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『旅路』藍物語シリーズ【2】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

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『旅路』藍物語シリーズ【2】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物
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藍物語シリーズ【2】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『旅路』

 

 

「あの、次の週末位にはアパートに戻ろうと思っているんですけど。」
金曜日の夜。姫が寝た後、リビングでSさんとハイボールを飲みながら俺は切り出した。
姫の誕生日を無事に乗り越え、平穏な日々が戻ってきたのだし、
いつまでもお屋敷に居候させて貰う訳にもいかない。
昏睡している間に減った体重もほとんど元に戻って、体調も充分に回復している。
Lさん、Sさんと離れるのは正直寂しいが、もうそろそろ、と思ったのだ。
軽で飛ばせば一時間もかからない距離、そう、自分に言い聞かせる。
「Lが寂しがるわよ?あの娘、最近君がいつここを出るって言い出すか心配で
少し情緒不安定になってる。君にも分かるでしょ?」
「それは分かりますが、いつまでもここに居候させて貰う訳にもいかないので。」
Sさんが俯いてグラスを揺らした。細い綺麗な指、リビングに澄んだ音が響く。
「ねえR君、君、此所に住まない?私もLも、君を居候じゃなくて家族だと思ってる。
君がずっと此所に住んでくれる方が絶対Lには良いし、私も嬉しいわ。」
「でも、僕は今家賃も食費も」
「だ・か・ら、そんな事気にしないで!家族なら家賃も食費も要らないでしょ。
第一、Lの事ではどれだけお礼をしても足りないくらいなのに
家賃や食費なんて貰ったらそれこそ天罰が下るわよ。ね、そうして頂戴。」
「あの、じゃ取り敢えず新しいバイトが見つかるまではここに置いて貰うと言う事で。」
Sさんは悪戯っぽく笑った。「実はね、君のアパート、11月末で解約済みなの。
『Rの姉ですけど、Rは体調崩して暫く入院するから』って言ったら簡単だったわよ。
別に嘘ついた訳じゃないし、君の印鑑や委任状持って行ったせいもあるとは思うけど。
アパートに残ってた荷物も全部倉庫に運んであるわ。」
「...じゃ、僕は今、ここ以外に住む場所が無いって事ですか?」
「君の実家には住めるでしょうけど、かなり遠いでしょ?」
「ちょっと強引な気がしますが。」
「もう、ごちゃごちゃ言わないの。それとも何、此所の暮らしに不満でもあるの?」
「いえ、是非此所に住ませて下さい。お願いします。」
「うん、良い返事。」 Sさんはにっこり笑って俺の頭を撫でた。

 

そんな訳で俺は正式にお屋敷の一員としての生活を始めた。
今から大学へ戻っても留年は決まっているので大学へは戻らず、
街で新しいバイトを探したり、Sさんから術の基本を教えてもらって修行したり、
もちろん姫と2人で出かける事もあって、とても楽しく充実した日々を過ごしていた。
充実した日々が過ぎるのは速い。あっというまに年の瀬となり、大晦日を迎えた。
皆で夕食後のコーヒーを飲んでいると、姫が『初詣に行ってみたい』と言い出した。
TVのニュースで初詣や出店を取り上げているコーナーを見て興味を持ったらしい。
俺は陰陽道と神社がどう関わるのか判らないので黙っていたが、Sさんは乗り気だった。
「少し遠いけど○▲神社なら特に障りも無いし、結構賑やかだから良いんじゃない?」
「そこが良いです。みんなで行きましょう、ね。」姫は遠足前日の子供のようだ。
「明日は元旦の祀りがあるけど、その後でならOK。R君、運転お願いね。
それから、元旦の祀りに君も参加してもらいたいの。時間は朝6時、正装で。」
「はい。」 Sさんの言葉で明日の予定がぴしりと決まった。

翌日の夜明け前、俺は荷物の中から大学の入学式に着たスーツを引っ張り出した。
欠伸をしながらネクタイを締め終わり、身なりを確認していると姫が呼びにきてくれた。
目が覚めるような真白の着物と袴姿で、髪を結い上げた姿はまるで巫女さんのようだ。
いつものふわっとした感じとは全然違って、きりっと凛々しい。思わず見惚れてしまう。
「あの、似合いませんか?」 「いや、あんまり似合ってるのでビックリしちゃって。」
慌てて言い訳した後、姫に確認した。「僕の方こそ、このスーツで大丈夫ですか?」
「大丈夫です。じゃ、行きましょう。」案内されたのはお屋敷の図書室だった。
図書室の奥には扉があり、いつ見ても閉じていたが、今日は開いている。
姫はためらわずにその扉の中へ入っていく。俺も後に続いた。

 

扉の中へ入って驚いた。
そこはお屋敷の雰囲気とは似ても似つかぬ畳貼りの広大な和室で
部屋の奥には一段高くなった板張りの部分があり、竹(笹?)と注連縄(?)で
小さな祭壇が組み上げられていた。祭壇の真ん中には小さな炎が見える。
祭壇の横にはSさんが座っていた。Sさんも姫と同じ白い着物と袴姿だ。
ただでも隙のない人だが、今日は更に厳粛な雰囲気で、巫女さんというより女神様のようだ。
姫に促され、祭壇の前に姫と並んで正座する。脚が持つといいんだけど。
Sさんが立ち上がり、祭壇と俺たちに一礼した後、祝詞を奏上(?)した。
意味は分からないが、澄んだ声を聴いているうちに心が洗われ身が引き締まる気がする。
祝詞が終わり、Sさんはもう一度祭壇に一礼して膝を付き三方を捧げ持った。
膝立ちで俺たちの前に進み、まず姫に三方を差し出す。
「私と同じように、人型は私の取るものとは別のものを。」姫が小声で教えてくれる。
三方の上には白い紙人形が2体載っている。『身代わり』と同じ形だ。
姫は手をついて一礼し、そのうちの一体を取ってある動作をして三方に戻した。さらに一礼。
俺も見よう見まねで姫のとは別の人型をとって同じ動作をした。人型を三方に戻して一礼。
Sさんが祭壇に向き直り、小さな声で呪文のような言葉を唱えながら人型を炎の中へ入れる。
二枚目の人型を入れた時、思いの外炎が大きく燃え上がって部屋の壁が赤く染まった。
次の瞬間、火のついた小さな紙片が舞い上がり、俺のすぐ前に落ちて燃え尽きた。
Sさんは舞い上がった紙片に一瞬鋭い視線を向けたが、その後は
まるで何事も無かったように袱紗で灰を拭き取って俺たちに一礼した。
「退出します。」また姫が小声で教えてくれる。
どうやら脚はもってくれたようだ。手をついて祭壇に一礼し、部屋を出た。
「あとは私たちだけの仕事です。部屋に戻って待っていて下さい。」
図書室から出る時、和室に戻る姫の横顔が緊張していたのが気になった。

 

部屋に戻って待っていると一時間程で姫が呼びに来てくれた。
「朝食です。」もう既に洋服に着替えていて特に変わった様子もない。
ダイニングのテーブルにはお雑煮の椀が並んでいた。それと立派な重箱のお節料理。
「今年は3人分だし、男の人もいるから大きい重箱を使ってみたの。」Sさんが笑う。
「Sさんのお節、美味しいんですよ。」 「お節料理も作れるんですか?」
「ちょっと手抜きしてるけど、一応はね。手作りの方が美味しいし。」
一体何時作ったのか? 年末、そんな様子は見えなかったが、本当に底の知れない人だ。
「初詣、朝はかなり混むと思うから少し落ち着いた頃、
そうね、昼ご飯が済んだら出かけましょうか。あ、そうだ。これ、お年玉。」
「ありがとうございます。」 「え、僕も貰って良いんですか?」
「Rさんはまだ社会人じゃないから貰えるんですよ。一緒に買い物出来ますね。」
姫は本当に楽しそうだった。

 

