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『星灯』藍物語シリーズ【25】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

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『星灯』藍物語シリーズ【25】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物
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藍物語シリーズ【25】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『星灯』

 

 

少し開けた窓から吹き込む風が、ソファで昼寝をする翠と藍の頬を撫でていく。
Sさんは黙って二人の毛布を整え、ソファの傍らに横座りしたまま優しい笑顔を浮かべた。

「二人でウォーキングを始めてからどの位経つんですか?」
少し相談があるということで碧さんと暁君がお屋敷を訪れていた。穏やかな休日の午後。
「私が早起きして家の周りを散歩するようになったのが去年の10月の終わり。
一人じゃ危ないって暁が一緒に歩くようになって、二人で少し遠出を始めたのが11月。
だから大体四ヶ月くらい、ね暁。」 「はい。」
二人は顔を見合わせて頷き合った。美男美女、本当に絵になる。思わず溜息。
「ふふ、相変わらず仲良しで素敵ですね。
私もRさんと外出する時はずっと手を繋いで貰おうかな。」
Sさんはくすっと笑い、碧さんと暁君の頬が鮮やかな紅に染まった。
「ちょっとL、あなた何故そんな事知ってるの?あ、それも術ね?」
「そんな嬉しそうにお惚気聞かされたら、僕でもその位予想できますよ。
それで、どうして四ヶ月も続けた早朝のウォーキングを止めようかと?」
そう、それが本題。今日の二人の相談だった。

 

碧さんは俺と姫を軽く睨んだ後、両手で自分の頬を挟み、ほうっと息を吐いた。
「お正月過ぎた頃から気味が悪いことが続いてて...。
頭を潰された血塗れの人形がバス停脇の歩道に2つ並べてあったり、
市営駐車場のフェンス際に真新しい靴がキチンと揃えて置かれていたり。」
「ちょっと待って、その靴どっち向いてた?フェンスの内?それとも外?」
二人の相手を俺と姫に任せ、ずっと黙っていたSさんの眼に、淡い光が宿っていた。
「え?そ、外だけど。それがどうかしたの?」
「ううん、確かめたかっただけ。大した事じゃない、話を続けて。」
「まあ、変な人形や靴はたまの事だから、まだ良いんだけど。ね。」
「一番気持ち悪いのは犬の糞なんです。○辻交差点の歩道橋で、
毎日のように増えるから凄いことになってます。」
Sさんの集中力が一気に高まったのが分かる。空気がチリチリと音を立てそうだ。
「臭いが凄いし、道を譲らないと擦れ違えない場所もあるの。酷いでしょ?
小学生の通学路だから地域の人達が時々掃除するんだけど全然追っつかない。」

 

「気味が悪いなら無理して続けることないわ。体を動かすなら他の方法もあるし。」
「あの、Sさん。ウォーキングじゃないと手が。」 「あら、そうだったわね。」
「L!だから手を繋ぐのは」
Sさんは右手の人差し指で自分の唇を押さえ、左手で翠と藍を指し示した。
「兎に角、しばらくそのコースのウォーキングは止めて。何か事情が有りそうだから調べてみる。
新しいウォーキングのコースはR君が良い所知ってると思うわよ。市内の公園とか。」
如何にも軽い口調だが、Sさんの眼は笑っていない。
リビングの気温が一気に、下がったような気がする。
碧さんと暁君は顔を見合わせた後、黙ったまま大きく頷いた。

 

「あのバス停。ちょっと停めて。」
夜明け前、未だ薄暗い道。出来るだけ静かに、車をバス停の路肩に寄せた。
「このバス停だって言ってたから、人形が置かれるのは...多分あの辺り。」
Sさんが指さした方向。視線の先の地面は、其処だけ不自然に空気が澱んでいた。
「この先300m程で○辻交差点。そこからさらに500m程先が市営駐車場。ね、これを見て。」
SさんはPCでプリントアウトした地図をダッシュボードに置いた。
○辻交差点を挟み南北方向に小さな赤丸、東西方向に点線の大きな赤丸。
「二人が歩くコース以外にも何か仕掛けがされてるって事ですね?この点線の丸印の中に。」
「ご名答。一体誰が、何のためにこんな事してるのかしらね?」
Sさんの眼に宿る強い光。ならこれはSさん自身の疑問でなく、俺へのテストだ。
「血や糞尿を使うのは、●▼の系統の術ではありふれた手法ですね。
この配置だとまるで結界ですが、まさか交差点に何かが?」
交差点、古くは「辻」。それは人と人ならぬ者達の通路が交わる場所にもなる。
古くから存在する交差点なら、妖怪や幽霊にまつわる伝承の1つや2つはあるだろう。
「封じているのは交差点でなく、歩道橋なの。」 「歩道橋って、一体何故?」
「『百聞は一見に如かず』よ。実際に見て貰ってから説明した方が早い。車を出して」

 

これは、まるで...
次に車を停めたバス停の名は『○辻』。件の歩道橋、階段から僅か十数mの距離。
一方通行の車道や歩行者専用道路も含めて7本もの道が交差している。
此の一帯の地名に『○辻』とつくことからしても、かなり古くから有る交差点だろう。
様々な方向から伸びる階段と通路で複雑に組み上げられた、大きな歩道橋。
その構造はまるで、大きなお社の土台のように見えた。
「見れば分かるって言ったけど。どう?何か感じる?」
「これは、まるでお社の土台みたいですね。古いお社の土台だけが残っているような。」
「そう、お見事。偶然でなく、お社の土台としての機能を果たすように造られてる。
設計段階から一族の術者が数名、関わったと聞いてるわ。」
「でも土台だけでは。それにこれじゃ、土台としての機能さえ。」
「お社はある。『見えない社』が。一夜の宿を取るために精霊や妖たちが造った社。
此の交差点で交わる道のうち2本は、人ならぬ者たちの通路と重なっている。
その道を行き来する者達が造った仮の宿、それがあの土台の上に建つ『見えない社』。
その社と社に繋がる通路を封じたのだから、相手の目的は想像がつく。」
「もう、相手の見当が付いているんですか?」
「断定する前に、実際にこの目で見ておかないとね。」
言うなりSさんは軽やかな身のこなしで助手席のドアをくぐった。バスは未だ始発前。
短時間ならこのまま車を停めても大丈夫だろう。急ぎ足でSさんの後を追った。

