感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【31】
お父さんがんばろうね
俺の会社の友人。
4年ほど前に交通事故で奥さんと当時4歳の長男を亡くした。
飲酒運転の車が歩行中の二人をひき殺すというショッキングな内容で、ワイドショーとかでも取り上げられたほど凄惨な事故だった。
後日談を聞くと加害者の家族もかなりつらい日々を送ったようで、今となっては同情はするが、当時は友人の悲しみよりも加害者への怒りが大半だったのを憶えてる。
まだ娘(当時1歳)がいたことがせめてもの救いだったけど、葬儀に出席した会社の女の子なんか、その娘の顔を見るなり泣き崩れてたよ。
その後仕事も辞めようと思ったらしいが、娘のためにと仕事には復帰。
しかしその後の育児、仕事などは大変だったと思う。
俺もそうだが会社やご両親、ご近所さんも含めて何かと気に掛けて助けられることは助けてきた。
で去年、そいつが事故後初めて家に招待してくれて、数人で一緒に鍋をつついた。
そしてある和室を見せてくれたんだけど、
その部屋だけはまったく片付けてなく、洗濯物とか黄色くなってたたんであるまま。
透明の衣類ケース?みたいのやおもちゃも無造作に置いてあって、奥さんと長男が最後に使っていた部屋ということで当時のまま残してるとの事。
で、気丈なそいつも、今でもその部屋を見るととても直視できない状況で、俺らに説明しながら涙があふれてきてる。
そしたら娘が来て、笑いながら
「お父さんがんばろうね。裕太くんが見てるもんね。」
って言うんだよ。
裕太ってのは長男の名前なんだけど、当時のことなんか娘は知るよしもないわけで、つらい事だけど娘にはちゃんと説明してるんだよね。
二人でお母さんやお兄ちゃんのことを忘れないで、そうやって声を掛け合ってるわけよ。
励まそうと思ってやってきた俺らだけど、逆に力をもらったよ。
酒が入ってたのもあるけど、どんどん涙が出てきて・・・
泣いた。
みんなもがんばれよ
泣いたりして困らせちゃダメ!
もう十数年前になるけど、嫁が急逝してドロップアウトした。
赴任先の基幹病院のある地方都市。
俺の嫁は誰も知り合いもいない土地で、最後まで子供の心配しながら最後まで俺に謝り続けて一人で逝った。
3歳の娘一人残して。
葬式の時、娘は
「ママいつ来るの?ママいつ起きるの?いつ起きるの?」
ってずっと泣いていた。
娘は嫁の実家で面倒みてもらいながら仕事に戻ったよ。
忙しい病院だった事に加え、いつも学会準備に追われていたので帰宅は毎日遅かった。
それでも休みの日には嫁の実家に泊まりにいって、少しでも娘と一緒にすごすようにした。
母親がいなくなった事も受け入れているようで、俺がいくといつも笑って走って来て「パパー!!」って抱きついてきた。
嫁の実家に行ってからは泣くこともなく娘は楽しく暮らしているように見えたよ。
嫁の実家で娘と一緒に寝ていた時、深夜にすすり泣くような声で目が覚めた。
俺が起きた事に気が付くと、一生懸命に寝た振りをしようとしていたけど、すすり泣く声が漏れる。
娘を抱き上げて、どうして泣くのを我慢するんだ?って聞いても黙っていた。
何度も何度も聞いたら、
「じいちゃんとばあちゃんに、パパは忙しくて疲れているのだから絶対に泣いたりして困らせちゃダメ!」
って言われてそれを一生懸命まもっていたらしい。
嫁の実家の生活でも気をつかって、いい子でいなきゃいけないって頑張って、3歳の子が泣きもせず、わがままも言わずに祖父母の言う事もよく聞いて、毎晩ふとんの中で祖父母を起こさないように一人で声を殺して泣いていたらしい。
娘は嫁の実家に来て以来はじめて大声をあげて泣いた。
「ママんとこ行きたいー おうちに帰りたいー おうち帰るー」
ってずっと叫んでいた。
娘にとっては大好きな母親と暮らしたあの家だけが「自分のおうち」だった。
今まで言えなかった思いが噴き出して狂ったように朝まで泣き叫んでいた。
驚いて起きてきた祖父母も悟ったらしく一緒に泣いていた。
娘に「もう頑張らなくていいんだよ。おうちに帰ろうね」と約束して抱きしめて一緒に泣いた。
医局を辞める決意をしたよ。
娘を連れ帰ると決めたので、少しでも娘と一緒にいる為に週休3日の自由診療のクリニックへの入職も決めた。
休みが多く早く帰宅できて、当直やオンコールのない職場ならなんでもよかった。
