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『新しい命・第参章』藍物語シリーズ【28】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

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『新しい命・第参章』藍物語シリーズ【28】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物
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藍物語シリーズ【28】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『新しい命・第参章』

 

「む~、ねーね、ねーね。おかーたんは?おねーたんは?」
Sさんと姫を待ちかねたのか、藍がぐずりかける。
「大丈夫だよ、あい。もう少しでお母さんもお姉ちゃんも帰ってくるから、ね?」
姫が入院している産婦人科、一階ロビーのベンチ。
膝に座らせた藍をしっかりと抱き締めて、翠は藍の背中を優しくさすった。
藍が片言を喋るようになってから、翠は一層藍を溺愛している。
藍を抱っこして歩こうとしたり、危なっかしい事もあるが、弟を思う様子はとても微笑ましい。
当然藍も翠を慕っている。Sさんも姫も、勿論俺も、仲睦まじい二人を嬉しく見守っていた。

 

「可愛い赤ちゃん。あなたの、お子さんですか?」
チリ。 頬や首筋の皮膚が引きつるような、違和感。
翠と藍の向こうに、お腹の大きな女性が立っていた。恐らく、臨月。
綺麗な人で身なりも整っているが、その顔は不自然にやつれている。
「はい。2人とも僕の。」 「もしかして奥様に3人目が?」
「あ、いえ。嫁さんの妹です。旦那が海外出張中なので、それで、嫁と僕が付き添いを。」
Sさんが翠と藍を産んだ産婦人科。O川先生の病院。
Sさんと俺は事実婚だと、当然O川先生も、看護師さんたちも知っている。
これで姫が俺の法律上の妻だと知られたら俺がどんな人間だと思われるか分からない。
それでSさんがその筋書きを書き、姫も面白がってそれを採用したという訳だ。
まだ慣れていないので、言い訳が少々ぎこちない。とても立て板に水という訳には。
「そうですか。妹さんはお幸せですね。」 女性は翠と藍の隣に腰掛けた。
「ホントに可愛い。ね、お姉ちゃん。赤ちゃん、抱っこしても良い?」
..まただ。発熱時の疼痛に似た、引きつるような、微かな皮膚の痛み。
「だめ~。あいは翠の大事な宝物だから。」
翠は藍をしっかり抱き締めて、女性の反対側、俺の影に回り込んだ。その時。
「あ、お母さんとお姉ちゃんだよ。あい、いっしょに迎えに行こうね。」
翠は立ち上がり、藍を抱いたまま危なげな足取りで歩き始めた。

 

「済みません、娘が失礼を。人見知りで、それに弟が出来たのが余程」
「いいえ。失礼だなんて。不躾なのは私の方です。この頃体調も悪かったし
予定日が近くて不安だったから、可愛い赤ちゃんを見かけて思わずあんな事。
でもあの子たちを見てたら、何だか元気が出ました。
私も、あんなに可愛い赤ちゃんを産みたいです。」
「そうですか。では僕もこれで、お大事に。」 一礼して立ち上がる。
歩き出して数歩、また、あの感覚。火傷をしたような、皮膚の痛み。
「あの人ね。それに、みどりと、あい。」
微かに聞こえた呟きは、幻聴だったか。振り返りたい衝動を抑え、ゆっくりと歩を進めた。

 

「ね、翠。昼間ロビーで話した女の人だけどさ。」 「女の人?」
「ほら、『藍を抱っこしたい』って。」 「ああ、あの人。あの人は、キライだから。」
やはり、翠はあの時俺が感知できない何かを。
「どうして翠は、あの人が嫌いなの?」
「違うよ。あの人が翠とあいを嫌いなの。だからあい、絶対抱っこさせない。」
それきり、ぷいとそっぽを向き、翠は藍に絵本の続きを読み始めた。
う~ん、これ以上は無理か。夕食後、お風呂を終えて就寝前の一時。
Sさんが翠と藍を産んだ時に使った家族用の個室、今回も同じ部屋に入院していた。
切迫早産の可能性が有るとの事で早めに入院したのだが、姫の体調は安定している。
「今の話、何ですか?女の人って。」 姫の笑顔。
ベッドの端で藍に絵本を読み聞かせる翠、姫は微笑みを浮かべて二人を見詰めている。
「昼間、Lさんの検診の間に話しかけてきた女の人がいたんですよ。
『可愛いから、藍を抱っこさせて欲しい』って。」

 

「何だか、へんな感じ。」 翠の声。
直後。一瞬足下が沈むような、揺れるような感覚。
空気を裂くような悲鳴の、幻聴?続いて耳鳴りと目眩、思わず目を閉じる。
振り返ると姫が翠と藍を抱き寄せていた。
Sさんが立ち上がり、俺の耳に口を寄せる。囁くような、声。
「多分、今この病院内で人が死んだ。あんなにハッキリした徴は珍しい。
妊婦さんだとしたら、さぞ無念だった筈。残した想いが後の災いを招くかも知れない。
私たちもLの出産を控えてるし、念のために警戒した方が良いわね。」
その時、窓の外が明るくなった。点滅する赤い光、救急車?
「さあ、みんなもう寝るわよ。翠は絵本片付けて。」
Sさんが部屋の要所に結界を張り、灯りを消したのは5分程経ってからだった。

 

翌日、買い出しを終えて病院に戻ると、ロビーのベンチにSさんの姿が見えた。
小さく手を上げて立ち上がる。エレベーターホールに向かう廊下を並んで歩いた。
「あなたを見送ってから、病院の中を一通り見回ってみたの。そしたら凶兆が。」
全身に、微かな鳥肌。 「どういう事ですか?」
「時々強い気配が病院内を動き回ってる感じ。何かを探してるみたいに。」
その時廊下の奥、分娩室のドアが突然開いた。
看護師さんが一人飛び出し、足を滑らせて転んだ。知った顔、確か◎内さん。
「◎内さん、どうしたの!? 未だ処置は終わってないのよ?」
続いてドアから出てきたのはO先生、怒ったような口調だ。
「見えなかったんですか?さっきO川先生の隣に女の人が、あれ、▼沢さんでした。どうして。」
◎内さんの顔は真っ青で、その声は震えている。

