『オイラーの森』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】

『オイラーの森』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】洒落怖・怖い話・都市伝説 祟られ屋シリーズ
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『オイラーの森』

600 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:25:38 ID:6qXL85WU0

 

シンさん、そしてキムさんに暇を貰った俺は、久々に愛車を引っ張り出してロングツーリングに出ることになった。
ただ、暇を貰ったと言っても、全くの自由行動と言う訳ではなかった。
シンさんが指定した幾つかのポイント・・・所謂『パワースポット』を廻って来いという指示が含まれていた。
俺は、キムさんから念入りに『気』を取り込む行法をレクチャーされた。
旅の目的は、その時はまだ自覚症状が無かったものの、自律的回復が困難な段階になっていた『心身のダメージ』を抜く事に有った。
以前、世話になった住職の言葉を借りれば『魔境』の一歩手前の段階にあったのだと思う。
その頃の俺は、俺の身を案じてくれるシンさんやキムさんの気持ちをありがたく思いながらも、一つの目論見を持っていた。
この旅を奇貨として、失踪を図るつもりだったのだ。
自分自身の変調に自覚症状が無かった事もあるが、想定外に長くなった異常な生活に心底嫌気が差していたのだ。
嫌気が差したと言っても、辞表を出して「はいそうですか」と言って辞めさせて貰えるはずもない事は俺にも判っていた。
キムさんから貰っていた『表』の仕事のサラリーは悪くない額だった。
『裏』の仕事のギャラは不定期だったが、元の職場で10年勤めても得られない額が殆ど手付かずで残っていた。
特に使い道も無く貯まった預金通帳の残高は、5年や10年なら潜伏するに十分な額があった。
逃亡資金が尽きて、最悪、ダンボール生活に堕ちても、それはそれで構わない。
消されるリスクを冒してでも、俺は異常な世界から逃げ出したかった。
さいわい、その頃の俺に失ったり捨てたりして惜しいものなど何もなかったのだ。

そんな考えに至る事自体が『魔境』に嵌り掛けていた『症状』そのものだったのかもしれない。
俺の計画を見透かすかのように、俺の旅には同行者が付けられることになった。
同行者の名は安東 勇・・・俺の出入りしていた空手道場の練習生だった。
少年部上がりのイサムは、キャリアは長いが万年茶帯の幽霊会員だった。
顔を合わせたのも2・3度で、見覚えは有るが特に印象の無い男だった。
だが、イサムと俺には意外な共通点があった。
イサム・・・安 勇(アン ヨン)は、かつてマサさんのクライアントとして、彼の姉と共に例の『井戸』のある『結界の地』に滞在した事があったのだ。
イサムに引き合わされる数日前に、それとは知らずに姉の方とは会っていた。
マサさんに連れられて、ツーリングの道中に身に付ける『お守り』を作るために引き合わされた女がイサムの姉だった。
イサムからは『能力者』の雰囲気は感じられなかったが、姉の方はゾクゾク来る『雰囲気』があった。
彼女が発する独特の雰囲気は、そう、かつて俺がこの世界に入るきっかけとなった事件で『生霊』を飛ばしてきた女に非常に似ていた。
違っていたのは、マサさんに向ける視線が艶を含んだ『オンナ』のそれだったことだった事か?
マサさんと女の微妙な間に、『このオッサンにも春が来たかw』と思ってニヤリとしたが、あえて突っ込む事はしなかった。
詳しい事情は判らないが、マサさんにとって安東姉弟が信頼の置ける人物なのは確かだった。

幾つかの行法の指導を受け、イサムの姉にパワーストーンの『お守り』を作ってもらいながら、俺は旅の準備を進めた。
放電し切って液も蒸発し、サルフェーションを起したバッテリーを交換。
オイルやフィルターも交換して、タイヤも前後新品にした。
久々に火を入れた147馬力のエンジンは10数年落ちの車齢が嘘のように快調な吹け上がりだ。
少々煩いノイズはご愛嬌。
リアシートに荷物を括り付け、タンクバッグにはマップ。
久々に腕を通したジャケットの革が硬い。
170サイズのリアタイヤが埃っぽいアスファルトを蹴り出して、俺とイサムの旅が始まった。

