『辿り着かない』|洒落怖名作まとめ【長編】

『辿り着かない』|洒落怖名作まとめ【長編】 長編

原作:枯野◆BxZntdZHxQ

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辿り着かない

 

第一話 帰宅

漫画家の仕事場と言ったら、どんな場所を想像するだろうか。
有名作家のドキュメンタリー、或いはドラマで見るような、
机と資料棚がずらりと並んだ立派な部屋だろうか?
実はそこそこ売れている人でも、普通に自宅でやっている事がままある。

俺がレギュラーで手伝っている先生の一人は未婚の女性で、東京郊外の実家住まいだ。
忙しい時は一ヶ月間以上アシスタント達が詰めている事もあるが、
仕事の量にムラがあり、人手がいらない時は何ヶ月も彼女一人でやっている事もある。
そんな訳で、仕事場を借りて毎月家賃を払うよりも、自宅でやる方が効率がいい。
月刊や隔月刊の掲載誌が多い女性向けの漫画の作家の場合、珍しい話ではない様だ。

先生(仮に長野さんと呼ぶ)の私室は、階段を上がり廊下を進んだ一番奥の部屋だ。
仕事中はそこが作業場で、階段を挟んで廊下の反対側の外れの和室を寝部屋にしている。

ある年の7月の今時分、俺は半月程長野さんの家にいた。
アシスタントは入れ替わりでヘルプが来ていたが、
常駐していたのは俺と戸塚さんと言うベテランの女性だった。
部屋に入ってすぐ右手にテーブルがあり、ドアの隣が戸塚さん、
その隣の窓際が俺、ヘルプの人がいる時は戸塚さんの向かいが定位置。
長野さんは部屋の奥、俺が背にしてる窓がある壁に向かって机があり、そこにいる。
仕事は〆切から大幅に押しており、事前に手配したヘルプは手が尽きていた。
レギュラー2人だけが、ずるずると延びる日程の中必死で作業をしていた。
月半ば。
俺は自分の同人誌の〆切を気にしてカレンダーを見た。
大行列の出来るエロ漫画とかを描いている訳ではないから威張れないが、
そこそこ俺を目当てに来てくれる人もいるので、全く何もないのは避けたい。
だが、普通の印刷所の〆切はそろそろだ。こりゃあ間に合わない。
正午を過ぎて、カーテンの隙間からは太陽が刺す様に照りつけている。

 

南西の外れにある長野さんの部屋は、夏の午後の暑さが本当に厳しい。
ドアも窓もカーテンさえきっちり閉めても、エアコンの効きが悪い。
色々な意味でげんなりしていると、階下で玄関の扉が開く音がした。

階段の正面が吹き抜けなので、玄関の閉開音は2階にもよく聞こえる。
平日の昼間だ、外出していた長野さんの母親が帰宅したのだろう。
足音がして、それは階段を昇り始めた。
めずらしいな、と思った。
仕事中は勿論、長野さんの家族は彼女の部屋には滅多に来ないらしい。
用事があっても電話で済ませる位だ。
だがまあ、物品の受け渡しを伴う様な用事であれば、来た方が早い。
俺はさして気にも留めず、原稿の方へ視線を戻した。

足音はゆっくりと、しかし比較的軽やかに階段を上がりきり、
右へ折れて真直ぐとこちらへ向かって来る。
そして、扉の前で止まる。明らかに家庭内の誰かの気配がした。
立て付けのよくない扉は軽く軋んで、それからすうっと半分くらい開く。
視界の隅でそれを確かめた俺は、何の気なしに訪問者の姿を見た。

いや、見られなかった。

誰もいない。呆気に取られる俺に気付いた戸塚さんが、俺の名前を呼んだ。
「…今、誰か来ましたよね?」
俺が訊ねると、戸塚さんは不思議そうな顔をした。
長野さんも首を振る。
玄関の開く音、閉じる音、靴を揃えて、階段を昇り、廊下を進む足音。
2人はそんな音は聞かなかったと言う。

 

しかし現実にドアは開いている。
なんの違和感もない、そこにいるのが自然な人間の、濃密な気配。あれは?
俺があたふたしながら彼女達に説明していると、当の母親が長野さんを呼んだ。

数分後、長野さんが昼食を手に上がって来た。
娘が外出していたかと問うと、母親は朝からずっと家にいて、
朝洗濯物を干して以来庭にも出ていないと言ったらしい。
勿論、誰も家に入って来た者はいない。
不審がる母に、長野さんはたった今俺が見聞きした事を説明した。
すると、得心が行ったようにこう応えたと言う。
「ああ…それ、おじいちゃんだわ。」

カレンダーを見直す。7月13日。お盆の入りの日だった。
俺の住む辺りでは8月に盆の行事をするので、まるで失念していた。
長野さんの母方の実家がある地方では、7月が盆。
例年は帰郷し、墓地でお迎えをするのが常なのだが、
この時は予想外に仕事が押して、彼女と母親は東京に残っていたのだ。
ただ、彼女や家族の誰かしらがお盆に間に合わないのはけして珍しい事でなく、
そのような年にも彼女の祖父は家を訪れていたのか、そんな疑問が残った。
長野さんは、
「うーん、毎年来てたのに、誰も気が付いてなかったのかな?
今年はたまたま仕事が長引いて、ナオヤ君が居たから判った、なんて事……?」
と笑った。

家族の誰も気付かなくて、赤の他人の俺が気付いても…。
さぞやお祖父さんも驚いた事だろう。
今でも夏場に仕事をしていると、この話は語り草だ。
あれ以来、長野さんはお盆前には仕事を切り上げるようにしているけれど。

 

 

第二話 門の中の

十年と少し前か、俺は家から駅4つばかり離れた高校に通っていた。
当時は祖父の家もその近くにあったが、祖父が亡くなってからは、
駅まで行くことはあっても、学校の側までは行っていなかった。
先日、その祖父の法事の際に、俺とは別の学校だが、やはり付近の
高校に通っている従妹に会い、彼女からこんな話を聞いた。

新しく出来たある販売店の裏口に、出るらしい。
いわく、バイトをしている先輩が見た、誰某の兄弟が見た、etc.

