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『卯の花腐し』藍物語シリーズ【8】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

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『卯の花腐し』藍物語シリーズ【8】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物
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藍物語シリーズ【8】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『卯の花腐し』

 

 

梅雨の走りの雨が、昼前からずっと降り続いていた。

雨音に混じって、俺のいる車道と交差する横断歩道の
歩行者信号が青になった事を知らせる電子音が聞こえている。
俺はSさんに頼まれた買い物を終え、お屋敷へ帰る途中。
既に夕方で車の流れはやや渋く、列をなすテールランプが明るさを増していた。
その時、何か白いものがロータスの助手席側を通った。
子犬だ。
きょろきょろしながら車道の端を危なげな足取りで進んで行く。
半年程前からこの交差点の近くでよく見かけるようになった。
首輪が付いているし、ころころ太って毛並みも良いから飼い犬だろうが、
あれじゃ何時事故に遭っても仕方がない。何故ちゃんと繋いでおかないのか。
子犬を見かける度、俺は飼い主に対して軽い憤りを感じていた。

 

前方の信号が青になった。少しして車の列が流れ始める。
「あ!」
車道から横断歩道に入り込んだ子犬に向かってRV車が左折していく。
巻き込まれる。あのタイミングでは到底助からない。
『轢かれた?...』 交差点を直進しながら俺は横断歩道を確認した。
血塗れの子犬の轢死体を見るのは胸が痛むが、確認せずにはいられない。
!? RV車の通り過ぎた横断歩道に子犬が立っていた。すぐに俺の後ろの車が左折する。
しかしその後もバックミラーには横断歩道に立つ子犬の姿が映っていた。まさか、何故?
そういえばあのRV車も、俺の後ろの車もほとんど減速しなかった。
まるで子犬など全く見えていないように。いや、それよりも。
あの子犬は、半年前から全く成長していないではないか。
そして、この雨の中、その毛並みは全く水を含んでいなかった。
何故気が付かなかったんだろう?
『幽霊?子犬の...』

 

Sさんについて本格的な修行を始めてから、
以前は見えなかったものが俺にも少しずつ見えるようになっていた。
『本当に幽霊がいるならそこら中が幽霊だらけだろう』
そういう意見は昔からあるし、それは確かにもっともだが
実際に普段の生活の中で見かける幽霊の数はそれほど多くない。
ましてや犬の幽霊なんて、今まで一度も見た事が無かった。
あれは本当に犬の幽霊だったのか?動物の幽霊なんて存在するのか?
動物の幽霊が存在するなら、それこそそこら中が霊だらけの筈ではないのか?
自分の眼で見たものが半ば信じられないまま、俺はお屋敷に向かって車を走らせた。

 

「あの、話は変わるんですけど。」 「何?」
夕食後、リビングで俺とSさんは他愛ない話をしながらハイボールを飲んでいた。
姫は既に翠を抱いて自分の部屋に戻っている。2人とも、もう寝た頃だ。
Sさんは何か考える事があるのか、今夜は特に姫を追いかけたりはしなかった。
「動物の、例えば犬の幽霊って、いるんですか?」
「いることはいるわよ。でも数はとても少ない。」 Sさんはハイボールを一口飲んだ。
「動物は幽霊になりにくい、とか?」
「説明が難しいけど、『人間の心との関わり』があった動物だけみたいね。幽霊になるのは。
そしてそれが『良い関わり』か『悪い関わり』かで幽霊の性質は全然違ったものになる。
良い関わりなら御利益をもたらし、悪い関わりなら祟りをなす。ま、程度の問題だけど。」
「普通の、野生の動物は幽霊にはならないんですね。」
「そう。それにしても少なすぎると思わない?」 Sさんの眼が輝いた。
「動物の幽霊だけじゃなく人の幽霊も、何故そこら中が幽霊だらけじゃないのかしら?」

 

Sさんがこんな顔をするのは俺に何かを教えようとする時だ。必死で考える。
「ええと、例えば相当な恨みをもって死んだ人じゃないと幽霊には、でも、それだと。」
「そう、恨みをもって死んだ人だけが幽霊になる訳じゃない。
もしそうなら、戦場の跡なんてそれこそ幽霊だらけのはずなのにそれほどでもない。
逆に思い残す事など無いはずの人が幽霊になって現れたという話も普通にある。」
恨みでも、思いの強さでもないとしたらそれは...
「幽霊になりやすい人と、なりにくい人がいるってのはどうでしょう?」
「素敵、今夜も冴えてるわね。ほとんど正解。」
Sさんは俺の頭を軽く撫でてから、ハイボールをまた一口飲んだ。
「もう数百年も前の先祖の時代から、私たちは魂の性質を『霊質』と呼んでる。
人によって体質が少しずつ違うように、人によって霊質も少しずつ違う。
そしてごく稀に、幽霊になりやすい霊質の人がいる。
そういう人の魂は肉体との結びつきが少し弱くて、場合によっては肉体が生きている内から
何かのきっかけで魂が肉体を離れて活動することがある。いわゆる『生き霊』がこれね。
おそらく『飛頭蛮』や『ろくろ首』も多分生き霊から派生したイメージだわ。」

 

「生きている人の霊質を見分ける事は出来るんですか?」
「霊質の違いは微弱な信号として肉体に現れる。それが『気紋』。」
気紋、聞いた事のある言葉だ。胸の奥が痛む。あれはいつ、何処で聞いたのだったか。
「高位の術者やうまれつき資質を持っている人なら、気紋を感知して識別できる。」
Sさんは俺の眼を見つめて微笑んだ。「例えば、あなた。」
思い出した。確かにあの時Kは、俺が『気紋』を識別できると言い、それを不思議だと言った。
「お母様があなたの感覚の一部を封じた代わりに、気紋を感知する感覚が鋭くなったのね。
あなたは無意識に気紋を感知して識別してる。私の『百合の花に似た香り』みたいに。」
「百合の花の香りって!それは。」
会話の途中でSさんが俺の心を読んで先回りするのには慣れっこだがこれには驚いた。
その香りについて、今までただの一度も、話題にしたことはなかった。それなのに。
「私を抱きしめてくれる時、あなたの心には必ず百合の花のイメージが浮かぶ。
そのあとでラベルに百合の花がデザインされた化粧品や香水のイメージ。
でも、私は普段化粧をしないし香水も使わない。」
「じゃあ、あの香りは?」
「あなたは感知した気紋を無意識に五感の嗅覚に置き換えて認知してるってこと。
女性の気紋を花に例えて分類するのはとても古くからある手法だし、
真っ白な百合の花に例えられるのは、女として悪い気分じゃない。」
そういえば俺は姫のイメージが昼咲月見草に似てると書いたことがある。もしかしてあれも。

 

「ところで、今夜、犬の幽霊の話を持ち出したってことはあなたにも見えるのね。
○町南交差点辺りの、あの白い子犬。」
!! 心臓が止まるかと思った。
「驚きました、図星です。どうして分かったんですか?」
心なしか、Sさんの表情が曇ったように見えた。
「あの子があそこに現れるようになったのは去年の9月頃。
今、あなたの行動範囲に現れる犬の幽霊はあの子だけだからすぐに分かった。」
それならSさんは俺より3ヶ月程早く気付いていた訳だ。
「可哀相だから何とかしようと思ったけど駄目だったわ。あの子は一生懸命探してる。
自分を置いたまま帰ってこなかった小さな女の子を。
普通の人にはまず見えないし、手荒な事をするのは余計可哀相だからそのままにしてるの。」

 

「その女の子は、あの子犬の飼い主、ですか?」
「それは分からない。あの子の記憶の断片に女の子の姿が見えただけ。
夕暮れ時、迷って不安だった自分を抱き上げてくれたこと。それがすごく嬉しかったこと。
でも、女の子は男の人に手を引かれてどこかへ行ってしまった。」
「女の子のお父さんが迎えに来たんでしょうか?」
「それも分からない。ただ、あの子は一生懸命女の子を探して...」
Sさんは言葉を切って、小さく息を吐いた。
「あの交差点で事故に遭ったんですね。それで。」
「そう、だからいつも大体同じ時間、夕方に現れて繰り返してる。
女の子に会った場所からあの交差点までを。女の子にもう一度会いたい一心で。」
「何時か女の子に会えたらあの子犬も?」 「本当に、そうなれば一番良いんだけど。」

 