 

「確かに臭うわね。」 「はい、でもこの臭いは。」
階段を上り切った通路上に犬の糞らしいものが幾つか見える。多分小型犬。
しかしこの臭いはむしろお香のようで、極僅かな腐臭が混じっている。
通路の端、階段の降り口でSさんは立ち止まった。黙って隣に並ぶ。
階段の途中に無数の糞。これでは確かにウォーキングする気にはならないだろう。
「大体予想通り。他の場所の調査も必要だけど、あとは車で見て回るだけで十分だと思う。」
姫は妊娠八ヶ月を過ぎようとしている。臨月の近い体に負担はかけられない。
翠と藍は式に任せているが、出来るだけ早く帰りたいのは俺も同じ気持ちだった。

 

助手席のドアを閉め運転席に乗り込んだ瞬間、息を?んだ。
バス停のすぐ脇、ガードレールに大きな白い蛇が巻き付いている。
こんな町中に白蛇なんて...神の眷属か、あるいは妖か。
どちらにしろこの世の者でないのは間違いない。
「Sさん、あれ。」
「仮の宿を求めてきたけれど、お社と通路が封じられているので困っているのね。
早く封を解かないと、精霊や妖たちの気が滞って人間にも悪い影響が出てしまう。
でも、相手が相手だからしっかり準備をしてからでないと。」
「やっぱり、相手の見当が付いているんですね?」俺はゆっくりと車を出した。
交差点の信号は赤、早朝の空は次第に明るさを増している。
「犬の糞以外の臭い、気がついた?」
「そういえばお香のような臭いと、それに微かな腐臭が。」
「そう、それだけで相手とその目的は推測できる。
他の場所を見て回れば、その推測が正しいかどうか分かると思う。あ。」
Sさんは俺の体越しに交差点の対岸側を見ている。
反射的に『鍵』をかけ、Sさんの視線を辿った。
対岸の階段上り口に黒いスポーツウエアの女性。細身で小柄、年の頃は30歳後半位か。
その足下に茶色の小型犬。信号が青に変わった。

 

「まさか本人の姿が見られるなんて、まさしく天のお導きよね。」
Sさんの笑顔は優しかった。しかし、あの女性。
今まで関わってきた術者たちとは全く違う雰囲気が、その身体の周りに漂っていた。
「あの女性、今まで見てきた術者たちとは全く違いますよね。何故、ですか?」
「それも後でまとめて説明するけど今は調査が先。もうすぐ市営駐車場よ。
入り口近くの路肩に車を停めてね。」
「はい、了解です。」 「うん、良い返事。」 Sさんは俺の髪を優しく撫でた。

 

「歩道橋を封じたあの術者は狗神使い。
呪殺を専門の生業とする術者で、古くは●太夫と呼ばれた。」
寝入った藍をそっとベビーベッドに寝かせた。Sさんの左隣、ソファに座る。
「犬を酷く苦しめて殺し、切り落としたその首を埋めて呪詛を行うという、あの、狗神ですか?」
「狗神使いが忌み嫌われるのは当然、だから趣味の悪い伝承が生まれたのも理解できる。
でも実際には、そんな術を使う術者はいない。狗神使いに限らず、ね。
そんな事して自分が無事に済む程の術者なら、そんな悪趣味な術を使う必要は無いもの。
大抵の場合、狗神使いは止むを得ない事情で狗神を体内に封じた術者。
それは禁呪の中でも、特に過酷な宿命を術者に背負わせる、悲しい術。」
Sさんは一旦言葉を切り、ホットワインを一口飲んだ。小さな溜息。
「人々に害をなす狗神、狗とは言うけれど犬とは限らない。
もとは人間への憎しみや恨みを抱いて死んだ動物の魂が悪霊に変化したもの。
その力が強過ぎて滅する事が出来ない時、狗神を術者の体内に封じることがある。
そうすれば狗神をコントロールして、犠牲を最小限に抑える事が出来るから。」
「狗神を封じた後なのに、犠牲が必要なんですか?」
「狗神の怒りと憎しみを鎮めるためには、贄を捧げる必要がある。
つまり術者が定期的に人を殺す以外に、狗神の封を維持する方法は無い。
ただ、封じた狗神への通路を開けば術者は狗神の力を利用できる。
だから、力の強さという点で言えば、狗神使いは一族でも最高位の術者とほぼ同格の筈。」
一族で最高位の術者と言う事は、例えば桃花の方様のような?
「それほどの力を持っていながら、どうして狗神を滅し...あ。」
「そう、狗神こそが術者の力の源、だから術者自身が体内の狗神を直接滅する方法は無い。」

 

その身に狗神を封じ続けるために、定期的に人を殺し贄とする。
荒れ狂う祟りが無差別に奪う命の数よりも、贄となる命の数が有意に少ないのであれば、
その犠牲は、術者の呪殺という行為は正当化されるだろうか。
もし、俺がその立場だとしたら...しかも術者が自ら命を絶つことは許されない。
途中で止めれば、それまでの犠牲は無意味となり、さらに狗神を野に放つ結果となるだろう。
何よりも『皆を守るために次は誰を殺すか』という判断、とても俺には出来ない。
と言うより、それは普通の人間に許される判断では無い。
唯一、己の身を檻にして狗神の祟りを抑えている術者のみに許される、判断。
狗神使いが背負うという宿命。それがどれ程過酷なものなのか、朧気に見えてきた。
「だから狗神使いは呪殺を生業とするんですね。
せめて普通の人では無く、矯正の見込みの無い罪人や外法に手を染めた術者を。
その判断をする時の精神状態は、僕にはとても想像がつきませんが。」
「呪殺の報酬は高額だから、術者の生活基盤は保証されるけれど、
当然禁呪のペナルティーは術者の身体を蝕んでいく。
狗神使いの寿命は長くないし、一番の問題は術者の死とともに起こる狗神の移動。
術者が行き先を指定しない限り、それは術者の最も近い血縁に移動する。」

