『癌の告知を受けた母から三人の子どもへ』など短編5話【16】 – 感動する話・泣ける話まとめ

『癌の告知を受けた母から三人の子どもへ』など短編5話【16】 - 感動する話・泣ける話まとめ 感動

 

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感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【16】

 

 

オレンジ色のチューリップ

6年ほど前の今頃は、花屋に勤めていた。
毎日エプロンをつけて店先に立っていた。
ある日、小学校1年生ぐらいの女の子がひとりで花を買いに来た。
淡いベージュのセーターにピンクのチェックのスカート。
肩の辺りで切り揃えた髪が、動くたびに揺れて愛らしい。
フラワーキーパーの前に立ち止まり、真剣な面持ちで花を選んでいる。
母の日でもないし、クリスマスでもないし、何のプレゼントかなぁと思って、しばらく様子を見ていた。

あっちを見たりこっちを見たり、あまりにも一生懸命でなかなか決まらない様子だったので、
「誰かにプレゼントするの?お誕生日?」
と声をかけてみた。
少女は首を横に振る。
「お母さんにあげる」と言う。
「お母さんお花が好きなん?」と聞くと、今度は首を縦に振る。
こんなおっさんが相手したら緊張して言葉にならないかなと思って、ニコニコ笑顔を頑張ってみた。
しかし、少女の口から思いがけない言葉を聞いて、胸がつまった。

「パパが死んじゃったの。ママ元気ないの。だからお花あげるの」
そんな言葉を口にしながら、一生懸命お花を選んでいる。
泣きたい気持ちで爆発しそうになった。
「そっかぁ。。。お母さんきっと喜ぶねぇ」
笑顔を頑張れなくなってきた。
それから色々話を聞いてみると、つい最近お父さんが亡くなったこと、お母さんが時々泣いているのを見かけること、おばあちゃんに、お母さんがどうしたら元気になるか聞いたら、お花がいいよって教えてもらった
ことが分かった。

レジの後ろへ駆け込んで、しゃがみこんで急いで涙を拭いて。
パンッパンッと頬っぺたを叩いて気合いを入れなおした。

「どれにしよっか?お母さん何が好きかなぁ?」
「これがいい」
指の先にはチューリップ。
鮮やかな明るいオレンジ色。

「うん、チューリップかわいいね。
じゃあ、リボンつけるからちょっと待ってて」
女の子は大人しくじっと見ている。

「お母さん早く元気になるといいね」
「うん」
出来上がった花束を大事そうに抱えて、ニッコリ笑ってくれた。

「ありがとう」
「気をつけてね。バイバイ」
と言って手を振った。
元気よく手を振りかえしてくれると思ったら、ぺこりとおじぎをした。

小さな女の子が頭を下げる姿を見て、限界に来た。
どしゃぶりの雨のように涙が溢れて止まらなくなった。
もっと他に言ってあげられることはなかったか、してあげられることはなかったか。
そんな時に限って何にも出てこない。

急に思い立って、駆けていく少女を追いかけた。
「ちょっと待って!」
振り返ってきょとんとしている。
「ちょっとだけ待ってて」

店に入ってきたばかりの小さな小さなチューリップの鉢植えを急いでラッピングして、メッセージカードに
「はやくげんきになりますように」
とひらがなで書いた。
その時初めて名前を聞いた。

「みかより」と書き添えた。
「これも一緒にプレゼントしてあげな。
これは親指姫っていう名前のチューリップやねん。
かわいいでしょ?」

「うん。ありがとう」
もう一度、さっきより、もっといい顔をしてくれた。
「バイバイ。ありがとうね」
「バイバーイ」
花よりも何よりも輝くように明るい笑顔だった。

後日、お母さんと、おばあちゃんと、みかちゃんが店にやってきた。
わざわざお礼を言いに来て下さったのだ。
ピンクのチューリップで花束を注文して下さった。

「この子はピンクが好きなんです。
私がオレンジ色が好きなものですから、こないだはオレンジを選んでくれたみたいで」

みかちゃんはただニコニコしている。
花束を本当に嬉しそうに抱えながら、お母さんとおばあちゃんを交互に見上げる。
「よかったね」
おばあちゃんが頭をなぜる。
お母さんは優しい顔で見ている。

