『怪物』|【名作 師匠シリーズ】

『怪物』|【名作 師匠シリーズ】洒落怖・怖い話・都市伝説 師匠シリーズ
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『怪物』

654 :怪物  「起」承転結   ◆oJUBn2VTGE :2008/07/06(日) 21:18:08 ID:JJl4aZ230

 

『起』

京介さんから聞いた話だ。

怖い夢を見ていた気がする。
薄っすらと目を開けて、シーツの白さにまた目を閉じる。
鳥の鳴き声が聞こえない。
息を吐いてから、ベッドから体を起こす。
静かな朝だ。
どんな夢だっただろうと思い出しながら記憶を辿ろうとする。
すると「スズメは魂を見ることができる」という話がふと頭に浮かんだ。
どこかの国の伝承で、スズメは生まれてくる前の人間の魂を見ることができるという。
朝、スズメがさえずるのはその生まれてくる魂に反応しているのだと。
その魂がやってくる場所が空っぽになっていると、魂を持たない子どもが生まれて来る。
そんな子どもが生まれる朝にはスズメはさえずらない。
だから、スズメの声の聞こえない朝は不吉さの象徴だ。
カーテンを開けると2階の窓から見える家並みはいつもと変わらない姿で、慌しい一日の始まりの息吹がそこかしこに満ちている。
そう言えば今日は何曜日だっただろう。
目を閉じて、一秒数えたら、他愛もなくありふれた土曜日の朝でありますように。

その日、つまり憂鬱なる月曜日。
学校への通学路の途中、道行く人々の群れの中でふと足を止めた。
視覚でも、聴覚でも、嗅覚でもなく、まだどれにも分かれない未分化の感覚が、街の微かな違和感をとらえた気がした。
私にぶつかりそうになったサラリーマンが舌打ちをしながら袖を掠めていく。
色とりどりのたくさんの靴が、それぞれのステップで私を追い越していく。
その雑踏の中で私は、ギギギギギ……という古い家具が軋むような音を聞いた気がした。
蠢き続ける人間の群れの中で身を固くする。

夏が一瞬で終わったような肌寒さを感じた気がした。
アスファルトから立ち上る、降りもしない雨の匂いを嗅いだ気がした。
けれどそのどれもが幻だということもまた同時に感じた。
なにか本質的なものがそれらのヴェールの向こうに潜んでいるような、得体の知れない嫌悪感が身体にまとわりついてくる。
道端のゴミ捨て場に集まっていたカラスが鳴いた。
一羽が鳴くと他のカラスたちにも伝播するように鳴き声が波のように広がる。
そばを通る何人かの人間がそちらを見た。
その声は求愛でも、縄張りを主張するものでもなく、ただ”何かを警戒せよ”という緊迫した響きを持っている気がした。
けれど誰もそれに必要以上の関心を示さず、足を止める人はいない。
私もまた形にならないどこか遠くにあるような不安感を胸に抱きながら、それを振り払い、学校への道を急ぐのだった。

何かがこの街に起こりつつある。
はっきりそう感じたのは次の日、火曜日の学校の昼休みだった。

「わたし、昨日怖い夢見た~」

昼のお弁当を早々に食べ終わり、どこか涼しいところで昼寝でもしようかと立ち上がりかけた時にそんな言葉を耳にした。
教室の真ん中あたりで机を4つ並べてお昼ご飯を食べているグループだった。
その言葉に反応したのは、なにか理由があったわけではない。
いわばカンだ。
けれどその子の次の言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがカチリと音を立てた。

「でもなんか~、どんな夢だったか忘れちゃった」

その音は鍵穴が立てる音なのか、それとも時計の針が綺麗な数字を指した音なのか。
私はドッドッドッ……と少しずつ早くなる鼓動をじっと聴いていた。

「なんで忘れたのに怖い夢って分かんのよ」
「そういや、そっか~」

他愛のない会話が続き、彼女たちの話題は何の引っ掛かりもなく見る間に変わっていった。
昨日・怖い・夢を・見た・どんな・夢か・忘れた・けどその言葉を、私は今朝も聞いた。
確かに聞いた。
既視感ではない。
あれは歩いて登校する時の、通勤ラッシュでごった返す人の群れの中だった。
誰が話していたのか、顔も見ていない。
ただその時、私は思ったのだ。
(そういえば私もだな)
今、まるで同じ言葉を耳にして私の中の動物的本能が不吉なものを察知した。
立ち上がり、教室を出る。
外の空気が吸いたい。
廊下を上履きが叩く音が二重に聞こえた。
誰かがついてくる懐かしい音。
でも私の行く後をいつもついて来ていた子は今、学校を休んでいる。
近々転校するのだと人づてに聞いた。
小さな針が、胸の内側をつつく感じ。

「山中さん」

という声に振り向くと、目立たない顔立ちの小柄な子が立っている。
高野志保という名前のクラスメイトだ。
少し前にある事件で関わってから妙に懐かれてしまっていた。
良い気分ではない。
私は出来るだけ一人でいたい。

「あの……私も見たよ。昨日。怖い夢。占いとか得意なんだよね。山中さん。ちょっと占ってくれないかな」

私は立ち止まり、顔を突き出した。

「急いでるんだ。また今度ね」
「あ、うん。ごめん」

踵を返してその場を立ち去る。
ああ。嫌なヤツだ。

軽い自己嫌悪に苛まれながら私は急いだ。
どこに?
どこか、人のいない処に。

その日の夜、私は暇つぶしに妹の部屋にあったローカル情報誌を拝借し、自分の部屋に寝転がって読んでいた。
テーブルの上のラジオからは知らない洋楽が流れている。
その雑誌を適当に飛ばし読みしていると、星座占いのコーナーで手が止まった。
地元では有名な占い師が持っている頁だ。
行ったことはないけれど、街なかに占いの店も出しているらしい。
その情報誌は月刊なので、ひと月分の運勢が星座ごとに並んでいる。
星座ごとで、しかも一ヶ月通じての運勢だなんて、血液型占いと同じくらい胡散臭い。
とりあえず自分の星座を確認して、それからもう一つの星座を読む。
こんなところがどうしようもなく女子高生っぽくて自分でも嫌になる。
その後、適当に前後の星座の運勢を読んでいると、どれもあんまり良くない書かれ方をしているのに気がついた。

『じっとしているが吉』『外出は控えて』『大事なものを失う暗示?』『もう一度考えて』……

星座の名前のすぐ横に5つの星が並んでいて、そのうち黒い星の数が多いほど運勢が良いということらしいのだが、私の星座は星1つ。
ほかの星座も1つとか2つばかりで、3つというのが最高だった。
どういうことだろう。
天井を見ながら少し考える。
急にドアをノックする音が聞こえて、ドキッとした。
適当に返事をすると妹が廊下からニュッと顔を出し、いきなりこちらを指さした。

「やっぱりここだ。返してよ。まだ読んでないんだから」

雑誌をもぎ取られそうになるのを力ずくで押さえ込んで、「この占いのページって、いつもこんな星のアベレージ?」と聞く。

妹はじっとそのページを見つめ、「いつもはそんな低くないよ」と答えた。
星3つとか、4つとかが普通とのことらしい。

「えー、なにこれ、やな感じ。この星占いのオバハン、なんか嫌なことでもあったんじゃない?」

妹はそんなことを言いながら、力を緩めた私の手から奪取した雑誌をまじまじと読み始めた。
「自分の部屋で読め」と追い出すと、なにか文句を言っていたが無視してベッドに寝転ぶ。

“嫌なことがあったから、腹いせで読者の運勢を悪く書いてみた”

やはりどこか違う気がする。
何故なら、悪くしないための警句ばかり並んでいたからだ。
ローカル誌か……
呟いて、それから目を閉じる。

いつの間にかウトウトしていたらしい。
ラジオの音に目が覚めた。

『……え? どんな夢だったかなぁ。忘れたけど。怖い夢だったってのだけは覚えてんだけどね。まあいいか。ははは。じゃあ、俺もお仲間だったということで、次のハガキね。え~と、うちのオカン最悪です、エロ本整理されました、っていきなりだなオイ』

ラジオに飛びついてボリュームを上げる。
けれどエロ本談義の次はこの夏コンサートでやって来る大物外人の話題で、その後も二度と夢の話は出なかった。
やがてコマーシャルが流れ始め、地元のカジュアルショップの名前が連呼されているのを聞きながら私は、この街で何かが起こりつつあるという正体不明の予感に、足元を揺らされているような恐怖を感じていた。

怖い夢を見ていた気がする。
目覚まし時計を止め、あくびを一つしてから身体をベッドの上に起こす。

いつもはエンジンの掛かりが遅い私の頭が、今は急速に回転を始める。
思い出せ。
どんな夢だった?
暗いイメージ。嫌な。嫌なイメージ。怖いイメージ。
テーブルに置いてあったノートを広げ、ペンを持つ。
コツ、コツ、コツ、と叩いてからやがてガクリとその上に突っ伏す。
駄目だ。
忘れてしまった。
やけに静かな朝だ。
イライラする。リズムがない。
リズムさえあれば思い出せたのに。
スズメだ。スズメはどうして鳴かないんだ。
いきなりドアをノックする音が聞こえた。
ドキッとする。するより早く、胸の中に、サッと赤黒い暗幕が掛かった気がした。

「煩いな、いま起きるよ!」

自分でも思わぬ大きな声が出た。
その向こうで、わずかに開いたドアから母親の驚いた顔が覗いていた。

その日の朝ご飯どき、母親に乱暴な言葉遣いを説教されて一層不機嫌になった私は、学校でも朝からムカムカして気分が悪かった。
こちらに話しかけたそうな高野志保の遠慮がちな視線にもイライラさせられた。
水曜日の2時間目は美術だ。
さっそくエスケープした私は、人の来ない校舎裏に直行した。
煙草でも吸わないと、やってられない。
深く息を吐いて、白い煙が青い空に溶けていくのを見ているとようやく気分が落ち着いてくる。
昨日から今朝にかけて起こったことを一つ一つ順番に考えてみた。

いや、始まりは昨日ではない。
怖い夢を見たという漠然とした記憶は、かなり前から始まっていた。
この夏が始まるころ、いやあるいはもっと前から、緩やかにそれは私の日常を侵食し、そしてこの街の中に染み込んでいたのかも知れない。
誰にもその意味を気づかれないままに……
3本目の煙草を箱から出した時だった。
突然キーンという耳鳴りに襲われた。まるで、周囲の高度が劇的に変わったかのようだった。
(まずい。なにか起こる)
そう直感して、とっさに姿勢を低くする。全身を恐怖が貫いた。
けれどいつまで待っても何も起こらなかった。
恐る恐る身体を起こして、周囲を見回す。
地面にも、校舎の壁にも異変はない。
空を見ても、さっきとなにも変わらない。
入道雲が高くそびえているばかりだ。
胸はまだドキドキしている。
そういえば耳鳴りがしたあの瞬間、どこか遠くで雷のような音が鳴ったような気がする。
目を閉じて耳を澄ましてみたが、今はもう何も聞こえない。
耳鳴りもいつの間にかおさまっていた。

「なんなんだ」

自分に問いかけて、それから出しかけた煙草を箱に戻す。
授業に戻ろうかと考えて、やっぱりやめることにした。
さっきの耳鳴りがなにか反復性のもののような気がして、とっさに逃げ場のない教室には戻りたくなかったのだ。
次に学校から抜け出してみようかと思った。
それは素晴らしい思いつきに感じられて、いてもたってもいられなくなり、学校の敷地から出るために塀をよじ登ることさえ苦にならなかった。
誰にも見つからず抜け出すことに成功した私は、川の方に行ってみるか、それとも図書館に足を伸ばすか思案した。

真っ昼間に制服だと目立つな、と思いながら歩いていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
救急車の音だ。
そう思った瞬間、駆け出していた。
それはさっき耳鳴りがした瞬間に雷のような音が鳴った方角に向かっているような気がしたからだ。
その時にはどこから聞こえたのか分からなかったのに。
救急車のサイレンにキョロキョロとしている通行人を追い抜き、大通りを通り過ぎて、路地裏に入っていく。
10分ほども走っただろうか。
ざわざわとした人の気配が強くなり、角を曲がった時にその光景が飛び込んできた。
商業地から住宅地に少し入ったあたりの、寂れた2階建ての建物が並ぶ一角に救急車の赤いライトがくるくると回っている。
周囲には割れたガラスが散乱し、何人かの人が頭や腕を押さえて道路に座り込んでいた。
野次馬がその周りをウロウロしている。
地面には血の跡がポツポツと落ちている。
けれどそれ以上に私の目を惹くものが地面に落ちていた。
石だ。
パチンコ玉くらいのものから、子どもの握りこぶし大のものまで大小様々な石が周囲に散らばっている。

「落ちてきたって」「雹が?」「石だろ、石」「雹じゃないの」「空から落ちてきたんだって」

そんな言葉が辺りを飛び交っている。
雹という単語を聞いて、思わず手に取ってみたがやはりそれは石だった。
どこにでもあるただの石だ。
公園や校庭に転がっていそうな。
空を見上げたが、電線が一つ横切っているだけであとは飛行機雲一つない。

その路地の100メートルくらい先まで、石が乱雑に道路に飛散している。
ガラスも建物の窓が石で割られたものらしい。
よく見ると家の瓦屋根が割れているのも目に付いた。
本当に石がこの晴れた空から降ったのか? 天気雨のように?
そんなことがあるのだろうか。
隕石という言葉が頭に浮かんだが、どう考えてもそんな大げさなものではない。

「どいてどいて」

道路につっ立っていると消防隊員に邪険にどかされた。救急車が出るらしい。
私は少し考えてから、その石を一つだけスカートのポケットに入れた。
そして向こうからパトカーがやって来ているのに気づき、慌ててその場を離れる。
警察はまずい。平日の真っ昼間に高校の制服を着たままだったからだ。
彼らは例外なく皆お節介で、そして中高生のあらゆる非行が学校をサボることから始まると固く信じている。
後ろ髪を引かれる思いでその路地を後にした私は学校に戻ろうかとも考えたが、5秒で却下する。
しばらく路地裏を目的もなくうろうろしていたが、鋏を買うつもりだったことを思い出し、近くの文房具屋に足を向けた。
そう言えばこの辺りは最近来ていないなと思いながら、ささやかな商店街を歩く。
その間も頭はさっきの石の雨のことを考えていた。
たくさんの目撃者もいるようだ。
なによりあの割れたガラスや瓦屋根、そして怪我をした人間がその証拠だ。
石は降った。
それは間違いないだろう。だがどこからかなのか。それが問題だった。
近くにもっと高いビルでもあればその上の方の階や屋上からばら撒かれた可能性もあるが、区画上の規制でもあるのかそんな高い建物は見当たらなかった。
飛行機?

