『霧』藍物語シリーズ【36】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

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藍物語シリーズ【36】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『霧』

 

「ん~、やっば外で食べるお弁当は美味。
たとえそれがコンビニの買い弁であってもね。し・あ・わ・せ。」
「でも漁協の見学とか正直退屈だよ。普通に楽しく遠足で良いのに。」
「そう、かな。私は好きだけど。海とか、漁港とか。」
「ナオってさ、何時も少しズレてるよね。女子高生が漁港好き、とか。」
「いいじゃん、人それぞれ。それよりナオの弁当、今日もカワイイ。」
「ホント美味しそうだよね。毎日自分で作ってるの?」
「お母さんと一緒に。2人で色々献立を考えるのが楽しいから。」
「...あのさ、前から思ってたんだけど。」 「何?」
「ナオは今、親戚の家にいるんでしょ?下宿っていうか。」
「そう、だけど。その、生まれた島から、進学のために。」
「じゃあ親戚の叔母さんを『お母さん』って呼んでるの?」
「あ...ずっと、小学生の時からで、いつの間にか。」

 

「だ・か・ら、人それぞれ。ナオの事より自分の成績心配しなよ。
推薦で○大狙うなら2年生の成績が大事だって、先生言ってたじゃん。」
「あ~ヤダヤダ。折角の遠足なのにイヤな事思い出しちゃった。
ナオはやっぱ◇大?成績良いし、推薦楽勝でしょ?」
「大学は...勉強するのは好きだけど。」
「え~?わざわざ進学のために親戚の家にいるのに、大学行かないの?イタっ!」
「だからいらん詮索はやめれ。ほら、ナオが困ってる。」
「詮索って、ナオが大学行かないで島に帰っちゃったら会えなくなっちゃう。」
「何で島に帰るって決めつけるの? 専門学校も、就職だって。
それにまだ1年半も先の事でしょ。ね、ナオ...どした?」
「ほら、アンタが変な事ばっか言うから。あ~もう。」
「ゴメン。そんなつもりじゃ。」
「ううん。ちょっと、島の事思い出して。私こそ、御免なさい。」
「それなら、あれ?」 「何だか急に、風強くなったね。それに、これ、霧?」
「やな感じ。バスに戻ろ。めっちゃ寒い。」

 

「なあ、最近、ナオと何かあったのか?」
ナオの乗った電車を見送った後、父親が突然口を開いた。
「いや、別に。何で?」
「何でって...2学期が始まった頃からあんまり喋らないだろ。2人。」
やっぱり、父は勘が鋭い。なら相談するのも気が楽だ。
「喧嘩じゃない、だけどちょっと心配な事が。」 「心配な事?」
「時々ボーッとしてるんだよ。オレが声かけても気がつかない位に。」
「何か、思い当たる事は?」 「校外学習かな。それ以外には何も。」
「ナオの高校の校外学習...先週の?」
「そう、先週の木曜。○町の海浜公園で弁当を食べたって。」
父は目を閉じて、深呼吸をした。
「海、もしかしてあの島での事と関係が。」
「分からない。一度だけ『久しぶりに海を見た。』って言ってただけで、
その後は海の事は何も。でもナオの様子が変わったのは、その後のような気がする。」
あの島での事、ナオの魂は海の妖に囚われていたと聞いた。
ナオを助けてくれた、あの2人。Sさん、Rさん。長い間、忘れていた名前。

 

「実は、父さんも、ずっと気になってる事があるんだ。」 「何?」
「あの人、Sさんが言った言葉だよ。『対症療法』、憶えてるか?」
「憶えてるけど、それが何で。」
「『対症療法』って、症状を抑えるだけで病気の原因は消えてないって意味だぞ。」
「あ...じゃあナオは。」
「思い過ごしかもしれない。でも何となく気になって、
だからナオを海へ連れて行くのを避けてきたし、島にも帰ってない。
ユウ、これからも注意しててくれ。ナオに何かあったら母さんも。」
そうだ、あの晩Sさんは『どちらも対症療法ですが』と言った。
文字通り、ナオは母の心の支え。
切望したが産むことの出来なかった女の子の『身代わり』。
もしかしたらそれが、ナオの負担になっているのかも知れない。
だけどオレはナオが好きだし、ナオがいてくれるからこそ家族が楽しく暮らせる。
ナオにも幸せに暮らして欲しい。オレは一生ナオを守ると決めたから。
「分かった。思い過ごしだと良いけどね。」 「そうだな。」

