感動する話・泣ける話まとめ 短編5話【73】
食べやすいものを
田舎の祖母が入院してるので実家に数日戻ってきた。
祖母はあんまり長くないらしい。
祖父母は九州に住んでて祖父は完全に頑固一徹の昔ながらの親父って感じ。
男子厨房に入らずを徹底して、晩酌は日本酒(必ず熱燗)・ビール・ワインをその日の料理と気分で飲み分ける。
当然、すべて祖母が準備。
熱燗がちょっとでもぬるいと、口を一度つけたあと「ぬるい」と一言だけ言い、無言で祖母に温めなおすよう指示。
祖母は「すみません」と言いその熱燗をもって台所にいき、温めなおす。
祖父は祖母を怒鳴りつけるということはなかったが、とにかく一貫してそんな態度だった。
小さい頃からこまごまとよく働く祖母を呼びつけて「茶」だの「新聞とってこい」だの召使のように扱う祖父をみて、なんだか理不尽なものを感じていた。
その反動か俺は小さい頃から母親の手伝いをよくやったし、今も家事を積極的に手伝うようにしている。
その祖母が先月いきなり倒れたらしい。
検査の結果癌発見。
しかももう手遅れで、手術して無駄に体力奪うよりこのまま…という方針に決まった。
で、GW中は仕事が忙しかったので、連休明けて仕事一段落して長めの休暇もらっていってきたんだが、
実家帰ってびっくりしたのが、祖父が連日祖母の病院に朝からいっているらしい。
ほとんど一日病室で二人で過ごしているそうだ。
病院にいったら祖父はいなかったが、しばらくしたら祖父が帰ってきて、その手には売店で買ってきたらしきプリン。
祖母が食欲が落ちてきたので食べやすいものを、と思って買ってきたらしい。
見ていると祖父が良く動く。
鞄から祖母の着替えを出したり、ちょっとした買い物やなんやと。
俺がそろそろ帰ろうかとしていると、祖父がいきなり
「そうだ。せっかくだから写真を撮ろう」といいだした。
祖母が「こんな痩せてガリガリの写真なんて撮らないでください。
葬式には若い綺麗なころの写真を使ってくださいね」と冗談めかしていうと
祖父は
「病人だし飯も食わんのだからガリガリなのは当然だ。
今のお前が綺麗じゃないという奴がいたら俺がぶん殴ってやるよ」
と。
祖母は「まぁまぁ・・」なんて笑ってたけど、ちょっと泣いてたんだよな。
なんだかんだ言いながらこの二人は夫婦なんだなぁと思ったよ。
質素な医者
俺の祖父は医者だった。
っていっても金はなく家はボロボロで食事なんか庭の野菜とお茶漬けと患者さんからの頂き物だけ。
毎朝4時に起きて身寄りのいない体の不自由なお年寄りの家を診察時間になるまで何件も往診して回る。
診察時間になると戻ってきて待合室に入りきらないで外まで並んでる患者さんを診察していく。
昼休みはおにぎりを片手にまた往診。
午後の診察をこなし食事をすませてまた往診。
夜中に玄関口に患者が来たり電話があればいつでも駆けつける。
一年365日休みなど無かった。
自分の体調が悪くなっても自分を必要としている人がいるからと病院にもいかず診療を続け無理矢理家族に病院に連れて行かれた時にはもう手遅れ。
末期がんだった。
でもどうせ治らないなら入院はしないと痛みをごまかし死ぬ間際まで往診続けてた。
遺産なんか何もなし。
残ったのはボロボロの家だけ。
聞けば治療費を支払えない人ばかりを診察・往診していてほとんど収入なんか無かったんだって。
でも葬式のとき驚いた。
患者だけで1000人ぐらい弔問に訪れ、中には車椅子の人や付き添いの人に背負われながら来る人もいた。
みんな涙をボロボロ流して「先生ありがとう、ありがとう」と拝んでいた。
毎年命日には年々みんな亡くなっていくからか数は少なくなってきてはいるけど患者さんたちが焼香に訪れる。
かつて治療費を支払えず無償で診ていた人から毎月何通も現金書留が届く。
いつも忙しくしてたから遊んだ記憶、甘えた記憶など数えるぐらいしかないけど今でも強烈に思い出すことがある。
それは俺が中坊のときに悪に憧れて万引きだの、恐喝だの繰り返していたとき。
万引きして店員につかまって親の連絡先を教えろと言われて親はいないと嘘ついてどうせじいちゃんは往診でいないだろと思ってじいちゃんの連絡先を告げた。
そしたらどこをどう伝わったのか知らないけどすぐに白衣着たじいちゃんが店に飛び込んできた。
