『病気と闘う中学生』など短編5話【47】 – 感動する話・泣ける話まとめ

『病気と闘う中学生』など短編5話【47】 - 感動する話・泣ける話まとめ 感動

 

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感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【47】

 

 

不甲斐ない

母が死んで今日で一年とちょっと。
高齢出産だったこともあって、俺の同年代の友達の親と比べると明らかに年くってた。
俺が「なんでもっと若く生んでくれなかったの!?」と責めたこともあった。
俺が思春期のころとにかく心配性な母がうざいのと、
親父には恐くて何も言えなかったから何でもかんでも
母に当たってた。
たくさん文句言って寝ようと自分の部屋に入ったとき
母のすすり泣く声が聞こえたときは自分の不甲斐なさに気付き俺も泣いた。

お母さんが死ぬ時っていつか来るってわかってた。
でも気付いてからは遅いんだよね。
そんな俺も今年で23才になる。
20才を迎えたくらいから親孝行したいなって思って高齢出産だった母に孫の顔を見せてあげたいなって思ってた。
それで、先月生理来ない彼女が病院行ったら子供が出来てたよ。
お母さん。
無事に生まれてくれたらいいな。

俺を生んでくれてありがとう。
高齢出産だったから辛かったろう。
でも孫の顔見せてあげたかったな。
抱かせてあげたかったな。
でももうお母さんの笑顔見れないんだよね。
あの笑い声ももう聞けないんだよね。
でも俺少しは一人前の大人になったよ。
学歴も無いし給料安いけど
ついに家庭を持つよ。
こんな幸せなことってなかなか無いよね。

俺の子供にはお母さんからもらった優しさを少しでも分けてあげたい。
休みの日は子供といっぱい遊ぶ。
俺が小さい頃のお母さんよりは動けると思うよ。
なんたってまだ俺若いからね。

お母さんが死ぬ前日に俺に言った言葉。

「今日はお風呂入ってもう寝なさい」
あの時寝なきゃ良かったな。
今でも思うよ。
一晩中話しとけば良かったよ。
なんで死んじゃうんだよ。お母さん。
もっといっぱい甘えとけば良かった。
もっといっぱい話したかった。
旅行に連れて行ってあげたかった。
それで美味しい物いっぱい食べさせてあげたかった。
次の日冷たい体に抱きしめても、声かけても何も返って来なかったよ。
お母さん、天国から俺の事見える?
俺の事もう心配しなくていいからね。
子供の名前何にしようかな。
お母さんだったらどうする?
明日仕事休みだから彼女とお墓参り行くよ。

最後に生きてるとき言いたかったけど言えなかった言葉。
「お母さん、生んでくれてありがとう」

 

 