思い過ごしでは、無かった。
それからもナオの口数は減り、オレたちの言葉には反応するものの、
感情を表すことが無い。心配した父と母が暫く高校を休ませると決めたので、
ナオは一日中部屋の中で窓の外を眺めて過ごすようになっていた。

 

「駄目だ。祖母さんに頼んで置いたんだが、例の『先生』と連絡が付かないらしい。
丁度一月くらい前から『修行で暫く留守にする』って島を出たまま。間が、悪いな。」
夕食後、電話を切った父親の表情は暗かった。ナオは既に部屋に戻っている。
「あなた、ユウにも、ちょっと聞いてもらいたいことがあるの。」
洗い物の手を止めて、母親はオレ達に声をかけた。
「聞いてもらいたいことって、ナオの事か?」
「ナオの事っていうか、ナオを助けてくれた人たちに関係があるかも知れない。」
「でも、その人たちとも、紹介してくれた人にも連絡が付かないって、父さんが。」
「前に母から聞いた事がある。昔話だと思っていたんだけど。
陰陽師。事故や怪我で体から離れてしまった魂を、呼び戻す儀式をする人たち。」
オレと父は顔を見合わせた。 「詳しく、聞かせてくれ。」
「母が未だ若い頃、知り合いの奥さんに頼まれて運転手をしたの。
事故で抜け殻みたいになってしまった旦那さんを、ある場所に連れて行くために。
奥さんの方は運転免許を持ってなかったから。」
「それで?」 父とオレは固唾をのんで母の話に耳を澄ませた。

 

「その儀式が済むと、旦那さんは少しずつ元気になって、
帰りの車の中では話もできるようになったみたい。」
「お義母さんは、実際にその儀式を見たのかな?」
「そう、人の形に切った紙を使う儀式だったって。」
もう一度、オレと父は顔を見合わせた。父の表情に明るさが戻っている。
オレも同じだ。母はあの島でSさんがオレとナオに何をしたのか見ていない。
なのに『人の形をした紙を使う儀式』と。これはオレ達に残された、ただ一つの希望。
「その場所って、何処だ?」
「母から聞いたのは、○県の県境に近い山の中。それだけ。
でももし母が今もその場所を憶えているなら。」
「恭子、すぐにお義母さんに連絡を取ってくれ。
明後日、土曜日は仕事が休みだから、一緒にその場所を探して欲しい。
もし見つかったら、何とかナオの事を頼んでみる。」
「分かった。私も一緒に行く。ユウはその間ナオの事お願い。」
「大丈夫、任せて。」

 

昼前に出発した父と母が帰って来たのは夕方近く、2人とも表情は暗い。
母は台所に引っ込んでしまい、父はリビングのソファにぐったりと座り込んだ。
察しはついたが、やはり気になる。
「駄目、だったの?」
「ああ、お義母さんは結構細かく憶えてて...
その場所の、かなり近くまでは行った筈なんだ。
でも何故か同じ所をぐるぐる回ってたり、どうしても見つからない。
通りかかった車を止めて聞いたりもしたんだが。
お義母さんの年齢と体調考えると、あれ以上探すのは無理だった。」
父は胸ポケットから折り曲げた白紙を取り出し、テーブルの上に置いた。
「もう50年近く前の事だし、道がすっかり変わってしまったのか、
もしかしたらもう、その場所自体が無いのか。どっちかだろう。」

