『遠雷』藍物語シリーズ【29】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ – 怖い話・不思議な話

『遠雷』藍物語シリーズ【29】◆iF1EyBLnoU 全40話まとめ - 怖い話・不思議な話 シリーズ物

 

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藍物語シリーズ【29】

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

 

 

『遠雷』

 

オレが学校へ行けなくなったのは、中学に入学した年の6月。
友だち付き合いとか、特に母親との関係とか、ホントにもう何もかも嫌になって、
どうなっても良いけど死ぬのは怖いから、ただ生きてる。そんな感じ。
平日は父親・母親・オレの3人で黙って朝食を食べた後、父親と一緒に家を出る。
父親を見送っても学校には行かず、父親が帰ってくる夕方まで時間を潰す。
目立つと補導されると思ったから、学校とは反対方向の郊外の駅で降りて、
人気の無い野池とか河岸の堤防で一日中ルアーを投げてた。
釣り具は近くの公園に隠してた。もちろん、釣れたバスやナマズはみんなリリース。
4時半になったらもとの駅に戻り、父親の帰りを待って一緒に家に帰った。
そんな生活が半月ほど続いたある土曜日、父親がオレを海釣りに連れ出した。

 

オレの父は離島(南の方)出身で、かなり釣りが上手い。
(ただオレは海釣りをしたことはあまりないし、得意じゃ無い。)
その離島では結構旧い家系の出身だという話も聞いたことがある。
釣り場に着いて1時間位、黙って釣りをしていた父親が突然口を開いた。
「ナオ、どうして学校へ行かないんだ?母さん心配してるぞ。」
まあ、ずっと学校を休めば家に連絡がいくのはあたりまえ。
だが、何て話せば良いのか。ここは出来るだけ上手く誤魔化して。
「何か友達とマズくなってさ、授業も全然面白くないし。」
「優しいな。だけど此処では2人きりだ。ホントの理由は、母さんだろう?」
ただでも父親は勘が鋭い。やっぱり、誤魔化すのは無理。
黙って頷いたら、涙が溢れて止まらなくなった。10分くらい、声を殺してオレは泣いた。
泣き止むまで、父親は黙ってオレの肩を抱いていてくれた。

 

「ごめんな。母さんに悪気は無いんだ。ただ。」 「分かってる!!分かってるよ。」
母親はオレを産んだ2年後に妊娠し、切望していた女の子を産んだが、死産だった。
しかもその時の後遺症(?)で子供を産めなくなって。きっとそれで、母親の心は少し壊れた。
その話は父親が教えてくれたし、だからオレはずっと我慢していたんだ。
小学3年生まで、まるで女の子のような服と長い髪でオレは育てられた。
さすがにスカートを穿かされることは無かったが、服も靴もユニセックスのものばかり。
成長するにつれ、周りに色々言われれば自分でも変だと意識する。でも。
4年生になって、オレが髪を短くしたいと言ったり男ものの服を着たいと言う度に母親は泣いた。
母親の気持ちは分かる。でも、オレは男だ。女の子じゃ無い。体の変化だって。
でもオレが男になる程、母親は心の支えを失っていく。どうして良いか分からなかった。

 

「夏休みには少し早いが、暫く父さんの生まれた島へ行け。
学校と、祖母さんには話をしておく。少し離れた方が、多分お前と母さんの、ためだ。」
それから父親は俯いて、涙を拭った。
「辛い思いをさせて、ホントにお前には悪いと思ってる。でも、同じ男として聞いてくれ。
父さんは今も母さんを愛してるんだ。だからもう少し、もう少しだけ我慢して...」
初めて父親の涙を見て、オレは少し楽になった。
父親だって苦しんでるんだし、オレを男として見てくれてる。
「分かった。行くよ。」 「そうか、ありがとう。その間に母さんと話してみるから。」 「うん。」
月末の土曜日、オレは父親の生まれた島行きの飛行機に乗った。
確か小学3年生頃までは毎年夏休みに家族でその島に旅行してたけど、
もう何年も経ってるし、その間ずっと祖母にも会ってない。正直かなり不安だった。

 

心配は全くの無駄で、祖母は何かと良くしてくれたし、細かい事情も聞かなかった。
何より、母親と顔を合わせなくて良い。 最初、この島は天国だと思った
でも、一週間もしないうちに飽きた。ゲームセンターもコンビニも無くて退屈だったし、
ちょっと遠出して島に1つだけらしいスーパー(自称)で漫画買って帰ったら、
帰り着く前にその情報が祖母に届いてたりとか、濃い人間関係もかなり息苦しい。
それからは出来るだけ外出もしないようにしてた。
持ってきた数冊の本は読み飽きて、表紙を見るのも嫌になるくらい。
昼前に起きてご飯食べて、ダラダラとTV見て、夕方まで昼寝。ご飯食べて風呂入って寝る。
すごく気楽だが、死ぬほど退屈。それがオレの日常。
『都会育ちのオレに島は無理、早く帰りたい。」って気持ちが強くなっていった。
でも、帰ればまた、もとの生活。いや、『もとの』じゃない。
きっと、あれより悪くなる。だって母親はオレがこの島に...やっぱり、無理だ。

 

そんなある日、いつもより早く昼寝から覚めたら、勝手口の方から物音が聞こえた。
てっきり祖母だと思って「祖母ちゃん、麦茶ある?」って声を掛けたら、
「え?ええと、サチさんはさっき出かけましたよ。」って可愛い声がした。
土間に歩いて行くと小学5~6年生くらいの女の子が何かゴソゴソやってる。
「誰?」 「アキ、です。○△の。」 アキ? ○△の? 何のことだかさっぱり。
「何で此処に?祖母ちゃんは?」
「魚釣って来てって頼まれたましたから。サチさんは公民館に行くって言ってました。」
サチはオレの祖母の名前、それより魚釣って来てって、一体?
「ええと、ホントに頼まれたの?魚釣ってきてって?」
「はい。サチさんにはよく頼まれます。」
女の子は手慣れた様子でレジ袋やなんかを小さなバケツに入れた。
「じゃ、行ってきます。」 「ちょっと待って。」 「何ですか?」
「魚、釣ってきてどうするの?」 「...私は、お駄賃が貰えます。」
「お駄賃? お小遣いの事?」 「いいえ、お給料です。私、漁師ですから。」
『お給料』って、小学生の女の子が『漁師』って、意味が分からない。

 

女の子は勝手口をするりとくぐって裏庭に出た。
「だからちょっと待ってって。」 「私、忙しいんですけど。」
「あ、大丈夫。一緒に行って、釣り、見るだけだから。邪魔はしないし。」
「ホントに?」 「うん。」 「それなら、まあ、良いです。」
勝手口に立てかけられていた古い釣り竿を持ち、女の子はすたすたと歩き出した。
慌てて玄関に回り、スニーカーを履いて後を追う。歩くのはかなり速い。
港まで5分くらいで着いたと思う。
女の子は錆びた大きな金具(船の太いロープを引っかけるやつ)にちょこんと腰を下ろした。
息を切らしているオレに構わず、手早く釣りの準備を調えていく。
あっという間に、サンマの切り身っぽい小さなエサを付けて仕掛けを投げ込んだ。
10秒ほど待って仕掛けを上げ、浮子の位置を変える。
また10秒ほど待って浮きの位置を変えた。真剣な表情、まさか漁師って話は。
そのすぐ後に浮子がストンと沈み、釣り上げたのは15cmくらいの銀ピカの魚。
女の子がニッコリ笑い、張り詰めていた雰囲気が緩んだので声をかけた。
「それ、狙ってた魚?」 「そうです。メッキ。」 「メッキって、銀ピカだから?」
「はい。綺麗だし、美味しいですよ。今夜はきっと、唐揚げですね。」
魚を針から外してバケツに入れ、そのまま仕掛けを投げ込んだ。
「あの、エサは変えなくて良いの?」 「まだ身が残ってますから。」
直ぐに2匹目を釣り上げた。針に残ってるのはサンマの皮だけ。