2時間ほど車を走らせて○▲神社に着いた。やはりかなりの人出で、
俺たちは案内の人の指示に従い、神社から少し離れた空き地の臨時駐車場に車を止めた。
2人がお洒落をしていたので、窮屈だが俺もスーツを着ている。
車を降り、神社への道を3人並んで歩いているとSさんが言った。
「私たち、家族に見えるかしらね。」 「ふふ、じゃ私は末の妹ってことで。」
「私は長女、R君は真ん中ね。」 「何か、出来の悪いのが一人混じってて申し訳ないです。」
『そんなことはない』と2人は笑って否定してくれたが、俺みたいにさえない男が
モデルもまっ青の美人と一緒に歩くのは正直気が引ける。しかも今日は美人が2人だ。
公平に見て、とても3人が家族には見えないだろう。
芸能人2人とさえないマネージャーならありそうかも、考えているうちに神社に着いた。
列に並んで初詣の順番を待つ。案の定、彼方此方から2人に視線が集まる。
中には彼女連れなのに呆然と2人に見とれ、彼女に肘打ちをくらった青年もいた。
『無理もないよな』と青年に内心で同情していると、ふと、嫌な視線を感じた。
それとなく視線の方向を窺うと、明らかにソッチ系の若い男が下卑た笑いを浮かべている。
Sさんに話した方が良いか考えながら、もう一度様子を窺うと男の姿は無かった。
順番が来たので3人で賽銭を投げ、初詣をした。初詣の後は境内の出店を見てまわる。
姫はとにかく食べ物を買いたがり、Sさんが止めるのも聞かずに焼きそばや焼き鳥、
お団子や今川焼きなどを大量に買い込み、仕上げに豚汁まで注文して
嬉しそうに出店の横のテーブルについた。「早く食べましょう。」
昼食からそれ程間が無い。食べきれない分が回ってくるのは目に見えていたので
俺がホットコーヒーだけを買おうとすると、Sさんが「帰りは私が運転するから。」と言って
生ビール(大)を買ってくれた。姫が気前よく買い物をしたので店のおばさんも機嫌が良い。
姫の前に豚汁を置きながら「姉弟仲が良くて結構ですね。」などとお世辞を言う。
結局焼きそばと豚汁の半分以上は俺が食べ、お団子と今川焼きはSさんが手伝って
何とか完食した。「もうお腹が一杯で動けません。」姫はぐったりしている。
「初めてだからはしゃぐのも分かるけど、これに懲りて買い物はほどほどにしてよ。」
姫は「は~い。」と返事はしたものの、特にしょげた様子はなかった。

 

これから能が奉納されるという話だったが、それを見てからでは帰りが遅くなるので
大きな風船や何かを欲しがる姫をたしなめながら、来た道を逆に辿って駐車場に戻った。
駐車場の出入り口には大きく『満車』の表示が出してあり、案内の人もいなくなっている。
もう日暮れが近く、仮設の照明だけの臨時駐車場は既にかなり薄暗い。
車を停めた場所に向かおうとした時、背後から声をかけられた。
「よお、仲が良くてうらやましいな。綺麗なおねーちゃん2人、俺たちにも貸してくれよ。なあ。」
振り向くと若い男が2人立っていた。その後ろにスーッと黒い車が停まり、もう1人降りてくる。
参拝の列に並んでいた時に見た男だ。迂闊だった。消えたのではなく仲間を呼んできたのか。
2人に目をつけてずっとチャンスを待っていたのだろう。Sさんに話しておくべきだった。
3人相手じゃまず勝ち目はない。能の時間が近いせいか、あいにく周りには人影も無い。
「見ての通り、これから帰る所なんだ。悪いな。」言いながらそれとなく相手の様子を窺う。
「このまま帰れる訳無いだろ。舐めてんのか、え?」最初に声を掛けた男が凄む。
最後に車から降りた男は運転手だから一番下っ端だろう。
だとすれば、最初からずっと黙っているもう一人が多分コイツ等の頭だ。
まずこの男を狙い、相手が混乱してくれたらSさんが姫を誘導して逃げられるかも。
「舐めてなんかいないよ。ヒビってるんだ。」言いながら一歩前に出ようとすると
Sさんが俺の左手を掴んで止めた。小声で囁く。「待って。」

俺の右側からすうっと前に出たのは姫だった。後ろ姿に違和感がある、何か変だ。
女の子の方から無造作に近寄ってきたので3人は呆気にとられている。
そこに姫がちょこんと頭を下げて声を掛けた。「こんにちは。良いお正月ですね。」
驚いた。確かに姫の声だが、その声に川のせせらぎのような、
木々の葉が風にざわめくような、そんな不思議な響きが重なって聞こえてくる。
こんな声は生身の人間には出せない。全身がザワザワと総毛立った。
姫は男達の車を指さして続けた。「あの車のそばに蝶々が飛んでますよ、見えますか?」
男達が一斉に振り返る。「ほら、金色に光る蝶々、綺麗でしょ。」
姫の言葉が空気を震わせる。軽い目眩の後、俺にも蝶が見えた。
掌ほどもある金色の蝶が数匹、男達の車の運転席の辺りを飛んでいる。
正月に蝶?いったい何処から現れたのか、まるで手品のようだ。
「これ以上は駄目、耳を塞いでて。」Sさんが俺の正面にまわり
両手で俺の耳を覆ってくれた。Sさんの手にギュッと力が入る。
すぐ後に姫が何か言ったのは聞こえたが、何を言ったかは聞き取れない。
その途端、3人の男が次々に膝をついたかと思うと、そのまま地面に横になってしまった。
一番手前の男は呆けた顔で開いた口から涎を流している。

 

「早く、誰かに見られたらまずいから。」Sさんが囁き、姫が足早に戻ってくる。
素早く車に戻り、姫と俺が後部座席に乗り込むと、Sさんが直ぐに車を発進させた。
男達の車とは反対方向の出入り口から駐車場を出て一般道に戻る。
「折角の初詣なのに、最後でとんだ邪魔が入ったわね。」Sさんはくすくす笑っている。
「あの、あれも『術』なんですか?」
「そう、とても古い術よ。元々は神懸かりした依代が神託を告げる時に稀に見られる現象で、
それを基にして開発された術だって聞いてるわ。でも体質依存が特に強い術だから、
あれほどの完成度で使いこなせるのはL以外に3人もいないはず。私も得意じゃないし。」
「Sさんに任せると絶対に度を過ぎてRさんには刺激が強いと思ったので
今日は私が担当しました。お目出度いお正月ですから、お仕置きはごく軽めで。」
いやあれでも十分刺激は強いです。Sさんならあれ以上って一体どんだけ?
「アイツ等、私たちが此所に着いて参道を歩いてる時から嫌らしい目付きでこっち見てたの。
お正月だから大目に見ようかと思ったけど、実際に手を出してきたら、
やっぱりお灸を据えてやらないとね。多分30分もすれば眼が覚めるでしょ。」
俺は姫にそっと尋ねた。「最後に何て言ったんですか?」 姫が俺の右耳に囁いた。
「『お花畑の中で、蝶々見ながら寝てなさい』って、それなら皆、怖くないですよね。」
大の男が3人、女の子一人相手に何も出来ずに昏倒したという点こそが
今後あの男達のトラウマになるのはまず間違いないだろう。それならば
幻視の内容が怖いかどうかは関係ないのではないかと思ったが、反論は止めた。
姫やSさんではなく、悪意を持った男達のほうに非があるのは間違いない。
姫はただ、相応の反撃をしたというだけだ。しかも姫なりに手加減までして。
それにしても、ただその声だけで、自在に幻視を見せるなんて。
あまりに怖ろしい能力だ。
それは当然何の道具も使わず、声の届く範囲の相手全てに
たった一人の術者で対応できることを意味している。
もし、放送機器を使ってあの声を流しても効力が同じだとしたら...
その能力ごと姫の体を欲しがる者共が現れるのも仕方ない。
そして、姫のあの能力ですら俺の常識の遙か彼方だというのに、
あれを直接聞いて何故Sさんは何ともないのか?
そして姫の力ですら「その一部」でしかない力を持っていた姫の母親とは一体?
この眼で見たとはいえ、あまりに想像外の出来事。
俺は混乱して気持ちを整理出来ずにいた。

 

その後Sさんは運転しながら何か考え込んでいる様子でほとんど喋らなかった。
姫は俺の右肩に寄りかかり、すやすやと穏やかな寝息を立てている。可愛い寝顔だ。
窓の外を流れる光の河を見ている内に、俺もいつの間にか寝てしまっていた。

 

 

1月3日の夜。夕食の後片付けを終え、いつものようにリビングに移動した。
まだお節料理が中心なので後片付けは楽だ。第一、少し前まで皿洗いは本職だったし。
夕食後のお茶の時間、いつもより豪華なケーキが出てきたので不思議に思っていると
姫が教えてくれた。「ふふふ、実はね、今日はSさんの誕生日なんですよ。」
「え、おめでとうございます。」 「ありがと、26才にもなってって気もするけどね。」
「前もって知っていたらプレゼントを御用意致しましたのに。」
「あら、プレゼントは後でも受け取るわよ。」
Sさんはいたずらっぽい笑顔で俺を見た。 「じゃ、何が良いか考えておきます。」
横から姫が俺をつつくので振り向くと、少し不満そうな顔をして俺を見ている。
「分かりました。Lさんの分も考えます。もう一月以上遅れちゃいましたけど。」
姫は満足そうに頷いた。可愛い娘だ。

