感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【48】
亡くなった子から届いた絵葉書
ふと思い出したけど、
俺、死んでしまった子から絵葉書もらったことがある。
中学のときの隣のクラスの女の子で、病気でほとんど学校にこないまま死んでしまった。
うちの学校は生徒数が少なかったので、体育のときや課外授業のバードウォッチングとか
2クラス合同でやる科目がいくつかあって、
まだ学校にくることができた頃に何度か一緒になるくらいだった。
一度だけ喋ったことがある。
寝坊して完全に遅刻だしと思って、いつものバス停に歩いて行ったらその子が停留所のベンチに座ってた。
田舎だから時間ずれるとバスがぜんぜんこなくって、しばらく黙ってたけど暇だしなんとなく話しかけたんだ。
「お前も寝坊したの?」
「・・・病院、よってきたから」
俺はそのときになって、なんだか知らないけど病弱でほとんど学校にきてない子がいるって話を思い出し、それがこの子だと気づいた。
その子はそれから1年くらいで死んでしまったので、今思えば本当に無神経なんだけど
俺は「へえ、どっか悪いの?」と訊いてしまった。
彼女は少し笑って「うん、ちょっとね」って言ってた。
彼女は俺が中学にあがるまで新聞配達していたのを知ってて
(彼女の家にも配達していたらしい)、
「前から思ってたけど、ほんとえらいよね」ってやけに褒めてくれたもんだった。
じつはゲームソフト欲しさだったことは言わなかった。
バスがきて、学校につくまでたわいもない話をした。
天気いいのにかったるいよなーとか。
彼女と話したのはそれが最初で最後だった。
中学卒業したあとで絵葉書が届いた。
夕焼け空のきれいな写真のハガキだった。
最初は誰かわからなかったけど、しばらく考えて思い出した。
そのちょっと前に葬式があったと聞いていた子だった。
「朝焼けの写真だったらよかったのに。でも、夕焼けもきれいでしょ?」
と書いてあった。
その下にスペースがあまっていたから、
もしかしたらほかにも書こうとしてやめてしまった書きかけだったのかもしれない。
書きかけのまま大切そうにしまっておいた絵葉書を、家族の人がみつけて出してくれたんだそうだ。
新聞配達なんて眠いし重いし手が真っ黒になるけど
朝焼けが気持ちいいと、かっこつけて話したのを思い出した。
そのハガキ、たぶんまだ どっかにあると思う。
足の悪い子犬
あるペットショップの店頭に「子犬セール中!」の札が掛けられました。
子犬と聞くと子供はたいそう心をそそられるものです。
しばらくすると案の定、男の子が店に入ってきました。
「おじさん、子犬っていくらするの?」
「そうだな、30ドルから50ドルってところだね。」
男の子はポケットから小銭を取り出していいました。
「僕、2ドルと37セントしかないんだ。でも見せてくれる?」
店のオーナーは思わず微笑むと、奥に向かってピィーと口笛を吹きました。
すると、毛がふかふかで丸々と太った子犬が5匹、店員の奥から転がるように出てきたのです。
ところが1匹だけ足を引きずりながら一生懸命ついてくる子犬がいるではありませんか。
「おじさん、あの子犬はどうしたの?」と男の子は聞きました。
「獣医さんに見てもらったら、生まれつき足が悪くて、多分一生治らないって言われたんだよ。」
と店のオーナーは答えました。
ところがそれを聞いた男の子の顔が輝き始めました。
「僕、この子犬がいい。おじさん、この子犬を売って!」
「坊や、よした方がいいよ。そりゃあ、もしどうしてもっていうのなら、ただであげるよ。どうせ売れるわけないから。」
と店のオーナーが言うと、男の子は怒ったように睨み付けました。
「ただでなんかいらないよ。おじさん、この犬の何処が他の犬と違うっていうの?他の犬と同じ値段で買うよ。今2ドル50セント払って、残りは毎月50セントづつ払うから。」
その言葉をさえぎるように店のオーナーは言いました。
「だって、この子犬は普通の犬みたいに走ったりジャンプしたり出来ないから、坊やと一緒に遊べないんだよ。」
これを聞くと男の子は黙ってズボンのすそをまくり上げました。
ねじれたように曲がった左足には、大きな金属製のギブスがはめられていました。