店に着くなり床に頭をこすりつけて「すいません、すいません。」と土下座してた。
自慢だったじいちゃんのそんな無様な姿を見て自分が本当に情けなくなって俺も涙流しながらいつの間にか一緒に土下座してた。
帰り道はずっと無言だった。
怒られるでも、何か聞かれるでもなくただただ無言。
逆にそれがつらかった。
家にもうすぐ着くというときふいにじいちゃんが「おまえ酒飲んだことあるか?」と聞いてきた。
「無い」と言うとじいちゃんは「よし、着いて来い」と一言言ってスタスタ歩いていった。
着いた先はスナックみたいなところ。
そこでガンガン酒飲まされた。
普段仕事しているところしか見た事がないじいちゃんが酒飲むのを見るのも、なによりこんなとこにいる自体なんだか不思議だった。
二人とも結構酔っ払って帰る道すがら川沿いに腰掛けて休憩してたらじいちゃんがポツリと
「じいちゃんは仕事しか知らないからなぁ。おまえは悪いことも良い事もいっぱい体験できててうらやましい。
お前は男だ。悪いことしたくなることもあるだろう。どんなに悪いことをしても良い。ただ筋の通らない悪さはするな。」
と言われてなんだか緊張の糸が切れてずっと涙が止まらなかった。
それから俺の人生が変わった気がする。
じいちゃんのような医者になるって決めて必死で勉強してもともと頭はそんなに良くは無いから二浪したけど国立の医学部に合格した。
今年晴れて医学部を卒業しました。
じいちゃんが残してくれたボロボロの家のほかにもうひとつ残してくれたもの。
毎日首にかけていた聴診器。
あの土下座してたときも首にかかっていた聴診器。
その聴診器をやっと使えるときがきた。
さび付いてるけど俺の宝物。
俺もじいちゃんみたいな医者になろうと思う。
一生懸命走る兄の姿
俺の4才上の兄は障害者
小児マヒで右足が不自由だだから俺が6才になるまで兄は養護施設にいた
俺が幼稚園の年長の時兄は家に戻り普通に学校に通い始めた
運動会の日母と応援に学校へ行った
兄の学年の徒競走が始まったが兄は自分の席に座り参加しなかった
当たり前の話なのだが幼い俺は兄が走らない理由がわからずなぜ走らないか母に聞いた
笑っているだけで答えてくれなかった
翌年兄と同じ小学校に入学した俺はまた運動会の日を迎えた
そしてプログラムは進行し5年生の兄の学年の徒競走が始まった
兄は見学席にはいなかった
スタートラインに先生の肩につかまって立っていた
兄はその時期まだ足にギブスをしていたため歩く姿は頼りなかった
スタートの合図で一斉に走り出す5年生
兄はゆっくりとした足取りで歩き出した
いや一生懸命走っていた
俺はそんな兄の姿を見てられなかった
恥ずかしい、やめてくれ
と正直思った
でもその時
グランド全体から拍手が起こった
兄の走る姿にみんなが声援を送っている
俺もみんなに合わせて拍手をした
ゴールした瞬間涙が出た
あとで聞いたのだが母が兄になぜ走らなかったのと弟が言っていたと話したと
兄は俺のために走ってくれたのかな
照れ臭くて聞いたことはないがそれは胸の中にしまっておこう
運動会の時期になるといつも思い出す
被災地の結婚式
一昨年の六月、被災地(岩手)で友人の結婚式があった
式場は公民館
衣装は取り寄せ
食事は細やかなもの
案内状を送ったはいいものの
ほとんど誰も来ないだろうと思ってたらしい
ところが、返信が来た
60人全員が翌日に返信
60人全員が出席
これが人と人との絆なんだろうなと思った
式の内容?
泣いてばっかりで覚えてません
あんたが見てきた風景
大学中退
自分にできる微かな抵抗
ただ実家を継いで医者になるのに抵抗があった
フリーターをして食いつないでいた四年間
別にいつ死んでもいいとさえ思ってた四年ぶりの親父との電話
「病院は経営難で畳むことにした。
俺の考えを押し付けて悪かったな。
母さんが心配してるいつでも帰ってこい」
声が震えていた
5年ぶりの帰郷
久しぶりに会った親父
なんでこんなに痩せてんだよ
あんなにデカかった背中は見る影も無くなってた
患者のいなくなった病院を寂しそうに見ていた
26歳医学部二回生
ただあんたが見てきた風景を見てみたくなっただけ
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