 

「先生、赤ちゃんの呼吸が。」
ドアから身を乗り出した看護師さんを見て、俺は息を呑んだ。
看護師さんの腕には、タオルにくるまれた赤子。
その顔が薄紫に変色している。呼吸の異常か、間違いなく酸欠の症状だ。
『◎内さんをお願い。私は赤ちゃんを。』
耳元で囁くSさんの声。俺の体は弾けるように動き、廊下に膝を付いた。
『大丈夫、大丈夫です。さあ、手を。怪我はありませんか?』
「あら、その赤ちゃん、どうしたんですか?」
その体で遮るようにO川先生の前に割り込んだSさんの左手が淡く光っている。
「Sさん、ちょっと。」 「もう、大丈夫。ほら。」

 

Sさんが看護師さんの肩に触れ、何事か小声で呟いた。
それから見違えるように、赤子の血色が良くなっていく。
振り向いたSさんがO川先生の耳元で何事か囁いた。
俺はようやく立ち上がった◎内さんの手を右手で握ったまま、左手でそっと肩に触れた。
『そう、大丈夫。さっきのは錯覚です。最近忙しくて、疲れてたから。すぐに、忘れます。』
◎内さんはボンヤリと俺を見詰め、ゆっくりと頷いた。 もう、大丈夫だ。

「△本さん、戻って後の処置をお願い。ほら、◎内さんも一緒に。」
O川先生の対応は早かった。入院している赤子を全て新生児室に移す。
もちろんSさんの指示。その後、Sさんは新生児室に厳重な結界を張った。

 

「本当に、他の赤ちゃんにも影響が出る可能性があるなら、それを防ぐのが最優先。
もしもの事を考えてSさんの指示通りにしました。
親御さん達にはノロウィルス対策だと説明していますが、それも今夜一晩が精一杯。
一体どういう事なのか、説明して下さい。
昨夜亡くなった女の人に関わってるとして、あなたは何故その人の事を?」
人払いをしたO川先生の診察室、勿論此所にもSさんは結界を張った。
「昨夜9時半頃、徴がありました。この病院の中で人が亡くなった事を示す、徴。」
「人が亡くなった、徴って...。」
「陰陽師をご存じですね?この土地に古くから言い伝えられてきた者達。」
「陰陽師という言葉や陰陽師が出てくる昔話なら、多少は。」
「私たちは陰陽師の末裔。だから分かります。同じ建物で誰かが亡くなれば直ぐに。
ただ、あれ程ハッキリした徴が現れるのは珍しい。
そして、亡くなった翌日から人の命を左右する影響力を持つのはもっと珍しいんです。
恐らくあの女性は自分の赤ちゃんを抱けないまま、強い想いを残して亡くなった。
そしてその想いは見境無く赤ちゃんを手に入れようとする執着に変化して。だから。」
「それが、あの時の。」
「あの時、分娩室の中の強い気配を感じました。
部屋の中に居た感受性の高い人、例えば◎内さんなら、その姿もハッキリ見えたでしょうね。」

 

O川先生は俯き、深い溜息をついた。
「信じられない話です。でも実際にあの赤ちゃんの呼吸が止まり、Sさんがそれを。
あの、Sさんたちが本当に陰陽師の末裔なら、何とかできませんか?
どうにか赤ちゃんを守らないと。私には、責任がありますから。」
「大丈夫、任せて下さい。今夜中に始末を付けます。O川先生も、協力して頂けますね?」
「もちろん、私に出来ることなら何でも。」
「まず、業者を呼んで一階の廊下とロビーを実際に消毒させます。
親御さん達には『見舞客の中にノロウィルス感染の疑いがある人がいた』と説明して下さい。
昨夜のことがあったばかりですし、疑われると騒ぎが起こるかも知れませんから。」
「わかりました。親御さんたちにはもう一度私からそのように説明します。」
「その後▼沢さんの荷物を調べさせて下さい。詳しい事情を知りたいので。
もちろん警察の方にも立ち会って貰います。警察にはこちらで連絡しますから。」
「それは...ええ、警察の方が一緒なら、構いません。」
Sさんがそっと俺に目配せをした。そういう事か。立ち上がって軽く一礼。
「失礼。早速連絡を。」 ドアの外で榊さんに電話をかけた。

 

榊さんが病院に着いたのは午後4時過ぎ。
チーム榊は既に幾つか成果を得たらしい。短時間で、一体どれほどの労力を。
お互い様ではあるが、毎度俺たちを最優先での対応には頭が下がる。
既に準備を調えていたので、すぐに問題の病室へ向かった。
挨拶はそこそこ、廊下を歩きながら榊さんの質問は単刀直入。
「その女性の夫は外国出張中だと聞きました。連絡は、付かないんですか?」
幾ら出張中でも、緊急時連絡先に夫の電話番号を書くのは当たり前。
妻が倒れた、亡くなったって連絡すれば何らかの反応がある筈だろう。
「彼女が倒れた直後から何度も電話をかけているんですが繋がりません。
いつかけても留守番電話サービスに接続されてしまって。伝言は、残しているんですが。」
O川先生は病室の鍵を開け、ドアノブに手をかけた。