でも航路ではなかったはず。
なにより飛行機にあんな石なんて積んだりするものだろうか。
ましてそれを落っことすなんて。
飛行機雲も残っていなかったし。

「……」

集中しすぎて行き過ぎてしまったのでバックする。
その目立たない文房具屋には、何故か鋏がなかった。
店のオバサンに聞くと「売り切れ」とのこと。
「眉毛切る細いのならあるよ」という申し出を丁重に断り、店を出る。
近くにあったもう一つの小さな文房具屋でも鋏は置いてなかった。
というか、他の客もいなければ、店員もいなかった。
何か万引きでもしてやろうかと思った後、やっぱりやめておくことにする。
そんなに差し迫って欲しかったつもりもないが、鋏ごときが手に入らないとなるとなんだかムカついてくる。
ちょっと遠いがデパートまで足を伸ばすことにした。
幸いにしてそろそろ学校も昼休みになる時間だ。
お節介な人に見つかっても言い訳のしようがある。
大通りを抜けてデパートに着くと、さっそく雑貨のコーナーに向かう。
思ったより数が少なくてあまり選べなかったが、中でも大きめの使いやすそうなものを購入した。
何か食べて行こうかと思いながら、通りがかったフロア内の本屋に寄り道する。
特に探している本があったわけではなかったが、適当に巡回しているとその背表紙を見た瞬間に思わず棚から抜き出して手に取った。

『世界の怪奇現象ファイル』

晴れた日に空から不思議なものが降ってくるという現象はどこかで聞いたことがあった。
パラパラと頁をめくっていると、こんなタイトルの章があった。

≪空からの落下物≫

その話題に思ったより頁を割いていて、ボリュームがある。
本をひっくり返して値段を確認した後レジに向かった。
昼ご飯は抜くことになった。

その日の夜、晩御飯を食べながら夕刊を読んでいると母親に小言を言われた。

「まるでお父さんね」

大半は聞き流したが、この一言が一番効いた。
いつもは食べながら新聞を読むなんてことはしないのだけれど、今日はどうしても気になることがあったのだ。
なのにこの言われようはなんだ。
「こんどお父さんが食べながら読んでたら、まるでちひろねって言ってあげれば」と反撃したが、3倍くらいにして言い返されたので、もう黙る。

『真昼の椿事? 石の雨』

他のローカル記事に埋もれていたが、そんな小見出しをようやく見つけた。
午前中のことだったから、やはり夕刊に間に合ったらしい。
それは短い記事だったがあの路地に降った石の雨のことを取り上げていた。
軽傷者4名。被害にあった建物は13棟。
救急車に乗った人も大した怪我ではなかったらしい。
目撃者の談話が載っていた。

〔バリバリという大きな音のあと、急に空から石がバラバラと降って来た。最初は雹かと思った〕

音か。
私が聞いた気がしたのは、その音だったのだろうか。

〔住民も首を捻っている〕

そんな言葉でその記事は締めくくられ、結局石の雨の正体はわからないままだ。

「ごちそうさま」

と言って席を立つ。
残した料理のことについて母親に小言を言われることは目に見えていたので早足でダイニングを出ると、背中を追いかけてくる言葉を無視して2階の自分の部屋に逃げ込む。
ドアを後ろ手で閉めるとテーブルの上に置いたままの紙袋を手にとって、『世界の怪奇現象ファイル』を取り出し、ゴロンと絨毯に寝転んだ。
つけておいた折り目を目印に、目当ての頁をすぐに探し当てる。
≪空からの落下物≫の章にはこうある。

「にわかには信じられない話だが、この世には空から雨以外の奇妙なものが降ってく来るという現象がある。
それは魚介類やカエル、氷や石、それに肉や血や金属や穀物、そして紙幣など実に多種多様なものだ。
それらは紀元前の昔より世界中で多くの人に目撃されており、この現象に興味を持った超常現象研究家チャールズ・フォートにより『ファフロツキーズ(FAllS FROM THE SKIES)』と命名された……」

そんな説明に続いて、具体的な事例があがっている。
カエルや魚が降ったというケースが多いようだ。
1954年イギリス、バーミンガムのサトンパークでは海軍のセレモニーの最中、雨とともに何百匹、何千匹というカエルが空から降って来て見物人たちの傘にぶつかり、地面に落ちたあともピョンピョンと飛び跳ねていたという。
1922年フランスのシャロン=シュル=ソーヌでは、二日間にも渡ってカエルの雨が降り続いたと当時の新聞が伝えている。
近年の例では1989年オーストラリアのクィーンズランド州で民家の庭に1000匹のイワシが降ったとされる。
私はそんな膨大な事例の中から、石が降ったという記録を探し出していった。
1968年宮崎県の迫町で、ある薬局に小石に雨が降り、それが誰の悪戯とも判明しないまま半年間も続いたという事例。

そして1820年イギリスのサウスウッドフォードでは、ある家に石の雨が降り、通報によって警察官が配置される事態になったが、結局その石がどこからやって来るのか分からなかったという事例。
1922年カリフォルニア州チコの町の片隅に降った石の雨は、その現象が数ヶ月にも及んだが大学の調査チームにもその正体が分からなかった。
まだまだあったが、どれにも共通しているのは石の雨が広範囲に渡って降ったというわけではなく、むしろ極めて狭い範囲に集中してたということだろう。
1820年小石川の高坂鍋五郎の屋敷だとか、1600年代ニュー・ハンプシャーのジョージ・ウォルトンの屋敷だとかという記録を見ると、実にその個人に対して石の雨という攻撃が行われているような感想を覚える。
まるでその家の持ち主に恨みを持つ人間の仕業であるかのような気がする。
石がどこから来るのか分からないと言っても、誰かが見張っている時にはその悪戯を決行しなければいいだけの話だ。
そして監視がない時を見計らって、物陰から投石をする。
その場に居合わせない人間が考えると単純な構造に思えるけれど、実際はどうなのだろうか。
その『世界の怪奇現象ファイル』には、このファフロツキーズ現象についてのいくつかの仮説が紹介されていた。
チャールズ・フォートは地上からのテレポーテーションによって移動した魚やカエルなどが大気圏中のある空間に蓄えられ、それが時に奇怪な雨となって地上に降り注ぐのだと考えた。
他にもプラズマや空中携挙といった荒唐無稽な説もあったが、現実的に思えたのは飛行機からの落下説と竜巻説だった。

飛行機説はほとんどの落下物を説明しうる可能性を持っているが、個々の事例においてその飛行機の目撃が否定されるケースが多く、魚介類の落下など時代的に飛行機の登場の前後にあってもその出現パターンが変わらないように見える事例を解釈し辛い。
また、同じ場所に長期間に渡ってその現象が続くケースの説明にはならない。
竜巻説は地上の物体を空中に巻き上げて移動させ、別の場所に落下させるという現実に観測されるありふれた自然現象なのでもっとも有力な説にも思える。
しかしカエルばかりだとか、ニシンばかりだとか、トウモロコシばかりだとか、1種類の動植物のみが落下することの説明となると苦しい。
竜巻がそんなものを選り分けているのならともかく、地上にあっては他の動植物や石や砂を同時に巻き上げているはずだし、海や川にあっては水と一緒に水中の生物を種別に関わりなく吸い上げているはずだからだ。
空中に上ったあとで、その空気抵抗に応じた落下のタイミングがそれぞれ同じ種別を自然と振り分けるのではないかというもっともらしい解釈もあるが、やはり同じ場所に降り続けるケースの説明が出来ないし、周囲数百キロ圏内にその動植物が存在しないというケースも多々あるのだ。

そんな解説をつらつらと読んでいて、思った。
個々のケースを同じ現象で説明しようとするからややこしいんじゃないかと。
これは竜巻、これは飛行機、これはイタズラ、そしてこれは嘘。
そんな風に分けて考えれば、案外シンプルなんじゃないか。
立ち上がり、壁に掛けたスカートのポケットを探る。
そして昼間にあの路地で拾った石を取り出して、テーブルの上に置いた。

「これは、なんだろうな」

そう呟いて指でつつくと、それはコトンと音を立てて傾いた。
『世界の怪奇現象ファイル』を本棚に仕舞い、読み疲れた目頭を手の平の腹で抑えながらベッドに横になる。

『承』

怖い夢を見ていた気がする。
朝の光がやけに騒々しく感じる。
天井を見上げながら、両手を頭の上に挙げて伸びをする。
自分が嫌な汗を掻いていることに気づく。
掛け布団を跳ね除けて身体を起こす。
夢の残滓がまだ頭の中に残っている。
現実の眼は閉じられていたのに、視覚情報として記憶に刻み込まれた夢の光景。
今まで不思議だとは思わなかったのに、今日はそれが酷く奇妙なことに思えた。

夢の中で私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
やがて外から足音が聞こえて私は動き出す。
玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
足音が下から登ってくる。
私はその足音が、母親のだと知っている。
やがてその音がドアの前で止まる。
ドンドンドンというドアを叩く振動。
背伸びをして、チェーンを外す。
そしてロックをカチリと捻る。
ドアが開けられ、私はその向こうに立っている人間に話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
ただ月だけがその背中越しに冴えている。
そして血飛沫が舞って、私の視界を真っ赤に染める。
世界がたったの一つの色になる。
母親は崩れ落ち、もう呼吸をしなくなる……

「うああ」

ベッドのシーツを握り締めながら、思わずそんな声が出た。
自分でも驚いた。
それは恐怖心を身体の内側から逃がすための自己防衛本能だったのかも知れない。

すぐに冷静になる。
生々しい夢だった。
母親とは最近衝突することが多いが、まさか殺してしまう夢を見るなんて。
これが私の潜在意識の底にある願望なのだろうかと思うと、寒気がしてくる。
この間からずっと見ていた怖い夢は、この夢だったのだろうか?
壁のカレンダーを見る。
木曜日。今日も学校がある。憂鬱だ。
そのころになってようやく窓の外の音に気がついた。遠くで釘を打っているような音。
いや、ハンマーで杭を叩いている音か。どちらにしても耳障りだ。
イライラとしながら服に着替える。母親が起こしに来る前に。
今日もスズメの鳴き声は聞こえない。かわりの朝のリズムが、こんな不快な音だなんて。
そのせいで、あんな夢を見たのだろうか。
そうだったら、まだいい。
その日の朝の食卓は、気まずかった。

学校へ向かう途中、私はどこで工事をしているのかと思い、音を頼りにキョロキョロとしていたが出処は判然としなかった。
やがてその耳障りな音も途絶える。
こんな平日の朝早くから迷惑だな。
その時はまだ、その程度に思っていただけだった。
遅刻寸前で教室に滑り込んだ直後のホームルーム中、先生が意外なことを言った。

「昨日は変な一日だったなぁ。新聞見たか。あれ、近所なんだよ」

石の雨のことだ。
そう思ったけれど、そのすぐ後に先生はボソリと言った。

「木がなあ……」

木?
首を傾げていると、さっさと話題を切り上げて先生は教室を出て行った。
1時間目が始まる前に出来るだけ情報収集する。
いつもはあまりクラスメートと会話をしない私だが、なりふり構っていられない気分だった。
すぐにさっき先生が言っていたのが昨日の夕刊ではなく、今日の朝刊だったことが分かる。
しまった。読んでいなかった。母親に怒られてでも食べながら読めば良かった。
話を総合するに、どうやらこんなことがあったらしい。
昨日の夜9時過ぎ、市内の住宅地の道路沿いの並木が15メートルに渡って何者かに掘り返され、根っこごと引っこ抜かれてその場に転がされているのを通りがかった住民によって発見された。
付近の住民によると、夜9時前には間違いなく並木はいつも通り揃っていたらしい。
わずか数十分で6本もの成木を土から引っこ抜くとなると、重機でもなければ不可能だろう。
それが、周辺住民の誰もそんな騒動に気づかなかったというのだ。
いったい誰が? という疑問とともに、どうやって? という点も大きい。そして何故?
けれど私がもっと驚いたのは次の休み時間だった。
チャイムが鳴った後、教室中で交換される情報に耳をそばだてていた私は、この街で昨日起こったことが石の雨や、並木の事件だけではなかったことを知った。
市民図書館の本棚の一つから、収められていた本がいきなりすべて飛び出して床中に散乱した事件。
天井からぶらさがったガソリンスタンドの給油ホースが風もないのに大揺れをして、1時間近く給油できなかった事件。
アーケード内の大時計の短針と長針が何もしていないのにぐるぐると高速で回り続けた事件。

駅前のビルが原因不明の停電に襲われ、その後フロアごとにでたらめな照明の点滅を繰り返したという事件。
どれも不思議な出来事ばかりだ。
一つ一つを取ると「不思議だね」という言葉で終わってしまい、1ヶ月もすると忘れられる程度の噂話なのかも知れない。
けれどそのどれもが昨日のたった一日で起こったのだと考えると、薄ら寒くなってくる。
3時間目の休み時間には私も自然な風を装って、クラスメートたちの噂話の輪に入り込む。
そのグループでは情報通の親から仕入れたらしい噂を興奮気味に話す子が中心になっていた。

「そのコンビニが凄かったらしいよ。誰も触ってないのにアイスのボックスのカバーが開いたり、電気がいきなり消えたり、勝手にシフトが動いたり、なんにもしてないのに棚の雑誌がパラパラめくれたりしたらしいよ」

シフトは関係ないだろう、と思いながら聞いていたが、なんだか段々と内容が扇情的になってきている気がする。
どこまでが本当なのか分からない。
昼休みには、いつもよりゆっくりお弁当を食べながら複数のグループのお喋りに耳を尖らせていた。

「あとさぁ。今日の朝、なんか変な音がしてたんだよね」

そんな言葉にピクリと反応する。
喋ったその子にお箸を向けて、別の子が「あ、あたしの近所も。どっかで朝っぱらから工事してんのよ。騒音公害よね」と言った。
私の中にインスピレーションが走り、席を立つ。
そして校内に一つだけある公衆電話に早足で向かった。
電話の周囲にはほとんど人がいない。
何故か分からないが、あまり目立ちたくなかったので好都合だ。
備え付けの電話帳で市役所の番号を探す。

どこが担当なのか分からないので、代表番号に掛けて内容を告げる。
内線でお繋ぎします、という言葉のあと、保留音をたっぷり聞かされてからようやく電話の相手が出た。
聞きたいことを単刀直入に話す。
苛立ったような声が返ってきた。

「あのですね。今、市内でそんな公共工事はやっていません。じゃあ民間企業の騒音公害だって言われても、それがどこでやってるのかもわからないじゃ、注意のしようもないでしょう? 朝からなんなんですかいったい」

聞きもしないことまで返ってきた。
そして電話は切られる。
思わず時計を見るが、12時を回っている。
ということは、朝から、とは別の人からの電話のことらしい。
それも1件や2件ではなさそうだ。
分かったことは、市内の恐らく複数の場所で工事をするような音が聞こえているということ。
しかもどこで行われているのか誰にも分からない工事が。
いったい、これはなんだ?
なにかが私たちの周囲で起こりつつあるのに、それがなんなのか未だに分からない。
ただすべてが見えない糸で繋がっていることだけは分かる。
鳴かないスズメ。思い出せない怖い夢。落ちてくる石。引き抜かれる並木。音だけの工事。街中で起こった奇妙な出来事。
表面の手触りに騙されてはいけない。本質から眼を逸らしてはいけない。
公衆電話の前で私の心は静かになっていった。
廊下へ向けて歩き出す。
あいつはいるだろうか。
会わなくてはいけない。そして聞かなくては。
すれ違う女子学生たちと、私は同じ服を着ている。彼女たちは教材を抱いている。もたれるように笑いあっている。パンと牛乳を持って歩いている。私は教室へ急いでいる。
けれどそこには明らかな断絶がある。それは私自身が一方的に作ってしまった断絶なのかも知れない。
でもその断絶を心地よく感じている自分がいる。
同じ噂を聞いているのに、私だけは日常から足を踏み外している。

探ろうとしているのだ。
次に起こることを。そしてどう備えるべきかを。
自嘲気味に笑った瞬間を廊下の向こうから来た女子に見られ、変な顔をされる。
見たことがある子だ。同じ1年生だろうか。また怖がられるな。
案外とウジウジしたことを考えている自分に気づき、軽く頬を張る。
その教室についた時、廊下側の窓際でお喋りをしている数人の女子がいた。
中の一人に遠目から話しかける。

「石川さん、あいつ、今日来てる?」

その子はこちらをチラリと見て人差し指を教室に向ける。
私は「ありがとう」と言って、教室のドアに手をかけた。
自分のクラスではないが、このところココへ来ることが増えつつある気がする。
教室の中はどこにでもあるようなざわざわとした空気が満ちていたが、明らかに異質な雰囲気が隅の方の一角から漂っている。
説明しがたいが、眼に見えない透明な泡がその辺りを覆っているような感じがする。
このクラスの連中はみんなこれに気づいているのだろうか。
その泡の中心に氷で出来たような笑みを表情に張り付かせた短い髪の女が座っている。
間崎京子という名前だ。
教室に入ってきた私に気づいたのか、周囲にいた数人の子に何事かを告げて席から離れさせたようだ。
取り巻きができつつあるというのは本当らしい。
この油断ならない女のどこにそんな魅力があるのか分からない。

「聞きたいことがある。ちょっと出られるか」

なにか意地の悪い軽口でも出そうな気配だったが、意外にも彼女は頷いただけで立ち上がった。

そしてドアに向かうため踵を返そうとした私の顔の近くで、「やっとデートに誘ってくれたわね」と言う。
やっぱり出た。
ムカッとしながら、それを無視してさっさと教室から出る。私たちは非常口の外の階段まで歩いた。
風が首筋を吹き抜け、空から夏の陽射しが降り注いでくる。他に人はいない。

「で」

間崎京子は手すりに身を寄せて地面を見下ろした後、顔をこちらに向ける。

「知っていることを全部話せ」
「……唐突ね」

さして驚いた様子もなく京子はニコリと笑う。
私はこの女と腹の探り合いをすることの面倒さを考慮して、こちらが知っていることをすべて並べ立てた。
本を買って調べた『ファフロツキーズ』のことまで。
彼女はそれを面白そうに聞きながら、ワザとらしい動きで顎を右手の親指と人差し指で挟む仕草をする。