「でも、今こうして3人でお正月を一緒に過ごしてるのが何だか不思議な感じね。
あの時は年末年始の事なんて考える余裕も無かったのに。Lが無事で本当に良かった。」
「一番良い思いをさせてもらってるのは僕ですよ。まるで夢のような生活です。」
「Rさんは4月から大学に戻るんですか?」
「10月から戻るつもりです。それまではバイトして、大学は一応卒業しておこうかと。」
「Lも4月から高校、行きたいんでしょ?」 え、姫が高校へ?思わず姫を見る。
「行きたいっていうより、集団生活も経験しておかないと将来少し困るかな?と思って。
それでSさんに頼んだんです。Rさんが大学に戻ったら一日中一緒にはいられないし、
丁度良い機会だから。でもRさんが10月からなら、私も10月からにしようかな。」
俺はSさんに確認した。「あの、Lさんは中学校には行ってないんですよね。」
また、Sさんはいたずらっぽい笑顔になった。「『中学を卒業して高校に入学したけれど
家庭の事情で転校』って事にするの。一族の中には学校を経営してる人もいるし
大して難しくないと思う。」 そうだ、この一族の「社会的な影響力」をすっかり忘れていた。
「でもL、折角自分で考えて決めたんだから、ちゃんと4月から高校に行きなさいよ。」
「は~い。」 でも姫は少し不満そうだ。
「Lさんが4月で僕が10月なら、半年間は僕がLさんを毎日送り迎えできますよ。」
「あ、それが良いです。4月からにします。」 本当に可愛い娘だ。

 

ふっ、と会話がとぎれたあと、コーヒーを一気に飲み干してSさんが言った。
「私も今日で26才になったし、色々考えて決めた事があるの。」
姫は無言のまま優しい笑顔でSさんを見ている。何の話か知っているんだろうか。
だとすれば、ここは俺の役割かと思ったのでSさんに尋ねた。「あの、どんな事ですか?」
「子供をね、産もうと思って。」 「え?」 一瞬、何が何だか判らなくなった。
思わず聞き返す。「ええと、だ、誰の...」
Sさんは少し眉をひそめて答えた。「R君に決まってるでしょ。何言ってるの。」
その言葉を聞いて俺の頭の中は完全に真っ白になった。「あの、何で。何で僕の?」
「『何で?』って...R君、君ね、良い加減にしないと怒るわよ。」
Sさんの眉間に小さな皺が浮かんでいた。もう既に怒ってる。待って、少し時間を。
「あのう、RさんはSさんが好きで、SさんもRさんが好きで、それで2人は
同じ屋根の下で暮らしてるんですよ。子供が出来ても何の不思議も無いです。
Rさんは何故そんなに慌ててるんですか?変なの。」 姫、GJ!ナイスフォロー。
「ああ、いや、Sさんがあまりにも綺麗な人で、器も大きくて。強い力も持ってるし。
いや、確かに僕は凄く大事にして貰ってましたけど、まさか『子供が欲しい』と言われるような
そんな感情からではないんだろうなと、そう思ってて。そう、誤解です、誤解してたんです。
だってSさんみたいに素敵な女性なら、凄い許嫁とか居そうですよ。一族の人に。」
「ふうん、私、許嫁がいるのに別の男と一晩過ごすような女だと思われてたのかしら?」
「いや、だから、それはLさんの事があって仕方なく、と。あ。」...しまった自爆したか?
「あの時、『君が好きよ』って言った筈だけど。まあ、良いわ。で、誤解は解けたんでしょ?
それじゃこの件に関して、改めて君の意見を聞かせて頂戴。」
「Sさんに、そんな風に想ってもらってたと判って嬉しいし、その、とても光栄だと思います。」
「うん、良い返事。最初からそういう返事が聞きたかったわね、女としては。」
「済みません。」俺はそれとなく額の汗を拭った。

 

「一件落着ですね。私も二人の事、応援します。」 !!姫、それは一体どういう?
「この件を決める前に、Lにも相談したの。Lが嫌だと言うならあきらめるつもりだった。
一応説明しておくけど、私達のしきたりには千年前と変わってないことも沢山あるの。
だから結婚の形式も一夫一婦制とは限らない。もちろん今の日本の法律に則って
婚姻届けを出す場合もあるけど、通い婚の方が多い。一夫多妻も時々ある。」
「私もRさんが大好きだから、大人になったらRさんの子供を産みたいと思う筈です。
だからSさんの気持ちは凄く良く分かるし、応援したい気持ちで一杯です。それにRさんが
Sさんの事も私の事も、真剣な気持ちで凄く大事にしてくれているのが分かりますから。」
「L、ありがと。」 Sさんは右手の中指で目尻の涙を拭った。
「R君、そういう訳だから。私が妊娠するまでは、当分の間、私の部屋で寝て貰います。」
あの、それは一体いつから?と尋ねようとしたら、姫がいきなり手を叩いた。
「そうだ、それを誕生日のプレゼントにしたら良いんじゃないですか?」眼が輝いている。
「さすがL、良い考えだわ。最高のプレゼントね。」 今夜から、と、それで決定した。

 

Sさんの部屋のドアをノックする。「どうぞ。」 Sさんはベッドで本を読んでいた。
俺はベッドの向かい側にあるソファに座った。「2つ、質問があります。」
「Lの前では出来ない質問ね?」 「そうです。」 「できるだけ真剣に答えます。」
「もしSさんが妊娠して子供が生まれたら、その子は、その、一族の一員として術師に?」
「...やっぱりね。君は優しいから、絶対その質問をすると思ってた。」Sさんは本を閉じた。
「一族の中でも術師になるのは少数、術師になるかどうかは持って生まれた能力次第。
でも君が聞きたいのはそんな一般論じゃないんでしょ?」
「それは、何しろSさん、いや○△姫様の子供ですから。」
「そうね。でも考慮すべき要因は私だけじゃない。」 「え、それはどういう?」
「まだ自分じゃ全然自覚してないけど、あなたは相当な資質を持ってる。
私が今まで何度も言ったでしょ?今、調べてもらってるけど、多分君のお母様は
私達の一族と血縁があると思う。」 「え、でも、俺は全くの零感で。その方面は全く。」
「あなた、自分の事をさえない男だと思ってるみたいだけど、それ、多分違うから。
私ね、Lの件で君の行動や言動を見ていて思ったの。
君はLを救うために、そして私やKのために、ある存在から遣わされたんだと。
それは、あまねく魂を悪しき縁から解き放ち、良き縁を結ぼうとする力。」
「その力が、『良き理』なんですか?」 「あなた、何故?」
Sさんは息を呑み、次いで溜息をついた「それも管から?」
「はい、とても大事な言葉だろうと思ったので覚えていました。」
「心臓が止まるかと思った。でも今後は、直接その言葉を遣うのはなるべく避けてね。
それは仮の名だけど、それですら生身の人間には言霊が強過ぎるから。」
「判りました。肝に銘じます。」
「多分あなたはLを救う任務を帯びていて、その時が来るまで『隠されていた』んだと思う。
去年の5月、君がLに出会った時点で君に彼女が居たら、
間違いなくLはあなたに模擬恋愛の相手を頼まずに自分の気持ちを殺した筈。
結果、術は完成していたかも。つまり、今のLはいなかったかも知れない。」

 

「あなたのお母様が私たちと血縁があって、あなたの資質が私の予想通りだとしたら
あなたと私の子が能力を持って生まれる可能性は高い。そして、もし女の子なら、
その可能性は更に高まる。」 Sさんは一度眼を伏せた後、真っ直ぐに俺を見つめた。
「これが正直な答。どう?やっぱり断る?今ならまだ間に合うけど。」
「いいえ、僕にとって大事なのはSさんが正直に答えてくれるかどうかだけでしたから。
どんな人間も、持って生まれたものと向き合う人生以外あり得ない。なら、幸せになる方法を
僕とSさんがその子に教えてあげれば良いんです。僕は少し頼りないかも知れないけど
Sさんが母親だから絶対に大丈夫。保証付きです。断る理由なんか有りません。」
俺はベッドに潜り込んでSさんを抱きしめた。
Sさんも俺を抱きしめて温かいキスをしてくれた後、いたずらっぽく微笑んだ。
「面倒くさいから、もう一つの質問にも答えます。今の日本の法律上、生まれてくる子の
立場は非嫡出子、いわゆる私生児ね。そして私はシングルマザーの仲間入り。」
俺は思わず体を起こした。「『私生児』って、『シングルマザー』って、そんな...」
「あら、じゃ私を『内縁の妻』にして子供を認知してくれる?
それなら法律的にはほとんど不利な事は無くなるんだけど。私にも、子供にもね。
「Sさんは、それで良いんですか?『内縁の妻』で。他にもっと良い方法が。」
「今の日本では重婚は禁止されてるし、『法律上の妻』の座はLの予約席でしょ。
私は『内縁の妻』で満足。もともと法律上の立場なんて私には全然関係ないんだし。」
そうなのだ。この人は法の保護など必要としていない。自分で自分を守る力を持っている。
だから誰にも頼る必要は無い。つまり、真の自由だ。
その人が俺をこんなに想ってくれている。胸の奥が熱くなった
「分かりました。『内縁の妻』になって下さい。」
「変なプロポーズね。でも、謹んでお受け致します。」
「ありがとうございます。」 Sさんはもう一度俺を優しく、でもしっかりと抱きしめた。
「じゃ、私も妻の義務を果たさなきゃね。」 「え?」
「夫を支えて家庭を守るのは妻の義務でしょ。だから、もうバイト探すのは止めて。
お金の心配はいらないから、しっかり大学で勉強して早く卒業して。ね、お願い。」
「ええと、それは普通『内縁の夫』じゃなくて『ヒモ』って言いませんか?」
「馬鹿ね。人聞きの悪い事言わないの。」

