『繋がり』|洒落怖名作まとめ【長編】

『繋がり』|洒落怖名作まとめ【長編】 長編
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繋がり

 

これは私が、いや、正確には母が半年前から9月の終わりごろまでに経験した話。

今年の7月某日、もろもろの事情で、私は結婚を前に実家へ一度帰省するため
アパートから引越しすることになりました。
父は仕事の繁忙期でこれませんでしたが、母が有給をもらって、代わりに来て
くれました。
母は去年から体の調子が芳しくなかったのですが、とにかく外で遊ぶのが大好
きな人で、今年の5月にトルコ旅行なんぞに行くような、本当に活力あふれる虚弱体質の人です。
さらにいうなら何もないような場所でよく転ぶ、おっちょこちょいな人でもあります。
荷造りのときも10センチの段差しかないアパートの玄関で派手にスッ転んでました。

私のアパートがあった某所は海と山に囲まれた比較的のどかな場所
(相手の家の地域)で、高速を走らせればすぐにK野やおI勢さんにいけるよ
うな立地の場所でした。
そんな場所ですから、旅行好きで観光大好きな母親が行動を起さないはずもなく。

「M(私)さん!お母さんちょっとK野古道めぐりいきたい!」

ちょっとK野古道めぐりってアンタねぇ、なんて思いもしましたが、
言い出したら聞かない人ですし、行かない!なんて私がごねて後から
ネチネチ文句言われるのもイヤだしなぁ、という思いもあり、とても
すごく遠回りですが引越しの荷物(クロネコさんの単身パックから
あぶれ出た荷物)をひっさげて、K野古道とN智大社、周辺のお社
へ行くことになりました。
旅なれた母はあれよあれよと言う間に宿を確保し、いきたい社と
観光スポットをググって決め、出だし快調に出発しました。

母は特定疾患の関係で少々膝を傷めていましたが、山岳用の杖を駆使して
N智の滝とN智大社をすべて回り(私は翌日筋肉痛で泣きました)
N智大社すぐしたのK野古道の看板(?)のところで記念撮影をしてから
お宿へ行きました。
メインの道路からはずれたところにあるその宿、いや、宿というよりホテル
に近い感じでしたけれど、とにかく泊まる予定の場所は
リアス式港のすぐ横をせり出た感じに立っている古めのお宿でした。
本来なら16時にはチェックインできる予定でしたが、N智大社の階段を
下りるのにおもったより時間を食ってしまったのでついたのは18時を
まわっていました。7月ですからちょうど夕暮れで、山間に沈む夕日が赤々と綺麗でした。
案内された宿は本当にオーシャンビューで、2人で泊まるにはちょっともったいないような、
トイレとお風呂のついた和式のお部屋でした。

ここでかなりテンションのあがった私と母は、お泊り荷物セットの片付けもそこそ
こに写真を撮り始めました。
とにかく部屋のいたるところを私はとり、母は窓から見える景色をしきりに
撮っていました。

ちょうど夕日が完全に沈み込んで、母が夕日と海の写真を「綺麗綺麗!!」と
キャイキャイいいながら撮っていたときです。
突然ピタッと不自然に、母は喋るのをやめました。
不審におもって「どうしたの?」と声をかけると、母は突然カーテンをシャッと閉めました。
無言で反対側のカーテンもシャッとしめて、母はニコッと笑いました。

「ん?ああ、ちょっとはしゃぎ疲れちゃったから、温泉いこうとおもって!」

母にしては奇妙な笑い方だった気がしますが、まあ確かに歩きつかれたことも
ありましたし、一応曲がりなりにも虚弱体質な母を思えばそうなんだろう、と
そのときは納得して一緒に温泉へ浸かりにいき、布団も敷いて就寝の運びとなったのですが。

電気も消してさあ寝るぞ!となったところで母が突然

「Mさん、ちょっとあなたのバックかしてくれない?」
「なんで?」
「添い寝するから」

意味がわかりませんでした。
けれども母はしきりに私のバックと添い寝したがってましたので、まあ、
そういうこともあるかもしれない、と無理やり私自身を納得させて、
私のバッグを母に貸し与えて就寝しました。

その晩、私は付属してるお風呂場のほうから変な気配を感じて、薄目を開けました。
私はあんまり霊感のあるほうではないのですけれど、そこに何かいるとか、
気配を読む(?)ことが稀にあるので「あー、何かいるんだなぁ、まあ古そう
なお宿だし、いても可笑しくないよね」と特に怖がりもせず結論付け、
一応母の方を確認しようと寝返りを打ちました。
母は私のバックを何か大切な宝石箱でも守るような形で横抱きに抱え込み、
私のほうを向いて(左半身を天井に向けて)寝ていました。
何かおかしい、どうしたんだろうこの母は。
そもそも何で私のバックなんか抱えるなんて言い出したんだろう、と
このときになってようやく考え出しました。