基本的にテントと寝袋で野宿しながら、時には倉庫の片隅などに寝泊りしながら、俺達はシンさんに指定された『ポイント』の半分ほどを回り終えていた。
移動の便宜を考慮してくれたのか、シンさんの指定したポイントはバイク移動に支障のある場所は殆ど無かった。
だが、その場所は少々勝手が違っていた。
詳しい位置が指定されておらず『管理人』の連絡先だけが指示されていた。
俺は、シンさんに渡されたメモを頼りに管理人の熊倉氏に連絡を入れ、指定の場所を訪れた。
促されてバイクを待ち合わせ場所のガレージに入れると、熊倉氏は表に停まっていたジムニーを『乗れ』と指差した。

長身のイサムは後ろで荷物に押しやられながら「狭い!」と呻いていた。
熊倉氏は、淡々と車を走らせ、やがて山に入っていった。
かなり舗装の傷んだ道路を暫く上ると、やがて林道だろうか、車一台がやっとと言った未舗装道路に入った。
オフ車ならそれなりに楽しそうだが、オンロードバイクにはちょっと厳しい道程だ。
雨でも降れば普通の乗用車はスタックしそうだし、ランクルのような図体のデカイ四輪駆動車ではストレスが貯まりそうな道だった。
暫く進むと開けた場所に出て、山小屋が現われた。
車を降りると濃密な空気が肺を満たした。
聞こえるのは沢を流れる水音だけで、ひんやりとした空気が心地よい。
意外なことに、この山小屋は・・・いや、この山自体が榊氏の持ち物らしい。

荷物を下して山小屋に入ると、事前に熊倉氏が運び込んだのだろう、一週間分くらいの食料品が運び込まれていた。
俺とイサムが腰を下すと、熊倉氏はそのまま厨房に立ち、食事の用意を始めた。
殆ど口を開かず、神経質な雰囲気の熊倉氏は取っ付きにくい印象だった。
イサムは俺以上に居心地が悪そうだった。

囲炉裏に火を起こし、鍋を吊るした。
釜から飯をよそって食事を始めると、やっと熊倉氏が口を開いた。
「どうだ?」
イサムが「美味いです」と答えると、ニヤッと笑って「そうじゃないよ」と言って俺の方に鋭い視線を向けた。
「この山のことですか?」
「そうだ」
「自分らは、あちこち廻って来たんですが・・・この山ほど濃厚で強い『気』が満ちている場所はありませんでしたね」
「俺に『気』だ、何だといった話を振られても答えようが無いんだが、まあ、アンタが言うならそうなんだろうな」
熊倉氏は俺の顔をじっと見つめながら言った。
「シンさんから聞いてはいたんだが・・・似てるな」
「?」
「榊さんの息子は、私の学生時代の友人でね・・・シンさんも言っていたが、アンタは友人に良く似てるよ」
「そうですか・・・」

翌朝、俺達は熊倉氏に連れられて森の奥へと入って行った。
20分ほど進むと、樹齢何年になればこれほどになるのかと言う大木が現われた。
間違いなく、この山の『ヌシ』だろう。
俺は、この大木の下を修行のポイントに決めた。
3日間、朝昼晩の1日3回90分づつ、この大木の下でキムさんにレクチャーされた『気』を取り込む行法を行った。
4日目の朝、俺が『行』を行っている間、暇つぶしに付近を散策していたイサムが、慌てて俺の許にやってきた。
『行』を中断されて憮然とする俺に「先輩、こっちへ来てください!」と言って、森の更に奥へと腕を引っ張って行った。
しぶしぶとイサムに付いて行くと、熊笹に半ば埋もれた状態の『妙なもの』が現われた。
平べったい石を幾層にも重ねてコンクリートで固めた円筒は井戸だろうか?
直径1mほどの『井戸』は板状に加工された黒い自然石3枚で蓋がされていた。
更に、井戸の周囲には黒錆に覆われた鉄杭が8本。
・・・似ている。
少し形は違うがマサさんの『井戸』に良く似ている!
精神的な動揺が大きく、『行』は不可能なので、朝の行を取りやめにして山小屋に戻ることにした。
『ヌシ』の前を通過して少し進んだ辺りで、俺は突然、吐き気に襲われた。
鉄臭いニオイの後、大量の鼻血も流れ出てきた。
どうやら、そのまま俺はそこで意識を失ったらしい。
次に気が付いたとき、俺は山小屋の床に横たわっており、外は日が落ちて暗くなっていた。