女性の荷物は驚くほど少なかった。中型のボストンバッグ、スーツケースが1つずつ。
ベッド脇の棚にキチンとたたまれた着替えが数点。
榊さんは手早くボストンバッグとスーツケースの中身を調べた。相変わらず手際が良い。
「最も重要な手がかりは多分この手帳。しかし、これは何というか、凄いな。」
薄い手袋をした指が手帳をめくる。A4版、手帳というよりは豪華なノートだ。
ページの間から濃密な気が漏れてくるのが俺にも分かる。Sさんは俯いて目を閉じていた。
裏表紙の内側に貼られた大判の写真。笑顔を浮かべた男女2人。
写真のすぐ下に書き込み。小さな文字。数字は、日付?
「こうすけ、かな?O川先生、この名前と写真の男性に見覚えがありますか?」
「いいえ、あ、でも▼沢さんが何度か『タカユキさん』と言うのを聞いたことが。
その字を、もしタカユキと読むのなら、その男性のことかも知れません。
「不審死という事で、この件には既に調査が入りました。
調査が終わるまで、この荷物は署の担当が預かります。
もし、今後ご遺族の方から連絡が有ったら、此処に電話を。」
榊さんは名刺を取り出し、O川先生に手渡した。名刺には分署の電話番号。
「分かりました。」 O川先生はホッとしたような表情を浮かべた。

 

振り向いた榊さんは、その手帳を俺に差しだした。
「これは俺よりSちゃんやR君の領域だ。宜しく頼むよ。」
「え?でもこれは証拠品ですから。」 それにO川先生の前でそれは。
「女性の身辺を洗ったら、他の病院での治療記録が出てきた。
高血圧で降圧剤の投与。持病を隠してたんだよ。元々出産に耐えられない体なのは明らか。
証拠としてこれを俺たちが調べるより、2人に任せた方がきっと実りがある。
第一、こんな手帳分署に持って帰ったら俺は兎も角、部下に障りが出る。」
「まあ、それなら。」 「待って。」 Sさんが俺の手を止めた。
「これをそのまま持ち歩いたら、間違いなく持ち主を呼び寄せる。」
Sさんはポケットの中から白いものを取りだして広げた。薄手の布袋。
「取り敢えず携帯用の保管庫。でも、Lの病室には持ち込み禁止。調べるのはお屋敷で。
あと、お屋敷でも調べる時以外はちゃんとした保管庫に。そうでないと色々障りが出る。」
白い布袋に収めたノートを俺に手渡し、SさんはO川先生の方に向き直った。
『O川先生、警察への引き継ぎは無事に済みました。
あとはノロウィルスの消毒だけですね。御協力、感謝します。』
Sさんがニッコリ笑って差しだした右手、吸い込まれるようにO川先生が握り返す。
そうか、術だ。O川先生はこの術に耐性がない。
O川先生はSさんから聞いた説明の大部分を綺麗さっぱり忘れてしまうだろう。
赤子の不調が亡くなった女性の影響であるということも、もちろん俺たちが陰陽師であることも。
O川先生の後ろ姿を見送った後、榊さんは俺の方をポンと叩いて微笑んだ。」
「後は任せた。じゃ、今日はこれで。何か分かったら電話するよ。」

 

その日の夕食後、Sさんは『上』の使者が届けてくれた荷物を解いた。
テーブルにそっと置いたのは身長30cm程の人形。玩具という雰囲気ではない。
赤ちゃん人形と言うにはかなり精巧な作り。
人形の隣に紙の人型を置き、筆ペンで字を書いた。 『藍』 藍の身代わり? 何故?
「ここで亡くなった女性の件ですね?自分の手で抱けなかった赤ちゃんに執着を?」
寝入った藍を抱いた姫は少し心配そうだ。自身の出産を控えているのだし、無理も無い。
「そう。今日生まれた赤ちゃんが一人、危ないところだった。だから今夜中に始末を付ける。」
「藍だけなんですか?その、身代わりは。」 出来れば藍だけでなく、翠も。
未だ子供なのだから、巻き込みたくない。 しかしSさんは俺を見詰めて微笑んだ。
「全部が身代わりじゃさすがに見破られるでしょ。だから、これが翠の初仕事になる。」
初仕事...そうか。
『常に仕事が然るべき術者を選ぶ。術者が仕事を選ぶのではない。』
これまでの修行で、何度も何度も、Sさんから聞いた言葉。
Sさんは、姫のベッドで絵本を読んでいた翠に声を掛けた。
「翠、こっちへいらっしゃい。」

 

「これ、何だか分かる?」 「うん、代の人形。あかちゃんの身代わり。」
Sさんは藍の名を書き込んだ紙をこよりにして人形の髪に編み込んだ。
「じゃあ、こうしたら誰の身代わり?」 「あい...お母さん、それ、何に使うの?」
「翠と藍を嫌いな女の人、憶えてる?」 「おぼえてる。とっても、怖かったから。」
「あの人昨夜亡くなったの。自分の赤ちゃんを抱けないままで。
だから今も病院中を探し回ってる。今日別の赤ちゃんが一人、連れて行かれそうになった。」
「じゃあ、藍も?それからお姉ちゃんが赤ちゃんをうんだら、その赤ちゃんも?」
「そう、だからこのまま放ってはおけないでしょ?」 「何とか、しないと。」
「だからこの身代わりを抱いて、その女の人に会って欲しいの。
もちろんお父さんが一緒だから全然怖くない。」
予想通りだ。その女性を呼び出すなら、あの時の情景を再現するのが一番。
「あの女の人が来て『藍を抱っこしたい』って言ったら、この身代わりを渡す。
翠のお仕事はそこまで。あとはお父さんの後ろに隠れてて。出来るかな?」
翠は暫く俯いていたが、やがて顔を上げた。
「出来る。あいと、お姉ちゃんの赤ちゃんのためだから、がんばる。」
「そう、えらいね。ありがとう、がんばろうね。」
Sさんは翠を抱き上げて頬ずりをした。その眼にうっすらと光る、涙?

