藍物語シリーズ【32】
『異教徒』
「申し訳有りません。折角来て頂いたのに、今日も義父は何も...」
未だ二十歳を過ぎたばかりと見えるその人は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「『上』から指示された仕事ですからそれは構いません、ただ。」
そう、完全に拒絶されたのでは、俺に出来ることは無い。恐らくSさんにも、姫にも。
「お義父様の体に寄生した妖の様子から見て、ほとんど時間が無いんです。
年内にあと一度、多分それが最後のチャンス。その日付は、お義父様に。
それでも駄目なら、『上』に話をして手を引く以外に有りません。」
「...はい。」
悲しそうに目を伏せたその人を見ると、何だか俺が悪い事をしているような気になる。
俺と同じ家系、『分家』の出。修行中、ある男性に見初められ相思相愛となり、
数々の困難を乗り越えて、その男性の嫁としてこの家に迎えられた女性。
その縁があったからこそ、この依頼を『上』が受理したのだし、俺を名指しで。
だが、これは初めから気乗りしない仕事だった。
依頼者の義父とは未だ一言も話すことが出来ていない。
依頼の対象であるその老人は、俺を異教徒として拒絶しているからだ。
自分の信仰に反し、怪しげな呪術に頼って生きるつもりはない。それが沈黙の意味。
これでは俺の言霊も力を発揮できない。
異教徒とも話が出来ると期待して、『上』は言霊使いを、つまり俺を指名した訳だが、
これほど頑なに拒絶されるとは予想もしていなかっただろう。
「ホントに、手を引く以外になさそうですか?」
藍を抱いた姫の、心配そうな笑顔。 翠はSさんの寝室。
どういう組み合わせで寝るのか、毎晩一悶着起こる。今夜はこの状態に落ち着いた。
「昨日、一日がかりで車を走らせたのも、この依頼を完遂するためです。
準備は完璧だと思っていますし、最後まで、出来るだけの事はするつもりですが、
正直今回は自信がありません。
依頼の『対象』は、異教徒である僕に対して、とても頑なに心を閉ざしています。
あれでは『言霊』の響きも力を失うでしょう。」
その老人は一代で財をなした大変な資産家。
成功した後は慈善事業に力を尽くしてきたと聞いた。数年前、引退してからは特に熱心に。
「その人の心の闇に寄生している妖は大した力を持っていないけれど、
心の闇が『不幸の輪廻』に繋がっているから難しいって事ですよね?」
「はい。その妖を祓えば『通い路』が開いて、もっと強大な悪霊が現れます。」
人の心の闇が濃度を増すと、そこに妖が寄生することがある。
当然、心の闇はやがて『不幸の輪廻』と繋がり、妖は次第に力を増す。
しかし通路が拡がりすぎれば、宿主の魂とともに
寄生していた妖も『不幸の輪廻』に呑み込まれる可能性がある。
だから寄生した妖は、通路を閉じないように拡げすぎないように宿主の心を操る。
『不幸の輪廻』に呑み込まれることなく、しかしそこから最大の力を得られるように。
そのために宿主を護ったり、その願いを叶えたりすることもあると聞いた。
寄生した妖と宿主の、奇妙な調和。おそらくそれが、この件の発端。
「でも、あの短剣があれば特に問題は。」
確かに、あの短剣を使えば開いた通路を閉じて悪霊を押し戻すことも出来るだろう。だが。
「そうなんですけど、それでは、その人の心の有り様を変えることは出来ません。
もし、異教の術で助かったと知ったら、その人の心は支えを失ってしまうかも。
高齢だし、体も弱ってる。長年の信心、その根拠を失ったら、多分これからの人生は。」
「『出来るだけの事』ですか...やはりこれは、Rさんのお仕事なんですね。」
姫は優しい微笑を浮かべた。
事態が一気に動いたのは3日後、『聖夜』。
「瞳さん、外して下さい。」 「御父様、でも。」
「この人と二人だけで話したい。だから、お願いします。」
「はい。」 女性が部屋を出ると、その老人は一つ深呼吸をした。
「Rさん、でしたな。聡い人のようだから、私の言いたいことはお判りでしょう。
もう、これで最後にして下さい。義娘やあなたの気持ちはわかりますが、
異教の、それも妖しげな呪術に頼ってまで、生き延びるつもりはありませんから。」
やっと、口を開いてくれた。結果はどうあれ、これで言霊を使える。できるだけ単純に、簡潔に。
『御自身の心の闇に呑まれるのが、貴方の望みなのですか?』
数秒、言霊が届くと信じて返答を待つ。
「私自身の、心の闇?」 その老人の眼が光りを増した。
「自らの信仰に疑問を持つ、それを『心の闇』以外の言葉で言い表す事は出来ません。」
「...」
「ずっとお話をさせて頂けなかったので、その間に色々と調べさせてもらいました。」
「何をどう調べても、私自身がそれを話していないのなら、判るはずがない。一体何故?」
「いいえ。術を使わずとも、予想するのは難しくありませんでした。
プロファイラーやセラピストでも、きっと同じ結論に達したでしょう。
貴方は世界の恵まれぬ子供たちを救う事業に力を尽くしてきた。
それならば遅かれ早かれ、『そういう子供たちを生み出すものが何なのか』そう、考えた筈。
『だれかがあなたの右の頬を打つなら』
異教徒の私でも、その例え話を知っています。しかし、その宗教を国是とする国々が、
例外なく自衛のための先制攻撃を認めているのは何故でしょう?
