仏壇守(ぶつだんもり)
その仏壇は部屋の中央、入り口正面の壁際にあった。
衣装ダンスを二周りほど大きくしたその黒い箱の両脇には、デスクが二つ箱に向けて置かれていた。
これらは総務1課長、2課長の席である。
彼らの部下達は、仏壇に向けて机を並べていた。つまり課長席とは90度向きが異なる。そして1課、2課の間は通路になっているため、部屋を開けるとまっすぐに仏壇を見据えることになる。あるいは見据えられることになる。
仏壇は格別に色の濃い黒檀で、表面に精巧な彫り物が施されているが、金具は取っ手と蝶番以外何もなく。全くの黒一色である。
そしてその扉は閉ざされている。常に閉ざされている。
この部屋の部署に配属された者は最初にこう言われる。
「決して触れるな。決して聞くな。決して語るな」
こうしてこの部屋には線香も花も供えられない仏壇があるのだった。
島崎も異動するなりそう言われ、最初こそ面食らったものの、慣れてしまえばどうということもなかった。課長の席の向きが変だが、課長に書類を見せている間にこの課で一番かわいい(だから一番前の席なんだろう、課長め)三波さんが隣に見れてかえっていいくらいだ。
雑務に追われ、たまには同僚と飲んで、ごくごくたまには合コンもして、そして最後には寂しく一人ワンルームマンションに帰る日々だった。
雑務と言いながら時には至急に対処しなければならない仕事もあり、そういう仕事が溜まって残業になることもある。
「お先、明日までな」と課長に言われて、島崎がひとりぼっちになったのは9時を回ったころだった。
「これ、徹夜じゃねぇの」
他人事みたいに言ってみて、却ってひとりげんなりする。そんなのやってられない。
11時になる頃、一段落というよりも仕事に飽きて、ゆっくり伸びをした時、例の仏壇が見えた。
会社に仏壇?
日常の喧騒が消え去り、闇夜をわずかに電灯が照らすのみの今初めて気付く。なんだってこんな異常な事を今まで見過ごして来たのだろうか。自分自身の思考の不可解さに首の周りが気持ち悪く感じられた。
そっと席を立つ。
仏壇の前に立つ。自分の背より高いそれは、ひどく精神的に圧迫してくる。
軽く、ゆっくりと、触れてみる。
しばらくそのまま動かない。何もない。当たり前だ。
今度はじっくり撫でてみる。ひんやりと冷たい。そう言えば細かい彫刻に埃が積もっていない。誰かが掃除しているのか?あんがいあの掃除のおばちゃんだったり。
「決して触れるな。決して聞くな。決して語るな」
そらぞらしく抑揚を込めて呟いてみる。
「だいたい目障りなんだよな。部屋のど真ん中にありやがって」
両手が取っ手の鉄の輪に触れる。
開かずの仏壇。中身には全く興味が沸かなかったが、今まで開いたところを見たことがない仏壇を今日、こんな日に開けてみるのは面白いと思った。
しかし見た目が随分古めかしい。開けないんじゃなくて、もう開けられないんじゃないのか?