「不思議ね」
「それだけか」

この何もかも見通しているような女が、街に起こりつつある異変を察知していないはずはない。

「不思議ね、と言うだけで満足する人たちのようにはなれないのね。あなたは」

まるで100点を取った子どもを褒めるような口調だった。
そうして京子は視線を逸らし、遠くの街並みに目を向ける。
つられて私も初夏の陽射しを照り返して浮かび上がる建物の屋根やねに目を細める。

「たいしたことじゃないけど、『ファフロツキーズ』ってチャールズ・フォートの言い出した言葉じゃないわ。アイバン・T・サンダーソンの命名よ」

京子は街を見下ろしたまま淡々と言った。

「チャールズ・フォートこそ、『ファフロツキーズ』という言葉に振り回された人間だったのかも知れない。空から落ちてきた物を、すべて一つの概念にまとめようというのがどれだけ無謀なことだったか、なんとなく分かるでしょう?」

前から思っていたが、こいつはなんでこんなに偉そうな物言いをするのだろう。

「あなたも一度その『ファフロツキーズ』という言葉を捨てて考えてみたらどうかしら」

その問いかけは単純な忠告なのか、それともこの異変の正体を知った上で私に与えているヒントなのか。
私は京子の横顔を睨みつける。

「もうすぐチャイムが鳴るね」

京子は手すりから手を離し、私に向き合った。

「クイズ」
「は?」
「クイズを出すからよく聞いてね」

相変わらず唐突だ。思考を読めない。

「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何?」
「……人間」
「じゃあ、道行く人にその謎を出して答えられなかった人を食べちゃう怪物は?」
「スフィンクス」
「さすがね。では、そのスフィンクスとキマイラとの共通点は?」

キマイラというのはあれか。ライオンの頭と山羊の身体を持つ怪物のはずだ。
片やライオンの胴体、片やライオンの頭部を持っている。それが共通点だろうか。

「じゃあ、それらとスキュラの共通点は?」

スキュラ? とっさに姿が浮かばなかったが、なんとか記憶を掘り返すとどうやら上半身が女で下半身が犬という怪物だったような気がする。

スフィンクス、キマイラ、スキュラの共通点。なんだろう。少し考える。

「……身体が2種類以上の生物で構成された化け物」
「なるほど。じゃあそこにケルベロスを加えると?」

ケルベロスは首が3つある地獄の門番だ。
2種類以上の生物がくっついてはいなかった気がする。

「分からない? じゃあヒュドラも加えてみて」

ヒュドラはヤマタノオロチみたいなやつだったはずだ。ケルベロスのように首が複数ある。
でもスフィンクスやキマイラは首が複数ではない。スキュラは下半身の犬が何匹かに分かれていたようだが。

「分からないのね。じゃあこれが最後。オルトロスも加えて、すべての共通点を探してみてね」

チャイムが鳴った。
その音と同時に京子はスカートを翻し、手の平を振りながら立ち去ろうとした。

「待て。なにを知っている?」

掴もうとした手を、京子は避けなかった。けれどその手は空を切る。まただ。
何故だか分からないが、この女には暴力的な力が通じない。
私の意識下に、『それをしては負けだ』という強迫観念が働いているのだろうか。

「クソッ」

苛立つ私を冷ややかな目で見つめ、京子は軽く会釈をしてから非常口を出て行った。
怪物たちの共通点だと?
次から次に宿題が増えていく。
がんっ
ドアを蹴る音が思ったより大きく響いた。

その日の放課後。

私は市内の図書館に足を運んだ。
始めはどこかでおかしなことが起きてはいないかと街なかを散策していたが、なにも起きるような気配はないし、そもそも目星もなく歩き回るのは無駄な労力だと思い至ったのだ。
かわりに、間崎京子が出した謎の答えを探りたかった。
答えを見つけたとしても、なんの意味もないのかも知れないが、要は白旗をあっさりと揚げるにも私のささやかな自尊心がそれを許してくれないのだった。
図書館に着くと私は必要な資料を片っ端から書棚から引き抜いて来て、テーブル席に陣を張る。
まず私はオルトロスという怪物を調べた。
こいつだけよく知らない名前だったからだ。
資料によるとオルトロスはケルベロスの弟で、首の二つある犬の姿をしているらしい。
兄は三つ首。弟は二つ首か。その下の弟がいれば首は一つだろうか、と考える。
首が一つの犬だとしたら、それではただの犬だな。
苦笑して図鑑を閉じる。
犬か。スキュラの下半身も犬だったな。
そう思いながら、別の本を開く。スキュラは上半身が女性で、下半身に6体の犬が生えている挿絵つきで説明されている。
近くにあったヒュドラについての図説も確認した後、ケルベロスの項を開く。
ケルベロスは3つ首の魔犬と紹介されているが、竜の尾を持っているとも書いてあった。
なんだ、ケルベロスも2種類以上の生物で構成された合成獣としての要素を持っているじゃないか。
いや、しかしヒュドラにはそんな記述はない。
別の本を何冊か開いたが、やはりヒュドラは多頭の蛇という以外に別の生物の要素を持ってはないようだ。
分からない。共通点はなんだ?

イライラして机をトントンと指先で叩く。
向かいの席で参考書を所狭しと広げている学生が睨みつけてくる。
反射的に睨み返すと学生は驚いた様子であっさりと目を逸らす。
勝った。
少し気を良くしてスフィンクスに関する本の頁を開く。
ピラミッドのそばに鎮座している、王の顔にライオンの身体という見慣れた姿ではなく、女性の顔と胸、そしてライオンの胴体に鷲の翼を生やした怪物の挿絵が目に入った。
(おや?)と思って詳しく説明を読むが、ギリシャ神話に出てくるスフィンクスはこういうものらしい。
例の4本2本3本と移り変わる足の謎かけは、このスフィンクスがオイディプスに対して問いかけたというエピソードに基づくようだ。
なんとなく子どものころからのイメージで、砂漠を旅する人にあの石でできたスフィンクスが謎かけを挑んで来るように思っていたが、違ったらしい。
そう考えると、おぼろげながら共通点が見えた気がする。
スフィンクス、キマイラ、スキュラ、ヒュドラ、ケルベロス、オルトロスと、すべてギリシャ神話に登場することになるのだ。
だがそんな大雑把な共通点が分かったところで、焦点がぼけすぎてなにも見えてこない。
もう一度それぞれの説明を読み返す。
いくつか同じ固有名詞が出てきている。同じ英雄に倒されたのかとも思ったが、ヘラクレスが3匹ほどやっつけているものの、あとは別の英雄の仕事だった。
しかしすぐに別の固有名詞が重複して出てくることに気づく。

『ケルベロスはテュポーンとエキドナの子である』
『キマイラはテュポンとエキドナの娘であり、ペガサスを駆るベレロポンに退治された』

……etc.
どれも巨人テュポンと下半身が蛇の女の怪物エキドナが作った子どもたちばかりなのだ。
スキュラをその両者の子とするのは異説のようだが、確かにそんな解説をする本もあった。
だが、スフィンクスの解説で手が止まる。

スフィンクスはテュポンとエキドナの娘とする説もあるが、エキドナが我が子オルトロスとの間に作った娘であるとする説の方が一般的なようだ。
私は本を閉じ、背中を反らせて図書館の高い天井を見上げた。
そこから導き出される共通点は、こうだ。

『6体の怪物はすべて、エキドナから生まれた』

これが答えだろう、間崎京子。
紙をめくる乾いた音が周囲から響いている。
深いもやがかかっていた頭が、ほんの少しだけクリアになった気がする。
「共通点を探してみてね」とあの時あいつは言った。
そしてその謎掛けの答えからあの女のメッセージが浮かび上がってくる。
氷細工のような顔の口元がイメージの中で滑らかに動き、私をそれを読み取る。

『エキドナを探せ』

溜息をついた。なんて回りくどいんだ。
あの女に次会った時にはなんとかして殴ってみよう、と思った。
その時、静かだった館内にちょっとした騒ぎが起こった。
立ち上がって駆け寄ると、私がさっきまで本を漁ってた書棚から、大量の本が落下して床にぶちまけられている。
近くにいたらしいパーマ頭のおばさんが狼狽して、自分じゃない、としきりに訴えている。
係りの人間が飛んで来て、本を拾い始めた。
その人の「いい加減にしてくださいよ」という、誰にぶつけていいのか分からないようなうんざりした声を、私は確かに耳にした。

『転』

図書館からの帰り道、私はクレープを買い食いしながら商店街の路地に佇んでいた。
夕焼けがレンガの舗装道を染めて、様々なかたちの影を映し出してる。
道行く人の横顔はどこか落ち着かないように見える。
みんな心の奥深い場所で、説明しがたい不安感を抱いているようだった。
そう思った私の目の前を女の子たちの笑い声が通り過ぎる。
息を吐いて、最後の一口を齧る。
どの人の表情も、私の心の投影なのかも知れない。
ロールシャハテストだ。
笑い顔以外に、すれ違うの人の気持ちを理解できる機会なんてまずないんだから。

結局あの図書館の本の落下の原因はわからないままだった。
こんなことが、昨日の水曜日から今日にかけて、街の至る所で起きているらしい。
私は起こっていることより、この一連の出来事の向かう先のことが気に懸かっていた。
いったいどういうカタルシスを迎えるのか。
そう考えながら目を閉じると、何かをせずにはいられない気持ちになるのだった。

『エキドナを探せ』

その言葉に、糸口を見出せそうな気がする。
さっきからそのことばかり考えている。
クレープの包みをクズ籠に放る。
私にこのヒントを投げ掛けた間崎京子は、街中で起こっている怪異を怪物に例えた。
そしてその怪物たちを生み落とすのは蝮の女エキドナだ。
これがいったい何の隠喩なのか定かではない。
定かではないが、私はこう考えている。
少なくとも間崎京子は、一見バラバラに発生しているように見える怪奇現象が単一の根っこを持っていると思っている。
それも、ナントカ現象だとかナントカ効果だとかといった包括的ななにかではなく、信じがたいことにそれはたった一つの”人格”と言えるような存在に収束されているような気がするのだ。
ハ。
こんなこと、誰かに話せるようなものではない。

つくづく一人が好きだな。
暗鬱な気持ちが、帰り道をやけに遠くさせた。
家に帰り着き、玄関の前に立った時から気づいていたが、やはりその夜の晩御飯はカレーだった。

「そんなに水ばかり飲んでると消化が悪くなるわよ」

という母親の小言を聞きながらカレーをスプーンでかき込み、水で流し込む。

「今朝どっかで工事してた?」

さりげなく聞いてみたが、「そういえば、どこでやってのかしらね」と母親が首を傾げる。
父親は「知らん」と言いながら夕刊を読んでいる。
妹は身体を反転させて皿を持ったまま居間のテレビを見ている。
父親が読み終わるのを待ってから夕刊に目を通したが、特に変わった記事はなかった。
それから自分の部屋に引きあげる。
明かりとラジオをつけて、部屋の真ん中。
隅に転がっていたクッションを引き寄せる。
なにをすればいいのか正直分からない。
とりあえず昨日ファフロツキーズの項だけ読んで投げていた『世界の怪奇現象ファイル』を通して読んでみることにした。
ラジオがくだらない話題でけたたましい笑い声を出し始めたのでスイッチを消し、適当なCDをかける。
そして黙々と頁をめくる。
どこかで聞いたことがあるような怪奇現象ばかりが列挙されているが、情報の量と質にはかなり偏りがあり、ファフロツキーズの項のような詳細な解説はあまりなかった。
そんな中、CDの7曲目が過ぎたあたりだっただろうか。
私は半分読み飛ばしかかっていた文の中になにか引っかかるものを感じ、思わず姿勢を正す。
それは『ポルターガイスト現象』の項だった。

「……ポルターガイスト現象の例としては、室内にバシッという正体不明の音が響く、手も触れていないのに家具が動く、皿が宙に舞う、スイッチを入れていない家電製品が作動するといった目に見えない力が働いているかのようなものから、何もない空間から石や水が降ってきたり、火の気のない場所で物が発火したりといった怪現象などが挙げられる……」

私は緊張した。
石降り現象!
そういえば、ポルターガイスト現象を題材にしたドラマだか映画だかで、室内に石が降って来るという場面を見たことがあった。
完全に失念していた。
間崎京子はこれを言っていたのだ。
『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるなと。
自分の間抜けさに腹が立つ。
石の雨が降るという現象には、別のアプローチの方法があったのだ。

「クソッ」

本を投げて立ち上がる。
ポルターガイスト現象の項はあきらかにやっつけ仕事で、情報量としては私でもおぼろげに知っていた程度のことしか載っていなかった。
鞄からアドレス帳を引っ張り出して、目当ての番号を探す。
中学時代の先輩だ。
部活が同じだった。
彼女は子どものころに身の回りでポルターガイスト現象としか思えないような不可解な出来事が続いたらしく、やがてそれが収まった後もなにかと話のタネにしていた。
散々同じ話を聞かされたので内心ウンザリしていたものだが、2年ほど経った今では案外忘れてしまっている。

「晩に済みません。しかもいきなりで。ちょっと教えてもらいたいことがあるんですが」

突然の電話にも関わらず彼女は私を懐かしがって、「電話より、今からウチ来る?」と言ってくれた。
「すぐ行きます」と言って電話を切り、廊下から居間の方に向かって「ちょっと出てくる」と大きな声で告げてから家を飛び出した。
生ぬるい空気が夜のしじまを埋めている。
一日、熱エネルギーを吸収したアスファルトがまだ冷めないのだ。
自転車に乗って、住宅街の路地を急ぐ。
街灯がぽつんとある暗い一角に差し掛かった時、コンクリート塀の傍らに設置されている公衆電話が目に入った。
何故か昔から苦手なのだ。
小さいころに「お化けの電話」という怪談が流行ったことがあり、ある9桁の番号に公衆電話から掛けるとお化けの声が受話器から聞こえてくるという、他愛もない噂だったのだが、私は近所の男の子と一緒にこの公衆電話で試したことがあった。
記憶が少し曖昧なのだが、たしかその時はその男の子が「聞こえる」と言って泣き出し、受話器をぶんどった私が耳をつけるとツーツーという音だけしか聞こえなかったにもかかわらず、その子が「だんだん大きくなってきてる」と喚いて電話ボックスから飛び出してしまい、取り残された私も怖くなってきて逃げ出してしまった。
それ以来、この道を通る時には無意識にその電話ボックスから目を逸らしてしまうのだ。
気味は悪かったが、今は何ごともなく通り過ぎて先を急ぐ。
先輩の家には15分ほどで着いた。
玄関先で待っていてくれたので、チャイムを鳴らすこともなく家に上げてもらう。

時計を見ると夜の9時を回っていたので「遅くに済みません」と恐縮すると、母親が現在別居中で、父親は仕事でいつも遅くなるから全然ヘイキ、と笑って話すのだった。
兄弟姉妹もいないのでいつもこの時間は家に一人だという。
先輩の部屋に通されて、クッションをお尻に敷いてからどう話を切り出そうかと思案していると、彼女は苦笑しながら私を非難した。

「同じ学校に入って来たのに、挨拶にも来ないんだから」

ちょっと驚いた。
中学時代の2コ上の先輩だったが、そういえば高校はどこに進学したのか知らなかった。
まさか同じ学校の3年生だったとは。
向こうは何度か学内で私らしき生徒を見かけたらしく、新入生だと知っていたようだった。
しばらく学校についての取りとめもない話をする。
正直、早く本題に入りたかったのだが先輩の話は脱線を繰り返している。
ただひとつ、「校内に一ヶ所だけ狭い範囲に雨が降る場所がある」という奇妙な噂話だけはやけに気になったので、今度確かめてみようと密かに心に決める。