「先輩、大丈夫ですか」
俺が目を覚ましたことに気が付いたイサムが声を掛けてきた。
「ああ、大丈夫だ」そうイサムに答えた後、俺は熊倉氏にかなり強い調子で尋ねた。
「あの、森の奥の井戸のようなものは何なんですか?」
「そう慌てないで、まずは飯を食ってからだ。
朝から何も喰ってないだろ?」
確かに、異常に腹は減っていた。
普段、俺は食が太い方ではないが、その時は自分でも呆れるくらいに食いまくった。
俺の食いっぷりにイサムは呆れ顔だった。
それを見越したかのように熊倉氏は普段よりかなり多めに用意したようだが、用意された食事の半分以上を俺一人で平らげていた。
食事が済んだ所で、俺は熊倉氏に再度尋ねた。
「あの井戸のようなものは何なんですか?」

熊倉氏は、暫し考えてから言った。
「アンタ達はあの『樹』の所からも帰ってきたし、『井戸』を見付けられたんだから、話しても良いのだろうな」
そう前置きして、熊倉氏は興味深い話をし始めた。

「君達、この日本と言う国の特殊性をどう考える?
呪術的と言うか、精神文化的な側面から見た特殊性という意味で」
「前に聞いたのですが・・・、建国以来途絶える事無く続く、制度的・精神的『中心軸』としての『皇室』の存在ですか?」
「そう、確かにそれもある。
じゃあ、その『皇室』を中心とした『日本国』或いは『日本民族』を存続させてきた『力』の根源は何だと思う?
王朝や帝国は地中海沿岸や中国大陸、エジプトやメソポアミアにもあった。
日本の皇室以上に呪術的な王朝は数限りなく存在したが、なぜ、日本の皇室や日本国だけが存続できたと思う?」
俺も、イサムも答えに困った。
熊倉氏の説明によれば、それは日本列島を覆う豊かな森林に負う所が大きいと言う事だった。
日本は先進国中ではトップクラスの、世界的に見ても特に森林の豊かな国と言う事だ。
乱開発による伐採によりかなり減少したとは言え、日本の国土の68%が森林であり、バブル期の乱開発の前は実に75%の森林面積を誇っていたのだ。
68%の森林率は、森林国として有名なフィンランドの73%強に続き、同じく森林国のスウェーデンの67%弱よりも大きい。
因みに世界の陸地の森林率は30%を割っていると言うから、日本が如何に森林に恵まれた国かが伺われる。
この日本の森林の際立った特徴は、森林蓄積の割合で、自然林は意外に少なく、実にその6割以上が植樹による人工林と言う事らしい。

日本列島には、太平洋の海流エネルギーが集中し、日本の海域には世界でも最も流線密度の高い暖流が流れている。
流線密度の高い海流が集中する地域は、穏やかな気候に恵まれ雨量も豊富となる。
気候が良く雨量に恵まれれば、その地域に人口が集中し、大都市が形成されやすく、文化・文明が発達する可能性が高い。
海流流線密度が低い地域は乾燥した気候が多く、その分遠隔地から真水を引いてこなければならない。
砂漠が広大となれば大都市が発達する可能性は低く、発達しても都市を支える後背地の自然環境が悪ければ居住環境も劣悪となる。
人口が集中しても文化・文明を発達させる余力に乏しく、貧困やスラムを産むだけだ。
日本列島は元々有利な自然・地理的環境にあったが、そこに住む日本民族自身が、良質な真水を得るために大変なエネルギーを自然に加え続けてきた。
真水を生み出すのは豊富な森林である。
過去、世界で森林を失った国は忽ち砂漠化し、文化・文明から大きく取り残される事になった。
現代においても、産業や先端技術を支えるのは教育の普及などの人的側面も大きいが、物的側面として良質な真水の存在が欠かせない。
産業の基礎となる鉱物資源等を入手する事以上に良質の真水を得ることは難しい。
だが、ただ豊かな森林があるだけでは、例えば広大な熱帯雨林があるだけでは高度な文明や文化は発達しない。
自然環境と人的エネルギーの融合が無ければ、人間の文化・文明を支える良質な背景的自然環境に成り得ないのだ。
日本人は、この自然環境との共生が民族的深層心理のレベルで最も進んだ民族と言うことだ。
日本の神社には必ず森があり、神木がある。
日本民族古来の自然・宗教的な無意識領域では、森が無ければ神は天降ってこない事になっているからだ。
日本民族は、この日本列島と言う自然環境に気の遠くなるようなエネルギーを注ぎ込んできた。
そして、民族的深層心理のレベルで『一体化』を図ってきたのだ。

