母親の泣ける話 – 感動エピソード【17】
エプロン
社会人になって初めて迎えた母さんの誕生日。
「いつもありがとう」ってプレゼントを渡したかった。
でも照れくさいし、もし選んだプレゼントが気に入ってもらえないと怖かった。
だから「選ぶのめんどいから」って嘘ついてデパートに連れて行って、
「何でもいいから適当に買えよ」とぶっきらぼうに言うと、
「高いエプロンだけどいい?」とおずおずと見せに来て、値札見たらたった3000円。
「こんな安物かよ」とひったくって後ろ向いて、泣きそうな顔を見られないようにレジに走った。
服でもバックでも、ほかに何でもあるだろ、
財布の中に給料全部入れてきたんだぞ!って涙が出たけど、
トイレで急いで顔洗って、そ知らぬ顔で袋を渡した。
そしたら、母さんがうれしそうにそれを抱きしめたのを見て、また泣きそうになった。
いまでも帰るたびにそのエプロンつけて飯作ってくれて、ありがとう。
ほんと美味いよ。世界一だ。
いつも素直になれなくてごめん。マザコンでもいいよ、母さん大好きだ。
母は強し
あなたは私を産むまで、ずっと父の暴力に苦しんでいましたね。
私が産まれた時、あなたは泣きながら喜んだんですね。
私が一歳の誕生日に、借金を抱えたまま父が自殺しましたね。
借金を返すために、昼はパート夜は居酒屋で仕事の毎日でしたね。
保育園では、遠足のおやつは雑穀のおはぎでしたね。
小学校の給食費を払えない月もありましたね。
修学旅行のおみやげは、ご当地キーホルダーだけでしたね
中学の制服は、親戚のおさがりでしたね。
高校のお弁当は、いつもご飯に梅干しと海苔でしたね。
無理を承知で大学行きたいと頼んだ時、あなたは反論しませんでしたね。
ごみ処理場から、捨てる予定の参考書をもらいに行きましたね。
お金がかかるから私立は受けられず、国立専願受験でしたね。
センター試験の前日には、初めて特上寿司を食べさせてくれましたね。
センター試験に失敗したけど、あなたは最後まで諦めないよう励ましてくれましたね。
前期に落ちて、一度私は自殺しかけましたね。
あなたは怒ることもなく、ずっと私に謝り続けていましたね。
私もあなたにずっと謝り続けましたね。
そして私は気持ちを切り替えた後、私はその後も頑張って勉強して、なんとか後期に合格することが出来ましたね。
あなたはずっと「おめでとう、おめでとう」と泣き続けてくれましたね。
でもあなたは、入学の準備の時に急に倒れて病院に運ばれましたね。
医者が、癌が全身に転移していてこれから一週間が峠だと告げましたね。
私が、ただただ泣き続けている時にあなたは
「この体の傷や癌の一つ一つが、あなたを育てあげた立派な勲章なのよ」
と微笑みながら言いましたね。
あなたは最後まで泣くことも苦しむこともなく、静かにこの世を去りましたね。
今私は、医者になるために毎日一生懸命に勉強していますよ。
あなたの命を奪った癌に苦しむ人々を、治療して助けたいから。
私が育った環境は決して恵まれてはいなかったけれど、あなたの子供として生まれ、育てられて本当によかったよ。
ありがとう、お母さん。
それが親の勤め
もう二十年位前の話です。
私は小さい頃親に離婚されて、どっちの親も私を引き取ろうとせず施設に預けられ、育てられました。
そして三歳くらいの時に、今の親にもらわれたそうです。
当時の私はその自覚などしていませんでした。
記憶は無く、その親を本当の親と思って中学二年まで過ごしてきました。
そして、突然の父との別れが訪れました。
脳梗塞で帰らぬ人になりました。
そして、そんな最悪の時に
『私とその親は家族ではない』
ということを、親戚の方から偶然にも知ってしまったのです。
葬儀のあと私は母を問い詰め、本当の事を聞きました。
その時を境に、私は母を嫌いになりました。
死んだ父でさえ、嫌いになりました。
多分、裏切られたとか思ったんでしょう。
元々、家が裕福ではありませんでした。
ですから父が死んでしまったので、母が働きに出ざるを得ませんでした。
母は朝は近くの市場で、昼から夜にかけてはスーパーで働きました。
それもこれも全て、私のためのものでした。
ですが、当時の私にはそれすらもうっとうしく思えてなりませんでした。
時には、登校の時間と母が市場から帰ってくる時間がちょうど重なってしまうこともありました。
友達と登校していた私。