それらの国々が生産した兵器が、多くの子供たちを不幸にしているのは何故でしょう?」
「私は今、人を惑わす悪魔と話しているのか。」
「本当にそう思われるなら、どうぞ、一言『立ち去れ』と。
ただ私は、この国で生まれ育った貴方と私の感覚の根は同じで、
だからこそ貴方と私の心に同じ『違和感』が生じたのだと信じます。
その『違和感』が貴方の心に影を作り、その影は次第に濃度を増して闇となった。
そして、その闇に妖、つまり妖怪が入り込んだ。それが貴方の病の原因です。」
「馬鹿げてる。妖怪なんて。」
「どんな医者にも、その病の原因は分からなかった。
既にご承知の通り、貴方の義娘さんは私と同じ一族の出身で、術の心得も有ります。
だから貴方の体に寄生している妖怪に気付いて、ある組織に依頼したんです。
貴方の寛容さは義娘さんを拒まず、むしろ大切にしておられる。なら、私の言うことも。」
「どうやら私は、本物の悪魔と話しているらしい。だが、私は。」
ここが、勝負所。勿体をつけて十分に間を取り、挑戦的な笑顔を作る。
「そう、これは貴方にとって、またとないチャンスではありませんか?」
「チャンス?」 俺はポケットの中から琥珀の指輪を取り出した。
Sさんに作ってもらった代。強力な式を封じてある。
この依頼の対象は、異教徒である俺に心を許さない老人。
当然その手に触れることは難しいだろうと予測して、非接触系の術を選んだ。
老人に向けて、ゆっくりと掌を開く。
「この指輪を見つめて『現世の者は現世に、異界の者は異界に。』と。
それだけです。取り敢えずそれで貴方の体を蝕む病の原因を取り除けます。」
「そんなこと。」 「私が異教の悪魔で、貴方の信仰が確かなら何の問題も有りませんよね?」
「一体、あなたは何を?」
「こんなもので貴方の体が癒える筈がない。それで、証明できます。
私は悪魔で、貴方の信仰こそ正義。堂々と私をこの家から追い払えるし、もう二度と。
そう『神の子』が聖地から偽の預言者たちや呪い師たちを追い払ったように。そうでしょう?」
この台詞を編むために、相当な時間をかけて『聖典』を調べた。
とんでもなく面倒で、その割に実りは少なく、救いの無い時間。
「どう、しますか?」 「やって、みましょう。私の、信仰を証明するために」
それは俺の努力がもたらした、極く僅かな救いだったかもしれない。
作りものでは無い微笑が、自分の顔に浮かぶのを感じる。
「では、この指輪を見つめて。私の言葉の後に。」
「現世の者は現世に、異界の者は異界に。」
その老人の言葉が終わると同時に、式の封印が解けたのを感じた。
「まさか、痛みが消えた。どうして?」
その老人の体に寄生している妖を祓う。これは大した仕事ではない。問題はこの後だ。
あの短剣は持参したアタッシュケースの中。前もって取り出しておくことも出来たが、
助力をお願いした以上、聞き届けて頂けると信じて証を立てなければ。
部屋の空気が低く、大きく震えた。不吉な、禍々しい気配。
一番大きな窓を覆ったレースのカーテンが大きく揺れ、その前に湧き出る黒い霧。
来る。『不幸の輪廻』へ繋がった通路を通って。予想通り、俺の術では対処出来ない悪霊。
微かに、鈴を振るような音が響いた。直後、俺の目前に浮かぶ光。
ピンポン球程の大きさ。強い光を放った後、ゆっくりと舞い降りて、床の上で光り続ける。