 

また、そのまま仕掛けを投げ込む。今度は細かく竿先を動かして、3匹目。
女の子はエサを変えるごとに2~3匹のメッキを釣り上げ、小一時間で小さなバケツは一杯。
「...19、20、21、22、23、24。よし。」
バケツの中の魚を数えた後、女の子は浮子の位置を大きく変えた。
「違う魚を釣るの?」 「そう、ですけど。」
不思議そうな顔。 何か変な質問をしたのかと思い、耳が熱くなった。
竿を持ったまま海面を見つめる、日焼けした可愛い横顔。 何となく、気まずい時間。
突然、女の子がオレを振り返って微笑んだ。ドキッとする。

 

「あなた、ナオさんでしょ?」 「何で、それを?」 胸の動悸、声が擦れる。
「サチさんに言われたんです。孫のナオに食べさせたいから、スジフエも釣って頂戴って。
それに、初めて見る顔ですから、この島の人じゃないし...あ、きた。」
竿が大きく曲がり、釣れたのは黄色くて縞のある魚。30cmくらいありそうだ。
「この魚、美味しいんですよ。だからサチさんはナオさんに。」
その魚をバケツに入れると、女の子は釣り具を片付けて立ち上がった。
「あの、バケツ持つよ。オレが。」 「ありがとう、です。重いから、助かります。」
この女の子ともっと話がしたい。でも何て話しかければ良いか分からない。
ただ黙って、並んで歩く。女の子はオレの歩調に合わせて、少しゆっくり歩いてくれた。
バケツを持ってるから気を遣ってくれたんだろう。それが不思議に気持ち良い。
祖母の家の近くで、乱暴な運転のママチャリとぶつかりそうになったのも気にならなかった。

 

祖母の家に着くと、女の子は勝手口近くの井戸から水を汲み、魚を捌き始めた。
小さな手が手際よく魚を捌くのはまるで魔法のようで、オレは井戸にもたれてそれを見てた。
「ああ、頼んだ通りだ。やっぱりアキちゃんは釣りの上手だね。」 祖母が立っていた。
「いつもご苦労様。」祖母は二つ折りにした茶封筒を女の子のポケットにそっと押し込んだ。
「ありがとう、ございます。」 女の子は頭を下げた。 あれが、『お給料』なんだろうか?
「夕ご飯、ウチで食べていって。早速唐揚げ作るから。」 「でも。」
「大丈夫。時間になったら電話しておく。シゲ坊、今日も海に出てるんでしょ?」 「はい。」
特に話が弾むでもなく、3人で囲む食卓は静かだった。
祖母の前で女の子と話をするのは気恥ずかしいし、女の子はとても控え目で無口だった。
メッキの唐揚げはカラッと揚がっていて、でも中身は骨まで柔らかくて、凄く美味い。
その時、TVで海水浴で事故のニュース。いつの間にか、世の中も夏休みに入っているらしい。
食事を終えて数分後、3人で家を出た。祖母は小さな風呂敷包みを持っている。
アキちゃんの右手には古い釣り竿。これはアキちゃんの持ち物なんだろう。
10分くらい歩いただろうか、小さな家の前に着いた。かなり古い家に見える。
縋るような眼で祖母を見つめる女の子の頭を、祖母はそっと撫でた。
「此処で待っておいで。ちょっと○次兄さんに話があるから。」
祖母は一人で家の門をくぐった。小声で話す声が途切れ途切れに聞こえてくる。

 

「...だけでもお世話になりっぱなしで、この上そんな...」
「...事情が有って、...じゃないと駄目なんですよ。だから...」
暫くすると祖母が戻ってきて女の子を家の中に連れて行った。
「本当に...はい、アキには良く...ありがとうございます。」
嗄れた声を背に家から出てきた祖母は、黙って目でオレを促し、2人で家に向かった。
祖母は真っ直ぐ前を見て歩き続ける。オレも黙って歩き続けた。
頼みたいことがあったのだが、何と切り出せば良いか見当も付かなかったから。
祖母の家に着き、風呂に入った。虫の声を聞きながらオレは考え続けた。
着替えて風呂を出る。煎餅と冷たい麦茶を用意して、祖母はオレを待っていた。
頼むなら、きっと今しか無い。
「祖母ちゃん、あの。」 「ねぇナオ、お前。」
オレと祖母の言葉が重なって、祖母はオレをじっと見詰めた。
「じゃあ、ナオの話から。」 「でも。」 「ナオは、男の子だろ?さ、先に話して。」

 

「男の子だろ?」と言われたら、引くわけに行かない。オレは必死で話をした。
「さっきの女の子。アキちゃんはホントに漁師なの?小学生みたいなのに。」
「漁師って、あの子がそう言ったの?」 「うん。それでお駄賃を貰ってるって。」
「魚を釣ってお駄賃貰ってるのはホント。だから漁師と言えば漁師だね。それで?」
「あの、オレ、あの子に釣りを教えて貰おうと思って。お駄賃はオレの小遣いで。」
祖母は微笑んで麦茶を一口飲んだ。
「実はね。お前が此処に居る間、遊び相手になってくれるように頼んだんだよ。あの家で。」
「そう、だったんだ。それで、どうなったの?それでも良いって?」
「ナオ、あの子にはあの子の事情がある。これから話すこと良く聞いて。」
オレは黙って頷いた。あの女の子と一緒に居られるなら何だって。
「あの子はお前の又従姉妹。両親とも早くに亡くなったから、親戚に引き取られた。
だけど親戚の暮らしは楽じゃない。それで釣りをして、あの子なりに家計を助けてる。」
祖母はテープルに両肘をついて、オレにぐいっと顔を近づけた。
「絶対にあの子を傷つけるようなことしないって約束できる?両親や家族の話も駄目だよ?」
今思えば、オレには重すぎる話だったろう。でもオレはアキちゃんが好きになっていた。
「約束するよ。家族の話とかしなければ良いんでしょ?お金のことも。」
「そう、それなら大丈夫だね。ああ、お駄賃のことは心配要らないよ。これで、一安心。」

 

翌日から、オレはその女の子、アキちゃんから釣りを習った。
アキちゃんは決まって昼過ぎにやってきて、2人で出かける。
釣り場、潮廻り。それに色々なエサ。覚えることは沢山有った。
自分ではルアーの釣りしかやらないオレはエサ付けが特に下手で、
魚の切り身や小さなエビならともかく、ミミズみたいなエサは大の苦手だった。
でも、毎日アキちゃんと過ごす時間は何より大切だったし、とても充実していた。

 

それから5・6日、経った日だったと思う。
釣り場から歩いて帰る途中、港の出入り口近くにある東屋の前に差し掛かった時の事。
歩道に4台のママチャリが停まっていて、東屋の中から突然声を掛けられた。
「よう、アキ。今日も男と一緒か?母親の真似して妾になるなら、島の男の相手しろよ。」
アキちゃんは唇を噛んで俯いた。しかし、オレはその言葉の意味を知らなかった。妾?
「この馬鹿野郎ども!許さんぞ!!」 雷のような怒鳴り声。
振り向くと、大きな男が立っていた。
「おい、●太。お前いつからそんなに偉くなった?
両親を亡くしても、アキは○△の家の姫さんじゃ。まさかお前の親も、そんな了見か?」
ソイツらは、自転車に飛び乗って逃げた。皆オレより背が高い。高校生?
アキちゃんの頬を伝う涙。オレはどうしたら良いか分からずに立ち尽くしていた。
「坊ちゃん、あんたがナオさんか?◎野のサチさんとこの?」
オレが黙って頷くと、大男は深く頭を下げた。
「頼む。アキがこれ以上肩身の狭い思いをしなくて済むように。守ってやってくれ。
あんたが◎野の家の人間なら」 「ナオさんには関係ない!」
叫ぶような声を残して、アキちゃんは駆け去った。