「うん!」

お母さんはきっと元気になられたことだろう。
小さな小さなみかちゃんの笑顔は、今も明るく輝いていることだろう。

 

40年ぶりに親父と手をつないだ

昔、子供の頃
よく親父と手を繋いで歩いた・・・
親と手を繋いでみてください・・・
40年ぶりに親父と手をつないだ
なぜか・・・少しやさしい気持ちになれた
なぜか・・・少し心がゆたかになって
なぜか・・・少し感動した

ちょっと前
八歳になる息子と
イルミネーションを見に行った
イルミネーションのトンネルの下で
息子と手を繋いで歩きながら色々と考えた・・・
「今年もここに息子と来ることができてシアワセだな・・・」
「来年もこうしてここで手を繋いで歩けるかな・・・」
「来年はまだ三年だから手を繋いでくれるかな・・・
でも、
再来年は四年生になるからだめかな・・・」
「こいつが二十歳になったら一緒に酒呑みたいな・・・」
次の瞬間・・・気がついた・・・

「親父も俺が子供の頃同じように思ったんだ・・・」

考えてみると
まだ一度も二人で呑んだ事はない・・・

もちろん小学生の頃から手を繋いだ事もない・・・

48歳になる自分でも
80歳になる父とっては
永遠に子供・・・

きっかけを作り
「手を繋いでみよう・・・」と思った

親父の好きな八代亜紀を見に行き
その後居酒屋で呑んだ
酔った親父を介抱するふりをして
階段で手を繋いでみた・・・

40年ぶりの親父の手は
やわらかくて
小さくて
しわくちゃになっていた・・・

ふと子供の頃を思いだした・・・
その瞬間涙があふれてきた・・・
ぬぐっても・・・ぬぐっても・・・
自分でもわけがわからないくらい・・・

自分はあの日から
少しやさしい人間になれた気がする・・・

あと何回息子と手を繋げるだろう・・・

あと何回親父と手を繋げるだろう・・・

親と手を繋いでみてください。

 

 

癌の告知を受けた母から三人の子どもへ

平野恵子さんは、三人の子どもに恵まれたお寺の坊守であった。
彼女が三十九歳の冬、お寺で新年を迎える準備をしていたとき、下腹部の激痛におそわれ、多量に下血した。
彼女はただならぬ重い病気であることをさとった。
あふれでる涙のなか彼女はこう思った。

「この目の前の現実は、夢でもなく、幻でもない。
間違いのない現実なのだから、決して逃げる訳にはゆかない。
きちんと見据えて対処してゆかなければ・・・」
彼女は癌の告知を受けて後、三人の子どもたちへ、母親としてあげられることは一体何だろうと考えた。
彼女は、死を前にした自分の願いを、こう記している。

「お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。
でも、事実は、どうしようもないのです。
こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげれること、それは、死の瞬間まで、
「お母さん」でいることです。
元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。
そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への最後の贈り物になるはずです。
人生には、無駄なことは、何ひとつありません。
お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。
大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいのいや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。
子どもたちよ、どうかそのことを忘れないでください。
たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。
深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。
そして、悲しみ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。
それがお母さんの心からの願いなのですから。
お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。
本当に本当に、ありがとう。」

さらに、彼女は、死の前で、子どもたちに次のような手紙を送っている。

「お母さんは“無量寿”の世界より生まれ、“無量寿”の世界へと帰ってゆくものであります。
何故なら“無量寿”の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の“いのちの故郷”そして、お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。
お母さんはいつも思います。
与えられた“平野恵子”という生を尽くし終えた時、お母さんは嬉々として、“いのちの故郷”へ帰ってゆくだろうと。
そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と共に野を駆け巡るのだろうと。
緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となってあなた達を喜ばせます。
また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と戯れるのです。
時には魚となり、時には鳥となり、時には雨となり、時には、雪となるでしょう。
“無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの世界なのです。
そして、すべての生きものは、その深い“いのちのねがい”に支えられてのみ生きてゆけるのです。
だからお母さんも、今まで以上にあなた達の近くに寄り添っているといえるのです。 悲しい時、辛い時、嬉しい時、いつでも耳を澄ましてください。
お母さんの声が聞こえるはずです。
『生きていてください、生きていてください』というお母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の心の底に届くはずです。」