懐かしいなぁと思った。俺が行っていた学校でも、そんな噂があった。
あったどころか、俺はそういう場所に行ったことさえあった。
法事の後の食事会が捌け、彼女の兄で俺の従弟が運転する車の中、
俺は彼女にその時の話をすることになった。

俺は美術部に入っていて、周りは女ばかりだった。
だからと言って、色っぽい話などこれっぽっちもない。
俺や数少ない男子部員は、女連中にいいように使われていた。
その女子の中に、リナさんと言う2つ上の先輩がいた。
美人と言う程では無いが、ちょっと雰囲気のある人で、
押しの強い先輩たちの中では、一歩引いている感じがした。

文化祭があって、翌日は後片付けで学校は半日だった。
用が済んで帰ろうとする頃、1コ上の部長に声をかけられた。
「夕方、ヒマ?」
はぁ、とはっきりしない返事をしたら、人数に入れられてしまった。
打ち上げを兼ねて、噂の心霊スポットに行こうと言う。
そんな打ち上げがあるか、と思ったが、俺に拒否権はない。

 

居酒屋で打ち上げをして、巡回中の教師に捕まる連中が多発していた。
だからある意味、美術部は健全だったのかも知れない。
全員ではなかったが、家が学校に近い7、8人が集まった。
行き先は、県道沿いの工場だと言う。

この辺は車の車体や部品の工場が多い所で、そこも工場だらけだった。
学校からバスで十分弱の工場の、3つある出入り口の内の西側の1つ。
夜では無く、日暮れ時に男の霊が出るらしい。
作業着姿の中年男性で、門の内側を少し入った所に立って、
建物の方をじいっと見ているのだと言う。
もしその時間に建物から出て来ると、男と目が合う事になり、
目が合うと原因不明の高熱が出るとか、追い掛けられると噂らしい。
実際、工場の門と、見えているシャッターは下ろされている。
昼間はトラックが出入りしているが、夕方になると早々に閉まるそうだ。
もっとも、この頃の日没時間は工場が終業する時間とどっこいな訳で、
俺には真偽の程は判らなかった。

8人ばかりがぞろぞろ心霊スポットに向かう、えらく間抜けな光景。
俺は半信半疑だが、そんなモンに追われたら嫌だな、なんて考えながら
リナさんの方を見た。
そう、リナさんもいたのだ。
リナさんも部長に押し切られたクチだろう。
3年は文化祭後で引退だから、最後のイベントだと思っていたのかも
知れないが。

 

正直に言うと、俺はリナさんにちょっと憧れていた。
当時俺がハマっていたアニメの話なんかをしても、知らないなりに
「これはこういうことなのよ」なんて知恵を付けてくれたりした。
無知な俺は彼女がオカルトが好きなんだと思っていたが、
今考えるとちょっと違ったのかも知れない。
こんな地味なリナさんの彼氏が、ヤンキーで知られたS先輩でなければ、
俺ももう少し積極的に彼女と関われたかも知れない。
だが、リナさんにとっての俺は、後輩の一人でしかなかっただろう。

陽が傾き始めて、辺りの空気が黄色っぽくなっていた。
みんなは思い思いに門の中を覗いていたが、男の姿なんかなかった。
誰とも無く「もう帰ろう」と言い始め、ホッとした俺もその尻馬に
乗った。
工場沿いの丁字路を県道側へ戻り始めてふと見ると、リナさんだけが
引き返さず、まだ工場の方を見ていた。
「先輩、何か見えるんスか?」
彼女の所まで言ってこっそり聞くと、リナさんは首を振った。
「あれは本当のヒトだよね?」
ちらりと目配せした彼女の視線の先を追うと、
工場の敷地内の駐車スペースの外れの木の下に、事務服姿の女がいた。
痩せて顔色の悪い女は、一心に何かを見つめている。
薄暗くなってきたとは言え、俺にもリナさんと全く同じ物が見えている。
幽霊では無いだろう。
ただ、女が見ている物を考えた時、俺は少し寒くなった。
女は、男の霊が立つと言う辺りを見ている。
「帰りましょう。」
俺はリナさんを促した。彼女は「うん」と応えたが、
歩きながら何度か振り返っていた様だった。

 

S先輩がバイクの事故で亡くなったと聞いたのは、年が明けてからだった。
3年はほとんど学校に来なくなっていた時期で、その頃には俺も、
リナさんとは疎遠になっていた。
夕方、横道から出てきた先輩のバイクがトラックに突っ込んで、
ほとんど即死だったらしい。
現場がどこか聞いて、俺は嫌な気持ちになった。
それは俺達が工場の裏へ向かった丁字路が、県道に抜けている部分だった。
俺はリナさんが先輩に何か話したのかも知れないと思ったが、
確認は出来無かった。
卒業式で最後に姿を見るまで、ふたつきばかりの間に、何回か廊下で
すれ違ったが、俺は小さく頭を下げるのが精一杯だった。
リナさんは関西の大学に進んだ筈だが、今どうしているのかも知らない。
冷たいようだが、確かめることが少し怖かった。

車は駅に向かい、県道に出た。
話を聞き終わりしゅんとしていた従妹は、不意に元気な声を上げた。
「ほら、あれ!あそこの搬入口に出るんだって!」
従妹の指し示す方角には、真新しい、大きな商業ビルが立っていた。
俺は軽い目眩がした。
そこは以前、部品工場があった場所だ。

ずっと黙っていた、俺とさして年の違わない兄の方が言った。
「俺の学校じゃ、女の霊が何かを睨んでるって話だったよ。」
俺と従妹は、ミラー越しに兄の顔を見た。

 

第三話 公園で

霊感って血筋と関係あるんだろうか。
俺の母方の叔母や従姉はカンが強いが、父方の方ではそんな話は聞かない。
俺は気配だけ感じる事があり、ごく稀に怪しいものが見える事もある。
この話も、見ていない話だ。

先月親が旅行に行って、俺が土産を叔父さん家に届けた。
叔父さんはオヤジの弟。
俺のバイト先がある駅の沿線に住んでるし、ここの息子は俺と2コ違いで、
俺とは幼なじみみたいなもん。

目的地は坂を上がり切って少し下った所。丘の上の閑静な住宅街。
頂上は公園だけど、俺が到達した21時過ぎには誰もいなかった。
公園の前を歩いていたら、猫の声がした。
「ウア~ン…」って赤ん坊の声みたいな…12月だから、もう寒鳴きって言うのかな。
声につられて公園の中を見たけど、姿は見えない。
ところがそのまま通り過ぎて、公園沿いに道が折れて下りになる辺りで、
もう一度「ウア~ン」。
振り返ると、俺の斜め上にある茂みの中に白っぽい物が見えた。
何かそこから声がした気がして、俺は引き返して公園に入った。
覗き込むと案の定それは箱だった。側面に店名とurlが印刷されてる、白い段ボール。
引っぱってみたら軽くて、ツツジの木で隠れて見えてなかったけど蓋は開いてた。
猫が閉じ込められてるとやだなって思った訳だけど、
中はからっぽで、底が泥で汚れてた。
たまたまここでひと休みしてた猫が鳴いただけかもしれない。

 

やれやれ…と思って立ち上がろうとしたら。
そのまま身動きがとれなくなった。
金縛り…って実はあんまり遭った事ないんだけど、正にその状態。
うわっ、と思ったら、背後に人の気配がした。
屈んで片膝をついている俺の左の肩に、今にも顎が乗りそうな感じで、
誰かが覗き込んでいる。
塾帰りの子供とかがいてもおかしくない時間ではあるけど、足音したっけ?
何より身動きできないし、動悸がして喉がキューッと締め付けられて、声も出ない。
俺はどうにか目の端で様子を窺おうとした。
ぐうっと気配が肩の上に迫り出して来る。
ちょっとだけ首が動けば、気配の主が見られる!
その瞬間。
地面に付いていない右膝、肩、背中の順で、何かが通った。
ぽん、ぽん、ぽーん!と、最後に背中を軽く蹴って。
俺は前にのめって、両手両膝をついた。ちゃんと体が動く。
「だあああっ!」って妙な声をあげて振り返ったけど、
後ろにいた誰かも、俺の肩を通過した何かも、なーんにもいなかった。
ちょっと呆気に取られた後、俺はさっさとそこから逃げた。

