『赤と青の炎』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】

『赤と青の炎』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】洒落怖・怖い話・都市伝説 祟られ屋シリーズ

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『赤と青の炎』

542 赤と青の炎 ◆cmuuOjbHnQ sage 2007/12/03(月) 04:59:27 ID:SMU8HFLJ0

 

それでは、マサさんの元で行った「修行」の話の続き。

呼吸法をどうにかクリアしたPだったが、結局、俺と同じ修行法を行うことは出来なかった。
マサさんの「気力」の消耗が激しかったこと、Pには俺の方法を行う適性がなかった為だ。
俺に行った方法は、丹田の力がある程度開発されている事が前提となる方法だった。
俺とPを分けたもの・・・「丹田の力」の差は日本人と朝鮮人との間ではかなり決定的なものらしい。
日本人は「気」の力を丹田に溜め込む体質であり、朝鮮人は気を極端に発散する体質だそうだ。
朝鮮人の気質は極端に「陽」であり、日本人は極端に「陰」の気質なのだ。
マサさんの修行が目的とするところは、俺達に自分で自分の体に「気」を蓄える術を身に付けさせる事だった。
そして、その蓄えた気を利用して俺達に纏わり付く蟲・・・「魍魎」から身を守る気の操作を学ぶ事だった。

読み進めれば判るが、俺が行った行は武道や武術を応用したものが多く、呪術や祈祷とは縁遠いようにも見える。
しかし、基本的な力をつける修行は、一定の「理屈」に合致させれば、踊りや楽器の演奏、農作業や鍛冶などの工芸作業の中に取り込んで行えるそうだ。
むしろ、そのような一見呪術や祈祷とは縁遠いものに隠して日々行うのが望ましいのだと言う。
武道・武術の形式を用いたのは、マサさんの好みであり、俺に向いた方法だということだ。
他の地域の韓国人とマサさんの出身地ではかなり気質が異なり、体質がかなり日本人に近いそうだ。
確かに、キムさんもそうなのだが、マサさんと同じ出身地の韓国人や在日韓国人には、他の地域の出身者に比べて温和で我慢強い人物が多い。
Pよりも体質がマサさんに近かった俺は、マサさんが行ったものに近い修行を行ったようだ。

マサさんが俺に「気」を蓄える為の行法として教えた物は、意外なことに沖縄空手の基本功である「三戦(サンチン)」だった。
知っている方も多いと思うが、「三戦(サンチン」とは沖縄の那覇手と呼ばれるカテゴリーの空手で行われる「基本功」である。
源流は白鶴拳や洪家拳に代表される南派中国拳法とされている。
三戦は、鼻から息を吸い、腹式呼吸で臍下丹田に送った気に腹圧をかけて圧縮する呼吸法に特徴がある。
全身の筋緊張と共に丹田に圧縮を掛けながら、口から独特な呼吸音を出しながら動作を行う。
丹田の力を引き出し、筋緊張に利用する「防御の型」の最高峰である。
三戦で鍛えた空手家の体は鋼鉄のように堅牢となり、並みの突き蹴りなどは全く受け付けなくなり、角材などで殴っても逆に角材がヘシ折れる有様である。
三戦で有名なのは、ゆっくりとした動作と呼吸で拳を突き出すものだが、マサさんが取り入れたのは別のタイプだった。
突きは拳ではなく貫手を使う。
貫手を引きながら素早く丹田に息を引き込み、瞬間的な圧縮を掛けながら鋭く貫手を突き、構えに戻した瞬間に「シッ」という鋭い呼気を吐き、全身を締める。
そして、一歩進んで再度丹田と共に全身を締め上げて再圧縮を掛け、「シッ」と呼気を吐くのだ。
この一吸気二呼気二圧縮の複雑な丹田操作を行うやり方をマサさんは父親から習ったそうだが、元の空手はかなり「荒い」鍛え方をする流派らしい。
マサさんの三戦は前回出てきた「第1の呼吸法」のように、頭の天辺から背骨を通して丹田に気を引き込む。
「霊的な気」を丹田に導引するには、霊的な気を通す背骨の中の「気道」を用いなければならないらしい。
丹田の「圧縮力」は体に負荷を掛けて行うほど高まるようだ。
沖縄では三戦の型を行いながら補助者が全身を拳で打ち据え、蹴りを入れて鍛えたり、重いカメや壷を手に持って行ったりするようだ。
マサさんの所にも、何処から持ってきたのか、24L入りの紹興酒のカメがあり、それを持って行をさせられたりもした。

