感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【22】
母の気持ち
ある日、学校から帰ったら母がいなくなっていた。
鍋の中には、私達姉弟の大好きなロールキャベツが作ってあった。
もう味は覚えていないけれど、大好きだったんだよなぁ・・・。
今、二人の子供の母となって
あの日、母がどんな気持ちでロールキャベツを作っていたか少しわかったような気がする。
でも私には、子供達を置いて行くなんて事は、絶対にできない。
8歳の時の記憶だけれど、トラウマになっているのかも。
自分の子供たちには、まだ一度も「ロールキャベツ」を作った事が無い。
母がいなくなって、色々辛かった。
ここには、とても書けないような事も沢山あった。
でも今は、自分でも信じられないくらい穏やかな毎日を送っている。
娘の机の落書き。
「ままだいすき」
私の宝物です。
残り1年
先週、娘が家に来た。
妻は娘を産んですぐに逝ってしまった。
その頃私の仕事が忙しかった事と、義父母の説得もあり、娘は義父母に養子縁組してもらった。
その時から娘にとって私は親戚の叔父さんになった。
義父母には再婚してくれと言われたが、娘になるべく会いたいと思い近くに住まいを借りた。
そのおかげで、娘もなついてくれ、成長も感じられ、生き甲斐だった。
成長するにつれ、なついてくれなくなったが、娘はどんどん妻に似てきた。
その娘が9月に結婚すると・・・
途中、胸が一杯になり、涙ぐむと、娘が「おとうさん、ありがとう」と。
結婚の話を義父母にした時に、事実を聞かされたらしい。
その後、初めて2人で妻の墓参りに行った。
妻にも娘の嫁ぐ姿を見せてやりたかった。
そして、先月検査を受けた病院に結果を聞きにいった。
残り1年。
神様ありがとう。
娘の結婚式に出席できるようにしてくれて。
妻よありがとう。
こんな私と結婚してくれて。
そして、娘を産んでくれて。
義父さん、義母さんありがとう。
娘を立派に育ててくれて。
そして、智則くん、娘を幸せにしてやってくれ。
今、私は幸せでたまらない。
骨髄移植
今年の10月17日に私の大好きなお姉ちゃん(当時19歳)が亡くなりました。
病気でした。
病名は骨髄腫瘍。いわゆる癌です。
10月10日に私はお姉ちゃんに一部骨髄をあげました。
お姉ちゃんは9月24日に事故にあい、腰にある骨髄と右腕が折れてしまい、折れた骨髄が使い物にならなかったそうです。
右腕は何とかくっ付きリハビリすれば何とか使えるとゆうことです。
でも、骨髄は何をやってもくっ付かないそうです。
なので、ゆういつ血液型、形が一緒な私がドナーになりました。
お父さんとお母さんは一致しませんでした。
実は、私とお姉ちゃんは捨て子で里親付きの施設に入りました。
そこで来てくれたのが今の父と母です。
話は戻りますが、私は直ぐに骨髄の一部を取り除きました。
すると、ピッタリ一致しました。
お姉ちゃんは「ありがとう(*^_^*)レイ」と、言っていました。
でも、これが最期に聞いたお姉ちゃんの言葉でした。
10月14日お姉ちゃんは骨髄腫瘍になりました。
あまりにも辛いらしく、言葉も一言も喋りませんでした。
そこから、寝たり、微笑んだりして10月17日お姉ちゃんは19歳とゆう短い生涯を閉じました。
最期にお姉ちゃんは私達が見守る中で微笑み、そして静かに目を閉じました。
私はどうして骨髄何だろうと深く考えながら1日中泣きじゃくりました。
もし、癌になった場所が骨髄じゃなかったら、「ありがとう」って聞けたのかもしれない。
でも、お姉ちゃんの身体に私が居る、そう思うと頑張ろうって気持ちになる。
葬式の日。
私は親、親戚の反対を押し切って葬式のスピーチを務めた。
そして私は親、親戚に内緒でわたしとお姉ちゃんの写真をスライドショーにした。
その中で私はスピーチをした。
お姉ちゃんとの思い出、伝えたかったことなどを話した。
家族や親戚も皆泣いていた私は泣きながらスピーチした。
葬式が終わった後、私は父に物凄く怒られたけど、その後抱きしめられて「よくやった」と褒められた。
その後、私は父に言われ、家に帰りお姉ちゃんの部屋でぐっすり眠った。
実は、あのスライドショーは徹夜でやった物だった。
夢を見た。
お姉ちゃんの声で「ありがとう」って、言われた。
私は「どういたしまして。お姉ちゃんと過ごした時楽しかったよ」と言い返した。
生まれてはいけなかったのか?
