藍物語シリーズ【20】
『贐』
上
「はい、これが新規の患者さんのカルテ。宜しくね。」
碧さんは俺の机に数枚のカルテを置いてにっこり笑った。
姫と同じくらいの長身でクッキリした目鼻立ちの美人。看護師の制服が実によく似合う。
しかも病院では何故か素通しの眼鏡をかけている。全て俺の理想通り、まさに白衣の天使。
「毎回こんなに新規の患者さんがいるなら、このクリニックは大繁盛ですね。」
「そりゃ腕の良い先生と美形の言霊使い、最高の二枚看板だもの。
特に宣伝もしてないけど、口コミで良い評判が広まってるみたい。」
「言霊使いって公言してる訳じゃないし、今まで大した仕事もしてません。
どう考えても二枚看板って言葉はおかしいですよ。」
「変な所で細かいんだから、その点暁は」
「暁君が大雑把な碧さんに細か~く気を遣ってるんですよ。
それと、仕事中にお惚気は止めて下さい。不謹慎です。」
「折角Sから情報仕入れて眼鏡かけてあげてるのに、嫌な奴~。」
「情報って、ちょっと、碧さん。」 「残念、今仕事中ですから。」 ドアが、閉じた。
もしかしてSさんが手に入れてくれた白衣は碧さん経由...少し、目眩がした。
一族の人が経営している心療内科。
俺は『上』の委託を受けて、月に2度、新規の患者さんのカルテをチェックしている。
いわゆる霊障の事例があれば協力するためだ。俺の力で解決出来ればそうするし、
手に負えない場合はSさんに繋いで、必要なら『上』に指示を仰ぐという段取り。
一族の人が経営している病院には、担当の術者を配置することが増えているらしい。
もちろん生命や魂の操作は禁呪だが、霊障が原因なら術を使って病を治癒出来るからだ。
病を治せない場合でも、必要なら患者さんやその家族をメンタル面でサポート出来る。
結果的に病院の評判は良くなり、担当の術者がいる病院はどれもかなり業績が良い。
時代に対応した一族のあり方、その成功例として『上』もこの事業に力を入れていると聞いた。
俺が担当しているクリニックは今年の5月に開業し、碧さんもそこで勤務している。
もちろん碧さんは『本物』の看護師。
お屋敷から比較的近いのと、碧さんの推薦があって俺が担当に指名された訳だ。
俺の適性は『言の葉』。心療内科なら協力出来ることもあるかも知れないと思って引き受けた。
しかし幽霊すらあんまり見かけないのに、霊障の事例がゴロゴロ転がっている筈が無い。
あたりまえといえばあたりまえだが、これまで霊障の事例に遭遇したことはなかった。
家族と一緒に来院したものの、頑なに心を閉ざした高齢者や子供との雑談で信頼を得て、
医師のカウンセリングに繋ぐくらいがせいぜい。そう、前回までは。
最後のカルテを手に取った時、寒気がした。これは、マズい。
○村美枝子、34歳。カルテを通して気配が伝わってくる。
俺はカルテの束を持って部屋を出た。直ぐに碧さんに知らせなければ。
受付のドアを開け、碧さんに声を掛けようとした時。
玄関に面した窓から女性の姿が見えた。女性の姿に重なる気配。そして、血の臭い。
間違いない、あれがカルテの女性だ。
未だ事情が全く分からない。念のために『鍵』を掛ける。
「R君、どうしたの?」
俺は玄関に背を向ける位置に回り込み、唇に人差し指を当てた。声を潜める。
「このカルテの患者さん、今玄関にいる人ですよね?」
「そうだけど...もしかして。」
「かなり深刻なケースです。前回はカウンセリングを?」
「いいえ、私が大体の事情を聞いて、担当医を選んでもらって。
それで今日の日付を設定しただけ。カウンセリングは今日から。」
「受付が済んだら、カウンセリング室への案内を僕に指示して下さい。」
『了解。』
その女性のカウンセリングが終わった後、碧さん同席で担当のA先生から話を聞いた。
A先生は碧さんの叔父にあたる人で、恰幅の良い大柄な体と穏やかな笑顔が印象的だ。
「簡単に言うと、自分の生き霊が娘を傷つけているのではという不安があるという事だった。」
「傷つけるというのは精神的な意味だけではありませんよね?」 あの時、確かに血の臭いが。
A医師は暫く俺の眼を見つめ、やがて溜息をついた。
「これが『力』か。驚いたよ。疑っていた訳ではないが、術者と仕事をするのは初めてなのでね。
そう、君の言う通りだ。これまでに3度、娘さんが原因不明の怪我をしてると言ってた。」
「原因不明というのは?」
「怪我をした時の状況を何故か娘さんが憶えていない。しかも段々と傷が深くなる。
一番最近では太腿にかなり深い傷を負って、家の近くで倒れていたそうだ。未だ入院中らしい。
こういうケースだと我々は偶然の事故や事件をもとにして
患者の自己憐憫が生み出した妄想を疑うんだが、君の意見は違うようだね。」
「自己憐憫はあるかも知れませんが、娘さんの怪我の原因が不明なのが気になります。
女の子が大怪我をして家の近くで倒れていたとしたら立派な刑事事件。
間違いなく警察に事情を聞かれた筈ですから、今も監視なしに行動できるとしたら、
彼女には完全なアリバイがあると言うことでしょう。」
「R君。じゃあ彼女の言う通り、生き霊の仕業ってこと?」
「生き霊に似ていますが、厳密には違います。
それに、とても深刻で、場合によってはSさんの力が必要かもしれません。
だから、今度来院する時、その女性と話をさせて下さい。」
「分かった。この件は君に任せよう。碧、R君に力を貸してくれるね。」
次の木曜日、その女性が来院したのは予約の時刻5分前。
二言三言、女性と言葉を交わした後で碧さんは振り向いた。眼鏡に左手で軽く触れる。
「R君、予約のお客様よ。カウンセリング室へ御案内して。」
ちょっと冷たい感じの仕草と台詞が実に絵になる。
まさにはまり役(本物の看護師だから『はまり役』という言葉はおかしいが)だ。
「はい。」俺は受付を出て女性を出迎えた。血の、臭い。
「カウンセリング室に御案内します。どうぞ。」 軽く一礼。
二度目だからか、女性も少し微笑んで会釈をした。
先に立って廊下を進む。カウンセリング室のドアを開けた。
「どうぞ。」 「ありがとう。」 部屋の灯りが自動で点灯する。
「そちらへお掛け下さい。」
女性がソファに座った後、俺もテーブルを隔てた向かいのソファに座った。
クリアファイルからA4の様式を取り出し、女性に手渡す。
「まずはこちらに御記入をお願いします。かなり立ち入った内容になると思われますので、