高麗時代、朝鮮半島にも豊かな森があり、白磁・青磁に代表されるような高度な文化・文明があった。
森を切り開いても、その跡には植林が施されていたらしい。
蒙古の侵略を受け、軍船の建造や製鉄の為にかなりの森林が失われたが、それでも植林は行われ森は残った。
高麗の宗教が儒教ではなく、仏教だった事が大きく作用していたようだ。
しかし、500年前、李朝になった途端に朝鮮半島の森林は荒廃し始め、植林も全く行われなくなった。
李朝は、過激なまでに儒教を奨励し、仏教を始め従来の宗教を徹底的に弾圧した。
儒教の教えは人間関係の道徳だけである。
森が無ければ神は降りてこないといった、日本の神道に見られるような、自らの生存基盤である自然環境と調和しようとする民族的深層心理の醸成に全くと言って良いほどに寄与しない。
画して、李朝時代の朝鮮半島では材木や燃料として木を切り出しても植林される事は無く、山々から緑は失われた。
やがて、『森を失った李朝』は衰退し、朝鮮民族は文化・文明的な死に瀕することになる・・・

熊倉氏の説明に俺は疑問を感じた。
森の生み出す『真水』の重要性は理解できるが、朝鮮半島には漢江のような流量の豊かな河川が数多く流れているではないか?
熊倉氏に疑問をぶつけると、彼はニヤリと笑って答えた。

そう、豊かな水が有るだけでは、多くの人口が集まるだけでは豊穣な文化も高度な文明も生まれない。
そう言ったものが生まれるには、人間のエネルギー、『気』や『念』と言ったものが集積され昇華されることが必要なのだ。
その源泉となるのが、太陽や大気からの『気』、或いは土や岩石などの大地からの『気』なのだ。
だが、人間を始めとした動物は、そう言った天地の『気』を自らの力として直接に使うことは殆ど出来ない。
風水などを用いて『気』の流れに手を加えるのが良い所であり、肉体や精神に自然界の『気』を取り込むには特殊な技術を要する。
太陽や大気、大地と言った『無生物の気』『環境の気』を直接使える『生きた気』に変換出来るのは植物・・・つまりは森だけなのだ。
自然環境を破壊して森を失った民族は、エネルギーの源泉を失い、やがては衰退して行く。
風や太陽、大地などの『無生物の気』は非常に強く、それに抗う人間という生物の持つ『気』は余りに微弱なのだ。

疑問もあったが熊倉氏の話には納得できる点も多々あった。
確かに大気中の二酸化炭素を光合成によって酸素と炭水化物に、或いは土中から各種の無機物を取り入れ栄養素と出来るのは植物だけである。
これ程までに科学の発展した現代においても、光合成の完全人工化には未だ成功してはいないのだ。
無生物から生物への気の流れの話は、『森が無ければ神は降りてこない』という話とも辻褄が合う。
納得仕切る事は出来なかったが、面白い物の見方だと俺は思った。

朝鮮総督府は、朝鮮半島全域で大規模な植林事業を展開した。
禿山に少しでも早く緑をと、生育が早く寒冷な朝鮮半島の気候にも耐えられるアカシアの木が多く植林された。
だが、日本の支配が終わると、朝鮮民族は後先を考えない無軌道な乱伐で、再度自国の山々を不毛の禿山にしてしまった。
彼らは、乱伐の責任を商品価値の低いアカシアを植林した朝鮮総督府に転嫁しつつ、自ら植林しようとはしなかった。
だが、禿山だった韓国の山々に30年ほど前から緑が復活し始めた。
政府主導で植林事業が強力に推し進められたからだ。
だが、植林の初期には、ある程度育った若木がオンドルの燃料などとして無断で伐採される事も少なくなかったそうだ。
韓国政府は国有林の無断伐採に懲役刑も含めた重刑を科すことで森林の育成を推し進めた。
森の復活と共に、やがて韓国はエネルギッシュな経済国として目覚しい発展を遂げた。
同じ民族の国家である北朝鮮とは好対照である。
政治経済が破綻し、国民に餓死者を出す有様の北朝鮮の山々は、今なお岩肌をむき出した禿山が殆どである。
だが、先進国の一角を占めるようになった韓国の国土面積に占める森林率は実に63%強。
主要国ではスウェーデンに次ぐ森林大国となっている。
批判的に見る向きも多いのだろうが、数百年ぶりに森の戻った韓国の体質は北朝鮮やその他の国々に比べ極めて有利なものと言えるのではないだろうか?
恐らく、朝鮮民族始まって以来最大の繁栄を謳歌している現代の韓国人の姿を見たとき、俺は熊倉氏に聞いた『森の話』を思い起こさずにはいられないのだ。