中国の武術には門派により様々な形式があるが、丹田の力を強化するための基本功が必ずと言って良い程に含まれているそうだ。
逆に、日本の武道・武術は、中国拳法を起源としたり導入した空手の一部を除いて、丹田強化を意識的に行っている流派は余りないらしい。
しかし、空手はもとより柔道や剣道、相撲やレスリングなど、あらゆる武道・武術で日本人は丹田を巧みに使っていると言う事だ。
呼吸により丹田に気を引き込み、圧縮をかけて力を出す「技法」を日本人は本能的に行う民族なのだという。
この「丹田力」は武術だけでなく、呪術・祈祷にも重要な要素らしい。
丹田に蓄えた「気」を「霊力」に変換して利用する事によって、呪術師や祈祷師は術を行う。
朝鮮人に生来的に備わっている「気」自体は非常に強く、日本人や中国人を圧倒しているらしい。
しかしそれは、体を循環して外に発散される「陽」の気であり、丹田力は非常に貧弱なのだという。
丹田力が弱いと気のコントロールは非常に困難になる。
「陽」の気を丹田に送って「陰」の気に戻し圧縮できないからだ。
丹田に気を取り込み、「陰」から「陽」へと気を変換して体を循環させ、丹田に戻して圧縮すると言うという過程を繰り返す事によって「気」の質と「霊力」が高まるらしい。
陽気が溢れてコントロールを失うと感情や衝動を抑えられなくなり、首(正確には喉、甲状腺にあたる部分)を越えて頭に入ると、人は一時的な発狂状態に陥るそうだ。

強い「気力」を持つ朝鮮人は、時々、特定の分野で驚異的な業績を生み出す者が突然変異的に出るそうだ。
朝鮮人経営者には、馬力のあるイケイケタイプの経営者が多いのも、強い「陽」の気を持つ民族的特性なのかもしれない。
しかし、他方で強い「気力」を持ちながら、コントロールする丹田力が弱い朝鮮人は、「頭に気が上って」容易に発狂状態に陥る。
感情や衝動を押さえコントロールする事も非常に苦手で、理性的であるはずのインテリ層や聖職者でも衝動的犯罪を犯してしまう事が少なくない。
ただ、「陽」の気は丹田の「陰」の気を変換し供給してやらないと、あっと言う間に消費されてしまう。
朝鮮人の非常に強い「陽」の気力は長続きしないのだ。
また、発散する「気」の力を補強できないので、一旦気力で圧倒されると持ち直すことが出来ない。
仕事などで韓国人と交渉した事のある方なら感じたことがあるだろう。
韓国人の交渉者は一気呵成にまくし立ててくる事が多いが、こちらが勢いに怯まず、逆に高圧的に出ると意外に交渉が巧く纏まる事多い。
韓国とのビジネスで成功している経営者は、最初に高圧的に相手をやり込めてから理詰めの交渉に入る人が多いように見受けられる。
一番駄目なのは、韓国人の感情論に最初から理屈で対抗する人。
このタイプは韓国側に良い様にやり込められて不利な条件を飲まされるか、交渉が決裂して双方が不利益を被る結果となることが多いようだ。
韓国人の感情論に冷静に理屈で対抗しようとして振り回される日本人、意外に多いのではないだろうか?

特別な丹田強化の行を余り行わない日本の武道・武術だが、丹田に蓄えた「陰」の気を「陽」の気に変換して利用する技法はほぼ全ての流派に存在する。
所謂「気合」である。
丹田で圧縮した「陰」の気を「陽」の気に変換し、鋭い発声と共に瞬間的に集中使用する技法である。
「気合」の効果は科学的にも立証されており、一説では最大30%のパワーの増大が認められるらしい。
テニスなどの球技、ハンマー投げや槍投げ等の陸上の投擲種目、重量挙げなどのパワー種目、その他の様々な競技で「気合」を応用しているアスリートは多い。

丹田力に秀でた日本人の武術は、防御力が非常に高く、攻撃は一撃集中(一撃必殺)型で、「後の先」の術理に最も適合している「静」の武術だという。
中国のものは「陰」と「陽」のバランスを重視して攻守一体を旨とし、陰陽の気の流れや攻守・動作の流れが止ることを極度に嫌うらしい。
ただ、攻撃力・防御力を高い次元で引き出すのが非常に難しく、基本功で培った力と套路等で培った技とを繋ぐ技術がないと只の踊りとなってしまうそうだ。
対する日本武術は「極め」による一点集中により気や動作の流れに「停止点」が生じ、動作が滞る「居付き」を生じやすい欠点があるということだ。
だが、攻撃・防御双方に「丹田力」を含めた力を乗せやすく「使いやすい」のが長所でもある。