 

翌日、俺は姫を誘ってドライブに出かけた。いつもより姫の口数は少なかったが
それ以外に変わった様子は何もなく、特に機嫌が悪いようではなかった。
初めて2人で出かけたあの海岸近くの駐車場で、並んで波を見ながら姫が口を開いた。
「私、本当にSさんには感謝してるんです。」 「え?」
「私、Sさんにずっと育ててもらって、勉強も術の事も、それに人間として
女の子として生きていくのに必要な事も、沢山教えて貰いました。
それにね、今もSさんのお陰で私は幸せです。だって、Sさんと一緒に過ごした分だけ、
Rさんは私を大事にしてくれますから。」 姫は俺を見て微笑んだ。
「今日もそうですよね?昨夜Sさんと一緒だったから気を遣って。」 図、図星です。
「私、『家族』って良く判らないんです。いいえ、良く判りませんでした。」
姫は以前俺に話した事がある。『父の顔も母の顔も憶えていない』と。
「でもSさんに会って、Rさんに会って。一緒に暮らしている内に、これが『家族』なのかなって
とても暖かい気持ちになりました。だから私、今の『家族』を守りたいと思っています。」
「だけど、とても悲しいけれど、もし私が大人になって、Rさんの子供を産んだ時に、
私がその子を可愛いと思えるかどうか、正直自信がありません。だから怖いんです。」
そうだったのか。確かにあの時、Sさんは言った。『色々考えて決めた』と。
Sさんは、自分自身が妊娠・出産して、その子を育てる過程を姫に見せる事で、
親になる、家族を守る、その行動の意味を姫に教えるつもりなのだ。
「大丈夫。怖い事なんかありません。Lさんはきっと良いお嫁さんになれます。」
「そうでしょうか?」 「そう、そしてもちろん、とても良いお母さんになれます。」
「何故ですか?」
「だって、僕にとっての『良いお嫁さん』も、いつか生まれる僕たちの子供にとっての
『良いお母さん』も、今のLさんそのものだから。Lさんは今と何も変わらなくて良いんです。」
姫は俺の右肩に頭を預けて、小さな声で言った。
「まだ生まれていない子供と意志の疎通が出来るんですか?
私にもそれが出来たら何も怖くないのに。」
俺はそっと姫を抱きしめた。いや、出来れば姫の心を抱きしめて安心させたかった。
「30秒位前には確かに出来たと思ったんですが、もしかしたら錯覚かもしれません。」
姫は声を立てて笑い、俺も笑った。
ただ、Sさんへの質問が1つ増えた。

 

ドライブから帰ると、お屋敷の庭のガレージに赤い車が止まっていた。
雑誌で見覚えがある。確かイギリスのメーカーの2人乗りスポーツカーだ。
そうだ、ロータスエリーゼ。Sさんの知人が尋ねて来たのかと思ったが、来客の気配はない。
夕食時にその話題が出ると、Sさんは嬉しそうに言った。
「ああ、あれ格好良いでしょ。前から欲しかったし、今日みたいな時は必要だから。」
「買ったんですか?そんな、マセラティがあるのに。それに僕の軽も。」そこで気が付いた。
僕が先輩から譲って貰った軽が庭に無い。いや、無かった。
「そういえば、僕の軽が。」 「あれ、来月車検切れだったでしょ。
あの状態でもう一度車検通すなんて考えられないから廃車にしたの。」
「...スポーツカー2台揃えてどうするんです。もし子供が生まれたら
2人乗りより大きな車の方が必要になりませんか?5人乗りのワゴンとか。」
「それも考えてるけど、そっちは今すぐ必要って訳じゃないでしょ。」
「私もあの車に乗ってみたいな。きれいな色ですよね。」
「じゃ、明日乗せてあげる。あ、でもそれじゃR君はおいてけぼりね。」
この2人があんなスボーツカーでドライブしたら、さぞかしあの車が引き立つだろう。
このお屋敷をバックに写真を撮ったら、きっと車専門誌のグラビアみたいだ。
それならSさんは車内でハンドルを握り、姫は車の傍に立ってもらう。
もちろん姫はあの白いワンピースと麦藁帽子で。うん、萌える。むしろ萌え全開だ。
『じゃ、出掛ける前に写真を撮らせて下さい』そう言おうとした途端、Sさんが言った。
「それとね。みんなで旅行に行こうと思ってるの。ケアンズに。」
「じゃえ?」不意をつかれて変な声が出てしまった。姫がくすくす笑っている。

 

「あの、ケアンズってオーストラリアですよね。海外旅行ですか?」
「そう、向こうは今夏の真っ盛り。マリンスポーツとか楽しそうでしょ?」
「私、綺麗な海で泳いでみたいな。あ、水着買わなきゃいけませんね。」
Sさんの場合、『こう思ってる』=『こう決めた』だから、旅行自体はおそらく決定事項だ。
でも、一応理由を聞いてみた。「何故、急に旅行に行く事にしたんですか?」
「Lが高校に通うようになってあなたが大学に戻ったら、しばらく旅行なんかできないでしょ。」
「夏休みでも良かったのでは?」 「それまでには妊娠の予定ですから。」 成る程、確かに。
「それにきっと良い記念になりますよ、新婚旅行みたいで。」言ってから姫が顔を曇らせた。
「あ、私、一緒に行って良いんですか。邪魔になるんじゃ。」
「そんな事気にしないで良いの。新婚旅行だなんて。」とは言うものの
Sさんは満更でも無さそうだ。Sさんは機嫌が良い時、口数が多くなる。
「向こうに私の知人が勤めてるホテルがあるの。すごく良い所よ。
綺麗なビーチがすぐ近くにあるし、レストランの料理も美味しいし。
その人にちょっと頼まれてる事もあるから、丁度良いと思って。」
「ビーチが近いって最高ですよね。水着、今でも買えますか?」 そう、今日は1月4日だ。
「水着は向こうのお店でも買えるけど。それよりR君はパスポート持ってる?」
「持ってません。」 「Lも持ってないからすぐに手続きしなきゃね。」
「あのう。」 「何?」 「『頼まれてる事』っていうのが何となく気になるんですが。」
「ああ、そのホテル、『出る』みたいなの。それで変な噂が広まって客足が減ると困るから
調べて欲しいって頼まれた訳。それで出来ればどうにかして欲しいって。」
「『出る』って、心霊系の何かが、ですか?」 「そうよ。」
「それで、わざわざその何かが『出る』ホテルに泊まるんですか?」
Sさんは真面目な顔になった。「わざわざって、この方面が私の本業だもの。」
そうだった。すっかり忘れていた。この人は陰陽師なのだ。
古来から常人の理解を超えた現象が実在し、それらに対処してきたのが陰陽師だとしたら、
これは確かに陰陽師の仕事だ。姫が動じないのはこの手の依頼に慣れているからだろう。
「僕にも何か手伝える事がありますか?」
「そうね、力仕事もあるかもしれないし、そう言ってもらえると心強いわ。ありがと。」
Sさんは優しく微笑んで俺の頭を撫でてくれた。
そして一週間後の1月11日、俺たちは機上の人となった。

 

 

成田空港から夜9時過ぎの便に乗り、所要時間は約8時間。
夜間のフライトなのでさっさと寝てしまう客も多い。
姫もCAさんからもらったタオルケットにくるまって早々に寝てしまった。
俺はワインを飲みながらSさんと小声で話したりしていたが
いつの間にか寝てしまい、目が覚めた時には既にケアンズ空港に到着していた。
オーストラリアとの時差が約一時間あるので到着は現地時間の6時過ぎになる。
腕時計の針を空港ロビー内のデジタル表示に合わせた。6時32分だ。
最近良く見かける電波時計ならこんな手間は無いのだろうか。変な事が気になる。
窓の外は薄暗く、大雨が降っていた。この時期ケアンズは雨季だという。
高温多湿の気候らしいが、到着ロビーは空調が効いていて涼しい。
既に機内で上着を脱いでいたので少し寒く感じる位だ。
預けていた荷物を受け取って到着ロビーを出ると、Sさんの知人で
今回の件の依頼主であるNさんがホテルのリムジンで迎えに来てくれていた。
お陰で俺たちは雨に濡れる事無くホテルまで移動出来た。
Nさんは50才位で物腰の柔らかい紳士だ。俺たちを『Sさま』、『Lさま』、『Rさま』と呼ぶ。
何だか照れくさかったが、Sさんが特に反応しなかったので俺も気にしないことにした。
Nさんから見たら俺たちも客なので、『さま付け』が当然なのかもしれない。