 

「ねえ、祖母ちゃん。」 「何だい?」 「妾って、何?」
黙って針仕事をしていた祖母の表情が突然険しくなり、居間の空気が凍り付いた。
「ナオ、一体何処でそんな言葉を。まさかお前、アキちゃんに。」
「違うよ。釣りから帰る時、高校生みたいなヤツがそう言ったんだ。
アキちゃんは走って帰っちゃったし、泣いてた。オレ、どうすれば良いのか分からなくて。」
祖母は眼鏡を外して深呼吸をした。
「お前には未だ早いかも知れないけど、あの娘を守るためだから。
妾は、お金持ちの男に養って貰う女だよ。2番目・3番目の奥さん、だね。」
怒りが、腹の底から怒りが沸き上がって眼が眩んだ。アイツ等、そんなことをアキちゃんに。
「アキちゃんの母親は高校卒業したら島を出て、都会の男と結婚したんだ。
『島で育ったくせに』、『婿を取って○△の家を継ぐ立場なのに』、
そう言ってアキちゃんの母親を罵る人は多かった。『あれは裏切り者だ』と。
大学を出たら島に帰るって約束だったのは確かみたいだね、
○△の家も、アキちゃんの母親を不義理だからと勘当してしまった。
そういう古いしきたりが、まだこの島には、生きてるから。」
言葉を切ってオレを正面から見つめる祖母の顔は、とても悲しそうだった。

 

「アキちゃんの母親を罵る奴らが流した、根も葉もない噂さ。
『あの女は金持ちの妾になった』・『器量を鼻に掛けて』・『島に帰るのが嫌だから』ってね。
○△の家の人達は噂を否定しようとしたけれど、
アキちゃんの母親が島の外で結婚したのを咎めて勘当した手前、強くは出られない。
却って噂は広まり、その噂を信じる人の方が多くなってしまった。」
「逆効果、だったんだね。」
「そう。その後○△の家では悪いことが続いた。当主が急な病で亡くなって、
養子にして家を継がせた男は嫁も貰わず酒と博打で身を持ち崩した。たった3年の間に、
○△の家は土地と畑の殆どを売り払って、家の人たちも散り散り、島を出た人も多い。
今は、土地が少しと、代々の位牌を安置する無人の小屋が残ってるだけ。
しかも、その翌年、アキちゃんの両親が亡くなった。交通事故でね。
あっちの家も2人の結婚には反対で、アキちゃんの父親も勘当されてたらしい。
だから、折角助かったアキちゃんに行き場はなかった。それで。」
「だからこの島の親戚に引き取られたの?」
「前にアキちゃんを送っていった家、憶えてるだろ?」 「うん。」

「嘘ついて御免よ。アキちゃんの親戚じゃ無い。昔から○△の家に抱えられてた漁師の家だ。
アキちゃんを引き取る話が出た時、『先祖代々世話になったから』って、手を挙げてくれた。
○△の家が傾いて、自分たちの生活も苦しくなっただろうに。本当に、有り難かった。」
「そんなの、酷いよ。祖母ちゃんが引き取ってあげられなかったの?」
「古いしきたりだけど、勘当された娘は他人。
勘当された娘が産んだ子も親戚としては扱われない。だから。」
ふと、あの時祖母が風呂敷包みを持っていたことを思い出した。
それから、切れ切れに聞こえた「...だけでもお世話になりっぱなしで、」という言葉。
もしかしたら、祖母はアキちゃんを引き取れないから、代わりにあの家を助けて。
だからアキちゃんに魚釣りを頼んで、それでお駄賃を。きっと、そうだ。
オレは軽はずみに祖母を責めるような言葉を発した事を心から恥じた。
「ごめん。祖母ちゃんの気持ちも考えないで、オレ。」
「良いんだよ。私が古いしきたりに負けたのは確かだからね。
でも今まで何とかあの子を守ってきた。なあに、悪い事ばかりじゃ無い。
あの子の事考えてくれる人も、何人かはいるしね。」
「そういえば、その高校生達を怒鳴りつけた男の人がいたんだよ。すごく大きな人で。」
「シゲ坊、か。あの家の一人息子だよ。腕は良いけど、船や道具がね。
朝早くから夕方まで海に出てるから、あんまり家にはいないけど。」

 

翌日、昼ご飯を食べた後、オレは家を出た。行き先はあの家、祖母には話してある。
「御免下さい。」 門を入って声を掛けると、縁側に白髪の老婆が出てきた。
「僕、ナオです。◎野のサチの孫の。」
「わざわざこんなところに、ありがとうございます。アキのことでしょうか?」
「はい。アキちゃんに釣りを教えて貰う約束をしてるんですけど。」
「アキは昨夜から部屋に籠もって出てこんのです。一体何が有ったのか。」
「ええと、昨日、港からの帰りに。」 「ナオさん、止めて!お願い。」 悲鳴のような声。
老婆のすぐ後ろに、アキちゃんが立っていた。 頬を伝う涙、胸の奥が痛い。
「ごめん。でも、もう分かった。」
祖母が『シゲ坊』と呼んだ男の人が、昨日の事を話していないとしたら、それはこの老婆や
あの老人の体や心を心配したからだろう。それなのに。オレは、馬鹿だ。
「帰って、下さい。もうナオさんは1人でも、魚釣れるから。」
「オレ、友達はアキちゃんだけなんだ。本当に、アキちゃん1人だけ。
だから、どうしてもアキちゃんと一緒にいたい。駄目、かな?」
「駄目じゃ...ない、けど。」 アキちゃんは縁側に頽れて、泣き続けた。
オレは縁側に腰掛けて、その背中をそっと擦った。オレに出来る事は、それだけだったから。
家の中に戻ったのか、いつの間にか老婆の姿は見えなくなっていた。

 

どれ位経っただろう。やっと泣き止んだアキちゃんはオレの隣に座ってくれた。
「心配、かけて御免なさい。私。」 「もうその話は止めよう。それより。」
寝ないで、朝まで考えた、たった1つの言葉。
「外で釣りも良いけどさ、今日は仕掛けを教えてよ。糸の結び方とか。」
アキちゃんは黙って頷いたあと、また少しだけ泣いた。

 

翌日から、オレは毎日その家にアキちゃんを訪ねた。もちろん釣りの話もしたが、
そのうち二人で本を読んだり、アキちゃんの宿題を手伝ったりするようになった。
勉強(国語以外)が全く駄目で驚いたけど、それは学校が嫌いだからだと直ぐに分かった。
ポツポツと話してくれた学校での出来事は胸が痛くなるような事ばかりで、
オレはすぐにその話題を封印した。
「分かった!これ、分かりました。ありがとう、です。」
宿題が1つ終わる度に、アキちゃんは勉強にも自信を持つようになったから、
楽しい話題は幾らでもあった。例えば2人で読む本のこと。
オレが島に持って来てた数冊の本は一語一句暗唱できるほどで、父親に電話したら、
駅前のブック○フでまとめ買いしたっぽい文庫本が煎餅の箱一杯、翌々日に届いた。
親父の趣味で選んだものばかりだから心配したけれど、アキちゃんは夢中になった。
宿題を2ページ終わらせたら、後は2人縁側で本を読む。それがオレたちの日課。
日が経つにつれ、オレはますますアキちゃんが好きになった。
もういっそこのまま、この島で暮らすことは出来ないか。そしたらずっとアキちゃんと一緒に。
そんな事を考え始めたある日、父親から電話が掛かってきた。

 