 

□ □ □

母が抱きしめている私のバックは外行き用の小さめのバックで
(母から言わせれば「ずた袋」だそうですが)母の友人の小物屋さんから
母が買い、私にくれた物でした。
特に何かいわれがあるとかいうものではありません。
中に入ってるものも特にこれといったものは入っていません。
お財布にお化粧品とスケジュール帳と、実家の方でいつもお世話になっている
天狗様のお守りとおI勢さまの鈴守りとN智大社で買ったお守りとN智の滝の杯しか・・・。
そこまで考えてから、母はもしかして、この大量のお守りに用があったのかもしれない、
と思い至りました。
それから、そういえば母がこの部屋に持ってきた荷物には、母がいつも持ち歩いているお守りの類が一切なかったということも思い出しました。

何かあったことは明白なのですが、霊的な対処法に疎い私には何もすることが
思いつかず、とりあえず明日も早いだろうからそのまま寝ることにしました。

朝起きて一番に、昨日感じた変な気配のことと、何があったのかを聞きました。
母は苦く笑いながら「写真撮ってたときに」と口を開きました。

「完全に日の沈んだ後、海を撮ったの。そしたら、ギャアアアアアアアアア!!って
なんか、動物が絞め殺されるような、地を這うような変な声が聞こえちゃって、
なんか怖くなって。お母さんのお守り全部車の中に置いて来ちゃってたから、
Mさんの借りちゃった」

思い出すと鳥肌が立つ、といって、母は私に腕を見せてくれました。
紛うことなきチキン肌がそこにありました。
その時撮った写真は怖くてデータが消せない、とのことだったのでそのままに
してありますが、何のことはない真っ暗な水面の写真です。
特に何か写っているということはありませんでした。

このときに、その写真を払うか何かすれば、もしかしたらあるいは、
何か変わっていたのかもしれません。
けれど私も母も、このときは、まさかこんな大事になるなんておもっても見なかったのです。

少し怖い体験をしましたが、日も完全に昇って朝飯を食べてしまえば
もうすでにその話題は笑い話になってしまい、私たちは一路N智大社
周辺のお社様めぐりへと向かいました。
といっても、今日は実家に帰らないといけないのでどうしても母が行きたがった
女性の神様が祭られているお社へ赴きました。
併設してお狐様も祭られていたので、何かとお狐様にはいつも助けてもらって
いるので挨拶もかねてそちらも行きました。

女性の神様が祭られているお社は、早い時間だったからなのか神主さんも
巫女さんも居らず、お守り処もしまってましたが、とにかく中へ入りお参りへ行ってきました。
真っ白い石がしきつめれた不思議なところで、お供えされた色とりどりの花が綺麗な空間でした。
そこでお御籤を引くと母は大吉で「大病は治る」と書かれてました。
(ちなみに私は末吉で、騒ぐんじゃない。もっとしっかりしろ。とお叱りを受けました・・・)
きっと特定疾患のことだな、とおもって「よかったねー!」といいながら一路実家へ向かい、
無事実家へたどり着くことができました。

□ □ □

実家に帰ってきて2日後、勤め先の病院で母が倒れました。

左足の膝から下が2倍以上に膨れ上がり、歩くことはおろか、立ち上がることすら
出来なくなってしまったのです。
病名は蜂巣炎、それも早期発見したのにもかかわらずの劇症で、即日入院してしまいました。
入院して次の日、父と私は主治医に呼び出されました。

「K(母)さんのことですが、あまり芳しくありません・・・。原因がわからないんです」
「え・・・あの、病原菌とか、検査結果は・・・」
「出てきた膿をシャーレで培養してみましたけど・・・死滅したものばかりでした。ちなみに、Kさんは最近転んだり傷をつくったりしません
でしたか?」

いわれて、そういえば引越しの手伝いに来たときに玄関でスッ転んでたっけ、と思い至りました。

きっとそれだとおもって主治医にいうと「恐らくそのときできた傷口から病原体
が入り込んだのでしょう。病原体は不明ですが」とのことでした。
それから入院の日程が未定なことや、これからの治療法などを話し、
最後に、先生は大変言いづらそうな顔で言いました。

「このまま劇症が続くようなら、左足を切断します」

めったに泣かない父が、泣きました。

その横で私はあの女性の神様が祭られているお社で母が引いた、
あのお御籤を思い出していました。

「大病は治る」そう書いてあるのを思い出したんです。

妙な確信の元に父を慰めた私は主治医に、その切断の話しは母にするのか、
と聞きました。
すると主治医は苦笑いをしながら「したんですけど」となにやら歯切れの悪い言い回しをしました。