万が一のトラブルに備えて患者さんの意思確認が必要なんです。」
もちろん、碧さんが作ってくれた偽の様式だ。
カウンセリングの日付、担当の医師、簡単な同意確認の説明。そして署名欄。
「これで良いですか?」 「結構です。」 受け取った様式をクリアファイルに戻す。
「では左手を。心拍を診ます。」 「心拍、ですか?」
「はい。あまり心拍が高いと、カウンセリングに適した状態ではありませんから。」
女性が黙って差し出した左手首を左掌に置き、腕時計の秒針を見ながら薬指で脈を取る。
もちろん、術を掛けるための方便だ。Sさん直伝、直接の身体接触を伴う術。
「26だから...104。問題ないですね。」 そう、問題なく術が。息を吸い、腹に力を込めた。
『すぐにA先生がいらっしゃいます。もう少しお待ち下さい。』
一礼して部屋を出る。廊下の数m先で碧さんが待っていた。
クリアファイルを渡し、受け取った白衣を羽織る。
「くれぐれも、気をつけて。」 カウンセリング室は防音仕様だが、碧さんは小声で囁く。
俺も声を潜めた。「頑張ります。」
カウンセリング室へ引き返し、ドアをノックした。
一呼吸置いてドアを開ける。 「Aです。○村さん、来てくれて有り難う。頑張りましたね。」
女性は立ち上がって俺を迎えた。 「A先生、宜しくお願いします。」 よし、完璧だ。
「こちらこそ宜しくお願いします。どうぞ、お掛け下さい。」
女性がもう一度ソファに腰掛けたあと、一呼吸の間を取る。
背中を深く背もたれに、両手は指を組んで太腿の上。A先生が話を始める前の仕草。
「さて、○村さん。早速ですが、前回聞いたお話。生き霊の件です。」 「はい。」
「あれから色々と調べてみたんですが、思い当たる症例が有りません。
一種のドッペゲンガーかとも考えましたが、娘さんが実際に怪我をしているのが問題です。
どうもこれは心療内科ではなく、別の領域かも知れない。私はそう考えています。」
女性の顔に警戒の表情が浮かんだ。
「警察に相談した方が良い、ということですか?」
「いいえ。娘さんが入院する程の怪我をしたのなら、
あなたは既に警察に事情を聞かれた筈です。そうでしょう?」
「はい。」 女性は小さな声で答えた後、少し俯いた。
「本当に生き霊なら、私の親戚に専門の者がいるのでご紹介しようかと。」
「生き霊の、専門家?」
「はい、陰陽師です。陰陽師、御存知ですか?」
「言葉だけは聞いたことがありますけど。本当に、いるんですか?」
「います。娘さんの怪我が段々重くなっている事からすると、
専門家の助けが必要だと思います。勿論無理にとは言いません。
しかし正直言って、この事例はどの医者でも手に余ると思いますよ。」
「その人なら、私の生き霊から娘を守ってくれるんですか?」
「おそらく大丈夫でしょう。もし彼の手に負えなくても、もっと力のある術者に繋いでくれる筈。
ここだけの話ですが、実はこんなケースに備えて彼と契約してるんです。
ですから彼の力を借りても、通常のカウセリング以外の料金は発生しません。
正規の医療行為ではないので、その点は不問。この件は口外しない。それが、条件です。」
女性は少し黙ったが、決断は早かった。
「A先生、お願いします。その人を紹介して下さい。」
「早い方が良いと思いますが、日を改めた方が良いですか?ご判断にお任せします。」
「いいえ、もしお願いできるなら、今日紹介して頂きたいです。」
「これから、直ぐにでも?」 「はい。」
「それは良かった。では私の掌を見て下さい。」 話しながら両掌を女性に向けた。
「え?」 怪訝そうな表情。 女性の目の前で軽く手を叩く。これで、術は。
女性はポカンと口を開けて俺を見つめた。
無理も無い。今の今まで、彼女には俺がA先生に見えていたのだ。
「あなた、さっきの。これ、どういうこと?」
「驚かせて御免なさい。僕の名前はR、陰陽師です。力を信じて協力して頂かないと、
僕たちにも出来る事は殆ど有りません。本物だと信じて頂くために、簡単な術を使いました。」
「簡単な術...あなたは本物の陰陽師で、私の生き霊を止められるの?」
此処が、山場。深呼吸、腹に力を込める。
『生き霊とは違います。それに、かなり深刻な事例なので少し焦っています。
でも、僕を信じて詳しい話を聞かせて頂ければ、きっと力になれると思いますよ。』
「深刻というのは、『次』が娘の命に関わるということですか?」
やはり。この女性は、とても聡明な人だ。
『そうです。それが何時なのかは分かりません。
でも、それほど遠くはない。あまり時間が、無いんです。』
女性は黙って俺を見つめた。深い悩みを宿した、暗い瞳。
信じてもらえるかどうか、それが全て。拒絶されては何も出来ない。
「あなたを、信じます。全部話しますから、娘を、私を、助けて下さい。」
中
「前回の話の内容を僕は直接聞いていないので、まずは確認させて下さい。
娘さんの怪我、それを自分の生き霊の仕業ではないかと考えたのは何故ですか?」
「3回目の怪我、娘が倒れていたのはアパートの駐車場でした。
そのすぐ後で、駐車場を出て行く人を見た人がいて、背格好や服装が私に良く似ていたと。」
「それで、警察に事情を聞かれたんですね。」 「はい。」
「なのに、あなたの行動には制約も監視もない。捜査の対象から外れた理由は何でしょう?」
「娘が怪我をしたのは5時半頃、私が5時半までにアパートに帰るのは無理です。
その日も同僚といつも通り退勤して、その時間はまだ電車の中でした。」
「小学生の女の子を狙った変質者の仕業とは考えられませんか?」
「3回目の怪我については警察もそう考えているようです。
ただ、1回目と2回目の怪我は変質者じゃありません。どちらも家の中、でしたから。」
「家の中で?」
「最初の怪我は両腕のアザです。朝起きた娘が痛がるのでパジャマを脱がせたら、
二の腕に大きなアザがありました。もの凄い力で腕を握られたようで。多分夜の間に。」
「二回目の怪我も夜、ですか?」
「夜と言うより夕方です。娘はお風呂で倒れていて、頭から血が...可哀相に。」
女性は俯いて小さく身震いをした。無理もない。相当なショックだったろう。
「意識がボンヤリしていたので救急車を呼びました。3針縫って、次の日から実家に。
念のために2日間学校を休ませました。」