「あれから母さんとも色々話をしたよ。それで、3人で話をしようって事になった。
家の事とか、将来の事とか。一週間、休みを貰ったし、
3年も帰ってなかったから、里帰りのついでだ。急だけど、明後日から、な。」
父親は努めて明るく話していたが、かなり深刻なのはオレにも分かった。
母親の問題が解決したなら、そう言ってオレを呼び戻せば済む話だ。
何もわざわざ急な休みを取ってまで、この島に来る必要はない。しかも、一週間。
その日数は、母親がこの島から帰った後、オレの事を祖母や親戚と相談するため?
つまり話し合いの後、両親は離婚する。そんな不安が胸をよぎった。

 

「ナオさん、どうして今日は元気がないんですか?」
朝から両親の事を考えていて、上の空だったかも知れない。
「ああ、ゴメン。昨夜、両親がこの島に来るって電話があって。それで。」
「ナオさんのご両親が。どうして?」 「『暫く里帰りしてないから』って言ってた。」
家の事情を話せば心配をかける。そう思ったから。
「それは、何時?」 「えっと、明日。最終便だって。急だけど。」
「あの、ご両親が島に来たら、もうナオさんはこの家には...」 寂しそうな、不安そうな顔。
胸の奥が苦しくなった。もしかしたら、アキちゃんも少しはオレのこと。
「アキちゃんのお陰で、オレは毎日楽しい。
オレがアキちゃんと一緒なのは父親も知ってるんだし、何も心配ない。」
「じゃあ、お迎えするために、私、大きな魚を釣ります。」
突然、東屋での出来事がフラッシュバックした。アキちゃんが釣りに出かけて、もしも。
「いや、いいよ。両親はあんまり魚好きじゃないし。」
「でも、私には魚しか。本のお礼が」
思わず、アキちゃんを抱き締めた。爽やかな、シャンプーの匂い。
「駄目だよ。あんなヤツらがいるのに、わざわざ嫌な思いしなくても。お願いだから。」
「ナオさん...」
その日、オレはシゲさんが漁から帰ってくるのを待って、それから帰った。
オレが帰った後、アキちゃんが釣りに行ったらマズいと思ったからだ。
しかし、オレの考えは浅かった。

 

翌日、その家にアキちゃんはいなかった。マツさん(縁側に出てきた老婆)に尋ねると、
帰ってきた答えは、『釣りに行くと言ってましたよ。何か、お祝い事があるとかで。』。
聞き終わる前に、走り出した。最初はあの港。一緒に釣りをした場所を順番に。
雷の音が聞こえた。急に強くなった風に混じる、雨の匂い。嫌な、予感。
漁協の建物の裏に数台のママチャリが見えた。心臓がバクバクする音が聞こえる。
アキちゃんが囲まれていた。怒りが、沸き上がる。足音を抑え、静かに歩み寄った。

「毎日アイツと一緒らしいな。やりまくってんのか。この売女が。」
「2人で何してたって、あんた達に関係ない! 私、ナオさんが大好きなんだから。」
ソイツがアキちゃんに向かって伸ばした腕を、背後から掴んだ。
ソイツは一瞬ひるんだが、直ぐに凄い力でオレの手を振り解いた。
オレよりずっと背が高い。襟を掴まれて、腹を殴られた。2発・3発。
予想はしていたが、息が詰まって膝から力が抜けそうになる。
「余所者が良い気になりやがって。思い知らせてやる。アキはオレが。」
醜い薄笑いが目の前に。馬鹿め。力を抜くふりをして上体を後ろに反らせた。
「情けないな。折角来たのに、もう、終わりか?」
全力で右足を踏ん張り、額をソイツの鼻目掛けて。 鈍い、音がした。

 

桟橋に鮮血が滴る。ソイツは声も無く地面に膝を着いた。
アキちゃんを背後に庇う。でも、相手はまだ3人もいる。みんなオレより体がでかい。
桟橋の突端で背後は海、逃げ場はない。漁に出ている時間だから周りに人気も無い。
「ナオさん。御免なさい。私が。」 「アキちゃんは悪くない。でも、これはマズいね。」
ゆっくり近づいて来る3人。その背後に血塗れの顔。怒りに我を忘れている。
こんな奴らに捕まったら、アキちゃんが何をされるか分からない。
「飛び込もう。アキちゃんと一緒なら、オレどうなっても良い。」 「はい。」
ポツポツと雨が降り出した。でも、濡れる心配は要らない。それが何となく可笑しい。
しっかり手を繋いだまま、2人で桟橋の端を蹴った。
スローモーションのような景色、稲光、激しい水音。視界が白い泡で覆われた。
何か大声で叫ぶ声が聞こえる。ざまあみろ、ここまで追ってこれるなら。
でも、オレは泳げない。確かアキちゃんも。息をする度に海水を飲んでしまう。
咽せて息が詰まり、体が沈む。 途切れ途切れに、エンジンの音が聞こえた。漁船?
アキちゃんの手を握り締めたまま、オレの意識は途切れた。

 

『ナオさん、起きて下さい。ナオさん。』
耳元でオレを呼ぶ声。誰?
眼を開けると、見知らぬ男女がオレを見詰めていた。
『お陰でアキは汚されずに済みました。でも、ナオさんにはまだ頼みたいことが。』
「あの、あなたたちは?」 『私たちはアキの。』
不意に2人の姿は薄れた。待って、さっきの話が未だ。 左脇腹に鈍痛。

 

もう一度、今度こそ眼が覚めた。
オレの顔を見つめているのは父親、そして、母親。どうして? あ、アキちゃんは。
跳ね起きようとするのを父親に抑えられた。 「離して!アキちゃんが!」
「落ち着け。アキちゃんも此所にいる。怪我はしてないし、きっと大丈夫だ。」
「良かった。ナオはもう、大丈夫ね。」 感情の感じられない、冷たい声。
母親はすっと立ち上がり、オレに背を向けてアキちゃんのベッドの傍に座った。
「たまたまシゲさんの船が、でもどうして飛び込みなんか。お前、泳げないだろ?」
「飛び込み?」 ああ、そうだ。オレはアキちゃんと。
「釣りに来てた高校生たちが『ふざけて飛び込んだみたいだ』って。」
ギリ、と、自分の奥歯が軋む音を聞いた。
「堤防の端で、アキちゃんが、アイツ等に囲まれてた。
助けようとしたけど、腹を殴られて。他に、人もいなかった、から。」
父親の顔色が、変わった。 「それ、本当か?」
オレは黙って青っぽい着物をはだけた。 左脇腹の痣。 悔しくて、涙が零れた。
「額の傷もその時に?」 「頭突き、したから。」 「そう、か。」

 

父親は暫く黙っていたが、やがて口を開いた。
「腹が、立つだろうな。でも、小さな島の事だ。ややこしい事情がある。良く聞け。」
固く握りしめられた父親の右手は小刻みに震えていた。
「『ふざけて飛び込んだ』って話したのは、漁協の組合長の孫とその同級生らしい。
揉め事になると、シゲさんはまずいことになる。アキちゃんもだ。」
そうか、シゲさんは漁師だから、漁協とは。
「いいか、これから誰かに何か聞かれたら『覚えてない』って言え。シゲさんたちには
父さんから話す。アキちゃんがこの島で穏やかに暮らしていくためだ。分かるな?」
オレは黙って頷いた。オレの事はどうでも良い、アキちゃんさえ。
「...に、...のに。」
オレと父親は振り向いた。母親がアキちゃんの髪を撫でている。
「こんなに、可愛い娘なのに、可哀相に。早く、眼を覚まして。」
父親は小さく溜息をついた。やはり母親は。

 