叔父さん家に着いたら従弟が玄関を開けて、俺を見て苦笑した。
「遅いと思ったら、どっかで猫と遊んでたのか。」
上着を脱いでみたら、背中に泥の汚れがついていた。

 

 

第四話 理由

叔父さん家で従弟に、公園であった事を話したら鼻で笑われた。
こいつはそういうのを全く信用していないので、仕方ないっちゃ仕方ない。
でも、何か思い出したらしくて、「子供と言えば、」とちょっと考える顔をした。
「ナオさん(俺)の好きそうな話あるよ。」

数年前にいわゆるデキ婚をした女性がいる。
あまり治安のよろしくない街に住む彼女は、その時授かった息子と並んで眠る時、
防犯用と称して枕元にバットを置いているそうだ。
旦那の帰りはいつも遅い。

息子が言葉を話す様になったばかりの頃、彼女はふとある事を思い出した。
この位の時期に聞いてみると、生まれる前の記憶を話し始める子供がいると言う。
ものは試し、息子に訊ねてみると、彼はぽつりぽつりと語った。

「いつもお父さんとお母さんが喧嘩していて、嫌だった。」

彼女には思い当たる節があった。
当時、仕事が軌道に乗りかけていた彼女は結婚したくなかった。
まして子供なんて生まれたら、当分仕事に戻れない。
その事で随分言い争いをした。
乗り気な恋人や家族の手前、勝手に堕胎は出来ない。
事故なら、流産なら…。
無茶な飲酒や喫煙、体をわざと冷やしたり、やたらと全力疾走したりしてみた。
しかし、お腹の子はきちんと育ち、生まれた。
結局仕事も辞めた。
生まれてからは情も生まれ、今は大事に育てている。
でも、この子は生まれる前に、母親に疎まれていた事を知っているのかもしれない…。

 

ある晩ふと目を醒ますと、隣で寝ている筈の息子がいない。
部屋を見回すと、彼女の枕元にぼんやりと立っている。
「どうしたの?」と訊ねて良く見ると、息子の手にはしっかりとバットが握られている。

従弟がバイト先の先輩の女性からその話を聞いた時は、
寝惚けた息子が防犯用のバットを持っていて、
「殺られると思った。」のでなだめすかしてそれを取り上げた…と言う、
笑い話なのか何なのか良く解らない話だったそうだ。
後日別の同僚女性から、彼女の結婚の経緯や、子供が話した事を教えられたと言う。

「本人に聞いた時は、殺られるなんて大袈裟だと思ったんだけどね。」

…それだけの理由がある。

 

 

第五話 鞄

母方の祖父母の金婚式の年、親族揃って熱海のホテルでお祝いをやった。
宴会場での夕食の後、俺は二人の従弟、智宏と郁と一緒に部屋に戻った。
智宏は酔っ払って寝ており、下戸の俺とまだ中学生だった郁はTVを見ながら、
腹がこなれたらもう一度温泉に浸かっておこうなんて話してた。
そこへ、用事があって郁のオフクロさんがやって来た。
叔母さんはあれこれ郁に言い、話が終わると、ふっと足元の俺達の鞄を見た。
「直ちゃん、これあんたの鞄?」
言われて俺が「そうです」と答えると、
叔母は開いていたスポーツバッグのファスナーを、さっと閉めた。
叔母は長く勤めた看護師で、きっちりした人だ。
俺のだらしなさが気になったのだろう。

寝ている智宏を残し別棟にある大浴場に行くと、
郁はその道すがら、以前にも自分の友人が母に鞄を閉められたと言った。
「几帳面だと思うでしょう?」
俺が頷くと、郁はアメニティの入っていたホテルのビニール巾着をぶらぶらさせた。
「あれ、違うんです。母はね、怖いんですよ。」

郁の話はこうだった。
叔母が若い頃、秋口に八人ばかりのグループで長野に行ったそうだ。
旅館では四人ずつ、二つの部屋に分けて通された。
叔母が荷物を開けていると、そこへ隣の部屋の四人がやって来た。
「あっちの部屋、何か暗い感じ。」
叔母らが見に行くと、仲間の荷物が入口の側の壁際にちんまりとまとまっている。
確かにそこは妙な空気で、部屋の奥まで入りたくない雰囲気だと全員が思った。

 

「…空気が淀んでるんじゃないの?」
叔母と同室でグループのリーダー的な子がそう言って、ずかずかと部屋に入る。
窓を開けると、重たい気配が少しだけ和らいだ気がした。
「なんなら部屋逆にしようか。いいよね?」
リーダーに問われて皆同意したが、叔母は嫌で厭で仕方なかった。
彼女も何故か部屋の壁際を歩いて、窓との間を往復したのだ。
見えていないのに。気が付いていないのに。

叔母には見えた。
部屋の中央に、大きな異形の男が座っていた。
鬼、だと思った。
そうとしか表現のしようがない。

叔母達とその部屋の子達は部屋を交換して、荷物をそれぞれの部屋に移した。
異常のなかった部屋の方で夜明かしして、隣室で休んだ者はない。
何事もなく会はお開きになり、叔母も家へ帰った。

住んでいたアパートに帰り付いたのは夜も更けた頃で、
叔母は寝室の入口の、開いたままの襖の際に鞄を放ったらかしてベッドに入った。
一泊旅行で大した洗濯物もないし、明日起きてから荷解きすればいい。
若い頃の叔母は、俺と大差なかった様だ。
しかしいざ寝ようとしたら、気になる事を思い出した。
ウォークマンどうしたっけ…?
当時はまだ結構いい値段だったらしいそれを、旅行に持って行ったのだ。
MDやCDですらなく、中身はカセットテープ。
集合場所までの電車では聴いた憶えがあったが、帰路では鞄から出していない。
まさか忘れて来たのではないかと不安になって、叔母は鞄の方へ向かった。

 

オレンジ色の豆球の明かりの中、叔母は旅行鞄のファスナーを開ける。
大した荷物も入っていない、クタクタのバッグ。
開いた鞄の口を覗いたら目が合った。
鞄の中の目と。
人とは思えない顔、鬼としか思えない異形の男の首が。
首が鞄に入っている!!
叔母は咄嗟に鞄を払い除けた。横倒しになった鞄から、ごろりと首が転げ出る。
「××××××××!」
首は判別不能な叫び声を上げて、襖の向こう、暗い台所へと転がって行った。
ごつんとどこかに当たる音。
叔母は恐る恐る暗がりを覗いた。
しかし、そこにもう鬼はいなかった。
家中の明かりを点けて確かめたが、台所には勿論、鞄の中にも首はない。
電灯の光の下の鞄には、衣類と洗面道具、ウォークマンが入っているだけだった。