「悲鳴や物音は聞きませんでしたか?」
いいえ。私、娘がシャワーを使っている間に居眠りをしてしまって。
目が覚めても娘がいなかったので様子を見に行きました。そしたらあんなことに。」
どちらも女性が眠っている間に起きている。それで生き霊ではないかと考えたのなら、
この女性は生き霊について多少の知識を持っているということだ。
「3回目の怪我はどうです?あなたは電車の中だったんですよね?」
「はい。ずっと、考え事をしていて、もしかしたら少し居眠りをしたかも知れません。
その間に私の生き霊が、娘を。」
「○村さん、生き霊は本体が憎む相手に害をなすものです。
もちろんその憎しみを本体が意識していない場合もあります。
ただあなたには、娘さんに対する憎しみの感情を感じません。
たとえ無意識であっても、憎しみは必ず表面に滲み出てくるものですから。
それに、はじめに言った通り、娘さんの怪我の原因は生き霊じゃありません。」
「生き霊でないなら、一体何が娘を。」
「くわしいお話を聞かせて頂くのはこれからです。今はまだ結論は出せません。
次の話を聞かせて頂く前に5分程休憩しましょう。その間に飲み物を用意します。」
一礼して部屋を出た。碧さんに飲み物を用意してもらう間、改めて精神を集中する。
それは女性の意識があるうちは活動しないはずだが、用心するに越したことはない。
飲み物を持ってカウンセリング室に戻ると、既に女性はソファに座っていた。
グラスを2つテーブルに置く。女性は飲み物を一口飲んだ。
俺も喉を湿らせる。涼しげな、氷の音。
「さて、いよいよ本題です。まずは娘さんの父親について聞かせて下さい。
その人はあなたの夫ではありません。あなたの娘さんは養子、ですよね。」
女性は息を呑んで俺を見詰めた。眼を伏せて小さな溜息をつく。
「それも、術で?」
「術ではなく、感覚です。あなたには妊娠の経験がありません。だから。」
「いきなり養子の件を話したら事前に事情を調べたと疑われる。だからさっき、あの術を。」
「ご理解頂いて有り難いです。あんな、瞞し討ちのような方法は失礼だと思いましたが、
あなたが思慮深い女性だということが分かっていましたから。」
女性は寂しそうな微笑みを浮かべた。伝わってくる深い悲しみ、そして自己嫌悪。
「私が本当に思慮深ければ、こんなことには...
娘の父親は、私の兄です。これはまだ、娘にも話していません」
「特に必要がなければ、僕がそれを娘さんに話すことはありません。どうぞ御心配なく。」
「兄は離婚して娘を引き取り、約半年後に亡くなりました。交通事故で。
娘が3歳の時です。それで私が娘を引き取りました。」
「未婚の若い女性が子供を引き取る、御身内の反対は有りませんでしたか?」
「いいえ。兄が離婚したあと、良く世話をしていたので娘は私に懐いていましたから。
もちろん最初は実家で両親と一緒に娘を育てていました。
でも、娘が小学校に入学する前に両親を説得したんです。
私が戸籍上の母親になれば、それが一番娘の為になるって。」
「あなたの『娘』という言葉は、とても強い力を宿しています。不思議ですね。
どんな言葉でも、これ程の力を宿すことは滅多にありません。一体、何故でしょう?」
初めて見たときから、彼女に『力』があることは分かっていた。
これほど悪化した状況の中で、自分の理性を失わずにいられたのは奇跡に近い。
それは持って生まれた『力』と、力を制御する強靱な精神力がなければ絶対に無理だ。
そして彼女の言葉に宿る言霊は、彼女の『適性』が俺と同じであることを示している。
「あの子が本当に私の産んだ子ならどんなにか。いつもそう思っているからかもしれません。」
「何故そんな風に? あ、もちろん今話したくないのでしたら無理にとは言いません。」
「いいえ、あなたを信じると決めましたから、全部話します。
それに、もしかしたら私、誰かに聞いて欲しかったのかも知れません。
今まで誰にも、両親にも友達にも話せなくて、本当に辛かったから。」
女性は一旦言葉を切り、俺を見つめた。
「少し頼りない人でしたが、私は、小さい頃から兄が大好きでした。
それは何時の間にか恋愛感情に変わり、そして、大学に入学した時に。私は...」
揺れ動く心が発する言葉が宿す、微かな言霊。不謹慎かもしれないが、それは美しかった。
まるでオーロラのように、揺れ動く淡い光が彼女を包んでいる。
術者でなければこれ以上は。
「やはり無理はしない方が。」 「大丈夫です。」
彼女はもう一度俺の目を見つめた。本当に、強い人だ。
「私は兄と体の関係を持ちました。両親が不在の夜、兄の部屋に行って、それで。」
そうか。兄への深い愛情、そして現代の倫理では許されぬ関係に対する強い自責の念。
十数年に渡る激しい想い。その膨大な精神エネルギーが、
人1人の命を奪いかねない程の存在を育ててしまったことになる。
「両親の目を盗んで、私と兄の関係は続きました。兄がとても気を遣ってくれたので
妊娠の心配はありませんでした。でも私は、本当は...」
「お兄さんの子を産みたかった。だから、娘さんが本当に自分の産んだ子ならどんなにかと。」
「結局最後まで、それは言えませんでした。口に出したら、兄を失ってしまう気がして。
だから兄が結婚した後も私を求めてくれた時、私はとても嬉しかった。」
「お兄さんが、離婚した時も?」
「はい、毎日仕事の帰りに保育所で娘を迎えて兄の部屋に通いました。
娘の世話も、家事も、とても楽しかった。私、本当に嫌な女ですね。」
「お兄さんが亡くなった後、娘さんを引き取って、本当に大切に育てて。
本当に嫌な人間ならそんな事出来ません。あなたは立派だと思いますよ。」
「でも、私と兄との関係は近親」 俺は右手で女性を制した。
「待って下さい。」
「確かに現代の倫理では禁忌です。
でも、古い神話や伝承では、兄と妹・姉と弟の婚姻譚はちっとも珍しくない。
実際僕たちの一族では、それ自体は今も禁忌じゃありません。それよりも。」
「それよりも?」
「お兄さんがあなたの意志に反して体の関係を持ったことが問題です。」
「でも、兄の部屋に行ったのは私で、だから兄には何も。」
「確かにあなたはお兄さんが大好きで、恋愛感情を持っていた。
でも同時に兄と体の関係を持つ事は禁忌だという、現代の倫理観も持っていた。
なのに何故、それを易々と踏み越えてしまったんでしょうね?