突然嫁が交通事故で

土曜日、一人娘の結婚式だったんさ。

当時俺25歳、嫁33歳、娘13歳。
まぁ、要するに嫁の連れ子だったんだけど。
娘も大きかったから、多少ギクシャクしながらも数年過ぎた。

子供はあえてつくらなかった。
収入の問題もあったけど、娘の気持ちを考えたら、
子供は娘1人いればいいって事になった。

突然嫁が交通事故で逝った。
娘17の時。
突然2人きりになった&現実味がなくて二人して呆然。
これからどうしようと思った。

生活の面では収入も安定してたし、娘も家事の一通りは出来た。
何の問題もないはずだったけど、嫁側親戚が騒ぎ立てた。

そらそーか。
血の繋がらない29の男と17の女。
ある意味カップルでもおかしくない歳の差だもんな。

「あなたはまだ若いんだから」とか、
「再婚するにも子供がいちゃ・・・しかも自分の子供じゃないのに・・・」
とか、散々言われた。

でも、俺は間違いなく娘は俺の娘だと思ってた。
何よりも、嫁のたった一人の忘れ形見だ。
俺が育てて行く以外の選択肢は全く頭になかった。

そんな親戚の騒ぎは右から左に流した。
娘も「今更こんな足の臭いオッサンとどーにかなるかw」と笑ってた。
当たり前の様に言う娘の気持ちが嬉しかった。

やっぱり影であらぬ噂を立てられた事もあった。
三者懇談や進路面談で学校に行くと、必ず教師に変な顔をされた。

部活で遅くなった娘を迎えに行って「お宅の生徒が援交をしている」と
近隣住民から学校に通報された事もある。

それでも2人で暮らして来た。
再婚なんか考えた事もなかった。
それくらい娘には穏やかな、幸せな時間を与えてもらってた。

娘に話があると言われた。
「結婚したい人がいる。」と。
娘は25になってた。

俺が嫁と結婚したのと同じ歳。
正直複雑な心境だった。

次の日曜に相手の男に会った。
娘を見る目が優しかった。

こいつなら大丈夫だと思った。
安心した。
諦めもついた。(笑)

あっという間に披露宴だ。

「お母さんが亡くなった時、本当にどうしようかと思った。
お父さんはまだ若かったから、私がいたら絶対に足枷になると思ってた。
だから、これからも一緒に暮らすのが当たり前みたいな態度でいてくれたのが
本当に本当に嬉しかった。

私のお父さんは、お父さんだけです。
今まで本当にありがとう。
お母さんが亡くなってからも、今までずっと幸せな子のままでいられたのは
お父さんがお父さんだったからです。」

娘がしゃくりあげながら読む花嫁からの手紙を聞いてたら
バージンロード一緒に歩いてた時点で必死で堪えてた涙がどっと溢れた。

娘が出て行く前に、箪笥の引き出し一つ一つに
「ぱんつ」「しゃつ」「とれーなー」「くつした」とか書いた紙をはっつけていった。

そこまで俺自分で何も出来ない父親かよwww
しかも平仮名www

近いうち娘に良く似た孫とか出来ちゃうんだろうな。
そんで「俺まだじーちゃんとかいう歳じゃねーし」とか言っちゃうんだろうな。

俺、間違ってなかった。
大変だったけど、父親って立場、選んでよかった。

嫁と結婚して良かった。
娘の父親になって良かった。

1人になって部屋は何か広くなっちゃったけど。
微妙な抜け殻感は否めないけど。
今度はいつか生まれて来る孫の為に頑張ってみようかな。

 

電源のついていない医療機器

僕のお母さんは癌で死にました。

今僕は中学1年ですが小さいころから母は何度も入院したりしていて、
子供ながらになんでだろうと思っていました。
小学5年生の時ぐらいから母はいつも帽子をかぶるようになっていきました。
今思えばそれは辛く苦しい抗癌剤の副作用なのでした。

母は旅行などでも笑顔を絶やさない人で、いつも笑っていました。
そして小学5年生の春休み前、母は父と一緒に「行ってきます」と行って病院へ行ってしまいました。
それが母と交わした最後の言葉でした。

それから祖母の家で過ごし3月の下旬いきなり午前4時ごろに起こされ車で病院へ行きました。
病院へ着き急ぎ足で病室へ行くとそこには電源のついていない医療機器と気持ちよさそうに寝ている母の姿がありました。
近くに行ったら父が「お母さんは、すごく頑張ったぞ」と泣きそうな顔で言いました。
その時僕は悟りました
母は逝ってしまったと・・・
頭が真っ白になった僕を父は抱きました

そのまま祖母の家に帰された僕は布団の中でずっとずっと泣いていました。
翌日葬式があり告別式も済み出棺されました。
骨を拾っているときも僕は涙をこらえていました。

その後母の遺品を見ていると
「ハッピーバースデー1歳の君へもう歩けるようになったかなぁ」という手紙が出てきました。
他にもいろいろな手紙が出てきて、それは母が僕宛に書いたけれど照れがあったためしまっておいた手紙の数々
なんだなぁと思い大号泣しました。

母は僕のことを1番に考えてくれていたのです。
そんな母にたいした親孝行もできなかった僕は後悔しました。

でも僕は今精一杯生きています。
母にできなかった分、父に親孝行するために。

 

 

病気と闘う中学生

三歳ぐらいの時から、毎日のように遊んでくれた1コ上の兄ちゃんがいた。
成績優秀でスポーツ万能。しかも超優しい。
一人っ子の俺にとって、ほんとに兄ちゃんみたいな存在だった。