彼女の子どもへの愛情は、この世限りのものでなく、死をも超えてつながる真の愛情であると信じて疑わない。
その浄土は、生きとし生けるものの故郷であり、無量寿の世界であると彼女は受けとめている。

 

 

優しい証拠の涙

ビューっと風が吹く寒い日だった。
前日の夜、飼い犬のシロが死んだ。
私が生まれる前から我が家に居た、大きな真っ白の雌犬だった。
優しい性格で、私にとっては姉のような存在だった。
学校に行く道すがら、ずっと涙がこぼれていた。
二年生の教室に着いて椅子に座っても、心の中はシロの事で一杯だった。
先生が入って来た。
笑い声が大きい、とびきり明るくて、どこか私の母に面影が似ている沢先生だ。
先生は私の顔を見るなり、「どうしたぁ?」と聞いた。

私はしかめ面に涙を一杯浮かべていた。
答えようとしたけれど、「シロが・・シロが死んで…。」と言うのが精いっぱいだった。
先生は、「そうかぁ、今日は悲しい日やな。思う存分泣いてもええで。」
涙が次から次へとこぼれた。
そこが教室でも、皆が見ていても止まらなかった。
先生は普通に授業を進めた。
友だちたちも、先生も、それきり何も言わなかった。
私は何者にも邪魔されずに、枯れるまで涙を流す事が出来た。
私たちが通う山あいの小学校は、人数が少なくふたクラスしかなかった。
私は一年生から六年生まで変わらず沢先生が担任だった。
母に似ている先生が私は大好きで、何かと甘えたり、ひっついたりしていた。
うちは母子家庭だったので、母は働きに出ていて不在気味だった。
そのせいもあって、先生は「お母さん」のような存在でもあった。
実際私は先生の事を何度も「お母さん」と言い間違えたが、先生は「お母さんちゃうでぇ。」と笑いながら頭を撫でてくれた。
夏休みや冬休みになると、先生に会えないのが寂しくて学校に行ったり、先生の家に遊びに行ったりした。
先生は私が一人で突然訪れても、迷惑なそぶりも見せず、いつも優しく受け入れてくれた。
皆の先生なのだけど、私にとって特別な人だった。

六年生になって、冬を越した頃先生は病気になった。
丸くて艶々した顔が、見る間に細くなっていった。
私たちは心配で何度も「先生早く元気になってやぁ。」と言った。

2月に先生はとうとう学校を休む事になった。

担任は臨時で教頭先生が兼ねた。
卒業式の前日、先生から家に電話がかかって来た。
「卒業おめでとう!六年間、よく頑張ったなぁ。先生卒業式に行けんでごめんなぁ。」
わたしはその声を聞いて、すぐに涙があふれた。
涙声で「先生、卒業式にはこれへんの?」と聞いた。

先生は
「一足先に電話で卒業式やね。
声だけやけど顔が目に浮かぶで。
又泣いてるんか?
小さい時から変わらへん泣き虫やなぁ。
でもそれは、美代の良い所やな。
優しい証拠の涙やな。」

卒業式で沢先生の電話の事をクラスメートに話したら、一人ひとり、皆の家に電話があったらしい。
先生は私たち皆を心から可愛がってくれた。
卒業まで担任ができなくて残念だっただろう。
それから私たちは山を降りてマンモス校の中学生になり、部活や新しい友人との毎日に埋没していった。
高校に入り、大学生になり、その頃初めて先生が亡くなったと聞いた。

卒業式のすぐ後だったという。

なぜ知らせてくれなかったのか…。
今からでも先生のお墓にお参りしたい。
そう思って私は先生のご実家に電話をかけた。
先生のお母さんが出られて、先生の生前のご意志で子どもたちにはその死が知らされなかったのだと聞いた。