 

「そろそろかしら。」 Sさんの声に応じて時計を確認する。 9時10分。
あの晩『徴』があったのは9時20分頃だった。面会時間は8時までだし、
自販機は各階にあるからわざわざ一階で買い物をする人はいない。
無人の薄暗いロビー、それがこの件の始末を付ける舞台。
一階のロビーに移動する時間も必要だし。確かに『そろそろ』だ。
「丁度良い時間ですね。行ってきます。翠、おいで。」 「は~い。」
既にパジャマに着替え、人形を抱いた翠はとても可愛い。
『誰か』に出会っても、ぐずった娘の気分転換だと言えば不審に思われる事はない筈。
手を繋いで廊下を歩く。エレベーターから降りたところで翠の手に力がこもった。
俺には未だ感知出来ないが、何か、いる。それを翠は。
しっかりと翠の手を握り、ロビーへ向かう。薄暗い中に整然と並ぶベンチ。
出来るだけ、あの日と同じに。一番後ろ、右端に座った。翠を抱き上げ、膝に座らせる。
小さな体は少し強張っていた。見慣れた式達とは違う相手、怖いのが当たり前だ。
抱き締めて、そっと背中をさする。 「大丈夫、お父さんがついてる。」 「うん。」
その直後、辺りの空気が変わった。 翠の体が更に強張った

 

いつの間にか、俺の右側の廊下に女性が立っていた。間違いない、あの女性だ。
ただ、黒っぽい服を着た体はすらりと細く、あの日とは違う。既にお腹の子は、だから。
『お子さんたちは、どうか、したんですか?』
「ええ、娘が少しぐずったので、少し散歩です。3人で。」 翠の耳に、そっと口を寄せた。
「翠。ごあいさつ、できるかな?」 翠は顔を上げ、女性の方に向き直った。
「こんばんは。」 「今晩は。お姉ちゃんは今夜も赤ちゃんと一緒だね。」
女性は一歩踏み出して少し屈んだ。
「ホントに可愛い赤ちゃん。ね、お姉ちゃん。ちょっとだけ、抱っこさせてくれない。お願い。」 顔の前で手を合わせる。おどけた仕草だが、その眼は全く笑っていない。
ふっ、と、翠の体から固さが消えた。軽やかに体を捻って俺の膝を降り、床に立つ。
「良いよ。少しだけなら『藍』のこと、抱っこしても。はい。」
立ち上がり、女性を真っ直ぐ見つめ、差しだした翠の腕には。
...藍? いや、無意識とはいえ翠の『呪』が加わり、それは藍そのものの。
「有り難う。ちょっとだけね。」 深く屈み、顔にかかる髪。女性は『藍』を抱き上げた。

 

「可愛い。ホントに可愛い。この子はこんなに可愛いのに、私の、赤ちゃんは。」
髪の毛に隠れ、目の色は伺えない。しかし、微かに歪んだ口元を見れば十分だった。
「私の赤ちゃんは何処に行ったの?昨日までは確かに。」
ぎこちない姿勢で『藍』を抱いていた女性の右腕がゆらりと動いた。
「分かってる。私は、昨日死んだ。それは良い。でも。」
女性の右手はゆっくりと『藍』の頬から首に。
「やめて、そんなの駄目だよ。」 「お姉ちゃん、御免ね。でも一人は嫌。寂しいから。」
突然乾いた音が響き、『藍』の体が光に包まれた。
「あ。これ、何?」
女性の両手が燃えていた。青い炎がゆっくりと拡がっていく。胸の奥が、痛い。
『救えることもあれば、救えないこともある。』 俺と翠を送り出す前、Sさんはそう言った。
『たとえ救えても術者の手柄ではない、もちろん救えなくても術者の罪ではない。
結局旅の目的地を決めるのはその人自身、自ら破滅を選んだ人の魂は誰にも救えない。』と。

 

女性の姿が大きく揺らぐ、青い炎は既に女性の全身に拡がり勢いを増していた。
炎が勢いを増すほど女性の姿は薄れ、存在感を失っていく。
ただ俺は、熱気を全く感じない。ソファに引火する様子も無い。
Sさんの術が生み出した、浄化の炎。 魂を、食い込んだ闇ごと焼き尽くす、業火。

 

『逃げるだけでは駄目、そんなの当たり前でしょ。誰も、教えてくれなかったの?』
翠が女性を見つめている。でも違う。これは、Sさんの声だ。
『自分の夢から逃げ、愛した人から逃げ、最後は自分の人生から逃げた。』
女性は顔を上げた。
『逃げてなんか...私はちゃんと結婚して、妊娠して。』
『それで、あなたは誰と結婚したの?誰の子を妊娠したの?
あなたが死んだと連絡しても、あなたの夫が全く反応しないのは何故?』
『それは...』 女性の姿は消え、床に人形が落ちた。
人形を拾い上げる。髪の毛、人型を編み込んだ辺りが焦げていた。
Sさんが人形に仕込んだ2つの術。『浄火』と『逆針』。
発動した術は炎...結局、最後まで女性の心は光に背を向けていたのだろう。
もちろん自業自得、しかし、胸の痛みは消えない。
事情はよく分からないが、さっきの会話からすると不倫がらみの可能性もある。

 