脱衣所に着いてからも続いた話が終わって、
郁は巾着袋からタオルやら何やらを引っぱり出しながら笑っていた。
「…だから母は鞄をきちんと閉めないと怖いんです。
旅館のその部屋で、母は鞄を開けっ放しで置いていたんですよねぇ。」
そう言いながら、郁は袋に通された紐を左右にぎゅうと引いた。

俺はその話を聞いて以来、鞄の口は必ず閉める事にしている。

 

 

第六話 衝突する音

俺が郁と鞄の話をしている間、部屋で寝ていた智宏には姉がいる。
姉弟は少々どんくさい。良く言えばおっとりしている。
二人とも道を歩けば段差でこけ、看板にぶつかる。
だから3、4年前に、智宏と二人で平日の秋葉原に行った時も、
ヤツはあっちに引っ掛かりこっちに引っ掛かりしていた。
今はどうか知らないが、当時は歩道に看板やらポップやらが満載だった。
この街に不案内な俺は智宏の後に付いて歩いていたのだが、
ふと、ゲームのデモに気を取られて横を向いた。
その瞬間。
「どすん!」とえらく盛大な衝突音がした。
次いで智宏の声で「ごめんなさい!」と聞こえたので、俺は前を見た。
智宏は誰もいない空間に、ペコペコと頭を下げていた。
半端な時間帯だったから人は多くない。看板はヤツが向いている側にはない。
「トモ?何してんだ?」
「この人に…」
智宏は顔を上げて、初めてそこに人がいない事に気付いた様だった。
正面から来た背の高い男にぶつかったと言う。
顔を上げるまで、汚れた赤いスニーカーとくたびれたジーンズが見えていたそうだ。
周囲にそれらしい服装の人物はいない。見間違う物もない。
でも。
俺は確かに、その音を聞いた。

 

 

第七話 辿り着かない

従姉は俺が高校生の頃既に社会人だったから、今はもう30をとうに過ぎている筈だ。
特に若作りな印象も受けないのだが、おっとりしているせいか妙に子供っぽい。
彼女は、休日には自宅から坂を上がる片道30分程のコースを散歩して、
桜並木の続く山の上の住宅街のパン屋で朝食を仕入れて来るのが習慣だそうだ。

従姉の家でお彼岸の人寄せがあって、俺がそのまま泊まった年があった。
彼女の弟とはオタ友でもあるので、泊まり自体は珍しくはないのだが。
因みにどちらも「いとこ」で紛らわしいので名前を出すと、
姉の方が亜矢、弟の方が智宏だ。

前日の飲み会の席で、この姉弟の父親が俺のオヤジに言った。
「××の方に、変な家があるんだよねぇ。」
話によるとそこは畑の中の一軒家で、大分前から空家らしい。
事件があったとは聞かないが、住む者もなければ取り壊されもせずそこに在る。
そして、後からその家を囲む様に建て売り住宅が出来た。
売りに出されたその家を見に行ってみたところ、
四軒とも、中心のその家に面している側にだけ一切窓がないのだと言う。
俺が興味津々で聞き耳を立てていると、伯父さんは苦笑いを浮かべた。
「ナオは行くなよ。お前そう言う話好きだからなぁ。」
俺はぶんぶんとかぶりを振った。ありえない。
凸とかする様なタイプではないのだ、俺は。寧ろ避けて通るくらいだ。

朝目が覚めると、前夜飲んだくれていた智宏はまだ夢の中だった。
先に洗面所で顔を洗っている時に、亜矢ねえが現れた。
例の散歩に行くところらしい。
智宏はまだ起きないだろうし、俺は彼女について行く事にした。
その道すがら、こんな事があった。

 

通りを逸れて脇道に入ると、そこは田畑の間に点々と真新しい家が建つ住宅地だった。
今来た道と交差する県道に向かって、斜めにショートカットするらしい。
俺は昨日の伯父の話を思い出して、亜矢ねえに場所を聞いてみた。
すると、目的地近くまで県道に出ないで住宅地の中を上がって行っても、
坂の上に出る筈だから行ってみようかと言う。
目の前まで行くのは嫌だが、遠くからどんな感じか確認したかった。
俺は怖いのと好奇心を秤に掛けて、朝で明るい事に背を押され、彼女に従った。

畑と住宅の間をぐるぐる回り、畑が途切れる辺りで向こうに団地が見えた。
あれぇ…?と亜矢ねえが呟く。
「何?」
「アレ、●が●団地。あそこまで行くと住所が●が●なんだよね…。」
従姉の視線につられ顧みるが、後方には五軒固まって建つ家は見えない。
しかし道はもう県道へ出る通りか、団地へ向かう急坂しかない。
「ごめん、方向音痴…。」
俺は「帰り道でいいよ。」と答えたが、彼女は何だか不安げだった。

結論から言うと、帰り道も全く同じ事が起こった。
県道から横道に入って、ぐるぐる歩くうちに気付けば大通りに出てしまっている。
何だかおかしいなぁとは思ったのだが…。
昼近くなって起きて来た智宏がパンを齧っているところで聞いてみたら。
「アネキのあれねぇ…何てか、“辿り着けない”っての?それなんだよね。」
本当に危ない所には、行きたくても何故か辿り着けない。
そんな人っているんだよね、と従弟はこともなげに言った。
後でオフクロに聞いたら、どうやらバアちゃんもそんな体質?らしい。
つまり窓のない壁に囲まれた家は、洒落にならない様な…。
俺は結局、その家の場所が未だに分からない。

 

第八話 ほんの少し

美術系の専門学校に通っていた頃の話。
一年の前期は基礎学科で、専攻がどの分野でもデッサンや色彩学なんかをやる訳だが、
この時期は課題提出が死ぬ程多かった。
加えて、授業で使う水張りパネルなんかを事前に用意しないといけない。
片道一時間半の通学時間、朝から6コマ授業に出て、バイトして、夜中に課題と準備。

そんな生活をしていた俺が当時住んでいたマンションは、
駅からバス停2つ離れていて、帰りはコンビニに寄りがてら歩く事が多かった。
コンビニを出て、1つ目のバス停の手前辺りから住宅街になる。
車道を挟んで向かい側の川べりに造園業の事務所があって、
バス停の斜め後ろには重機の入った車庫と、石や植木が並んでいる。
歩きながら何とはなしに見ると、歩道寄りにある岩の前に男がいるのが分かった。
初夏の夜8時前、まだほんのりと闇は浅く、人通りもある。
バスを待っている間に煙草でも吸っているのだろう。
白っぽいポロシャツを着た、小柄でやや太めのおっさんの背中だ。
ちりりりりん!
ベルの音がして、俺は後ろから来た自転車に振り向き、少し避けた。
そのまま自転車の行く先を目で追うと…何だか、違和感があった。
よく見ると、ついさっきまで見えていたおっさんの背中がない。
目を離したのはほんの数十秒の事だ。
奥にも手前にもおっさんの姿はなく、車庫はシャッターがぴったりと下ろされている。
通り過ぎながら敷地の中を覗いてみたが、やっぱり誰もいない様だった。

その時点では、俺が知らないだけでどこかに入れるか、見間違いだろうと思った。
週の後半で、疲れも溜まっていたし。

 