すっと手を引く。と簡単に開いた。
中には・・・何もない。いや、ひとつだけある。位牌だ。
もうここまで来ると何も怖くない。手に取って見てみる。何も書いていない。
無記名の位牌が壇上に1つ。隅から隅まで眺めたが、巨大な空間にあるものはそれだけだった。
なんとなく白けた島崎は扉を閉め、仕事に戻った。徹夜にはならず最終電車で帰れた。
翌日島崎は異動を言い渡された。
昨日の仕事を意気揚々と渡したところでのカウンターパンチだ。しかも北海道の聞いたこともないような名前の支店だ。
「か、課長、俺が何を?」
「それは君が一番分かっているんじゃないの?」
今日中に荷物をまとめるようにと冷たく言われて追い払われた。
三波さんを見るといつもの笑顔で返してくれただけだった。
独身者だからといってあんまりだ。組合か?裁判か?机に向って怒りを煮詰めこんでいると、知らない宛名のメールが来た。
「3F東端の喫煙室」
それだけの内容だった。
しかし何か頭の隅にまとわりついてくるような気がした。
3Fの喫煙室。
島崎は煙草を吸わないので、煙まみれの異常な部屋にげんなりした。
なんとなく席に座っていると向こうが声をかけてきた。
伊藤と書かれた社員章をぶら下げたその男に促されて部屋を出ると、煙のいくらかも外にあふれ出た。それを通りがかりの女子社員が煙たそうにはたいていく。
「喫煙者は今では最悪の悪役だよ」
伊藤はそういって口だけで笑った。かけているメガネは分厚すぎるのか、レンズに直接目を描いたジョークグッズのように見える。
連れられた小部屋には、テレビやビデオデッキらしきものから編集機器まであるようで、まるでテレビの編集室みたいだ。うちの会社とは畑違いもいいところだが。
その部屋の真ん中のクッションのよくきいた席に伊藤は座り、島崎にはパイプの丸イスを勧めた。
ひどい無精ひげを掻きながら話し始めた。
「君もこのままでは納得いかないだろう。まず俺だが、単なる観察者だ。つばめの巣作り、アサガオの成長、超新星を観察する奴もいるらしいな。この辺りでは明るすぎて無理だろうが」
「いらついていて気長に付き合ってられないんだが」
「まあ待ちなって、話には順序ってのがある」
伊藤がリモコンの1つを操作する。
するといくつも積み重ねられたテレビの1つが点灯する。映っているのは、
「あんたの部署だ」
確かにその通り、天井の片隅から部屋全体を映している。そして例の仏壇が見える。しかし社員の姿が見当たらない。いや、一人だけ机に向って仕事をしている社員がいる。その席はそう、島崎本人の席である。
テレビ内の島崎は大きく伸びをして、席を立った。
そしてゆっくり仏壇に近づいていく。
これは昨日の夜の映像だ。
やはり今朝の異動は仏壇が関係しているのか?しかしなぜ?
「もう1つも見てみよう」
伊藤が別のリモコンを操作すると、今映っているものの左側のテレビが点灯する。
こちらは真正面に仏壇が映っている。このアングルだと部屋の出入り口の真上にカメラがあることになる。そんなところにカメラがあったか?島崎は見た記憶はない。いや、確か空調のフィンがあったはずだ。その中に?
やがて左側のテレビにも島崎が映り、仏壇の前で立ち止まった。
そして仏壇の扉がゆっくり開かれる。
「ここからだ」
伊藤が左側の画面を指差す。
すると、仏壇の内部から黒い靄のようなものがあふれ出してきた。
それは重みがあるかのように床に溜まり、島崎の足のところで両脇に分かれてさらに先へと流れだす。
画面を見ていた島崎が驚いて右側のテレビを見る。
こちらではそんな黒い靄など見えず、ただ緊張感もなく仏壇を覗き込んでいる島崎が見えるだけである。
もう一度左側を見ると、二つの流れになった黒い靄は、先端が合流するところだった。1つになった流れはしばらく続き、突如三つ又に流れが変わる。
「ああ」
思わず島崎が呻いた。
三つ又になった流れはそれぞれ、右手、頭、左手の形になったのだ。根元の二つの流れはちょうど足に見える。島崎がそれに気付いた時、靄の動きが変わった。
右手に当たる部分が床に手を付き、そこから靄全体が前に進んだのだった。腹ばいのまま手足を前後させ前に進んでいく。その動きはヤモリか何かのように見えた。
「こっちのカメラは特注でね。人間に見えない波長の光も捉えるんだ。まあ、それだけじゃなくて特別なチューニングを施しているけどね。ま、人には見えないものが見える」
島崎には伊藤の言葉がほとんど頭に入ってこなかった。仏壇からはさらに黒い靄が流れ出している。2体目だ。