「この、紙は?」
「ああ、お義母さんの話を聞いて描いたメモだよ。
目印にしたコンビニと、そこかに山道に入って調べた脇道とか。」
「これ、借りても良い?」 「勿論、でも何で。」
「明日、オレが探しに行ってみる。父さんと母さんは無理でしょ。」
翌日、父と母は母方の親戚の結婚式と披露宴に出席する事になっていた。
渋っていたが、父は結局新婦の親戚代表挨拶を引き受けた。欠席は無理。
休日だし、一日ナオの様子を見ているのなら、いっその事。
「ナオも一緒に連れて行く。もし見つかったら、直接ナオを診てもらえるかも。」
「分かった。ただし、バイクは駄目だぞ。父さん達は送迎してもらえるから車を使え。」
ナオの事になると、父と母は眼の色が変わる。
「ありがとう。」 「父さんこそ、ナオを頼む。でも絶対に無理はするな。」
「分かってる。」

 

その夜、父のメモをもとにPCで検索すると、目印のコンビニはすぐに見つかった。
しかし航空写真に切り替えても、そこから伸びる山道沿いにそれらしい場所はない。
父の言った通り、もうその場所がないのかも。
だが、父の言葉がオレの心に引っかかっていた。

 

翌日、朝早く家を出た。
ナオはもう2時間近く、黙ったまま助手席で窓の外を眺めている。
いや、その眼は外に向けられているが、多分焦点は合っていない。
目印のコンビニに着いたのは9時前。入り口近くのポスト、集配時間を確かめる。
1回目が11時、2回目が17時30分。
昨日父たちが来た時間は1回目の後、2回目の集配の前に帰った。
このポストを調べても手がかりにはならなかっただろう。
此処から△県に通じる山道に入り、父のメモにある脇道を調べて、
空振りなら11時前に此処に戻って郵便配達の人に聞いてみよう。
今もその場所に人が住んでいるなら、手紙や荷物が配達している筈だ。
ナオを促して、コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチで簡単な朝食。
コンビニの駐車場を出たのは9時20分頃。やはりナオは一言も喋らない。

 

父のメモを見ながら1つ1つ脇道を調べる。
1時間ほど経った時、妙な事に気づいた。
父のメモに描かれていない脇道。絶対この道を見た筈なのに、何故?
心に引っかかっていた父の言葉が、急に大きな意味を持った気がした。
『何故か同じ所をぐるぐる回ってたり...』父は昨日そう言った。
もしその場所に住んでいるのが陰陽師、
不思議な術を使い、魂を呼び戻す儀式を行う人たちだとしたら。
不意の訪問者を近づけない術を使っていてもおかしくない。
右折してその脇道に入る。
舗装はそれ程荒れていない、間違いなく今も使われている道だ。
心臓がバクバクして、耳がきーんとなる。もしかしたら。

 

「だめ。」 ナオがオレの左腿に右手を置いた...冷たい。
ゆっくりと車を路肩に寄せて、止めた。
「ナオちゃん、駄目って、一体何が?」 ナオは真っ直ぐ前を見詰めている。
「こわ い。」 全身の毛が逆立つ気がした。
助手席の窓の外、煙のような濃い霧が渦を巻いて流れていくのが見える。
車の前方から後方へ、もう車の数m先も見えない。慌てて車の窓を全部閉めた。
まさか、だってさっきまであんなに良い天気で。
ナオは両手でオレの右手を握り、肩に頭を預けた。
俯いたナオの背中を左手で抱き寄せる。やはり、その身体は、冷たい。

どれくらい経ったのか。オレの右手を握るナオの力が緩んだ。
「コンコン」 運転席の窓を叩く音。
ビクッとして顔を上げると、窓の外に男性?の姿。そして、自転車。
いつの間にか、白く濃い霧は消えていた。
『成る程、君たちだったのか。それなら、納得だ。』
窓を閉めたままなのに、その声はハッキリと聞こえる。暖かく、懐かしい響き。
『ユウ君、久し振り。窓を開けて。』 何故、オレの名前を。
窓を開けると、その男性は車内を覗き込み、厳しい表情になった。
「ああ、これでは。随分心配したね。」 !! 思い出した。この人は、Rさん。
Sさんと2人でナオを助けてくれた。じゃあ、その場所に住んでいるのは。
「先導するから、着いてきて。まあ、この道に入れたんだから迷う筈もないけれど。」

 

自転車の後を追って暫く走ると、立派な門。扉は開いている。
自転車を降りたRさんの指示通り、門を入ってすぐの広場に車を停めた。
車を降り、Rさんが差し出した右手をしっかりと握り返す。温かい。
「御免よ。今日はガレージが満車なんだ。家族が皆、家にいるからね。」
すうっと、肩の力が抜けた気がした。涙が出そうになる。
「いいえ。僕たちこそ突然来てしまって。」
助手席のドアを開けると、ナオは思いの外すんなりと車を降りた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」 背後から可愛い声。
振り向くと小さな女の子が立っていた。
肩にとまった鳥。足下の白い、小さな、これは?