何か思い当たるきっかけがありますか?お兄さんの縁談を知って強い嫉妬を感じた、とか。」
「いいえ、兄の縁談を知ったのはずっと後で、兄に恋人がいるとも思っていませんでした。
特に思い当たるようなきっかけは、なかったと思います。」
「初めて体の関係を持つために相手の部屋に行く。相手がお兄さんでなくても一大決心です。
それなのに特にきっかけはない。いや、きっかけを憶えていない。変だと、思いませんか?」
「何が、言いたいんです?」
「あなたは記憶を変えられたんですよ。あなたがお兄さんの部屋へ行ったのだと。
例えばさっきの術です。あの術なら、記憶の一部を変えることができます。」
「術って、一体誰が私に...まさか。」
「その、まさかです。系統は違いますがお兄さんは僕たちと同類、術者だったんですから。」
「私たちの家族でも親戚でも、そんな話は一度も聞いたことはありません。それなのに。」
「それぞれの家系の血に埋もれていた因子が御両親の結婚で1つになり、
お兄さんは『力』を持って生まれてきた。時折起こることだと聞いています。」
「『力』は生まれつきだとしても、兄は陰陽道の術を一体誰から?」
「それは分かりません。でもお兄さんが優れた資質を持っていて、
かなり位の高い術者に師事していた。それは間違いないと思いますよ。」
「何故、そんな事が分かるんですか?あなたは兄に会ったこともないのに。」
「お兄さんの術が今も残っているからです。もともとはあなたを助けるための術。
なくした物がいつの間にかもどっていた。テストで山が当たった。
そんな経験、心当たりがあるはずです。」
女性の頬がピクリと動いた。やはり、間違いない。
「確かに、中学生になった頃から運が良くなったというか、そんな気はしてました。」
「例えば紙の人型に『力』を封じて術者の命令通りに使役する。
僕たちはそれを式と呼んでいます。式神、と言った方が通りが良いかも知れません。
お兄さんはあなたの願望を叶えるようにと、式に命じたんです。
もちろん何でも出来る訳じゃありません。失せ物探しやちょっとした予知くらい。
あなたが思慮深く、トラブルを他人のせいにしない人だと分かっていたから、
お兄さんはこの術を掛けたんでしょうね。ただ、自分が術を残して死ぬとは思っていなかった。
軽率だったと言われても仕方ありません。残されたあなたの、心のありようによっては、
娘さん以外にも被害者が出ていたかも知れないんですから。」
「...その、式が、娘を?」
「そうです。お兄さんへの深い愛情、許されない関係への強い自責の念。
それらに伴う精神的なエネルギーを吸収して式は成長し、強い力を持ってしまった。」
「でも、おかしいです。私の願望を叶えるはずなのに何故娘が。
それにあなたは『無意識であっても憎しみの感情は感じ取れない』と。」
「娘さんが3度目の怪我をしたのとほぼ同じ頃、あなたは電車に乗っていました。
『ずっと考え事をしていた。』と仰いましたね。どんな、考え事でしたか?」
「娘が中学に入学するのを機に引っ越しをしようかと思っていて、それを。」
「何故、引っ越しを?何か不都合があるんですか?」
「初めは、兄の娘だから他人には渡したくないという気持ちが強かった。
でも、ずっと一緒に暮らして、私を慕ってくれる娘を見ていると
まるで本当に自分が産んだ子のような気がするんです。とても愛しくて。」
「お兄さんの娘というより、自分の娘という気持ちが強くなったんですね。
でも、それが引っ越しをする理由になるんですか?」
「今住んでいる部屋は、離婚した後に兄が借りた部屋です。短い間ですが、
兄と一緒に暮らした部屋を出る気になれなくて、あれからずっと住んでいました。
だから、どうしても思い出してしまうんです。あの部屋にいると、兄の事を。」
「そして時折、お兄さんの後を追いたくなる。あの、夜のように。」
「傷痕が残ってるわけじゃ無いのに、どうして。平気であの夜のこと。
遠慮なんて、無縁なのね。陰陽師には。あけすけ過ぎて、むしろ気持ちが良いくらい。」
「御免なさい。人の命に関わる仕事という自覚はありますが、遠慮している余裕はありません。」
「処方されていた睡眠薬を、あの晩、全部飲んだ。間違いなく兄の所へ行ける筈だった。
でも、両親が虫の知らせで私の部屋に。病院に運ばれて処置されている間に夢を見たわ。
娘が、私を見つめて泣くの。『お母さん、私を一人にしないで』って。それで。
ああ、そうか。それが式の。あの時、式が私を助けてくれたのね。」
「それが、本来お兄さんが意図した式の働きです。でも、式は善悪の判断をしません。
ただあなたの願望や考えをなぞって、その通りに行動するんです。
あなたが、今も恋しくて恋しくて堪らないお兄さんの後を追えないのは何故ですか?」
「だって、私が死んだらあの子は...あ。」
「娘さんがいなければ、心残り無くお兄さんの後を追える。後の説明は要りませんよね?」
女性の目から大粒の涙が溢れた。真珠のような、美しい、涙。
「...あなたには、見えるの? その、式の姿が。」
「感じます。口元と右手が血塗れなのを除けば、あなたと寸分違わぬ女性の姿。
意識無意識に関わらず、あなたの願望を叶えようとする、もう1人のあなた。
あなたの部屋でないと、その式は始末できませんし、恐らく一晩かかります。
着替えて貰う必要もありますから、もし気兼ねが有るなら、
女性の、もっと力のある術者に後を引き継ぎましょう。」
式の関係はSさんの領域。もともとSさんに引き継ぎをするつもりだった。
「あなたを信じると決めて話したのに、いざとなったら他の人って。酷すぎる。」
「でも、専門の術者の方が安全だし確実に」
「嫌! 私はあなたを信じると決めたの。あなたじゃないなら、絶対に嫌。」
彼女の態度や口調が変わっていた。秘密を共有する相手を近しく親しく思うのは当然の心理。
そして術者と依頼者の距離が縮まれば縮まる程、仕事の成功率は高くなる。
「分かりました。ただし、失敗したら元も子もありません。娘さんを守るのが第一ですから、
必要なら他の術者の力も借ります。それで良いですね?」
「最初から最後まで、あなたが一緒にいてくれる?」 「はい。」 「それなら大丈夫。」
「式の始末には一晩中かかるだけでなく、翌日の午前中も影響が残ります。
だから翌日仕事が休みの日で、式を始末する日を決めて下さい。
日付を決めてもらえたら、早速準備にかかります。」
「早い方が良いわ。明後日仕事が休みだから明日の夜、それでも良い?」
「OKです。では明日の夜、ただ色々準備があるので明日の午前中に連絡します。」
「じゃそれでお願い。私にはあなたしか、頼れる人はいないから。」
「彼女を一目見て、式が原因だと分かりました。
初めからSさんに繋ぐつもりだったのに。正直、かなり困ってます。」
夕食後の一時、パジャマに着替えた翠は新しい絵本に夢中。
藍は姫の胸で安らかな寝息を立てている。
「聞けば聞くほど、重たい話ですよね。何だか胸が押しつぶされそうです。」
「R君の言うとおり、問題は兄の方。
そんな術を使う術者は普通なら問答無用で始末の対象だけど、このケースはちょっとね。」
確かに、情状酌量の余地はある。彼女には『力』があり、その適性は言霊。
彼女が無心に、心から発した言葉には言霊が宿る。