全く同じ経過を辿って画面から消えていく黒い人型の靄。そして3体目が姿を表していた。
永遠に続く悪夢のように思えた現象は、画面内の島崎が仏壇の扉を閉めた事であっけなく終わりを遂げた。
「都合3匹」
伊藤がそう言いながらテレビを消した。そして机の上に置いてあった書類を三枚島崎の方へ投げかける。
会社向けの訃報だ。全然知らない部署の奴ばかりだ。
「死亡時刻と死因と死亡場所、死亡状況を見てみな」
・上野純平 加工食品事業部開発部主任 11時30分 窒息死 第3実験室 他の開発部員と製品開発作業中に突然昏睡状態に、救急隊員の到着時には既に死亡。
・高原幸太郎 ゲノム作物事業部副事業部長 11時42分 動脈瘤破裂 事業部長室 事業部の重役会議で発言中に即死。
・川辺喜一 瑞鶴警備派遣 11時35分頃 脳挫傷 巡回中に行方不明。他の警備員が捜索の結果、コンクリート製柱に頭部からぶつけた状態で発見。
島崎は眩暈がしてきた。
確かに時計を見ていたから覚えている。仏壇を開けたのは11時過ぎ。仏壇から這い出した黒いモノは3体、死人が3人。偶然で片付けるわけには・・・
「あいつらが憑き殺したんだ」
伊藤はあっさりと言う。
「つまり、俺のせいだっていうのか?」
伊藤が3つ目のリモコンを手に取った。
また1つテレビが点灯する。そこに映っているのはゲノム作物事業部の事業部長室だ。
事業部長を中心に年配の社員達が集まっている。副事業部長の高原がグラフや表の表示されたスクリーンを前に話をしている。
そこに例の黒い靄が、猿のように腰を曲げて二本足で歩いて現れる。当然誰も気が付かない。
黒い人型は高原に近づくと、ゆっくりと手を高原の胸に差し入れた。
途端に高原が胸を押さえて倒れる。他の連中が慌てて高原に駆け寄る。
そこで伊藤は画面を止めた。
まさか、本当に?島崎はゆっくりと伊藤を見る。「知らなかった」で済まされる事なのか?
伊藤は眉と肩を上げてみせた。
「ま、事故だわな。代々そういう扱いにしている」
内心ホッとした自分が情けなくなる。
「左遷で済むだけマシって訳か。しかし、線香を上げに行く時間もないのか?」
異動先へは明日朝に発たねばならない。
「当たり前だ。仏壇と怪死は決して結びつけられてはならない。そう決まっている。お前さんも今見た事は忘れるか、墓まで持って行くかしてくれないと困る。俺が」
「今まで何度こんなことが?」
「俺がここに配属になって5年。その間、同じ事をやらかした間抜け・・・失礼、は8人だな。人間誰しも開けるなと言われたら開けたくなるわな。しかし、あれをあそこから動かす訳にはいかない」
「動かすとどうなる?」
「余計ひどい事になる。3年前にあんたの上司の前の前の奴が『撤去する!』と叫んでな。そうやって腕を振り上げた状態で死んだんだそうだ。その後、息子に娘さん嫁さん父さん母さん、半年間で全員死んだそうだ」
「ひどいな」
「ひどいだろ?それを見続ける俺の身にもなってみろよ。こんな仕事を5年もさせやがって、ひどい会社だぜ、まったく」
そう言うと不貞腐れたようにイスにもたれ掛かる。
「大体この特注カメラを何で取り付けてると思う?何かあったら偉いサンだけ逃げようって魂胆だったのさ。だから重役室にはこのカメラが付いている。
ひどい会社だぜ。ただ、オペレーターが報告しなけりゃそれも分からない。ま、偶然早く帰っていて報告できなかったってことも、あるんじゃないの?」
伊藤がキキキと笑った。
島崎は未だ頭の中が混乱していて伊藤の言葉が頭に入ってこない。だから伊藤が、自分自身今回の一件を防げる立場にあったのを棚に上げ、タブーを犯した本人に
どうにもならないこんなものを見せ付けて楽しんでいる悪趣味に気付けなかった。
「ま、死ぬわけじゃなし、異動先でも頑張んな」
伊藤に肩を叩かれて意識が戻る。
「あ、ああ、ありがとう、教えてくれて」
ふらふらとした足取りで部屋を後にする島崎。
「死ぬわけじゃなし、か」
島崎が部屋を出た後で伊藤はそう呟き、リモコンを手に取った。
高原の死を写した画面が再生される。
倒れた高原に駆け寄って跪く社員達と反対に、黒い人型がゆっくりと背筋を伸ばした。
そしてやはりゆっくりと周囲を見回し、来た時と同じように部屋を出て行った。
「事の張本人が無事で済む訳ないだろ?せいぜい周りに迷惑をかけないように、誰もいない営業所に飛ばすわけさ。ひどい会社だぜ、まったく」
そう言いながら伊藤は陰険な笑みを浮かべキキキと呟いた。
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