熊倉氏の話は興味深かったが、俺とイサムの疑問、あの『井戸』が何なのかには全く答えていなかった。
俺は熊倉氏に詰め寄った。
熊倉氏は数枚の地図を持ち出してきた。
「日本にはナントカ三山と呼ばれる場所が何箇所もあるが何故だか判るかな?」
「いいえ」
「ピラミッド等もそうだが、三角形と言うのは、『気』や大地のエネルギーを集めるのに適した形なんだ」
「へえ」
「エネルギーを集める効果を強める為に三角を上下に重ねて、集めた気を外に逃がさないようにした図形があるんだが知っているかな?」
イサムが答えた。
「ダビデの星って奴ですか?」
「そう。
イスラエル国旗の意匠にもなってるね。
日本では籠目紋と言って、伊勢神宮や鞍馬寺でも用いられていて、しばしば日ユ同祖論の論拠にもされている」
熊倉氏によると、この籠目紋は、比較的狭い空間で『気』やエネルギーを集積する効果を狙った図形らしい。
等辺六芒星の中心点、二つの正三角形の中心にエネルギーを集中する図形だそうだ。

熊倉氏は、持ち出した5枚の地図に赤いマジックで点を打った。
赤い点に定規を当て、黒のマジックで線を引くと、それぞれバラバラな形をした三角形になった。
5枚の地図には番号が振ってあって、何やら鉛筆で補助線を引いて三角形の中に点を打った。
点の一つが三角形の重心なのは俺にも判った。
熊倉氏は三角形内の点を通る青い直線を三角形を貫くように引いた。
5枚の地図に同じような図形を描くと熊倉氏は俺達に「何だと思う?」と質問をぶつけてきた。
暫く地図と睨めていると、「あっ」と言ってイサムは地図に書き込みを始めた。
イサムの作業を見て俺も直ぐに気付いた。
この青いラインはオイラー線か!
三角形内に打たれた点は、垂心・重心・外心だったのだ。
熊倉氏は縮尺の異なる別の地図に緑の点を5つ打ち、点に番号を振った。
緑の点の位置はバラバラで規則性は無かった。
熊倉氏はイサムに先ほどの地図と同じ角度で緑の点を通る青いラインを引かせた。
5本の青いラインは、ほぼ一点で交差した。
熊倉氏は青いラインの交点を指差して言った。
「君らが先ほど見た『井戸』はここにある。
この山にも井戸の蓋と同じ材質の岩が正三角形に配置してあって、井戸はその重心に位置している。
何故だかわかるかな?」
「正三角形は垂心・外心が重心に一致してオイラー線を定義できないから?」
「正解だ。
三角陣はオイラー線に乗せて、集積した『気』やエネルギーを外心から重心を通して垂心方向に飛ばす性質があるのさ。
井戸は集積した『気』を溜め込む仕掛けだな。
ピラミッドやストーンサークルでも組んだ方が雰囲気も出るが、使用目的から井戸と言う形になっている。
5枚の地図の赤い点の場所には祠があったり、同じ材質の岩が置いてあったり、お地蔵さんが立ってる」

「へえ」
「この仕掛けは、あまり知られてはいないけれど結構ありふれたものなんだよ。
古墳や遺跡で石室が見つかる事があるだろ?
全部がそうだとは言わないが、引き込んだ『気』を溜め込む仕掛けとして作られたものも少なくないと思うよ。
作った人間や関係者じゃないと『気』を持ってくる先の三角陣を見つけて特定するのは不可能に近いけどね」
「面白いですね」
「この仕掛けは、朝鮮半島から渡来人が持ち込んだ物とされているが、逆に日本人が百済に持ち込んだという見解もある。
出所は不明だが、似たような仕掛けは韓国にもあるんだ。
まあ、任那日本府とか、天智天皇が済州島の耽羅という国と連合して百済救援の為に新羅と戦ったりしているから関係は相当に深かったのだろう。
白村江の戦いに敗れた日本は、朝鮮半島から全面撤退したが、その時、滅亡した百済の民を数多く日本に連れ帰ったという言い伝えもあるしね。
日本の皇室と百済の王室は縁戚関係にあったようだし、百済人と古代日本人はかなり共通した精神文化やメンタリティーを持っていたのだろう。
両者に共通した祭祀や呪術が有っても不思議は無いだろうさ」