夕食と風呂を済ませた後、俺はリビングで絵の具と格闘していた。
机では大きなパネルと画材は広げられないので、テーブルで作業する日が多い。
一度リビングを出て北側の廊下に面した2部屋が両親の部屋で、
俺の部屋はリビングと並びの和室だったから、
リビングと自室の往復をしても、先に寝ている親に迷惑をかける心配もなかった。

日付けが変わって大分経った頃。
テーブルに向かっていると、廊下に続くドアが右側の視界に入る。
格子にガラスの入ったドアで、親が寝ている時間、向こう側は真っ暗だ。
そこに、さっきからちらり、ちらりと動く物がある。
しかし、顔を向けるとそれはぱっと引っ込む。
気が散る。
何もない筈の廊下で、確かに何かが動いている。見ると引っ込む。
手は作業を進めながら、そっと視線をずらしてみる。


心臓が跳ね上がった。
ガラスの向こうの暗がりに、くすんだ肌色の手があった。
出ようか戻ろうか…逡巡して、レバー型のドアノブに乗る。
更に向こうには当然、手の持ち主の肩が見えている。
ポロシャツ。丸い肩。白い。襟からは首が覗く。
平静を装おって作業を続ける俺の視界の隅で、そいつは様子を窺う様に首を傾げた。
ぐうっと頭が下がって来て……

浮腫んだ顔のおっさんが、精気のない虚ろな目で部屋の中を見ていた。

 

「あああああああああああああ!」
俺は叫んで立ち上がった。
実際には、さほど声は出ていなかったかもしれない。
苦情も来なかったし、親も起きて来なかった。
我ながら馬鹿みたいだが、喉に張り付いた声を振り絞って、俺は宣言した。

「幻覚が見える!もう本気でやばい!俺は寝るっ!!!」

絵の具もパネルも放ったらかしにして、リビングもキッチンも明かりを点けたまま。
俺は自分の部屋に入ると、引き戸をぴしゃりと閉めた。
部屋の電灯も勿論点けっ放しで、ロフトベッドによじ登って毛布を被る。
俺の出す音が止むと、辺りはしんと静まり返った。
気のせいだ、徹夜続きで俺がどうかしてるんだ……。
そう思い込もうとしていた時。

「…駄目か。」

俺の部屋の戸の前で、はっきりと聞こえた。
無論父親の声ではない、知らない男の声だった。
それっきり、家の中は静かになった。

俺は結局、煌々と明るい部屋でまんじりともせず朝を迎え、
外が明るくなってからリビングをそっと覗いてみた。
勿論誰もいないし、廊下の正面の玄関は鍵が閉まっていて、チェーンも掛けてある。
ただ、リビングと廊下を仕切るドアだけが、ほんの少し開いていた。

 

 

第九話 気がつかないのは

“辿り着けない”従姉がいる。
本当に危ない場所には、行きたくても行かれない体質みたいなものだ。
従姉…亜矢ねえの事で、彼女の弟の智宏が話してくれた事がある。

智宏が高校生の頃、つるんでいた友達が住んでいたマンションがある。
四方を居住区が囲み、中央にパティオがある煙突の様な構造。
エレベーターホールの横のドアから中庭に出られる、
当時としてはなかなか洒落た建物だった。
いわゆるニュータウンの中で、住人は他から来た家族ものばかり。
亜矢ねえの中高時代の同級生も何人かいたそうだ。

春先、夜の十時近くまで友達の家にいた智宏がエレベーターを降りると、
脇のドアの向こうに子供がいた。
ドアは真ん中くらいの高さで区切られて、上が透明なガラス、下が霜付きのガラスで、
街灯に照らされたパティオの中程にある、ハナミズキの木が見える。
その下の茂みの向こうで、小さな頭が行ったり来たりしていた。
ああ、こんな時間なのにまだ遊んでる子供がいるなぁ…。
そんな事をぼんやりと考えていたら、何もない場所で蹴躓いた。
体勢を立て直してもう一度見ると、さっきの子供がドアの間際まで来ていた。
仕切りの上、透明なガラスにぴったりと顔を寄せて、智宏を見て笑っている。
転んだ所を見ていたのだろう。
智宏はバツの悪い思いで膝の汚れを払い、苦笑いした。

 

そこでふと気がついた。
ドアの上にある蛍光灯に照らされた、青白い子供の顔。
でも、仕切りの下、霜付きガラスには何も映っていないのだ。
映っていない!
そこにあるべき子供の首から下が映り込んでいない。
パティオの床の赤茶色の素焼きタイルと、茂みの緑しか見えない。
子供はべったりとガラスに顔をつけているのに。笑っているのに。

うわっ!と小さく悲鳴を上げて、智宏はエレ-ベータ-ホールから転げ出た。

帰宅して姉にその話をすると、亜矢ねえは首を傾げたと言う。
「…中庭に出るドアなんてあったっけ…?」
ドアは確かにあるそうだ。
後日智宏がそこに住んでいる友人に確認すると、
その中庭はいくつかのパターンの“出る”話があると聞かされた。
中庭だとか鯉のいる池だとか、そんな物が大好きな子供っぽい姉が、
パティオの存在に気がつかない訳がないと智宏は思った。
気がつかないのなら、やっぱりそこには…。

 

 

第十話 時計回り

冬の終わりに、オヤジの弟の息子、つまり従弟と旅行に行った。
母方は何かと言うと人寄せやら親族旅行をやるが、
父方のいとこで俺と親交が深いのはこいつくらい。
神社が好きらしくて、一人でふらっと京都辺りに行っては写真を撮って来る。
そんな趣味でも、変な現象にも遭わなければ心霊写真も撮った事がない。
俺の話も全然聞く耳持たない…そう言う人間だ。

その時の行き先は京都ではなく、俺は都合で来れない本来の同行者の代理だった。
行ってみると宿の周辺は俺の地元なんかよりずっと都会だったが、
初日の目的地は見渡す限りの田畑と山。そこに寺社が散在していて、
日頃運動不足の俺はレンタサイクルと石段のコンボで酷い目に遭った。
翌日の史跡巡りでは庭園の茶店で煙草が吸えなくなったのをぼやくヤツをなだめ、
ようやっと辿り着いた観光地らしい場所は、古い家並みと土産物屋が並ぶ町だった。
着いた時には午後の四時を回っていただろうか。
まだ日の短い時期にしては、それなりに観光客が歩いていた。
季節柄、古い雛人形や屏風、絵なんかを店先に飾っている所もあり、
ちょっと七月の京都、祇園の辺りを思い出した。
こういう感じは好きだ。…石段もないし。
そんな事を思っていたら、やっぱり神社があった。

「前に来た時は祭だった」とその祭の蘊蓄をたれながら、身軽に石段を上がる従弟。
俺はヒイヒイ言いながらどうにか昇って、振り返る。
小高い丘の上からは、風情のある町並みが一望できた。
下から見た感じでは小さな神社の様だったが、上がってみると結構立派で、
社務所の右手に能舞台(神楽かもしれない)まであった。
お詣りを済ませ、ヤツが撮影している間にお守りなど吟味して、
それから緩やかに丘を下る坂道に出る。
その途中にある建物で、雛人形展をやっているのを見つけた。