それでは朝鮮のものは?
朝鮮の武術は、弓術と解放後に日本の空手から作られた韓国の国技テコンドーが有名である。
テコンドーの達人だという権さんの話では、テコンドーには丹田を強化する、那覇手系の「三戦」のような鍛錬法はないそうである。
元となった空手の流派は極端な「一撃必殺」型らしいが、受け技は豊富である。
「据え物にして打て」と言う言葉があり、型における基本の戦闘法は受け技で受け、相手を捕らえて死に体にしてから打つそうである。
だが、テコンドーは空手から受け技を受継いではいるが殆ど使わないらしい。
これは空手色が強いと言われる北朝鮮系のものや、オリンピックスタイルとは違う権さんが修行したものも共通らしい。
テコンドーは相手の攻撃は基本的に「受けない」そうである。
テコンドーの防御は、ボディワークやフットワークによる「かわし防御」が中心で、それは崩れた相手の「虚」を狙う攻撃の基点でもある。
また、テコンドーの豊富な蹴り技の元となったとされる「テッキョン」は足蹴りにより相手の重心を崩す技法が非常に発達しているそうだ。
テコンドーでは、基本的に運足や蹴りなど、足を使って相手を崩し「気の虚」を探りあい、捉えた崩れや「気の虚」を突いて相手の防御・反撃の暇を与えずに攻め切る。
競技化の為に廃れているが、実践では貫手・爪先による急所攻撃や肘・膝、そして頭突き等、防御を崩壊させた相手を確実に仕留める技が重要なのだと言う。
空手同様の拳足鍛錬や、「気の虚」を探り合い一瞬に突く為の運足と、反撃の暇を与えず防御を崩壊させる手数を出す為のスピードとスタミナが肝要ということだ。
並外れた「陽」の気力を持つ朝鮮人に非常に適合した「動」の武術と言える。
ただ、スポーツ化により相手を捕らえて致命傷を与える技が失われ、防御力が極端に低い為「残念ながら武術としては死んでいる」そうである。

日本人の丹田力の強さは昔から定評があったようである。
中国や朝鮮の呪術師や祈祷師の中には、攫ってきたり買ってきた倭人の娘に子を産ませ、その子に術を仕込んだ者も多いそうだ。
逆に、中国武術の門派には、今でも「日本人に教えてはならない」とされるものがあるらしい。
反日感情や日本人蔑視もあるが、彼らが長い時間をかけて基本功を行うことによって得られる丹田力を日本人は生来的に高いレベルで持っているかららしい。
日本人に技を教えると、丹田力の優位を利用して自らの体質に合わせて改変してしまうらしい。
また、その門派の意図しない方法で力を出し、日本人的な体の使い方で技を使うので正しく習得させる事も困難だということだ。
門派伝来の技を改変し広める日本人の存在は、伝統の技を継承し守ってきた彼らには許し難いもののようだ。
マサさんは、日本が武道・武術大国となったのは、武士による支配も大きいが、日本人のこのような「体質」が背景にあると見ているようだ。
朝鮮人的な身体用法であるテコンドーも、日本に普及すると、日本人的な改変が加えられて全く違ったものに変質するかもしれないと言う事だ。
俺は、権さんにテコンドーの指導を受けた。
蹴り技も確かに凄かったが、驚きを隠せなかったのは攻撃の苛烈さだった。
オリンピックの中継等で見たものとは似ても似つかない非常に攻撃的な、武道と呼ぶには余りに殺伐としたものだった。
ひたすらに攻撃し、効果的に技を行使する為には力の加減などは一切出来ない。
激しい動作や速度の中で動的にバランスを取るので、力を抜いたり速度を落とすと非常にコントロールがしにくいのだ。
一旦攻撃に火がつくと加減や歯止めが効かない・・・何とも朝鮮人的ではないだろうか?

次にマサさんが、俺に「気」の操作法を学ばせる為にやらせたことは「三戦」よりも俺を驚かせた。
それは「立木打ち」だった。
「立木打ち」とは、薩摩の剣術として有名な示現流の稽古法である。
奇声を上げながら素早く、息の続く限り棒で柱を打ちつける。
俺は、丹田に力を込めながらゆっくりと行う素振りで、木刀(棒)を振る動作と丹田の操作を一致させる感覚を身に付けてから「立ち木打ち」の稽古に入った。
この「立ち木打ち」の稽古は「陽」の気を引き出して、人間の身体能力やその他の能力の「リミッター」を意識的に外すのに最適の訓練なのだ。
先に、「陽」の気が頭に入ると人は一時的な発狂状態に陥ると述べたが、逆に発狂状態の人間は激しく「陽」の気を発しているそうだ。
人間は生命力の源である「陽」の気を浪費しないよう、必要以上に「陰」の気を発散されやすい「陽」の気に変換しないように本能的にリミッターをかけているそうだ。
それが、「発狂状態」や激しい感情に囚われた状態になると取り払われて、強い「陽」の気が発生する。
「陽」の気には肉体を賦活化して身体能力を高めると共に、悪霊や魑魅魍魎を弾き飛ばす効果がある。
朝鮮の「泣き女」の風習をご存知の方も多いと思うが、あれは「狂ったように泣く」ことで「陽」の気を発生させ、悪霊から身を守る意味があったのだ。
示現流の「立木打ち」にも同様の効果がある。