 

俺の想像を超える過酷な宿命。本人だけで無く、子孫にもそれが伝わるなんて。
しかし滅することが出来ないのだから、封じ続ける以外にその祟りを抑える方法は無い。
「ある家系には8代かけて狗神の憎しみを薄め、ついにその祟りを消したという記録も有る。
でも、今の時代に狗神を引き受けようなんて奇特な術者がいる訳が無い。
無理にでも血縁に継がせるか、血縁を避けて赤の他人に押しつけるか。
ね、R君。あなたがその術者の立場ならどうする?無理矢理自分の子供に継がせる?
それとも自分の子供を守るために、赤の他人の術者を行き先に指定する?」
自分の子に過酷な宿命を負わせるのは忍びない。
しかし、だからといって赤の他人に押しつけるのは人としてどうだろう。
「分かりません。どちらも辛すぎます。でも、どうしてもというならむしろ僕は。」
「そう、きっとあの術者も私たちと同じ事を考えた。歩道橋の臭い、憶えてる?
あれは腐臭を隠すために焚き込めた香。身体の崩壊が始まってるのだから、もう時間が無い。
だから私たちを探すために罠を掛けた。それが、あの結界。」
「僕たちを探してるって...。」
「そう、あの術者の狙いは私たち。あの交差点を封じて人ならぬ者達の気が滞れば、
やがてあの一体で障りが出る。そうなればこの辺りを活動の場とする術者が黙っていない。
そう、考えたのね。つまり私たちを呼び出すのがあの術者の狙い。」
暫く忘れていた何か。そう、まるで古傷が疼くように、心の奥が痛む。

 

「僕たちを呼び出して、どうするつもりなんでしょうね?」
「このお屋敷に移り住んで以来関わった仕事や事件は全て、
後の障りが出ないように処理してきた。完璧だったわ、ただ一つの例外を除いては。」
ああ、そうか。俺は病院のロビーに佇んでいた少女の、寂しげな横顔を思い出した。
少女の名は○村佳奈子、そして少女を養女にした女性の名は○村美枝子。
縁あって俺は美枝子さんに出会い、Sさんの助けを借りて彼女を苦しめていた術を解いた。
その件で最初に朧気な危惧を抱いたのは俺自身。
佳奈子ちゃんには実の母親の気配が全く感じられなかった。
離婚は九年前、実の母親の行方は分からず音信不通。
しかし、母親の子に対する想いが微塵も無く消滅するなどと言う事があるだろうか。
それを相談した時、Sさんは言葉を濁したが、その表情の翳りは後の憂いを示唆していた。
去年美枝子さんはSさんの従兄弟と結婚し、佳奈子ちゃんは夫婦の養子になっている。
美枝子さんが嫁いだのは遠い土地、そしてSさんは美枝子さんの御両親にも転居を強く勧めた。
それは全てこの日のためだったのだ。実の母親である術者が、この街に戻ってきた時、
佳奈子ちゃんの行き先を辿る手がかりが残っていないように。

 

その日が来て欲しくない、その想いが俺の記憶を無意識の底に沈めていたのだろう。
しかしその日は来た。あの女性は佳奈子ちゃんの実の母親。10年ぶりにこの街に戻り、
娘の居場所を知るために、その痕跡を消した術者を探している。
「僕たちを呼び出して、佳奈子ちゃんの行方を知るつもりなんですね?」
「そう。自分の身を犠牲にして狗神を封じている術者からの呼び出し。
それを無視するのは一族の作法に反する。出来れば堂々と応じて始末を付けたい。」
「始末を付けるって...狗神はとても僕の手に負える相手じゃないし、Sさんだって。」
Sさんは俯いて暫く黙っていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「もしあなたが行ってくれるなら、策はあるわ。
あの結界の中では此方の力がかなり削がれるけれど、あの短剣は結界の影響を受けない。
それにあなたの言葉なら、多分結界の中でも術者の心に届く。だから。」
相手を疑って立てる作戦よりも、信じて立てる作戦の方が遙かに難しい。
本当にあの術者は、俺と同じ答えを選択したのだろうか?
「あの術者が、僕たちとは別の答えを選択しているという可能性はありませんか?」
「誰か赤の他人に押しつけるつもりなら、ここまでして娘を探す必要はない。
娘に継がせるとしても、今からじゃ狗神を制御する術を教える時間が無い。
それなら残る答えは1つだけ、私たちと同じ。ただし、あなたの判断や感覚が最優先。
少しでも心が揺らげば、最悪の事態を招くから。」
「でも、このまま放置してその術者が死んだら、狗神は佳奈子ちゃんに移動するんですよね?」
「もし、術者が他の行き先を指定していなければ、当然そうなる。」
いや、それは駄目だ。やっと幸せを手に入れたばかりだというのに、更なる悲しみなんて。

 