 

「御自由にお入り下さい」の看板に従い中に入ると、雛人形ばかりでなく、
色々な古めかしい人形を、ケースにも入れずむき出しで展示していた。
子供サイズの人形にはぎょっとしたが、意外に無気味な感じはしなかった。
個人から借り出された雛人形も状態がよく、大切に扱われていた事が分かる。
会場の中央には畳を二枚敷いた段があり、その奥の雛壇にも人形が並べられていた。
雛壇の前は空間があるが、通り抜けられる程の幅はない。
俺は何の気なしに、左側から雛壇の方へ近寄った。
すると、雛壇まで1メートル弱の所で異変が起こった。
頭が、くん!と後ろに引かれた。
自分の意思とは関係なく、首が左に向く。喉が詰まる感じがして息苦しい。
何だこれ?と逆らって前を向くと、またくうう…っと左を向いてしまう。
試しに一歩下がってみると、首も戻るし呼吸も楽になった。
俺は畳の敷かれた段をぐるりと半周して、今度は右側から雛壇に向かってみた。

……何でもない。
前を向いたまま、息苦しくもならず、びっしりと人形の並んだ壇に近付けた。
俺は引き返して、もう一度時計まわりに段を回る。
同じ場所で同じ様に、首が回る。息が詰まる。
これは何だ?
逆に回る。何もない。
目の前には何の変哲もない雛人形が、ただ無造作に並んでいるだけ。
怪しくないし、嫌な感じもしない。
でも、向こう側…雛壇の左寄りに、一つだけこの場に不釣り合いな人形がある。
雅びな彩りの人形の中に、やけに鮮やかな水色とレモン色が見えていた。
何故だかそれを確認したい気がして、俺はもう一度左へ回る。
今度は手前で立ち止まり、離れて観察した。

 

それは、水色のサテン地にレモン色のフリルのドレスを着た人形だった。
大きさは15センチ位、普通の女児玩具の様だ。
リカとかジェニー?とかみたいな可愛らしいアニメ顔ではなくて、
睫毛の長い濃い顔を、正面よりややこちらへ向けている。俺は拍子抜けした。
何か物凄いモノがあるんじゃないかと思ったのだ。
どれだかの人形の写真を撮りたいと言う従弟を残して、俺は建物を後にした。

建物を出ると坂は右に折れ、先刻上がって来た石段の中程に出る様だ。
俺は木立の中の石畳を道なりに下る。
ああ、これも時計まわりなんだな…とふとさっきの事が頭を過った。
その時になって初めて気がついた。
しゃり、しゃり、しゃり、しゃり……。
立ち止まった俺の斜め後ろで、妙な音がしている。
動物が草を踏み分ける音でもなければ、何かを削る音でもない。
アルミホイルを擦り合わせる音が一番近いか。薄い金属片が触れ合う音に似ていた。
左手の茂みの中から。
しゃり、しゃり、しゃりり、しゃ、しゃ、しゃ、しゃ。
音が速く、近くなる。
それと同時に、頭がくん!と引かれて喉が詰まる感じがした。
ささささささささ…。
音。それに引かれて首が左へ向こうとする。
見てはいけない、音の正体を知りたくない、突然そんな感覚に襲われ、
なのに、頭の中では分かっているのに、顔がそちらを向こうとする。
音がすぐ側まで来ている!顔は真横を向く。俺は目を瞑った。
「…何やってんだ?」
従弟の声だった。
喉が詰まる感じがなくなり、首が自然に元に戻った。
目を開けると、石段の踊り場に当たる部分にヤツがいた。

 

ヤツは銜えた煙草をペコペコ上下させながら、デジカメをいじっていた。
「境内禁煙だろ。」
「だからまだ火はつけてませんよーだ。」
少しホッとしながら、耳はまだ音の行方を探っていた。少しずつ離れて行く様だ。
「あれ、何の音かなぁ。シャリシャリ言ってるの。」
俺に言われて従弟は暫く耳を澄ませていたが、
「下の道路で何かやってる音じゃないの?電線の工事してたよ。」
そう言って、さして興味もなさそうに先に下りて行ってしまった。
俺もヤツの後をついて行くと、鳥居の正面の商店がシャッターを下ろす処だった。
勿論シャッターの音はシャリシャリとは言っていない。

従弟は鳥居を潜るとすぐに煙草に火をつけ、不意に俺に煙を吹き掛けた。
俺が怒ると、狐にでも化かされたんじゃないかと思って、などとぬかした。
そんな事一切信じていない癖に、明らかにからかっている。
「一番奥にあった雛壇気にしてたみたいだけど、あれ、人形供養をする場所だってさ。」
来た道を土産物店の並ぶ通りへ戻りながら、従弟は半笑いでそう言った。
「あそこの人に写真いいかって聞いたら、奥のが写るとちょっと困るって言うから。
訊いてみたら毎朝あの畳の上で宮司さんがこう、
タカマノハラニカムズマリマス…かな、祝詞をあげるそうだよ。
ナオさんはそんなのが好きだねぇ。行ったり来たりして見てたろ、まったく。」
言い終えて、それから少し考えて、ヤツは何か思い出した顔をした。
「そういえば、変な人形があったね。」
俺はヒヤリとした。
「水色の服の…」
「ああ、完全に横向いちゃって、近くで顔が見られないの。正面向けとけばいいのに。」
また俺を怖がらせようとして、と思ったがそんな事はなかった。
ヤツは俺の反応を窺うでもなく、夕日で橙に染まる町並みにカメラを向けていた。

 

 

第十一話 いらっしゃいませ

いとこのバイト先の話をしようか。
従姉と言っても、学年は俺と同じ。もうすぐまた一つ年上になる、それだけの差だ。
同い年の従姉、美保は最近外食チェーン店で働き始めた。

「ナオは前にもあたしと同じモノを視てるから、信じてくれると思うんだけどさ。」
この間顔を合わせたら、美保はそう切り出した。
俺は確かに変なモノを見聞きすることがあるが、
どちらかと言えば気配を感じるとか、そういう漠然とした体験の方が多い。
何だよ?と聞き返すと、バイト先でちょくちょく不思議な事があると言う。

夕方、入口の自動ドアを年輩の男女と小さな女の子が入って来る。
「いらっしゃいませ!」店員が一斉に声をかけた。
テイクアウトのレジカウンターには同僚がいたので、
美保は入って来たところを見ただけだった。
しかし、買い物を済ませて出て行く気配にまた振り返ると、
ドアを出て行ったのは男女だけ。
不審に思いレジの担当者に訊ねてみたが、彼らは始めから二人連れだったと言う。
そんな筈はない。
祖母らしい女性の左手をちょこんと握った女の子が、確かにいた筈なのだ。
…でも、店員の誰もそんな子供の姿は見ていないと言う。