「で、聞きたいことってなに?」

先輩が麦茶を台所から持ってきて、それぞれのコップに注ぐ。
ポルターガイスト現象のことだとストレートに告げた。
先輩は目を丸くして、「ピュウ」と口笛を吹く。

「あれ? あなたにはあんまり話してなかったっけ?」

いや、聞きました。
耳にタコができるくらい聞かされました。

先輩が小学校4年生くらいのころ、家の中でおかしなことが立て続いて起こったそうだ。
例えば食器が棚から勝手に飛び出し地面に落ちて割れたり、窓のカーテンが風もないのにまくれ上がったり、部屋のどこからともなく何かがはじけるような音が断続的に響いたり、ある時など家族の目の前で花瓶に挿していた花がフワフワと宙に浮き始め、いきなり凄い勢いで天井に叩きつけられたこともあったらしい。
それが数日置きに何週間も続き、ある時パタリと止んだかと思うとまたしばらくして急に起こり始める。
困惑した両親はついに有名な祈祷師を紹介してもらい、家のお払いをしてもらった。
その後、物が動いたりといったことはなくなり、何かがはじけるような物音や屋根裏を誰かが這っているような音は時々あったそうだが、やがてそれも起こらなくなった。
今お邪魔しているこの家でのことだ。
思わず部屋の天井の辺りを見上げたが、特になにも感じる所はなかった。

「聞きたいのは、石が降ってきたことがあったかどうかです」
「石? 家の中に?」
「家の外でもいいですけど」

先輩は記憶を辿るような視線の動きを見せた後、「なかったと思う」と言った。

「じゃあ石じゃなくてもいいですけど、家の中になかったはずのものがどこからともなく現われたりしたことは?」
「……お皿とか果物とか色々飛んだり落ちたりしてたけど、全部家にあったものだからなあ。ないモノが出てくるって、なんか凄いね。サイババみたい」

先輩は面白がって、最近テレビで見たというサティア・サイ・ババのアポート(物品引き寄せ)について喋りだす。

「こんなしてさ、手のひらぐるぐる振ってから、出しちゃうのよ」

テーブルの上にあった鋏を手に持ってその様子を実演してみせてくれる。
私は少しがっかりした。

「そんなにポルターガイストとかに興味あるの? あたしも最近は全然だけど、むかし気になって色々調べたから、そっち系の本があるよ。読みたいなら貸すけど」

「是非」と言うと、先輩は「ちょい待ち」と部屋の本棚をゴソゴソと探し回って何冊かの本を出してきてくれた。
いずれもオカルト系の雑誌の類だ。
それぞれポルターガイスト現象に関する所に付箋がついている。
礼を言って、おいとまをしようとした時、先輩が私の顔をまじまじと見つめてきた。

「あなた、ちょっと変わったね」

先輩こそ剣道部で後輩をしごいていたころからしたら、随分肉がついてしまってるじゃないですか。
そんなことを婉曲に言ってみたが、先輩は自分のことはまったく耳に入らない様子でブツブツと口の中で呟いている。

「変わったというか、変わっている、途中、みたいな」

その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた気がして振り返りそうになる。

「あ、ごめん。気にした? まあ、また今度ゆっくり話そ」

なんだろう。今の感じ。
その嫌悪感を、私は”知っている”。
そんな気がした。

玄関を出て、家の前で見送ってくれる先輩に最後に一言だけ問いかける。

「最近、怖い夢を見ませんでしたか」

先輩は顔を強張らせたかと思うと、柔和な笑みでそれをすぐに包み隠す。

「そう言えば今朝がた見たけど。変な夢だったな。ありえない夢」

オヤスミ。と手を振って先輩は家の中へ消えていった。
誰もいない、たった一人の家に。
私は自転車に乗っかると全速力で漕ぎ出した。
家に帰り着くのが遅くなるにつれて母親の小言の量が比例して増えるのだ。
星を、空に見ながら夜の道を急いだ。

『ポルターガイスト現象の事例として名高いのは1848年、ニューヨーク州ハイズビルのフォックス家を襲った怪現象がその筆頭として挙げられる。また近年では1967年、ドイツのローゼンハイムにあるアダム弁護士事務所で起きた事件や、1977年以降、ロンドン北部エンフィールドのハーパー家で起きた怪異も広く知られている』

そんな説明を読みながら、ふと、学校の教科書もこのくらい熱心に見ていたらもっと成績も上がるだろうに思い、自虐的な笑いが込み上げて来る。
もう時計は夜の12時を回っている。
先輩から借りた本をさっそく読んでみたのだが、かなりの分量がある。
明日も学校があるし、適当なところで切り上げて早く寝た方が良いと分かっているのだが、何故か気が逸って手を止められない。

ハイズビル事件ではフォックス家の次女マーガレット(15)と三女ケイト(12)の周辺で壁や天井を叩くような奇妙な物音が聞こえ始め、その物音とある合図によって交信を図ることで霊とのコミュニケーションをとることに成功したと言われている。
ローゼンハイム事件では電話機の異常から始まり、蛍光灯の落下や電球の破裂、金庫やオーク材のキャビネットが独りでに動くなどの怪現象が起こった。
エンフィールド事件では娘のジャネット(11)が部屋で聞いた「何かを引きずる音」に端を発し、おはじきや積み木が空中を飛んだり、タンスが独りでに数十センチも動いたり、ジャネットが寝ようとするとベッドからトランポリンのように投げ出されるといった不可思議な出来事が1年あまりも続き、その間に近所の住民やマスコミ、ソーシャルワーカー、イギリス心霊現象研究協会のメンバーなど延べ30人以上の人間がこれらを目撃したと言われている。
その他の様々な事例の紹介を見ていくと、本の総論として解説されるまでもなく、かなりの割合でその現象の焦点になっているのがティーンエイジャーの若者、それも女性であることに気づく。

ローゼンハイム事件では弁護士事務所の秘書、アンネマリー・シュナイダーが現象の中心にいたとされているが、彼女は当時まだ18歳であり、怪現象は彼女が出勤している時にばかり起こっていることを超心理学研究所のハンス・ベンダー教授に指摘されている。
その後アンネマリーが解雇されると怪現象はピタリと収まった。
ポルターガイスト現象とはその名の通り、ポルター(騒がしい)・ガイスト(霊)の起こす現象とされることが多かったが、近年では様々な解釈がなされている。
低周波や水撃音などで科学的に説明しようとするものや、売名目的のでっちあげとする説、また超心理学者などはこれを超常現象の一種であると位置づけている。
その超常現象説では現象の焦点になっているのが若年者であることに注目し、精神的に不安定である思春期前後の彼女らが抑圧されたフラストレーションの捌け口として、無意識的にサイコキネシス現象を発動しているのではないかとした。
超心理学者たちはこの現象をRSPK(反復性偶発性念力)と呼ぶ。
無意識に起こるPKなので、その当事者も基本的には自らを被害者であると認識している。
エンフィールド事件では焦点となったジャネット自身、ベッドから跳ね飛ばされて寝れないという被害を受けている。
その瞬間を捉えたという写真が本に掲載されていたが、なんともコメントしづらい写真だ。
宙には浮いているのだが、自分で跳んでいるようにも見える。

「RSPKか」

ボソリと口にすると、なんだか面映い。
そんな変な言葉で説明するより、もっと単純な解釈があるように思えてならない。
思春期の子どもがいる家で起こった現象なら、真っ先にイタズラじゃないかと疑うべきだろう。
実際ハイズビル事件ではフォックス姉妹が後に、あれは関節を鳴らすなどした自分たちのトリックだったと告白しているらしい。
一つの事例がトリックだったからといってすべての事例がトリックだと断言するのは乱暴だが、疑われてしかるべきだろう。

ただローゼンハイムの事件では事務所の備品が破損したり、掛けていないはずの電話で多額の電話代を請求されたりといった実害があったために電気系統の技術者や物理学者、警察などが調査にあたったがいずれも合理的な説明を出来なかったという。
ノイローゼ気味だったという秘書のアンネマリーが起こしたイタズラだとするには、複数の人間の目の前で動いた180キロのキャビネットは重すぎた。
そのためローゼンハイム事件は最も信憑性の高いポルターガイスト現象の例とされているそうだ。
信じるか、否か。それが問題だ。
本を閉じ、昨日一日でこの街に起こった出来事をひとつひとつ考えてみる。

音だけの工事。
棚から飛び出した図書館の本。
コンビニ内の怪現象。
駅前のビルの奇妙な停電。
掘り出された並木。
ガソリンスタンドの揺れる給油ホース。
針がでたらめに動くアーケードの大時計。
そして石の雨。

いずれもポルターガイスト現象の例に含まれてもおかしくない内容だ。
逆に言うと、ポルターガイスト現象がそれだけ間口の広い、言わばなんでもありの括り方をされているということだろう。
先輩は経験しなかったという石が降るという現象も、過去の事例を紐解くと散見できた。
石降り現象はどちらかというと心霊現象というより、RSPK説を補強するようなものと言えそうだ。
ただ昨日街で起きた事件のうち、ポルターガイスト現象と呼ぶには少しおかしい部分がある。
それは工事の音と、並木、大時計、そして石の雨の4つだ。
これらはいずれも家屋の中で起こったものではない。ポルターガイスト現象は基本的には家屋の中で起こるものとされているのに。

あるいはガソリンスタンドの事件も屋外としてもいいかも知れない。
イタズラにせよ、RSPKにせよ、屋外で影響を成した「焦点」とはいったい誰なのか。
大時計はなにか仕掛けが出来たとしても、短時間で誰にも気づかれずに並木を掘り起こすことと、100メートルにも渡って路地に石の雨を降らせることは一体何者に可能だというのだろう。
そしてなによりこれらが昨日のたった一日で起こった出来事だという事実。
私の中で、ある気味の悪い仮定が生まれつつあった。
その仮定は私の妄想の深い霧の中から、奇怪なオブジェとして現れてきた。
まだそのすべてが見えているわけではない。
けれどわずかに覗くそれは、どうしようもなく不吉な姿をしている。
昨日一日で起きた怪現象が、それぞれ偶発的な個別のポルターガイスト現象でないとすると……
私は立ち上がり、窓のカーテンの隙間を指で広げる。
その向こう、闇の中にはまだ起きている家の明かりがぽつぽつと点在している。
それは夜の海に浮かぶ儚い小船の明かりのように見えて、私を心細い気持ちにさせる。
目を閉じて心を落ち着かせ、夜のしっとりとした甘い匂いを鼻から吸い込む。
間崎京子は『エキドナを探せ』と告げている。
私は探さなくてはならないのだろうか?
怪物たちのマリアを。

怖い夢を見ていた気がする。
次の日、金曜日の朝。
私は寝不足の瞼を擦りながら目覚まし時計を叩く。
昨日は何時に寝たのだったか。
全身がだるい。
そして寝汗をかいている。
ベッドの上に胡坐をかいて、髪の中に指を突っ込む。
ふつふつと記憶が蘇ってくる。

私は明け方の夢の中で、母親を殺した。
昨日の夢と同じだ。

夢の中で私は足音を聞く。
そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。
顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる。
胸には憎しみと悲しみに似た感情が混ざりあって渦巻いている。
血を間欠泉のように噴き出して崩れ落ちる母親を見ながら、私は自分自身の吐く息をどこか遠くから吹く隙間風のように無関心に聞いている……

「しまった」

ベッドの上で、搾り出すように言った。
ただの夢ではないのは明らかだ。
まったく同じ夢。
これ自体が、怪現象の一部なのだ。
あるいはその本体に近いなにか。
そもそも私がこの街に起こりつつある異変にはっきり気づいたのがこの夢からだった。
怖い夢を見たという記憶だけあるのに、その中身を思い出せない。
そんな人間が恐らくこの街のいたる所にいたはずだ。
私もその一人だった。
その夢が朝の光の中に残るようになった。
その意味をもっと真剣に考えるべきだった。
クラス中で囁かれる奇妙な噂話に気を逸らされて、誰にも夢の話を聞いていない。
まさにその夢を忘れなかった朝から、まるで手のひらを返したように怪異が街に噴き出し始めたというのに。
最短でこの怪現象の正体に迫る方法を私は見過ごしてしまっていた。
このロスが致命的なものにならないことを祈るしかない。

「クソッ」

昨日から数えて何度目かの悪態を枕にぶつける。
致命的?
その無意識に浮かんだ言葉に私は思わずゾクリとする。
直感が、この街になにか恐ろしいことが起ころうとしていることを告げているのか。

バシン、と両手で頬を張る。
パジャマを脱ぎ、急いで服を着る。
するすると皮膚の上を走る布の感触。
頭は今日するべきことを冷静に考えている。
制服に着替え終えるとドアを出て、まず妹の部屋に向かった。

「入るぞ」

妹はベッドに腰掛けたままで、もぞもぞとパジャマを脱ごうとしている最中だった。

「な、なに」

警戒する様子にも構わず、前に立って見下ろす。

「夢を見たか」
「はあ? 夢? 見てない」

たぶん。と付け加えた妹は訝しげに私の目を見る。
最近母親がやたらムカつかないか、と聞いてみたが「別に」との答え。
OK。嘘をついている様子はない。
さっさと部屋を出る。
つまり受け取る側にも強弱があるのだ。
受信アンテナの性能とでもいうのか。
波長が合ってしまった人間だけが、強制的にある感情を植えつけられている。
階段を降り、リビングに向かう。
台所では母親が冷蔵庫から牛乳を取り出している。

「おはよう」「おはよう」

自然な挨拶が交わされる。
大丈夫だ。
母親を憎む気持ちは収まっている。
少なくとも殺してしまうような角度にメーターはない。
無事にパンと牛乳の朝食を終え、急いで家を出る。
昨日の工事の音は、今朝は聞こえない。
今日も暑くなりそうな陽射しの強さだ。
歩きながら朝刊の記事のことを考える。

〔UFOか? 市内で目撃相次ぐ〕

そんな見出しに、潰れたような写りの悪い写真が添えられていた。

昨日の午後6時過ぎ、北の空に謎の発光現象が起こるのを多くの人が観測したという内容だった。
私が図書館にいた時間帯か。
見たかったな。
けれどこんな事件にはもうあまり価値はない。
ばら撒かれるピースに顔を寄せて覗き込んでもなにも見えてこない。
私は昨日得た強引な仮説に基づいて、この怪現象の全体像を捉えようとしているのだから。

学校に着いた。
校門の内側で人だかりが出来ている。
近寄ると校内の地面に20センチほどの深さの凹んだ跡があった。
その周囲1メートル四方にまるで巨大なハンマーで力任せに叩いたようなヒビが入っている。
昨日まではなかった。
夜の間にこうなっていたらしい。
教師たちに追い払われ、みんなヒソヒソと口を寄せながら昇降口に吸い込まれていく。
不思議だがこれもただのノイズのようなものだ。
実体ではない。
捉われてはいけない。

教室に入ると、いつにも増して妙にざわついた雰囲気が辺りを覆っている。
朝礼で担任の教師が生徒に向かって「浮わついているようだから、気を引き締めるように」という、まったく具体性のない説教を自信なさげに口にした。
先生自身なにをどう注意すればいいのか分からないのだろう。
1時間目の授業は生物だった。
内容に全然集中できない。
(今日は金曜日か)
休日よりも平日の方が情報収集には向いている。
今日一日でどれだけ情報を集められるかが勝負だ。
1時間目が終わり、休み時間に入る。
さっそく今朝の校門のそばの凹んだ地面についての噂話が始まる中を強引に割り込むようにして私は次々と質問をしていった。
「怖い夢を見なかったか」と。
誰も戸惑いながら顔を強張らせて答える。
多くは「見てない」という答えだったが、ぽつりぽつりと「見た」という返事も混ざっていた。

普段クラスメートとは距離を置いている私が、ズカズカとプライベートに踏み込んで来るのを不快そうにする連中から、それでもなんとか重要な部分を聞き出す。

「見たよ。お母さんを殺しちゃう夢」

そんな答えをした子が、複数いた。
やっぱりだ。
みんな同じ夢を見ている。
細部まで同じ。
ドアのチェーンを外して、迎え入れた母親に刃物で切りつける夢だ。
私は昨日今日と繰り返された夢の中で現実と異なる場面が2度も続いたことが引っ掛かっていた。
私の家の玄関のドアには、チェーンなんかないのに。
そして背伸びをしてそのチェーンに手を伸ばしたこと。
これは明らかにおかしい。
170センチを超える私が背伸びしなくてはいけないなんてことはないはずだ。
子どものころに植えつけられた記憶でもない。
ずっとあの家に住んでいるのだから。
だから、あの背伸びをしてチェーンを外す感覚は、私の中ではなくどこか外側からやって来たものなのだ。
そう。例えば、母親を憎み、殺したがっている子どもの意識が、あるいはそのために見ている母親殺しの夢が、その子の小さな頭蓋骨から漏れ出て、夜の闇を彷徨い、侵食し、融解し、私たちの夢の中へと混線するように入り込んで来るのだ。
それは夜毎に私たちの深層意識へ吐き気のするような暗い感情をひたひた、ひたひたと刷り込んでいく。
私は教室の真ん中で、肘を抱えて動けなくなった。
怖い。
誰かこの震えを止めてくれ。
クラスメートたちの視線が容赦なく突き刺さる。
変なヤツだろう。
私もそう思う。
しばらく固まったまま呼吸を整える。
恐怖心が霧のように散っていくのを待つ。

