子供の泣ける話 – 感動エピソード【6】
愛する娘の観に行くはずの映画
娘が六歳で死んだ
ある日突然、風呂に入れている最中意識を失った。
直接の死因は心臓発作なのだが、持病のない子だったので
病院も不審に思ったらしく、俺は警察の事情聴取まで受けた。
葬式には別れた女房が「彼氏」同伴でやって来たが、
もはや俺にはその無神経に腹を立てる気力もなく、機械的にすませた。
初七日も済んで、俺は独りで映画を観にいき、娘が観たがっていた
ゴジラととっとこハム太郎の二本立てを観ることにした。
とっとこぉはしるよハム太郎♪の歌を聴いた瞬間、やっぱり俺は泣いた。
6歳にもなって活舌の悪い娘が、この歌を一生懸命覚えて、
とっとこぉ、はしゆよ、はむたよお♪と歌っていたっけ。
ハム太郎の紙コロジーだってクリスマスに買ってやるつもりだった。
女親のいない家庭だったが、少しでも女の子らしくと、
服を買うときだって、面倒がらずに吟味を重ねた。
学校だって、行きたいところに行かせてやるつもりだったし
成人式には、ちゃんと着物を着せてやるつもりだった。
女房と離婚してから俺は100%子供のために生きることにして、
必死にやってきたのに、この世に神様なんて絶対いないんだと知った。
スタッフの皆様
秋もだいぶ深まってまいりました。
ディズニーランドのスタッフの皆様、いつも私たちにステキな夢をありがとうございます。
今月、数年ぶりに主人とディズニーランドに遊びに行かせていただきました。
実はこの日は、一年前に亡くなった私達の娘の誕生日、そして命日でした。
身体がとても弱かったために、生まれて間もなくこの世を去ってしまい主人と二人、ずいぶんと長い間、深い哀しみにおりました。
助けてあげられなかったこと、何一つ我が子にしてあげられなかったこといまでも悔やんで仕方ありません。
生まれてきたら、このディズニーランドに連れてきてあげたいという私たちの夢も果たすこともできず、主人と話し、この日、娘の供養のために来ることができました。
事前にガイドブックを見て、かわいいお子様ランチがあることを知り、娘に食べさせてあげたいと思いワールドバザールにあるイーストサイド・カフェに入りました。
本当は8歳以下でないと注文することができないものでしたが、お店の方に事情を話すと、快く注文を聞いてくださいました。
そして隣の4人掛けのテーブルに子供用のイスまで用意してくださって、「3名様、こちらにどうぞ」と席を移してくださったのです。
「本日はよくきてくださいました。ご家族で楽しんでいってくださいね」と、まるで我が子がここに一緒にいるように私たちをもてなしてくださり、主人も私も感激で胸がいっぱいになり、涙があふれました。
娘を亡くしてからはじめて、「親子3人でいる」ということを味わわせてくださって、本当に感謝しております。
娘が生きていてくれたらどんなに幸せだったろうという思いでいっぱいです。
お店の方々にとても親切にしていただき、そしてかわいいお子様ランチも食べることができて娘もさぞ喜んでいたと思います。
思いもよらぬ皆様の温かなおもてなしのおかげで、とても良い想い出ができましたし娘のためにも、とてもよい供養ができたと思います。
親子3人で楽しいひとときを過ごさせていただきまして、本当にありがとうございました。
あの時のお礼を言いたくて手紙を書かせていただきました。
娘は天国へ行ってしまったけれど、私たちのかけがえのない宝です。
これからも愛し続け、一生ずっと一緒に生きて行こうと思います。
また娘を連れて遊びに行かせていただきます。
ステキな夢を見れる日を楽しみにしています。 スタッフの皆様、日ごとに寒さが加わってまいりますので、お体を大切に、これからも私たちのために頑張って下さい。
孫の為に頑張ってみようかな
土曜日、一人娘の結婚式だった。
当時俺25歳、嫁33歳、娘13歳。
まぁ、要するに嫁の連れ子だったんだけど。
娘も大きかったから、多少ギクシャクしながらも数年過ぎた。
子供はあえて作らなかった。