ボロボロになった母と家族であるということを友達に知られたくなく
「いってらっしゃい」
と言う母を無視しては友達に
「誰あれ、気持ち悪いんだけど」
という悪口すら言っていたものでした。
それを察してか、次の日にはわざと目を伏せ、足早に私とすれ違っていきました。
でも、それでも、母は何一つ文句をいわず働いてくれていました。
そんな日が一ヶ月くらい続いたと記憶しています。
そんな雨の日、雨合羽を着て市場から帰ってくる母とすれ違いました
当然、無言です。
その姿はなんとも淋しく、哀しく、辛そうに見えたのです。
涙が溢れました。
ぐしゃぐしゃに泣きました。
私は一体何をしているのか。
ボロボロになってまで私を育ててくれているあの人を、私は何をうっとうしく思っているのかと、凄まじい後悔が私を襲いました。
私は友達の目も気にせず、母に駆け寄りました。
でも、何を言っていいかわかりませんでした。
その時、ふと口をついた言葉が
「いってきます」
でした。
言えた言葉はたったそれだけ。
でも、母は一瞬驚き、そして泣きました。
そして、何度も何度も
「いってらっしゃい」
と言ってくれました。
私が友達の元へ戻ったあとも、母は私を見ながら手を振って
「いってらっしゃい」
と言ってくれていました。
今では、彼女こそが本当の私の母親です。
たとえ戸籍上はどうあれ、そう思っています。
恩は返しきれないくらいあります。
母は
「それが親の勤めだよ」
と言いますが、でも、じゃあ今度は子として親の面倒を見ていきたいです。
この人が母親で、最高に良かったと思います
人の役に立ちなさい
母が肺癌だとわかったのは、亡くなる9ヶ月くらい前だった。
最近は、ズバッと医者から本人に言っちゃうのかな?
母本人が俺に癌だと電話してきた。
あと一年、ってところだと。
自分で言うのもどうかと思うが、俺は親の事をそれなりに大事にしているつもりだったし、実際母にとっても俺はどこへ出しても恥ずかしくない息子だったと思う。
勉強もスポーツもそれなりにできて、人から一目置かれる仕事にも就いている。
結婚した嫁さんは、俺の両親もちゃんと大事にしてくれる気立ての良い人だし、初孫も見せてやれた。
それでも癌だと聞いた瞬間は後悔の念で一杯になった。
これからたくさん旅行へ行って、綺麗な景色を見たり旨いものを食べたりしようとおもってたのに。
少しはお洒落したり、良い服を買ったりしなよ、って言って銀座に連れて行こうって思ってた。
初めてできた娘(嫁さん)や孫と親子三代ガールズトークするんじゃなかったの?
ってか孫の七五三だの入学式だの成人式だの、勝手に気の早いこと言って楽しそうにしてたじゃん。
何で?
これからだろ?
今まで必死に俺ら兄弟育てて、やっと育児終わった!!
って言ってたじゃん。
これからでしょ。
ずっと贅沢なことや楽しいこと我慢してたの知ってるんだから。
でも何も言わなかった。本人が一番残念に決まってる。
「おいおい、何言ってんのwうちの子まだまだお小遣いとお年玉もらうつもりだからw期待してっからw」
「とりあえず疲れないとこで、みんなで温泉でも行こーぜー」
その後暫くは、母にこまめにメールしたり電話したりして、必要以上に母が不安にならないようにフォローしてた。
でもそんな頃、自分が前々から希望してた海外転勤の話が出た。
悩んだ。
おそらくこれを受ければ、相当な確率で母の死に目には会えない。
ましてや普段の手伝いや元気付けなんて何もできない。
しかも本人が一番の心の支えと言ってはばからない、可愛い孫とも引き離す事になってしまう。
自分が家族に黙って転勤を断ればいい。それだけの事だとも思った。
それでも決断しきれず、ズルズル返事を伸ばしていた時、母と仕事の話になった。
「どうせ働くなら人の役に立ちなさい。」
その時に決めた。
母に寂しい思いをさせるかもしれないが、俺は人の役に立つことをしよう。
胸を張って家族も会社も国も支えてきた、と言えるように生きよう。
転勤を決め、母にその旨を伝えた。大変な時に、一緒に居られなくてゴメン、とも。
「あんた早く向こうに慣れて、奥さんと子供呼んであげなきゃ。 家族は離れてちゃダメよ」
母は自分の事は何も言わなかった。
赴任前、最後に言われた言葉は「身体に気を付けて、気張りなさいよ!」だった。
俺が最後に聞いた言葉になった。
海外の仕事と生活に慣れるため、最初は単身赴任だったのだが、一ヶ月が経った頃、母が入院したとの連絡が入った。