有らん限りの奇声を発しながら一心不乱に立ち木を打ち続けていると、ある時点から「陽」の気は目一杯に発生しているのに頭の中は冷静な状態がやってくる。
冷静でありながらリミッターが外れた状態。この状態になるまで始めは時間が掛る。
しかし、繰り返しているうちに時間は短縮し、ある時から一瞬で「リミッター」が外せるようになった。
これが出来るようになると、マサさんとの「組手」で臆したり躊躇することなく、一瞬で全力の攻撃が出来るようになった。
「二の太刀要らず」の全力の斬撃を旨とする示現流では、この「初動」の速さは死命を決する重要な要素であったのではないだろうか。
まあ、俺はあくまで「気を貯めて操作する為」に武道・武術の形式を利用しただけなので実際の所は判らないが・・・
俺もマサさんも武術家では無いし、かなり独特な考えと偏見に満ちているので間違いも多いのだろう。
だが、上記のような考えに従った修行は確実に効果を上げて行った。

「リミッター」を外して自在に「陽」の気を生み出せるようになった俺は、気を体の中で前後や上下に循環させたり、一点に集中させる訓練を重ねた。
自由に気を動かせるようになると、次に様々な「イメージ」に気を乗せる訓練を行った。
始めは体を気で覆うイメージ。
これが出来るようになると魍魎に体の中に潜り込まれたり、齧られることはなくなった。
次に背骨の中の「気道」から気を染み出させて、部屋全体に満たすイメージ。
これによって、部屋から魍魎を追い出すことが出来るようになった。
最後に、部屋の中に体ごと拡散して、空気のように同化するイメージ。
これは非常に難しく、俺がモノに出来たのは修行を再開し、キムさんと契約してから大分経ってからのことだった。

三戦により丹田に集めた「陰」の気を「陽」の気に変換して体に循環させ、丹田に戻して圧縮することで得られる「使える気」の量は、例えるなら1日にコップ1杯程度である。
その「使える気」をバスタブ一杯に貯めて、溢れ出てきた分。その余剰分の「気」が魍魎を払ったり、或いは呪術に使われる気である。
バスタブは常に「使える気」で満タンにしておかなければならない。
しかし、毎日コップ一杯づつ気を注がないと漏れ出したり劣化したりして失われる分は、使わなくても1日にコップ3杯分くらいになる。
1日休めば3日分後退してしまうのだ。
娑婆に戻って羽目を外した俺は修行を止め、気を浪費し続けた。
その結果、俺は引き寄せられた魍魎に集られ、眠れない夜に怯える羽目になったのだった。

修行が進み、俺の気が満ちてくると意識して跳ね除ければ魍魎を遠ざける事が出来るようになった。
さらに、抜け落ちた毛が伸び始めてどうにか人前に出られる位になった頃には、気が貯まり、溢れ出る気によって魍魎が遠ざけられ、夜でも眠る事が出来るようになった。
俺達の修行がある程度進み、マサさんが何日か「結界の地」を留守にしても大丈夫になった頃、マサさんの目を盗んで俺は例の「井戸」を見てしまった。
井戸を塞ぐ黒い石から青い鬼火のようなものが立ち上るのが見え、井戸の中に魍魎や何か嫌な「気」が吸い込まれているのが「見えた」。
誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、冷たい美しさのある青い鬼火に魅入られていると、井戸の方から視線を感じ背中に寒気が走った。
次の瞬間、青い鬼火は血のように赤く暗い炎に変わった。
青い鬼火からは嘆きや悲しみ、或いは絶望といった印象を受けた。
しかし、赤い炎からは怒りや憎悪、そして殺意が感じられた。
俺は、見てはならない物を見てしまったことを激しく後悔した。
思えば、あの井戸を凝視してしまった時から俺は「異界」に足を踏み込んでしまったのかもしれない。

井戸から強烈な殺意を感じて、俺はそのとき一つの疑問を持った。
あの井戸は何の為に作られたのか。
何年もマサさんと行動を共にし、マサさんがあの井戸に悪霊や呪詛等を送り込むのを何度も目にする内に、その疑問は強くなっていった。
マサさんは普通の「祓い」も出来るのに、何故、危険な「井戸の呪法」に拘るのか?
アリサからジュリーの死を聞かされた晩、俺はアリサと体を重ねながら考えていた。
ジュリーの命を奪い、姜家を断絶に追いやったのは、結局マサさんの施した「井戸の呪法」だったのではないか?
マサさん絡みのクライアントで、ジュリーのように結局助からなかった者は少なくないのだ。
後に俺はその理由を聞かされたのだが、その話は機会があれば語りたいと思う。

[完]

前編:『炎と氷』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】

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