「お父さん、どうして?」 戻ってる、翠の声だ。そっと抱き上げる。
「どうしてって、何のこと?」
「あの女の人、どうしておよめさんになれなかったの?
およめさんになれたら、赤ちゃんが出来たら、きっとあんなひどいことしなかったのに。」
? お嫁さんになれなかったって...翠はあの女性の心を、それともSさんの術か?
「ハッキリ分からないけど、好きになった人にはもうお嫁さんがいたのかもしれないね。」
「だ・か・ら、どうして?おかあさんもおねえちゃんもお父さんのおよめさんでしょ?
あの女の人だって、2人目のおよめさんになれたはずでしょ?」
そういう、ことか。成長する過程で、いつか話す時期が来ると思ってはいた。
「良く聞いてね。お嫁さんは一人。それが普通なんだよ。」
「でも、お父さんは。」
「みんなで相談して、お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、それが幸せだって決めたから。
幸せの形は自分で決めるもので、それは一人一人違っていてもいいと思う。
もちろん『お嫁さんは一人』っていう考えが間違ってるなんて思わない。それに。」
「それに、なあに?」 じっと俺を見上げる、澄んだ瞳。

 

「自分の考えを他の人に押しつけるのは良くないよね。
『お嫁さんは一人』って決めてる夫婦に、別の女の人が『2人目でも良い』って
無理矢理お嫁さんになることは出来ないでしょ?それじゃ誰も幸せになれない。」
「1人目のお嫁さんに、だまっていてもだめ?」
浮気とか、不倫? ...結構、核心を突いてくるなぁ。
「う~ん、絶対に知られなければみんな幸せかな。いや、やっぱり難しいと思う。」
「どうして?」
「『お嫁さんは一人』って考えが普通なんだから、
『2人目でも良い』って女の人は滅多にいない。それだと、どうなると思う?」
「1人目のお嫁さんに、お嫁さんをやめてって言うかもしれない。
自分がお嫁さんになって、男の人を自分のものにしたいから。」
「翠、どんな人だって、他の誰かを『自分のもの』には出来ないよ。
例えばお父さんがどんなに翠を好きでも、翠は『お父さんのもの』じゃない。
いつか大人になって、誰かを好きになって、自分の幸せを見つけるんだから。」

 

暫く黙って考えていた翠が顔を上げた。
「きっと、あの女の人は男の人を『自分のもの』だと思いたかったんだね。
だから大人なのにおままごとして...何だか、かわいそう。」
?? 『おままごと』 妊娠、したのだからおままごとでは...
突然、言いようのない不吉な感覚に捕らわれた。
もしかして、好きな男の役を別の男に?その男と結婚して、その男の子供を?
いや、幾ら何でもそれは。それなら浮気や不倫の方がよっぽど。

 

「もうお仕事は済んだでしょ?すぐに帰ってこないと心配するじゃない。」
Sさんが立っていた。微笑みと共に差し出された右手、無意識に人形を。
Sさんは受け取った人形を白い袋に入れた。手帳の時と同じ、携帯用の保管庫。
「これも病室には持ち込み禁止、取り敢えず今夜は手帳と一緒に車の中ね。お願い。」
俺の腕から翠を抱き取る。俺は交換で白い袋を受け取った。
「頑張ったね、すごく偉かったよ。」 翠は黙って頷き、Sさんの肩に顔を埋めた。
「やっぱり怖かった?」 「うん、最初は少し怖かった。でも、お父さんと一緒だったから。」
翠の髪を愛しそうに撫で、Sさんは小さく肩をすくめて見せた。
「ね、翠。その女の人、最初に見たときと何か違ってた?」 「...服が、違ってた。」
「それだけ?お腹、大きくなってなかった?」 「ううん、大きくなってなかった。あの時と同じ。」
??? 翠には、見えてなかったのか。一目で臨月と、そして実際に子供が。
「先に戻ってる。心配事の始末は付いたし、なるべくLに付いていてあげないと。」
白い袋を車に置いて部屋に戻ったのは10時少し前、既に姫と藍は寝息を立てていた。
翠をあやし寝かしつけるSさんに声を掛けるのは躊躇われたし、質問はお蔵入り。

 

翌日。朝食の後、一旦お屋敷に戻り人形を『保管庫』に入れた。
手帳はリビングのテーブルの上。病院に戻る前に、調べようと決めていた。
何だかSさんは気乗りしない様子だったが、あの、▼沢という女性が
あれ程に歪んでしまった事情を知りたかった。そして、彼女のお腹の子についても。
だからお屋敷での雑用を兼ねて、手帳と人形を保管庫に入れる役目を引き受けた。

黒革の表紙、分厚いA4版のノート。その真ん中辺りを開く。
「○月4日、定期検診。赤ちゃんの発育は順調、あの人にもエコーの写真を見せたい。
でもシドニーだし、忙しい時期だし。わがまま言っちゃ駄目よね。私が、しっかりしないと...」
「○月5日、今日はあの人から電話が来た。話した時間は短いけど、
あの人の愛情はしっかり伝わってくる。そっけなく見えて、本当はとても優しい人。
来年の今頃は、家族3人一緒に暮らせるから...」
「○月6日、少し体調が悪かった。病院に行くと赤ちゃんの事色々言われるから行きたくない。
こんな日はあの人が一緒にいて欲しいと思う。でも、考えすぎると辛くなるから気分転換...」

 

日記、か。一旦ノートを閉じ、眼を閉じて深呼吸。精神を統一する。
この日記で彼女の『夫』の出張先がオーストラリアのシドニーだと分かる。
その他の記述にも不審な内容はない。 丁寧で綺麗な字。 しかし何故だろう?
読み進める内に、ページから不吉な気配が滲み出して、何かが指に粘り着くような感覚。
お腹の子の成長と、夫の事を書き綴っただけの日記とは思えない。
強い愛情を確かに感じる。しかしそれだけじゃ無い。その奥に潜む、何か別の。
やはりあの女性は。そう思った瞬間にケイタイが鳴った。榊さんだ。

 