よし。
まだ頑張れる。
そして歩き出す。

その日の昼休み。私は自分の席にノートを広げ、これまでに集めた情報を整理していた。
まず聞いて回った「怖い夢」について。
分かったことはみんなかなり以前から「怖い夢を見ている」という漠然とした記憶があったこと。
そして昨日、つまり木曜日の朝、私のように初めてその夢の内容を覚えていたという子が何人かいる。
その夢は母親を殺す夢。
覚えている鮮明さに差はあっても、ほぼ同じ内容の夢であることは間違いない。
つまり、現実の玄関のドアにチェーンがある子もない子も一様に、夢の中では玄関にチェーンがあり、それを外して母親を迎え入れている。
母親の顔はそれぞれの母親のものだ。
けれど間違いなく自分の母親の顔だったかと問われると、みんな口ごもる。
それは”母親”というイメージそのものを知覚し、朝起きてからそれを思い出そうとしたときに自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、記憶の中で再構築が行われているということなのかも知れない。
私も夢の中でドアを開けて入って来る母親の顔に、いや、その表情に違和感を感じている。
本物そっくりだけれど輪郭の定まらない仮面を着けているような、違和感。
『違和感』とノートに書こうとして、漢字が分からず直しているうちにグシャグシャにしてしまい、目玉をつけて毛虫にした。
みんな母親を殺す夢を見たことを周囲に話していない。
確かに他人に話しても気分の良いものではないだろう。
だから、お互いが同じ夢を見ていることをまだ知らない。
どうする? 注意を喚起するべきか。
それはすぐに却下する。
意味がない。
せめてこれから何が起こるのか、あるいは何も起こらないのか、分かってからだ。

もう一つ重要なことがある。
「怖い夢」を見ていたという漠然とした認識があった子もいれば、そんな認識がない子もいる。
そして認識があった子の中でも、昨日の木曜日から夢を覚えている子もいれば、今朝初めて覚えていたという子もいるし、そしてまだ「なんか怖い夢を見たけど忘れちゃった」という子もいるのだ。
この個人差が、あるいは霊感と呼ばれるものの差なのかも知れない。
けれど何故か単純にそう思えないのだ。
その”霊感”が影響しているのも間違いないだろう。
でも、ここにはなにか別の要素があるように思えてならない。
私は鞄から、折り畳んで突っ込んでおいた市内の地図を取り出す。
そして一昨日から起こっている様々な怪現象の出現ポイントを地図上にオレンジ色のマーカーで落としていく。
昨日一日にも色々と起こっていたらしい。
これまでの休み時間に恥も外聞もなく掻き集めた情報だけでもかなりの数の異変が確認できる。
風もない緑道公園の上空を、大きな毛布がふわふわとゆっくり飛んでいたかと思うと急に落下して川に落ちたという事件。
資格試験のための予備校で、講師のマイクが原因不明の唸り声を拾ってしまい授業にならなかったという事件。
住宅街の電信柱が、誰も気づかない内に引き抜かれ、その場でコンクリート塀に立てかけられていたという事件。
こんな奇妙な出来事が頻発しているというのだ。
なかにはただの思い違いや、誰かのイタズラが混じっているかも知れない。
でもひとつひとつに取材をして確認していく余裕はない。
私はとにかくそうした情報があった場所を地図に書き入れ続けた。

「出来た」

顔をノートから離し、俯瞰して見る。
点在するオレンジ色。
一見なんの法則もないように見えるそれを慎重に指で追う。
一番右端、つまり東の端にある点にシャーペンの芯を立て、その左斜め上にある点まで線を引く。
そのままスムーズに伸ばすと次の点がある。
紙を滑るシャーペンの音。

そうして地図上の一番外側のオレンジ色を結んでいくと、そこには少しいびつな格好の「円」が現れた。
他のオレンジ色はすべてその内側にある。
想像が現実になっていくことにゾクゾクする。
次に私は家から持って来た同級生の住所録を鞄から取り出す。
まさかと思いながらも昨日立てた仮説に役立つかも知れないと用意したのだが、さっそく使う場面が来た。
初めて開く住所録を片手に、今日聞いた「怖い夢」を見ていたという子の家がある辺りを、ひとつひとつ蛍光ペンで塗っていく。
木曜日に見た子。金曜日に見た子。そしてまだ内容を思い出せない子。
それぞれ赤、青、緑の3つの色を使って塗り分ける。
それらの色とオレンジ色との関連性は見つけられない。
接近しているのもあれば、全く離れているものもある。
オレンジの円の外側に位置しているもさえある。
けれど赤、青、緑には明らかに相関性があった。
赤が最も円の中心に近く、青、緑の順にそこから離れていっている。
早い時期に夢を思い出せた人ほど、円の中心に近い場所に住んでいるのだ。
ふぅ、と息をついてペンを置く。
昨日、ポルターガイスト現象についての本を読みながら私は考えていた。

もし仮に、街中で起きた怪現象がそれぞれ個別の現象でないとしたら。
もし仮に、この怪現象の焦点となっているのがたった一人の人間だとしたら。
もし仮に、通常、閉鎖的な家屋の中でしか影響を及ぼさないはずのポルターガイスト現象が、壁を越えて屋外までその力を及ぼしているのだとしたら。
そしてもし仮に、ポルターガイスト現象の正体が、RSPK、反復性偶発性念力による無意識の自己顕示性と暴力性の発露だとしたならば……

とんでもない力だ。
そら恐ろしくなるような。
市内全域のほぼ半分をその影響下に置いてしまっているなんて。
寒気が頭の芯にまで這い上がってくる。

『エキドナを探せ』

間崎京子の声が脳裏を掠める。

怪現象を怪物になぞらえたあの女は、非常階段で話をした昨日のあの時点で、今の私と同じ推論に達していたのだろうか。
(まさかあいつが)と思ったが、住所録に載っている間崎京子の住所は市内の外れにあり、オレンジの円の外側に位置している。
違うな。あいつは違う。
なにより「怖い夢」との整合性が取れない。
恐らく、想像に想像を、いや妄想を重ねているが、「怖い夢」を見ている主体こそがエキドナなのだろう。
彼女が見ている夢が目に見えない霧のように夜の街に漏れ出て、それを眠っている私たちの脳のどこかがキャッチする。
そしてまるで自分のことのように、悪夢としてそれが再生される。
その漏れ出る夢が急に強くなり、影響する半径を広げている。
そのタイミングは怪現象が街に噴出し始めたのとほぼ同じだ。
私は地図に目を落とし、赤、青、緑の順に外へ広がっていく点を見つめる。
夜毎に蓄積されていく身に覚えのない母親への憎悪。
そしてその悪意が、殺意に変わったとき、一体なにが起こるのか。
母親の首筋から吹き出す鮮血の記憶。

危険だ。
以前から漠然と感じていた不安などより、はるかに。
そして多分エキドナは小さな子どもだ。
ドアのチェーンを外すために背伸びをしているから。
彼女はなんらかの理由で母親を憎み、その状況を打破できないでいる。
そのストレスがポルターガイスト現象の原因となっている。
彼女?
そこまで考えて、ふと引っ掛かるものを感じた。
自然と浮かんだ三人称だったが、これはギリシャ神話に出てくる怪物エキドナが女だったからだろうか。
いや、私は”なった”から分かるんだと思う。
夢の中で、暗い部屋に一人で母親を待っている子どもは女の子だ。
その子は、今もそこにいるのかも知れない。

(見つけたい)
そう思った。
見つけたとしても、救えるとは思わない。
私もただの高校生1年生にすぎないのだから。
(でも見つけたい)
イタズラにせよ、RSPKにせよ、ポルターガイスト現象の焦点になっているティーンエイジャーたちの心の叫びは、たぶん一つだ。

『ぼくを見て』『わたしに気づいて』

そんな声にならない声が世界には満ちている。
急に悲しい気持ちが胸にあふれてきて、思わず席を立った。
教室では、昼のお弁当を食べ終わったクラスメートたちがそれぞれの群れを作っておしゃべりに興じている。
誰も私を見ていない。
群れを避けるように一人でトイレに向かう。
分かっている。
クラスメートたちとの間に壁を作っているのは私自身だ。
でも誰もその内側に入れたくない。
一人でいる限り、誰にも裏切られない。
廊下を歩く上履きの音。
後ろからついて来ているもう一つの音に振り返る。

「高野さん」

高野志穂はその呼び掛けにビクリとして立ち止まった。
同じような光景を最近見た気がする。
軽いデジャヴ。

「なにか用?」

つっけんどんな口調で問うと、彼女は「いや、あ、別に」と言って口ごもってしまう。
それでも顔をスッと上げたかと思うと、「最近、少しおかしいよね」と言った。
おかしいとも。
クラスの連中のように噂話がしたいんなら、他を当たってくれ。
そんな意味の言葉を口にすると、彼女は手のひらをこちらに向けて振りながら言う。

「あ、そうじゃなくて、山中さんが。なんていうか。いつもはもっと、周りに興味がないっていうか。昨日もだけど、今日も他のコに話し掛けてたし」

イラッとした。
そんなこと、こいつになんの関係があるんだ。
私の表情に苛立ちを読み取ったのか高野志穂は「ゴメン」と頭を下げ、それでも意を決したような顔で続けた。

「山中さん、なにか背負い込んでるように見えるから。もし手伝えることがあったら、手伝うよ」

そう言ったあと、彼女はもう一度「ゴメン」と頭を下げて、踵を返そうとした。
その瞬間、デジャヴの正体が急に分かった。
あのときも高野志穂は廊下で私に話し掛けてきた。
そして『私も見たよ。怖い夢。……山中さん。ちょっと占ってくれないかな』と言った。
あれはいつだった? クラスメートが「思い出せない怖い夢」について話しているのを初めて聞いた時だ。
水曜日? いや、水曜日は学校を抜け出して石の雨の現場を見た日だ。ということはその前。火曜日だ。
私の中で、微かに感じていた引っ掛かりが急に膨らんでいく。
高野志穂は占って欲しいと私に頼んだ。何を? 当然夢のことだ。
そして、その時点で彼女は私にトランプだかタロットだかで占ってもらうだけの”材料”を持っていたことになる。

「高野さん、お母さんを殺す夢を見た?」

高野志穂は驚いた顔をしたあと、コクリと頷く。

「火曜日の朝が初めて?」

彼女は少し首を捻り、思い出す素振りをしたあとで口を開いた。

「月曜日」

それを聞いた瞬間、私は唾を飲んだ。
みんなより、そして私より、3日も早い。
私が初めて夢を覚えていたのが木曜日の朝なのだから。

「来て」

と言って私は彼女の手を取り、教室に引き返した。

彼女は「え? え?」と戸惑いながらもついてくる。
教室の中に入り、私の机の中から市内の地図を取り出して広げる。

「あなたの家はどの辺?」

やけにカラフルになった地図を前にして高野志穂は少し躊躇する様子を見せたが、私の顔を伺ってから人差し指をそっと下ろす。
オレンジの点で出来たいびつな円のほぼ中心を指している。
円は怪現象の目撃ポイントで構成されているけれど、サンプルが少なすぎるために正確な円を作れていなかった。
所詮クラスメートの噂話だけで集めた情報なのだ。
たまたま知らなかっただけの怪現象がもし円周の外側に付近にあったとすると、それだけで円の形が変わり、その中心のズレてしまう。
中心にこそエキドナがいるはずなのに。
だがこれでその中心の位置がほぼ判明した。
高野志穂の月曜日というのは”早すぎる”。
だから彼女は中心から極めて近い地域に住んでいる。間違いない。
大雑把に引いた円周の線からも、ほとんど矛盾がない。
そこにあるのは、急激に「怖い夢」と怪現象が影響を拡大していく前の、小さな円だ。
スッと彼女の指先の下にボールペンで丸をつけた。
エキドナはそこにいる。
怪物たちの小さなマリアが。
今も暗い部屋にうずくまって。
私は微笑みを浮かべようとして、それに少し失敗して、それでもなんとか笑って、言葉を乗せた。

「助かった。……ありがとう」

高野志穂は、よく分からないままに礼を言われたことに不思議な顔をしながらも、嬉しそうに「うん」と言った。

『結 (上)』

その日の放課後、私は3年生の教室へ向かった。
ポルターガイスト現象の本を貸してくれた先輩に会うためだ。
廊下で名前を出して聞いてみるとすぐに教室は分かった。
先輩は私の顔を見るなりオッ、という顔をして手招きをしたが、席まで行くとすぐに両手を顔の前で合わせて謝る。

「ゴメン。今日はこれから部活なんだ」

剣道は止めたんじゃなかったんですか、と聞くと「文科け~い」と言ってトランペットを吹く真似をする。
吹奏楽部かなにからしい。

「一つだけ教えてください」

そう言う私に、「ま、座りなさい」と近くの席から椅子を引っ張ってくる。
その周りでは帰り支度をする生徒たちが私を物珍しそうに横目で見ている。
多少は時間をとってくれるようなので、順序立てて聞くことにする。

「先輩の家で起こったポルターガイスト現象は、イタズラでしたか?」

先輩は目を丸くしてから笑う。

「いきなりだな。でも違うよ。私だって驚いてた。ホントに目の前で花が宙に浮かんだりしたんだ」
「じゃあ原因はなんですか?」
「……あの本もう読んだんだ? 私に聞くってことは」

頷く。

「まあ、知ってると思うけど、あたしの家って両親が仲良くないワケよ。今も別居してるし。そんで小学4年生のころって、一番バチバチやりあってた時期なのよ。家の中でも顔あわせれば喧嘩ばっかり。子どもの目の前で酷い口論してたんだから。まるであたしがそこに居ないみたいに」

私のイメージの中で、シルエットの男と女がいがみ合っている。
そしてその傍らには10歳くらいの少女が怯えた表情で身体を縮ませている。

「超能力だか心霊現象だか知らないけど、たぶん原因はあたしなんだろうと思う。今となっては、だけど」
「じゃあ。どうやってそれが収まったんですか」

「昨日言わなかったっけ? 祈祷師が来たの。家に。そんで、ウンジャラナンジャラ、エイヤーってやったわけよ。そしたら変なことはほとんどなくなったな」
「祈祷師がポルターガイストを鎮めたんですか」

「……なんかいじわるになったね、あなた。分かってるクセに。
たぶん、満足したんだと思うよ。あたしが。『親がここまでやってくれた』って。
今でも覚えてるもん。両親が二人とも、祈祷師の後ろで必死になって手を合わせて拝んでんの。
それで、お祈りが終わった後にあたしの頭を抱いて『これで大丈夫だ』って二人して言うの。
それであたしもなんだかホッとして、ああこれで大丈夫なんだ、って思った。
最初は二人ともラップ音とか、お皿が割れたりしたこととか、なんでもないことみたいに無視してたのよ。
気味が悪いもんだから、気のせいだ、見てない、聞いてないってね。
それをきっとそのころのあたしは、自分を無視されたみたいに感じてたのね。
だから余計に酷くなっていったんだと思う」

結局、思春期の子どもが起こすイタズラと同じなのだ、と私は思った。
自分を見て欲しくて、構って欲しくて、とんでもないことをしでかすのだ。
それで怒られることが分かっていながら、しないではいられない。
それはアイデンティティの芽生えと深く関係している部分だからなのだろう。
自分が自分であるために、身近な他者の視線が必要なのだ。

「どうしてこんなことが気になるの」

先輩の目が私の目に向いている。
先輩もこの街を騒がせている怪現象の噂くらい聞いているだろう。
それが、たった一人の人間が焦点となっているポルターガイスト現象なのだと聞かされたら、笑うだろうか。
私はそれに答えないまま、別のことを言った。

「先輩が見たっていう怖い夢は、もしかしてお母さんを殺す夢ですか」

空気が変わった。
おっとりとして優しげだった目元が険しくなる。

「どうして知ってるの」

その迫力に呑まれそうになりながら、私は言葉を繋ぐ。

「先輩が言っていた、『ありえない夢』って、別居していていないはずのお母さんを、家の玄関で刺し殺す夢だったんでしょう」

ガタン、と椅子が鳴って先輩が立ち上がる。

「あなた、占いが好きとか言ってたわね。そんなこと、勝手に占ったの?」

しまった。怒らせた。
ポルターガイスト現象の焦点となったことのある人間に、あの夢はどう映ったのか。
それを聞いてみたかっただけなのだ。そこになにかヒントが隠されていると思って。
けれど先輩は私の言葉を完全に誤解し、修正が効きそうにない雰囲気だ。
いや、誤解ではないのだろう。
他人に触れられたくない部分を土足で踏みにじったのは事実なのだから。

