母親の泣ける話 – 感動エピソード【15】
トランペット
俺が生まれた家は、親父が観光ホテルの社員でお袋は芸者だった。
社会的地位は低かったわけが母が売れっ子だったため幸い経済的にはそこそこ潤っていた。
俺はいわゆるいじめられっ子だった。
ある日俺がいじめっ子たちにお金をせびりとられ、母にその事を話すと「その子たちを呼んで来なさい」と言った。 俺はそいつらを呼び母に会わせた。 母は俺に外にでるよう促し、そのあとそいつらを何か話しているようだった。
やがて彼らは部屋を出てきた。恐らく「テメェ覚えてるよ」と悪態をついてくるものと思っていた。しかし実際には全く違っていた。 彼らはなんと俺に「ありがとう」と礼を行って帰っていき、以後金をせびってくることはなかった。俺は子供ながらに「お母さんはなんてすごい人なんだろう」と思った。
中学に入り、吹奏楽部でトランペットを始めた。 もともとリコーダーやハーモニカは得意だった俺はメキメキ上達し、高校も吹奏楽の推薦枠で入れた。
やがて俺は東京の音楽院に入った。無論母がいなければ到底不可能だった。俺は希望に胸踊らせていた。
しかしそこで待っていたのは、またしても忌まわしい人間関係の苦労だった。
酒のイッキ飲みが出来なかった事を咎められ、気の利いたジョークが言えないのを理由に孤立した。やがて講師たちにも疎ましがられ、裏工作で留年させられた。 俺より成績が悪かった奴等が進級しているにも関わらずだ。
俺は校内で居場所がなくなり中退を余儀なくされた。
自分は一銭も出さなかった親父は「高い学費払ったのにグダグダウダウダ…」と文句を言っていた。 しかし学費を出してくれた母はそんな俺を一言も責めなかった。
母はこう言った。
「イッキ飲みが出来るのが偉いんじゃないよ、裏工作されたのはあなたが優しくて良い人間だから。
卒業は出来なかったけど、学んだ事は沢山あるでしょう」
そのとき俺は、あの少年時代に見た器の大きい母の姿を再び目の当たりにし、そんな母への罪滅ぼしと恩返しをすることを誓った。
給料日のたびに食費の名目で少しづつお金を返し、アマチュア吹奏楽団で吹く傍らで、学校で身に付けた演奏技術や知識を活かし近隣の少中学校に楽器を教えに行ったり、イベントに呼ばれ演奏をしたりしてきた。 母が学校に行かせてくれた事を無駄にしたくなかったから。
やがて俺が指導した子供の中には、俺と同じように吹奏楽団に入り、コンクールで県の代表になった者もいる。
音楽院で散々ダメ出しされた俺のトランペットをいつも誉めてくれた母も歳を重ね、足腰も弱り、かつての気っ風の良さも影を潜めてきた。
あと何年、俺のトランペットを聴いてもらえるだろう。
どうか長生きをして下さい。
母がデジカメを買った
なんか、機械音痴の母がデジカメを買った。
どうやら嬉しいらしく、はしゃぎながらいろいろと写してた。
何日かしてメモリがいっぱいで写せないらしく
「どうすればいいの?」
って聞いてきたが
「忙しいから、説明書読め!」
とつい怒鳴ってしまった。
さらに「つまらないものばかり写してるからだろ!」とも言ってしまった。
そしたら
「・・・ごめんね」
と一言。
そんな母が先日亡くなった。
遺品整理してたらデジカメが出てきて、何撮ってたのかなあと中身を見たら、俺の寝顔が写ってた・・・。
涙が止まらなかった。
宇宙1のカーチャン
俺すっげー性格捻くれてて、
いつもカーチャンと 口喧嘩してたんでさ、
中学に上がってここで反抗期よ、
もうね、
アホみたいにグレてさ 学校行かずにカラオケとか行ったり、
原付乗って暴れたりしてたのよ 家帰ったら親と口喧嘩w
台所でトントントントン何かを切る音とカーチャンのすすり泣く声が聞こえたり、
トイレからわんわん泣いてるカーチャンの声が漏れてきたりしてたよ
強気で1番俺が強いって思ってた自分がバカだよ・・・