Sさんはハイボールの残りを飲み干して小さく伸びをした。
「さて、眠くなってきたから私の話も聞いてね。」 「勿論です。」
「明日、依頼人に会いに行く時、私と一緒に来て欲しいの。」
「新しい依頼があったんですね。僕で良いんですか?Lさんじゃなくて?」
「今はお社の管理だけだけど、修行の進み具合によっては別の仕事の依頼も来ると思う。」
「...僕への仕事の依頼ってことですか?」
「そう、実を言うともう何十年も前から術者の数が足りなくて、慢性的な人手不足なの。
その時のために、あなたの適性を調べておきたい...そうしないと心配で堪らない。」
Sさんは右手でそっと俺の左頬に触れた。
「適性に合わない仕事を受けるのは、特に初めのうちは本当に危険だから。」
もし、仕事の依頼が来れば名実ともに俺は一族の一員と言うことになる。
ならこれは俺にとって、チャンスと考えても良い筈だ。
勿論、不安もあるが、Sさんが俺に期待してくれているということだから。
ぴいん、と、気が引き締まるのを感じる。下腹に力を入れた。
「わかりました。一緒に連れて行って下さい。」
「うん、良い返事。じゃ、明日に備えてもう寝ましょ。」

 

 

次の日も、朝から結構な勢いの雨が降り続いていた。
ただ、土曜日なので姫の大学は休み。皆で食後のコーヒーを飲んでいる。
姫はコーヒーを飲み終わると翠を抱いていそいそとリビングを出て行った。
俺とSさんが出掛けるので、今日は一日翠の世話を任されるから姫は上機嫌だ。
姫がリビングを出て行った後、Sさんは棚のファイルから一枚の紙を取り出した。
「R君、これ、読んでみて。」
新聞の記事をコピーしたものだ。余白に4月28日(月)と書き込みがある。
ゴールデンウィーク前半の日曜日、女の子が一人行方不明になったことを伝える記事。
川沿いのキャンプ場で家族と一緒にバーべーキューをしていたのだが、
両親がちょっと眼を離した隙にいなくなったという。川で遊んでいる姿を見た人がいて、
深みにはまったのではないかと捜索が行われたが手がかりは無かったらしい。
俺もその記事を憶えていた。皆でAさんの温泉旅館に出掛ける前のことだった。
あれから半月以上経つが続報は無い。おそらく今も女の子は行方不明のままなのだろう。
「その子の遺体が見つかったんですって。捜査上の理由で公表されていないけど。」
「やっぱり水死、ですか?」
「違う。絞殺されたの。つまり事故ではなく殺人。

 

「遺体が見つかったのはキャンプ場の裏手の山、歩いて10分程入った山道の脇。
そこに埋められていた遺体を警察が発見した。5月12日、月曜日ね。
それで一昨日、『チーム榊』のボス、榊さんから依頼があった。」
「チーム榊って...警察なんですか?」
「そう、ボスの榊さんが凄い人でね。昇進の話も沢山あったみたいだけど、
全部断って現場で第一線に立ち続けてる。
榊さんを慕って優秀な部下が集まってくるからチーム榊って呼ばれてるの。
迷宮入りしそうな難しい事件ばかりを担当してるのに
検挙率は90%以上、本庁からも注目されてるみたい。」
「もしかして後の10%が...」
「ご名答。たまたま成立してしまった完全犯罪、それから、人外の影響を受けている事件。
そんな事件に関する依頼があれば出来るだけ協力してる。捜査方針についての助言をしたり、
事件解決まで操作に協力したり。今回は事件解決まで協力して欲しいという依頼。」
たまたま成立した完全犯罪の証拠探しで俺の適性を調べることはないだろう。
「先月の事件には人外の、その、霊的な影響を受けているんですか?」
「詳しいことは榊さんから聞きましょう。そろそろ時間だわ。出発は10分後ね。」

 

お屋敷を出てから約一時間、Sさんは市街地を挟んでお屋敷とは丁度反対側にあたる
郊外の建物の駐車場に車を停めた。駐車場入り口の門柱に小さな桜の紋章がある以外
警察の建物には見えない小洒落た感じで2階建ての建物。
Sさんは建物正面のドアを抜け、廊下を歩いて突き当たりの部屋のドアをノックした。
「どうぞ、待ってたよ。」
Sさんはドアを開けて部屋の中に入った。俺もSさんに続く。
大きな机が幾つか並んでいるが、一番奥の机以外に人の姿はない。
一番奥の机から男性が立ち上がり、俺たちに近づいてきた。これが、榊さん?
背は俺より少し低いが肩幅の広い、がっちりした体格だ。
「榊さん、お久しぶりです。」 Sさんが軽く頭を下げた。俺もSさんに続いて礼をする。
男性は『おや?』という顔で俺を見た。
「久しぶり、Sちゃん。今日のアシスタントはいつものお嬢ちゃんじゃないのかい?あっ!」
男性は俺に歩み寄り、僅か30cm程の距離からしげしげと俺を観察した。
ち、近い。近すぎる。思わず半歩後ずさる。

 

「うーむ。Sちゃんはウチの息子の嫁にと思っていたが...先を越されたか。」
いきなり大きな両手で右手を握られた。
「榊健太郎。Sちゃんにはかれこれ10年近く世話になってる。以後宜しく。」
「Rです。宜しくお願いします。」 「うん、良い面構えだ。」
榊さんはもう一度、ギュッと力を込めて俺の手を握ってから踵を返した。
「後はそっちで話そう。資料を取って来る。」
万事心得ているのだろう、Sさんは応接セットのソファに腰掛けた。俺も隣に座る。
Sさんが俺の左耳に囁く。 「榊さんには息子はいないの。だから気にしないで、ね。」
「あ、はい。大丈夫です。」
なら息子って榊さんの部下の事じゃないかと思ったが、Sさんの言うとおり気にしない事にした。
しばらくして榊さんが大きな封筒が幾つか入ったダンボール箱を持って戻ってきた。
その箱をテーブルに置いて俺たちの向かいに座る。
「さて、それじゃ始めようか。」

「最初の事件は一昨年の10月だ。隣の△県で6歳の女の子が殺された。」
最初の事件?先月の事件以外にも事件が起きているということか。
「目撃者も遺留品もほとんど無くてな。迷宮入り間違いないってことでウチに回ってきた訳だ。
その事件を引き受けたのが去年の4月。そして去年の5月、この町で2つ目の事件が起きた。
7歳の女の子が行方不明、現在も見つかっていない。親族の意向で公にされなかったから
この事件を知っているのはごく限られた人間だけ。」
「2つの事件に関連があるんですか?」
俺はメモを取りながら2人の話を一生懸命に聞いていた。
「いや、なんとなく関連があるような気がしただけなんだが...
とりあえず2つの事件は同一犯による連続殺人として捜査を進めた。
そして容疑者を絞り込んでいるうちに起きたのが先月の事件だ。」
「最初は川の捜索をしたんですよね。」
「ああ、一応はな。でも多分水死じゃないと思ってた。これは3つめの事件だと。
とりあえずマスコミには水死の線が強いって情報を流しておいて捜査を進めたよ。
それで健脚自慢の部下を一人だけ、キャンプ場辺りの捜索にあたらせた。
そいつは警察犬を連れてキャンプ場の裏山を虱潰しに歩いたそうだ。
あそこは山道が整備されててトレッキングの客も多い所だから
物々しい捜索をすれば犯人に感付かれるかもしれんからね。

 

そして捜索を始めて2週間目、女の子の遺体を発見した。
遺体は山道から少し林の中に入ったところに埋められてたよ。
埋められた穴が浅かったから警察犬が嗅ぎ付けた。だからおそらく単独犯。
そして、その遺体と最初の被害者の遺体には共通点があった。」
榊さんは一旦言葉を切り、ダンボール箱から封筒をひとつ取り出した。
「2人とも、かなり強い力で首を絞められて喉が完全に潰れてた。
その状態から見て犯人は左利きだ。検死の写真を見る必要はあるかな?」
「いいえ。それより、それだけの情報があればチーム榊には十分ですよね。」
「うーん、先月の事件の前に容疑者を28人に絞り込んでいた。この町にいる左利きの男、
そして何らかの形で△県との関わりがある男。この事件から得られる手がかりで
解決も近いと思っていたら、いきなり始まっちゃった訳だ。本当に参ったよ。」
榊さんはダンボール箱の中から別の封筒を取り、その中から2枚の写真を取り出した。

 

「この写真を見てくれ。」 俺たちに向けてテーブルに写真を並べる。
一枚目の写真にはグレーのジーンズに黄色っぽいジャケット、長髪の男の後ろ姿。
二枚目の写真は同じ服の男を正面から撮ったものだが、たまたま通りかかった人のものか
左手らしき肌色のボケた影が写りこんで男の顔は見えなかった。
Sさんは二枚目の写真を手に取った。数秒間眺めてからその写真を俺に手渡す。
「R君、この写真どう思う?」
特に不可解な構図ではない。隠し撮りか、遠くから望遠レンズで撮ったか、いずれにしても
男に気付かれないように撮ったのだろう。たまたま通行人の手が写り込んでも不思議は無い。
しかし、男の顔にかかる手のような影に、俺は不吉なものを感じた。首筋に鳥肌が立つ。
「この、手みたいな影、凄くイヤな感じがします。」
「その通り、これは通行人の手なんかじゃない。
こんなにハッキリ写るのは珍しいけど、これは一種の心霊写真だわ。
榊さん、この男の顔はどうしても撮れないってことですね。」
「そうだ。部下が撮った写真は9枚あるが、まともなのは後ろ姿の2枚だけ。
正面や横から撮ったものは全部同じような影が写りこんで男の顔を隠してる。」
Sさんの言った『人外』という言葉を思い出した。こんなことができるのは一体?