 

空港から1時間程走ってホテルに着いた。
車の中で今回の件について何か話が聞けるかと思っていたが
Nさんは車を運転し、運転席と客席は壁で仕切られていて直接話す事は出来ない。
そんな状態で話すような内容ではないからだろう、Sさんもその話を切り出さなかった。
ホテルに着いた時には既に雨は上がっていたが、むっとする湿気が凄い。
「すぐお部屋に朝食をお持ちいたします。」Nさんに見送られ、俺たちはホテルスタッフの
後について部屋に向かった。案内されたのはベッドルームが3つもある大きな部屋。
あらかじめスイッチを入れてあったのだろう。空調が効いていて快適だ。
それにとにかく広くて綺麗、姫はあちこち覗いて回っている。キッチンもある。
食材を買ってくれば自分たちで料理が出来る訳だ。長く滞在するなら便利かも。
そうこうしているうちにルームサービスで朝食が運ばれてきた。
朝食にしてはしっかり分量があり、そしてSさんの言ったとおり、とても美味しい。
朝食を食べ終えて食後のコーヒーを飲んでいるとSさんが言った。
「L、このホテル、何か感じた?」 「いいえ、特に何も。」
「そうよね。もし何かが『出る』のなら、それらしい気配を感じても良い筈なのに。
もちろん人の集まる場所だからいろいろな気配は残ってるけど、
『出る』といわれる程濃い気配はどこにも感じない。拍子抜けする位。
本当に『出る』場所なら、大抵は現場を見れば依頼主の説明なんて要らないのに。」
「じゃ、その噂はガセネタって事ですか?」 『嫌がらせ』そんな言葉が頭に浮かんだ。
「でもNさんは根も葉もない噂の対応を私に依頼して来るような人じゃ無い。
どちらにしろ10時にはNさんと会う約束になってるから、
直接聞けば何か手がかりが有るはず。」

10時にホテルスタッフが迎えに来て、Sさんと俺はNさんの部屋に案内された。
(姫は朝食を食べた後ベッドで熟睡してしまったので無理には起こさなかった。)
どうやらNさんは結構偉い人らしい。応接用の大きくて豪華なソファに腰掛けて
俺たちを待っていた。Nさんが立ち上がって俺たちに一礼する。
俺とSさんも一礼してNさんの向かいに並んで座る。
「こんな所で申し訳ありません。ラウンジやバーでお話しすべきかもしれませんが、
その、他人の目がありますもので。」額の汗を拭った。
「このような話なら当然の事です、どうかお気になさらず。それよりもご依頼の件を
詳しくお聞きしたいのですが。妙なものを見た人が何人かいるという話でしたね。」
「はい、最初に『それ』を見たのはお客様でした。今から二ヶ月程前です。
『部屋の壁から女性の手が生えているのを見た』とフロントに苦情がありました。」
「『それ』は一瞬見えたのでしょうか?それともある程度長い時間?」
「一瞬、ということはないと思います。苦情に対応したフロントのスタッフによると、お客様は
『写真を撮ろうとしたが携帯電話のカメラには写らなかった』とお話されていたそうですので。
その時はすぐに部屋を移って頂き、それ以上の異変は起こりませんでした。」
「その次に『それ』を見たという人は?」
「同じ頃、やはりお客様の中に天井から生える足を見たという方がおられたようですが、
これは苦情として私供に伝わった訳ではありませんので詳細は判りかねます。
それから半月程して、私供の従業員が『それ』を見ました。掃除を担当していた者ですが
早朝、床から生える沢山の、5本か6本の手を見たと申しまして、取り乱しており
そのまま帰宅して二度と出勤せず、そのまま退職いたしました。
その後も同じように退職する者が出ておりまして、ホテルの運営にも支障が出て参りました。」
「商売上の競争相手がデマを流して妨害工作をしているという可能性はありませんか?」
「それはありません。」 「何故そのように?」

 

Nさんはもう一度ハンカチで汗を拭った。空調は十分効いているのに。
「私も、私も先日『それ』を見たからです。」
俺の隣でSさんの集中力が一気に高まるのがわかった。
「あなた自身が『それ』を?」
「はい、夜勤に備えて早めの夕食をとったあと、この部屋に戻る途中でした。
妙な気配を感じて振り返ったら、廊下の壁から、その、女性の下半身が生えておりました。」
「何故それが女性だと判ったんですか?」 「黒のスカートでしたので。あ、黒いハイヒールも。」
「それでこれはただ事ではないとお考えになって、私達に依頼をされたということですね。」
「その通りでございます。兎に角このような事例はSさまでなければと思いましたから。」
「念の為にお聞きしますが、この異変に関係がありそうな事柄に心当たりはありませんか?
宿泊客に関わるトラブルや、それに類するもので。どんな些細な事でも良いのですが。」
「有り体に申し上げます。ここ数年、当ホテルでお客様がお亡くなりになるような事例は
ありませんでしたし、周辺で死人が出るような事件も起きておりません。
このあたりはオーストラリアでも比較的治安の良い土地ですので。
ですから、あのような怪異の原因には皆目見当がつきません。」
その後Sさんはメモを取りながら、Nさんに目撃証言の日付や時間帯などについて
幾つか質問をしてから言った。「分かりました。明日から調査を始めます。もし進展があれば
直ぐにお知らせします。」 「宜しくお願い致します。」

 

部屋に戻った後、かなり長い間Sさんは黙って売店で買った新聞を読んでいた。
暫くすると姫が起きてきたので三人でレストランに昼食を食べに行き、部屋に戻って
午後のコーヒーを飲んだ。コーヒーとケーキはルームサービスにした。
「L、まだ変わった気配は感じない?」 「はい。特に濃い気配は感じません。」
「やっぱり単純に何かが『出る』って話じゃ無いみたいね。R君、あなたはどう思う?」
「見当もつきません。でも似たような話を昔古文の教科書で読んだ気がします。
柱に小さな手が生えてどうこうとか、そんな感じの。」
「今昔物語ね。夜毎柱の穴から稚児の手が現れ手招きをするって話。」
「そう、それです。ずっと引っかかってて、何かすっきりしました。
あの話では柱の穴を矢尻でふさいだら怪異が止んだんですよね。」
姫は目を閉じてうつらうつらしている。変な気配を感じないからリラックスしているようだ。
「そう。でも、今回の件では壁や天井に穴が開いていた訳じゃない。私だけじゃなく
Lも感じていないとすると、やはり最近大きな事件が有ったとも思えない。
まあ、壁から体の一部、特に手や腕が生えるって話は今昔物語だけじゃなくて
現代の都市伝説みたいな怪談でもたまに見られるモチーフだから
それ自体はそんなに珍しい現象では無いんだけれど。」
俺はついでにもう一つ、気になっていた事を口にした。
「それと、何て言ったら良いのか、増えてますよね。見えるものが。数も、部分も。」
Sさんが微笑んだ。「良い所に気が付いたわね。この件で珍しいのは其処。
目撃される度に増えてる。『それ』の数も、部分も。何故かしら。
でも、今の所情報不足。色々調べてみないと結論は出そうにないわね。」
翌日から俺たちは観光がてら情報収集に力を注いだが、特に目立った成果は無く、
新たな目撃情報も無いまま膠着状態が続いた。

 

変化が生じたのはそれから一週間程過ぎた日だった。
その日の午後遅く、俺は姫と一緒にホテルのプライベートビーチにある小さな桟橋に出かけた。
海岸沿いの通りで釣具屋を見つけ、ルアー釣り用の安い釣りセットを買ったからだ。
いくらレストランの料理が美味しくても、一週間もすればさすがに飽きてくる。
何か魚が釣れたら自分達で料理してみようと思っていた。
満潮に向かって潮が動いていたし、天気などの条件も良かったのだろう。
昔取った杵柄で、一投目から当たりがあり、30分程の間に小さなカマスが5尾釣れた。
「すご~い!Rさん、すごいです。魚釣りが上手なんですね。」 姫は大はしゃぎだ。
「小さい頃、良く釣ってましたから。やってみますか?」 「はい、やってみたいです。」
姫にキャストの仕方を教えていると、3度目のキャストでルアーが結構遠くに飛んだ。
「じゃ、リールを巻いて。」 「...あの、巻けません。あっ。」姫がよろめいた。
姫の体を支えてリールを見ると、ドラグが効いて糸が出ている。
「釣れてますよ。結構大きいのが。」 「ホントですか?」
「糸が出てる時は巻いちゃ駄目。止まったらこうやって竿をあおって、戻しながら巻きます。」
「はい、...でも重いです。」 「頑張って、だんだん寄って来てますよ。」
ローカルなのか観光客なのか、数人の白人の男女が近づいて来て見物している。
照れくさいが、姫はそれどころでは無いようだ。頬を紅潮させてリールを巻いている。
やがて、魚の姿が見えてきた。ハマフエフキだ。でかい、少なくとも50cmはある。
そこで気が付いた。しまった、リーダーシステムを組んでない。
釣れても小物だと高を括っていたので、リールの道糸を通しで使っていたのだ。
抜き上げようとした時、魚がエラ洗いをしたら多分道糸が切れる。
どうする?水深は1mちょい。桟橋から降りて砂浜に誘導するか?
考えているうちに魚がヒラを打って水面に浮いた。止める間もなく姫が思いきり竿をあおる。
案の定道糸が切れた。コントロールを失った魚が水面をゆらゆらと漂っている。
俺はポケットから財布と携帯を取り出して姫に渡すと桟橋から海に飛び降りた。
すかさず魚を両腕で抱き上げて桟橋に放り上げる。
ギャラリーから大きな歓声が上がった。
姫は握手攻めに合い、俺は白人の女性から差し出されたバスタオルで軽く体を拭いた。
その女性に礼を言い、持参したレジ袋に魚をまとめて入れる。袋はずっしりと重い。
姫はホテルへ帰る途中の食料品店で調味料を買い揃えた。
小さな紙袋を抱えて歩く、姫の軽やかな足取り。その横顔はとても楽しそうだった。