教授室のドアをたたき事情を説明した。
教授はドロップアウトする俺を、汚物でもみるような目でみて
「いいから早くここから出て行きなさい」と言ったのを最後に目もあわせてくれなかった。
上の先生達にも、数時間なじられた。
赴任先の病院を急に辞める事で迷惑かけるので、血の気の多い先輩には殴られた。
退局後、祖父母に心からのお礼を言って娘を連れ帰ってきた。
小さな仏壇も用意して、
その前が娘のお気に入りの場所になった。
昼間は保育園にあずけたり、嫁の実家にあずけたりして新しい仕事を始めた。
早いと4時、遅くとも6時には帰る事ができるクリニックだったので、娘とすごす時間は格段に増えた。
植毛、美容外科までなんでもやった。
大学の同期の連中からは白い目で見られ続けた。
その手のクリニックが今よりはるかにあやしいイメージの時代だったので。
こんな医者として最下層までドロップアウトした俺を見て育ったのに、娘は医学部に行きたいって言い出した。
正直、今の情勢で医者になるのは疑問だったけど、こんな俺を見ながらにして同じ仕事を目指してくれたのが本当にうれしかった。
医学部に合格して、娘と二人で母親の墓前に報告にいった。
こんなにいい子に育ってくれたと胸をはって報告できた。
娘が社会にでて、幸せにしてくれる旦那をみつけたら俺はいつ死んでもいいな。
ちょっと疲れたよ^^;。
医局員が見たら誰の事か一目瞭然だな。
その節は本当に御迷惑おかけしました。
娘と二人でなんとかやっています。
とうちゃんのたまご焼き
この前息子の通う保育園で遠足があった。
弁当持参だったのだが、嫁が出産のため入院していたので俺が作ることに。
飯炊くぐらいしかしたことないのに、弁当なんて無理!
嫁にアドバイス貰ったり、弁当の本を買い朝5時から弁当つくりをした。
案の定不細工な弁当が出来上がった。
申し訳ないと思いながらもそのまま持たせた。
夕方子供を迎えに行くと空になった弁当箱と手紙を渡された。
字は書けないはずなのに
「とうちゃんありがとう」
俺の似顔絵付きで。
先生が言うには、午後の外遊びの時間に
教室にこもって手紙をずっと書いていたんだと。
帰りの車中で「なんか食べに行こうか?」と尋ねると「とうちゃんのたまご焼き食べたい!」と。
涙堪えるの必死だったよ。
新しいママが来た日に
サキちゃんのママは重い病気と闘っていたが、死期を悟ってパパを枕元に呼んだ。
その時、サキちゃんはまだ2歳。
「あなた、サキのためにビデオを3本残します。 このビデオの1本目は、サキの3歳の誕生日に。
2本目は小学校の入学式に。 そして3本目は…○○○の日に見せてあげてください」
まもなく、サキちゃんのママは天国へと旅立った。
そして、サキちゃんの3歳の誕生日。1本目のビデオがかけられた。
(ビデオからつないだテレビ画面に、病室のママが映し出される)
「サキちゃん、お誕生日おめでとう。ママ、うれしいなぁ。でもママはね、テレビの中に引っ越したの。 だから、こうやってしか会えない。パパの言うことをよく聞いて、おりこうさんでいてね。だったら、ママ、また会いに来ます」
サキちゃんの小学校入学の日。2本目のビデオ。
「サキちゃん、大きくなったネ。おめでとう……。ママ、うれしいな。どんなにこの日を待っていたか。 サキちゃん、ちゃんと聞いてね。 ママが今住んでいるところは、天国なの。だから、もう会えない。でもね、パパのお手伝いがちゃんとできたら、ママ、もう一回だけ、会いに来ます。じゃあ、魔法をかけるよ。 エイッ!ほうら、サキちゃんは料理や洗濯ができるようになりました」
そして3本目のビデオ。そのタイトルは、こう書いてあった。
新しいママが来た日のサキちゃんに
そしてサキちゃんが10歳の時、パパは再婚し、新しいママが来た。
3人いっしょに、3本目のビデオを見つめた。
なつかしいママの顔が映し出された。
「サキちゃん、おうちの仕事、がんばったね。えらかったね。でも、もう大丈夫。新しいママが来たんだから。…… サキちゃん。今日で本当にお別れです。 ……サキちゃん、今、身長はどれくらい?ママには見えない。 (泣き崩れ、カメラを抱え込む姿が映る) ママ、もっと生きたい…。 あなたのために、おいしいものいっぱいつくってあげたい…。あなたの成長を見つめていたい…。じゃあ、サキちゃん、これがママの最後の魔法です。それは、『ママを忘れる魔法』です。ママを忘れて、パパと、新しいママと、楽しい暮らしをつくってください。では、魔法をかけます。1、2、3、ハイッ!」
