母さん、まって。今行くから。」 廊下を走る軽い足音。
「気を付けて下さいね。」 姫は笑顔で手を振り、玄関で二人を見送った。
もうすぐ妊娠6ヶ月に入る姫は大事を取って留守番。俺は姫の付き添い+藍の子守。
「やっぱりお迎えに行った方が。瑞紀ちゃん、少しでも早くRさんに会いたい筈なのに。」
「瑞紀ちゃんが『迎えに来なくて良いからLさんと一緒に居て下さい。』って。
Lさんの事が心配なんですよ。その気持ちが、嬉しいですよね。」
「じゃあ、瑞紀ちゃんとSさんの気持ちに甘えて、暫くの間だけRさんを独り占めですね。」
暫くの間って、6月中旬から夜はずっと一緒に居る訳だが。まあ、『気分』って事で。
「藍が妬いちゃうかも。Lさん大好きだから。」 「ふふ、ちょっとだけ我慢、してもらいます。」
そっと姫の肩を抱いた。家族がそれぞれに過ごす、とても幸せな午後。その後の時間。
それらはきっと、それぞれの魂の旅路を支える、夢の礎。

 

 

『礎』 完

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

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