 

部屋に戻るとSさんは目を丸くした。「ホントにこれ、2人で釣ったの?」
「一番大きいのはLさんが釣ったんですよ。」
「魚が大き過ぎて糸が切れて、それでRさんが飛び込んだんです。」
「飛び込んだ?海に?」 「はい、ギャラリーは大歓声でした。」 「ギャラリー?」
3人でワイワイ話しながら俺が魚を捌き、Sさんと姫が料理を作った。
ハマフエフキの刺身、ムニエル。カマスのグリル焼き。良い香りが漂ってくる。
その間に、俺はホテルの売店でパンと白ワインを買って来た。ちょっとしたパーティーだ。
姫が料理と食器をテーブルに並べている。調理器具を洗い、残った魚の身を小分けにして
冷蔵庫に入れる。俺が良い気分で作業に没頭していると、頭の中で女性の声がした。
「危ない!」 え?
その直後、津波のように流れ込んで来た得体の知れない気配が部屋中を満たした。
振り返ると姫が緊張した顔で部屋の天井を見つめている。俺も姫の視線を辿った。
...天井からたくさんの腕が生えている。10本以上、いや20本近くはあるだろう。
俺は姫に駆け寄りながら叫んだ。「Sさん、早く!」
その時Sさんは別室で海水に濡れた俺の服を水洗いしてくれていた。
姫の肩を抱き寄せた所でSさんが駆け寄って来た。Sさんが息を呑む気配。
その時、俺たちが見ている前で天井から男の上半身が生えてきた。後ろ姿だ。
頭、肩、背中。そして気が付いた。『それ』は次第に向きを変え、こちらを向こうとしている。
「L!」 Sさんが俺の両耳を押さえ、姫が男の上半身に歩み寄った。
姫の声が微かに聞こえる。あの声だ、遠い古から伝えられた術。
「現世の者は現世に、異界の者は異界に。」
部屋の空気が震え、視界が歪んだ。思わず眼を閉じる。酷い吐き気をこらえて眼を開けると、
たくさんの腕も、男の上半身も、部屋を満たしていた気配も、既に跡形もなく消えていた。
「あれは?」 「まさかよりにもよって、この部屋になんて、ね。」 Sさんは微笑んだ。

 

思わぬハプニングだったが、Sさんと姫は淡々と準備を終え、パーティーが始まった。
「自分で釣った魚って、すごく美味しいです。旅行って、楽しいですね。」
「ホントに美味しい。L、ありがとう。R君もお疲れさま。また、宜しくお願いしますね。」
「あ、いや、僕は別に。きっとLさんに釣りの才能が有るんですよ。」
そう応じたものの、俺は呆れていた。何でこの人たちは、こんなに平然として居られるんだ?
パーティーが終わり、俺と姫が後片付けをしている間にSさんは買い物に出かけた。
戻ってきた時、Sさんはデザートのクッキーとフィッシングガイドの小冊子を持っていた。
コーヒーを飲みながら、Sさんは言った。「じゃ、私の仮説を聞いて貰えるかな?」
「是非、聞きたいです。」俺が言うと、姫がSさんに向かって右手を挙げた。
「異界のモノは満ち潮に乗って、ですか?」 「ご名答。良く出来ました。」
「あの、何の事だか全然わからないんですが。」
Sさんが微笑んだ。「そうね。」 細く、白い指が丁寧に小冊子のページをめくる。
「『それ』が現れるのは決まって大潮の満潮に近い時間帯なの。」
そうか、そういえば俺はそれで今日釣りに行こうと思ったのだ。
「半月ほど間隔が空くのもそうだし、ほら。」小冊子の潮見表とメモを並べた。
「Nさんが『それ』を見たのも、この前の大潮の期間だわ。他の証言もほぼ一致してる。
細かい記憶違いは誰にでもあるから、完全に一致してると考えてほぼ間違い無い。」
「何故、大潮の満潮と『それ』が関係するんですか?」
「すべての生命の源は太古の海で生まれた。知ってるでしょ?
だから現世への執着が強くて、中有(ちゅうう)、死者の魂が一時的に留まる場所ね。
そこへ行けない死者の魂は現世を彼方此方さまよって、やがて海にたどり着く。
そして海面をいつまでも漂う。漂ううちに、いわゆる『悪霊』に変化するモノもいる。
だから海面には、そういうモノたちが吹き溜まる場所が出来やすい。
吹き溜まったモノたちは満ち潮に乗って海岸にやって来る。そして潮位が大きく上昇する
大潮の時には、いつもの海岸線を越えて陸地側に侵入する事があるの。」
「でも、何で今『それ』がこの場所に?以前は何も無かったのに。」

 

「海流の向きの関係で、海岸の決まった場所にだけ砂が流れついて砂浜が出来るでしょ?」
「はい。」 確かに、その通りだ。
「そんな風に、そういうモノたちが流れつく海岸は古代から大抵場所が決まってる。
そういう海岸ではこういう怪異が起こりやすいから、何かしら対策がされるのが普通だわ。
でも、対策されて長い時間が経つと、後世の人が知らずに対策を壊してしまう事がある。」
「じゃ、今になって『それ』が現れたのは誰かがその対策を壊したから?」
「まず間違いないと思う、堤防と同じ。いったん何処かが壊れるとそこから海水が入り込む。
その海水が海に戻る時、堤防を内側から更に大きく壊す。堤防は内側からの力に弱いから。」
「だから、『それ』はだんだん増えていったんですね。」
「そう、それでさっきはとうとう上半身が現れて、それにこっちを向こうとしてた。」
「あれ、気持ち悪かったですよね。私もう少しで顔を見ちゃう所でした。」姫が呟く。眠そうだ。
「こっちを向くって事は『それ』が私達、つまり現世の人間に気が付いたって事だから
運良くギリギリ間に合ったって所ね。思い切って旅行を決めて良かったわ。
今回の旅行を決めたお陰でこの件が手遅れにならずに済んだんだから。」
「あの、もし手遅れになってたとしたら?」
「ん、少し対応が面倒になったかな。それと、『被害者』がかなり出たと思う。」
「『被害者』って、今までに『それ』を見た人たちとは何か違うんですか?」
「ただでさえ現世への執着が強すぎるモノたちでしょ。『それ』の顔を見たら、
普通の人はまず正気ではいられないと思う。」
ぞくり、と背筋が寒くなった。
「それなら一刻も早く堤防を直さなければならないって事ですよね。
直すにはどうすれば良いんですか?」 『それ』の顔を見るのは御免だ。
「明日、海岸の辺りを探索しなきゃね。 L、もう寝るわよ。」

 

翌日、朝食の後でSさんはNさんに短い電話をかけた。
「大体見当が付いたわ。みんなで散歩しましょうか。」
ビーチの西側にあるテニスコートの脇を抜け、カート用の細い舗装路を歩く。しばらく歩くと
造成工事が中断されたような、開けた場所に出た。その向こうは海岸。小さな崖になっている。
「パークゴルフ場を作るつもりだったけど、『それ』の騒ぎで責任者が退職したから
工事が中断してるんだって。間違いなく、この辺りね。」Sさんは崖に向かって歩を進める。
俺と姫もSさんの後を追った。崖の下には白波が砕けている。海鳥の姿が見えた。
「L、判る?」 「はい、多分。」 姫は暫く辺りを歩き回って、やがて地面を指さした。
「ありました。これですね。」 一抱えほどもある平たい石が真っ二つに割れていた。
故意かどうかは分からないが、造成工事の際、重機が割ったのだろう。大きな傷が残っている。
Sさんは石を撫でるようにして何かを探した。「R君、これ、ひっくり返せるかな?」
「やってみます。」 大汗をかいてその石の一つをひっくり返すと、Sさんが満足そうに言った。
「やっぱりあった。ここ見て。」 その石の表面には何かの文様の痕跡が微かに残っている。
「多分先住民、アボリジニのシャーマンが結界を張った時に置いた守石だわ。
そしてその結界が、長い間この海岸を越えて『それ』が侵入してくるのを防いできた。
そう、何百年か、もしかしたら何千年も前からね。結界を維持するために、
土着の神から借りた力をこの石に封じてあった痕跡が、まだしっかり残ってる。
「これを壊したから『それ』の侵入を防ぐ結界が破れたんですね。」
「そう、当然の結果。」