 

「娘の翠。僕とSさんがあの島に行った時は、2歳になる少し前だったかな。」
「あれ?このお客様方には、お名前が2つずつ。どうして?」
「駄目だよ、翠。このお兄ちゃんの名前はユウ、お姉ちゃんの名前はナオ。
それ以外の名前について話しちゃいけない。分かった?」
優しい声。でもその言葉の向こうに、とんでもないものが隠されて。
女の子は小さく頷いた。 「はい。分かりました。では。」
あの声を聞いて、隠されているものに何の反応も...一体?
女の子はちょこんとお辞儀をした。
「どうぞウッドデッキへ。お茶の準備が出来ました。ご案内いたします。」
くるりと背を向けて歩き出す。小さな白い影もその後を追った。
「あの、ありがとう。」 声を掛けると女の子は振り向いた。
眩しい、笑顔。 あの日のSさんの笑顔を思い出す。

 

「そうだったの、昨日も此所に。
御免なさい。きっとお祖母さんを憶えていたのね。」
4人で紅茶を飲んだ後、オレの話を聞いてSさんはそう言った。
小さな女の子はオレ達をウッドデッキに案内した後、お屋敷に戻ったらしい。
「祖母を憶えていたって、誰が、ですか?」
SさんもRさんも、祖母に会ったとは考えられない。
祖母がこの場所を訪れたのは、もう50年も前の事だから。
「このお屋敷。このお屋敷は自身の意思を持ってるの。
普通、術者が依頼者をこのお屋敷に招く事はない。
その後突然訪ねて来られたり、このお屋敷の場所を口外されたら困るから、ね。」
自分の意思を持つ、お屋敷?じゃあ、このお屋敷は、生きてる? まさか。

 

「だからお祖母さんが関わったのはよっぽど特殊な事情で、
問題が解決した後で依頼者とお祖母さんが『リスト』に載ったんだと思う。
このお屋敷の住人に招待されない限り、近づけてはいけない人物として。」
「じゃあどうしてオレとナオは。あの、濃い霧は一体。」
「ああ、あれは僕も初めて見た。この辺りの妖や精霊が覗いてたんだよ。
開いてる窓があると中を見たくなるのは人も人ならぬ者達も同じ。」
窓? のぞき込む? 車の、窓の事? 確かに車の窓は開けていたけど。
「悪しきものではないにしろ、君たちがこの辺りを走り回ってる間に
かなりの数が集まって来たから、それらの姿が君にも見えた。白い、霧として。
『今日は朝から山がとても騒がしい』と翠が言ってね。
それで様子を見に行ったら君たちに会ったと言う訳。」

 

「それで、今日2人で此処に来たのは何故?」
あの時と同じ。とても綺麗で、少しだけ寂しそうなSさんの笑顔。
「先月位からナオの様子が少し変...口数が減って、いつもボンヤリしてるし。
この何日かはほとんど喋らなくなりました。」
「それだけでわざわざ私たちを探したの?心療内科のクリニックとかに相談は?
最近、研究が進んで良い病院があるもたいよ。ね、R君。」
Rさんは苦笑して軽く首を振った。
「ナオの様子が変わったのは、校外学習の後からだった気がします。
そのコースに漁港が入っていたのが関係あるのかと思いました。
それを父に話したら、Sさんが『対症療法』って言ってたのが気になるって、それで。」
「ナオちゃんが海に行ったから、またあの妖との繋がりが、と?」
「はい、もしそうならSさんやRさんみたいな人でないと対処出来ないし。」
SさんとRさんは顔を見合わせた。Rさんは笑いをかみ殺している。
「確かに『対症療法』、そう言ったわ。でもあの術はそんな簡単には破れない。
海どころか、今ならナオちゃんが4・5日あの島に戻っても、何の障りもない。」
「でも、ナオは。」
思わずナオの顔を見た。黙ったまま、焦点の合わない眼。胸が、詰まる。