 

「容疑者の内、こんな事が起きたのはこの男だけだ。当然この男を一番にマークした。
〇田盛司、32歳。前の職場は△県、最初の事件が起きた街。
そしてこの男は去年の4月、この街の営業所に転勤になってる。まあ、ドンピシャだな。
こいつが犯人。尻尾を掴むのも近い、そう思って安心したよ。そしたら。」
榊さんは両手でごしごしと自分の顔をこすり、ひとつ深呼吸をした。
「そしたら、マークにあたらせていた部下が入院した。無断欠勤したんで様子を見に行ったら
酷く錯乱してて、『女の子の遺体が』とか『鬼』とか言うんだが全く要領を得ない。
今は薬で眠らせてるが、元に戻るかどうかは分からないと医者は言ってる。
優秀な男だったんでウチとしては大きな痛手だし、なによりご両親に申し訳なくてな。」
「令状を取るのに必要な証拠。それと解決までの捜査協力、それで良いですか?」
「是非頼むよ。最初の被害者の家族が事件に懸賞金をかけてるから
解決すれば規定の報酬も用意できる。」
「分かりました。正式に依頼を受けます。まず、写真の用意を。」
「了解。もう用意してある。」 榊さんはダンボール箱の中から小さめの封筒を取り出した。

 

「いつもと同じ〇×の印画紙。取り敢えず10枚用意した。」
榊さんは緑色の封筒の中から銀色の薄い包みの束を取り出してSさんに手渡した。
「それと、これ。」 もう一度ダンボール箱に手を入れる。
テーブルの上に並べられたのは真空パックされているらしい衣服だ。パックは3つ。
うち2つは布地がかなり汚れていた。ということはおそらく。
「この2つは被害者の遺体が発見された時に着ていたもの。
こっちは行方不明になっている女の子がお気に入りだったTシャツを借りてきた。」
「早速始めます。部屋を暗くして下さい。」
俺と榊さんは手分けして部屋のカーテンを閉めた。厚手の遮光カーテンのようだ。
蛍光灯を消すと部屋の中はかなり暗い。灯りは榊さんの机の上の小さなスタンドが1つだけ。
Sさんは衣服の入ったパックをじっと見つめている。
やがて眼を閉じ、パックの上に左手をかざした。Sさんの集中力が高まるのが分かる。
しばらくするとSさんは眼を開いて首を振った。
「おかしい。何も見えない。少なくとも先月の事件については辿れる筈なのに。」
「あの写真と同じように、何かが邪魔をしてるって事かい?」
「いいえ、違います。でも、これは...。」

 

暫くしてSさんは2つのパックを手に取った。両方とも被害者が着ていたものだ。
「この2つに、同じ女の子の気配を感じます。被害者たちとは別の女の子の気配。」
4人目の女の子?2つのパックにその女の子の気配?一体、どういうことだ?
Sさんは2つのパックを胸にそっと抱きしめた。
成る程、俺は衣服が真空パックになっている理由を理解した。
パックしていなければ重要な証拠品をこんな風に抱きしめたりは出来ないだろう。
それに強い異臭がしたりすればSさんの集中力が削がれるかもしれない。
突然、Sさんの表情が険しくなった。パックをテーブルに戻す。
そして銀色の包み、印画紙を一枚手に取った。印画紙を両掌で挟み、目を閉じる。
暫くして首を振り、眼を開けて印画紙をテーブルの左端に置く。
もう一枚の印画紙を手に取り、眼を閉じる。Sさんの集中力がどんどん高まっていく。
「力を貸して。お願い。」 Sさんは小さく呟いて手に力を込めた。
眼を開けて印画紙をさっきの印画紙の隣に並べる。
Sさんはもう一度同じことを繰り返したあと、印画紙を2枚目の印画紙の上に重ねた。
重ねた印画紙を榊さんに渡す。 「この2枚は多分使えると思います。」
「よし、早速現像させよう。」 榊さんは机に戻って電話をかけた。
「水野、現像を頼む。大至急だ、すぐに着てくれ。え、いや印画紙だ。そう、2枚。」
榊さんがソファに戻る前に廊下を走る足音が聞こえ、すぐにノックの音がした。
榊さんがドアを開け印画紙を手渡す。「大至急だが、くれぐれも慎重に、な。」 「はい。」
そんなやりとりの後、足音は慌ただしく遠ざかっていった。

 

「さてSちゃん、疲れたろう。いつものコーヒーを御馳走するよ。冷たいの、大丈夫?」
「はい、お願いします。」
「R君、君も冷たいコーヒーで良いかい?」
「是非お願いします。」 緊張していたせいか喉がカラカラになっていた。
「知り合いの喫茶店に頼んで届けて貰ってるんだ。本式の水出しコーヒー、旨いぞ。」
榊さんは部屋の隅の冷蔵庫からポットとグラスを取り出して大きなお盆に載せた。
「あ、俺が運びます。」 「そうか、じゃ、頼むよ。」
俺がお盆を受け取ると榊さんはテーブルの上の封筒を全部ダンボール箱の中に戻し、
ダンボール箱をソファの上、自分の脇に置いた。
片付いたテーブルの上にグラスとポットを並べる。
「コーヒーは私が注ぐ。こればっかりは他人に任せられん。」
榊さんはグラスを傾けてそっとコーヒーを注いだ。まずSさんの前に、次に俺の前。
そして最後に自分の前、たっぷりコーヒーが注がれたグラスが3つ並んだ。
「どうぞ、必要ならシロップもあるぞ。」
グラスは霜が付く程冷えている。氷が解けてコーヒーが薄まるのを防ぐ工夫だろう。
コーヒーはとても美味しかった。喉の奥から良い香りが鼻にすーっと抜けてくる。
「美味しい。」 「ホントに良い香りですね。」 「そうだろう、そうだろう。」
ニコニコと俺たちを見つめる榊さんは、ただの人の良いおじさんに見える。

 

俺がお代わりのコーヒーを半分ほど飲んだところで走る足音が聞こえた。
続いてノックの音。榊さんがドアを開けた。「榊さん、これ、見て下さい。もの凄いですよ!」
僅かな沈黙のあと、榊さんは興奮を押し殺すような声で言った。
「OK。水野、後で指示する。部屋で待機だ。」 「了解です。」
榊さんはドアを閉めてソファに戻り、2枚の写真をテーブルに並べた。
「久し振りに見たが、信じられん。しかも以前より、鮮明になってるような気がする。」
!! 俺は写真を見て息を呑んだ。 やはり、念写。しかもこれは...
一枚目の写真には女の子と手を繋いで歩く男が写っていた。顔もハッキリと見える。
二枚目の写真には車のドアを開け女の子を乗せようとする男。これも顔がハッキリ見える。
榊さんは段ボール箱の中の封筒を探り一枚の写真を取り出した。テーブルの上に置く。
「新聞にはわざと写真を載せなかったし、その後も情報は漏らしていない。
だから限られた人以外は顔を知らないはずだが、これは間違いなく先月の事件の被害者だ。」
確かに3枚の写真に写っている女の子は同一人物に見える。
榊さんは女の子と一緒に写っている男の胸を人差し指で押さえた。一枚目、そして二枚目。
「そして、この男は〇田だ。俺も部下と一緒にこいつの顔を見たから間違いない。
そしてSちゃんはどちらも知らないのにこの写真を撮った。つまりこの写真は、本物だ。
これがあれば間違いなく令状が下りる。」

 