「美枝子さんに出会ったのが彼女との縁なら、今回の件は佳奈子ちゃんとの縁でしょう。
僕が行きます。どうすれば良いのか、教えて下さい。必ず、上手くやりますから。」
「簡単に言うと、あの結界の中で狗神を焼き尽くすの。もちろんあの短剣を使って。
もし失敗しても、あの剣でダメージを受けた状態なら、私が十分対応できる。」
「でも、術者が黙って僕たちの思惑通りになるでしょうか?」
「あなたの真の役目はそれ。狗神を滅することが私たちとあの術者の共通の願い。
狗神を滅し佳奈子ちゃんを助けるには、それが一番良い方法だと、説得して欲しいの。
多分『言の葉』の適性を持つ術者でなければ、この役目は担えない。」
「分かりました。やはりこれは、僕の仕事です。僕に、やらせて下さい。」
Sさんは俺の唇にキスをした。熱く、長いキス。
「きっと、そう言ってくれると思ってたわ。明日の朝から早速準備を進める。
そして明日の深夜、2時過ぎには始末をつける。準備は全て午前中で済ませて置くから。」
「そんな時間に相手が現れるんですか?一体どうやって?」
「相手は定期的に『罠』の状態を確認してるはず。だから歩道橋にこれを貼るの。」
SさんがラミネートしたA3の紙を数枚、テーブルの上に置いた。
『本日深夜歩道橋の大清掃を行います。午前2時~4時、横断歩道をご利用下さい。担当者』
「さあ、あとは明日午後にでも打ち合わせすれば十分。
もうLの部屋へ戻って。Lも当然異変に気付いてる。不安は身体に毒だから、ね。」

 

 

眼が覚めた。目覚ましを確認する。午前一時丁度、予定通り。そっと身体を起こした。
「待ってます。ずっと、待ってますから。」 姫の、小さな声。
事情を詳しく話した訳ではないが、特に隠しもしなかった。
とても聡い人だから、隠せばかえって不安を大きくするだけ。
お腹の子の事を、今は一番に考えなければならない。誰より姫がそれを分かっている。
だから今夜の件について質問する事もなく、ただ『待っています』と。
背中を向けたままなのは、俺の心に迷いを生じさせないための心遣い。
そう、俺が迷えば姫の不安はさらに大きくなる。だが、大丈夫。
戦うのではない。準備は万端、Sさんとの打ち合わせも済んでいる。
「必ず無事に帰ります。起きていると身体に毒ですから、少しでも寝て下さいね。」
そう、上出来だ。まるで夜釣りに出かける時のように、軽やかに。

 

念のため、市営駐車場からさらに約200m離れたバス停に車を停めた。軽の四駆。
Sさんが運転席に移る。1時40分、此所からはSさんと別行動。俺は歩いて歩道橋に向かう。
「くれぐれも注意して。絶対に、焦っちゃ駄目よ。
結界を解く準備が出来次第此所へ戻る。それまでは何とか、時間を稼いで。」
「はい、世間話は大の得意ですから、任せて下さい。
それに佳奈子ちゃんの実の母親なら、きっと、凄く綺麗な女性ですよね?」
「馬鹿、私がどんな気持ちで...」 開いた窓越し、Sさんの唇にそっとキスをした。
「僕はSさんを信じてます。だからSさんも、僕を信じて下さい。」
Sさんは小さく頷き、ハンカチで目元を押さえた。
小さく手を振り、車を見送ってから歩き出す。

 

「何だこれ?夜中に大清掃って。」
「ああ、この歩道橋犬の糞が凄いからな。ようやく役所も腰を上げたんだろ。」
「おいおい、犬の糞を踏むなんて御免だぞ。」
「だから掃除するんだろ。ほら、横断歩道使えって書いてある。あっちだ。」
酔っ払いらしい男が二人。大声で話しながら横断歩道へ向かって歩いていく。足下が怪しい。
深夜2時前。古く、大きな交差点だが、新しい繁華街からは少し離れている。
遠ざかる男2人以外に人影は無く、車の往来もまばら。大きな歩道橋を見上げた。
深呼吸、階段に左足をかける。
『もし、若い御方。』 驚いたが、声に敵意はない。
振り向くと、白い着物の童子が立っていた。
正体は分からないが、何れにしろ人では無い、礼を尽くしておくべきだろう。
階段から足を下ろし、目礼。 「私に、何か御用ですか?」
『あなたを術者と見込んで頼みがあるのです。』
「はい、私に出来る事であれば。」

 

「この社を封じた術者には、私の朋輩も関わっています。
私はこの結界に入れません。しかしあなたが私の想いを携えて下さるなら、
私の声が朋輩に届くでしょう。どうか一言『その想いを携える』と。』
朋輩?あの時術者は小型犬を連れていたが、まさかあれが?
事情は分からないが、敵意が全く無いなら害にはなるまい。
それに、此所で時間を取られ、約束の時間に遅れるのはまずい。
「分かりました。あなたの想い、携えて中へ入ります。声が届くと良いですね。」
童子はにっこりと笑い、深く一礼して姿を消した。
振り返り、深呼吸。もう一度階段に足を掛ける。

階段を上り切る直前、通路に人影が見えた。時計を見る、未だ2時7分前。
階段を上りきり、通路に踏み出す。小柄な女性。手摺に左手で頬杖をつき、夜景を見ている
地味なグレーのダウンジャケット、黒のジーンズに白いスニーカー。
ゆっくりと体の向きを変え、俺を見つめた。
右の瞳は白く濁り、右腕は力なく垂れている。右手だけに、黒い手袋
そして香木の甘い香りに混じる、微かな腐臭。間違いない、あの術者。

 

「今晩は。お待たせしたみたいで、申し訳有りません。」
女性は小さく首を傾げた。微かな、落胆の表情。
「やっぱり人違い、ね。優れた術者には違いないけど。あなたでは、この結界は解けない。」
女性はゆらりと踵を返した。首筋に鳥肌。正直、怖い。
『優れた術者』と言いながら、無防備な背中を晒し、俺を全く問題にしていない。
人の身の限界に近い力を備えた術者に共通する、強烈な自負。
おそらく狗神の力を使わずとも、一族有数の術者にも匹敵する力。しかし。
「人違いじゃ有りません。あの貼り紙をしたのは僕の師匠です。
今夜僕は師匠の名代として此処に来ました。」
女性が足を止め、ゆっくりと振り返る。
「それだけの力が有れば分かる筈。この結界を張った、私の力。あなたとの力の差。
それともあなた、死ぬのが怖くないの?」
悲しみと苦しみに凍り付いた、冷たい声。感情の欠片もこもってはいない。

 