「ごめんなさい」

私は深々と頭を下げる。

「もういいでしょう。部活、行くから」

先輩のその言葉に私は引き下がらざるを得なかった。
知らない人ばかりの3年生の教室の廊下を俯いて帰る。足が重い。(今度、ちゃんと謝らなきゃ)と思う。
そういえば占いなんて暫くしていないことに気がつく。
間崎京子はどうやって真相に近づいたのだろう。
またタロット占いでもしたのだろうか?
それとも私のように目と耳を使って情報を集め、推理を重ねていったのか。
5時間目の休み時間に教室を覗いてみたが、あいつは席にいなかった。
朝、廊下ですれ違ったので多分また早退だろう。
そういえばすれ違い様に「母親を殺す夢を見たか」と問い掛けたとき、あいつは「見てない」と言った。
遅刻しそうだったので、去っていく後姿を引き止めはしなかったが、あれは本当だったのだろうか。
確かにあいつの家は地図上のオレンジの円の端の方にあり、まだ見た夢を思い出せない人たちを表す緑色の点が存在するエリアの中なのではあったが、この不思議な現象が単に距離によるアンテナの精度だけに依存している訳ではないのは明らかだ。
1年生のフロアに戻った私は、まだ帰宅せず残っている他のクラスの生徒たちから出来るだけの情報を得る。
そして地図を蛍光ペンで埋めていった。
やはりだ。
赤、青、緑という夢に関する3つの色はバームクーヘンのようにはっきりエリアで別れているけれど、中にはオレンジの円の外周にあたる緑のエリアの中にぽつりと青い点があったり、青のエリアに赤い点があったりしている。
そういう子に追加取材を試みるといずれも霊的な体験をよくするという言質が取れた。

この私自身、木曜日に初めて見た夢を覚えていたのに、住んでいる家は金曜日を表す青い点のある半径エリアにあるのだ。
おそらく、直観だか、霊感だかのイレギュラー的な個人の能力もここには影響している。
それを踏まえて、考える。
あの間崎京子がまだ夢を思い出せない緑の点のひとつなどで収まっているものだろうか。
分からない。
あの女独特の、”得体の知れない感じ”のバックボーンがなんなのか、私にはまだ分からないのだから。
廊下や教室に人影もまばらになったころ、私はようやく蛍光ペンを置いた。
結局、高野志穂の他に、木曜日以前から夢を覚えていた人はいなかった。
高野志穂の家の近所に住んでいる子は居たが、その子は怖い夢を見ていることさえ気づいていなかった。
まあ、いい。出来る限りの精度は上げた。
地図に落とされたボールペンの丸をもう一度見つめる。
急ごう。
地図を鞄に仕舞い、私は校舎を後にする。
早足で歩き、一度家に帰って自転車を手に入れる。
サドルに跨りながら空を見上げるとまだ陽は落ちていなかった。さあ、行こう。そう呟いてペダルを漕ぎ出す。
途中、思いついて公衆電話に寄ろうとした。
しかしちょうど通り道にあった公衆電話は例の「お化けの電話」だ。
なんとなく嫌だったので、少し遠回りして別の公衆電話へ向かう。
ほどなくして電話ボックスにたどり着き、自転車を脇に止めて、中に入って受話器を上げる。
テレホンカードを入れて、覚えている番号をプッシュする。
コール音が数回鳴ってから相手が出た。いないだろうと思って、留守番電話に入れるつもりだったのに。
仕方がないので、忙しいから今日は会えないということを伝える。

案の定、ケンカになった。
毎週金曜日に会う約束をしていたのに、これで2週連続私からドタキャンしてしまった。
だからと言って別に浮気をしているワケではない。
止むに止まれぬ事情があるのだから。
逆に私へのあてつけのように、今夜は女を買うなどと口にしたことの方がよほど許せない。
「死ね」と言って電話を切った。
電話ボックスを出たときは頭に血が上り冷静さを欠いていたが、しばらく自転車を漕いでいると次第に我に返ってくる。
いけない。方向が違う。
自転車のカゴから地図を取り出して確認する。
この辺りはまだ青のエリアだ。ハンドルを切って方向を修正した。
立ち漕ぎで先を急ぐ。
景色がヒュンヒュンと過ぎ去っていく。
その中へ溶けていくように、涙がひと筋だけ流れて消えていった。
ホントに、私はなにをやっているのだろう。
駄目だ。このところ、心と身体のバランスを崩している。
ちょっとしたことで落ち込んだり、悩んだり。
今もこんな訳の分からないことでいつの間にか必死になっている。
いったい私はどうしてしまったのか。
『あなた、ちょっと変わったね』と昨日の夜先輩は言った。
高校に入ってから私は変わり始めてしまったらしい。何故なのだろう。
剣道部を続けていた方が良かったかも知れない。
そう思いながら自転車を漕ぎ続ける。
気がつくと私は赤のエリアに入っていた。そしてその最深部までは目と鼻の先だった。
ただのありふれた住宅街だ。今はなんの不吉な印象も受けない。なのに緊張してしまうのは頭で考えてしまうからなのだろう。
三差路の角を曲がったとき、私は心臓が止まるほど驚いた。
コンクリート塀に電信柱が無造作に立てかけられている。
元あったと思しき場所には穴が開いていて、そこからまるで力任せに引き抜かれたかのような痕跡が地面のひび割れとなって現れていた。
電線の角度が変わって片方はピンと張り、もう片方はたわんでブラブラと揺れている。

まるで子どもがおもちゃの箱庭で遊んでいるような現実離れした光景だった。
目に見えない巨大な手が空から降ってくるような錯覚を覚えて私は思わず身体を仰け反らせる。
聞き集めた怪現象の中にこんなものがあったはずだ。でもこれは多分別件だろう。
全く誰もこの異変に気づいた様子はない。
誰かにここでこうしているのを見られたらと思うと煩わしくなり、すぐに自転車を発進させた。
高野志穂の家はそこから5分と掛からなかった。
わりと新しい住宅が並んでいる一角の、青い屋根が印象的なこじんまりとした家だった。
家の前に自転車をとめて私は腕時計を見る。
彼女はバレー部の練習に行くと言っていたので、まだ部活から帰っていない時間のはずだ。
深呼吸をしてから呼び鈴を押す。
インターフォンから「はあい」という声がして、暫し待つと玄関のドアが開いた。
高野志穂に良く似た小柄な女性が顔を覗かせる。母親らしい。

「あら。どなた」

そう言いながらドアを開け放ち、こちらに歩み寄ってくる。
内側にチェーンは…………ない。
目線の動きを悟られないように素早く確認した後、私は出来る限りのよそいきの声を出した。

「志穂さんはいらっしゃいますか」
「あら、お友だち? 珍しいわねぇ。でもゴメンなさい。まだ帰ってないのよ。……どうしましょう。ウチに上がって待ってくださる? 散らかってるけど」
「いえ、いいんです。ちょっと近く来たので寄っただけですから。また来ます」

そう言って私は頭を下げ、申し訳なさそうな母親にヘタクソな笑顔を向けて自転車に跨った。

「さようなら」

家を辞する挨拶として、適当だったのか分からない。
ああいうときはなんと言うのだろう。お休みなさい、かな。でも少し時間帯が早いか。

そんなことを考えながら角を曲がるまで背中に高野志穂の母親の視線を感じていた。
あの家は、違う。
チェーンのこともそうだが、エキドナの気配はない。
根拠のない自信だが、エキドナの母親であればたぶん一度顔を見れば分かるはずだ。
さあこれからどうしよう。
地図をもう一度取り出して眺めると、ボールペンで丸をつけた部分は一見小さく見えるが、現実にその場に立ってみるとかなり広いことに気づく。
住宅街であり、そこに建っている家だけでも二桁ではきかない。
もう少し範囲を絞れないだろうかと考えて頭をフル回転させるが、いかんせんあまり性能が良くない。
やむを得ず、カンでぶつかってみることにした。
それっぽい家(なにがそれっぽいのか基準が自分でも良く分からないが)の呼び鈴を鳴らして回った。
表札に出ている子どもの名前を使おうかと考えたが、本人が居た場合話がややこしくなると考え、「志穂さんはいますか?」と言って訪ねてみた。
するとたいていの家では母親が出て来て「志穂さんって、ひょっとして高野さんの所のお嬢さんじゃないかしら」と言いながら、高野家の場所を口頭で教えてくれる。
そして私は「家を間違えてしまって済みません」と言いながら立ち去る。
なんの問題もない。
スムーズ過ぎて、なんの引っ掛かりもないことが逆に問題だった。
ドアにチェーンのある家も中にはあったが、エキドナがいるような気配は全く感じなかった。
応対してくれる主婦もごくありふれた普通のおばさんばかりだ。
もっと突っ込んで、家の中でポルターガイスト現象が起こっていないかとか、家庭内で子どもとなにか問題が起きていないかなどと聞いた方が良いのだろうか、と考えたがどうしてもそれは出来そうになかった。
クラスメートならともかく、初対面の人間にそんな変なことを聞いて回るだけの図太い神経を私は持ち合わせていないのだった。
日が暮れたころ、私は疲れ果ててコンクリート塀に背中をもたれさせていた。

駄目だ。なんの手掛かりも得られなかった。
範囲が広すぎてどこまで回っていいのかも分からない。
慣れないことをしているせいか、身体が少し熱っぽくなってる気もする。

「もう帰ろ」

そう呟いてヨロヨロと立ち上がる。
自転車のハンドルを握りながら、なにか別のアプローチを考えないといけないと思う。
どんな方法があるのか全く名案が浮かばないままで疲れた足を叱咤しながらペダルを漕ぐ。
帰り道、日の落ちた住宅街にパトカーの赤い光が見えた。引き抜かれた電信柱のある辺りだ。

ふと、この数日の間街で起こったおかしな出来事を警察は把握しているのだろうかと考えた。
電信柱や並木が引き抜かれた事件は明らかに器物損壊だろう。当然犯人を捜しているはずだ。
もし私が、自分の知っている情報をすべて警察に伝えたらどうなるだろう。
聞き込みのプロである彼らが人海戦術であの円の中心の住宅街を回ったならば、恐らく半日とかからずにエキドナを見つけ出せるはずだ。
母親に殺意を抱く少女を。
でも駄目だ。警察はこんなことを信じない。取り合わない。それだけははっきりと分かる。
私だって信じられないのだから。
街中のすべての怪現象が、たった一人の少女によって引き起こされているなんて。
パトカーの赤色灯と野次馬たちのざわめきを尻目に私はその道を避けて少し遠回りしながら帰路に着いた。

家に着くと、母親が「ご飯は?」と聞いてきた。
心身ともに疲れているせいか食欲が湧かず、制服を脱ぎながら「あとで」と返事をする。
なにか小言を言われたが、適当に聞き流した。まともに応対したくない気分だった。

些細な口喧嘩でもそれがエスカレートすることを恐れていたのかも知れない。
自分の部屋を見回しながらクッションに腰を下ろし溜息をつく。
小さなテーブルの上には水曜日に買った『世界の怪奇現象ファイル』が伏せられている。
その周囲には昨日先輩に借りたポルターガイスト現象に関連するオカルト雑誌の類が乱雑に転がっている。
そしてその横の本棚には中学時代に買い集めた占いに関する本が所狭しと並んでいた。
勉強している形跡のない勉強机の上には怪しげな石ころ……
なんて部屋だ。
我ながら顔を手で覆いたくなる。
今時の女子高生の部屋としては「惨状」とも言うべき有様を複雑な気持ちで眺めていると、ふいにテーブルの下に落ちている物に気がついた。
紙袋だ。デパートの包装がしてある。
なんだっけ、と思いながらなんの気なしにそれを手に取り、封をしているシールを剥がす。
中からは鋏が出て来た。
緑色の、ありふれた鋏。
私はそれを見た瞬間、氷で身体を締め付けられるようなジワジワとした不安感に襲われた。
なんだこれは?
鋏だ。ただの鋏。いつ買った? そう、あれは石の雨が降った水曜日。
デパートで『世界の怪奇現象ファイル』を手に入れたときに一緒に買った物だ。
待て、おかしいぞ。思い出せ。そもそも私はデパートにその本を買いに行ったのではない。
鋏を買いに行ったのだ。石の雨の現場を見た後、その近くの商店街の雑貨店で売り切れていたので、わざわざ足を伸ばして……
ドキンドキンと心臓が脈打つ。

“鋏を買わないといけない気がしていた”

そのときは。確かに。
何故?
思い出せない。
その鋏を買って帰った日、私はそんな物を買ったことも忘れてこうして放り出している。

要らない物をどうして買ったんだろう?
急に頭の中に夢の記憶がフラッシュバックし始めた。

夢の中で私は足音を聞く。
そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。
顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる……

吐き気がして、口元を押さえる。
刃物だ。
あの夢の中で自分が持っている刃物はなんだ?
もやもやして、握っている感覚が思い出せない。
ただキラリと輝いた瞬間だけが脳裏に焼きついている。
あれが、鋏だったんじゃないのか。
最悪の想像が頭の中を駆け巡る。
夢の中で少女になった私は鋏で母親に切りつけた。
その”思い出せなかった”記憶が潜在意識の奥底で私の行動を縛り付け、半ば無意識のうちに新しい鋏を購入させたのだろうか。
だとしたら……
私は立ち上がり、鋏を手に部屋を飛び出して「ちょっと外、行く」と居間の方に一声叫んでから玄関を出た。
自転車に乗って駆け出す。
途中通り過ぎたゴミ捨て場に鋏を投げ捨てる。

「ちくしょう」

自分のバカさ加減に心底腹を立てていた。
外は暗い。何時だ? まだ店は開いている時間か? 気が逸ってペダルを踏み外しそうになる。
人気の少ない近くの商店街にはまだポツリポツリと明かりが灯っていた。
自転車をとめ、子どものころからよく来ていた雑貨屋に飛び込む。

息を切らしてやって来た私に驚いた顔で、店のおばちゃんが近寄って来る。

「なにが要るの?」

その言葉に、息を整えながらようやく私は「はさみ」と言う。
するとおばちゃんは申し訳なさそうな顔になって、「ごめんねぇ。ちょうど売り切れてるのよ」と言った。
想像していたこととは言え、ゾクリと鳥肌が立つ感覚に襲われる。

「誰か、大口で買ってったの?」
「ううん。今週はぽつぽつ売れてて昨日在庫がなくなっちゃったから、注文したとこ。明日には入ると思うけど……」

どんな人が買っていったのかと聞いてみたが、若者もいれば年配の人もいたそうだ。
「どうする? 明日来るなら取っとくけど」と聞くおばちゃんに、「いい。急ぎだから他を探してみる」と言って店を出る。
少し足を伸ばし、私は鋏を置いてそうな店を片っ端から見て回った。
店仕舞いをした後の店もあったが、閉じかけたシャッターから強引に潜り込み、「鋏を探してるんですが」と言った。
そのすべての店で同じ答えが返って来た。
『売れ切れ』と。

最後に私は一昨日の水曜日に鋏と本を買ったデパートに向かった。
閉店時間まぎわでまばらになった客の中を走り、まだ開いている雑貨コーナーに飛び込む。
中ほどにあった日用品の棚には異様な光景が広がっていた。
ありとあらゆる日用雑貨が立ち並ぶなか、格子状のラックの一部だけがすっぽりと抜け落ちている。
カッターも、鉛筆も、定規も、消しゴムも、修正液も、ステープルも、コンパスでさえ複数品目が取り揃えられているのに。
鋏だけがなかった。ただのひとつも。
私はその棚の前に立ち尽し、生唾を飲み込んでいた。
鋏が街から消えている!
いや、消えているのではない。
その懐の奥深くに隠されて、使われるときをじっと待っているのだ。

それは今日かも知れないし、明日かも知れない。
夢を見ている少女が母親を殺すことを決めた日に、私たちはその殺意に囚われて己の母親にその刃を向けることになるのかも知れない。
どうしたらいい? どうすればいいんだ?
自らに繰り返し問い掛けながら私は家に帰った。
するべきことが見つからない。
けれど今動かなかったら取り返しのつかないことになるかも知れない。
どうすればいいのか。するべきことが見つからない。
巡る思考を持て余して、どういう道順で帰ったのかも定かではない。
兎にも角にも帰り着き、玄関からコソコソと入ると母親に見つかった。