 

Sさんは辺りを見回して掌ほどの小さな石を拾い上げた。「これ、これが良い。」
「じゃあ、古代のシャーマンに敬意を表して、新しい結界も彼らの流儀で。」
その石を、崖のすぐ近くの岩の上に置くと、Sさんは優しく微笑んだ。
「最後もLに任せようと思ってるんだけど、大丈夫かな?」
「やってみます。」姫は凛とした声で答えた。元旦の朝に見た、あのきりりとした表情の姫だ。
「じゃ、R君は少し離れてて。そうね、テニスコートの辺りまで。」 「分かりました。」
俺が十分に離れたのを確認して、Sさんと姫は地面に膝をついた。
微かに、ほんの微かに姫の声が聞こえる。言葉は聞き取れない。
歌うような声だけが届く。空気が静かに、厳かに震えている。
直後、俺はSさんと姫の頭上に浮かぶ大きな蛇の姿を見た。
龍に似た、翼を持つ蛇が空から舞い降りたのだ。その蛇の全身は虹色に輝いていた。
『虹の蛇』。子供の頃、そんな伝承を何かの本で読んだ記憶が蘇る。
そして虹色の蛇は、Sさんが岩の上に置いた石に吸い込まれるように消えた。
直ぐにSさんが立ち上がって手を振り、俺を差し招く。急いで走り寄った。
「R君、もう少し難儀してくれる?ここに出来るだけ深い穴を掘って欲しいの。」
「了解です。」俺は近くに落ちていた金属片を拾って一心に穴を掘った。
「それくらいで良いと思う。ありがと。」
直径20cm、深さ40cm程の穴の底に、姫はその石を置いた。「埋めて下さい。」
地面を掘り返した時の土を戻し、俺は入念に表面の土を押し固めた。
「はい、お終い。これにて一件落着。戻りましょ。」 Sさんは膝の土埃を払った。
「日本に戻るんですか?」 「え~、もう少し此所に居たいです。もっとお魚釣りたいし。」
「宿泊費はホテル持ちだけど、完成確認って事で次の大潮まで滞在しても
罰は当たらないでしょうね。特に急ぎの用事も無いし。」Sさんが笑った。
「やった~。」 姫の笑顔の向こうで、朝の太陽が眩しく光っていた。

 

俺たちは、それから更に2週間余り、ケアンズに滞在した。
泳いだり、釣りをしたり、皆で楽しく過ごした日々はまるで季節はずれ(?)の夏休みだった。
Nさんに連れて行ってもらった船釣りで俺が釣り上げた約40kgのロウニンアジと
3人で出かけたトローリングツアーで代わるがわるファイトして釣り上げた
約130kgのクロカワカジキは一生の思い出になるだろう。
もちろんSさんと姫の水着姿も素晴らしく美しかったのだが、
これは俺だけの宝物として胸の奥に仕舞っておきたい。
次の大潮になっても異変が起きないのを確認してから、俺たちは帰国した。
Nさんは相変わらず丁寧に見送ってくれた。
「Sさま、Rさま、Lさま。また何時でもいらして下さいませ。心からお待ちしております。」
羽田空港に到着後、機内の表示に併せて腕時計の時間を戻しながら
日本は未だ真冬なんだと思うと、少し鬱な気分になった。

 

日本に戻ってからは、姫の転校の手続き等で忙しい日々が待っていた。
姫が在学していた(?)高校が発行した指導要録の写しや転校照会の文書を見ると
改めてSさんの一族の力を思い知らされた気がして、思わず笑ってしまった。

そんなある日、勉強の時間が終わっても姫の姿が見えず、
昼食もSさんと2人で食べる事になった。1人欠けるだけで食卓はとても寂しい。
「L、朝から何だか体調が悪いみたいなの。風邪かしらね。」Sさんは心配そうだった。
「旅行の疲れとか、気温の急変とか、影響が有ったんでしょうか?」
「そうかもね。私、Lと一緒にいてやりたいから、代わりに転校の書類を届けてくれる?
それから少し買い物もお願いしたいの。」 「もちろんです。」
転入予定の高校に書類を届け、買い物を終えて戻っても姫の姿は見えなかった。
Sさんは夕食の準備中だ。 「あの、Lさんは?」 「うん、もう大丈夫。」 少し安心した。
夕食の時間になりダイニングに移動すると、姫は先に来ていて、Sさんが食器を並べていた。
『あの、体調は?』そう言いかけて気付いた。この香り、テーブルの上のお椀にお赤飯。
昔ながらの、小豆を使って炊いた茶色っぽいお赤飯だ。何て香ばしい、そこではっとした。
「これ、もしかして。」 「はい。」姫が少し恥ずかしそうに俯いた。
「ご名答、Lの初潮のお祝い。これからはもっともっとLを大事にしてあげてね。」
「はい、もちろんです。」
俺は悲しくもないのに溢れる涙と、後から後から湧き上がる様々な感情を持て余していて、
そのあと食べたお赤飯の味も、良く分からなかった。

 

その晩、ベッドの中でSさんは言った。
「お陰様でLも一人前の女性に近付いた訳だけど、改めてあなたにお願いがあるの。」
「何でしょう?僕に出来る事なら何でも。」
「生理が始まって暫くの間は体調が安定しないし、Lはあの状態だったから
体全体が一様に成熟してるかどうか心配なの。」
「はい。きっとこれからも色々デリケートな問題が有るでしょうね。」
「そう、それでね。君がLと、その、そういう事になったとしても。」
「そういう事にって、つまり。」
「そう、婚約者なんだからきっと何時かはそうなるし、それが駄目だって言うんじゃないの。
ただ、もしそういう事になったら、避妊だけは絶対にきちんとしてあげて。
体調が安定せず、成熟もしきっていない体でもし妊娠したら、負担が余りに大き過ぎるから。」
俺はSさんを強く抱きしめてから聞いてみた。
「もしかして。」 「え、何?」 思わず笑みが浮かぶ。
「こうして毎晩Sさんと過ごすようにすれば、僕がLさんには紳士的に対応できると思って
それで、Sさんは僕の子供を産む話を?」
「違う、それは違うわ。お願い、信じて。」 珍しくSさんが慌てていた。
「結果的にそうなったら良いとは思うけど、それが目的じゃない。子供が欲しいと思ったのは。」
Sさんは言い淀み、横を向いて少し黙った。いつもながら美しい横顔だ
俺はSさんをぎゅっと抱きしめてから重ねて聞いた。「子供が欲しいと思ったのは?」
「あなた、分かってて。意地悪ね。」 「たまにはちゃんと聞きたい時もあります。」
「...あなたが大好きだから、あなたの子供が欲しいの。これで良い?」 「はい。」
照れた笑顔はとても可愛くて、普段のSさんからは全く想像できない。
それはSさんが俺の腕の中にいる時にだけ見せてくれる、素敵な笑顔。

でも、俺はこの時、Sさんの本当の優しさを、未だ知らずにいたのだった。

 

 

「R、Rさん。」
耳許で名前を呼ばれたような気がして、目が覚めた。時計の表示は4時45分。
窓の外は未だ真っ暗だ。Sさんは隣でぐっすり眠っている。Sさんの寝顔を見ながら
もう一度寝直すか、それともこのままベッドから出て起きてしまった方が良いのか、
ボンヤリと考えている内にウトウトして、浅い夢を見た。

俺は暗い部屋のソファに座っている。
そして俺の向かいの席には、『あの人』が、Kが座っていた。
真っ直ぐに俺を見つめて微笑んでいる。純白のワンピースに血の染みはない。
『君は』俺がそう言いかけた時、Kが口を開いた。
「もう であってる はなれないで」
それは、あの日俺が彼女に囁いた最後の言葉。彼女だけのための、言葉。
Kがもう一度、一語一語確かめるように、ゆっくりと言った。
「もう、出会ってる。離れないで。」
そこで目が覚めた。何故か両目から涙が流れていた。

