父親の泣ける話 – 感動エピソード【8】全5話

父親の泣ける話 - 感動エピソード【8】全5話 泣ける話

 

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父親の泣ける話 – 感動エピソード【8】

 

 

両親は永遠に二人一緒

オンタリオ州セントトーマスで、ごくごく平凡に暮らしてきたベーカー夫妻は、妻のドロシーさんの方が夫のグレンさんより6つ年上だった。
妻がどこかへ行くときには必ず夫が付いて来る、そんな夫婦だった。いつも一緒にいる二人だった。

1946年にダンスホールで出会ったときからして、グレンさんはドロシーさんの“後を追い”続けてきた。
そのときグレンさんは、ダンスホールで偶然見かけたドロシーさんに一目惚れしてしまった。
ダンスに誘ったが最初は断られた。でも、彼はあきらめることなく、ドロシーさんの後を追った。
根負けしたドロシーさんは、結局、ダンスの誘いに応じた。これが二人の馴れ初めだった。

翌1947年の6月に晴れて夫婦となった。夫妻は、グレンさんのホームタウンであるセントトーマスに居を構えた。
ドロシーさんは、いくつかの会社で事務員として働いた。グレンさんは、30年にわたってデパートの家具売り場で働いた。
二人の間に生まれたのは、娘のリンさんただ一人である。

一人娘のリンさんが成人した後、旅行好きなドロシーさんが海外旅行に出かけるときは、必ずグレンさんが嬉しそうに付いて行った。
そうして二人で世界中を旅してきた。

定年後のグレンさんは、家の中でいつもドロシーさんの傍にいたがった。
ドロシーさんが付いて来てくれないと、外出したがらなかった。

しかし、ドロシーさんは老いと共に持病の肺疾患が悪化していった。
今年の11月5日、ドロシーさんは体調を大きく崩してセントトーマス病院に入院した。
彼女の肺はもはや治療可能な状態ではなく、緩和ケアを受けることになった。

家に残されたグレンさんは、その2日後に体の不調を訴えて同じくセントトーマス病院に運ばれるが、翌日に退院する。
だが、体調が戻らず、11月14日に再入院することとなった。

緩和ケア病棟に入院したドロシーさんは、ますます容態が悪くなり昏睡状態に陥った。
別病棟に入院していたグレンさんの方は、意識こそあったが衰弱が進んでいた。

そして、12月1日、いよいよドロシーさんの命の炎が消える時が近づいていることを悟った病院スタッフたちがグレンさんをベッドごとドロシーさんの病室に運び込んだ。
そして、意識レベルが下がりつつあるグレンさんのベッドを昏睡状態のドロシーさんのベッドの横にぴったりと寄せて配置した。

グレンさんは薄れゆく意識の中、ドロシーさんの手に自分の手を伸ばし、手を繋いだ。

午後7時、ドロシーさんが息を引き取った。享年88歳。そのとき、グレンさんも既に昏睡に落ちていた。
ナースたちは、亡くなった妻と昏睡状態の夫の手をすぐにほどこうとはしなかった。妻の臨終後2時間にわたって、夫婦の手は繋がれたままだった。

2時間後、ドロシーさんの遺体を安置所に移すためにナースたちが夫婦の手をほどいた。
手がほどかれた直後、グレンさんの容態がみるみる急変した。
30分後、グレンさんは、まさしくドロシーさんの後を追うように息を引き取った。享年82歳。安らかな死に顔だった。

一人娘のリンさんは言う。「両親は互いに尽くし合っていて、深く愛し合っていました。死さえも二人を分かつことはなかったということでしょうね」

ドロシーさんの緩和ケアを担当していた医師の1人は、グレンさんがドロシーさんの後を追うように息を引き取ったことについて、こんなふうなことを話している。
「旦那さんは奥さんといつまでも一緒にいたかった。その強い思いが二人を天に導いた。医学的にあれこれ説明するよりも、そう考えて二人の冥福を祈りたいと思います」

リンさんは、衰弱していく父を死に瀕した母の病室に運んでくれたナースたちの思いやりに心から感謝している。
病院スタッフたちにとって、二人の最後を見届けたことは涙なしには語れない体験となった。

緩和ケア担当のシャロン・ベーカー医師(夫婦と同姓だが親戚ではない)は、こう話している。
「その場にいた皆の心に熱いものがこみ上げてきました。愛の絆・・・それがあるからこそ、私たちはこうして日夜この仕事に取り組んでいるのです」

二人の遺体は、セントトーマスの墓地に仲良く並んで埋葬されることになっている。

リンさんは言う。
「父は、どんなときも母と一緒にいたがっていました。純粋な愛、真の愛の絆で二人は結ばれていました。
こうして、両親は永遠に二人一緒にいることができるのです。そう考えると、悲しいことではない気がします」