「熊倉さん、『気』だの何だの話を振られても困ると言ってる割に随分詳しいんだね」
「友人の榊の受け売りと、自分でも随分研究したからね」
「へえ。
それで、あの井戸の使用目的って何なんですか?」
「あの中に入るのさ。
榊家の人々は、代々、成人すると一度はあの井戸に篭るらしい。
友人の榊も大学2年生の時、あの井戸に一昼夜篭っている」
「なんで、アンタがそれを知っているんだい?」
「アイツの付き添いで私も立ち会ったからな」
「・・・・・・そうなんだ」

ややあって、熊倉氏が俺に言った。
「どうだ、試しにあの井戸に入ってみないか?」
「おいおい、勝手にそんな真似して良いのかよ?」
「私は、榊氏からこの山の管理を一任されている。
榊家の次期当主は既にこの世にはいないし、榊家の血縁者も榊氏以外いないから、問題があっても無くても同じ事だろう。
大木に同化して、山の木々から根を通じて『気』を取り込むより効率的なんじゃないか?
井戸に溜め込まれているのは、森から集めた『生きた気』だから、『消化』の為の『循環の行』も必要ないだろうしな。
怖いと言うなら、無理に勧めないがね」
「それって、挑発されてるんですかね?
・・・・・・面白い、その挑発に乗りましょう」
俺は、問題の『井戸』に潜る事になった。
熊倉氏によると、『呪術師』榊は一昼夜、井戸に篭ったらしい。
翌朝、準備を整えると、俺達は問題の井戸へと向った。

持って行った鎌で井戸の周り、鉄杭の内側の熊笹を刈り取ると井戸の蓋の石板を外しに掛かった。
石板は1枚80kg程か?
バーベル等のウエイトとしてなら左程重いとも言えない重量だが、相手はただの石の板。
大人二人でなければ扱えない重量だった。
まして、井戸の中から1人で押し上げて外すのは不可能に近い。
刈り取った熊笹を束ねたものに火をつけて井戸に放り込んでみた。
井戸の底で火は消えずに燃えている。
枯れ井戸で水は無いようだ。
心配した酸欠も大丈夫なようだ。
俺は井戸の壁面の石を足掛かりに井戸を降りていった。
真っ暗闇の中、手足の感覚とイサムと熊倉氏が手繰るロープだけが頼りだ。
俺は井戸の底に到達した。
かなり深い。
見上げる空は500円玉ほどの大きさしかない。
やがて正午となったのだろう、イサムが「閉めま~す」と声を掛け、井戸に石板で蓋がされた。

全く光の無い漆黒の闇。
壁面に吸収されるのか、全ての音が反響する事無く篭ってしまい、空気をより一層重苦しいものにしていた。
深い深い海の底に沈められたかのように、闇の静寂が圧力となって、やがて俺の精神を押し潰して行った。
井戸の傍には熊倉とイサムが待機しているはずだが、二人の気配は感じられない。
もし、二人がこの場から立ち去れば、俺はこの重苦しい闇の中で朽ちて行くしかない。
熊倉の挑発に乗って・・・いや、好奇心からこの井戸に入ったが、俺はとんでもない判断ミスを犯したのではないか?
昨日、俺が気を失ってる間に熊倉とイサムが通謀して、俺をこの穴の中に遺棄する計略だったのではないか?
そもそも、イサムが旅の随伴者となったのは、色々と知り過ぎて用済みとなった俺を消す為だったのではないか?
俺の脳裏は、恐怖心と猜疑心に埋め尽くされて行った。
心拍と呼吸が乱れ息苦しさは耐え難いものになって行った。
とても『気』を感じるどころではなかった。
・・・・・・不味い、信じ難いことだが、予定の24時間を待つ事無く俺の精神は破綻する!
余りやりたくは無いが、『アレ』をやってみるか・・・・・・
「GyaaaaaWawoogyふじこlp;@:『湖jhンbhbhvgcgcxdzsdftdrgftrsrdty!!!!!!!」
俺は狭い空間でのた打ち回りながら、有らん限りの奇声を発した。
もし、俺の姿を見る者がいたら、発狂したとしか思えなかっただろう。
精神を圧殺する恐怖感を忘れ、人間の恐怖心を足掛かりに憑依しようとする悪霊や魑魅魍魎から身を守る『技法』。
朝鮮式精神均衡法・・・『泣き女』或いは『火病』の術を俺は行った。
『発狂』を演じる事で、逆説的だが恐怖や怒りといった強烈な感情の支配から精神を解放し、冷静な精神状態に戻ることができるのだ。
『感情のエネルギー』が過多で、精神の均衡を失い易い朝鮮人に適した方法だ。
『禅』や『瞑想』と言った日本人好みの『静』的な手法で、既に潰れかかった精神を正常な状態に引き戻すのは非常に難しい。
狂い疲れてきた所で、どうにか俺は精神の均衡を取り戻すことが出来た。