「どこ行ってたの。もう知らないから、勝手に食べなさい」

台所にはラップで包まれた料理が置かれている。
食欲は無かったが、無理やりにでもお腹に詰め込んだ。体力こそが気力の源だ。
あまり良くない頭にも栄養を少しだけでも回さないといけない。
食べ終わってお風呂に入る。
今日は学校が終わってから休む暇がないほど駆け回っていた。それも夏日のうだるような暑さの中を。
それでも湯船に浸かることはせず、ほとんど行水で汗だけを流して早々に上がる。
次に入る妹と脱衣場ですれ違ったとき、「お姉ちゃん、お風呂出るの早っ。乙女じゃな~い」とからかわれた。
一発頭をどついてから自分の部屋に戻る。
ドアを閉め、机の引き出しに入れてあった愛用のタロットカードを取り出す。
それを手にしたままじっと考える。
時計の音がチッチッチッ、と部屋に響く。濡れた髪がピタリと頬にくっつく。
駄目だな。
私ごときの占いが通用する状況ではない。もっと早い段階ならば、この事態に至るまでにするべきことの指針にはなったかも知れないけれど。
今必要なのは、エキドナを、母親に殺意を抱く少女を探し出すための具体的な方法だ。
あるいは、探し出さずともこの事態を解決するだけの”力”だ。

私は机の上に放り投げた鞄から同級生の住所録を取り出す。
今日の昼間、カラフルな地図を完成させるのに活躍した資料だ。
パラパラと頁を捲り、間崎京子の連絡先を探し当てる。
そこに書いてある電話番号をメモしてから部屋を出て、階段を降りてから1階の廊下に置いてある電話に向かう。
良かった。誰もいない。居間の方からはテレビの音が漏れてきている。
メモに書かれた番号を押して、コール音を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……

「はい」

ななつめか、やっつめで相手が出た。
聞き覚えのある声だ。ホッとする。良かった。
家族が出たらどうしようかと思っていた。
それどころか、使用人のような人が電話口に出ることさえ想定して緊張していたのだ。
彼女の妙に気どった喋り方などから、前近代的なお屋敷のような家を想像していた。
そんな家にはきっと彼女のことを「お嬢様」などと呼ぶ使用人がいるに違いないのだ。
だがひとまずその想像は脇に置くことにする。

「あの、私、ヤマナカだけど。同じ学年の」

少しどもりながら、あまり親しくもないのにいきなり電話してしまったことを詫びる。
電話口の向こうの間崎京子は平然とした声で、気にしなくて良い、電話してくれて嬉しいという旨の言葉を綺麗な発音で告げる。
どう切り出そうか迷っていると、彼女はこう言った。

「エキドナを探したいのね」

ドキッとする。
私のイメージの中で間崎京子は何度もその単語を口にしていたが、現実に耳にするのは初めてだった。
ギリシャ神話の怪物たちの名前を挙げて共通点を探せと言った彼女の謎掛けが、本当にこの街に起こりつつある怪現象を理解した上でそれを端的に表現したものだったのだと、私は改めて確信する。
いったいこの女は、なにをどこまで掴んでいるのか。

母親を殺す夢を見ていないというその彼女が何故あんなに早い時点で、街を騒がせている怪現象がたった一人の人間によって起こされているのだと推理出来たのか。
私のようにあちこちを駆けずり回っている様子もないのに、怪現象の正体を恐ろしく強大なポルターガイスト現象だと見抜いた上で、『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるな、などという忠告を私にしている。
どうしてこんなにまで事態を把握できているのだろう。

「……そうだ。これからなにが起こるのか、おまえなら知っているだろう。それを止めたい。力を貸してくれ」
「なにが起こるの?」

間崎京子は澄ました声でそう問い掛けてくる。
私は儀式的なものと割り切って、今日一日で私がしたこと、そして知ったことを話して聞かせた。

「そんなことがあったの」

面白そうにそう言った後、彼女の呼吸音が急に乱れる。
受話器から口を離した気配がして、そのすぐ後にコン、コン、と咳き込む微かな音が聞こえた。

「どうした」

私の呼び掛けに、少しして「大丈夫。ちょっとね」という返事が返って来る。
今更ながら彼女が病欠や早退の多い生徒だったことを思い出す。
彼女は私よりも背が高いけれど、線が細く、透き通るようなその白い肌も含め、一見して病弱そうなイメージを抱かせるような容姿をしている。
そう言えば今日も早引けをしていたな。
そう思ったとき、つい先ほどの「駆けずり回っている様子もないのに、どうしてこんなに事態の真相を掴んでいるのか」という疑問がもう一度浮き上がってくる。
もし。もし、だ。もし彼女の病欠や体調が悪いからという理由の早退がすべて嘘だとしたならば。
彼女には、十分な時間がある。

水曜日に昼前からエスケープした以外は、真面目に授業に出ていた私(授業を受ける態度はともかくとして)以上に、彼女にはこの街で起こりつつあることを調べる時間があったのかも知れないのだ。
もしそうだとしたならば、今の、まるで同情を誘うような咳は逆に私の中に猜疑心を芽生えさせただけだ。
だが分からない。すべては憶測だ。
けれど少なくとも、この女に気を許してはいけない、ということだけはもう一度肝に銘じることが出来た。

「エキドナを探したい。知っていることをすべて話してくれ」

単刀直入に懇願した。だがこれも駆け引きの一部だ。
彼女の一見意味不明な言動は聞く者を戸惑わせるが、その実、真理の、ある側面を語っているということがある。
短い付き合いだが、それは良く分かっているつもりだ。彼女は無意味な嘘をつかない。
嘘をつくとしても、それは真実の裏地に沿って出る言葉なのだ。意味は必ずある。
それを逃さないように聞き取れば良いのだ。

「……探してどうするの」

止めたい。
電話の冒頭で口にしたその言葉をもう一度繰り返そうとして、本当にそうだろうかと自分に問い掛け、そして胸の内側から現れた別の言葉を紡ぐ。

「見つけたい」
「それは探すことと同義ではないの」
「言葉遊びのつもりはない。ただ、本当にそう思っただけだ」
「面白いわね、あなた」

それから僅かな沈黙。
電話のある静かな廊下とは対照的に、居間の方からは相変わらずテレビの音が流れて来ている。

「正直に言って、あなたの鋏の話は驚いたわ。人を殺す夢を見ても、それが現実の人間の行動に影響を与えるなんて思ってもみなかった」

考えろ。これは嘘か、真か。
押し黙る私を尻目に彼女は続ける。

「わたしも夢の中で握っているはずの刃物の感触が思い出せない。あれが鋏だとするなら、確かにすべての辻褄が合うわね」

嘘だ!
これは嘘だ。
間崎京子は、そんな夢を見ていないと言ったはずだ。
それとも今朝私にそう言ってから、この夜までの間に彼女は眠り、エキドナが見る夢とシンクロして母親殺しを追体験したというのか。

クス、クス、クス……
コン、コン、コン……

忍び笑いと、咳の音が交互に聞こえる。

「わたしは、嘘なんてついてないわ。ただあなたが『母親を殺す夢を見たか』と聞くから『見てない』と言っただけよ」
「それのどこが嘘じゃないって言うんだ。おまえも刃物で切りつける夢を見ているじゃないか」

声を荒げかける私に、淡々とした声が諌めるように降って来る。

「わたしが見ていた夢は、『知らない女を殺す夢』よ」

なに?
予想外の答えに私は一瞬思考停止状態に陥る。

「月曜日だったかしら、それとも火曜日だったかな? チェーンを外して、ドアから首を出す見覚えのない女の首筋に刃物で切りつける夢を見たのよ。一度見てからは毎日。他のみんなはそれが母親の顔だと思っているみたいね」

どういうことだ? 間崎京子だけは、夢の中で殺した相手が母親ではないと言うのか? 何故だ。

「おかしいと思わない? 夢に出てくるチェーンのついたドアだとか、それに手を伸ばして背伸びをする感覚は、みんな実際の自分のものではない、言うならば個を超越した共通言語として出て来るのに、殺した相手の顔だけは現実の自分の母親の顔だなんて」

待て。それについては考えたことがある。私はこう思ったのだ。

『……それは”母親”というイメージそのものを知覚し、朝起きてからそれを思い出そうとしたときに自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、記憶の中で再構築が行われているということなのかも知れない』と。
「チェーンのついたドア」や「届かない手」という記号が、そのままの姿でもその本質を見失われないのに対し、「母親」という記号が、もし仮に別の知らない女の顔で現れたとしたならば、それは本質を喪失し私たちにその意味を理解させることさえ出来ないに違いない。
「母親」であるために、母親の仮面を被っていたのだ。
では、間崎京子の見た「知らない女」とは……

「わたしに、母親を殺す夢なんて見られるわけがないわ。だって、わたしはママの顔、知らないんですもの」

静かに、彼女はそう言った。

「ママはわたしが生まれる時に死んだわ。家には写真も残っていない」

受話器から淡々と陶器が鳴るような声が聞こえて来る。

「見たことはなくても、あんな醜い顔の女が、わたしのママではないことくらい分かるわ」

自分の美貌のことを暗に言いながら、それを鼻にかけるような嫌味さを全く感じさせない自然な口調だった。
間崎京子のケースは、母親と別居しているというポルターガイスト現象の経験者でもあった先輩とは、明らかにその背景が異なっている。
先輩は家にいないはずの母親を殺す夢を、『ありえない夢』と称したけれど、殺す相手の顔は「母親」の顔として認識している。
今現実に母親がいなくとも、その顔を知ってさえいれば良いのだ。
間崎京子はその顔すら知らず、「知らない女」が「母親」という意味を持つための仮面を被せることが出来なかったのだ。
ならば、間崎京子の夢に現れた女こそ、エキドナに殺意を抱かせた母親そのものなのではないのか。
「母親」という仮面の下の、素顔だ。

「そう。その女が、怪物たちの母親の母親。罪深いガイアね」

捕まえた。
ついに捕まえた。
間崎京子にさえ協力してもらえれば、エキドナは見つけられる。
あるいは、今日訪ねて回った家々の主婦たちの中の誰かがその母親だったのかも知れない。

「その女の顔は、まだはっきり覚えているか」

拝むような私の問い掛けに、彼女は優しい口調で答えた。

「覚えているわ。似顔絵を描きましょうか。わたし、絵は得意なのよ」

良し。良し!
私は思わず受話器にキスしそうになる。案外いいヤツじゃないか。間崎京子は。
そんなことを頭の中で叫んでいた。後にして思うと、我ながら単純だったと思う。

「どっちにしても明日ね。こんな夜には探せないわ。明日、絵を描いていくから」

またコン、コン、という咳が漏れる。

「ああ、ありがとう。無理しなくてもいから。身体に気をつけて」

じゃあ、明日学校で。
そう言って私は受話器を置いた。
明日だ。
明日には見つけられる。目を閉じて、それをイメージする。

「ムリしなくてもいいから。カラダに気をつけてぇ」

声に振り向くと、妹が廊下でくねくねと身体を揺らしながら私の物真似をしていた。
オトコとの電話だと邪推しているようだ。
エキドナだとか母親殺しだとかの怪しげな部分は聞かれていないらしい。

「もう寝ろ、ガキ」
「自分だってまだ子どもじゃん」
「キャミソール返せ」
「あ、やだ、もうちょい貸して」

そんなくだらないやりとりをしたあと、私は部屋に戻った。
疲れた。
ばたりとベッドに倒れ込む。

転がって仰向けに姿勢を変えてから、今日あったことを順番に思い出してみる。
2度目の『母親を殺す夢』。学校での情報収集。円形の地図の完成。先輩を怒らせたこと。中心地の聞き込み。無駄足。買ったままの鋏。鋏の消えた街。間崎京子との電話……(そういえば、先輩の部屋にも鋏があったな)
先輩がサイ・ババの真似をしていたときに手に持っていた鋏。
テーブルの上に無造作に置かれていたものだったけれど、手のひらから(私には服の裾からにしか見えなかったが)宝石や灰を出してみせるという奇蹟の再現をするのに、隠しにくい鋏は適切な物だっただろうか。
消しゴムやなんかの方が、よほど上手く出来るだろう。(新品に見えたけど、あの鋏もなんとなく買ったのかな)
何故それが要るのか、深く考えもしないで……
ふと、電話で注意した方がいいだろうか、と思った。

いや、駄目だな。
夕方に怒らせたばかりだし、こんなに遅い時間に電話してまた変な話をしたのでは、きっとまともに聞いてくれないだろう。
あれ? そう言えば、私もまだ持ってたな、鋏。
机の引き出しのどこかに、昔から使ってるやつがあるはずだ。
あれも捨てて来た方が良かったかも。
あ……でも眠いや……
明日にしよう……
明日に……

眠りに落ちた。

『結 (下)』

暗い。暗い気分。泥の底に沈んでいく感じ。
私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
やがて外から足音が聞こえて私は動き出す。玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
暗い気持ち。殺したい気持ち。
足音が下から登ってくる。
私はその足音が、母親のだと知っている。
やがてその音がドアの前で止まる。ドンドンドンというドアを叩く振動。
背伸びをして、チェーンを外す。
そしてロックをカチリと捻る。
手には硬い物。私の手に合う、小さな刃物。
ドアが開けられ、ぬうっと、青白い顔が覗く。
母親の顔。見たことのない表情。見たくない表情。
ドアの向こう、母親の背中越しに月。真っ黒いビルのシルエットに半分隠れている。
どこかから空気が漏れているような音がする。それは私の息なのだろうか。
いや、私の身体にはきっとどこかに知らない穴が開いていて、そこから隙間風が吹いているんだろう。
私は入り込んでくる顔に、話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
ただ手の中にある硬い物を握り締め、暗い気持ちをもっと暗くして。

「……ッ」

悲鳴が聞こえた。
それは私が上げたのだと気づく。
動悸がする。息が苦しい。
夢だ。夢を見ていた。
身体を起こす。ベッドの上。
天井から降り注ぐ光が眩しい。明かりがついたままだ。

時計を見る。夜中の1時半。服を着たままいつの間にか寝てしまっていた。
手にはじっとりと汗をかいている。まだなにか握っているような感覚がある。
何度か手のひらを開いたり閉じたりしてみる。
辺りを見回すが、特に異変はない。粟立つような寒気だけが身体を覆っている。
そのとき、床に置いたラジオから奇妙な声が聞こえてきた。
ひどく間延びした音で、笑っているような感じ。
夜の家は静まり返っている。カーテンを閉めた2階の窓の向こうからもなんの音も聞こえない。
ただラジオだけが、間延びした笑い声を響かせている。
私は思わずコンセントに走り寄り、コードを引き抜いた。
ぶつりとラジオは黙る。
つけてない。私は眠る前に、ラジオなんてつけてない。
なんなのだ、これは。
家電製品の異常。まるでポルターガイスト現象だ。
私は机の引き出しを恐る恐る開け、乱雑に詰め込まれた文房具の中から鋏を探し出した。
中学時代から使っている小ぶりな鋏。手に持ってみたが、特におかしな所はない。
ひとまずホッとして引き出しを閉める。
どういうことだろう。
今までの夢は明け方、目覚める直前に見る明晰な夢だった。
他の人たちの体験談も一様に同じだ。
しかし今のは1回目か2回目のレム睡眠時の夢だ。
今までだって本当はこの、眠りについてあまり経っていない時間帯にも同じ夢を見ていたのかも知れない。
ただ忘れてしまっているだけで。
でもさっきのリアルさはなんだ? 明らかに今までの夢とは違う。鋏を握る感触もはっきり残っている。
私は左手で自分の顔を触った。そしてこう思う。(こっちが夢なんてことはないよな)

母親に鋏を突き立てようとしている少女こそが本当の私で、今こうして考えている私の方が彼女の見ている夢なんていうことは……
なんだっけ、こういうの。漢文の授業で聞いたな。胡蝶の夢、だったか。
ありえない、と首を振る。
だが少なくとも、今までの夢とは緊迫感が違った。恐怖心のあまり途中で目覚めてしまったのだから。(夢……だよな)
私は恐ろしい想像をし始めていた。真夏の夜の部屋の中が冷たくなって来たような錯覚を覚える。
これまでのは、焦点となっているその少女の見ていた殺意に満ちた夢が夜の街に漏れ出したもので。
今見たのは、現実のドス黒い殺意がリアルタイムで私の頭に干渉していたのではないか、という想像を。
だとしたら、さっきの光景の続きは?
もし夢を見ながら彼女の殺意に同調していた街中の人間たちが、私のようにあのタイミングで目覚めていなかったとしたら?
私は居ても立ってもいられなくなり、部屋の中をぐるぐると回った。
油断なのか。もう明日にも手が届くと思ってだらしなく寝てしまった私のせいなのか。
でもなにが出来たって言うんだ。
あんな遅くに間崎京子の家まで行って似顔絵を描かせ、それを手にまたあの住宅街を聞き込みすれば良かったのか?
せめて家の場所が特定できれば……
そう考えたとき、私は視線を斜め下に向けた。
待て。
ドアの向こうの景色。月が半分隠れていたビルのシルエット。夢の中の視線。
あのビルは知っているぞ。
市内に住む人間ならきっと誰でも知っている。一番高いビルなのだから。
ビルの位置と、月の位置。それが分かるなら、場所が、それらが玄関の中からドア越しに見えている家が、ほぼ特定出来るかも知れない!