男の子はオーナーを見上げて優しい声で言いました。
「きっとこの子犬は、自分の気持ちがわかってくれる友達が欲しいと思うんだ。」
母を嫌いになりました
もう二十年位前の話です
私は小さい頃親に離婚されて、どっちの親も私を引き取ろうとせず
施設に預けられ、育てられました
そして三歳くらいの時に今の親にもらわれたそうです
当時の私はその自覚などしておらず、
記憶は無く、その親を本当の親と思って中学二年まで過ごしてきました
そして、突然の父との別れが訪れました
脳梗塞で帰らぬ人になりました
そして、その最悪の時に
私とその親は家族ではないということを親戚の方から偶然にも知ってしまったのです
葬儀のあと、私は母を問い詰め、本当の事を聞きました
その時を境に、私は母を嫌いになりました
死んだ父でさえも嫌いになりました
多分、裏切られたとか思ったんでしょう
元々家が裕福ではありませんでした
ですから父が死んでしまったので、母が働きに出ざるを得ませんでした
母は、朝は近くの市場で、昼から夜にかけてはスーパーで働きました
それもこれも全て、私のためのものでした
ですが当時の私にはそれすらもうっとうしく思えてなりませんでした
時には、登校の時間と母が市場から帰ってくる時間がちょうど重なってしまい
友達と登校していた私は、ボロボロになった母と家族であるということを
友達に知られたくなく 「いってらっしゃい」と言う母を無視しては
友達に「誰あれ、気持ち悪いんだけど」という悪口すら言っていたものでした
それを察してか、次の日にはわざと目を伏せ、足早に私とすれ違っていきました
でも、それでも、母は何一つ文句をいわず働いてくれていました
そんな日が一ヶ月くらい続いたと記憶しています
そんな雨の日、雨合羽を着て市場から帰ってくる母とすれ違いました
当然無言です
その姿はなんとも淋しく、哀しく、辛そうに見えたのです
涙が溢れました。ぐしゃぐしゃに泣きました
私は一体何をしているのか
ボロボロになってまで私を育ててくれているあの人に、
私は何をうっとうしく思っているのかと、凄まじい後悔が私を襲いました
私は友達の目も気にせず、母に駆け寄りました
でも、何を言っていいかわかりませんでした
その時、ふと口をついた言葉が「いってきます」でした
言えた言葉はたったそれだけでした
でも、母は一瞬驚き、そして泣きました
そして、何度も何度も「いってらっしゃい」と言ってくれました
私が友達の元へ戻ったあとも、母は私を見ながら手を振って
「いってらっしゃい」と言ってくれていました
今では、彼女こそが本当の私の母親です
たとえ戸籍上はどうあれ、そう思っています
恩は返しきれないくらいあります
母は「それが親の勤めだよ」と言いますが、でも、じゃあ今度は子として
親の面倒を見ていきたいです
この人が母親で、最高に良かったと思います
父性愛というもの
親と喧嘩をし、「出て行け」と言われ家を飛び出して6年。
家を出て3年後に知り合った女性と同棲し2年後に子供が出来た。
ものすごく嬉しかった。
母性愛があると同じように父性愛というのもあると気付いた。
子を愛さない親は居ないと言うのも知った。
妻の検診の日は毎回産婦人科まで一緒に行った。
エコーで動きを見た日は遅くまで妻とこの子の名前や性別を考えていた。
初めて聞いた元気な心音に「父さんはおまえの為にがんばる」と誓った。
何もかもが順調だと思ってた。
予定日の1ヶ月前に妻が破水をした。
切迫流産の前兆だったそうだ。
妻も元気で何も問題なんて無いと思っていただけにビックリした。
嫌な言葉が蘇った。
「八月子はもたない・・・」
詳しい検査をした時に娘の心音に雑音が混ざっている事が分かった。
母子ともに危険な状態になった為、緊急手術で帝王切開する事になった。
よく晴れた10月に君は生まれた。
最初は小さく泣いたらしい。
けど自発呼吸が出来なかったため、
器官に酸素供給するための管を通す事になった。
その後の事は覚えてるけど良く覚えてない。
何処からが現実で何処までが現実じゃないのか。
初めてNICUで見た娘の姿に涙が出そうになった。
娘にかけた最初の言葉が「生まれてきてくれて有難う」.