『これがあれば令状が下りる』のなら、今の時点でこの写真以外に
決定的な証拠が無いということだろう。それはド素人の俺にだって分かる理屈だ。
でも、念写した写真が証拠に使われるなんて聞いたこともない。
「あの、その写真が証拠になるんですか?」 俺は思わず口を挟んだ。
いくら『本物』でも、これが証拠とは...確かにSさんの念写は本物だろう。
でも、高位の術者ならデッチ上げも可能な筈だ。それを証拠にするのはちょっと。
「もちろん裁判では使わんよ。ただ偉い人達は頭が固いから方便も必要なんだ。
もし令状が下りれば、家宅捜索で絶対に証拠は見つかる。きっと、見つけてみせる。」
「捜索はいつ頃になりそうですか?平日の昼間は都合がつけられないんです。」
そうだ、姫が大学に行く日は翠を預けられない。
だから当然、俺とSさんが2人で出掛ける訳にはいかない。
榊さんは壁のカレンダーを見た。
「来週、金曜日の夜はどうだい?5月30日だ。
それまでには俺が必ずこの男の行動パターンを調べ上げてお膳立てをしておく。」

 

「あの、杞憂かも知れませんが。」 また、俺は思わず口を挟んだ。
「今度は何だい?R君。」 榊さんが驚いたような顔で俺を見る。
Sさんは黙って微笑んだまま俺を見つめていた。
「榊さんがこの男のことを調べたら、その、今度は榊さんの身に何かが...」
「ああ、それは大丈夫だ。ちょっと訳ありでさ。」 榊さんが頭をかいた。
「榊さんの家族はかなり古い家柄でね。『護り』が強力だから影響されないの。」
「『護り』、ですか。」
そういえば榊さんはさっき『部下と一緒にこいつの顔を見た』と言った。
でも、榊さんは件の部下と違って錯乱しなかった。つまり、そういう事だ。
「俺の遠い先祖が精霊だか神様だかと契約をしたらしくてな。
相手の領域にすっぽり踏み込まなければ、大抵の事は弾いてくれてるみたいだ。
お陰で俺もこの歳まで怪我も病気もほとんどしたことがない。
それで今までこの仕事を無事に続けてこられたんだから。まあ、有り難い話だよな。」
しかし、あまり有り難そうな顔には見えなかった。

 

『契約』ってことは、榊さん側も何か大きな見返りを捧げているのかも知れない。
でも、初対面でそこまで立ち入って聞くのは、いくら何でも失礼だろう。
「済みません。そういう事情とは知らなかったので、話の腰を折ってしまいました。」
「いやいや、心配して言ってくれたんだ。感謝するよ。」
Sさんがいつの間にか取り出した手帳を確認し、何かを書き込んでいる。
「30日の夜、それでお願いします。もし予定が変わったら連絡して下さい。」
「了解だ。詳しい時間も決まり次第連絡するよ。」
「今日のお仕事はここまで。じゃR君、私たちはこれで失礼しましょう。」
俺が立ち上がりかけるとSさんが声を掛けた。
「ちょっと待って。大事なことを忘れる所だった。」
俺がもう一度ソファに座ると、胸の内ポケットから白い紙と小さなハサミ、
そしてポチ袋のような小さい封筒を取り出した。
紙を蛇腹状に細かく折り、ハサミで複雑な形に切り込みを入れる。
そしてそっと息を吹きかけた後、それを封筒に入れて封をした。
「これを田島君の枕元に置いて上げて下さい。多分、2・3日で良くなります。
退院する時、これは忘れずに焼いて下さいね。」
榊さんの『息子』は田島という名字なのだと、それで分かった。

 

Sさんから封筒を受け取り、榊さんはそれを両手で押し戴いた。
「Sちゃん、ありがとう。恩に着るよ。」
「これはサービスですから。気にしないで下さい。R君、お待たせ。」
「はい。」 俺は立ち上がり、ドアに向かって一歩踏み出した。その時、
「Sちゃん!」
榊さんの叫び声に振り向くと、眼を閉じたSさんの体がぐらりと傾いた。慌てて抱き止める。
Sさんはすぐに眼を開けたが、その顔は蒼白い。駆け寄った榊さんも心配そうだ。
「大丈夫。ちょっと立ちくらみがしただけ。」 俺の肩に手を掛けて立ち上がる。
「でも、帰りの運転はお願いね。」 「任せて下さい。」
心配そうな榊さんを駐車場に残し、俺が車を出したのは11時20分過ぎだった。

 

「本当に、大丈夫なんですか?」
まさかあの念写が禁呪ということはないだろうが。
「うん。久し振りだったし、かなり難しかったから少し消耗しちゃった。心配掛けてゴメンね。」
Sさんは右手の人差し指で俺の左頬を軽くつついた。
「ふふ、『質問がいっぱいあります』って顔してる。」
「そりゃ、あんな術を見せられたりあんな話を聞いたりして、質問がない方がおかしいですよ。」
「そうね。じゃあ3つだけ、どんな質問にも答えてあげる。」
「本当に、どんな質問にも正直に答えてくれるんですね?」
「珍しく今日は疑り深いわね。もちろん何でも正直に答えるし、
答えられない時は何で答えられないのかちゃんと説明する。それで良いでしょ。」
「本当に、本当に体は大丈夫なんですか?」
「...あ...っ」
突然、Sさんの両目から大粒の涙が溢れた。そのまま俯いて肩を震わせる。
雨粒のような滴がポタポタと落ちて、膝の上でぎゅっと握りしめた両手の甲を濡らしていく。
俺は驚いて路肩に車を停めた。
「どうしたんですか?僕何か悪いことを...御免なさい。」
Sさんは思い出したようにハンカチを取り出して涙を拭った。
「...馬鹿ね。さっきも、答えた、質問でしょ。
これで、質問が残り2つに、なっちゃったじゃないの。」
「でも、さっきは正直に答えてくれたって保証がなかったから。だから心配で、御免なさい。」
「謝らないで。ちょっとだけ、待って。」 俺の左肩に頭をもたせて眼を閉じる。
「いつまででも、待ちますよ。」 Sさんは2度、小さく頷いた。

 

遠く前方に見える信号が3度目の赤に変わったところでSさんは眼を開けた。
「泣いたらお腹が空いた。ね、もし翠の世話で手一杯だったらLは食事作れないかも。
出前取りましょうよ、お寿司の。いつもの藤◇で。回復するには沢山食べないと。」
まあ、もし姫がお昼を作っていたとしても、それは夕食にアレンジすれば良いのだし。
何よりSさん自身が食べたいものを食べるのが一番だ。
携帯で出前の手配を済ませると、Sさんはすっかりいつもの調子を取り戻していた。
「じゃ、車出して。心配してくれて嬉しかったから、特別に質問は3つのままにしてあげる。」
「ありがとう御座います。じゃ、最初の質問です。」
「どうぞ、何なりと。」
「あの写真の手みたいな影なんですけど。あれは何かがあの男を護ってるってことですか?
例えばあの男の守護霊が、あ、でも守護霊が犯罪の片棒担ぐのは変ですね。」
「R君、あなた見たことあるの?誰かの守護霊。」
「ありません。でもさっき、榊さんの守護霊も僕には見えませんでしたから。」
「確かに彼の一族は護られてるし、榊さんは跡取りだから特に手厚い加護を受けてる。
でも榊さんたちを護ってるのは高次の、途方も無く大きな力。
守護霊なんて言ったら、とても失礼だわ。それこそ恐れ多い。それにね、
今はとても一般的になっちゃってるけど...もともと一般的な意味での守護霊なんて無い。
多分守護霊なんて、憑依した悪霊が自分の悪行を続けるために
宿主を護ってるのを誤解した半端な能力者が言い出した概念だと思う。」

 

「じゃあ、あの手みたいな影は男に憑依した悪霊の?」
悪霊に操られている。それならあの男があんな怖ろしい犯罪を犯し続けるのも理解できる。
「違う。憑依した悪霊なんかじゃない。あの影は、あの男自身。」
あの男自身?あの影は生き霊ってことか、でもあの男は。
「そう、それだけこの件は深刻。本来生き霊が活動出来るのは、本体の意識が無い時だけ。
でも、あの男が普通に街中を歩いている時に生き霊が活動し、捜査を妨害した。」
「...どういうことですか?」
「悪霊に憑依されたんじゃなくて、あの男が生きたまま、その魂が悪霊になってしまってる。
昨夜話したでしょ?幽霊になりやすい種類の魂があるって。恐らくあの男の魂はその中でも
更に希な霊質を備えていたんだと思う。だから生きたまま、魂が異形に変化してしまった。
そうなると生きた人間の体にも、死んだ人間の魂にも影響力を行使できるし
本体としての意識と生き霊としての意識を、同時に活動させることも可能になる。
さて、最初の質問の答えはこれでお終い。2つ目の質問をどうぞ。」
「...自分なりに頑張って修行はしてるつもりですが、悪霊を相手にするのは初めてで
正直ちょっとビビってます。来週の金曜日、何か僕が気を付けることはありますか?」
「ひとつだけ。怖いのはあたりまえだけど『鍵』はかけないで。最初から最後まで。
そして何を感じたか教えて欲しいの。そうじゃないと適性を調べることが出来ないから。
もし本当に危ない時は私がちゃんと対応する。だから、信じて言う通りにして。」