「彼女の夫は出張中じゃない。というか、そもそも夫じゃない。
日記に書かれてた会社にはタカユキという名の社員が3人いる、
年齢的に該当しそうなのは1人だけ。その1人は彼女の事を知ってるが、県内在住だ。」
それなら、やはり。 「不倫の偽装、ということですか?」
「可能性は有るが、どうかな。ホントの相手が誰か別にいて、それを偽装したのだとしたら、
あんな不吉な日記を手間暇かけて作る理由にはなるかも知れんが、それにしても。」
榊さんは一旦言葉を切った。小さく溜息をつく気配。
「彼女が死んだ今、真相はその男に聞かないと分からない。
会ってみるかい?任意の事情聴取は今日、それをR君に任せても良い。」
嫌な予感がする。しかし、あの女性の事をもっと知りたい、その気持ちの方が強かった
「是非、お願いします。」
「了解。午後4時に分署で。それまでには女性と子供のDNA検査の結果も出る筈だ。
その男がDNA検査に同意してくれれば不倫相手かどうかがハッキリする。」

 

榊さんの分署。時間前に着いて待っていると、駐車場にワゴンが滑り込んできた。
停車したワゴンに歩み寄り、スライドドアを開ける。降りてきた男性に一礼。
「Rです。藤○さんですか?」
「はい、藤○です。」 「今日はわざわざ申し訳ありません。」
「いいえ●沢さんの事は何時かちゃんと区切りを付けたいと思っていましたから、
警察の方にしっかり話を聞いてもらえるのはむしろありがたいですよ。」
「ありがとう御座います。では中へ」
榊さん経由でこの男性に会う約束を取り付けたのは一昨日。
不審死した女性の件で事情を聞きたいという設定。つまり、任意の事情聴取。
男性が既婚者だというのは既に分かっている。不倫絡みのトラブルだとしたら、
詳しい事情を話してくれないのではないかと思っていたが、男性の表情に翳りはない。

 

「まずは単刀直入にお聞きします。あなたと▼沢さんの関係について教えて下さい。」
「友人、でした。私は文化財や史跡に興味がありまして。
○×市の市民講座を受講していたんです。そこで彼女と出会いました。」
「○×市って、随分遠いですね。市民講座でわざわざそんな所へ?」
「いいえ、以前は其処に住んでいました。市民会館のすぐ近くに。
此の街へ引っ越してきたのは彼女の件があったからです。」
「彼女との間に何かトラブルが起きたんですか?」
「講座を受講する内に馴染みになった人が数人居ました。彼女はその一人です。
講座が終わった後、市民会館の中の喫茶店で講座の内容について話したり。
講師の先生が加わって下さることもあって、楽しかったんですよ。ただ。」
「ただ?」
「ある時、『二人だけで会いたい。』と言われたんです。喫茶店から出た後で。
私は既に結婚してましたから、その事情を話して断りました。
すると、その、ストーカーというか。始めは職場に、暫くして自宅にも。
私の留守中に妻が彼女と口論になったと聞いて警察に相談しました。
○×市の警察に問い合わせてもらえれば分かる筈です。」

 

どういう事だ?じゃあ、お腹の子の父親は...
「警察が間に入ってくれて、それから彼女は姿を見せなくなりました。
ただ、当時妻が妊娠してましたから、万一の事を考えて引っ越したんです。
ちょうど会社の人事異動の時期だったので、会社に事情を話して。
警察から市の担当者に話を通してくれて、転居先が彼女に知られることがないように
対応してくれることになったので、安心していました。」
心の乱れも感じないし、嘘を言っている表情ではない。
「この街へ引っ越してきたのは何時ですか?」 「一昨年です。一昨年の9月。」
ざわ、と首筋の毛が逆立った。
彼女の手帳に書かれていた名前、一緒に写った写真。確かにこの男性。
しかし、この男性が引っ越してきてから既に一年半。
その間彼女に会っていないなら、当然この男性はお腹の子の父親ではない
やはり日記は偽装工作? 子供の父親が他にいるなら、この男性は無関係だ。
「良く分かりました。お話の内容次第ではDNA検査への協力をお願いするつもりでしたが、
その必要はありませんね。今日は本当に有り難う御座いました。」
「いえ、こちらこそ。ずっと気にかかっていましたが、やっと安心できそうです。」
ホッとしたような笑み。 ストーカー行為が再発すれば妻と子に被害があるかもしれない、
その心配から解放されたのだから、ようやく肩の荷が下りた気分だろう。

 

その男性を車まで送り、応接室に戻ると榊さんとSさんがソファに座っていた。
A4数枚の資料に目を通すSさん、榊さんの微妙な表情。
「話を聞いた感じでは、藤○さんは子供の父親じゃありません。
あの手帳以外の手がかりを見つけないと、DNA検査の結果も意味がないですね。」
前科があり、DNAの型が既に登録されている男ならともかく、
彼女と親交のあった男性のDNAを片っ端から検査するのは不可能といって良い。
「う~ん。この結果から言えば父親は...父親はいない。」
「いないって、そんな。一体どういう事ですか?」
「それはこっちが知りたいよ。どういう訳か子供のDNAは母親と一致した。
つまり子供は母親の、ええと、そうクローン。そういう事になるらしい。」
「でも、人間のクローン作成はまだ。まさか、闇のルートが?」
外国ならペット、犬や猫のクローン作成を請け負う業者は実際にいる。もしも。
「いや。さっき知り合いの医者に電話して聞いてみたが、無理っぽいな。
母親の細胞の核を母親自身の卵子に移植し、分裂を始めたら子宮に戻す。
操作自体はそれ程複雑じゃないが、研究が進んでるマウスでも、成功率は
10回に1回程度らしいし、母親の持病考えると引き受ける医者はいないだろうってさ。
人工的なクローンじゃないなら、あとは、あれ何て言ったっけ。キリストが生まれた時の。」

 