彼女の気持ちを、相手の心の奥深く、真っ直ぐに伝える力。
『お兄ちゃん大好き。』
物心ついた時から毎日のように、その言葉を聞かされていたら。
思春期、性について興味を持つ時期に、その言葉を聞かされていたら。
恐らく俺も同じ事を考えただろう。
しかし、考えるだけでなく、実際に術を使ってしまったのは、その男の罪だ
「それで、○×クリニック付きの陰陽師で彼女の救い主たるR殿は、
一体どうやってこの件の始末をつけるつもりなのかしら。」
「もう、茶化さないで下さいよ。式はSさんの領域で、僕に出来ることは殆どないんですから。」
「式の始末は、私に策があるわ。でも、式を排除しても彼女自身を救えなければ意味がない。
何時までも過去ばかり見ているのでは結局彼女も、そして娘さんも幸せにはなれない。
だから、あなた自身が彼女を助ける。それなら、私も力を貸す。それでどう?」
「全力で、頑張ります。」 「うん、良い返事。L、その間翠と藍をお願いね。」
「勿論です。任せて下さい。」
下
前日の打ち合わせ通り、翌日の早朝、女性の携帯に電話を掛けた。
「昨夜はコンビニで買った弁当とお茶。今朝は駅で何か買う。全部あなたの言う通り。」
「昼食も外食で。夕食は打ち合わせをしながら一緒に。退勤時間に車で迎えに行きます。
職場か駅の近くにコンビニはありませんか?駐車場が広いと良いんですが。」
「え~っと、駅の近くのファミマ。○▲駅店、知ってる?」 「調べます。時間は?」
「そうね。5時、40分でお願い。」 「了解、じゃ5時40分に。」
約束の時間。待ち合わせたコンビニの駐車場に着くと、女性は既に店の外で待っていた。
車を降り、手を上げて合図をする。助手席のドアを開けた。
「どうぞ。」 「...ありがとう。」 助手席のドアを閉め、運転席に戻る。
「あの2人、お友達ですか?」 コンビニの店内で女性が2人、こちらを見ながら話をしている。
「凄~い、やっぱり分かるんだ。今日、居酒屋に誘われたのを断ったら、もう根掘り葉掘り。
2人とも勘が良いから誤魔化しきれなかったの。だからせめて店の中にって言ったんだけど。」
「『誰』が迎えに来るって言ったんですか?まさか、陰陽師?」
「そんなこと言えないでしょ。弟。一緒に娘の見舞いに行くからって。」
「ちゃんと紹介すれば良かったのに。あれじゃ逆効果です。あの人達、絶対信じてませんよ。」
「だって、紹介したら色々聞かれる。年の差とか仕事とか。
それに、今更どんな噂が立っても構わない。それより、凄い車ね。ビックリしちゃった。」
「お客様の送迎用にはいつもこの車です。じゃ、まずは夕食。
お寿司で良ければ御馳走しますよ。美味しいお店を知ってますから。」
馴染みの寿司屋、藤◇。榊さんとの打ち合わせでも良く使う店だ。
電話して小さな座敷を予約してあった。夕食を済ませた後で打ち合わせ。
「部屋に戻ったらすぐお風呂。最後に浄めの水を全身にかけます。」 「髪も洗うの?」
「そうです。タオルと着物は僕の用意した物を使って下さい。
僕が用意した着物以外は何も身につけないこと。」
「下着も?」 「勿論。普段あなたが身につけているものは全部ダメです。化粧品も香水も。」
「マニキュアも落とさないといけないってことね。完全なすっぴん。ちょっと、恥ずかしいな。」
「『弟』なら、すっぴん見られたって恥ずかしく無いでしょ。
それに、女性の術者に繋ぐのを嫌だと言ったのはあなたなんですからね。」
「...分かった。それで、着替えた後は?」
「普段夜はベッドですか?それとも布団?」 「ベッドよ。娘と二人で。」
「ソファはありますか?横になれるくらいの。」 「ある。」
「じゃ、ソファに新しいシーツを敷きます。準備が出来たら横になって下さい。
その後であなたの周りに結界を張ります。そして、あなたが寝たら僕の出番。
式が活動出来るのは、あなたが寝た後ですから。」
「どうやって式を始末するかは教えてくれない訳?」 「いわゆる、企業秘密です。」
実際、俺は術の準備のための簡単な指示を受けただけ、子細はSさんしか知らない。
正直、俺はそれよりも『宿題』で手一杯だった。この人を、救う方法。
「それとね、本当に必要経費は要らないの?此処のお勘定も高そうだし。」
「それも、病院との契約に含まれてます。」 「何だか、割に合わないような、気がするけど。」
「全て上手くいったら、病院の宣伝をお願いします。陰陽師の話は抜きで。」
「それは勿論、でも私一人じゃそんなに。」 まだ、納得していない表情だ。
「地道に広告塔を増やすのは大事です。それと、今回は別の思惑もあるのでVIP待遇で。」
「別の、思惑って?」 「スカウト、です。」 「スカウト? 私を?」
「はい。前にあなたの言葉に宿る力の話をしたでしょう?
あれは『言霊』。実はお兄さんだけでなく、あなたにも力があります。気付いてないだけで。」
深く息を吸い、下腹に力を込めた。俺の『宿題』を解く、鍵。
『だからあなたが無心に、心から発する言葉には言霊が宿る。
すると、言葉の真の意味が、聞く人の心に強く作用する。その心の有り様を変える程に。』
「こと..だ...ま?」 数秒間、『言霊』が彼女の心にその意味を届けるのを待つ。
「はい、言霊です。あなたには力があって、その適性は『言葉』。
この適性の持ち主はとても数が少ないみたいなので、あなたをスカウトできれば、と。」
「私が、陰陽師になるってこと?」
「術者になれるかどうかは分かりません。でもあなたの力を活かす仕事は沢山ありますよ。
一族は慢性的な人手不足ですから、スカウトが成功したら僕は表彰ものです。
勿論今はそんなこと考える余裕はないでしょうけど。じゃ、いよいよあなたの部屋へ。」
ソファの周りに代を配置する。式はこの中から出られるが、一旦出たら入れない。
誘い出した式が彼女の中に戻るのを防ぐ結界。あとはSさんに任せれば良い。
結界を張り終えて、テーブルの上にペットボトルのお水を置いた。
「ありがとう。でも、喉は渇いてないし、トイレに行きたくなったら困るから。
それより、こんな時間に寝たこと無いから、全然眠くない。」
「思っていたよりあなたの手際が良くて、時間が余りました。
手持ち無沙汰ですが、眠くなるまで気長に待ちましょう。あ、トランプも持ってますよ。」
女性は黙って首を振った後、何か言いたげに俺を見つめた。
「もし時間があるなら、聞きたい事があるんだけど。」 「何でしょう?」
「一昨日聞かせてくれた話。あなたの一族では兄と妹の結婚が禁忌ではないって、本当?」
Sさんの、予想通りだ。 彼女自身の心の動きで、術の支度が調いつつある。
「本当です。もちろん法律上は夫婦と認められないので、一種の事実婚。
遺伝的な条件とかの縛りがあって、子供を作るのを避けることはあるようですが、
本人達の希望なら普通に結婚式も挙げるし、親族も皆二人を祝福するんですよ。」
「何だか、羨ましいな。もし、兄と私があなたの一族に生まれていたら、
私たちも、みんなに祝福されてそんな風に。事実婚でも、きっと幸せになれた筈。」
そう思うのも無理は無い。
でも一族に生まれていたら、この女性もその兄も幼い頃から然るべき修練を積んだ筈。
だからその関係自体が、有り得なかった。
「生まれ変わりたいですか?」
「え?」
「生まれ変わって、新しい人生をやり直したいですか?