翌日になってもアキちゃんは眼を覚まさず、看護師さんが左腕に点滴をした。
オレは昼前には祖母の家に戻ることになっていて、
父親が着替えを持ってきてくれるのを待っていた。しかし、予定の時間より随分遅い。
母親は朝からずっとアキちゃんの傍に座っていた。時々髪を撫で、優しく声を掛ける。
正午を知らせるサイレンが鳴った後、ようやく父親が来た。祖母も一緒だ、そして。
2人の後から、灰色っぽい着物を着た中年の女の人が入ってきた。知らない、人。
「偉い先生に来て頂いたんだよ。『魂呼』の御祈祷をしてもらおうと思ってね。
恭子さん、悪いけど外してくれるかい。弘もナオも、ね。」
祖母に促されるまま、オレたちは廊下に出た。
「『魂呼』の御祈祷って、一体何なの?」 母親は少し不満げな顔だ。
「事故や怪我で体から離れてしまった魂を呼び戻す儀式だよ。まあ、迷信だろうけど。
田舎はこういうのが未だ生きてるからね。でも、もしかしたら、御利益があるかも知れないし。」
数分後、病室のドアが開くと、母親は直ぐに病室の中に入った。
入れ違いに出てきた、祖母と着物の女性。

 

「アキちゃんは、どう、なんですか?」
祖母の問いかけに、着物の女性は小さく首を振った。
「アキちゃんは、何か強い力に囚われています。私の手には負えません。」
アキちゃんはもう目を覚まさない、そう言う意味なのか。膝から力が抜けそうになる。
「そんな、他に何か方法が。」 祖母の、縋るような声。
「ご希望なら、知り合いに連絡してみます。本来『上』を通した依頼しか受けませんが、
事情が事情です。とても稀なケースですし、興味を持って来てくれるかも知れません。」
「是非、お願いします。費用は全て私が。」
祖母の、腹の底から絞り出すような声。思わず、涙が出た。
「来てくれるなら、費用は要りませんよ。泊まる場所さえ、サチさんの家、大丈夫ですか?」
「はい。家は広いですから、何とでも。」
「これから直ぐに連絡を取ってみます。結果は分かり次第、電話しますから。」
「お願いします。」
夕方、4人で夕食を食べていると電話が鳴った。
電話を切って戻ってきた祖母の顔は少しだけ明るくなっていた。
「来てくれるそうだよ。先生の、『本家』の方が2人、明日の朝、空港でお迎えしてって。」
不思議な安心感がオレの心を満たした。 根拠は無い。でもきっと、大丈夫だ。

 

翌朝、オレと父親はタクシーで空港に向かった。
一便が到着するのは9時40分、『定刻』の表示が出ている。
9時50分過ぎには到着ロビーに客の姿が見え始め、すぐにその人達が現れた。
凄く綺麗な女の人と、その後ろに荷物を持った男の人、こちらは少し地味な顔。
2人の周りだけ、何だか空気が違う。この人達だ。間違いない。
父親も同じ事を感じたのだろう。戸惑うこと無く、2人に歩み寄った。
「あの、Sさんでしょうか?私、◎野です。電話で言われた通り息子のナオも。」
女の人はニッコリと笑った。本当に、今まで見た事も無いほど、綺麗な人。
「はい。私がSです。こちらは夫のR。宜しくお願いします。」
「こちらこそ、宜しくお願い致します。」 父親に続いて、オレも深く頭を下げた。
「大体の事は聞いています。あまり時間が取れないので、
これから早速病院に案内して頂けませんか?」
それなら直ぐにでもアキちゃんの眼が覚めるかも知れない、オレは嬉しかった。
待たせて置いたタクシーに乗り、病院へ向かった。

 

父親がドアをノックして、病室のドアを開けた。
青白い顔のアキちゃん、枕元の椅子に座るオレの、母親。
挨拶もそこそこにSさんはアキちゃんの手を握った。眼を閉じる。
暫くして、眼を開けた。アキちゃんの手をそっとベッドに戻す。
「分かりました。準備と、それから調べたい事もあるので、少し時間を下さい。」
「それなら、私の実家の方へ。申し訳ありませんが、今の時期ホテルは難しいので。」
「いいえ、有り難いお話です。ご実家は問題の起きた港に近いんですよね?この病院にも?」 「はい。どちらも歩いて10分以内です。」
「ならますます好都合。」 Sさんは一歩前に出て、オレの顔を覗き込んだ。
「ナオ君、後で港とか、案内してくれるかな?」
ふっ、と、一瞬目眩がした。思わず足に力を。
「あの、オレで良ければ。頑張りますから。」 「うん、良い返事。」
Sさんは微笑んでオレの肩に右手を添えた。 「お願いね。」 「はい。」
少しだけ、胸がドキドキした。

 

家に着くと、祖母が用意していた昼食をみんなで食べた。
SさんとRさんは細い体に似合わずよく食べるので、オレと父は驚き、祖母は上機嫌。
その後、少し休んでから港に出かける事になっていた。
SさんとRさんはオレが使っていた部屋に泊まって貰うことになっていて、2人は荷物を運んだ。
オレは昨夜からその隣、両親と同じ部屋で寝ている。
風呂に入って少し潮臭い髪と体を洗った。廊下を通る時、襖の向こうから話し声が聞こえた。
女性の声、Sさん?
「..そう、今夜。上手く行けば明日帰れる。翠をお願いね。大丈夫、少しややこしいけど...」
悪いことをしているような気分になって、思わず急ぎ足で居間に向かった
母親と一緒の部屋に戻るのは気まずい、出来ればその時間は最小限にしたかった。
居間では、普段着に着替えたRさんがお茶を飲んでいた。祖母は台所?。
「ああ、ナオ君。早速、案内を頼むよ。」 「あの、Sさんは。」
「あんまり時間が無いから、手分けしなきゃならないんだ。
港を見に行くのは僕でも出来るけど、他の調べ事や準備はSさんじゃないと。ゴメンね。」
Rさんが、心から謝ったのが分かった。この人は、良い人だ。
ただ、港へ向かう道の途中、Rさんはしきりに島で釣れる魚の事を尋ねた。
本当にやる気があるのか、良く分からなくなるくらい。大丈夫なんだろうか。

 

漁協の裏、あの桟橋が見えたとき、突然Rさんの雰囲気が変わった。
ホントにさっきまでと同じ人かと思うほど、その表情が引き締まっている。
綺麗な瞳で見詰められると、心臓が苦しくなった。
「成る程、あの桟橋だね?」 「はい、そうです。」 一体、どうしてこの人はそれを?
「アキちゃんは妖、ええと、妖怪に囚われてる。強い力というのはその妖怪の事だよ。」
妖怪?今の時代、本当にそんなものが、この港に?
「ナオ君、どうしてアキちゃんはこの港に?」 「魚を釣ろうとして、僕の両親のために。」
「それならアキちゃんは、釣りの名人でしょ?」 「そう、ですけど。どうして?」
「海に、愛される人が稀にいるんだ。極々稀に、ね。
アキちゃんが妖怪に囚われていることを、海が嘆いてる。
本当に、滅多に無い事なんだけれど。」

 

「どうして、アキちゃんはその妖に?」 「大丈夫?聞くのにはそれなりの覚悟が要るよ。」
オレが黙って頷くと、その人はゆっくりと口を開いた。
「アキちゃん自身の心に、この世界を去りたいという気持ちがあったんだと思う。
だからアキちゃんの願いが思いがけない力を持って、妖との契約が成立してしまった。」
「アキちゃんの、願いって。」
『私はどうなっても良い。私の命と引き替えに、ナオさんを助けて下さい。』
胸の、奥深くを貫かれたような気がした。言葉が出てこない。
「でも、アキちゃんが今も未だあの状態なのは、君がいたからだよ。分かる?
君がアキちゃんの手を離してしまっていたら、多分アキちゃんは体ごと取り込まれてた。」
身体ごと?アキちゃんが完全に消えてたかも知れないってこと?それならオレも少しは役に。

 