 

Rさんは立ち上がり、ナオの椅子の傍に片膝をついた。
「ちょっと失礼。」ナオの左手を取り、正面から瞳を覗き込む。
数秒間の、重い沈黙。
「やっぱり。こちら側の窓は少しだけ、あちら側の窓が大きく開いてる。」
Rさんはナオの左手を戻し、自分の椅子に座った。
「こちら側の窓が完全に閉じて、あちら側の窓が完全に開くと
心はこちら側との繋がりを失う。あの時、ナオちゃんはそう言う状態だった。」
「そしてもし」 Rさんは言葉を切ってSさんを見つめた。
Sさんは小さく頷いた。穏やかな、笑顔。
「そしてもし、こちら側の窓に鍵が掛かると、もうその心を呼び戻す術はない。
そう、防音仕様のアルミサッシ。イメージはそんな感じかな。
姿は見えるけれど、こちら側からの呼びかけは届かない。
かといって無理矢理に窓を破れば、相手の心が大きく壊れてしまう。」

 

「『対症療法』と言ったのは、こうなる原因がナオちゃん自身の心に有るから。
普通の人は、生まれつきあちら側の窓は完全に閉じているし、鍵も掛かってる。
ただ、希に鍵が掛かってない人や、鍵自体がない人がいるの。
そういう人の心はあちら側と繋がりやすい。妖や精霊、時には悪霊とも。」
確かにあの時Rさんは言った『妖や精霊と親和性の高い魂』と。
そして『ナオちゃんは海に愛されている』とも。
「ナオちゃんの場合、あちら側の窓に鍵がない。
釣りの名人だってことは、それが生まれつきなのかも知れないし、
辛い境遇に耐えかねて、心を守るために自分で鍵を壊して、
何時でもあちら側に逃げられるように退路を用意したのかも知れない。
あ、ありがと。」 RさんがSさんのカップに紅茶を注いだ。

 

「妖との繋がりを切るためにあちら側の窓を閉じた後、
ナオちゃんに呼びかけて、その心をこちら側に向ける。あの島で言う『魂呼』。
だからナオちゃんの心に呼びかけるのは絶対にユウ君の役目だった。
今回もあの時と同じ。君が『手』を離さずにいたからこそ、
ナオちゃんはこちら側の窓に鍵をかけなかったんだし。」
手を、離さずに?...!! そう言えば、不思議な霧の中でナオはオレの手を。
「このお屋敷に通じる道に入った時、車が突然濃い霧に包まれて。
その間、ナオはオレの手をずっと握っていたんです。あれが。」
「そう、今も2人の『手』が離れていないから、こちら側の窓が少し開いてる。
それに、あの時ほど深刻な状況じゃない。
Sさんならもう一度、あちら側の窓を閉じることが出来る。その後で君が。」

 

「気に、入らない。」 Sさんの声、Rさんの表情が曇った。
「それじゃまた『対症療法』よね。『対症療法』と分かってて
繰り返し同じ術を使うのは不調法だし、正直気が進まない。
だからといって両方の窓を自在に開閉できる天性を封じるのは論外。
そんな適性を持った人間はとても貴重だから。
ねぇ、そろそろ根本的な策を講じるべきだと思わない?」

「Sさん、ユウ君はただ。それにこの状況でスカウトなんて、幾ら何でも」
SさんはRさんの唇に人差し指を当てて悪戯っぽく笑った。
「あなたには聞いてない。もちろんユウ君も答える立場にない。
Sさんは少し椅子の位置をずらして座り直した。ナオの、真正面。

 

