いつ死んでもおかしくない
実家を改装する際に重機で庭を掘ったらお地蔵さんがざっくざく出てきて死ぬほどびびった。
何事かと思ってジイさんに尋ねたら、実家が建ってた場所ってのが昔神社だったらしい。
それを別な場所に移す金も人員もいないからってんでそのままぶっ潰してその上に家を立てたと。
神社を潰す際にもお清め(?)みたいなのも地魂祭みたいなのもやらず、家を建てた後になってやたらと
親族で人死にが出るからと近所の巫女にお祓いにいったらしいんだけど、その巫女にもどうやらお手上げされたらしい。
なんとか本家筋に生まれてくる長男だけは守ってくれ!とひい爺さんが頼み込んで、
別の拝み屋を紹介してもらい一応お祓いはしてもらったものの、紹介先の拝み屋がひい爺さんの言葉をその通りに受け取ったからか
建ってた神社が延命地蔵を祀ってたのがよくなかったのか、本当に産まれてくる子どもは軒並み本家筋の長男しか長生きできない。
多分平均寿命にしたら20歳にならないくらいだもんで、最近二十歳を迎えた俺はやたらと親やら親戚に「おまえは次男なんだから、いつ死んでもいいように生きろ」とか言われるようになってしまった。
ちくしょう先祖なんてことをしてくれたんだ。次男に生まれたことが凄い悔しい。
本にこんなことが書いてあったぞ。
寺院の日常生活を冷静に見るためにはどうしたらよいか。まずは寺社勢力が必ず関わらざるをえない
死の問題について、以下に述べる考古学の知見を、第一次資料、大前提として確認しておきたい。
フロイスは、安土築城に際し石仏の強制徴発が行われ、人々が泣き叫んだと伝えている(『日本史』)。
だがこの記事は、仏教観やケガレ観念、先祖供養、鎮魂などについての、誤ったイメージを形作る
結果になった。
まぎれもない寺院である根来寺では、暗渠の蓋として宝筺院塔の台座をいとも無造作に転用している。
また井戸を潰すために板碑を四体、詰め物としものとして使用した遺構も見つかっている。高野山
奥之院の大名墓地の背後には、五〇万基といわれる無数の廃棄された石仏がある。数少い奥之院の
発掘調査では、墓所を破壊してその上に墓所を作り、またさらにその上に墓地を造成するという錯雑
とした墓所の建設・破壊の繰り返しが見られる。これを行ったのは高野聖以外の何者でもない。
近世ではあるが先の『徳川実記』にも「古来の石塔、卒塔婆等妄りにとりすつべからず」と墓所破壊の
禁止令がみられる。
戦国大名城下町の寺院ではあるが、一乗谷の寺町地区で検出された寺跡は、幅五〇㌢ほどの溝を
越えて門に入るようになっている。その溝の蓋石には、背面を削平した石仏が裏返しにして使われている。
つまり寺に入る時、必ず石仏を足で踏みつけるわけである。
織豊時代の石垣のうち、筆者の知見では、小浜城・和歌山城に中世の石仏が使われている。また慶長
六年(一六〇一)普請開始の二条城石垣にも、数十体の石仏が使われている。このような例は今後無数に
発見されるであろう。ケガレ忌避という呪術的観念から人々は基本的に自由なのである。最も自由な位置に
いるのは寺僧、特に遊行僧、ついで行人である。
安土築城における徴発は大量で、かついまだに無縁になっていない墓塔を使ったりしたために、非難を
浴びたのであろう。
というか高野山行ってみたいと思ってたんでちょっとショック・・・
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