雨乞い
私が中学生だった頃の話だ。
学校からの帰り。街には雨が降り、私は安物の雨合羽を着て自転車で家路を辿っていた。
道中、県道路沿いのバス停に差し掛かった時だ。屋根のついた待合所のベンチに男が一人座っていた。おや、と思ったのは、朝にも同じ場所で、同じ男を見たような気がしたからだ。
バスを待つのに疲れたのだろうか、俯き地面を見つめている。ただ、その時はそれ以上深く考えもしなかった。
次の日も、雨だった。朝、私が学校に向かっていると、バス停に昨日と同じ男が、昨日と同じ格好、昨日と同じ姿勢で座っていた。
思わず二度見する。俯いているため顔はよく見えないが、歳は三十ほどだろうか。くたくたのシャツに、くたくたのスラックスを履いている。鞄の類は持っておらず、ベンチに立てかけた黒い傘が、彼の唯一の持ち物らしかった。
吹き込んでくる雨のせいか、男の両足は靴先から膝まで濡れている。その後、一日の授業を終え、学校から帰る時も同じ男を見た。
次の日は晴天で、バス停は空だった。
再びバス停にて男を目撃したのは、一週間ほど経った後のこと。その日も、雨だった。
気になったので情報を集めてみると、やはり、男はバスを待っているのではなかった。彼は街の人間で、雨の日に限り、ああやって一日中バス停のベンチに座っているのだそうだ。
小さな街なので、噂の回りも早い。数か月前に、男は恋人と死別していた。数名の友達と行った旅先で交通事故。男は旅行に同伴しておらず、最後に彼女を見送ったのが、あのバス停だった。
事故後、男は務めている仕事を休職し、晴れた日は家でぼんやりと、雨の日はバス停でぼんやりとしているという話だった。
その日も、朝から雨が降っていた。前日に天気予報を確認していた私は、朝飯を素早くかき込み、手早く準備を済ませると、いつもより少し早く家を出た。雨合羽に自転車ではなく、傘を持って、徒歩で。
雨の中、バス停まで歩いて行くと、ベンチに男が座っていた。他に人はいない。何気なさを装い傘をたたむと、私も男から一番離れた椅子に座った。
横目でそっと観察する。
男は、前屈みの状態で、俯き、足先から数十センチ前の地面をじっと見つめていた。両肘を膝の上に置き、祈るように組み合わされた両手は、両足の間に力なく垂れ下がっている。髭は伸び放題だったが、三十代よりはもっと若いかもしれない。時折、指を組み直したり、目を閉じたり、口元だけで小さく笑ったりしていた。
バス停には、恋人の幽霊が出るのではないか。そういう噂もあった。男は彼女に会いに来ているのだと。女が彼のすぐ隣に座っているのを見た、という人も居た。
その内、時刻表通りにバスがやって来た。私は、当然のように立ち上がると、男の前を通り過ぎバスに乗り込んだ。その際、彼の隣の席を盗み見たが、もちろん、ただの空席だった。
私が乗り込むと、運転手はすぐにドアを閉めた。そうして、バスは一人の男を置き去りに、雨の中をゆっくりと走り出した。
その後、私は一駅先の中学校前で降りると、そこから駆け足気味に中学校へと向かった。
私と同じクラスに、くらげというあだ名の人物が居た。彼は所謂、『自称、見えるヒト』 だ。私が今日わざわざバス通学をしたのも、男に関する噂を集めたのも、そもそも彼に原因があると言ってもいい。
何時もより早く来たせいか、教室にはくらげ以外まだ誰も居なかった。彼は、自分の席で本を読んでいた。こいつは普段の動作は鈍いくせに、毎日誰よりも早く学校に来るのだ。
荷物を棚に放り投げ、すぐ隣の机の上に腰を降ろすと、彼が読んでいた本から顔を上げ、こちらを見やった。
「見たか?」
単刀直入にそう切り出すと、私を見る目が少しだけ細まった。いつも表情の乏しい彼だが、これは分かる。誰かさんがまた面倒なことを持ち込んできたな、と迷惑がっている顔だ。
「……何を?」
「雨の日のバス停の男」
少し間があって、「ああ、あの人」 と彼が言った。
私と彼の家は同じ校区でも北と南で多少距離が離れているが、彼も通学の際は、あのバス停の前を通るはずだ。
「見たことあるよ」
「死んだ恋人の霊は?」
「……何それ」
今まで集めてきた情報を教えてやると、彼は格別興味もなさそうに、「ふーん」 と呟いた。
「見たか?」
「見てない。……と思う」
はっきりとした確信はないようだ。そもそも、バス停の男のことも目の端に映った程度のことなのだろう。
「じゃあ、まだ可能性はあるな」
私が言うと、次の展開が予想できたのだろう、彼が、今度は割とはっきりと面倒臭そうな顔をした。
「見に行こうぜ」
行くとも嫌だとも言わず。代わりに、彼は読んでいた本に再び目を落としながら、小さく息を吐いた。
ただし、その日は昼に雨が止んでしまい、決行は次の雨の日の朝ということになった。バス停の男は、雨が降っている間しか現れない。逆に言えば、雨さえ降っていたら、真夜中でも彼は座っているのかもしれない。もちろん、それは勝手な想像だったが。