収入の問題もあったけど、娘の気持ちを考えたら、子供は娘1人いればいいって事になった。
突然嫁が交通事故で逝った。
娘17の時。
突然、2人きりになった。
現実味がなくて二人して呆然。
『これからどうしよう』と思った。
生活の面では収入も安定してたし、娘も家事の一通りは出来た。
何の問題もないはずだったけど、嫁側親戚が騒ぎ立てた。
そらそーか。
血の繋がらない29の男と17の女。
ある意味カップルでもおかしくない歳の差だもんな。
「あなたはまだ若いんだから」
とか、
「再婚するにも子供がいちゃ・・・しかも自分の子供じゃないのに・・・」
とか、散々言われた。
でも、俺は間違いなく娘は俺の娘だと思ってた。
何よりも、嫁のたった一人の忘れ形見だ。
俺が育てて行く以外の選択肢は全く頭になかった。
そんな親戚の騒ぎは、右から左に流した。
娘も
「今更こんな足の臭いオッサンと、どうにかなるかw」
と笑ってた。
当たり前の様に言う娘の気持ちが嬉しかった。
やっぱり、影であらぬ噂を立てられた事もあった。
三者懇談や進路面談で学校に行くと、必ず教師に変な顔をされた。
部活で遅くなった娘を迎えに行って
「お宅の生徒が援交をしている」
と、近隣住民から学校に通報された事もある。
それでも、2人で暮らして来た。
再婚なんか考えた事もなかった。
それくらい娘には穏やかな、幸せな時間を与えてもらってた。
娘に話があると言われた。
「結婚したい人がいる」
と。
娘は25になってた。
俺が嫁と結婚したのと同じ歳。
正直、複雑な心境だった。
次の日曜に、相手の男に会った。
娘を見る目が優しかった。
こいつなら大丈夫だと思った。
安心した。
諦めもついた(笑)
あっという間に披露宴だ。
「お母さんが亡くなった時、本当にどうしようかと思った。
お父さんはまだ若かったから、私がいたら絶対に足枷になると思ってた。
だから、これからも一緒に暮らすのが当たり前みたいな態度でいてくれたのが
本当に本当に嬉しかった。
私のお父さんは、お父さんだけです。
今まで本当にありがとう。
お母さんが亡くなってからも、今までずっと幸せな子のままでいられたのは、お父さんがお父さんだったからです。」
娘がしゃくりあげながら読む花嫁からの手紙を聞いてたら、バージンロード一緒に歩いてた時点で必死で堪えてた涙がどっと溢れた。
娘が出て行く前に、箪笥の引き出し一つ一つに
「ぱんつ」
「しゃつ」
「とれーなー」
「くつした」
とか書いた紙を貼っつけていった。
そこまで俺自分で何も出来ない父親かよwww
しかも、平仮名www
近いうち娘に良く似た孫とか出来ちゃうんだろうな。
そんで
「俺、まだじーちゃんとかいう歳じゃねーし」
とか言っちゃうんだろうな。
俺、間違ってなかった。
大変だったけど、父親って立場選んでよかった。
嫁と結婚して良かった。
娘の父親になって良かった。
1人になって部屋は何か広くなっちゃったけど。
微妙な抜け殻感は否めないけど。
今度はいつか生まれて来る孫の為に頑張ってみようかな。
神様に手紙を
4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。
ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。
「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」
こっそりと中を読んでみたら、
「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」
と書いてあったそうだ。
旦那は去年、交通事故で他界した。
字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・
受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。
「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ~」