 

少し恥ずかしかったが、ちゃんと聞いておいて良かった。
今の俺があるのはSさんのお陰、自分自身よりSさんを信じる方が俺には簡単だ。
「分かりました、約束します。惨めな姿をさらしても、見放さないで下さいね。」
「...もし適性が、なかったら...その方が、どんなにか私も、Lも」
Sさんの眼にまた涙が浮かんだので俺は慌てた。
「ストップ!涙禁止です!! 適性が無かったら僕が困ります。絶対無様なことはしません。
そのためにも3つ目の質問、良いですか?」
Sさんはハンカチで目頭を押さえ、一度鼻を啜ってから小さく頷いた。
「どうぞ。」 小さな声だ。胸の奥が痛む。
「4人目の女の子のことです。その子もあの男の被害者なんですか?」
途端にSさんの顔が厳しく引き締まった。濡れた睫も凛々しく見える。
「この件の核心に関わることだけど、その質問には答えられない。
来週の金曜日、あなた自身でそれを感じて欲しいの。だから、これは宿題。」
「それを感じるために、鍵を掛けないでおくんですね?」
「そう、これで4つ目の質問だけど、3つ目の質問の付録ってことにしてあげる。」
「重ね重ねの特別扱い、心から感謝致します。」
「いいえ、どういたしまして。」
本当はもう1つ聞きたいことがあったが、それも宿題にしよう。
俺に適性があり術者として生きていけるなら、きっと来週の金曜にその答えが分かる筈だ。
車は既に街を抜け、お屋敷に繋がる山道に入っていた。
今日もまた、雨が降っている。
『卯の花腐し』、俺は何故かその言葉を思い出した。
あれは何時、誰から聞いたのだったか。

 

お屋敷に着き、車を降りても姫の姿は見えなかった。
いつもなら、車の音を聞いたら翠を抱いて玄関先まで出て来てくれるのだが。
Sさんが鍵を開け、お屋敷の中に入る。
俺は2人分の傘の水を切り、玄関先の傘立てに立て掛けてから後を追う。
「出前、取って正解だったかも。」 Sさんが唇に指を当てたあと小声で手招きをした。
リビングのテーブルに離乳食用の食器が一揃い。きれいに空っぽだ。
ソファに姫が寝ていて、そのお腹の上に翠がうつぶせで寝ている。
2人ともちょっとやそっとじゃ起きそうにないほどグッスリ寝ているようだ。そして。
姫の胸元がはだけて、左の乳房が露わになっている。眩しい。
翠は既にほとんど離乳食への切り替えを終えていたが、
満腹になって眠くなるとSさんの乳房を恋しがってぐずる事が度々あった。
そんな時、Sさんはもう母乳の出なくなった乳房の乳首を翠に含ませる。
そうすると翠は満足して、やがて深い眠りにつくのだった。
それを見つめるSさんの優しい微笑み。良く似た充足感が姫の寝顔にも見て取れた。
おそらく今日も食後に翠がぐずったのだろう。Sさんの対応を見たことのある姫はそれで...
「はい、殿方はここまで。分かってると思うけど、これは見なかった事にしてね。」
Sさんは俺の背中を押してリビングから追い出そうとする。
「心が読めるのにそんなことしても意味無いんじゃ」
「大有りよ。『知らない振り』してくれたって、それが大事なの。女の子には。」

 

俺がリビングを出ると、車の音が聞こえた。ちょうど寿司の出前が届いた所だった。
Sさんが注文した6人前(!)の寿司に、取って置きの日本酒を添えてパーティーが始まった。
俺が1人前を食べる間にSさんと姫は2人前ずつをさっさと平らげる。
食べながら飲みながら代わる代わる翠をあやし、残りの1人前を3人で片付けた。
大学生になってから、姫も少しだけお酒に付き合ってくれるようになった。
ただ、姫の頬が仄かな紅に染まっているのがお酒のせいなのか、
それとも先刻の俺の『知らない振り』のせいなのか、それは分からない。
後片付けが終わってから着替えて、みんな揃ってSさんの部屋で昼寝をした。
Sさんと姫は翠を挟んでベッドの上、俺はソファの上。
午前中にあんな話を聞いたのがまるで嘘のような、静かな、穏やかな雨の午後。

 

激しい雨音で眼が覚めた。本当に、よく降る雨だ。
時計を見るともう5時前、さすがの雨空も少し明るくなっている。
姫は翠と一緒に自分の部屋。Sさんは昨夜もそれを止めず、微笑んで二人を見送った。
俺はSさんをベッドに残して窓から外を眺めた。宿題のことを考える。
Sさんからの宿題、4人目の女の子。そして俺自身のもう1つの宿題。
「生きたまま、あの男の魂が悪霊に変化した。」 Sさんはそう言った。
では、そのきっかけは一体何だったのか?
もともと小児性愛の性癖があり、たまたま女の子を殺したのがきっかけだったのか。
それが癖になって犯行を重ね、その度に男の魂は異形へと変わっていった。
いかにもありそうな話だが、俺はその考えをどうしても肯定できなかった。
あの女子高生の件に関わった時、Sさんは彼女が乱暴されていた事を俺に隠さなかった。
もし被害者たちが乱暴されていたなら、今回もそれを俺に話してくれた筈だ。
Sさんが話さなくても、事件について説明の中で榊さんが話してくれただろう。
人が生きたまま、その魂が悪霊に変化する程の出来事。
それが単に異常な性癖によるものとは思えない。
何処か落ち着かない、微かな違和感が俺の心に蟠っていた。

 

「ね、何を考えてるの?」
振り向くとSさんがベッドで上半身を起こしていた。ベッドに戻り、座って肩を抱く。
俺の心を読むのは簡単な筈なのに、そうしなかったのは...。
「昨日の宿題の事を、考えてました。」
「形見や名残の品があるなら別だけど、遠い魂の想いを辿るのはどんな術者でも至難の業。」
「はい、全然分からないので、もう一度寝直そうとしてた所です。」
「ね、じゃ私の気持ちを当ててみて。答えは2つ、宿題を解くための練習問題。」
Sさんは言い終わると俺の唇にキスをした。
俺はSさんの瞳を見つめた。いつも通り、黒く、深く澄んだ瞳。心の奥が熱くなる。
そうだ。Sさんはさっき俺の心を読まなかった。
もし、こんなに近くにいる大切な人の、その心も読めないのなら俺に適性などある筈もない。
「目が覚めたら、僕がベッドに居なかったのでびっくりして、少し寂しい。どうですか?」
「ご名答、残りのもう一つは?」
突然。ふっ、と、百合の花に似た良い香りが立った。強い香り、体が震える。
俺はSさんの体を強く抱きしめたあと、パジャマをそっと脱がせた。眩しい程白い肌。
そっと囁く。 「これが、答えです。」
Sさんの両腕が優しく、そして強く、俺の頭を抱き寄せた。
「正解。」

 

 

次の週の金曜日は朝から久し振りの青空。窓から朝陽が差し込んでいる。
俺が姫を大学に送って戻ってくると、Sさんは入れ違いに出掛けていった。
「今夜のために下調べと準備があるの。昼ご飯までには戻るわ。」
「僕も一緒に行かなくて良いんですか?」
「予備知識は少ない方が適性を調べるのには好都合だから。翠をお願いね。」

帰ってきたSさんが少し疲れたような様子だったので心配したが、
昼食を食べた後、いつも通りに翠と昼寝をした後はすっかり元気になっていた。

俺が姫を迎えてお屋敷に戻ったのは6時少し前。Sさんは身支度をして俺を待っていた。
俺も姫を迎える前に出掛ける準備を済ませてある。姫に翠を託してすぐに車を出した。
待ち合わせの交番に着いたのが6時25分。ドアの前で榊さんが待っていた。
「男が住んでるマンションはここから歩いて3分くらい。『シャトレ○崎』の205号室だ。
警官に事情を話してあるから車はここに置いてくれ。此処から歩こう。」
「確かに男は家にいるんですね?」
「6時前に帰ってきたのを部下が確認してる。
Sちゃんの指示通りに部下を配置したけど、本当に障りはないのかい?」
「はい、特別な結界を張ってありますから入ることは出来ても出てこれらません。
本体も生き霊も。だから大丈夫です。じゃ、出掛けましょう。」