「死ぬのは怖いですよ。大事な家族もいるし、それに近々もう一人子供が生まれます。
あ、このあと結婚するとか子供が生まれるって、映画や漫画だとフラグでしたっけ。」
「こんな時に軽口なんて...」
呆れたような表情、微かに女性の感情が動いたのを感じる。
「まあ、良い。あなたが死にたくないなら好都合。
知りたい事を教えてくれたらあなたは無事に帰れる。私も無理強いはしたくない。
なら、あなたと私の利害は一致してるという事よね?」
「何を、知りたいんですか?」
「娘の居所。10年ぶりに戻ってきたのに、居場所が全く辿れない。
娘の父親、離婚した元の夫が死んだのは分かったけど、その両親の居場所も辿れない。
住民票にも細工されてて転居先は出鱈目。術者が関わってるって、すぐに分かった。」
「だから此所に結界を張った。つまりその術者を呼び出すための罠です。」
「はぐらかさないで質問に答えて。もう、あまり時間がないから。」
「その子はある夫婦の養女になって幸せに暮らしてます。
だから居場所を教える訳にはいきません。
あなたに居場所を教えたら、最悪の場合あの子は死ぬ事になる。」
女性はじっと俺の眼を見つめた。

 

「あなた、一体何のために此所に来たの?
私を倒す力はない。なのに、わざわざ此所に来て、『教えられない。』と?
「それに『最悪の場合あの子が死ぬ』って、どういう意味?」
「確かにあなたを倒す力は有りません。だからこそ僕が来たんです。
もっと力の有る術者、例えば僕の師匠が此所に来たら、あなたは警戒して戦いに備える。
つまり『力の源』への通路を開いてしまう。それでは、困るんです。」
「面白いわね。『力の源』って、それが何なのかも知ってるの?」
「この規模の結界を張る力を術者に与える存在。あなたが結界を張った方法。
あなたに直接会って確信しました。あなたの『力の源』は、狗神です。
そして、あなたは恐らく、あの子を産んだ後にそれを体内に封じた。
いや、封じるより他に方法が無かったと言うべきでしょうね。そうなってしまったのなら、
もし僕がその立場でも、涙を飲んで我が子から離れます。それを滅する方法を探すために。」
「私の見立てが甘かったって事?もしも術でその経緯を知ったのなら、
今からでも最大限の警戒をしなければならない訳だけど。」
「冗談は止めて下さい。術では無く、師匠と話し合って予想したんです。
最初の手がかりはあの子の周りに残る気配。亡くなった父親の気配は残ってるのに、
母親の気配が全く感じられませんでした。幾ら何でもそれはおかしい。
愛していても憎んでいても気配は残る筈。敢えて気配を消したとしか思えない。
そんな事が出来るのは術者だけ。それで、師匠に相談したという訳です。
勿論その時点では、あなたがそれを体内に封じたことは知りませんでした。
しかし術者が自らの気配さえも消して娘と離れる程なら、間違いなく事態は深刻。
だから師匠は全ての手がかりを消しました。
将来その子の母親、つまりあなたが戻ってきた時のために。」

 

「良い師匠についているのね。だけどまだあなたが此所に来た目的が分からない。
『最悪の場合あの子が死ぬ』という理由も。面白い話だけど、そろそろ本題に入って。」
「狗神を体内に封じた術者には、呪殺を生業とする以外の選択肢がありません。
そして当然、呪殺は禁呪。そのペナルティーはあなたの身体を蝕み、命を削る。
だからその右眼も右腕も、それであなたは『時間が無い』と、そうですね?」
「そうよ。あなたの言う通り、私の身体はもう長くは保たない。だから、あの子を探してるの。」
「身体の崩壊が進み、あなたが死ねば、それは血脈を辿ってあの子の体内に入り込んでしまう。
だから、そうなる前にあなたはあの子を使って狗神を誘い出すつもりでしょう?
自分の体を離れたそれを、あなたが探し当てた術で滅するために。」
女性は小さく溜息をつき、淋しげな笑顔を浮かべた。
「そうよ、それもあなたの言う通り。だから、あの子の居場所を教えて。」
「それを誘い出したら、あなたの力は失われる。なのにどうやってそれを滅するんですか?」
「特殊な代を使って罠を掛ける。それが私の体を出たら術が発動するようにしておけば良い。」
「あなたの力が及ばなければ、術は失敗する。つまり狗神はあの子の体に入り込む。
だから失敗した時のために、2つめの罠を掛ける必要が有りますね。
もし狗神があの子の中に入り込んだら、あの子の身体ごとそれを滅する術。」
長い沈黙、それはSさんと俺の予想が正しかったことを示している。
そして、恐らく2つめの罠こそが、この女性の切り札。

 

『呪殺者は仕事に一切の私情を挟んではならない。』
昨夜、Sさんはそう言った。
『私情を挟めば、禁呪でなく外法に堕ちてしまうから。』と。
術者が自ら体内の狗神を滅する方法は無く、
通常の術では狗神使いを殺せても狗神を滅することは出来ない。
チャンスが有るとすれば術者から狗神が離れて移動する時だけ。
つまり術者の身体の崩壊が進みその命が尽きた直後。
そして、術を使えない人間の体に移動した直後の狗神は、十分な力を発揮できない。だから。
勿論赤の他人を行き先に指定し、同じ罠を仕掛ける手もある。
しかし、自分の血縁を助けるために他人を犠牲にするのは私情。つまり外法。
『術者が呪殺者としての矜持を守って狗神を滅するなら、
人生最後の仕事の対象に、赤の他人では無く血縁を選ぶ。』
それがSさんと俺が出した答え。そして、やはりこの女性の答えも同じ。
それならきっと分かってくれる。黙ったままの女性に、精一杯の想いを込めて問いかけた。
『心ならずも呪殺者になったけれど、最後まで術者としての誇りは捨てない。
血縁を助けるために私情を挟めば、今まで殺した人々の魂に顔向けできない。
その想いは理解できます。でも、自分の娘の幸せを願う気持ちも、母親の想いでしょう?』
「...それを滅する方法が他にないのだから、仕方ない。」
「他に方法が有ると言ったら、信じてくれますか?」