今19才で小学校6年生の夏にお母さんを亡くしました。
お母さんがなくなったその日のことを私はよく覚えていません。
ただ”しんどい”と言って仕事から帰ってきていたお母さんが、それでも作ってくれた晩ご飯だけ覚えています。
このあと救急車で運ばれ意識が戻らないまま一週間がたちお母さんはなくなりました。
私の家はシングルマザーで、母と兄と私の三人家族でした。
6才離れていた兄は高3で一人暮らし出来る年齢だったため、家を出ました。
1人になった私は、おぢいちゃんと親戚のおぢさんが引き取ってくれました。
父親は生きていて何度か会ったこともあります。
お母さんの入院中もお葬式も来てくれました。
でも私を引き取ってはくれませんでした。
その理由をお母さんがなくなってから親戚のおぢさんに聞かされました。
父親には家族がいて、私とお兄ちゃんは「愛人の子供として生まれてきた」と…
だから戸籍にも普通なら”兄弟”と書かれるところが”女、男”なんだと…
お母さんも亡くなり、お兄ちゃんも出て行き、父親も引き取ってくれず。。
こんな話を急に聞かされた私は、自分が生まれてはいけなかったのかと悩みました。
毎日夜になっては1人で泣いて、いい子になるからお母さん戻ってきて…会いたい…と思いました。
それからつきひがたって、中学を卒業し、家を出、彼氏と同棲というカタチで生活してきました。今もです。
身内ぢゃなくて、彼や友達仕事場の人たちに、ほんとにお世話になりました。
今の環境は落ちついています。
高卒くらいは必要と思い学校に通っています。
来年卒業予定です。
仕事も併用して週4~6は働いています。
車の教習にも通っています。
同棲なのでもちろん掃除洗濯家事もしています。
1年があっというまに過ぎていきます。
お母さんが死んでから八年がたちました。
どんなに悲しくても”時間が解決する”というスレや記事をよく見ます。
けれど八年たった今でも悲しくて涙が溢れる夜があります。
友達のお母さんをみていいな、と思います。
時間が解決はきっとないと思います。
逆に時間を重ねるごとにお母さんという存在の大きさにきずきます。
女性になっていくにつれてお母さんが尊いです。
これから結婚子供、女性としての人生を送る中で、不安なことや悩みがたくさんあります。
子供のことは義母にも相談出来るでしょう。
でも旦那さんの愚痴や義母の愚痴は、義母には言えないです。
やっぱりお母さんにそばにいてほしいです。
なにがあっても自分の味方。その存在は大きすぎます。
今でも会いたいです。
声が聞きたいです。
もぉお母さんの声が思い出せません。
抱きしめてほしいです。
20才になる私を見せたいです。
夢でいいから会いたいです。
もう一度だけ会いたいです。
子供を虐待していた女性
その女性は自分の子供を虐待してました。
こんな事してはイケない、殴っちゃイケないとわかっていました。
虐待した後は必ず後悔してその女性は泣き自分を責めます。
ある日、このままではいけない!と思った女性はその子を泣きながら抱きしめ
『ごめんね』
と言いました。
するとその子は
『僕がお母さんのお腹に入る前神様にTVを見せられたの。そこにはいっぱい女の人が映って、僕はお母さんを選んだの。
神様にその人はやめた方がイイって言われたけどそのTVに映ったお母さんの笑った顔が大好きになったから!』
と言いました。
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