「さて、凄く強い妖。どうしたものか。まあ、Sさんなら、大丈夫だと思うけど。」
SさんとRさんは夫婦だと聞いた。なのに何故?
「あの?」 「何?」 「SさんとRさんは夫婦、なんですよね?」 「そうだけど。」
「どうしてRさんは『Sさん』って?」 「さん付けは、可笑しい?」
「いえ、でも僕の両親は。」
「僕はSさんが大好きだし、心から尊敬してる。夫婦って、それが当たり前じゃない?」
父親は『母さんを愛してる』とは言ったが、2人が互いを尊敬してるなんて、一度も。
「さあ、帰ろう。ところで、ナオ君。」 「はい。」
「君には、ホントの勇気がある。その勇気に報いるために、
僕達は何が何でもアキちゃんを助けるよ。アキちゃんが妖に囚われたまま、
2人の大切な未来が奪われるのを見過ごす訳にはいかない。
縁に導かれて出会った魂を結ぶ絆は、何よりも大切なものだからね。
きっと色々面倒な事が起きるだろうけれど。』
Rさんは言葉を切り、俯いた。聞き取りにくい、呟くような声。
「きっと、『◇』の加護は此方にある。」
それは『ひ、かり』? それとも『き、たり』? しかし、聞き直す雰囲気ではなかった。
出かける時とはまるで違い、その後Rさんは祖母の家に着くまで、一言も喋らなかった。

 

「只今、戻りました。」 玄関でRさんが声を駆けると、廊下を走る足音が聞こえた。
SさんがRさんに飛びつき、RさんもSさんの背中を優しく抱き締めた。
「お帰りなさい。心配だった。ホントに。」
眼を閉じたSさんの頬に、涙? 胸がドキンと高鳴る。 この感じ、何処かで。
「大丈夫です。それに、ナオ君はとても立派でしたよ。」
SさんはRさんの腕の中で、オレの顔を見詰めた。
「お手伝い、有り難う。今夜が本番なんだけど、今度は私の案内、お願い出来る?」
「はい。」 「うん、良い返事。」 そうか、そうだったのか。
魚を釣り上げた時のアキちゃんの笑顔に、Sさんの笑顔は良く似てる。その時、そう思った。

 

その日の夕食前、オレはSさんたちの部屋に呼ばれた。
「ナオ君、聞きたい事があるんだけど。」 「何ですか?」
Rさんは奥の長椅子で昼寝をしているようだった。
「色々調べて、事件の内容はほとんど分かった。ナオ君は少しも悪く無い。
でも、ナオ君がこの島に来なければ、きっとこの事件は起きなかった。
それについて、どう思う?正直な気持ちを、聞かせて。」
「分かりません。この島に来なかったらオレ、アキちゃんに会えなかったから。
でも、オレがこの島に来たのが原因なら、オレがアキちゃんを助けたいし、
そのためなら何でもします。でも一体どうしたら良いのか、全然分からなくて。」
「もし、君の大切なものと引き替えにアキちゃんが助かるとしたら、どうする?」
アキちゃんが助かるなら何だって...ふと、思い出した。花柄のTシャツ、ピンクの運動靴。
友達に冷やかされて、学校に行けなかった日のこと。元々オレには、大切なものなんて。
「オレは、要らない人間、です。だから、オレの命でも何でも。」
Sさんはオレの唇にそっと人差し指をあてた。
「そこまで。君の気持ちは分かった。だけど憶えて置いて。
自分を『要らない人間』なんて言っちゃ駄目。そういう言葉に『闇』が食い込んでくる。
それにもし君がいなくなったら、誰がアキちゃんを守るの?」

 

少し早めの夕食の後、母親が一足先にアキちゃんの病院へ出かけてから、
Sさんは皆を居間に集めた。重苦しい雰囲気。Sさんが話し始めるまで誰も喋らなかった。
「まずは状況を簡単に、その後今夜の予定を説明します。R君、お願い。」
「はい。今日ナオ君と一緒に港に行って、状況を確認しました。
アキちゃんは古くて力の強い妖怪に囚われています。
港で二人が溺れた時、『私の命と引き替えにナオ君を助けて下さい。』と願ったから、
その願いに妖怪が反応したんです。アキちゃんが特別な、妖怪や精霊に親和性の高い
魂を持っていたことも、この場合に限っては災いだったと言う事ですね。
アキちゃん自身が願ったことなので、基本的に変更は効きません。」
「ちょっと待って下さい。それじゃ、あの娘は。」 祖母は青ざめていた。
「『基本的に』です。1つだけ、方法がありますが、私たちだけではどうにもなりません。」
Sさんの声は力強かったが、何となく悲しげでもあった。
「私たちに出来る事があれば何でも。息子を助けるためにこうなったのなら、私たちは。」
「有り難う御座います。ナオ君には先に確認を取ってあるのですが。」
Sさんの視線、続いて父親と祖母も。オレは思いきり頷いた。

 

「簡単に言うと、『身代わり』にアキちゃんの名前をつけ、アキちゃんと入れ替えます。
妖は名前を無くした人間を認識できないので、
『身代わり』と引き替えにアキちゃんを妖から解放して、この世界に呼び戻す。
だからアキちゃんには、新しい名前が必要です。ただし、普通に名付けるのでは駄目。
直前まで誰かが使っていた『生きた名前』が必要なんです。
でないと、たとえ妖から解放しても、アキちゃんをこの世界に繋ぎ止められない。
妖に囚われていたアキちゃんは、この世界との繋がりがとても弱くなっていますから。」
「『生きた名前』って、一体どうすれば?」 父親の、怪訝そうな表情。
「ナオ君の名前を、アキちゃんに贈って下さい。勿論ナオ君にも新しい名前が必要ですね。
幸い、ナオ君はこの世界との結びつきが弱くなっている訳ではないので、
全く新しい名前を付けても大丈夫です。」
「ええと、『儀式の間そういうことに』ということですか?」 祖母が訊ねた。
「いいえ、出来るだけ早く正式な改名手続きを取って下さい。
改名手続きが成立しなければ、やがて術の効果は消えてしまいます。」
名前なんかどうなっても、オレはそう思ったが、父親と祖母は顔を見合わせた後、考え込んだ。
「それから、これはもっと重要です。7日の内に、アキちゃんをこの島から連れ出して下さい。
『本物』が近くに居れば、遅かれ早かれ妖は術を見破ります。
あの妖を欺いた報いは、アキちゃん1人の命だけでは済まないかも知れません。」

 

「御免なさい。その、お話があまりに常識とかけ離れていて、どう考えれば良いのか。」
父親の、躊躇いがちの言葉。 Sさんはニッコリ笑った。
「いきなりこんな事言われても信じられない、それは当然です。しかし信じてもらえなければ、
私たちに出来る事は殆どありません。信じてもらうために、こういうのはどうでしょう。」
Sさんはテープルの上の箱から取り出したティッシュを無造作に丸め、テーブルに置いた。
コップに残っていた氷水を、丸めた紙片に少したらして...まさか。
白い芽が出て、どんどん伸びていく。やがて数枚の白い葉が付き、白い花が1つ咲いた。
祖母も父親も、もちろんオレも、黙ってその光景を見ていた。
『パン!』 Sさんが手を叩いた瞬間、花と葉は散り、細かく千切れた紙切れだけが。
「陰陽師の術、信じて頂けましたか?」 父親と祖母は頷いた。もちろんオレも。
「それは何より。R君、お願い。」

 