 

「十年近く、故郷で手がかりを探し回って、
可能性の有りそうな術を1つ見つけるのがやっとだった。
いきなりそんな事言われても、只の夢物語。とても信じられない。」
俺は背中のリュックを下ろし、中から短剣を取り出した。
「抜かなければ骨董品の短剣。しかしこれは神器、ある神様から授かったものです。」
これなら多分狗神を焼き尽くすことが出来る。しかも、この結界はお誂え向き。
為損じても狗神は深手を負うし、しかも結界を出られない。後は師匠に任せれば万全。」
「一切の術を使わず、その剣をこの身体で受けろって事?」
「あなたはあの子と一緒に死ぬ気だった。僕はあなたの覚悟を、信じます。」
「信じる?この、私を?」
女性は喉の奥で笑った後、咽せて咳き込んだ。左手の中指で両の目尻を拭う。
力なく垂れた右腕は、やはりピクリとも動かない。
「依頼主でさえ忌み嫌う、狗神憑きの呪殺師。
そんな人間を、信じるなんて。今まで、そんなこと誰も。」
「それは違う。忘れたんですか?あの人は、『健一』さんはそう言った筈です。
『あなたを信じる。此処へ帰ってきてくれる日を、何時まででも待つ。』と。
離婚して健一さんと佳奈子ちゃんから離れ、それを滅する方法を探すと決めた時に。」
「...さすがに、そんな事まで予想するのは無理よね?どういうこと?
10年前この街に術者は一人も居なかったし、健一と接点がある歳にも見えない。」
「健一さんの妹さんから聞いた話を手がかりにして、予想しました。
健一さんが妹さんに残した式が佳奈子ちゃんに危害を加えるようになって、
僕が妹さんから相談を受けたんです。実際に式を始末したのは僕の師匠ですが。」

 

「そう、じゃあ師匠に良くお礼を言って置いて。『お陰で心残りが1つ消えた。』って。
あれは、健一が初めて作った式。私の予想より半年以上も早かったわ。
優柔不断でイライラさせられることも有ったけど、とても優秀な弟子だった。」
「妹さんとの関係、その推移を知っていながら、健一さんと結婚して佳奈子ちゃんを産んだ。
それはあなたが健一さんを、いいえ、あなたと健一さんが愛し合っていたからですよね?」
女性は俺から視線を逸らし、夜景を見下ろした。
ゆっくりと左腕を伸ばし、人差し指で指し示したのは南西の方角。
「あの辺り、小さな花屋でバイトしてた事がある。この街に来てから2年位。
私は、一族で最後の術者だと言われて育ったし、自分でもそのつもりだった。
何時か術者を辞めて、花屋を開くのが夢だったの。可笑しいでしょ?」
「全然可笑しくありません。僕も、僕の師匠も、術者を辞めた後の事を考えています。」
「故郷を離れてこの町に来て、バイトしてた花屋であの人と出会った。
発現しかかった力と、それを制御できない不安に耐えかねて崩壊寸前の心。
あまりに痛々しくて、だから思わず声を掛けて...それから、術を教えるようになった。
妹への想いにも気付いたけれど、それが間違っているとは言えなかった。」
「その時にはもう、あなたは健一さんを愛してた。だから言えなかったんです。
自分の想いを遂げる為に、妹さんを誹謗していると思われるのを恐れたから。」
「健一も自分の想いの過ちに気付いてた。だから急ぐ必要はないと思ってたの。
結婚して、子供が産まれて。自然に、ゆっくりと妹との関係も変化していけば良いって。
でも、そうはならなかった。狗神に、出会ってしまったから。」

 

「あの子を産んだ後の、最初の依頼だったわ。深い山の中の、古い小さな集落。
小さな男の子に憑依していた動物霊を祓った事で、狗神の封印が解けてしまった。
多分その男の子は狗神の封を維持する為の代になる筈だったのね。
でも何かの手違いか事故で、その事情が伝承されていなかった。それに...。」
女性は言葉を切り、淋しそうな笑顔を浮かべた。
「動物霊の力が弱かったから、私も事前に深くは調べなかった。
早く仕事を済ませて、あの子の所に帰ろうと、そればかり考えて。
もし調べていても、気付いたかどうかは分からないけど。」
思わず涙が零れた。息を詰めて嗚咽をこらえる。
代となる運命だった男の子を救い、その集落に伝わる古い祟りをその身に引き受けた。
それなのに...術者としての覚悟の1つとはいえ、あまりに過酷な運命ではないか。
「右腕の感覚は無いし、ほとんど動かないから粗い術しか使えない。
濁った右眼で見えるのは、私が殺した人間たちの、憎しみに歪んだ顔だけ。
それでも私のために泣いてくれる人がいるだけで、体中の痛みが少し和らぐ。
良い夜だわ。そして、その短剣で狗神を滅する事が出来るなら、最高の夜になる。
あなたと話していると心が和むけど、やっぱりこの痛みを早く終わらせたい。
さあ、その剣を。私はどうすれば良いの?」

 

「僕も経験があるので、一応言っておきますが。」 「何?」
「目茶苦茶痛いですよ。でも絶対に術を、使わないで下さいね。僕は死にたくないので。」
小さいけれど、明るい笑い声。女性の表情は見違える程に柔らかくなっていた。
「あなた、『言霊使い』なのね。道理で素直に話を聞く気になれた訳だわ。
そうね、じゃあなるべく早く終わらせて。痛みを感じる時間が少なくて済むように。」
「分かりました。」 涙を拭い、短剣を握った。左手で鞘、右手で柄。
そう、なるべく短時間で。胸の中央よりやや右、心臓の位置に見当をつける。
深呼吸。