「ナオちゃん、聞こえてるんでしょ?喋れるなら、あの時よりずっと軽症。
さあ、返事をして。あなたはユウ君が好き?」
胸の、奥深くを抉られた気がした。それは、オレが聞かなければならなかった、問い。
いや、むしろその問いの前に、オレは自分の気持ちを伝えるべきだったのに。
微かに、ナオの唇が動いた。
「聞こえない。もっと大きな声で...あなたは、ユウ君を愛してる?」
「は、い。」 微かに、でも確かに聞こえた。
「それなら何故、あちら側の窓を開いたの?」
「...怖かった、から。」

 

怖いって、一体何が?
あちら側の窓を開いて見えるよりも怖いものが、こちら側にあるのか。
ナオ自身があの霧の中で『怖い』と言っていたのに、それよりも?
「ユウ君、考えた事はない?『失う位なら手に入らない方が良い』って。」
!!何故それを? 耳の中で響く心臓の音。少し息が、苦しい。
「あります。ていうか、いつもそう思ってました。あの島でナオに会うまでは。」
「嘘は駄目。今はもっと強く、そう考えてる。」
「嘘じゃ、ありません。」 やっぱり息が苦しくて、口の中が乾く。
「それなら何故、自分の言葉で伝えなかったの?」 「それは。」
「分からないなら、教えてあげる。伝えて、拒まれるのが怖かったのよ。
『恋人ではなく、妹でいたい。』という答を、何よりも君は怖れた。」
いくら陰陽師でも、こんな...一体この人は。

 

「責めてる訳じゃない。あなたもナオちゃんも以前辛い境遇にあった。
ただ、幸せは絶対に手に入らないと諦めている人に、幸せを失う恐怖はない。
辛い境遇にいた人ほど、幸せを手に入れて、それを失うことを怖れるものだわ。
でも、あなたの恐れが、臆病さが、この娘をこんな風にしてしまった。」
「ちがい ます。私。」
「いいえ、違わない。」Sさんはナオを見詰めたあと、オレに視線を戻した。
「ユウ君は男の子で、あなたより年上。何より自分の言葉に責任を持つべきだから。」
そう、オレは男で、ナオより年上。でもオレの言葉の責任って。
「もう一度言うけど、君を責めてる訳じゃ無い。
自分からは指一本触れず、この娘を大切にしてきた不器用さは、むしろ好ましい。
実際、最初の内は問題なかった。でも、この娘が成長すれば問題が起こる。
当然よね。大人になれば誰でも、『自分は何故此処にいるのか』と考えるものだわ。
『妹』でも『娘』でもない人間が、何時までも此処にいて良いのかって。
それに辛い境遇から助けてもらって、大切に育ててもらってる。
この娘の立場からしたら、自分の望みを口にするなんて、出来る筈がない。」

 

突然、ナオの頬を涙が伝った。
何でオレは、それを考えてあげられなかったんだろう。
ナオが大好きで、ナオの事を一番に考えているつもりだったのに。
「あの日『一生この娘を守る』そう、言ったわね。今も答えは同じ?」 「はい。」
「なら伝えるべきよ。どんな立場で守るのか。
何故傍にいてほしいのか。それを、自分の言葉で。」
Sさんは立ち上がり、ふわりとテーブルを回り込んでナオの背後に。
かがみ込み、耳許に何か囁くと、ナオはゆっくり立ち上がった。
これは、Sさんの術? オレは何を。

 

『君の望みを言葉にすれば良い』

空気が大きく揺れて、眼が眩む。振り向くと、Rさんの笑顔が目の前にあった。
右肩に添えられた手が、じんわりと熱い。
「失って悲しいなら、その望みが本当に大切な証。悲しみが深い程、ね。
でも、真に君たちが怖れるべきなのは、魂の絆を失うことをこそ、だ。さあ。」
のろのろと、オレの身体が動いた。数歩、ナオの顔が、身体が目の前にある。
そっと、抱きしめた。柔らかくて、でも氷のように、冷たい身体。
オレの望み、それは。
「ずっと一緒にいたい。恋人になりたいけど、なれなくても良い。
ナオちゃんが一緒に暮らしてくれるだけで、オレも父さんも母さんも幸せだから。」
腕の中で、ナオの身体が弾けた気がした。