そこでビデオは終わった。
しかし、サキちゃんに、この魔法は効かなかった。 パパと、新しいママにも効かなかった。
ママは、みんなの心の中に、ちゃんと残っていた。
そして今度は、サキちゃんが主役の、4本目のビデオがつくられたのだった。
天国のママに見てもらうために
親父の事
俺の親父は仕事一筋、俺が小さい時に一緒にどっか行ったなんて思い出は全く無い。
何て言うのかな…俺にあんまり関わりたがらないような人って感じ。
俺は次男で、兄貴には結構厳しくて説教したり時には手出してたの見た事も有った。俺にはそんな事は全く無かったんだ。
だから余計に兄貴ばっかりで俺には興味が無い(言い方変かもしれんが)んじゃないか、ってよく思ってたんだ。
高校決める時も「お前がいいならそれでいい」の一言だけ。
遅く帰っても、テストの成績が悪くても全く口出さなくてさ、いつも俺に言うのはおかん。
まともに今日何が有った、とか話した事も殆ど無かった気がする。親父から話し掛けてくる事なんてまず無い。
だから俺も殆ど親父に関わらずに生きてきたんだ。
そんな親父が入院したのはちょうど高校2年の時。
動脈硬化?って言うんだっけか…血管がコレステロールで詰まってしまう病気。
その時もさ、確かに驚きはしたけど、そっか…って感じだった。
しばらく入院と通院が続いて、手術もして大分良くなった時が、ちょうど俺の大学受験と重なったんだ。
第一志望の大学の合格通知見た時、おかんはちょうど病院に居た。
連絡取りたくてもその時は今ほど携帯普及してなかったから、おかんから電話が来るか帰ってくるの待つしかなかった。
その時タイミング良く今から帰るから晩飯買って行くって電話来たんだ。
当然その時に報告したらおかんも大喜びしてくれた。
おかんと電話で話してから20分くらいしてからかな、家に電話かかって来た…親父からだった。
おかんから今さっきの電話で大体の様子は聞いてた。
少なくても一人で電話して来れるほどにはまだ回復して無い事も。
「親父何やってんだよ、寝てなきゃ駄目じゃないのか?」
「馬鹿、俺なんかどうでもいいんだよ。それより、大学受かったんだって?」
「あぁ…」
「そっか、良かったな…おめでとう!」
その時さ、何かもう頭の中真っ白になっちゃってその先何話したか全然覚えてないんだ。
無理してまで俺におめでとうって言ってくれたのが嬉しくてさ…電話切った瞬間に、涙溢れて止まらなかった。
おかん帰ってきた時も俺泣いてて、俺言葉にならない様な声でおかんにその事言ったんだ。
そしたらさ、ゆっくり話し始めてくれた…親父の事。
親父小さい時に父親戦争で亡くしてて、親としてどう子供に接したらいいか分からないっておかんによく言ってた事。
兄貴に厳しくして俺に何も言わなかったのも、どうしたら上手く俺とコミュニケーション取れるか分からなかったからって事。
俺が小さい頃に一回怒って、俺が全く親父に寄り付かなくなった時が有って、それがずっと心に残ってた事。
俺が何が好きかよく分からなくて、休みの日にどこに連れて行こうか迷っている内に結局行けなくなってしまった事。
俺の事可愛くて仕方が無かったから、何も言えず、ただ心配しか出来ず、おかんに色々言うしか出来なかった事。
親父が俺を避けてたんじゃなくて、俺が親父を避けてたって事
馬鹿だよな俺。何も分からなくて、分かろうともしなくて・・・親父は凄く悩んでたってのにさ。
もしかしたらさ、俺のせいで病気になったんじゃないかって。
もう情けなくて申し訳無くて、泣きながらずっと親父に謝ってた。
それからすぐ親父は仕事を退職、毎日家に居る。
相変わらず毎日の薬と、週何回かの通院のままだけどね。
親父、長生きしてくれな。
俺も大学卒業出来て仕事に就いて、今まで出来なかった親孝行やっと出来る様になったんだからさ。
俺が仕事行く時にわざわざ玄関まで来なくたっていいよ。
欲しい物有ったら何でも言ってくれよ。
体辛くなったらすぐ言ってくれよ。
気なんか遣わなくていいんだからさ・・・
最後に、面と向かっては言えないからここで言わせてくれ。
こんな馬鹿息子で本当にごめん・・・ありがとう。
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