Rさんは父親の目を真っ直ぐに見つめた。
「ごく単純に言い換えます。あなたが、アキちゃんを自宅に引き取って下さい。
2人の名前の件については、追加の説明は要らないと思いますが。」
「どうして、私たちが。」
「それが一番良いと思うからです。私たちが受けた依頼はアキちゃんを助けること。
助けたアキちゃんが幸せに暮らすにはナオ君が幸せでなければならない。
ナオ君が幸せでいるためには。」 Rさんは言葉を切り、深く息を吸った。
『ナオ君が幸せでいるためには、『ナオという名の女の子』が、あなたの家にいた方が良い。』
父親の体が固まった。呆然とRさんを見つめたまま、何秒経っただろう。
「恭子の、妻の事を、言っているのですか?」 父親の、消え入りそうな、言葉。
「そうか、これもあなたたちの力。あなたたちは術で、妻とナオの心を。」
「はい。すぐにでも手を打たないと、奥様の心は完全に壊れてしまいます。」
「あなたたちの言う通りにすれば、アキちゃんは助かり、妻の心も?」
「アキちゃんをこの島から連れ出して妖怪との繋がりを切り、
アキちゃんの、女の子の世話を任せる事で奥様の心の崩壊を止める。
どちらも裏技、対症療法ですが、まず症状の進行を止めないと回復は望めません。」

 

「分かりました。これから具体的にどうすれば良いのか、指示して下さい。」
父親は吹っ切れたような表情になり、祖母はそっと涙を拭った。
これで、やっとアキちゃんは。そう思うと嬉しくて、オレも涙が。
「ナオ君、本番はこれからだよ。油断しないでSさんの指示を良く聞いてね。」 「あ、はい。」
「これから二手に分かれます。お父さんとお祖母さんはR君と一緒に直接病院へ。
私とナオ君は港へ寄ってから病院へ。私とナオ君が病院へ着いたら術を完成させます。
それまでにナオ君の新しい名前を用意しておいて下さい。
仕事が済むまで、奥様には眠って貰いますが、体には影響有りません。何か質問は?」
誰も、手を挙げない。
「質問が無ければ早速出かけましょう。出来れば面会時間内に完成させたいので。」
オレたちは二手に分かれて家を出た。

一体、港に何の用があるんだろう。まさか、Sさんは妖怪と直接交渉するつもりなのか。
黙ったまま歩き続ける。港の入り口近く、東屋が見えた。
Sさんは先に立って東屋のベンチに座った。 「そこへ座って。」
ホントはあまり、この場所には。でもSさんたちを信じると決めたから。Sさんの隣に。
「君に術を掛ける前に、確かめたいことがあるの。
さっき君は、あの娘を助けるためなら何でもすると言ったわね。」 「はい。」
「大切な名前を無くしてまでも、あの娘を助けたいのは何故?」
「...好き、だからです。初めて、本気で好きになった女の子だから。」
「もし、全てが上手く行ってあの娘が戻ってきたら、一生かけてあの娘を守る?」
「はい。そのためになら、オレが生きていく理由もあると思いますから。」
「良く分かった。じゃ、これに君の名前を書いて。」 渡された紙切れ、小さな、人の形。筆ペン。
何だか、体が、思うように動かない。ノロノロと名前を書いた。ナオ、ああ、これがオレの。
「有り難う。丁度良いタイミング。『待ち人来たる』ね。」

 

近付いてきた、数台のママチャリ。
「私の使い魔に命じて、4人を此所に集めたの。直接、話を聞きたかったから。」
ママチャリをゆっくり降りた人影。コイツは、あの時の。
「あれが、漁協の偉い人の孫よね?この件の首謀者、●太。残りは取り巻き3人。
今日調べたら祖父には色々噂があったけど、本人はどうかしらね。」
薄暗くて見にくいが、間違いない。ソイツの鼻を覆う不格好な白いガーゼが何よりの証拠。
ソイツはベンチに近づき、Sさんの正面に座った。オレには全く反応しない。何故?
「今晩は、●太君。」 軽く手を叩くと、ソイツはSさんを見詰めた。
「君に、聞きたいことがあるの。」 「何、だ?」 やはり反応が遅い、多分、Sさんの術。
「アキちゃんのことよ。アキちゃんが海に飛び込んだ時のこと。」
ソイツの目がフラフラと泳いだ。怯えた表情。 「俺は関係ない。何も。」
「嘘は駄目。私見たの。君たちに追い詰められて、2人は海に飛び込んだ。」
「あれは、あれは2人が勝手に。そんなつもりじゃ無かった。」
「私が黙っていれば、騒ぎにはならない。安心して。」
父の話からすると、例えSさんが話をしたとしても、どうせ警察は。
ソイツの、疑わしそうな表情。 「じゃあ、一体どうしようって。」
「警察のお世話にならないとしても、君に責任があるのは間違いない。
もし、君の大切なものと引き替えにアキちゃんが助かるとしたら、どうする?」

 

「金なら、金で済むなら、祖父ちゃんが何とかしてくれる。」
「お金...君も、アキちゃんが好きだったんじゃないの?」
「どうせ、いつかアキは誰かに囲われる。それなら俺が、祖父ちゃんもそう言って。
○△の家に残った土地と、屋号を」
突然、冷たい風が吹いた。真夏なのに、腹の底から冷えて、体全体が凍えそうだ。
Sさんは微笑んでいた。でも、全く笑っていないその両目は、青く光っているように見える。
怖い。思わず立ち上がり、後退った。東屋を包む、この気配は一体?
「良く、分かったわ。それなら全て、君の望み通りに。」
Sさんはもう一度手を叩いた。
動きを止めたソイツの、胸ポケットに押し込んだ白い紙切れ。小さな、人の形?
Sさんは立ち上がり、オレの横をすり抜けて歩き出した。
「さあ、病院へ。ほら、急いで。」
促されるまま、ボンヤリした頭で、Sさんの後を追った。

 

病室の中に入ると、Sさんは何か小声で呟き、母親に歩み寄った。左手で額に触れる。
椅子の上で、母親の体からぐにゃりと力が抜けた。そういえば祖母の家で、Sさんは。
「では、始めます。」 父親と祖母は真剣な表情で頷いた。
Sさんは白い紙切れを取り出し、それをベッドの...
あ? この、オレの好きな女の子の、名前は。 そうか、オレたちの名前はもう。
白い紙切れを女の子の胸の上に置いて布団をかけ、耳元に口を近づけた。
やがて、Sさんは父親の方に向き直った。
「息子さんの、新しい名前は用意できましたか?」 オレの、新しい名前?
「はい。『ユウ』です。悠久の悠という字で。」 「良い名ですね。短い時間で、何故その名を?」
「息子が生まれる前、考えていた名前の1つです。母にも了解をもらいました。」
Rさんが父親に白い紙切れと筆ペンを差しだした。
「どうぞ、その名前をこの紙に。」 「はい...これで良いですか?」
白い紙切れを受け取ると、Sさんは振り向いてオレを見た。目の前に、白い紙切れ。
『これが、汝の名。『ユウ(悠)』、汝の分身。憂いを祓い、難を避く。』
目の前が真っ白になった。その中に浮かぶ、2つの顔。男の人と、女の人。
どちらも晴れやかな笑顔。 誰だろう?いつかこの2人には会ったことがある。
『これで思い残すことはありません。娘を宜しく頼みます。』 女性の、優しい声。

 

「ユウ、大丈夫か?しっかりしろ。」 目の前に、父親の顔。
「大丈夫、ちょっと目眩がしただけだから。」
「ユウ君、君の声で、あの娘の名前を呼んであげて。これは君の役目。」
Sさんに手を引かれ、オレはベッドに歩み寄った。膝を着き、そっと手を握る。温かい。
そう、そうだ。この子の名は。
「ナオちゃん、起きて。オレだよ、ユウ。お願いだから、起きて。ナオ、ちゃん」
空気が、変わった。軽い。何だか、厚い雨雲が晴れたような。
ナオちゃんは微かに身じろぎをして、ゆっくりと眼を開けた。
「ユウ、さん。」 ナオちゃんの眼から涙が零れた。オレも...良かった。これで、やっと。
「本来なら、お医者さんに連絡すべきだけど。」 「対応する時間は無くなるでしょうね。」
SさんとRさんは顔を見合わせて頷き合った。それは一体?
「どういう、ことですか?」 父親の問いにSさんが答えるより早く、不吉な音が聞こえた。
切れ切れの悲鳴、いや、救急車のサイレン。近づいてくる。辺りの雰囲気が慌ただしくなった。
「急患です。多分4人。ちょっと乱暴ですけど、タイミングを見て
ナオちゃんを連れて帰りましょう。お医者さんも看護師さんも、
今夜退院手続きをしている余裕はないでしょうから。」
Sさんは少し寂しそうに微笑んだ。