深夜、若い男女のグループがやって来た。
美保は「ヤンキー風」と言ったが、ここでは一目でDQNと分かる風貌と言うべきか。
「いらっしゃいませ!」やっぱり、店員が一斉に声をかける。
イートインのコーナーの担当の美保が人数分の水とおしぼりをもって行くと、
6人いた筈の客が5人しかいない。トイレに行ったのかも知れない。

 

「ご注文は、お客様全員揃われてからの方がよろしいですか?」
美保が訊くと、5人は顔を見合わせた。
あれっ?と思ったが、彼女が笑顔のまま待っていると、
そのうちの一人が青い顔をして、言った。
「……あの、俺らこれでゼンブなんだけど。」

その場は「私の勘違いでした」と取り繕ったそうだが、
自動ドアを潜った時、確かに彼らは6人いたという。
「あれ、店に来る前にどこ行ってたんだかなぁ。
お店にいる間じゅう全員お通夜みたいな顔してたんだよな。
心当たりがあったのかもねぇ。気持ち悪かったよ。」
まあ、ありそうな話ではある。
心霊スポットの帰りに立ち寄った食堂で、
水が1個余計に出て来る…なんて怪談話ではありがちな展開だ。
考えたら、そんなことがあったら水を出した方の店員だってイヤに決まってる。
しかし、子供連れの話の方は何だったんだろう?
俺がそんな事を思っていると、美保は全然違う事を考えていた様だった。

「そうやってしょっちゅう入って来るのを見てるんだけどさ、
今まで一人も出て行ってないんだよな。
ちいちゃい女の子も、ヤンキーっぽい子も、他の人も、
みーんな店に入って来るだけ。いつ出て行ってるんだろう?」

「今も全員、店にいるんじゃないの?」
…そう思ったけど、俺は笑って誤魔化した。

 

 

第十二話 鳩か子か

霊感って血筋と関係あるんだろうか。
俺の父方の方ではそんな話は聞かないが、母方には見たり感じたりの人間がいる。
俺は気配だけ感じる事があり、ごく稀に怪しいものが見える事もある。
俺は見ていない話を、ふたつ。

今はもう走っていない列車で出掛けたのだから、三年前かその前の年だろう。
母方のいとこ達で、五月の連休に揃って旅に出た事がある。
元々母の姉妹の嫁ぎ先が近県に固まっており、人寄せやら親族旅行が多い。
上はそこそこの年齢だから、つるまなくなる方が普通かも知れないが、
逆に近頃はいとこ会よろしく、子供だけで出歩く機会を設けるようになった。
その年は六人全員集合、ある有名な神社へ行った。

大きな鳥居を潜り、砂利の敷かれた長い参道。
一番年上の亜矢ねえと、俺と同い年の美保が先頭を行き、少し遅れて一番若い桜、
その後に彼女の兄の郁、亜矢ねえの弟の智宏、そして俺が歩いていた。
最後尾にいた俺が、いつもフラフラしてそそっかしい智宏の、
例によってよそ見をしているのに付き合ってあーだーこーだ言っていると、
先に行った従姉たちが声高に話し始めるのが聞こえた。
見れば拝殿の手前に三段程ある石段を上がった所で立ち止まり、
二人が郁と桜に何事か説明している様だ。
慌てて追い付いてみると、彼女達はそれぞれが見たものを話してくれた。
それを統合すると、多分こんな事が起こっていたのだろう。

 

亜矢ねえが先頭で、美保が二歩程後ろを歩いていた。
足取り軽く石段を上がろうとした亜矢ねえだったが、目の前を鳩が横切る。
八幡様のお膝元で育った、彼女は何の疑問も持たずに出した足をすっと引っ込めた。
鳩を脅かさず、通り過ぎるのを待った。
しかし、斜め後ろにいた美保はその時、どこからともなく現れた小さな子供が、
石段を横にとことこと歩いて行くのを見ていた。
子供が来るのを見たから、亜矢ねえもぶつからない様に立ち止まったと思ったそうだ。

だが、亜矢ねえが足を引っ込めた途端、鳩は姿を消してしまった。
同時に、美保の見ていた子供も見えなくなった。
二人は顔を見合わせ、全く同じタイミングで互いに見たものを口にした。
「今私の足元に白い鳩が通ったよね。」
「今お姉ちゃんの前に子供いたよね。」
それをすぐ後にいた桜が聞いていたのだが…。
「何にもない所で立ち止まったから、どうしたのかなって思って。」
更に後ろにいた郁に確認したが、彼も何も見ていないらしい。
因みにこの時は勿論、俺が別口で同じ場所に行った時も、境内に鳩は一羽もいなかった。
そして、観光客は俺達の他は年輩のグループが一組いただけで、
子供がいる家族連れなどは見当たらなかった。
鳩も子も、どちらもいた筈がない。

後日ある音楽番組のMCが、その参道で妖精を見たなんて話をしていたんだが、
長い砂利道がそう言った錯覚を起こさせる効果でも持っていたのだろうか?
それとも本当に、そこには何かが通るんだろうか。
鳩も童子も、場所によってはお使いだよなあと、今でも気になっている。

 

第十三話 旅館

以前にどこかでさわりだけ話したかも知れない。
同行者の事ははっきり書かなかったと思うが、いとこ会の旅行だった。
母方のいとこ六人、そのうちの何人かには、ちょっと変わったところがある。
最年長の亜矢ねえは「辿り着かない」。
本当にヤバい心霊スポットとかに、何故か行こうとしても行かれず、道に迷う。
俺と同い年の美保は…ちょっと一言では説明しにくいのだが、
見るタイプだと言っておこう。こいつの話は、また機会があればするかも知れない。
とにかく、ある古い宿場町で宿をとった。

JRの駅から車で随分移動した所が中心部で、特徴のある家並みが続く町だった。
陽も翳り薄暗くなってから、川べりの宿を目指してタクシーで行くと、
風情のある古い建物に、不釣り合いなネオンサインが「●●楼」と掲げられていた。
駅前は新しいビジネスホテルが何軒かあり人も多いのに、辺りは何だか寂れている。
一瞬ラブホテルにでも迷い込んだかと思ったが、玄関を入ると普通の旅館。
宿の人は親切で感じがよく、今日は家族連れやカップルで満員だと話してくれた。
建物は川に面した豪華な造りの部分と、道路側の質素な造りの部分の二棟に別れている。
俺達は玄関正面の廊下を左に折れて、質素な建物の方へ通された。

廊下を曲がりすぐに自動販売機のコーナー。その先に階段。向こう側に大浴場の看板。
自販機の前にも階段。廊下を挟んで向こうにも階段が見える。
?????
やけに階段が多い。それに、階段自体が妙に狭い。幅が襖一枚分もないのだ。
こう配もキツく、上りはいいが、下りは気を付けないと転げ落ちそう。
天井も低く、一段下がっている部分では背の高くない俺でも頭を下げないと不安だ。
上がり切ると右がトイレ、左と後ろが客室の入口だった。
つまりこの区画には、二部屋予約していた我々しかいないことになる。
最奥の部屋に女性陣、階段側の部屋に俺たちが通された。

 