「現実味のない話ですから、アレなんでしょうけど、Kさん「あ、そうなんですか?まあでもたぶん大丈夫です」なんていうんですよ・・・」

あ、これは、母も「治る」という妙な確信をもってるな、と。

実際に、母はあれだけの劇症にもかかわらず、左足を切断せずにすみました。
まあ、発症した箇所がまるで火にあぶられて焦げて炭になった肉のようになってしまいましたが。
けれども病状は平行線をたどり、3週間の入院が1ヶ月に伸び、
2ヶ月に伸び・・・夏だった気候は、とうとう秋(といっても残暑厳しい秋でしたが)になってしまいました。
その間にもいろいろと原因となってる菌の解析は進んでいましたが、どうにもこうにも決定打がなく、
原因不明のまま。
どれが効いているのかもわからない抗生剤を3種類、24時間点滴する生活が続いていました。

いくら母が虚弱体質といっても、どうにもおかしい状態が続いたある日。

「なんかねえ、どうにもあれさぁ、”繋がってる”感じがあるんだよ」

と、入院生活にめちゃくちゃ飽き飽きしていた母が愚痴でもこぼすかのように
つぶやきました。
曰く、例のあのキモチワルイ叫び声の主と限りなく細い糸で繋がってる感じがする、と。
なんとなく私もあのキモチワルイ叫び声の主が一連の原因なんじゃないかなあ、
とはおもっていたので「ああ、そっかあ」と頷きました。
頷いたところで、知り合いに霊的な対処法に強い人なんていないし(強い人は身内にいますが、払えない人なので)どうすることもできない
のですけれど。

考え抜いた末に、私は私自身が最強だと思っているのお守りを持っていくことにしました。
何かとお世話になっているお狐様を母の病室に持っていくことにしたのです。

といってもこのお狐様、社に入っているようなお狐様ではなく
(ちなみに屋敷守としてのお狐様も家にはいますが、今回はその方ではないです)
私が物心つくころから20ウン年間大事にしている、亡くなった祖母から貰った
狐のぬいぐるみなんですが。
このお狐様関連のお話はまあまあ結構あるのですが、それはまた機会があったときにでも。

とにかくその日、お狐様に「母さんが良くなりますように」とよくよくお願いしてから
お狐様をバックの中に入れて、母の病室に行き、徐にお狐様を取り出して「はい」と
母の左ひざの上に(布団の上から)乗せました。
母は「その子持ってきたの?」となにやら苦笑していました。
どうやら母は天狗様のほうを持ってくるのだと思っていたらしいです。

(ちなみに天狗様のお面をお借りしてくることも考えましたが
私は背が低くて神棚に祭ってある面に手が届かなかったのであきらめたという経緯があります)
なんやかんや世間話をしてる中ずっとお狐様を乗せておき、そろそろ帰ろうと
思い立って、お狐様を持ち上げた瞬間に、ゴロゴロゴロドォオオオンっていう感じで、
雷が落ち鳴り響きました。
びっくりして窓の外を見ましたが、雲ひとつない快晴です。

「・・・あれ?いま、雷落ちた?」
よね?と母を振り返りましたが、母はキョトンとして。

「え?別に?何いってんの?」

確かにあの時私はゴロゴロゴロという地響きのような音と、バリバリバリとも
ドォオオンともピシャアアアンとも聞こえるような、あの
雷がものすごい近くに落ちたときの音を聞いたというのに。
腑に落ちないながらも、まあ、たぶん、きっと気のせい。ということにして、
お狐様を胸抱え込んでお狐様の頭を2,3回撫でてからバックにしまいこんで帰宅しました。

その日から、母の平行線をたどっていた病状が急に回復へと向かい
(主治医も舌を巻くような回復っぷりで、もしかしたらこのまま一生
車椅子生活かもなんていわれていたのに、1週間後には病院内をさっさ
か歩けるまでになってしまいました)、10月に自宅療養へ移行、
11月には見事職場復帰を果たしてしまいました。

□ □ □

ちなみに母の感じていた”繋がり”ですが、回復へと向かい始めたあたりから
感じなくなったとのことでした。
やっぱりあの私の聞いた雷の音のようなものが関係しているのかなあ、なんて
思っているのですが、母は信じてくれません。
あと発症した箇所がまるで火にあぶられて焦げて炭になった肉のようになった
のは、母に大吉をくれた女性の神様が、清めて焼いてくれたんじゃないのかなぁ、
なんておもっています。(火を司る神様にも近しい方でしたし)

そんなわけで一連の騒動は幕を閉じ、いろんな方々に守ってもらったらしい母
も今は隣の寝室でのん気に鼾をかいて寝ています。
ちなみに原因となった例のキモチワルイ声の主ですが、未だわからずじまいです。

実は私のとった部屋の写真に真っ黒いゴリラのようなサルのような形の変な
モノが写りこんでいたので、もしかしたらソレが声の主かもしれませんね。

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