次々と現れ、白銀の光を...そうか、これは『原型』だ。Sさんの使う、あの奥義の。
その証拠に、その光が数を増すにつれ、黒い霧は濃度を増すどころか、
むしろ力を失いつつあるように見える。
俺の願いは、聞き届けられた。良かった。思わず足から力が抜け、床に両膝をつく。
『何故、帯剣していない?それを、私が咎めるとでも思ったか?』
耳元で、いや、耳の奥深くで涼しい声が響いた。
咎められるなどとは一瞬も、しかし、お願いをしたからには証を。
『証は要らない。それよりも万一に備え、その身の安全に心を配れ。
今回は特別。願いを叶える機会は、むしろ少ない。
もし御前の身に何かあれば、いくら悔やんでも間に合わないのだから。』
俺の前、2m程先。姿を現しつつある悪霊と俺の丁度真ん中に女性が立っていた。
水色のパーカー、紺のジーンズ。見覚えのある後ろ姿。
そう、あの御方だ。 降りしきる雪のような、無数の白い光。 その中に佇む美しい御姿。
両膝をついたまま、深く頭を下げた。
「愚かな...折角の信心が心の闇を増幅し、
終にはこんなモノまで呼び出す『通い路』を作ってしまうとは。」
突然現れた御姿。その御方が人間でないことは直感で理解できた筈。
「これが、あなたの言う異教の悪魔、なのか。」
その御方は振り返り、その老人に視線を移した。微かな笑み。
「私を、悪魔と...発した言葉は、どれ程後悔しても取り消すことは出来ないのに。」
その御方はパーカーのフードを脱ぎ、軽く束ねた長い髪を背中に垂らした。
その御方の全身を仄白い光がゆらゆらと包む。 そして何よりその両肩から天井へ。
「燃える、身体...光り輝く、6枚の翼。まさか、Seraph」
「お前達がそう呼ぶ者は私と同種の存在。」 小さな笑い声。
「つまり私が悪魔なら、お前は悪魔崇拝者と言う訳だ。」
古来から、仏像の光背や宗教画の光り輝く翼として表現されてきた『後光』。
両肩から3方向に枝分かれしたそれは、確かに6枚の翼のようにも見えた。
『主は聖なる傷跡を示して言われた。
「おまえは見たから信じるのか。見ないのに信じる者たち、彼らは幸いである。」
その職にあるなら、当然諳んじているのだろう?』
「ヨハネによる福音書、第20章29節。何故、その御言葉を...悪魔では、ないのか?」
『不思議だが、異教徒は力を持つ者ほど、信じる根拠を、理由を欲しがると聞く。
この国に生きる人間は、己が生きていることだけで、私たちの力を信じてきたのに。』
そうだ、俺がSさんや姫を信じるのに根拠など要らない。もちろん当主様も、桃花の方様も。
会えたから信じたのではない。きっと、信じていたから会えた。
Sさんと姫に出会う前、俺は自分が生きている意味を理解出来なかった。
世界はまるでTV画面の向こうに広がっているように空虚で、
過ぎていく時と次々に起こる出来事は、いつもどこか他人事だった
でも俺はじっとTVの画面を見つめ続けた。そうしていれば、何時か、
こんな俺にも生きている理由があると、その理由が分かると信じていたから。
「いや、悪魔は天使にすら擬態する。悪魔の王は堕天した天使の長だった。
それにこの国の神話においても、神と人の契約はありふれたものではないか。
信じるのに理由が必要なのはこの国の人間も同じ。」
『その通りだ。自分で言っていて気付かないのか?
