教師生活最大の後悔
定年近くの母が勤務している小学校の職員室に、ある日数人の子供が泣きながら駆け込んできた。
理由を聞けば、喧嘩している子がいて、助けて欲しいとのこと。
喧嘩の報告といえば、普通正義感に燃えた子供が嬉々として飛び込んでくることが多いのに、何故この子達は泣いているのだろうと母は不思議に思いながら現場にかけつけた。
理由は直ぐに分かった。
現場は血だらけで、数人の子が泣きながら口と鼻から血をぼたぼたと垂らしていたらしい。
血の隙間から見える地肌は青黒く腫れ、ただの打撲では済まない怪我をしているように母には見えた。
小学生の喧嘩と言うにはあまりに凄惨な光景に母は絶句したが、犯人は直ぐに分かった。
殆どの子供が腰を抜かしている様な状況で、クラスの子供の中でも一番からだが大きく、粗暴な口の利き方をする清助君だけが、手と足から返り血と思われる血を滴らせながら立っていたからだ。
清助君の身柄を副担任に預け、母は教頭に許可を貰って、怪我をしている子供を市営の中央病院に連れて行った。
結果、鼻の骨が折れた子供が二人、頬骨にヒビが入った子供が一人いることが分かった。
母は直ぐに被害者の親と清助君の親に連絡した。
被害者の親たちは直ぐに病院に子供達を迎えにきて、その後校長室で担任だった母と校長は、一時間ほど被害者の親たちに口汚く罵倒された。
清助君の親はその二時間ほど後にようやく現れたが、酒を飲んでいたのか呂律も回っていない様な状態で現れた。
清助君は何を言っても「むかついたから」としか言わず、酒に酔った父親が激怒し拳で殴っても、結局それしか言わなかった。
母は清助君と父親の態度でそれ以上は詮索も諦め、清助君は母のなかで暴力的で特に注意が必要な生徒ということになった。
後日、一人の生徒からの提案で、学級会で清助君は被害者の少年三人に謝らせることになった。
母はあまり気乗りがしなかったが、悪いことをしたら謝るべきだと言うその子の主張に、結局圧し負けてしまった。
つるし上げのような学級会で、なかなか清助君は謝らなかった。
なかなか謝らない清助君への非難は凄まじかったが、清助君は拳を握りしめ唇を噛んで黙っていた。
しかし根負けしたのか、清助君は最後には涙を流して謝った。
母は謝った清助君の勇気を褒めたが、クラスメイトからはまばらな拍手しか返ってこなかった。
その日以降清助君は殆ど口をきかなくなり、クラスの子も清助君にはあまり近づかなくなっていった。
母はそんな清助君の事を気にしていたが、子供達の関係には先生は極力立ち入らない方が良いと思い、見守るだけに止めた。
そのまま特にイジメになるわけでもなく、清助君は小学校を卒業した。
そして数年後、教師も定年退職し、すっかり事件の事も忘れかけていた母の元に、突然、かつて清助君と同じクラスだった教え子が訪れた。
殆ど記憶に残らないような地味な子だったはずの翔平君は、そのときパンチパーマをあて、眉毛を剃った風貌で母の前に現れた。
翔平君は礼儀正しく挨拶をすると、母に真実の告白と相談があると言って話しを切り出した。
当時、体が小さい翔平君は数人の子供達からイジメを受けていた。
それは無視などの嫌がらせではなく、遊びと称してコンパスを背中に刺されたり、足の爪に画鋲を刺されるようなイジメだった。
反抗しても人数も多く体の大きいいじめっ子にかなうはずもなく、翔平君は毎日生き地獄の様な思いをしていた。
クラスの他の子に分からない様に隠れて行われていたイジメであったため、殆どのクラスメイトは翔平君のイジメの事をしらなかったと思うと翔平君は母に言った。
母はあまりの話しに、涙を流して翔平君に詫びた。
担任として、翔平君のイジメに気付いてあげられなくて申し訳なかった、と。
でも翔平君は、今日来たのはそのことじゃないと言った。
ある日、翔平君が昼休みに足に刺された画鋲を図書室でこっそり抜いていると、たまたま清助君がその事に気付いて声をかけてきた。
初めは無視していたが、あまりに清助君がしつこいのでいじめられてることを告白すると、清助君は黙って図書室を出ていった。
そしてその後教室に帰ると、清助君がイジメっこと喧嘩をしていた。
その清助君の暴れ方があまりに凄まじく、翔平君は怖くなって真実を誰にも言えなかったと母に告白した。
「なあ先生。清助が家で虐待受けてたの知らんでしょ？あいつな、だからいじめっことか大嫌いやねん。でもな、あいつあの事件以来あんまり飯食わせて貰えなくって、あいつ今体ちっこいんや。それでな、あいつ、今中学校でいじめられてんねんで。いじめてるのは俺をいじめてた奴らやねん。ヘタレだから、あいつら体がちっこい奴しかいじめへんねん」
「なあ、先生、俺どうしたらいい？ 俺強くなったで。空手や。俺、清助を守ってあげたいんや。家でも学校でもいじめられてたら、あいつ死んでしまうよ。でもな、先生達は信じられへんねん。給食費払わんし、成績悪いから、先生達、清助を嫌ってんねん。もうな、俺が守ってやるしかないやん。なあ、先生。俺、前の清助と同じ事してもええと思う？」
母は翔平君の相談にろくな事も言えず、取り敢えず暴力に訴えるのは絶対に止めて、学校の先生達にイジメの事実を言うのが先決だと翔平君を諭した。
その時の翔平君の寂しそうな目を、母は直視できなかったと言っていた。
後日、母はコンビニの前で仲良くたむろしている清助君と翔平君を見たらしい。
清助君と翔平君が、パシリの様に顎でこき使っていたのは、かつて翔平君をいじめていた子達だったと母は言っていた。
そして翔平君の横に座り、俯いたまま胸をもまれていた少女は、学級会で清助君を謝らせるように強く母に進言した少女だった。
母は恐ろしくなって、その場から走って逃げたらしい。
きっと清助君と翔平君は今後不良として生きていくだろうし、かつてのいじめっ子は今やいじめられっ子になっている。
いじめっ子とグルだったのか本当に正義感からだったのか分からないが、当時清助君を謝らせようと学級会で事件を取り上げた少女は、恐らく性的なイジメを受けている。
教師という職業を誇りに思い生きていた母は、最後の最後に取り返しのつかない事をしてしまったと、いまわの際に涙ながらに俺に告白してきた。
母の命日の度に思い出す、俺にとって最高に胸くそ悪い話。
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