小4の時、真冬にサッカーしてて
林に入ったボールを取って戻ってきたら兄ちゃんが倒れてた。

慌てて抱き起こしたら吐いちゃって
その時は風邪ひいてるって言われてバイバイした。

しばらくして入院したって聞いて、病名も知らないのにお見舞いに行った。
退院できたけど学校には滅多に来なくなった。

外で遊んじゃいけないらしいんで、毎週土日は兄ちゃん家にくにおくんをやりに行った。
よく兄ちゃんのママンから「来てくれてありがとうね」って言われて
近所のオバチャンからは「○○君と遊んでるなんて偉いわね」って言われた。
言葉の意味が俺にはさっぱり分からなかった。

(はぁ?友達なんだから当たり前の事じゃないの?)
純粋にそう思えるぐらいバカなガキだった。

しばらくしたら絶対良くなって、また外で遊べるって思ってた。
親にも兄ちゃんのママンにも、そのうち良くなるって言われたし。

ある日、やけに兄ちゃん宅に抜け毛が多いなって事に気付いた。
身長も俺のほうが上になったし、外に出ないから肌真っ白だし、腕も超細いし。
その事を親に話したら、脳腫瘍っていう難しい病気なんだよって初めて聞かされた。

兄ちゃんがあんまり長くないって事、なんとなく分かった。
それから急に顔合わせるのが辛くなった。
遊びに行く機会が段々減っていって、最後は全く遊ばなくなった。

しばらくして、晩飯の時間のニュースで
「病気と闘う中学生」みたいな感じの特集に兄ちゃんが出てた。
見るのが嫌になってチャンネル変えた。
親に思いっきりビンタされた。

結局会う事になったのは2年ぶり、兄ちゃんが棺の中に入った時だった。
兄ちゃんのママンから「何か言ってあげて」って、凄い優しい声で言われた。

俺が遊びに行かなくなってから、どんな気持ちで毎日家の中で過ごしてたんだろうって
そう考えたら胸が張り裂けそうになって、何も言葉にする事ができなかった。

結局自分の事しか考えて無かった。もっと沢山会ってあげればよかった。
本当にごめんね。謝っても謝り切れないけど
あれからは身近な人を、いつでも大切にしようって思えるようになったんだ。

今年も線香あげに行くよ。

 

 

一番大きなお金は「十円玉」

発達障害を持った子のお話です。

幼稚園は、近所の子供たちと一緒に通っていましたが、
小学校に上がると、ちょくちょく学校を休むようになり、
一年生が終わる頃には、全く学校へ行かなくなってしまったそうです。
二年生になっても、三年生になってもその子は、
学校に行こうとはしませんでした。
そして、四年生に上がる頃、父親と、母親が話し合って、
養護学校に預ける事にしました。
養護学校には、寮みたいなものがあって、
勿論、家に帰る事はできませんでした。
四年生で入ったその子は、一年生の学習から
始めなければなりませんでした。
専門の先生が、主要教科を一対一で丁寧に教えていきました。

その日習った新しい事を、毎日毎日、
その子は母親に電話で報告していました。
ほんの少しずつでは、ありましたが一年間でその子は、
たくさんの事を学び、覚えていきました。

その子を、ずーっと教えていた先生が、
ある日、算数を教えようとしてお金の問題を出しました。
「ここに、五百円玉、百円玉、十円玉、三つのお金があります。
どのお金が、一番大きなお金ですか?」
と、その子に質問しました。
「十円玉」
と、答えるのだそうです。先生は、
「五百円なのよ」
と、教えましたが、同じ問題を繰り返すと、
どうしてもその子は、
「十円玉」
と、答えてしまうのです。

何度も、何度も、やはり答えは、十円玉だったので、
先生は、
「五百円玉と、百円玉と、十円玉では、五百円玉が、
一番たくさんのものが買えるのよ。
だから、一番大きいのは、五百円玉でしょ?」
と、言うのですが、
その子が、どうしても違う、十円玉だと言うので、
先生は、
「それじゃ、十円玉のほうが大きいと思う訳を言ってごらん」
と、言ったそうです。

すると、その子は、

「十円玉は、電話が出来るお金。
電話をするとお母さんの声が聞けるの!」

と話したそうです。

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