優しくて大好きな子どもたち、その門出を力いっぱい元気に祝ってあげたい。
先生の死を悲しまないで。
先生はいつも皆の事を見守っています。

お母さんはそれだけ告げて電話を切られた。

先生、私は涙をこらえる事もできるようになったよ。
悲しくても、それを乗り越える力も身に付けたよ。
2年生だったあの時、先生が思いっきり泣かせてくれたから。
今の私は悲しくてたまらなくても、先生の笑顔を思って笑う事もできる。

でもやっぱり、涙が少し頬を伝った。
優しい証拠の涙やね。

先生、ありがとう。
先生、大好き。

 

 

塾講師と少し変わった生徒

私が学習塾講師になって間もない頃、
S君という中学三年生の生徒が入塾してきました。
無口で少し変わった子でした。
授業の時にノートを出さない。
数学の問題はテキストの余白で計算する。
だから計算ミスばかりしているのです。
たまりかねた私は、ある時彼を呼び出して言いました。
「ノートはどうした」
しかし、S君は黙ったままうつむいています。
次の日は必ずノートを持ってくるように約束させましたが、
それでも彼はノートを持ってきませんでした。
私はカチンときて思わず怒鳴りつけました。
「反抗する気やな。よし分かった。
先生がノートをやるわ」
私は五百枚ほどのコピー用紙の束を机にボンと投げ出しました。
するとS君は「ありがとうございます」と御礼を言うのです。

「あの子は小学校の頃からこの塾に通って
K学院に進学するのがずっと夢だったんです。
でも先生、大変申し訳ないのですが、
うちにはお金がありません……」
S君が早くに父親を亡くし、母親が女手一つで彼を育て上げてきたことを 知ったのはこの時でした。
塾に通いたいというS君をなだめ続け、生活を切り詰めながら なんとか中学三年の中途で入塾させることができたというのです。
私はしばらく頭を上げることができませんでした。
S君に申し訳なかったという悔恨の念がこみ上げてきました。
そして超難関のK学院合格に向けて一緒に頑張ることを自分に誓ったのです。

K学院を目指して早くから通塾していた生徒たちの中で
S君の成績はビリに近い状態でしたが、
この塾で勉強するのが夢だったというだけあって
勉強ぶりには目を見張るものがありました。
一冊しかない参考書がボロボロになるまで勉強し、
私もまた、他の生徒に気を使いながらこっそり彼を呼んで
夜遅くまで個別指導にあたりました。
すると約二か月で七百人中ベストテンに入るまでになったのです。
まさに信じがたい伸びでした。

S君はそれからも猛勉強を続け、最高水準の問題をこなせるようになりました。
K学院の入試も終わり、合格発表の日を迎えました。
私は居ても立ってもいられず発表時刻より早くK学院に行き、
合格者名が張り出されるのを待ちました。
真っ先にS君の名前を見つけた時の喜び。
それはとても言葉で言い尽くせるものではありません。
「S君に早く祝福の言葉を掛けてあげたい」
そう思った私は彼が来るのを待ちました。

しかし一時間、二時間たち、夕方になっても姿を見せません。
母親と一緒にやって来たのは夜七時を過ぎてからでした。
母親の仕事が終わるのをずっと待っていたようでした。
気がつくとS君と母親は掲示板の前で泣いていました。
「よかったな。これでおまえはK学院の生徒じゃないか」
我がことのように喜んで声を掛けた私に彼は明るく言いました。
「先生。僕はK学院には行きません。公立のT高校で頑張ります」

私は一瞬「えっ」と思いました。
T高校も高レベルとはいえ、K学院を辞退することなど
過去にないことだったからです。
しかし、その疑問はすぐに氷解しました。
S君は最初から経済的にK学院に行けないと分かっていました。
それでも猛勉強をして、見事合格してみせたのです。
なんという健気な志だろう。
私はそれ以上何も言わず、S君の成長を祈っていくことにしました。

この日以来、S君と会うことはありませんでしたが、
三年後、嬉しい出来事がありました。

東大・京大の合格者名が週刊誌に掲載され、その中にS君の名があったのです。
「S君、やったなぁ」。
私は思わず心の中で叫んでいました。

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