『お待ち下さい。』
俺のすぐ前、やや右寄りに童子の姿。白い着物、これは結界に入る前の。
『願いを了承して頂きましたが、それでもこの中へ入るのは相当な手間で...
もう間に合わないと覚悟したところでした。』
俺の前で両手を広げた童子の眼には、一杯の涙が溜まっていた。
「あなたは先ほどの。」
『はい。あなたのお陰で、ようやく此所へ入り、そして、とうとう探し当てました。
もう200年も前に生き別れた、私の、弟を。』
女性は呆気に取られた表情で童子を見つめている。
「あの、一体どういう事ですか?」
『この御方の中に封じられているのは私の弟です。
人への憎悪と怒りに血迷い、悪鬼の如き姿に成り果てましたが、滅するのは余りに不憫。
どうかその剣を使うことだけは、お許し下さい。」
「しかしこのままでは。」
『私にお任せを。これまで、憎悪に狂った弟に私の言葉は届きませんでした。
しかし今夜は、あなたの『呪』が力を添えて下さいます。私の言葉もきっと、届く筈。』
童子はゆっくりと向きを変え、女性の正面に立った。
俺の『呪』?一体どういう事だ?

 

『●風丸、起きろ。私の声が聞こえるだろう。さあ、眼を覚ませ。』
そうか、『狗神』もあくまで通称、直接呼びかけるには真の名を。
小さく呻いて、女性が両膝を着いた。 まずい。狗神が眼を覚ましたら俺の手には負えない。
思わず短剣を抜こうとした俺の右腕を、温かい手が背後から止めた。
「駄目、待って。」 耳元で囁く声。すい、と俺の右隣に立ったのはSさん。
小声で何事か呟くと、夜景に存在感が戻ってきた。
続いて足下、乾涸らびた犬の糞が青い炎に包まれる。結界を解いたとしたら、もう狗神を。
唸り声。獣が敵を威嚇するような、太く低い声が空気を震わせた。
『そう、御前の怒りは尤もだ。しかし御前が憎んだ人間たちの血筋はとうに絶え果て、
今の御前はただ、何の関わりも無い人間たちを苦しめているだけ。
そして、人間の身体を渡り歩く内に、人間の深く温かい情に触れ、
御前の憎しみの形はぼやけている。最早誰を、何故憎んだのかも憶えているまい。
もう十分だ、全てを忘れ共に森へ帰ろう。我らが故郷、○×原の、あの懐かしい森へ。』
女性の身体が通路に頽れると同時に、大きな白い影が眼に入った。
並んで立つ、巨大な体躯。四つ足の白い獣。 犬? いやこの大きさは、きっと狼。
「本当に有り難う御座いました。私たちは取るに足らぬ、卑しい存在ではありますが、
あなたが私たちに徳を施した事を、護り神様はきっと、お喜びになりますよ。では、これで。」
次の瞬間、二つの白い影は消えた。すぐに駆け寄り、女性を抱き起こす。
近づけた頬にかかる、絶え絶えの吐息。もしかしたら。
「まだ、息があります。」
「狗神が自分から離れていったから、肉体の急激な崩壊は免れた。でも急がないと。
早く運んで頂戴。車はすぐ其処のバス停。車の中で病院と、それから『上』に電話する。」

 

 

エレベーターのドアを出て十数歩。
東病棟に繋がる廊下の入り口で、少女は足を止めた。
黙って少し俯いた横顔、俺の左手を握る右手に力が篭もる。
面会直前、少女の心は激しく動揺していた。 胸の奥が、痛い。
「佳奈子ちゃん、大丈夫?やっぱり怖い、かな?」
死期の迫った病人、しかも見ず知らずの女性を訪ねるのだから怖くて当たり前だ。
「怖いって言うより...ううん、大丈夫。Rさんがずっと一緒に居てくれるんでしょ?」
細い体をそっと抱き寄せた。「そう、ずっと一緒。心配しないで。」
焦る必要など無い。そのまま、少女の心が静まるのを待つ。
暫くして、少女は大きく深呼吸をした。顔を上げて俺を見詰める、綺麗な瞳。
「もう大丈夫?」 少女は小さく、しかししっかりと頷いた。
「じゃ、行こうか。」 「はい。」

 

これから面会するのは少女の実の母親。恐らく、これが今生の別れとなる。
此処は市内の大学病院。一族の人が運営に関わっていて、最高の体制を整えてくれた。
しかし、力の源である狗神が離れれば術者の体はその場で完全に崩壊するのが道理。
狗神が穏やかに離れていく特殊なケースだったから、それは免れた。
とは言え、女性の体の崩壊を止める方法は無い。残された僅かな猶予。
専門の術者が数名、なんとか女性の命を支えている。
それは全てこの面会を実現する準備を調えるため。
しかし。
『保って二・三日。』 それが主治医の見立て。だから今日、急遽この病院を訪れた。
もちろん少女に全ての事情を伝えた訳ではない。 半分の事実、半分の方便。
『少女との面会を望んでいるのは、少女の父親の姉。つまり伯母。
少女に取り憑いた妖怪を祓うために力を尽くして来たが、及ばずに体を壊した。
もう長くは生きられないから、最後に一目、姪に会いたいという希望を叶える。』
それが俺の書いた筋書き。少女の養母、美枝子さんも同行を望んだけれど、
身重の体を心配したSさんがそれを止めた。今はお屋敷で少女の帰りを待っている。
少女を支え面会を成功させる事。俺に与えられた、誇りある任務

 

ドアをノックして数秒、小さく応じた声を確認してドアノブに手を掛ける。
先にドアをくぐり、女性に一礼。その後で少女を病室に招き入れた。
少女の背中にそっと手を添え、ベッドの傍らに立つ。
ベッドを操作して少し体を起こした女性は、瀕死の状態とは思えないほど美しい。
Sさんが手配した専門家達が、朝から丁寧に化粧を施した。
壊死が進み既に切断した右腕は病衣と掛け布団で隠しているし、
右の義眼も言われなければ分かるまい。娘の前では綺麗でいたいという、その女性の想い。