覚悟はしていたが、やはりきつかった。
赴任前にどうしても伝えたかった事を伝えたくて、母にメールを書いた。
返事はなかった。
その数日後、父から
「医者から、家族は準備をしてくれと言われた」
との連絡があった。
親の死に目に会えなくても後悔しない、という決意はここにきて崩れ去り、上司に事情を話して翌日には日本行きの飛行機に乗った。
帰国し病院で見たのは、モルヒネで意識の混濁した母。
痩せこけ、肌はカサカサで、もう意思の疎通は不可能だった。
医者が言うには、もってあと数日。その数日は、父と兄弟と交代で、母の側にいた。
この時も俺の心は後悔の念で一杯だった。
こうなる事はわかってたのに。
母に気持ちを伝える機会はあったのに。
何で容体が悪化した後でメールなんかした。
入院を聞いた時にすぐ帰ってればもう一度母と話せたのに。もう俺の言葉は届かないじゃないか
最期の時、俺は母の傍に居られた。
もうマスクなしでは呼吸もできなくなった母の身体を、嫁さんと一緒に拭いていると、看護婦さんが
「手を握って耳元で話しかけてあげて下さい。話せなくても、最後まで聞くことはできるって言われてるんです」
と教えてくれた。
伝えなきゃ。
聞こえてるかどうかわからないけど、それでも言わなきゃ。
俺はゆっくりと母の手を握って顔を近づけて話し出した。
「母さん、どう?まだ痛い?本当に辛かったよね。
だけど本当は、もう少し一緒に居たかったな。
母さんもこれから色々やりたいことあっただろうけど。
どうかな?
俺少しは親孝行できてた?
一応海外旅行も連れてってあげられたし、結婚式も見せれたし、孫も抱けたじゃん?
一応俺ら世の中に迷惑掛けずに働いてるし、どっちかっていうと母さんは子育て上手くいった方だよね。
すごいと思うよ。
すごく尊敬してる。
うーん、どうかな?本当はまだまだしてあげたいことあったけど、、、幸せだったかな?
俺はね、幸せだったよ。
母さんの息子で良かったよ。
ありがとうね。
また生まれ変わってもね、母さんの子供になりたいと思ってるよ」
その時、もう外部への反応が殆どなくなっていた母の目から、急に涙が一粒流れた。
え?と思った瞬間、心電図が停止し、それが母の臨終の瞬間だった。
その後、兄弟と話してわかった事だが、母は俺からのメールをちゃんと読んでいたらしい(内容は最後に話した事と殆ど一緒)。
少しずつ体調が悪化する中、俺へ返事をする体力と集中力がないことを嘆いていたそうだ。
母さん、改めて、傍に居なくてごめん。
でも、俺が帰ってくるまで待っていてくれてありがとう。
最後の話もちゃんと聞いてくれてありがとう。
俺は少しは支えになれた?
母さんは何を言いたかった?
天国か来世かわからないけどさ、また次会った時、教えてな。
母の秘密のノート
私が中学生の頃の話。
母と大喧嘩をして部屋でふて寝した翌日、机の上にクラスの親同士で回すノートがあった。
母がいないのを確認してこっそり覗いてみた。
以下、大体の内容。
A(私)は死産と流産の後にようやくこの世に生を受けた、私達夫婦にとっては初めての子、大切な宝物です。
女の子と分かってからは、真っ黒な髪の毛の子になって欲しくて、妊娠している間は昆布など海藻をずっと食べていました。
つむじがふたつある、ひねくれた子になりそうな子だけれども、産まれて初めて泣き声を聞いた時は涙が止まりませんでした。
昔からアニメが大好きで、将来は絵の方面に進みたいと言う我が子。
どれだけ大変な道かは解らないけれども、私が生きている限り我が子のファン一号であり続けたいです。
あと何故か、あまり上手くないアンパンマンの絵がノートの隅に描いてあった。
思い返せば遠足には必ず母の手紙と、当時私が大好きなキャラが描かれてあった。
大喧嘩して全部破って捨てた後、母からビンタを喰らった意味がようやくわかり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら謝った。
母も大泣きしてた。
今私は学生だけどもイラストの仕事をちょいちょい貰ってて、この前初めて貰った給料でケーキ買って帰った。
すごく喜んでくれた。
墓参りする時はいつも水子地蔵にまんじゅう持っていく。
ちなみに、未だに髪は染めていない。
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