そんな夢を見た後も特に何事も無く、夢を見た事も忘れかけていたある日。
術の修行を終え、夕食のためにダイニングへ移動した。今夜の当番はSさんだ。
ダイニングに入ると既に姫がニコニコして座っていて、Sさんが食器を並べていた。
テーブルの上を見て、一気に心臓の鼓動が高鳴った。お赤飯が置かれている。
姫の初潮のお祝いの日にも炊かれていた、昔ながらの小豆のお赤飯。
「あの、それ。もしかして。」
「ご名答。二ヶ月目に入ってるって。ほら。」
Sさんは得意そうな顔でエプロンのポケットから小さな手帳を取り出した。母子手帳だ。
俺は思わず駆け寄ってSさんを抱きしめた。「おめでとうごさいます。」
「ありがとう。でも、この夏の水着はちょっと無理になっちゃったね。」
「水着なんて、来年着れば良いんですよ。本当に良かった。」
姫の前でSさんを抱きしめたのは初めてだったが、姫はパチパチと手を叩いて喜んでくれた。
「2人とも本当に良かったですね。私、とても嬉しいです。」姫の眼が赤く潤んでいる。
ああ、Sさんの体内に俺とSさんの子供が宿っている。新しい小さな命。
俺の心は不思議な高揚感に満たされ、お赤飯の味も、2人との会話も
どこか夢を見ているような、とても非現実的なもののように思えた。

 

Sさんの部屋のドアをノックする。 「どうぞ。」
Sさんはベッドの中で本を読んでいた。
「今夜はここへ来て良いのか迷ったんですが。」 Sさんは本を閉じた。
「『妊娠するまで』って言ったのを気にしてるの?馬鹿ね。あれはあなたが私に
プロポーズしてくれる前の話でしょ。もう『内縁の夫婦』なんだから、
これからもあなたはここに来てくれて良いのよ。いつだって大歓迎してあげる。」
俺はベッドに潜り込んでSさんをそっと抱きしめた。「本当におめでとうございます。」
Sさんは俺の左手を取り、そっとお腹を触らせてくれた。
「二ヶ月目に入ってるってことは、もう、ちゃんと心臓が動いてるのよ。」
ふと、思い出した。『女の子なら能力を持つ確率は高い』というSさんの言葉。
「まだ、男の子か女の子かは判りませんよね?」
Sさんは少し小さな声で、でもハッキリと言った。
「女の子よ。」 「え? 二ヶ月目ではエコーでもまだ性別は。」
エコーで胎児の性別が判るのは三ヶ月目以降の筈だ。
それも胎児が男の子で、たまたま『あれ』が写った時だけに。
「エコーじゃない、妊娠する前から判ってた。」
妊娠する前から?「...何故?」
Sさんは暫く黙った後、小さく深呼吸してから言った。
「ここにいる子に宿っているのは、Kの魂だから。」
「そんな...」 俺は呆然として言葉を失った。

 

Sさんは時々俺の髪を撫でながら事の顛末を話してくれた。
「負の感情、特に憎しみの感情は魂が悪しき縁に囚われる原因になりやすいの。
もしKがあなたに出合わずに死んでいたなら、Kはその憎しみの感情ゆえに
悪しき縁に囚われ、不幸の輪廻に取り込まれていた筈。でもKはあなたに出会えた。」
「Kはあなたへの気持ちで憎しみの感情を克服しようとしていたの。
死の際で、Kは許そうとした。自分の不幸を、自分を不幸にした人々を、全部をね。
Kは悪しき縁を自分で断ち切りたかった。不幸の輪廻に取り込まれるのを怖れたから。」
そこまで話すと、Sさんは俺をしっかり抱きしめてキスをした。熱く、長いキスだった。
「ここからは話すかどうか、凄く迷ったの。本当は今も迷ってる。
話したらあなたが気に病む事になるかも知れないから。でも、きっと全ては必然で
何一つあなたのせいじゃない。それにあなたは凄く勘が良いから、私が黙っていても
いつかは真実に気が付く。だから今、全部話すわ。しっかり聴いて。」
俺は黙って頷いた。
「Kは死の際であなたの囁きを聴いた。『もう、出会ってる。離れないで。』という言葉。
その言葉を聞いて、Kは全てを許した。Kの憎しみは完全に解けたの。
だから死の直後、悪しき縁に囚われるのは取り敢えず避けられた。
でも、Kはあなたへの想いから、最後にひとつ、無意識に術を使った。
自分の思念をあなたの体にそっと忍び込ませてから、自分の魂を中有に封じたの。」
「ううん、とても強い願いが、結果的に術と同じ力を持ったと言った方が良いかもしれない。
きっとKはただ『この人と離れたくない、一緒にいたい』と、強く強く願っただけ。
あなたへの敵意が全く無い純粋な思念だから、はじめは私も気づかなかった。
でも憶えてる?元旦の祀りの時の事。あの時、祀りの途中であなたとLの祓いをした。」

そうだ。思い出した。
白い紙の人型、一瞬激しく燃え上がった炎、そして舞い上がった燃える小さな紙片。
あれは、あの紙片は、俺の眼の前に落ちて燃え尽きたのだ。
和室に戻る姫の顔が緊張していたのは、その異変の意味を察知していたからだろう。

「あの時、祓いの効果でKの思念はあなたの体を離れて人型に移ってた。
でも人型を焚き上げようとした時、術の力でKの思念は人型を離れ
再びあなたの体の中に戻った。あなたの前で燃え尽きた人型の一部を見た時
Kの思念があなたの中に入り込んでいるのが分かったの。
術の力でKの思念をあなたから引き離す事は難しいし、もし出来たとしても
ただ単純に引き離すだけで、Kの魂が中有に封じられたままになるのは辛かった。」
「死者の魂が生前の想いにすがって現世に留まるのは珍しい事じゃない。
でも、遅かれ早かれその想いは薄れ、死者の魂は中有を経て現世から離れていく。
ただKの場合、あれだけの力を持っていたから、あなたが生きている限り
その思念はあなたを離れない。そして問題はあなたが死んだあと。
Kの魂はすがるものを失い、深い悲しみを抱えて中有をさまよう事になる。
そして、その悲しみ故に、やがて不幸の輪廻に取り込まれてしまう。」

俺が昏睡から覚める前に夢の中で聞いたあの声。
そしてケアンズのホテルの部屋で異変が起こる前に警告してくれたあの声。
Kの思念は何時も俺の中にいて、俺を見守っていてくれたのだ。
自らの魂を、この世とあの世の狭間に封じたままで。
そして結果的に、俺はあの言葉でKにそれを強いた事になる。
俺は何という事を...涙が溢れて止まらなかった。

 

Sさんはもう一度俺を強く抱きしめてくれた。
「私はKを助けたかった。だから術を使ってKの魂に呼びかけたの。
『私が妊娠する子に宿り、私たちの子として生きるように』って、
Kの魂もそれを望めば、Kの魂の封印は自然に解けるから。
上手く行くかどうか自信がなかったけど、この子の妊娠に気付いた後に
Kの思念があなたの中から消えていたから、上手くいったのが分かった。」
「Sさんは、初めからその為に僕の子を産もうと。」 「違う。」
「でも。」 「言ったでしょ、子供が欲しいのはあなたが大好きだからよ。」
「そしてもし同時にKを助けられたら一石二鳥。でしょ?Kの記憶は完全に封印されるけど
あんなに綺麗で強い人だったんだもの、きっと賢くて可愛い女の子が生まれる。」
「Lさんはこの事を?」 Sさんは微笑んだ。
「実はね、元旦の祀りの後でLに相談したの。『この方法でKの魂を助けたい』って。
そしたらあの娘も同じ事考えてた。可笑しいでしょ?あなたの事が大好きだから
あなたを真剣に愛したKを、何とかしてあげたいという気持ちになるのね。」
「でも、Kの因縁を断つのは私の役目だと思った。私、Kをあんな風に...」
Sさんは少し黙って、涙を拭った。
「それに、Lには何の因縁とも関わりなく、あなたと結ばれて欲しかった。」

「僕のした事は正しかったんでしょうか?何だか良く判らなくなりました。」
「正しいとか正しくないとか、私には言えない。絶対に正しいものなんて多分存在しない。
でもあなたは、Lを救い、Kの憎しみを解き、私を妻に、そして母にしてくれた。
私もLも、きっとKも、心から感謝してる。あなたがあの時、瀕死のKを抱きしめて
『行くよ、一緒に』と言ったのを感じた時、私、本当に驚いたわ。
でも同時に、あなたを好きになって良かったと心から思った。
そして、前よりもずっとあなたが好きになったの。
それは多分、Lも同じだと思う。だから私はあなたのした事を、正しいと信じたい。」
「この子が生まれたら『K』という名を?」
「それは禁忌、絶対に駄目。名前を同じにしたら前世の因縁との繋がりが出来て
悪しき縁の入り込む隙が生じてしまう。あなたが何か新しい、良い名前を考えてあげて。」

 

少しだけ開けた窓から吹き込む風が、微かに雨の匂いを運んで来る。
季節は巡り、輝く夏を先導する梅雨が、今年もやって来た事を知らせる匂い。

もう一度Sさんのお腹にそっと触れ、どんな名前が良いのか考えた時
明るい青空の下で緑の草原に立つ、Kの笑顔が見えた気がした。

 

 

「旅路」 完

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

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