「処女懐胎ですね。でも、生まれたのが男の子ならクローンじゃありません。
昆虫には雌だけの単為生殖がありますが、生まれる幼虫は全て雌です。」
Sさん...確かに、それは高校生物の教科書にも載っている。例えばアリマキ。
「じゃあ、やっぱりそのナントカ生殖が起きたって事かい?それでクローンが。」
「キリスト生誕の話だけでなく、母親だけで生まれた子の伝承は世界各地にあります。
大抵は嘘や思い違いでしょうが、中には真の奇蹟が、
本当に精霊や妖の子を宿したという例があったかも知れません。
実際に母親だけで子供が生まれるのだから、それも単為生殖の一種と言えるでしょうね。
一族の記録にも精霊の子を宿した娘に関する記述が残っています。
生まれたのは女の子で姿は母親に生き写しだったが、
その力は母よりはるかに強く、後に優れた術者になったと。」

 

「確かに、Sさんが言った通り単為生殖をする動物はいます。
でも、哺乳類の単為生殖は有り得ない筈ですよ。」
そう、例え遺伝子工学の粋を尽くした実験をしたところで、
父親と母親どちらか一方の遺伝子しか持たない卵の発生は途中で止まる。
以前読んだネットのニュース、あの実験で生まれたマウスの名は...そう『かぐや』だ。
「単為生殖は起こらないのに、クローンは作れる。
だとしたら、卵や精子の形成過程で働く特別な仕組みが有るってことでしょ?
もしその仕組みに異常が起きたら、単為生殖が起こる可能性は0じゃない筈。
精霊や妖の力がその仕組みを阻害して単為生殖を促すという解釈も成り立つ。」
...その仕組みこそ、ゲノムインプリンティング。全く、この人の洞察力は。
「でも、純粋な奇蹟を科学的に解釈してもあまり意味はない。
妖や精霊の力が卵細胞を活性化したと考えれば、私たちには十分。
むしろこの件で重要なのは。」
Sさんは榊さんご自慢のアイスコーヒーを一口飲んだ。
「重要なのは、あの女性の妊娠の過程に精霊や妖が関わった形跡が無いってこと。
そう、たまたま彼女に遭遇したかも知れない悪霊の形跡さえも、ね。」

「Sちゃん、ちょっと待ってくれよ。それじゃあ、どうしてあの女性は?」
「考えられる事は1つしかありません。R君、どう思う?」
俺を見つめるSさんの、少し寂しそうな笑顔。突然、あの日記を思い出した。
一目見て異様な気配を感じるほど、強い想いを込めてびっしりと書き込まれた字。
しかし藤○さんの話の内容と、何よりDNA検査の結果からすれば、
日記の内容は全て彼女自身の妄想。日記はあの一冊だけでは無いだろう。
おそらく彼女が暮らしていた部屋には結婚や妊娠の経緯を記したものも。
ニス塗りの小さな本棚に並ぶ数冊の黒い手帳。不吉な幻視。首筋の毛が逆立つ。
一体何のために? そう、その答えは1つだけ。 それが可能かどうかは別として。
「想像妊娠。の、途轍もなく極端な例でしょうか。
日々詳細な日記を書くことで、彼女は強固な妄想の世界を作り上げ、
その世界に深く深く入り込んだ。理想の夫と一緒に過ごす幸せな結婚生活の妄想は、
彼女にとって現実以上の存在感を持ってしまったんです。
だから彼女の体が反応した。それで、きっと妊娠が現実に。
いくら彼女が稀な霊質と強い『力』を持っていたとしても、
人間にそんな事が可能なのかどうか、正直僕には判りませんが。」

 

「よっぽどの荒唐無稽でなければ、人が心の底から強く願う事が実現する可能性は有る。
知覚した情報をもとに再構成した心象風景こそ、その人にとって常に世界そのものなのだし。
それは時に他人にとっての現実をも浸蝕するほどの『力』を持つ。」
それは人だけに許された特権であり、そして同時に、人だけが背負う罪だと
以前Sさんから聞いたことがある。良くも悪くも、強い想いは現実を変える、と。
「彼女があっさり身を引いたのは、無意識に自分の妄想を守ろうとしたからよ。
裁判になったり、周りの人間を巻き込んだ修羅場になれば、幸福な妄想は持続しない。
何より、その過程で愛する人が自分を全く愛していないという事実を確認する事だけは」
Sさんは突然言葉を切り、視線を逸らして窓の方向を見つめた。
その瞬間、Sさんが気乗りしない様子だった理由を理解できたと思う。
そしてあの夜、翠を抱き締めて流した涙の意味を。
もちろん問答無用で滅するに値する事例。しかしそれを成立させたのは、
許されぬと自覚しながら、どうしようもなくその想いに身を焦がした女性の熱情。
例えどんな術者であろうと、それを断罪する立場に立つのは辛い。
しかし、今俺たちがすべきことは。

 

「もう彼女の命を取り戻す事は出来ません。哀しいけれど、それが現実です。
なら、僕達がすべきことはあの女性の子供にどう対応するかと言うことですよね?」
Sさんは俺に視線を戻し、優しい笑顔を浮かべた。
「問題は2つある。1つ。その子に宿った魂があるかどうか。
通常の妊娠であればごく初期、あるいはそれ以前に宿る魂との絆が生じる。
しかしこの場合前もっての絆は生じ得ない。それに、あの晩私が張った結界と管が、
たまたま居合わせた霊がその子の体に宿ることを阻んだ筈。
そうか、魂が宿っていないから、翠は子供を感知できなかったのだ。あの、大きなお腹を。
「2つ。母親の命しか受け継いでいない子は、当然普通の子よりも生命力が弱い。
だから妊娠に関わった妖や精霊はそれを補う『贈り物』すると言われてるの。
強い生命力、類い希な強運、あるいは並外れた才能。」
「なら、母親の胎内に光や何かが入り込んで生まれた偉人ってのも
あながち出鱈目じゃないって事になるな。だけど、あの子供はどうなる?
強烈な妄想が生み出した結果だとしたら、『贈り物』どころか庇護する母親さえいないのに。」
「『贈り物』を受け取れなければ、その生命力はやがて尽きます。10日、もつかどうか。」
あの女性の心停止、蘇生の見込が無いと判断したO川先生は即座に帝王切開を行った。
赤子だけでも助けようと。しかしその果断な処置にも関わらず、
その子は市内の大学病院に搬送され、新生児ICUで生死の境を彷徨っていると聞いていた。