冷静さを取り戻してきた所で、妙な事に気付いた。
井戸の中の『気』が恐ろしく希薄なのだ。
不思議だ・・・そう思った瞬間、俺の脳裏に閃くものが有った。
上手い喩えではないが、これまで意識していなかった自分の頭を覆っていた『袋』が急に取り払われたような感覚だった。
頭の霧が晴れた俺は直感的に理解した。
井戸の周りの鉄杭・・・あれは、この山全体が放出する濃厚な『気』からこの井戸を遮断する為のものだったのだ!
「大木に同化して、山の木々から根を通じて『気』を取り込むより効率的なんじゃないか?」という熊倉の言葉が脳裏に浮かんだ。
これは、俺が出発する前にキムさんからレクチャーされた技法の核心だった。
『鉄壷』の時の供養法を更に進めたものだ。
俺は、『井戸』の中に全体に意識を広げ、同化を図った。
瞑想状態が今までの俺の限界を超えて深くなって行くのが判った。
井戸に同化することで、俺は昨晩地図で示された5箇所を含めて8箇所のパワースポットとこの井戸が『繋がっている』ことを『発見』した。
意識を『解放』すると予想通り、俺の中に大量の『気』が流れ込んできた。
この施設は、各地の『パワースポット』から『気』を溜め込むのが目的ではなく、また、溜め込まれた『気』を浴びるのが目的でもなかった。
各スポットからの『気』を集める『道』の集結点である事に意味があったのだ。
そして、俺はマサさんの事を思い出していた。
マサさんと『井戸』は『繋がって』いて、マサさんは井戸のある『結界の地』に祓いの対象者を連れて行かなくても、悪霊や魑魅魍魎を井戸に送り込む事ができるのだ。
榊家の人々が成人後一度はこの井戸に潜るというのは、『一度潜れば』十分ということなのだ。
一度『同化』すれば『繋がる』・・・恐らく、そういうことなのだろう。
以前、榊老人が、老体にも拘らず奈津子の力で仮死状態に陥った飯山とマサさんの処置を同時に行えたのも頷ける。
恐らく、榊老人は、この井戸と『繋がって』いて、この井戸から『気』を引き込んでいたのだ。

やがて、予定の24時間が過ぎ去った。
ザイルに引かれながら、俺は壁面の突起を頼りに井戸を上った。
24時間ぶりの外の空気は実に美味かった。
俺は、眩しい太陽の光に目を細めながら、山の木々が発する『気』を目一杯に吸い込んだ。

その晩、熊倉氏の最後の手料理に俺達は舌鼓を打った。
俺は熊倉氏に聞いた。
「熊倉さん、俺が井戸に入る前、あなたが言った『大木に同化して、山の木々から根を通じて『気』を取り込む』と言うのは一種の奥義って奴なんだ。
なんで、呪術師や修行者でもないアンタが知ってるんだ?」
「そんなこと、言ったかな?」
「それともう一つ。
俺はあの井戸に近付いて、ゲロを吐いて気を失ったが、あれは『結界』の効果なんじゃないですか?
あなたは俺達に『見つけられた』と言ってましたよね?
昨日はなんとも無かったけれど、あれは、あなたが結界を解いたからじゃないですか?」
「おいおい、私はただの管理人だよ?
知る訳ないじゃないないか」
「井戸の中でも不思議な事が有った・・・色々な事に気付いたり、思いついたりしたんだが・・・本当に自分で『気付いた』り『思いついた』りしたのか確信が無いんですよ。
流れ込んできたと言うか、誰かに植え付けられたような気がしてならないんだ・・・率直に聞きますが、俺が気を失ってる間に何をしました?」
「私には、君が何を言ってるのか全く理解できない。
『結界』云々と言うのならイサム君に何も起らなかった事の説明がつかないし、君に何かしたらイサム君がキミに言うはずだろ?
暗闇で精神を押し潰されて発狂寸前まで追い込まれて、被害妄想が強くなってるんじゃないかな?」