 

見つめ合う女性と少女。病室を満たす、穏やかな空気。
「来てくれて、有り難う。どうしても一目だけ、会いたかったから。御免ね。」
少女は俯いて唇を噛んだが、やがて意を決したように顔を上げた。頬を伝う、涙?
「私、あなたが本当は誰なのか知ってます。」
!? どういう事だ? 俺の筋書きは。
「私の、もう一人のお母さん。私を産んでくれた人。
私に取り憑いた妖怪を引き離すために、私と離れて凄く頑張ってくれた。
でも、上手く行かなくて、もう体が...お母さんが教えてくれたんです。」
そうか、美枝子さんが。 真の愛情の前では、俺の小細工など無意味。
少女は床に両膝を着いて女性の左手に両手を添えた。
「私、全然知らなくて。だから、御免なさい。私のために、こんな...。」
「たった一人の血縁の為に、出来るだけの事をするのはあたりまえの事。気に病む必要は無い。
それに、私はあなたの母親なんかじゃない。あなたの母親は一人だけ。」
「でも。」
「あなたが元気で幸せなら、それで良い。さあ、もう帰って。少し、疲れたわ。」
女性は左手で少女を促した。立ち上がった少女の肩を抱く。
「また、来ます。きっと、Rさんに、また連れてきてもらいますから。」
女性は眼を閉じ、小さく首を振った。

 

二人、黙ったまま廊下を歩く。少女は時々涙を拭った。
何と声を掛ければ良いのか分からない。俺の適性こそ、『言の葉』なのに。
ただしっかりと、少女と手を繋ぐ。情けないが、それが今俺に出来る全て。
エレベーター、開いたドアをくぐる。ボタンを押し、ドアが閉じた後の軽い浮遊感。
一瞬体の重みが増した感覚の後、エレベーターのドアが開く。一階のロビー。
「あ!」 俯いたままドアをくぐった少女が誰かにぶつかってよろめいた。
「御免なさい。私。」
その人はすっと屈んで少女の肩を抱いた。
『まるで大小二つの綺羅星。二人とも、立派だったな。後は任せろ。心配は要らぬ。』
立ち上がり、その人はエレベーターの中へ。俺は吸い込まれるように振り向いた。
紺のジーンズとクリーム色のパーカー。長い髪。若い女性の後ろ姿。これは、あの港で。
反射的に深く礼をしたまま、エレベーターのドアが閉じるのを待つ。

 

「Rさん、あのお姉さんは誰?」
「佳奈子ちゃん、声が聞こえた?あの御方の?」
「うん。聞こえたよ。どうして?」 少し怪訝な表情。
「あの御方は人間じゃない。守り神、そう、僕達の守り神様なんだ。」
「守り神様?じゃあ。」 少女の縋るような瞳。思わずその体を抱き上げた。
そのまま歩き出す。今は無理、視線を合わせられない。合わせたら、きっと涙が。
抱っこして歩くには大き過ぎる少女。すれ違う人々から感じる好奇の視線。でも、構わない。
「Rさん?」
「とても強い術を使って体が壊れると、術者の魂は天国へ行けない。その話も聞いた?」
「ううん、それは...聞いてない。」
「強い術を使って壊れた体は治せない。たとえどんな方法を使っても、どんな御方でも。」
「でも、守り神様なら。」
「そう、だからあの人の魂は救われる。今度生まれたらきっと、幸せな人生を送れるよ。」

少女が両腕を俺の首から背中に回し、右肩に顔を埋めた。漏れる嗚咽。
母2人に似て聡い少女は、あの御方が今日此処に現れた意味を理解した。
中学生になったばかりの少女には、あまりにも酷過ぎる現実。
しかし、知ってしまった以上、半端な方便は毒にしかならない。
この少女を、我が子を愛しつつ、最後まで術者として生き抜いた女性。
その覚悟を、知って欲しかった。

 

病院の駐車場、入り口の階段に差し掛かった時、少女が顔を上げた。
「Rさん。」 「何?どうしかした?」
「ちゃんと私の目を見て。大事な、お話だから。」
立ち止まり、深呼吸を1つ。覚悟を決めて少女と視線を合わせる。
「あのね。私、術者になる。お母さんと一緒に修行して、きっと何時か、術者になる。」
「どうして?折角恐ろしい妖怪から逃れて、みんな佳奈子ちゃんの幸せを願ってるのに?」
「新しいおばあちゃんが教えてくれたの。私にも『力』があるって。
もし本当に『力』があるなら、術者になる。
今までたくさんの人に助けられたから、今度は私が、誰かを助けたい。
それにもしかしたら、あの人の生まれ変わりに、出会えるかもしれないでしょ?」
涙に濡れた、しかし強い強い意志を秘めた瞳。背負った悲しみの重さが
少女をここまで強くしたのだから、全ての想いにそれぞれの意味があったのだろう。
少女の実の父と母、そして養母。連なった強い想いが時を越えて今、小さな綺羅星を生んだ。
それはやがて大きく成長し、いつかきっと強い光を放つ。
そして、魂の旅路に迷う人々の心を明るく照らすだろう。
「そう。それなら大丈夫。きっと佳奈子ちゃんは強い術者になる。
何時か必ず、困ってる人たちを助ける事が出来るよ。」
「本当にそう思う?」 「うん、間違いない。ちゃんと修行すれば大丈夫。」

 

季節外れの少し暖かい風が、少女と俺を包んでいる。
小春日和。その名残の日差しは、俺と少女の心を温める熱を宿していた。
回り込み、助手席のドアを開ける。
「どうぞ、未来の術者様。」 「有り難う。」 はにかんだような、少女の笑顔。
もちろん俺自身の手柄ではない。ただ、この任務が成功したことが素直に嬉しい。
そう、この少女が元気で幸せなら、それで良い。ゆっくりと、車を出した。

 

 

『星灯』 完

 

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