お前にはお前の神との契約、異教徒には異教の神との契約があるのなら、
「唯一絶対の神」とは何だ?』
「それは...」
『唯一絶対であるが故に、異教徒の、当然同胞の偶像崇拝を認めない。
しかしお前の傍らにあるその書物は、お前の首にかかるその印は、お前の崇拝の対象。
しかし、それは神の姿そのものではない。つまり、偶像。』
「違う!偶像とは、例えば木像に金箔を貼った」
ごう、と風の鳴る音を聞いた。続いて部屋のあちこちで倒れたり落ちたりするものの音を。
寒い。昔風の暖炉に似せたストーブはそのままなのに、部屋の中に満たす冷ややかな空気。
「お義父様!」 ドアの向こう、気配が駆け寄るより早く、ドアの鍵が掛かった。
『古来、この国に生きる人々は世界のありとあらゆるものの中に高次の力を感知して
畏怖の対象とした。希な豊作や豊漁だけで無く、多くの犠牲を伴う天災にも。
時には人知れず咲く花や路傍の小さな石ころの中にさえ。
もちろん人々が関知した高次の力を擬人化した像も数知れず造られた。
しかし、森羅万象の『全て』が畏怖と崇拝の対象になるのなら、偶像など存在し得ない。』
その御方は、一瞬俺に視線を投げた。
『高次の力と人々の間を取り持つ者たちも存在するが、
それらの役割はあくまで道標。力を持たない者たちを光に導くだけ。
もし、自分の力を崇拝の対象にしようと望めば、それらも早晩自壊する。』
突然、部屋に舞い続ける白銀の光が数と輝きを増した。その御方の、微笑。
『無駄だ。既に退路は断った。この部屋からは出られない。』
そう言えば、今にも圧倒的な質量を伴って物質化するかに思われた悪霊は。
『この傷跡を刻んだ鏃、それを作ったモノたちを唆した首謀者。』
その御方の姿はゆらりと薄れ、人の形を失いつつあった。
『千載一遇、術者の適性が現出した奇跡。長居し過ぎたようだし、そろそろ』
「私は、間違っていたのだろうか。」 その老人は体を起こし、ベッドに腰掛けていた。
瞳という名の女性は、老人の傍らに跪いてその両手を握っている。
深呼吸、最後まで、俺に出来る限りのことをする。それが受けた依頼の『契約』。
「私は、間違った『信仰』があるとは思いません。
とんでもない教義を掲げる邪教でもなければ、
どんな宗教にも、人々の魂を導く役割がある筈です。」
「しかし、先ほどの、あの御方は私を『愚か』だと。」
「愚直という言葉があるように、愚かさそれ自体は間違いではありません。
『見ないのに信じる幸いな者たち』も、見方によっては愚かでしょう。しかし間違いではない。
信仰が間違いを生むとすれば、自分の信仰を唯一の正義とし、
異教徒を排斥しようとする衝動に囚われた時です。例えば、魔女狩りのように。」
「『違和感』。Rさん、あなたは先刻そう言いましたね?」 「はい、確かに。」
「正直に告白すれば、『違和感』、その通りです。
世界に不幸をもたらす争いの根底に宗教対立があると、それを思い知る度に疑念が生じた。
私が信じているのは、本当に唯一無二の絶対神なのか。
異教徒は本当に、邪神に惑わされた罪人なのか。
でも私が関わってきた異教徒の子供たちの眼は...」
その老人の心が大きく揺れ動いている。それこそ自我の維持すら危うくなるほどに。
今なら、持続性の後催眠暗示も簡単。だが、それは決して『救い』ではない。
俺に出来ることは全てやった。願いは叶えられ、あの御方の助力を得る事も出来た。
しかし、この老人が自ら乗り越えなければ、また同じ事が繰り返される。
暗示がもたらす偽の幸福の彼方にあるものは、きっと魂の破滅。
「依頼された仕事、私に出来る事は全てやりました。
これからは貴方自身の問題です。幸い、貴方の傍には義娘さんがおられる。
沢山、話をして下さい。きっと得られるものがあるでしょう。
ゆっくりと時間をかけて、より良い答えを見つけられるように、祈っています。」
面倒でややこしくて、時間がかかり、どちらかというと救いの無い仕事。
しかし、その場で答えの出る仕事ばかりではない。それは重々承知している。
屋敷の門を出た。寒い。時計を見る。 予想はしていたが、どうやら遅刻だ。
今夜は『聖夜』。○△ホテルでチーム榊の忘年会、今頃、姫とSさんは翠と藍を連れて、もう。
きっと幹線道路は渋滞している。どうせ遅刻なら、バスやタクシーより、近道を歩こう。
そして○△ホテルについたら屈託無く笑えるように、心の整理をしよう。
肩に白いものが舞い降りて、消えた。 積もる事は無いだろうが、きっと聖夜にふさわしい。
賑やかな雑踏を抜け、川沿いの裏道に向かう。
吐く息が白い。頬を刺すような冷たい風が、不思議に気持ち良かった。
『異教徒』 完
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