 

親父の味

幼稚園の時でした。
そのころ、休みの日の昼飯は親父がいつも作っていた。親父は結婚前一人暮らしが長かったからそれで料理を覚えたと言っていた。結婚後も家族サービスでたまに料理していた。そんな親父が料理しているのが面白そうで俺はせがんで教えてもらった。
最初は卵焼き。それからチャーハンとか、色々と教わった。そんな俺を見てお袋も楽しそうに包丁の使い方教えてくれた。小学生になる頃にはお袋の代わりに晩飯作るようになった。2つ下の妹はあまり料理に興味を示さなかった分、二人とも俺に色々と教えてくれました。

親父、料理好きだったな。仕事で中国に行った時には餃子作り方教わってきて作ってくれた。国内もいろいろ行ったからあちこちの料理教わってきて作ってくれた。

そんな親父は単身赴任先で急死した。
親父のアパートの台所には最後に作ったイカと大根の煮物が残っていた。それを家族みんなで泣きながらたべた。最後の親父の手料理でした。
お袋の味はいつか越えられるように頑張っているけど俺は親父の味超えられるのかなあ。

 

最高なんていらない

突然、心臓麻痺で倒れて、そのまま父は逝った。
旅行先だった。父さんが一番楽しみにしてた。
毎月でも行きたかったけど、家が貧乏だから。
毎年だけど夏に海へ行ってたんだ。
一日目の海ではしゃいでた父がまだ残ってるよ。
子供みたいにはしゃいでから寝てたアンタを見るのが、毎年の楽しみだったよ。
一日目の夜に、明日は○○海岸行こうって、ホント子供みてーだなぁとか言ってからかってた。
そんで次の朝なかなか起きない父を見てオレは泣きそうになった。
父が冷たかった。
昨日あんなにはしゃいでたのにな。はしゃぎすぎたんじゃねーの?
それでも俺は泣かなかった。家族の前で泣くやつは男じゃないとか勝手に造ってて。
妹も母も泣きじゃくってた。見てるのが辛かった。
それでもオレは、ばかみてー意地張ってに泣かなかった。
数日後に、母さんが俺と妹に真剣な顔で言ってきた。
父さんは元々、心臓が弱かったらしい。
医者とかにも、海は行くなって言われてたらしいけど
なんで海に行くのをおkしてくれたのか、後になって母さんにだけ教えてくれたらしい。
母さんはまた泣きながら俺たちに話してくれた。
父さんはもう自分が長くはないって分かってたらしい。
だから、最後に家族で沢山思い出を作ってやりたいんだって
子供たちに、いい親父だった。って言わせてやるんだって
母さんが泣いて、妹も泣き始めた。
オレももう、泣かずにはいられなかった。
はじめて家族の前で泣いた。どんな時も泣かなかったのにはじめて泣いた。
馬鹿な親父だな。もう一年生きてたら最高の親父だったよ。
でもオレには馬鹿な父親じゃないとダメだった。
アンタが馬鹿でよかったよ。最高なんていらないんだよ。

ありがとう父さん。いつかオレがそっちに行っても、ずっと馬鹿な親父でいてよ。

 

毎日つけていた日記

私の父は無口で頑固で本当にこわくて
親戚中が一目置いている人でした。
家に行ってもいつもお酒を飲んでいて
その横で母がせわしなく動いていた記憶があります。

私が結婚する事になり、ドキドキしながら主人を連れて行くと
ずっと黙ったままやっと口を開くと
「ビールは何を飲むんや?」でした。
その日はなんとか無事に終わり、式の当日終始酒をつぎにまわってた。
その後、子供が生まれ少し育児ノイローゼ気味になった私を見て
なぜか毎日孫の世話をしに来るようになった。
当然子供の面倒など見たことないので、する事がめちゃくちゃで
イライラしていた私は嫌味ばかり言ってしまった。
2ヵ月後、あまり調子がよくないと言っていた矢先他界した。
なんでもっと優しくしてあげなかったんだろう?
紙オムツの仕方を聞かれて、それぐらいわかるでしょって
なんで冷たく言っちゃったんだろう?
あの日、自分でどうにかしようと思って変な形になったオムツが
残されてた・・・
その後、毎日つけていた日記が見つかり、式の当日
「あのバカ娘がとうとう嫁に行った。最後の挨拶では涙が出た。
幸せになれ。」って書いてた。
おまけに家には主人があの日答えた「アサヒビール」が
押入れいっぱい詰められていた。

 

もう一度母の子に生まれたい

京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、
認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。

事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。
その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。

母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。

介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。
カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」

片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、
2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、
母は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。
片桐被告が「すまんな」と謝ると、
母は「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、
母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。

この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。
肩を震わせ、眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。

裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。

目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、
刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

 

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