カーチャンに負けた んでさ、
中学卒業したと同時にころっと自分を変えたのよ
もう親泣かせないって思ったからね
そしたら今度は鬱やパニック障害よw
もうね、
自分がアホすぎて笑えるねw
手切ったり、
首吊ったりしてさ、
カーチャンもっと泣いてたよ・・・
仕事休んでずっと俺のそばにいてくれてさ
親の愛とかすげーと思った
親父は家族のために働いてくれてるしさ
カーチャンは働きつつ家事もやったりしてんだよ
でも俺捻くれてるから、
「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか言ったことないのよ。
本当に一度も言ったことない、
俺アホすぎw
カーチャン過労で死んだ
もうね、
言葉にできないってこの状況だと思ったね
俺のせいだって自分を責めたね。
まぁ俺のせいだろうけどw
カーチャン・・・
名前呼んでよ、笑ってよ、怒ってよ
口喧嘩でもいいから話したいよ
マジでごめん・・・
俺産んでくれてありがとう
本当はずっと思ってたよ
カーチャンは宇宙1のカーチャンだよ
俺さ、もうすぐガキができるんだ。
あんたみたい に、子供のために命かける親になるよ
本当にありがとう
居場所のわからなかった母
おととしの、秋の話しです。
私が小学校5年の時に家をでて居場所のわからなかった母に、23年振りに顔をあわせました。
祖母の葬式の時です。
その時、母の家に遊びに行く約束をしました。
その日は、私が料理を作りました。
ハンバーグと肉じゃがと、簡単なサラダです。
2人で食事をしてお酒を飲んで、始めはあたりさわりのない話しをしてました。
それから「何故いなくなったのか?」という話しになりました。
母は、たんたんと話します。
私も母がつらくならないように、途中、冗談を入れながら聞きました。
帰る時、
「今日はおかあちゃん、なんもできひんかってごめんな。」
と、言ったので、私は
「ほな、残ったご飯でおにぎり作って」
と言いました。
母は、
「そんなんで、ええんか」
と笑いながら作ってくれました。
帰り、駅からタクシーに乗りました。
今日のことを思い出しているうちに、不覚にも涙がててきました。
運転手さんがびっくりして、「気分悪いんか?」と聞かはりました。
私は
「いえ、なんか、嬉しくって、泣けてきちゃったんです」
と泣き笑いしながら、運転手さんに今日の事を短く話しました。
すると、運転手さんも一緒に泣き出してしまいました。
「よかったな、よかったな」
と鼻水まですすってました。
家に持って帰ってきたおにぎりは、冷凍庫にいれました。
元気のない日に、1コづつ大事に大事に食べました。
声を聞かせて下さい
今でもそうだが人付き合いの苦手なオレは、会社を辞め一人で仕事を始めた。
車に工具を積み、出張で電気製品の修理や取付の仕事。
当時まだ携帯電話は高価で、俺は仕事の電話をポケベルに転送し、留守電を聞いてお客さんに連絡するという方法しか取れなかった。
生活さえギリギリだった。
ある日 母親が九州の実家から関東の俺の家まで訪ねてきた。
遠くから来た親をいたわることもせず、無愛想な俺。
ホントにバカだ。
俺を心配し、掃除、洗濯 料理を作り山ほど食糧を置いて母は帰郷した。
バカ息子は見送りもしない。
仕事から帰宅した俺は母の手紙を見つけた。
「仕事頑張って下さい、少しですがこれで携帯電話でも買って声を聞かせて下さい。」
手紙にはお金が同封されていた。
手紙を手に俺は、わあわあ泣いた。
カメラやメールなんて出来ない。メモリーも50件しか入らない初期の電話。
でもこの電話にどれだけ助けられただろう。俺には最高の宝物。
母の日に電話を送った。ちゃんとお礼をいわなければ。
「おかあさん どうもありがとう」と。
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