部屋は古いが、割と広い。
素っ気無いドアを開けると、正面が細い廊下で左は壁、右は窓で駐車場が見える。
廊下は左へ折れて突き当たり、廊下に面して障子が四枚、向かいは窓で下は庭園だ。
庭園の反対側に玄関を挟んで反対側の棟があった。
廊下の突き当たりには、あり得ない古さのエアコン?がある。
暑くも寒くもない時期で、窓を開ければ用は足りそうだからいいが、動くのだろうか。
障子を開くと十畳の和室で、更に奥に開け放たれた襖が見える。
開いた襖の向こうには四畳半ばかりの次の間まであり、奥に鏡台が置かれていた。
「ボロいけど広いねー!」などと言って荷物を置くと、そこへ美保が様子を覗きに来た。

ノックを聞いてドアに向かうまでが遠い。
元々はドアがなかった場所に無理矢理取り付けたのだろう、そこだけ真新しい。
それはトイレにも言える事で、綺麗なのはいいが、建物に不釣り合いな新しさだった。
美保は俺達の部屋を見て回ると、
「あっちと大体同じだね。あっちは窓から町と山が見える。
あと、ここと同じ様な部屋の固まりが幾つかあるみたい。」と言った。
部屋置きのガイドに、避難経路などの書かれた館内図があったので見てみると、
確かにここと同じ、細い階段を上がった所に一~三部屋がある造りが幾つもある。
もう一つの棟…本館は普通の構造のようだが、別館は隔離された小部屋の集合だ。
しかも客室は全て二階で、一階には風呂、食堂、娯楽施設等が収まっている。
俺は何だか違和感を覚えた。それと同時に、美保が声をひそめて言った。

「実はお姉ちゃんがさ、あっちの部屋に入るなり“何かここ嫌だな”って言ったんだ。」
お姉ちゃんとは亜矢ねえの事だ。そして、それは珍しい事だった。
おかしなものに遭遇する場所に、行き当たらない「体質」なのだ。
だから彼女の弟といとこ関係とは別にオタ友としてつるんでいる俺も、
彼女がそんな事を言うのを見た事がない。言う必要がない。

 

「今はサクと明日の相談してるけど、あたし気になっちゃって。」
俺も気になる。だが、美保は別に何もおかしな感じはしなかったと言う。
俺や智宏も0感でこそないが、美保はそれ以上に“見た話”を聞かせてくれるし、
俺はこいつと同じものを同時に見た事があったから、
美保の霊感話は大袈裟な可能性こそあれ、信用出来ると思っている。
その美保が何ともないものを、嫌な感じとは…一体何があるのだろうか。
俺は確認したい様なしたくない様な気持ちになったが、結局部屋には行かなかった。
好奇心はあるが、それ以上にチキンなのでどうしようもない。

階下の食堂で夕食をとった後、俺達は各々部屋に戻った。
智宏と郁はTVを肴に一杯やり始め、下戸の俺は最初のうちこそ付き合っていたが、
だんだん飽きて来て、先に風呂に入って来ると言って抜け出した。
狭い階段を身を屈めて下り、風呂場に向かう。
「大浴場」などと書いてあるが、家庭風呂を拡大コピーしたみたいな貧相な風呂だ。
俺はステンレスの、真新しく巨大なバスタブにげんなりして、早々に上がった。

脱衣場を出ると、廊下は照明が落とされて薄暗くなっていた。
そう言えば十時で消灯すると言われた気がする。
左手に自動販売機コーナーの明かりが見えていて、人の気配がした。
俺も何か買って部屋に戻ろうかとぼんやりそちらを眺めていたら、見知った顔が覗いた。
「あれ?ナオ?」
美保だった。近くまで行くと、奥で一番下の従妹・桜がジュースを選んでいる。
「二人だけ?亜矢ねえは?」
俺は胸騒ぎがした。部屋が嫌だと言った亜矢ねえが、一人で部屋に残っているのか。
美保の返事を待たずに、俺は階段を小走りに上がった。
奥の部屋へ行き、ドアをノックする。

 

「亜矢ちゃん?亜矢ねえ?いる!?」
すると扉の向こうで、ぺたぺたぺた…と癖のある足音がした。
俺の名前を呼ぶ声がして、ドアが開く。亜矢ねえは怪訝な顔でこちらを見た。
騒ぎを聞き付けてやって来た智宏達と共に部屋に入り、
訊ねてみれば本人はまるで暢気な様子で、
見たいTV番組の途中だったから買い物に行かなかった、と話した。
話している間も、そちらに気を取られてくすくす笑っていた位だ。
何だったんだ?心配して損した。てか、この人の霊感はあてにならないな…と思った。
そこへ美保と桜が帰って来た。
美保は厭な表情をしていた。俺がどうした?と言いかけると…
「見ちゃった。」とだけ答えた。

翌日昼間によく聞いてみると、俺が上がって行った後に廊下の角に出た美保は、
何の気なしに本館の方を見たらしい。
目の前は玄関ホールで、そこの照明も薄暗くなっていた。
向こうに真っ暗な廊下と大階段が見えていて、
館内図で見ると下は宴会場、上は客室だった筈だ。
玄関の正面、フロントに当たる帳場の横から奥には、
俺達が泊まっているのと同じ構造の、階段上の部屋がある廊下が続いている。
ここも真っ暗で、玄関からの明かりと非常灯で何となく奥行が分かる程度だった。
その暗がりをすうっと音もなく、人影が近付いて来るのが見えたと言う。
奥からやって来て、美保がいる角を逆に折れ、本館の暗闇に吸い込まれて行く。

 

足音がしない。
気持ち悪い…と思ったら。
また同じ様にすう…っと人影が通った。
同じルート。廊下の奥から現れて、本館の廊下に消える。
桜を引っぱって部屋に戻るまでに、三度それが通ったと言う。
「着物で日本髪の女の人。三回とも同じ人だと思う。
目が合うとヤバい気がしてはっきりとは見なかったんだけど、顔が…」
言いながら、美保は顔の左側を押さえた。
「すぐ横を通る時、向こう側が崩れてるみたいに見えたんだ。何か凄いゾ-ッとして、
兎に角サクが怖がらない様にって、平気な顔して帰ったんだよ。」
結局、亜矢ねえはそこに行かずに済んでいたのだ。

その後、美保にもその周辺にも何か起こった訳ではないので、
廊下を回り続けていた女性は、ずっと同じ場所にいるモノなのかも知れない。

余談だが、その年だったか翌年だったかに稲川淳二の怪談ライブに行ったら、
舞台セットが遊廓を模した物だった。
それは何だか俺達が泊まった部屋に似ていて、今更ながら違和感の正体に気が付いた。
確証がある訳ではないが、あれはもしかしたら、その昔遊女がいた施設ではないのか。
街道の要所で大きな宿場町だったが、鉄道が引かれた際、
あるいは修繕した際に、駅が宿場から大きくずれてしまった町。
時代の流れで、今は普通の旅館に姿を変えている所だってあるだろう。
あの旅館がそうなのかどうかは確認出来ないが、そうだとしたら、納得が行く。

多分美保が見た女性は、ずっとそこで働いているのだ。
今日、今もいるのか、それは分からないけれど。

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