本当にやり直したいなら、お手伝いしても良いですよ。」
女性は曖昧な笑顔を浮かべた。
「それは...本当に、やり直せたら。どんなにか。」
「じゃあ、僕にあなたの名前を預けて下さい。明日の朝、陽が昇るまでの間。
夜が明けたら、名前を返します。そしてあなたは新しい人生を踏み出す。素敵でしょ?」
女性は半分嬉しそうに、半分怪訝そうに、俺を見詰めた。冗談だと、思っているのだろう。
「面白そうね。でも、どうやって名前を預けるの?」 これで、支度は調った。
「これに、名前を書いて下さい。フルネームを。」
Sさんが取って置きの鋏で切り出した白い蝶、それと、筆ペン。
「ねぇ、幾ら何でも用意が良過ぎる。一体何をするつもり?」
「生まれ変わるお手伝いです。僕を信じると言ったでしょ?どうぞ、名前を。」
女性は背中を丸めて紙の蝶に名前を書いた。 「これで、良いの?」
「結構です。」 紙の蝶を受け取ると、指先に火花が散った。
「あっ!」 女性が手を引っ込める。 まるで静電気。この痛みは、やはり苦手だ。
「有り難う。準備が、調いました。あなたの名前を、聞かせてください。」
「私の、名前...嘘、私の名前は」 女性はボンヤリと俺を見詰めた。
あとは俺の『宿題』。 昨夜からずっと考えて、考え抜いて出した答。
心の中で練った言葉を、血液に載せて左手に送り込む。簡潔に、そして単純に。
『眠る。目覚める前に夢を見る。兄と結婚式を挙げる夢。』
左手の薬指を舐め、女性の額にそっと触れる。
力なく頽れた女性の体を抱き留めた。
既に近くで待機していたのだろう。電話を掛けて10分もしない内にSさんがやって来た。
「うん、上出来。準備は完璧ね。早速用意するから手伝って。」 「はい。」
Sさんが持ってきた大きめのバッグ、いつもの『お出掛けセット』ではない。
Sさんは手早く小さな祭壇を組み立てた。火を付けた蝋燭を大きな貝殻の端に立てる。
鮮やかな朱塗りの杯。日本酒を注いだ同じ朱塗りの銚子に、Sさんは綺麗な飾りを付けた。
「Sさん、それって。」 「三三九度の用意。婚礼の手順をなぞるけど、冥婚だから略式で、ね。」
冥婚、それは死者同士の婚礼。まさか、Sさんも。
「彼女の希望に添う形でないと成功率は低いから、これが一番確実な方法、多分。
それにこの部屋にはまだ、彼女の兄の気配が残ってる。最高の条件。」
「え~っと、僕の『宿題』の答えも結婚関係なんですけど、障りは無いですか?」
「ふ~ん、やっとR君にも女の気持ちが分かるようになったのかしら。大丈夫、全然平気。」
Sさんは鮮やかな色と模様で彩られた台紙を一枚、祭壇の前に置いた。
中央の赤い文字を挟んで、白い枠が二つ。台紙の隣に朱墨の筆ペン。
最後に玉串を祭壇に置き、Sさんは微笑んだ。「じゃ、部屋の電気を消して頂戴。」
「・・・の御前に、祭主S、怖れ慎みて・・・○村美枝子、冥府に赴くにあたり・・・
先に冥府に入りし○村健一と、御前にして婚嫁の礼・・・もって迷いを断ち・・・とせん。」
Sさんは朱墨の筆ペンで台紙の白い枠に『○村健一』と書き込んだ。恐らく彼女の兄の、名前。
続いて胸ポケットから紙の蝶を取り出し、同じ名前を書き込む。
それを右掌に置き、目を閉じた。 深呼吸、Sさんの集中力が更に高まっていく。
「外法の始末よ、力を貸して。」 呟いて目を開け、そっと、掌の蝶に息を吹きかけた。
掌から白い蝶が飛び立ち、ひらひらと部屋の中を飛び回る。相変わらず、見事な術だ。
「彼女の蝶を、玉串の上に。」 Sさんが小声で囁く。
一礼。玉串の上に彼女の蝶を置くと、台紙の残った白い枠にSさんが朱墨で名前を書き込んだ。
そう、『○村美枝子』。 俺が彼女から預かった、名前。
祝詞が再開された。 Sさんの澄んだ声が、古い言葉を紡いでいく。
ゆっくりと、白い蝶が部屋の中を飛び続ける。 まるで誰かを待ち続けるように。
ふと、Sさんが言葉を切った。部屋に満ちる気配。式だ。血の臭いは消えている。
直後、玉串の上から白い蝶がふわりと飛び立った。彼女の蝶。そうか、あの蝶に式を。
Sさんは恭しく銚子を頭上に捧げた後、朱塗りの杯に日本酒を注いだ。
続いて床に両手をついて一礼。慌てて俺も倣う。 これは。
俺たちの目の前。三三九度の杯に、二片の蝶が並んで舞い降りた。
成る程。彼女の一番の望みが兄との結婚なら、式はこれでその望みを叶えた事になる。
「御目出度う御座います。」
Sさんが声を掛けると、蝶は飛び立った。 絡み合うように飛び回る、二片の蝶。
Sさんは台紙を折り畳み、蝋燭の炎にかざした。部屋の壁と天井が朱に染まる。
そして燃える台紙を貝殻の上に置いて深く一礼、目の高さで手を叩いた。
蝶が空中で動きを止め、炎に包まれる。 二片とも、灰も残さずに燃え尽きた。
何かが床に落ちる音。Sさんが拾い上げる。
古ぼけた、銀色のハート。ペンダントトップ?