 

カーテンの向こうで、赤い光が明滅している。辺りがすごく騒がしい。
「そろそろですね。出発です。表玄関へ。R君、ナオちゃんをお願い。」 「了解。」
まだ少しボンヤリしている母親の手を引き、父親が部屋を出た。次に祖母、そしてオレ。
ナオちゃんを抱いたRさん、最後にSさん。閉めたドアに触れ、眼を閉じる。
「これで、良し。」
玄関を出ると、沢山の人々が駐車場に集まっていた。みんな緊急搬入口の方を見ている。
救急車、見えるだけで2台。オレたちを気に留める人はいない。黙ったまま、門を出る。
早足で近づいてきた数人の男と擦れ違った。

「●太たちだって、ホントか?」
「ああ、無灯火の自転車で、前から散々無茶しよったが。とうとう。」
「しかも轢いたのは●蔵だとよ。まさか自分の孫をな、いつもの店で酒飲んだ後らしい。」

父親がギョッとした顔で振り向いた。オレも思わずSさんを振り返る。
Sさんは人差し指を唇に当て、それから黙って前を指さした。

 

翌朝、いつもより早い朝食後、父はSさんとRさんを空港に送るためにタクシーを呼んだ。
本当は、もっと、ちゃんと御礼をしたかった。でも、2人が『時間が無い』と言ったから。
母は夜明けからずっと、つきっきりでナオちゃんの世話をしている。
昨日までとは別人のように明るくなり、オレへの接し方にも温もりが感じられた。
「Sさん。あの、聞きたいことが、昨夜の事故のことで。」
オレが声を掛けると、居間でお茶を飲んでいたSさんは微笑んだ。 「何?」
「昨夜アイツらが事故に遭ったのは、ナオちゃんの『身代わり』になったから、ですか。」
「いいえ。『身代わり』はただの、紙の人型。」 「でも、Sさんはアイツのポケットに。」
そう、確かに憶えてる。もしアイツを犠牲にしてナオちゃんが助かったとしたら。
「君がR君を港へ案内してる間に、私は病院に行ってあの娘の名前を預かってきたの。
だから妖はあの娘を見失った。昨夜、慌てた妖が港の周辺を探し回ってる所に、
君と、『身代わり』を持った私があの東屋へ。 当然、妖はすぐに『身代わり』を見つけた。」
何だか、凄く恐ろしい話を聞いている気がして、体中に鳥肌が立つ。

 

「そう、ね。あれが答えじゃなければ、事故は起きなかったかも知れない。
でもあれが、アイツが自分で出した答え。血眼になってあの娘を探していた妖の前で、
『あの娘はいつか誰かに囲われる』、『それなら俺があの娘を』と。
それでアイツの望みを叶えた。いいえ、そうするしかなかった。 あれ程に、怒り狂った妖。
『身代わり』を手放さなかったら、私と、そして君も無事には済まなかったもの。
だから君もナオちゃんも、気に病む事なんて何1つ無い。
アイツ自身が、そういう結末を選んだったって事。
結局、自分が犯した罪の報いからは誰も、逃れられない。
まあ、昨夜のお膳立てをしたのは私だから、あの事故の責任の一部は私にある。
それを後ろめたいなんて、これっぽっちも思わないけれど。」
少し悲しそうな、笑顔。
オレの脇をすり抜けたRさんが、Sさんの肩をそっと抱いた。何時、オレの後ろに?
「私は大丈夫よ。」 「はい。いつも通り、信じていました。」
何が大丈夫で、何を信じていたのか、オレには分からない。
きっとこの人たちは、オレと同じ世界に住みながら、オレとは違うものを見て、感じてる。
その人たちが『気に病むことはない』って。 オレはそれを信じて、ナオを守る。

 

「Sさん、Rさん、タクシーが来ました。」
2人を呼びに来た父の、穏やかな顔。 母親が元気になったからだろう。
夕方シゲさんに会い、事情を説明して今後の事を相談すると聞いていた。
「有り難う、御座います。」 SさんとRさんは荷物を持って立ち上がった。玄関へ。
Sさんは、折りたたんだ紙を父に手渡した。
「出来るだけ早く此処に電話を。面倒な手続きを助けてくれます。約束、どうかお忘れ無く。」
「はい、必ず。何から何まで本当にお世話に。ありがとうございました」
オレと父と祖母は、揃って頭を下げた。
「では、これで。」 手を振ってタクシーに乗り込んだ2人の笑顔は、とても温かかった。

 

「ナオ、早くユウを起こして!急がないと遅刻しちゃうわよ!!」
...微かに聞こえる。母の、声だ。今も未だ、少しだけ調子外れの。
階段を上る軽い足音、ドアが開いた。軽い音がしてベッドが揺れる。くすりと、小さな笑い声
「ユウさん、起きて。ほら、早く。」 ノロノロと上体を起こし眼をこする。眠。
細い腕が、オレを抱き締めた。シャンプーの香り。右頬に感じる、温もり。
「今日も、大好き。下で、待ってるから。」 走り去る足音。
いつもと同じ、朝の決まり事。よし、大丈夫、今日も頑張れる。ナオのために。
ナオとオレと父は3人一緒に家を出る。ナオの小学校までは歩いて5・6分。
ナオが大きく手を振って小学校の門をくぐるのを見届けてから、父と2人で駅に向かう。
「ユウ、どうだ?新しい中学校は?」 「また、その話?いい加減にしてよ。」
父は微笑んでオレの背中をポンと叩いた。以前よりもずっと、父との会話は増えた。

 

「しかし、あの2人、一体何者だったんだろうな。たった二ヶ月前なのに、何だか夢みたいだ。」
教えてもらった電話番号も、オレとナオの色々な手続きが済むと同時に繋がらなくなり、
今は連絡を取る方法が全く無いと聞いていた。確かに、あの島で起きたことは夢のようで。
例えば、あの丸めたティッシュから咲いた白い花。一体あれは、現実だったのだろうか。
微かに、雷鳴が聞こえた。 青い空には雲1つ見えないけど、何処か遠くで雷が。 そうだ。
稲光が見えなくても、微かな雷鳴が遠い遠い雷の存在を教えてくれるように、
オレの家族とオレ自身に起きた変化が、あの2人の実在を教えてくれる。
今もきっとこの国のどこかに、あの2人は、いる。
「夢じゃない。今はナオがいるし、母さんも毎日楽しそうにしてる。
ナオがいるから、みんなで幸せに暮らせる。全部あの2人のお陰でしょ?
きっと、神様の、御使いだったんじゃないかな。ナオと、母さんを助けるために来てくれた。」
「神様の御使いか...そうだな。でも、それだと俺が母さんを不幸にしたり、
お前がナオを不幸にしたら、罰が当たるぞ。それも、とんでもない天罰が。」
「オレは大丈夫だけど、父さんは地獄に落ちるかもね。」 「馬鹿言え!」
拳骨。その痛みも何だか嬉しい。オレはその人の笑顔を思い出していた。
ナオに少し似た、とても綺麗な人。

 

 

『遠雷』 完

 

藍物語シリーズ【全40話一覧】

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