マンションの管理人にはあらかじめ話してあったのだろう。
榊さんがインターホンで二言三言話すと、一階正面、オートロックのドアが開いた。
フロアの端の階段で2階へ上がる。階段を上って左、最初の部屋が205号室だった。
ドアから3m程の距離で榊さんが胸ポケットから封筒を取り出した。中身は多分捜査令状。
「榊さん、護符は持ってますよね。」
「ああ、部屋の中に入っちゃったらSちゃんの護符だけが頼りさ。さて、いよいよだな。」
その時、微かな金属音がして205号室のドアがひとりでに開いた。中に人影は無い。
「あれは?」
「『入ってこい』ということですね。私たちが来たのを男は知ってます。
R君、あのドアをくぐったらそこから先は完全に相手の領域。
何が見えても、何が起こっても不思議じゃない。気をしっかり持って、良いわね。」
「了解です。」
ドアをくぐり、玄関で靴を脱いで中に入る。
ダイニングキッチン。その奥に灰色のドア、男はおそらくあの中だ。
と、玄関のドアが閉まり、俺たちの見ている前でひとりでにドアチェーンが掛かった。
「おっかねぇ。」 榊さんが小声で呟く。
その時、微かな耳鳴りがした。くぐもったような雑音。いや、これは誰かの声だ。
キーンという耳鳴りに混じって聞こえる、途切れ途切れの呟くような声。
『・・・な○・ なぜ・・・だけ ・○み・・・』
「R君、どうしたの?」 「何だか、小さな声が聞こえました。雑音みたいな。」
『どうした はいってこいよ かぎはかかってない』 嗄れた声が響く。
ゆっくりとドアノブが回り、灰色のドアが開いた。やはりドアの内側に人影はない。
「行きましょう。」
Sさんを遮って榊さんが先にドアをくぐった。次にSさん、最後が俺。
部屋の中は薄暗く、男がパソコンのモニターを背にして椅子に座っていた。
まるで居眠りをしているように俯いていて顔は見えない。

 

『たてものに さいくをしたのはおまえたちだな けいさつ か』
嗄れた声は男の頭上、天井近くから響いていた。
「そうだ。令状もある。3人の女の子が殺された事件だ。心当たりがあるかい。」
『それじゃあ かんたんにかえすわけには いかないなぁ』 部屋のドアがバタンと閉まる。
空気が変わった。
体感温度が一気に下がり、部屋の中に濃密な悪意が満ちていく。
『鍵』を掛けていないから、流れこんで来る悪意に意識が飲み込まれそうだ。
目眩がして胃の中から苦いものが逆流してくる。必死でこらえた。
「しっかり、前を見て。」 耳許でSさんの声。
深く息を吸い下腹に力を入れて真っ直ぐ前を見る。
男のすぐ前に、巨大なものが立っていた。
人に近い姿だが、『鬼』という他に表現しようのない異形。
身長はおそらく3m近い、見上げるような裸身の巨体。肩まで伸びた蓬髪。
黒く汚れた大きな顔には血走った野球ボールほどの目玉、俺たちを見つめている。
そして...榊さんの部下が錯乱したのも無理はない。
4本の長い腕が胸の前で3人の女の子をまとめて抱きかかえていた。
腕の間から女の子たちの腕や脚がはみ出して力無く垂れ下がっている。
2人の女の子の顔は見えないが、1人の女の子の顔がこちらに向いていた。
苦痛に歪んだ顔。見開かれた眼は白く、表情に変化は無い。
残り2本の腕が女の子たちの髪をすいたり頬を撫でたり、ゆっくりと動いている。
巨体に6本の腕、これはまさに『鬼』そのものだ。
一体これは現実なのか、それともこの部屋を満たす悪意が見せている幻視なのか。
今、俺たちはここにいるのだから、ドアが開いたりチェーンが掛かったりしたのは現実だろう。
しかし、幾ら何でもこの異形の鬼は...とても現実のものとは思えない。

 

「やっぱり。殺した女の子たちの魂を捕らえていたのね。意識を辿れなくて当然だわ。」
『このこたちは おれのものだよ』 嗄れた声は以前より大きく、はっきりと聞こえた。
「違う。その女の子たちはお前のものじゃない。その子たちを離しなさい。」
『いや だ ことわる』
Sさんはポケットから白い小さな布袋を取り出した。
この鬼を人型に封じることができるのだろうか。それが出来れば男の本体も。
女の子の頬を撫でていた鬼の腕が一本、ゆらりと伸びて更に長く、太くなった。
座布団ほどもありそうな手が、壁際のゴルフバッグを鷲掴みにする。
ゴルフバッグは軽々と浮き上がり、俺の頭より高い位置で横になった。
ゴルフクラブがぶつかりあう重い音が微かに聞こえる。
まずい、もしこれが幻視でないとしたら。
投げつけられても、叩きつけられても、絶対に無事では済まない。
Sさんをそっと抱き寄せる。何とかして庇う方法はないか。何としてもこの人だけは。
つっ!!また、耳鳴り。耳の奥が痛む。雑音に混じる、途切れ途切れの、呟くような声。

 

『・・・な○み なぜおま・だけが な○み・・・』
この声。そうか、4人目の女の子はこの男の。俺は思わず言葉をかけた。
「なあ、あんたに聞きたい事がある。とても大切な質問なんだ。答えてくれないか?」
数秒の沈黙の後。ふっ、と鬼の腕が緩み、ゴルフバッグが床に降りてきた。
Sさんは驚いたような顔で俺を見つめている。
『なにを ききたい』
「あんたが大事に抱きしめている女の子たちの中に、あんたの娘もいるのかい?」
『な に』
「あんたが抱きしめている女の子たちの中に、あんたの娘、『な○みちゃん』もいるのかい?」
『な○み...おれの むすめ...』
俺はこちらを向いている女の子を指さした。おそらく先月の事件の被害者だ。
「少なくともその女の子は『な○みちゃん』じゃない。
残りの2人はどうだ?『な○みちゃん』はいるかい?」
『な○み おれのむすめ いない もう いない』
「あんたと別れるだけでも『な○みちゃん』は辛くて悲しかったはずだ。
それなのに、あんたの今の姿を見たら、『な○みちゃん』は余計に辛くて悲しいんじゃないか?
大事な娘を亡くして、辛いのは良く分かる。でも、だからってこんなことをするなんて。
あんたはそれで、それで本当に満足なのか?」
『...おお おれの な○み いない どこにも』
鬼は頭を抱えて床に膝をつき、床が揺れた。体は一回り小さくなったように見える。
その両目から赤黒い液体が溢れ、首から胸へと伝った。文字通り、血の涙。

 

Sさんが白い布袋の中から人型を取り出して右掌にそっと乗せた。
息を吹きかけると人型は鬼へ向かってひらひらと飛び、空中で燃え上がる。
...これは。
膝をついた鬼のすぐ前に、小さな女の子が立っていた。
鬼はぽかんと口を開けて目の前の女の子を見つめている。
腰まで伸びた長い髪。黄色のワンピース、白い靴。悲しそうな後ろ姿。
『お父さん、どうして? どうしてこんな酷いことするの?』
俺はSさんの口元を見た。一文字に結んだままだ。ということは、『声色』ではない。
『な○み それ は おとうさん が』
『お父さんが大好きだったのに。お父さんの馬鹿!私は、ずっと...』
俯いた女の子の肩が震えている。透明な雫が小さな靴を濡らした。
『お願い。もうこんな事止めて。その女の子たちを離して、ちゃんと謝って。でないと、私。』
女の子は耐えかねたように両手で顔を覆った。静かな部屋に響く小さな泣き声。
どのくらい時間が経ったのか、鬼の腕がゆっくりと動き出した。
2本の腕で女の子の体をそっと床に横たえる。
1人、もう1人、そして最後の1人。
鬼は6本の手で仰向けの女の子の髪を整え、開いていた眼を閉じていった。
『おまえが 死んだ時、お父さんは。なぜお前だけがと、そう思って。お父さんは馬鹿だった。』
鬼の体は次第に小さく萎み、その姿も人に近づいていく。

 