「これが、式の代。高校生だったとしたら、お小遣いでは精一杯の真心ね。」
Sさんは銀色のハートを俺の右手に握らせた。ハートを握った俺の右手をポンと叩く。
「これでお終い。さて、翠がぐずってたから急いで帰らなきゃ。」
「あの、翠がぐずってたって。」 祭具の片付けをしながら、翠の事がやはり気になる。
「大好きなお父さんが今夜はいないんだから、仕方ないわ。
それより、ちゃんと朝まで彼女を護って。名前を返すのは陽が昇ってから。
絶対に手を抜いちゃ駄目よ。」 Sさんはイタズラっぽく笑った。
「分かってます。」
翌朝。カーテンの隙間から朝陽が差し込むのを確認し、念のために更に10分待った。
「美枝子...美枝子。」 軽く肩を揺する。これで名前は元通り。そして俺の術が、発動する。
『目覚める前に夢を見る。兄と結婚式を挙げる夢。』 昨夜、彼女の心に送り込んだ言葉。
暫くして、彼女の目から一筋の涙が零れた。そっとタオルで拭う。
悲しみの涙か、嬉しさの涙か。それでこの人を救えるかどうかが、決まる。
涙の痕が乾いてから、もう一度声を掛けた。
「美枝子さん、起きて下さい。式の始末は上手くいきましたよ。
起きて下さい。ほら、朝ご飯のお粥も、作りましたから。」
お粥を食べている間も、女性は時折涙を拭った。彼女が自ら話すのを待つ。
食後のお茶を飲み終えて、ようやく女性は口を開いた。
「昨夜、夢を見たの。」 「どんな、夢ですか?」
「結婚式の夢、兄と二人で式を挙げる夢。私、とても嬉しかった。でも。」
『それで』ではなく、『でも』、それなら望みがある。
しかし、こみ上げる感情を抑えた。出来るだけ、そう平静に。
「でも?」
「兄は、笑ってなかった。凄く真剣な表情で。何だか、とても辛そうだった。」
『結婚式を挙げる夢』、そう指定したが、細かい内容は指定していない。
だからこれは、彼女自身の洞察。それを、確かめる。
「あなたが本当に大切だから、これからの事を色々考えて。男は色々と」
「慰めは聞きたくない。ね、私の言葉には言霊が宿るって、そう言ったでしょ?」
「はい、あなたが無心に、心から発する言葉なら。」
「じゃあ、やっぱり私のせいだわ。いつも『大好き』って言ったから、
私の言霊が兄を。兄は、本当は私の事なんか...」
女性の頬を大粒の涙が伝う。 それは嬉しさでなく、深い悲しみの涙
本当に、良かった。 この人なら、きっと気付く。そう、信じていた。
兄と妹。人目を忍んで続いた2人の関係は、この女性が力を持つが故の、
そして力をコントロールする訓練を受けられなかったが故の、不幸な事故。
残酷かも知れないが、自分でそれに気付かなければ、彼女は過去を清算できない。
「お兄さんもあなたが大好きだった。それは確かですよ。
だからこそあなたの言霊がお兄さんの心に強く作用して、『好き』の種類を変えてしまった。
元々それは、体の関係に繋がる『好き』ではなかったのに。それが、不幸の始まり。」
「『不幸』だなんて、酷い言い方。本当に遠慮がないのね。」
「その言葉の意味が、今のあなたになら良く分かる筈です。そうでしょ?」
十年以上、誰にも相談出来ず1人で耐えてきた苦しみと哀しみ。
今まで何処にも吐き出せなかった苦い思い。それらの堰が一気に切れたのだろう。
女性は俺の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
しっかりと肩を抱き、背中をさする。大声で泣くことが、今この人には必要なのだ。
どうすればこの人を救えるか、昨日の夕方ギリギリまで必死で考えていた。
この人の記憶の一部を書き換える。当然それも考えた。
しかしそれで兄への否定的な感情が生じ、娘さんへの愛情が変化したら最悪の結果を招く。
結局小細工では何も解決しない、そう思った。
彼女の力と適性について真っ直ぐに伝え、彼女が兄と結婚する夢を見せる。それが俺の答え。
思慮深く、俺と同じ適性を持つ彼女なら、きっと気付くと信じていた。
自分で気付けないのなら、たとえ俺がそれを伝えても信じてはくれないだろう。
その時は、Sさんに頭を下げて、彼女を託すつもりだった。しかし、例えSさんでも、
縁の無い者を助ける事は難しい。それが、いつもSさんと姫が強調する、人助けの鉄則。
今回は縁が有った。そうでなければ俺の術など何の力も無い。
女性は泣き続けた。思いを全て流してしまうまで、その涙は止まらないだろう。
涙が止まった時、この人は新しい人生に踏み出せる。
これからの長い人生に比べたら、例え1日泣き続けても大した時間じゃない。
このまま泣き止むまで、彼女の肩を抱いたまま傍にいる。そう、決めた。
「ありがとう。いっぱい泣いたら、スッキリした。兄が死んだ時にも泣けなかったのに、
あなたといると、泣くのが怖くない。自分の心に、素直でいられる。不思議ね。」
10歳も年上。でも、泣きはらした目で、時折しゃくり上げながら話すその人を可愛いと思った。
「スカウトの話、憶えてますか?」 「え?」
「昨夜も言いましたが、僕たちの一族はあなたを必要としています。
もしあなたが自分の力を誰かのために役立てるなら、いつも自分の心に素直でいられますよ。
僕自身がそうだから間違い有りません。それは、保証します。」
「私が引っ越しを考えてるって話、憶えてる?」 「はい、娘さんの中学入学を機に、と。」
「娘の怪我の事で色々有ったし、今の職場、少し居辛いの。
引っ越しに合わせて転職出来たらって、ずっと思ってた。
だからスカウトの話、とても有り難いけど。本当に私なんかが役に立つの?」
「心が決まったら電話して下さい。新しい職場、御紹介致します。」
「...心を決められるように、お願いがあります。」 「何でしょう?」
「もう少しだけ、このままでいて。涙が、出なくなるまで。」
「お安い、御用です。」
結
昼寝から覚めて時計を見ると窓の外は既に暗くなっていた。もう7時過ぎだ。
着替えて顔を洗い、飛びついてきた翠を抱きしめる。温かい、命の感触。
「夕食、出来てますよ。」 姫がダイニングから顔を出した。
「スカウトの件、上手くいきそう?」
ダイニングで食器を洗っていると、Sさんがハイボールのグラスを持って来てくれた。
姫はリビングで翠と藍の相手をしてくれているのだろう。
「う~ん、五分五分、ですかね。心が決まったら電話して下さいって言っておきました。」