我に返る、腕の中の温もり。その身体はもう、冷たくない。
オレ達は山道の路肩に停めた車の中にいた。
「夢?」 「夢じゃ、ないです。」
そうか、車は脇道の入り口を向いて止まっている。
あの霧に包まれた時とは逆。それなら多分、夢じゃ無い。
ふと、背後に感じる気配。そっとバックミラーを見た。
車の後、十数m。濃い、白い霧が蟠っている。
「ナオちゃん、あれ、見える?」
「はい。色々なものがボンヤリと。」 「怖くないの?」
「悪いものじゃないって。それに、ユウさんが、ずっと守ってくれるから。」
「そうだね。ずっと、ね。」 「はい。」

 

「ナオを引き取る時、養子にしなかったのは、
何時か2人がこうなってくれることを願っていたからだ。
でも、それがナオを不安にさせていたとしたら、本当に申し訳ない。」
「いいえ。お父さんの気持ちを理解できなかった私が、悪いんです。」
「それで、ナオは本当に良いの、相手がユウで?
育てて貰った事に負い目を感じて、無理する必要はないのよ。
もちろんユウは私たちの自慢の息子だし、2人が婚約すれば
ナオは本当に私の娘になるんだから、こんなに嬉しい事は無いけど。」
母の声はもう調子外れではない。その言葉の、温もり。
...そうか、『対症療法』でなく『根本的な策』。Sさんの言葉の、もう1つの意味。
過ごした時間の中で、母はナオをもう『身代わり』でなく、自分の『娘』として。
不器用で臆病なオレ達が、本当の絆を結ぶまでの『対症療法』。

 

一緒に暮らし始めてから、母と父はナオに幸せな『幻影』を見ていた。
それは心を病むほどに切望した、娘。それは妻と息子の心を癒してくれる、魔法。
何よりオレ自身が、母の歪んだ愛情を引き受けてくれるナオに、頼り切っていた。
それらの幻想が、ナオを追い込んでしまったのか。

 

「私、この家に来た時、とても嬉しかったです。初めて、幸せだと、思いました。
お父さんもお母さんもユウさんも、みんな本当に優しくて。でも、暫くしたら、
どうしてこんな私を大事にしてくれるのか分からなくなったんです。
ユウさんが大好きで、ずっと一緒にいたい。でも、言えなかった。
私は何も持ってないし、お金や時間の事でどれだけ負担に。そう、思って。
でも、間違ってた。お父さんもお母さんもユウさんも、
私を本当に。それを、疑うなんて。」
母は立ち上がった。ナオの隣に座り、肩を抱く。
「間違ってたのは私の方。女の子が、欲しかったの。
ユウを愛していたけど、どうしても女の子が。でも、無理だった。
だから、ナオがこの家に来てくれなかったら。私、本当に狂っていたと思う。
今も私がユウの母親でいられるのは、ナオのお陰なのよ。」

 

きっとSさんとRさんには分かっていたんだろう。
オレ達が『根本的な策』に耐えられるほど強くはないと。
でも今は違う。一緒に過ごした時間が、みんなの心を結び合わせた。
きっとそれが、Rさんが言った『魂の絆』。

 

「本人達の提案に、保護者2人も同意してる。婚約は成立、だよね?」
「あなた、ユウは勘違いしてるみたいよ。」 「勘違いって。」
「ユウ、将来の、仕事の事をどう考えてる? まさか、経済的な基盤もなしに
父さんと母さんの宝物を自分に任せろと言うつもりじゃないだろうな?」
「...今は婚約。大学を卒業したら就職して、
それからちゃんと結婚を申し込む。それなら良い?」
「まあ一応婚約には同意しよう。でも、もし卒業後もフラフラしてたら
即婚約破棄。ナオの結婚相手は父さんと母さんが探す。良いな。」
「そんな。だって」 「大丈夫。私、信じてます。ずっと。」
「ナオ、これからもユウのこと、お願いね。」
「はい。ありがとう御座います。」
ナオは微笑んだ。島で2人きりで魚を釣った、あの時のまま。

 