その後、母親に連絡を取った。
母親の声を聞いたのは実に何年ぶりだろう。
初めて人前で泣いた。
母親にも見せたことの無い涙を見せた。母親も泣いてくれた。
「孫娘には何の罪も無いのに何故・・・」と。
色々医師から説明を受けた。絶望って眩しくも、真っ暗でもなかった。
いつもの生活が私と妻を追い立てた。
娘は管から母乳も飲み、オムツも替えさせてもらい、
名前も付けてやれたし、出生届も出せてやれた。
戸籍上も私の娘。可愛い。
医師からの突然の電話。
最初で最後、娘を抱っこしてあげれた。
涙が出そうになった。
だけど泣かなかった。
泣く必要は無いと自分に言い聞かせた。
18日間、娘は良くがんばった。
妻と二人で娘を荼毘に出し、小さな骨壷に骨拾いをした。
やっと娘は父と母が住む家に帰ってこれた。
最近はやっと落ち着いてきた。
けど、まだ気持ちの整理はついていないのだろう。
人を愛するということ
いとこ(27歳男)が、大腸がんで死んだ。
その彼女は、従兄弟ががんと分かってから、仕事もあったのに毎日病室に訪れ付き添った。
結婚の約束もしていたんじゃないかな。
食べ物を、「お口アーン」とか、やり合ってじゃれてたり、がんが侵食して痛む従兄弟の腰や背中を、彼女がさすってあげたり。
そのころ、10代のガキだったせいもあるけど、従兄弟が死ぬなんてまったく想像つかなかった。
「きっとこの2人はあと数年もしたら結婚して、幸せな家庭築くんだろーな」
なんて、見舞いにいくたび幸せな想像しかできなかった。
普通にうらやましかった。
しかし、従兄弟の病状はどんどん進んでいった。みるみるやせて、目ばかりぎょろぎょろになって、身内のわたしでも正視できなかった。
はやく終わってほしかった。
人の命のもろさが怖かった。
でも彼女はずっとそばにいた。
従兄弟のやせ細った手を握って、抗がん剤の影響で、ぼろぼろに禿げた
あたまにかぶる毛糸の帽子を作ったり。
わたしは、怖くて怖くて病室にも入るのもいやで 病室に入っても、彼女の後姿ばかり見ていた気がする。
従兄弟は、癌がよくなったらどこかへいこうとか、あれ食べに行こうとか今度の携帯の最新機種を買いたいとか、来ない日のことばかりしゃべった。
彼女は笑顔で、「絶対いこーね」「わたしあれ食べたい」とか、いってた。
気休めだろって思ったけど、彼女の目は本気だった。
今、思い返せば、彼女はほかにどうすることもできなかったんだと思った。
彼女も怖かったのに、好きな人を失うことが、きっと自分が死ぬ以上に恐ろしかったと思う。
年末に、癌が全身にまわり、肺に転移。
従兄弟は最初の意識不明に陥った。
医師は、「癌を抑える薬がある。しかし、一時的に抑える効果しかない。苦しみがのびるだけ。私の子供が患者だったらこのまま死なせる」ときっぱり。
両親は、「せめて27歳の誕生日を迎えさせたい」と延命を望んだ。
横で、彼女はだまって、ふるえていた。
薬は効いて従兄弟は劇的に回復した。
彼女と温泉にいったり、近場に旅行いったり、新薬は2人に時間をくれた。
「癌が治った」とはしゃいでいたけど、一時的だというのは本人が何よりも知っていたと思う。
最後のときをすごす2人に、両親も親戚もなにもいわず見守った。
春、従兄弟が3度目の意識不明に陥った。
あまりの痛みに子供のように泣き叫ぶ従兄弟を、彼女と従兄弟の母親が押さえつけ、抱きしめた。
「ここにいるよ。ひとりじゃないよ」
彼女は、死の激痛にあえぐ従兄弟の顔にキスして、手足をさすった。
医師が死亡宣告し、遺体が自宅に搬送されるまで、彼女は従兄弟を抱いた。
何かにとりつかれたように嗚咽する彼女をみて
「人を愛する」ってこういうことかと思った。
彼女は、親戚の手前、通夜、葬式にも出られなかった。
毎年、従兄弟の墓参りには来ていた。
従兄弟が死んで数ヶ月あと、勤めていた会社をやめたことを聞いた。
数年たって、墓参りにもこなくなった。
最近、彼女が結婚し、1児の母になったことを聞いた。
寂しく思った反面、ほっとした。幸せになってほしいと思う。
コメント