暫く無言の時間が過ぎ、熊倉氏が口を開いた。
「木々の根が絡み合って地下で繋がっているように、人間も意識の底で、時間や空間を越えて潜在意識とか集合的無意識で繋がっているそうだよ。
木々の根のように、・・・蜘蛛の巣のように、絡み合いながらね。
ここは、代々呪術の世界に囚われ生きてきた榊家所縁の地だ。
君のインスピレーションは、案外、深い瞑想を行い、井戸と同化する事によって、『榊家の意識』と繋がって得られたものなのかも知れないね」
・・・・・・俺は熊倉氏に『発狂寸前まで追い込まれた』ことも、『井戸と同化』したことも話してはいなかった。
だが、これ以上、熊倉氏を追及する気はなくなっていた。

「榊家も次期当主だった榊は既に亡く、現当主の榊氏もかなりのご高齢だ。
1000年以上続いた呪術の血統も途絶えて、間もなくこの地上から消え去る。
恐らく、君はあの井戸に潜った最後の人間になるだろうな」
熊倉氏は寂しそうに言った。

翌朝、俺達は熊倉氏のジムニーに乗って山を降りた。
別れ際、俺は榊氏と握手を交わしながら言った。
「呪術のことは判りませんが、榊家の血統は残り続けますよ。
追われる身だった榊氏には、籍は入っていませんが奥さんがいたんです。
榊氏が亡くなった後に発覚したのですが、奥さんは妊娠していました。
奥さんは無事女の子を出産されましたよ。
榊氏のお弟子さんだったキム氏、マサ氏、それと木島氏の手によって先日、親子は保護されました。
奥さんの千津子さんと娘の奈津子さんは、今は榊氏の許で元気に暮らしています」
「・・・へえ、・・・榊が聞いたら喜ぶだろうな」
俺はタンクバッグを開けて中から1枚のバンダナを出して熊倉氏に渡した。
「これは?」
「奈津子さんが、祖母の榊婦人と染めたバンダナです。
良かったら使ってください。
お世話になりました、ありがとうございます」

後日、榊氏にお会いした際に熊倉氏と井戸の事を聞いてみた。
榊氏の答えは、「知らない」の一言だった。
『井戸の山』の存在も、管理人の『熊倉氏』も知らないと言う事だった。
シンさんまでもが否定した。
確かに、俺のツーリングマップにも、あの山は記入されていない。
俺が気を失っている間、或いは井戸に潜っている間にでも処分されたのか、熊倉氏の連絡先のメモも、携帯電話の記録も残っていなかった。
イサムまでもが熊倉氏と『井戸の山』を「知らない」と言うのだ。
そして、俺自身が、『山』へも、待ち合わせの場所にも、大凡の位置がわかっていながら2度と辿り付く事はなかった。
だが、奈津子のバンダナが1枚無くなり、俺の中に残ったものがあった。
俺のキャパシティーの問題から量は少ないが、俺は一度『同化』を果たしたあの井戸から『気』を導く事ができるのだ。
『井戸』の隠された大木の森と、オイラー線で結ばれた8つの『三角の森』。
深い緑の森を思い浮かべれば『気』は流れ込んでくる。
そして、これは特別な事ではない。
民族的深層心理のレベルで日本列島を覆う緑の森と結び付いた我々日本人は、誰でも森の『気』をその身に受けることができる。
豊かな森を思い浮かべ、強く感情を・・・『愛』を向ければ、森から流れ込む『気』を感じる事ができるだろう。
多くの人が気付いていないだけで、我々は祖先が幾世代も掛けて守り育ててきた森の木々に愛され守られているのだ。

熊倉氏の許を去り、俺とイサムの旅は続いた。

[完]

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