「ナオ、ホントに行くの?さっきの港で、あの銀ピカの魚沢山釣ったんだから
もう十分じゃない?みんなでお茶してさ、色々話そうよ。久し振りなんだし。」
「私は見たいな~、今度の場所で釣れる魚はもっと大きいんでしょ?」
「うん、スズキはタチウオよりずっと重いから、迫力あるよ。」
「じゃあ決まり。釣りしながらでも話は出来るし。
嫌なら久美は車で待ってればいいじゃん。」
「ユキ、真理子。車出してるの私だよ。この、恩知らずどもが。」
「恩知らずって...私たちみんなナオに勉強教えて貰ったでしょ。
ええっと、一番世話になったのは誰だっけ。こんな時こそ、恩返しよね。久美?」
「ぐぬぬ。」 「ケンカ、しないで。釣れなかったら、お茶しよ。」

 

「川沿いに並ぶ、オレンジ色の街灯が川面に反射して。
そこに浮かぶシルエット。ナオはスタイル良いから、絵になるな~。」
「そうね、持ってるのが釣り竿じゃなければ、もっとね。」
「ま~だ言ってる。あきらめが悪くて、しつっこいのも相変わらず。」
「投げて、巻いて。投げて、巻いて。ず~っと繰り返し。何が楽しいんだか。」
「それが、良いんだと思うよ。何も考えずに、頭真っ白にボーッとしてさ。」
「ユウさんが、同じ事言ってた。」 「何?ナオは違うの?」
「ずっと考えてるから。どうしたら魚が釣れるかって。漁師はそれが仕事だし、
ボーッとなんかしてられない。ホントにボーッとしてたら、危ないよ。」
「は?漁師?」 「そう、私、島では漁師だったの。物心着いたときから、ずっと。」
「あの、ね。無茶振りやめてよ。漁師だなんて、どんなリアクションしたら。」
「あ、来た!」

 

「嘘、もう5分過ぎたよ。一体、どんな魚?」
「しっ、気が散るでしょ。黙って。」 「そ。」 「でも、こんなの。」
「大丈夫。真理ちゃん、タモ。あの、その網取って頂戴。」 「はい、今すぐ。」
「うわ!何この魚。メッチャでか。」 「ナオ...凄い血。グロいよ。」
「こうした方が美味しいの。命を頂くんだから、美味しく食べないとね。」
「あんた何者? もしかして、ホントに、漁師?」
「そう言ったでしょ。お祝い事があるから魚が必要だったの。
自分のお祝いは、自分で。このお魚たちのお陰で、きっと美味しい料理が作れる。
きっとユウさんも、喜んでくれる。」
「ユウさんって、あの人だよね?ユウが下宿してる親戚の、年上で。」 「そう。」
「じゃあ『お祝い事』って、何?」 「結婚するの。」
「???」 「結婚?」 「ユウさんが?誰、と?」 「私と。」

 

「詳しく、聞かせなさいよ。何でそんな大事な事、今まで黙ってたの?」
「だって、みんなに会えなかったから。ずっと前に婚約はしてたんだけど、
ユウさんが大学卒業して就職したから、お父さんとお母さんが許してくれたの。」
「アンタね...私たち、どうしたら良いのよ。
それがホントなら、何を置いてもお祝いしたかったのに。」 「そうだよ。」
「ホントに?」 「え?」
「お祝いに出席して欲しいって言ったら、みんなで来てくれる?」
「当たり前でしょ。」 「絶対行く。」
「私たちみんなナオにどれだけ助けられて、なのにこんな...。」
「ううん、みんなに助けられたのは私。
みんなが友達にしてくれたから、今の私がある。ホントに、ありがとう。」
「馬鹿馬鹿馬鹿。何でアンタは、いっつもそうなの?」
「久美、泣きすぎ。メイク流れてるよ。」 「どうでも良い。真理もユキも同じじゃん。」
「これじゃ、お茶するの無理だね。きっとお店の人もお客さんもドン引き。」
「ナオ、あんた。」 「...ええと、あの、冗談だから。」
「うんうん、ナオは冗談なんて、言った事なかったね。さ~て。」

 

 

『霧』 完

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

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