 

「なあ、Sちゃん。何とか子供を助ける術はないのかい?
勿論Sちゃんたちに障りがなくて、子供が成長したら問題が起きるとかでなければ、だけどさ。」
榊さんは自身の事情も有って、生まれた子に感情移入を。そしてそれは俺も同じ。
自分の子が生まれてくるタイミングで、他の子の命が尽きるのを見たくはない。
例えそれがどんな経緯で生じ、人の形をしているだけの、未完成の存在だとしても。
「そう、ですね。もしそんな術が有るとしたら、あの女性が生きた証を残せますから。」
「そんな術はない。と言うか、これ以上の術を使わなくても子供が助かる可能性は有る。」
「Sちゃん。それ、一体、どうすれば。」 「これ、です。」
Sさんが取り出したのは白い布袋。 藍の身代わりになった、人形。

 

「これは、桃花の方様にお願いして作って頂いたの。白の宝玉の力を借りて。」
白の、宝玉? その名を聞いた途端、心の芯に何か、電流のようなものが。
「その力は、魂を初期化する。穢れも悪意も全て浄化して。
積み重ねた、強い思い。想いに身を焦がし続けた、悲しい魂。その粋だけを残して。
もう1つの術がその魂の行方を示すから、これを使えば、もう道を間違うことはない。
勿論その魂がそれを望まなければ、この人形は何の力も持たないけれど。」
そうか、そうだったのか。だからあの時、2人は白の宝玉を。
「この人形の中に取り込まれた想いと魂を『贈り物』にするって事だな。
なら、この人形を子供の、あの病院に届ければ。」
「ちょっと待って、下さい。」 Sさんは俯いて眉をひそめた。
直後、ポケットのケイタイが震えた。慌てて画面を見る。姫だ。
「もしもし」 「お父さん、お姉ちゃんが、お腹痛いって、すぐ帰ってきて。お願い。」
まさか、Sさんの感覚でも、出産は未だ。
「榊さんなら、この人形を届けられますね。母親の形見として。」
「それは俺に任せて、早く病院へ。間に合わなかったら、きっと一生後悔するぞ。」
俺とSさんは駐車場へ走った。本気だと、Sさんは驚くほど走るのが速い。
「鍵、頂戴。」 「でも。」 「安全運転してる場合じゃ無い、ほら早く。」
確かに、そうだ。覚悟を決めた。

 

規則正しい、安らかな寝息。
少しハイになっていた姫も落ち着き、姫と赤子は並んだベッドで寝入っている。
それからたっぷり一時間、2人の寝顔を眺めてから、カーテンをくぐった。
「2人とも、もう寝たのね?」 「はい、ホントは朝まで。でも、ちょっとトイレに。」
トイレから出ると、Sさんが小さな机の前で背中を丸めているのが見えた。
翠は藍を抱いたまま、俺のベッドで寝入っている。
「これ、いままで見た事も無い材質だわ。赤珊瑚に似てるけど、もっとずっと硬度が高い。」
それは、赤子が右手に握り絞めて生まれてきた勾玉。鮮やかな赤、深い艶。
「今まで無いと言えば、色もそうですよね。今までは皆、寒色の系統だったのに。」
そう、水晶、白瑪瑙、翡翠。そして瑠璃。でもこの勾玉は深紅。
「そう。だけど、この気配。前にどこかでって思ってたの。もしかしたら。」

 

Sさんは黒革の鞄を探り、白木の小さな箱を取り出した。この箱は。
細く白い指が蓋をとり、それを取り出した。真珠のような光沢の、鱗。
机の上に置いた勾玉に、Sさんはその鱗を重ねた。
小さな、渇いた音が聞こえた。
七色の、光の粒子。まるで小さな蛍のように、勾玉と鱗の周りを飛び回る。
蛍光灯の光にも負けない、『光塵』よりも強く色鮮やかな。
「やっぱりね。この勾玉の基になった血と、この鱗の持ち主は同じ。」
「あの子も、『力』を持っているんですね?翠や藍と同じように。」
「そう、ね。不満?それとも不安?」
「いいえ。皆同じです。僕には過ぎた人が産んでくれた、力を持った子供たち。
その子達を大切に育てて、それぞれの資質を実現するために、僕は生きます。
Sさんも、きっとLさんも、同じ考えだと信じていますから。」
Sさんの頬を伝う涙。 「そうよ。何時だって何処だって、それが親の義務だもの。」
部屋の灯りを消して、姫のベッドを囲むカーテンを開けた。
翠と藍を長椅子に寝かせ、毛布を掛ける。

 

もう一度、姫と赤子の額ににキスをしてからベッドに入った。Sさんを抱き締める。
「予想もしない事が続いて、どうなる事かと思ったけど。これで一安心ね。」
「はい、今夜はしっかり寝て、また明日から頑張らないと。」
「愛してる。」 「僕も、です。」 「ちゃんと、言葉にして。」 『愛してます。』 「アリガト。」
姫が産んだ赤子の名は、丹(まこと)。

 

 

『新しい命・第参章』 完

 

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