『俺は、他の親子を妬んだ。妬んで、憎んで。あんな酷いことを。』
鬼の腕は2本になっている。その2本の腕を床についた。
『俺はこうして、な○みに会えたのに。あの子たちは、あの子たちの家族は...』
前のめりに床に突っ伏しているのはもう鬼の姿をした異形ではなく、
椅子に座って俯いている男と同じ服を着た、痩せた長髪の男だった。
Sさんが右手に3枚の人型を掲げ、何事か小声で呟いた。
横たわる女の子たちの顔から苦悶の表情が消え、その姿は見る間に薄れていく。
黄色いワンピースの女の子が振り向いた。涙に濡れた可愛い顔。
女の子はSさんに向かって頭を下げた。
Sさんは目を閉じ、胸の前で印を結ぶ。
部屋の空気が軽くなった
この部屋を閉ざしていた力が緩み、部屋に満ちていた悪意と憎しみが拡散していく。
女の子と、床に突っ伏した男の姿も消えた。

 

「あなた達は警察だと、そう言ったよな?」
椅子に座って俯いていた男が、顔を上げて俺たちを見ている。
「俺は、3人の女の子を殺した。逮捕して、くれ。」
言い終わると男の体は床に崩れ落ちた。
榊さんが男に歩み寄り、膝をついてその体を抱き起こす。
「おい、どうした。大丈夫か?」
「今は意識を失ってるだけです。でも、その男の体はもう...。」
榊さんは右肩に軽々と男の体を担いで立ち上がり、左手で電話をかけた。
「もしもし。おう、もうほとんど解決だ。容疑者を確保した。
意識がないからマンションの裏口に車を回してくれ。そこまで俺が運ぶ。」

 

歩きながら榊さんが独り言のように呟いた。
「こいつ、軽いな。この男が娘を事故で亡くしたのは2年前だ。
子を失った親の気持ちは骨身に染みてたはずなのに、何故あんな事を。全くやりきれん。」
Sさんが小さく溜息をついた。
「娘を亡くした事を受け入れられず、悲しむことも出来なかったから。
泣いて、叫んで、ちゃんと悲しむべきだったのに。
それが出来ていたら、2人の間に『通い路』が開いたはず。
この男の霊質なら、通い路を通して娘の魂とその声を感知できたかもしれません。
でも、この男は悲しむ代わりに他人を妬み、そして憎んでしまったんです。
『自分たちはこんなに不幸なのに、何故他人は幸福なのか?』それで。」
「それで他人にも同じ不幸を、と?」 「そうです。」
榊さんの溜息は大きく、深かった。
「この世に鬼を生み出すのは、やっぱり人の心、なんだな。」
「人の心ではなく、人の心に宿る『業』ですね。」
裏口の外に背の高い男が立っているのが見える。
榊さんがドアを開けた。 「この男だ。頼む。」
「Sちゃん。ありがとう。」 榊さんは振り向いてSさんの手を握り、次に俺の手を握った。
「R君も、ありがとう。何かあったらまた宜しく頼むよ。」
榊さんは俺の背中をぽんと1つ叩いてドアをくぐり、
インターホンで少し話してから早足で車に向かった。

 

俺たちは正面入り口に戻り、マンションを出た。
交番の中の警官に会釈をして車に乗り込む。警官は少し驚いた顔をした。
俺たちと榊さんが此処を出てからまだ30分も経ってないのだから驚くのも無理はない。
「こんなに早く捜索が終わるなんて思わなかったでしょうね。」
「もしあの男が罪を認めたら、なるべく早く調書を取った方が良いと
榊さんに話してあったの。多分あの男の体はあまり長く保たないから。
本格的な家宅捜索は、きっと来週以降になると思う。」
写真に写った影、ドアや鍵の開閉、なによりあの鬼の出現。
一体どれほどのエネルギーを要しただろう。生身の人間には、あまりに大きな消耗だ。
修行を重ねた術者ですら、限度を超えて消耗すれば回復出来なくなる、
つまり死ぬことがあると聞いていた。まして普通の人間では。
この事件の裁判は開かれない、何となくそんな気がした。
「それにしても早く済んだわね。まだ7時ちょっと過ぎよ。あなたのお陰。」
「僕のって、どういう意味ですか?」
文字通りよ。この件はあなたが解決したようなもの。だから榊さんはあなたに
『また宜しく』と言ったの。少なくとも榊さんには術者として認められたってこと。

 

「でも、僕はただ、話しかけただけで。」
「それがあなたの力。あなたの適性は『言の葉』、あなたは『言祝ぐ者』。
記録には残っているけれど、現在の術者でこの適性を備える者はいない。
あれ程強力な言霊、実際に見るのは初めてだったから本当に驚いた。」
これまで色々な術を見せて貰ったが、言霊を使う力なんて聞いたこともない
「言霊が、僕の力と何か関係あるんですか?」
「あなたが無心に、そして心から発する言葉には言霊が宿る。
だからその言葉は、言葉の向けられた相手の心に届いて、そしてその奥底に染み込む。
普通、妬みや憎しみで凝り固まった人の心は何重にも『鍵』をかけた状態になる。
だから他人の話を聞かないし、聞こうとも思わない。
だからあの男は自分の傍にいた娘の魂に気付かず、その声は男の心に届かなかった。
でも、あなたの言葉は届いた、ただの一度で。そして自分の罪とその重さを悟らせた。
私は解放された女の子達の魂が不幸の輪廻に取り込まれないようにしただけ。」
「言霊の力って、Lさんの『あの声』と同じようなものですか?」
「確かにどちらも術者の声を触媒に使うけど、系統が全く違うわ。
Lの術はL自身の意志で相手の心や体を操作出来る。だから幻覚を見せるのも簡単。
でも、あなたの力はあなたの意志で言霊を操作する事は出来ない。
それに言霊は言葉の真の意味を相手に届けるだけ。どう反応するかは相手次第。」

「僕の意志で操作できないなら、あんまり役に立たないような気がするんですが。」
「何を罰当たりな事言ってるの。さっきだって、あなたの力がなかったら
2人の魂は救えなかったかも知れないのよ。2年前、事故で亡くなったあの子の魂は
父親への愛着からこの世界にとどまっていた。親子だから、おそらく霊質も似ていたのね。
でも、さっきも言ったように、妬みと憎しみに狂った父親の心にあの子の声は届かない。
愛する父親が女の子を殺して異形に変化していくのを、あの子はただ見ているしかなかった。
異形に変化した魂は、普通の魂と存在の仕方がずれてしまうから、
あの子の魂に気付く可能性はゼロ。あの子の魂は男の部屋に入ることすら出来なくなった。
今朝私が此処に来た時も、あの子はマンションの入り口に佇んでた。
魂が酷く傷ついていて、いつ不幸の輪廻に取り込まれてもおかしくない状態だった。
愛する父親が女の子を殺す場面を3度も見たのだから、当然と言えば当然だけど。」
「もしかして、あの写真はあの子の?」
「そう、あの子の力を借りてその記憶を焼き付けた。一番新しい、鮮明な記憶を。」
「あの男はキャンプ場の駐車場に停めた車に女の子を連れて行き、絞殺したの。
遺体は夜のうちに裏の山に埋めた。皆、河の事故だと思ってたから駐車場は盲点になってた。
夕方、それらしい女の子が一人で河遊びをしてたと証言したのはあの男よ。
あの子はその一部始終を見てた。そして父親がこれ以上罪を重ねるのを止めるために
私に力を貸してくれた。父親への愛着のあり方が変化したのを示す良い兆候。」
そうか、だからSさんはあの子の魂を人型に封じてあの部屋へ連れて来たきたのだ。
異形に変化した父親に会わせて未練を断ち切り、中有への道を開いてあげるために。
「出来れば手荒な事はせず、自ら納得して旅立ってもらう方が良い。
そして男にも、自分の罪を認めてから地獄へ...」
Sさんは言葉を切って小さく息を吐いた。
「あなたの言葉が切っ掛けになって男は微かな正気を取り戻した。
だからこそ娘の姿を見、その声を聞くことが出来たのよ。
結果的に男は自分の罪を認めたし、女の子も自分の気持ちに区切りをつけられた。
私も何とか男を説得しようと思ってたけど、あれほど上手くやれる自信は無かったわ。」

 