次の雨は、数日後に降った。「梅雨でもないんに」 朝食をよそいながら、母がこぼす。確かに最近雨が多いな、とは私も感じていたが、早々に機会が来たのでラッキーとも言えた。
何時もより随分早く家を出た。傘を差し、徒歩で向かう。
友人との待ち合わせ場所は、街の中心に架かる地蔵橋。中学校とは逆方向で遠回りになるが、私とくらげが何かする時、行動の起点はいつもここだった。
橋に着くといつも通り、くらげが私を待っていた。軽く手を上げると、彼も無言で手を上げた。そのまま、二人で中学校までの道を歩き出す。途中、町営バスが一台、私たちを追い越していった。
雨の向こうにバス亭が見えてくる。そこに、男は居た。掘っ建て小屋のような粗末な建物の中に、六、七人ほどが座れるベンチ。男はその一番端の席に、一本の黒い傘を立て掛け、座っていた。
私とくらげは男とは逆側に、くらげを男に近い方に座らせて、私は遠い位置に座った。こうすれば、くらげとの会話のついでに、男を観察することができる。
意識の二割ほどを割いて、隣の友人と、通学中の学生がするような取り留めもない話をする。といってもほとんどいつも通り、私が一方的に口を動かしていただけだが。
その内、男の身体の肩口がやけに濡れていることに気が付いた。男の脇にある傘は大人用の大きなものだったが、ここまで、おざなりな差し方をして来たのだろうか。
そんなことを考えている間も、私の口はほとんど無意識に、昨晩のテレビ番組の話をしていた。
「見たか?」
話の流れのまま、私は訊いた。打ち合わせも何もしていなかったが、それまで私の話を左から右に聞き流していた彼が、ちらりとこちらを見やった。そうして逆の、男の方に無造作に視線を向けると、
「……うっすら」
と言った。
唾を呑み込み、くらげの身体越しに、私はじっと目を凝らした。
男の傍には、誰も居ないように見える。
その内、次のバスがやって来た。時間切れだ。先にくらげが立ち上がり、私は後ろ髪を微かに引かれながらも、彼の後に続いた。
男の前を通り過ぎようとした時、不意にくらげが立ち止まった。全く突然のことで、危うくその背中にぶつかりそうになる。彼は無表情に、男をじっと見下ろしていた。
俯いていた男が顔を上げ、くらげを見やった。
視線が合う。二人とも、何も言わなかった。
バスの中から、何人かが怪訝そうに私たちを見ている。慌てた私は咄嗟にくらげの背中を押して、無理矢理バスに乗せようとした。
その瞬間、私の目の端に何かが映った。男の隣に、誰かが座っている。思わず二度見する。が、その時にはもう消えていた。ただ見間違いではなかった。確かに、そこに誰かが居た。
バスに入るよう、今度は私が袖を引っ張られた。
「……何か居たな」
バスの一番後ろの席に座ってから呟くと、彼は至って何でも無いような口調で、「あの人には、見えてないようだったけど」 と言った。立ち止まったのは、それを確認するためだったのだろうか。
ドアが閉まる音がし、バスが走り出す。私は背もたれの上にそっと身を乗り出し、後ろの窓から外を見やった。男は再び俯いて、地面を見つめていた。
「……教えてやった方がいいんじゃないか?」
私の言葉に、くらげは無言で首を横に振った。彼は背もたれにもたれかかって、薄く目を閉じていた。何を見たんだ、そう訊こうとして、止めた。確かに、私たちが彼に教えたところで、信じてもらえるはずもない。きっと馬鹿にされていると思われて終いだろう。
「見えない方が、いいよ」
目を閉じたまま、くらげが小さく呟いた。
再び、窓の外を見やる。雨の中、男は俯きその額に自分の組んだ両手を当てていた。何かを祈るように、もしくは乞うようにか。
バスは遠ざかり、男の姿はあっという間に小さくなって、見えなくなった。
それから数回、バス停で同じ男を見かけたが、ある雨の日を境にぱったりと現れなくなった。不思議に思い色々嗅ぎ回った末、私は男がある程度立ち直り、仕事にも復帰したことを知った。
そんなある日、バス停の前を通りすぎた際、ふと、ベンチの脇に見覚えのある黒い傘が残されていることに気が付いた。男の物だと思っていたが、違ったのだろうか。それとも男が忘れて、もしくは置いて帰ったのか。
その傘も数日後には消えていた。誰が持っていったのか、私は知らない。
くらげ シリーズ
1 五つ角2 死体を釣る男3 口内海4 くらげ星5 みずがみさま6 転校生と杉の木7 緑ヶ淵8 北向きの墓9 蛙毒10 黒服の人々11 雨乞い12 雪村君13 水溜め14 小舟15 桜の木の下には16 祖父の川17 水を撒く18 河童の出る池
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