「美人で、頭も良い。あなたへの信頼と依存も深かった。今朝、ソファに押し倒しちゃえば
スカウト成功確実だったのに、変な所で律儀なんだから。ホント難儀な性格よね。」
Sさんお得意の憎まれ口には慣れている。
彼女と兄の関係を知ってから、彼女と接する時、俺はいつも彼女の弟の立場を意識した。
あくまで模擬、それでも異性の友人や姉弟同士、体の繋がりのない絆を実感することが、
彼女が生まれ変わるには是非必要だと思ったからだ。
そしてそれは、Sさんも同じ意見だったのに。つまり俺の心を読むのが怖いから、
鎌をかけて俺の口から聞きたいってこと。全く、難儀な性格はどっちなんだか。
「彼女が泣き止むまで、ずっと肩を抱いて背中をさすってました。それだけです。
まさか外法に手を染めた術者と同じ事をしても良いなんて、まさか本気じゃありませんよね?」
Sさんは両手で俺の頬を挟み、唇にキスをした。
「冗談よ、怒らないで。愛する夫が綺麗な女性の部屋にお泊まり。
しかも帰ってきたのはお昼前。ちょっと位、愚痴を言っても良いでしょ。機嫌直して、ね。」
小さく溜息をつく。やっぱり心にもないことを。
「怒ってなんかいませんよ。それよりスカウトの件、どうなったんですか?」
「心当たりに電話したら、乗り気だった。スカウトが失敗して断るのが怖いくらい。」
「もう、おとうさん!あらいもの、まだおわらないの?」
頬を大きく膨らませた翠の後ろで、姫が笑いを堪えている。
「あ、御免。もうすぐ終わるから、それから一緒に絵本読もうね。」
数日後、夕方5時過ぎに市内の総合病院を訪ねた。
ロビーを見回す。その女の子は、すぐに分かった。ベンチに座り、外を見ている。
誰かを待っているような、何かを怖れているような、寂しげな表情。 胸が、痛い。
ゆっくりと歩み寄り、その子の隣に座った。怪訝そうに俺を見た女の子に声を掛ける。
「君は○村佳奈子ちゃん、でしょ? お誕生日、御目出度う。」 女の子は目を丸くした。
「どうして私の名前を?それに、誕生日も?」 背中を丸めて、女の子と視線を合わせた。
「僕は魔法使いなんだよ。君のお父さんの古い友達で、だから仕事を頼まれたんだ。」
「でも、私のお父さんは。」
「9年前、お父さんが亡くなる前に約束した。とても大事な約束。
「どんな、約束?」 声を潜め、女の子の耳に囁く。
「君には、邪悪な妖怪が取り憑いてる。その妖怪は、君の大事な人に化けて君の命を狙う。
しかも、君が成長するにつれて妖怪の力も強くなる。このままだと君はいつか妖怪に。
それで、君を護ってくれって頼まれた。今日が、その約束を果たす日だ。」
「大事な人に化けるって...お母さんとか?」
やはり、この子は自分を襲ったモノを見ている。まるで母親そのものの、式の姿。
自分を襲ったのが、大好きな母親だと信じたくない。
それで、子供心に必死で自分の記憶を。だから3度とも怪我の原因は不明。
「油断させて、襲うんだ。ほら、その足の怪我にも妖怪の気配が残ってる。
原因の分からない怪我をするのはこれが初めてじゃないよね?」
女の子の表情が、突然ぱっと明るくなった。
「うん、3回目。でも、私の怪我は悪い妖怪のせいだったんだね。」
「そう。だから、これを持ってきた。これ以上無い、強力な御守り。」
女の子の視線を十分引きつけて、それをポケットから取り出した。
銀のハートを、細いプラチナのチェーンに通したネックレス。
「ほら、綺麗でしょ?これをあげる。そしたら、もう二度と邪悪な妖怪は君に手を出せない。」 「でも、そんな綺麗なもの貰ったら、きっとお母さんが。」
「大丈夫、お母さんにはこう言えばいい。
『この御守りはお父さんのお友達だった魔法使いから貰った』、
そして、『ずっとこれが私を護ってくれるって言ってた。』って。ちゃんと言える?」
女の子は大きく頷いた。
「じゃ、かけてあげよう。お父さんとお母さんの想い、大事にするんだよ。」
白く、細い首の後ろで留め金を留めた。ゆっくりと、立ち上がる。
「良く似合う、これで大丈夫。僕はもう行くよ。次の仕事が、あるからね。」
「あの、名前。お兄さんの名前を、お母さんに。」
「R。それで、分かるよ。さようなら。」
「さようなら。」
それから三ヶ月程が過ぎ、お屋敷の周りには秋の気配が漂っていた。
榊さんに依頼された仕事を終え、お屋敷に戻ると玄関先に見慣れた軽トラ。 『藤◇』の文字。
「あざっした~。」 配達の人の元気な声。すれ違いながら声を掛ける。「いつも御苦労様。」
ドアを開けた。 何だ、これは?
差し渡し1m近い舟盛りが二艘。豪華な寿司とお造り。そして紅白の紙で包まれた日本酒。
「おかえり~。おとうさん、こんやはごちそうだよ。」 翠と、その後ろにSさんと姫の笑顔。
「これ、みどりの。きれいでしょ?」 「美味しそうだね。全部食べられるかな?」 「うん!」
翠が持っている折り箱には色とりどりの小さな手鞠寿司。 藤◇の大将の、心遣いだろう。
「もう少し早かったら、電話で話せたのに。残念ですね。」
「あの、今日って何かの記念日でしたっけ?全然、憶えてなくて。」
姫とSさんは顔を見合わせて微笑んだ。 「結納のお祝いよ。美枝子さんから『弟君』に。」
美枝子...あの女性の、結納?
「相手は私の従兄。彼女より2つ年下で、きっとお似合いだと思ってたの。」
彼女を引き受けたのがSさんの叔母夫婦だという話は聞いていた。
『お似合いだと思ってた』ということは、最初からこれも狙いの1つだった訳だ。
「式は来月、是非家族みんなで出席して欲しいそうです。電話、かけ直しましょうか?」
「あの、娘さん、加奈子ちゃんは?」
「叔母と従兄が加奈子ちゃんをすごく気に入ってて、加奈子ちゃんも懐いてるみたい。」
それなら、心配ない。安心したら腹が...空腹で倒れそうだ。
「もう、式には出席するって返事したんですよね?」 Sさんと姫は声を合わせた。 「勿論!」
「じゃ、まずはその御馳走を。もう、お腹ペコペコで。電話はその後に。」
「了解です。それにしても、Rさんて。」
「え?」 姫が真っ直ぐ俺を見つめている。
「最近、何だかとても頼もしい感じで、素敵です。」 「あ、そ、そうですか。え~っと。」
「何赤くなってるのよ。全く、デレデレしちゃって見てられないわね。」
『贐』 完
コメント