Sさんは右手を俺の左手に添えた。
「それからね。これでやっと分かった。
術を仕込まれていたせいで異性に全く反応しなかったLが、あなたにだけ反応した理由。」
そういえば...
姫との初対面の日、俺は自転車修理のバイトをしながら
何となく気まずい『間』を埋めようと思って俺は好き勝手に喋り続けた。
俺の自転車のこと。それから修理した自転車が姫には乗りにくいのではないかということ。
あの時、ただ無心に喋り続けていた言葉にも、言霊が宿っていたのだろうか。
「それから、あなたが『下心もあります』って言った言葉が少しも不愉快でなく、
むしろ率直な愛情表現として、私の心に響いたこと。
あなたの力はほとんど発現していなかったから感知できなかったけど
あの時の言葉にも、きっと微かな言霊が宿っていたんだわ。」
もしかしたら俺は言霊の力で2人を...腹の底がヒヤリと冷たくなるのを感じた。

 

「そのせいでLさんも、Sさんも、僕の事を」
「違う。さっきも言ったでしょ。言霊は言葉の真の意味を相手に伝えるだけ。
どう反応するかは聞いた人が決めること。Lも、私も、自分で決めたのよ。」
「でも、もしこの力がなかったら、2人は僕の事を好きには、痛。」
思い切り左頬をつねられた。
「少し余計に時間は掛かったかも知れないけど、それでも絶対好きになったわ。絶対にね。」
Sさんの、自信に満ちた言葉を聞くと暖かい気持ちになる。これも、言霊だろうか。
「さて、適性も分かったし、正式に『裁許』を受けなきゃね。早速手配するわ。」
「あの、『裁許』って?」
「一族の当主様か、代理の方にお目通りして、正式に一族の術者として修行を続ける
許可を頂くの。明日からその時のための『誓詞』を練習してもらうわよ。」
Sさんの笑顔はとても満足そうだった。

 

 

翌々日の日曜日、俺たちは榊さんからの電話であの男が死んだことを知らされた。
昨日は自ら望んで丸一日供述を続けたが、今朝、独房の中で冷たくなっていたという。
そして、男の供述通りの場所から、二人目の被害者の遺体も見つかったことも。
「絶対に許せない罪だけど、最後にその重さを自覚したのだからまだ救いがある。
たとえ地獄で過ごす途方もなく永い時間の果ての、蜘蛛の糸程の救いだとしても。
R君、手伝って頂戴。タイミングを計りかねていたけど、あの男が死んだなら今日が潮時。」

 

図書室の中のドアの向こう、畳張りの広い和室。
その奥の板張りの部分に設えられた3つの小さな祭壇、それぞれに人型が祀られていた。
Sさんはそれぞれの祭壇の前で丁寧に鎮魂の儀式を行い、
人型を白い布で出来た小さな袋に納めていく。袋の口は赤い紐で閉じられた。
事故で亡くなった女の子が一人。娘を亡くして狂った男に殺された女の子が三人。
そして三人を殺した男の魂は生きながら悪霊となり、
自らの憎しみと呪詛が生み出す負荷に耐えられず、精魂尽き果てて死んだ。
もともとに悪意があって仕組まれた事件ではない。なのに失われた5つの命。
おそらく最初の事故がなければ、5つの命は失われなかった。
父親として、今回の一連の事件は他人事では無い。
姫と比べてSさんが笑うほど、俺は翠を溺愛しているからだ。
もし事故や病気で翠を失ったら、俺は狂わずにいられるだろうか。
勿論、俺が狂ったら、罪を犯す前にSさんは俺を殺してくれるだろう。
それが俺とあの男の違いで、俺は幸運だ。でも、確かな違いはそれだけ。
こんな悲しい事件が起きるのは、やはり人の心の弱さ故なのだろうか。
この世に鬼を生み出すのは人の心に宿る『業』だと、Sさんは言った。
そして俺はあの時の、『業からは逃れられない』という母の言葉を思い出した。
『業』とは一体何なのか、それは『不幸の輪廻』とどう関わっているのか。
Sさんの後ろ姿を見ながら、そんな事を考えていた。

 

その日の午後。Sさんと俺は、雨の中半日かけて車を走らせた。
運転手は俺。Sさんは後部座席に座り、三方に乗せた3つの白い袋を護っている。
まずは隣の△県。最初の事件が起きた街へ向かう。Sさんの指示通り
閑静な住宅街の一角で車を停めた。一際大きな家が見える。
榊さんから聞いたのか、それとも女の子の記憶を辿ったのか、確かめる気にはならない。
女の子の家族にも、犯人が逮捕され事件が解決したことは伝えられているだろうか。
もし、大罪に自らの魂を蝕まれた犯人が事件の供述を残して死んだことを知ったら
女の子の家族は一体どう思うだろう。
Sさんはマセラティの後部座席に置いた大きな貝殻の中で最初の人型を焚き上げた。
「もし迷うと可哀相だから、出来るだけ帰る場所の方が良い。」 独り言のように呟く。
「迷ってしまうことも、あるんですか?」
「大人なら大丈夫だけど、子供だし。それに、事情にもよるから。」
珍しくSさんの歯切れが悪い。この件についてこれ以上の質問はNGだ。

 

再び県境を越えてお屋敷に近い街に戻ってきた。雨足が強まっている。
Sさんは市内にある一軒の家を指示したが、その家に着くと思い直したように
その家から少し離れたアパートの駐車場を改めて指示した。二枚目の人型を焚き上げる。
「事件の起きた順番、なんですか?」
「そう、苦しんだ時間が長い子から、楽にしてあげるべきだから。」
Sさんの顔が、少しだけ翳ったように見えた。
最後の家、向かいの道路に停めた車の中で三枚目の人型を焚き上げる。
既に4時半を過ぎ、辺りは薄暗くなり始めていた。お屋敷に向けて車を走らせる。
Sさんは助手席に移り、黙って窓の外を眺めていた。
もうすぐ市街地を抜けるという時、俺は不思議なものに気が付いた。
前方50m程先の歩道あたり、そこだけまるで陽が差しているように明るい。
「Sさん、あれ。あそこだけ陽が差してます。」
前方に視線を移したSさんの顔が、一瞬で緊張した。小声で指示を出す。
「あそこで、車を停めて。」

 

その場所まで進み、ウィンカーを出して路肩に車を停めた。花屋の看板が見える。
やはり、歩道のその一角だけが明るく照らされていた、そして。
子犬...
花屋の看板のすぐ脇で白い子犬が嬉しそうに尻尾を振っていた。
この雨の中、その毛並みは水を含んでおらず、
行き交う通行人は誰一人として不思議な明るさにも子犬にも頓着してはいない。
そうだ、この次の交差点は『○町南』。
Sさんはじっと窓の外の子犬を見つめる。俺も質問を飲み込んで子犬を見つめた。やがて。
子犬のすぐ前、地面近くに小さな白い両手が見えた。
一段と嬉しそうに尻尾を振る子犬を、その両手が優しく抱き上げる。
子犬が花屋の看板と同じ位の高さに持ち上げられた時、女の子の全身が見えた。
白地にピンクと黄色の水玉模様のTシャツ。紺色の半ズボン。青い靴。
笑顔で子犬に頬ずりをする女の子の姿が、一瞬強い光に包まれ、視界が白く遮られた。
視界が戻ってきた時、子犬を抱く女の子の姿は既になかった。
ただ、雨の夕方の薄暗い歩道を、幾つかの傘がすれ違うのが見えるだけだ。

 

「二人目の、女の子だったんですね。あの子犬が待っていたのは。」
Tシャツの柄に見覚えがあった。あの時の、真空パックの中身だ。
榊さんが行方不明の女の子の親族から借りてきた、女の子のお気に入りのTシャツ。
「あの女の子は両親を亡くして親戚に引き取られたけど、そこにあの子の居場所はなかった。」
その子の失踪は親族の意向で公にされなかったと榊さんは言った。
そしてSさんは、あの家の前からアパートの駐車場に指示を出し直した。
それぞれの意味が俺の心に染み込んで来る。 寒い、俺の服は濡れていないのに。
「あの子にとっても、自分を慕ってくれる子犬は、とても大切な記憶だったのね。」
「あの子がここに現れると、分かっていたんですか?」
「いいえ。あのTシャツを見た時、子犬が待っている女の子は
二番目の被害者だと分かったけれど、まさかここに現れるとは思っていなかった。」
「『稀な霊質を持ち、人間の心との関わりがあった動物だけが幽霊になる』、そうでしたね。」
「そう。おそらくはたった一度、長くても数分。でも、それは本物の、心の触れ合いだった。」
Sさんはもう一度窓の外を見た。相変わらずの雨。
「『卯の花腐し』、そして『卯の花下し』、今は梅雨本番。
このところ本当に雨が多かった。この事件で流された沢山の涙に天が呼応していたのかしら。
早く、梅雨が明けたら良いわね。もう誰も、涙を流さずに済むように。」

 

 

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

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