最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。
娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。
ありがとう、大好き
俺が30歳の時、ひとつ年下の嫁を貰った。
今の俺たちには、娘が3人と息子が1人いる。
長女は19歳、次女は17歳、三女が12歳。
長男は10歳
こういうと『長女と次女は嫁の連れ子?』といわれる。
違う、そうじゃない。
長女と次女は、俺とは血が繋がっている
しかし、俺の子ではない。
俺には、3歳年上の姉が居た。
姉は25歳で結婚、二女を設けた。
しかし、ダンナが夢多き男でデザイナーだとか今度は設計事務所だとか。
最後は、議員になると選挙にまで立候補した。
しかし、いずれも当たらず・・・
借金をして、その借金の工面に俺の姉も一緒に働き、仕事に駆けずり回っていた。
そんなある日。
姉夫婦が深夜のコンビニでのバイトを終え、車で帰宅途中、酔っ払い運転の車にぶつけられた。
2人は、帰らぬ人となった。
最初は、何がなんだか分からなかった。
当時、結婚したばかりだった俺は、
『人生って上手くいかねぇな』
とか
『神様って本当に居ないんだな』
とかそんなことばっかり考えてた。
当時、5歳と3歳の姪が2人残された。
2人をどうするか、両家の家族で色々と話し合った。
ウチの両親は当然、今までの姉の苦労を知っていたから、自分達が引き取り、ちゃんと育てると言った。
確かに両親は自分の目から見てもちゃんとしているし、問題無いだろうと思っていた。
しかし、義兄の家族は、既にウチの親父が定年で会社の嘱託顧問となっていたため、『今後の収入が期待できない』と言い出した。
義兄の親は自営で、一応収入はあったが、先行きには期待できなかった。
そんな話し合いの中、俺は姪2人に聞いた。
「俺と住むか?」
と。
2人は「ウン」と言った。
嫁に事情を話すと、2人産んだと思えば良いと言ってくれた。
『裁判をする』と言っていた義兄の家族も、『まだ、若くて収入が期待できる人ならば』と納得してくれた。
こうして、俺は突然、2人のパパになった。
2人の姪は素直だったが、俺と嫁のことを「パパ」「ママ」と呼ぶことに抵抗があったようだ。
次女は比較的早くから嫁を「ママ」と呼んでいた。
嫁は「ママと呼んでくれた」と、1人で泣いていたのを覚えている。
パパと呼び出したのは小学校に入るくらいかな?
しかし、長女は時間がかかった。
嫁のことをママと呼ぶまでに7年掛かった。
俺は結局、パパと呼んでもらったことは無かった。
そんな長女も高校生になった。
大学も当然考えるようになったある日のこと。
嫁が高校の3者面談に行くと、長女は自分の希望をこう言ったという
「音大に行って、音楽の先生になりたい」
と。
これで俺はピンと来た。
姉は小さい頃からピアノをやっていて、長女も3歳ごろからピアノをやっていた。
俺と一緒に住むようになってからも続けていた。
彼女なりに、産みの親とのつながりを持っているんだと思った。
長女は東京の音大に進みたいと言い出し、結果、推薦を貰って、この春希望の大学に進学した。
結局、俺は一度も「パパ」とは呼ばれず、俺はあだ名で呼ばれていた。
長女が東京へ旅立つ日、俺は出張で海外にいた。
帰国すると、長女が家族全員に書いたという
手紙を嫁から貰った。
そして、号泣した。
以下、そのまま。
『○○ちゃんへ
泣きながら(次女の名前)と2人で
○○ちゃんと暮らし出したのを
昨日のことのように覚えています。
怒られてムカついたし、
一緒に遊んでくれてすごい嬉しかったし、
本当に感謝してます。
ありがとう。
そんな私を東京の音大にまで出してくれて、
本当に本当にありがとう
今まで以上に言うこと聞いて良い子になって帰ってきます。
最後に
パパ、本当にありがとう、大好き』
あぁ、俺もお前のことが大好きだ。
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