私は部屋を飛び出した。
そして階段を降りながら、眠っている家族を起こさないようにその勢いを緩める。
家の中は静まり返っていて、父親のいびきだけが微かに聞こえてくる。
私は玄関に向かおうとした足を止め、客間の方を覗いてみた。
いつもは2階で寝ている母親だが、最近は寝苦しいからと言って風通しの良い客間で寝ているのだ。
襖をそっと開け、豆電球の下で掛け布団が規則正しく上下しているのを確認する。
良かった。何事もなくて。
そして踵を返そうとしたとき、暗がりの中、鈍く光るものに気がついた。
それは私の右手に握られている。さっきから右手が妙に不自由な感じがしていた。
なのに、何故かそれに気づかず、目に入らず、あるいは目を逸らし、気づかないふりをして、ずっとここまで持って来ていた。
鋏だ。
机の引き出しを閉めながら、鋏は仕舞わなかったのだ。右手に持ったままで。
逆再生のようにその記憶が蘇る。
全身の毛が逆立つような寒気が走り、ついで、目の前が暗くなるような眩暈がして、私は鋏をその場に落っことした。
鋏は畳の上に小さな音を立てて転がり、私は後も見ずに玄関の方へ駆け出す。叫びたい衝動を必死で堪える。
ギィ、というやけに大きな音とともにドアが開き、湿り気を含んだ生暖かい夜気が頬を撫でた。
外は暗い。
玄関口に据え置きの懐中電灯を手にして、駐車場へ向かう。
そして自転車のカゴにそれを放り込んで、サドルを跨ぐ。
始めはゆっくり、そしてすぐに力を込めて、ぐん、と加速する。(鋏を持ってた! 無意識に!)
混乱する頭を風にぶつける。いや、風がぶつかって来るのか。
私は今、自分がしていることが、すべて自分自身の意思によるものなのか分からなくなっていた。

もうたくさんだ。こんなこと。もうたくさんだ。
寝静まる夜の街並みを突っ切って自転車を漕ぎ続ける。
空は晴れていて、遥か高い所にあるわずかな雲が月の光に映えている。
この同じ空の下に、目に見えない殺意の手が、無数の枝を伸ばすように今も蠢いているのか。
それに触られないように、身を捩りながら、前へ前へと漕ぎ進む。
と――――
耳の奥に、風の音とは違うなにかが聞こえて来た。
聞き覚えのあるような、ないような、音。人を不安な気持ちにさせる音。
夜の、電話の音だ。
自転車のスピードを落とす私の目の前に、暗い街灯がぽつんとあるその向こう、公衆電話のボックスが現れた。
音はそのボックスから漏れている。DiLiLiLiLiLiLi……DiLiLiLiLiLiLi……と、息継ぎをするようにその音は続く。
ばっく、ばっく、と心臓が脈打つ。
お化けの電話だ。
そんな言葉が頭のどこかで聞こえる。
誰もいない、夜の電話ボックス。
私は自転車を脇に止め、なにかに魅入られたようにフラフラとそれに近づいていく自分を、どこか現実ではないような気持ちで、まるで他人ごとのように眺めていた。
擦れるような音を立てて内側に折れるドア。
中に入ると自然にドアは閉まり、緑色の電話機が天井の蛍光灯に照らされながら、不快な音を発している。
私はそろそろと右手を伸ばし、受話器を握り締める。
フックの上る音がして、Lin、という余韻を最後に呼び出し音は途絶える。
この受話器の向こうにいるのは誰だろう?
そんなぼんやりした思考とは別に、心臓は高速で動き続けている。

「もしもし」

声が掠れた。もう一度言う。

「もしもし」

受話器の向こうで、笑うような気配があった。

「……行ってはいけない」

この声は。
そう思った瞬間、脳の機能が再起動を始める。
間崎京子だ。この向こうにいるのは。

「鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で歩いたものが、ヒトの中でなにをしたか、わかって?」

冷え冷えとした声が、ノイズとともに響いてくる。

「何故だ。どうやってここに掛けた」

沈黙。

「お前も見たのか。あの夢を。行くなとはどういうことだ」

コン、コン、コン、とせせら笑うような咳が聞こえる。

「……その電話機の左下を見て」

言われた通り視線を落とす。
そこには銀色のシールが張ってあり、電話番号が記されている。
この電話機の番号だろうか。

「みんな案外知らないのね。公衆電話にだって、外から掛けられるわ」

その言葉を聞きながら、私は頭がクラクラし始めた。
思考のバランスが崩れるような感覚。
この電話の向こうにいるのは、生身の人間なのか? それとも、人の世界には属さないなにかなのか。

「夢を見て、あなたがそこへ向かうことはすぐに分かったのよ。そしたら、その電話ボックスの前を通るでしょう。一言だけ、注意したくて、掛けたの」
「どうして番号を知っていた」
「あなたのことなら、なんでも知ってるわ」

あらかじめ調べておいたということか。
いつ役に立つとも知れないこんな公衆電話の番号まで。

「行ってはいけない。わたしも、少し甘く見ていた」
「なにをだ」

再び沈黙。微かな呼吸音。

「でもだめね。あなたは行く。だから、わたしは祈っているわ。無事でありますようにと」

通話が切れた。

ツー、ツー、という音が右耳にリフレインする。
私は最後に、言おうとしていた。電話を切られる前に、急いで言おうとしていた。
そのことに愕然とする。
いっしょにきて。
そう言おうとしていたのだ。
頼るもののないこの夜の闇の中を、共に歩く誰かの肩が、欲しかった。
受話器をフックに戻し、電話ボックスを出る。
少し離れた所にある街灯が、瞬きをし始める。消えかけているのか。私は自転車のハンドルを握る。
行こう。一人でも、夢の続きを知るために。
自転車は加速する。耳の形に沿って風がくるくると回り、複雑な音の中に私を閉じ込める。
振り向いても電話ボックスはもう見えなくなった。離れて行くに従って、さっきの電話が本当にあった出来事なのか分からなくなる。
何度目かの角を曲がり、しばらく進むと道路の真ん中になにかが置かれていることに気がついた。
速度を緩めて目を凝らすと、それはコーンだった。工事現場によくある、あの円錐形をしたもの。パイロン、というのだったか。
道路の両側には民家のコンクリート塀が並んでいる。ずっと遠くまで。
アスファルトの上に、ただ場違いに派手な黄色と黒のコーンがひとつ、ぽつんと置かれているだけだ。
当然、向こうには工事の痕跡すらない。誰かのイタズラだろうか。
その横をすり抜けて、さらに進む。
500メートルほど行くとまた道路の真ん中に三角のシルエットが現れた。またコーンだ。
避けて突っ切ると、今度は10秒ほどで次のコーンが出現する。通り過ぎると、またすぐに次のコーンが……

それは奇妙な光景だった。

人影もなく、誰も通らない深夜の住宅街に、何らかの危険があることを示す物が整然と並んでいるのだ。
だが行けども行けどもなにもない。ただコーンだけが道に無造作に置かれている。
段々と薄気味悪くなって来た。あまり考えないようにして、ホイールの回転だけに意識を集中しようとする。
だが、その背の高いシルエットを見たときには心構えがなかった分、全身に衝撃が走った。
今度はコーンではない。細くて長く、頭の部分が丸い。道でよく見るものだが、それが真夜中の道路の真ん中にある光景は、まるでこの世のものではないような違和感があった。
『進入禁止』を表す道路標識が、そのコンクリートの土台ごと引っこ抜かれて道路の上に置かれているのだ。
周囲を見回しても元あったと思しき穴は見つからない。いったい誰が、そしてどこから運んで来たというのか。
ゾクゾクする肩を押さえながら、『進入禁止』されているその向こう側へ通り抜ける。
これもポルターガイスト現象なのか?
しかしこれまでに起きた怪現象たちとは、明らかにその性質が異なっている気がする。
石の雨や、電信柱や並木が引き抜かれた事件、中身をぶちまけられる本棚やビルの奇妙な停電などは、”意図”のようなものを感じさせない、ある意味純粋なイタズラのような印象を受けたが、この道に置かれたコーンや道路標識は、その統一された意味といい、執拗さといい、何者かの”意図”がほの見えるのである。

く・る・な。
その3音を、私は頭の中で再生する。
ポルターガイスト現象の現れ方が変わった。それが何故なのか分からない。
現れ方が変わったと言うよりも、「ステージが上った」と言うべきなのか。
これでは、RSPK、反復性偶発性念力などという代物ではない。
もっと恐ろしいなにか……
私は吐く息に力を込める。目は前方を強く見据える。怖気づいてはいけない。
ビュンビュンと景色は過ぎ去り、放課後に訪れたオレンジの円の中心地である住宅街へ到着する。
結局、道路標識はあれ以降出現しなかった。言わば最後の警告だった訳か。

私は夜空を仰ぎ、月の光に照らされたビルの影を探す。
この街で一番高い影だ。
そして月がそのビルに半分隠れるような視点を求めて、息を殺しながら自転車をゆっくりと進める。
動くものは誰もいない。ほとんどの家が寝静まって明かりも漏れていない。
様々な形の屋根が、黒々とした威容を四方に広げている。
やがて私は背の低い垣根の前に行き着いた。街にぽっかりと開いた穴のような空間。
向こうには銀色の街灯が見える。遮蔽物のない場所を選んで通るのか、風が強くなった気がする。
公園だ。
私は胸の中に渦巻き始めた言いようのない予感とともに、自転車を入り口にとめ、スタンドを下ろしてから公園の中に足を踏み入れた。
靴を柔らかく押し返す土の感触。銀色の光に暗く浮かび上がる遊具たち。
見上げても月はビルに隠れていない。ここではない。けれど今、私の視線の先には、街灯の下に立つ二つの人影があるのだ。
ごくり、と口の中のわずかな水分を飲み込む。
人影たちも近づいて行く私に明らかに気づいていた。こちらを見つめている複数の視線を確かに感じる。
風が耳元に唸りを上げて通り過ぎた。

「また来たよ」

影の一つが口を開いた。

「どうなってるんだ」

ようやくその姿形が見えて来た。眼鏡を掛けた男だ。白いシャツにスラックス。
ネクタイこそしていないが、サラリーマンのような風貌だった。神経質そうなその顔は、30歳くらいだろうか。

「こんな時間に、こんな場所に来るんだから、私たちと同じなんでしょうね」

声は若いが、外見は50過ぎのおばさんだった。
地味なカーキ色の上着に、スカート。
小太りの体型は、不思議と私の心を和ませた。

「あの、あなたたちは、なにを……」

そこまで言って、言葉に詰まる。

「だから、言ってるでしょ。同じだって。あんたも見たんだろ、アノ夢を」

真横から聞こえたその声に驚いて顔をそちらに向ける。
小さな鉄柵の向こうにブランコがひとつだけあり、そこにもう一人の人物が腰掛けていた。
キィキィと鎖を軋ませながら足で身体を前後に揺すっている。

「あんた、高校生?」

馬鹿にしたような言葉がその口から発せられる。
目深にキャップを被っているが、若い女性であることは、声と服装で分かる。
太腿が出たホットパンツにTシャツという、涼しげな格好。あまり上品なようには見えない。

「ま、ここまでたどり着いたってことはタダモノじゃない訳だ」

意味深に笑う。
私の体内の血液が徐々に加熱されていく。
同じなのだ。この人たちは。私と。
彼らは街で起こった怪奇現象と母親殺しの夢の秘密を解いて、ここに集った人間たちなのだ。
得体の知れない不吉さと不安感に駆られて動き回った数日間が、絶対的に個人的な体験だったはずの数日間が、並行する複数の人間の体験と重なっていたということに、歓喜と寒気と、そして昂揚を覚えていた。

「あなた、さっきの夢は、どこまで?」

おばさんがこちらを向いて聞いてきた。私はありのままに話す。

「やっぱり」

少し残念そう。

「みんな同じ所までで目が覚めてるのね」
「も、もういいよ。ここでいつまでも話してたってしょうがないだろ」

眼鏡の男が手を広げて大げさに振った。

「でもねぇ、これ以上はどうやっても探せないのよね」

おばさんが頬に手のひらを当てる。

「あんな、月とビルの位置だけじゃ、ある程度にしか場所を絞れないし、時間経っちゃったから、余計に分かんないのよね」
「こうしてたって、余計分かんなくなるだけじゃないか」
「そうよねえ。取り合えず、近くまで行けばなにか分かるんじゃないかと思ったんだけど……」

そんな言い合いを聞きながら、私の脳裏には先週の漢文の授業で先生が教えてくれた「シップウにケイソウを知る」という言葉が浮かび上がっていた。
確か、強い風が吹いて初めて風に負けない強い草が見分けられるように、世が乱れて初めて能力のある人間が頭角を現すというような意味だったはずだ。
昼間には無数の人々が行き来するこの街で、誰もかれも自分たちのささやかな常識の中で呼吸をしながら暮らしている。
それが例え、日陰を選んで歩く犯罪者であったとしても。
けれど、そんな街でもこうして夜になれば、常識の殻を破り、この世のことわりの裏側をすり抜ける奇妙な人間たちが蠢き出す。
普段は、お互いに道ですれ違っても気づかない。それぞれがそれぞれの個人的な世界を生きている。
それが今はこうして、同じ秘密を求めてここにいるのだ。のっぺりとした匿名の仮面を外して。
私はそのことに言い知れない胸の高鳴りを覚えていた。

「4人もいたら、なにか良い知恵が浮かんできそうなものなのにね」

おばさんがため息をつく。
キャップ女が鼻で笑うように「4人だって? 5人だろ」と指をさした。
みんながそちらを見る。大きな銀杏の木がひとつだけ街灯のそばに立ってる。
その木の幹の裏に隠れるように、白い小さな顔がこちらを覗いていた。
私はそれが生きている人間に思えなくて、髪の毛が逆立つようなショックがあった。
けれどその顔が、驚きの表情を浮かべ、恥ずかしそうに木の裏に隠れたのを見て、おや? と思う。

「え? あら。女の子?」

おばさんが甲高い声を上げる。
「お、おいおい。いつからいたんだ。全然気づかなかったぞ」と眼鏡の男が呟いて、額の汗をハンカチで拭う。

「ねぇ、あなた近所の子? こんな遅くに外に出て、だめじゃないの」

おばさんが優しい声で呼び掛けると、顔を半分だけ出した。10歳くらいだろうか。

「あら、この子、外人さんの子どもかしら」

言われて良く見ると、眼球が青く光っている。
街灯の光の加減ではないようだ。

「帰った方がいい。ここは危ない」

眼鏡の男が早口でそう言い、近寄ろうとする。女の子はまた木の裏側に隠れた。
男が腕を前に伸ばしながら、回り込もうとする。すると、その子はその動きに沿ってぐるぐると反対側に回る。

「あれ、なんだこいつ。なに逃げてんだよ、おい」

眼鏡の男が苛立った声を上げるのを、ブランコに揺られながらキャップ女がせせら笑う。

「あんたロリコン?」
「うるさい」
「ちょっと、やめなさいよ。怯えてるじゃないの」

おばさんが男をなだめる。

「大したものだな。この子、この歳であたしたちと同じモノ見てるんだよ」

キャップ女の口の端が上る。
そんなバカな。こんな小さな子どもが、私と同じことを考えてここまでやって来たというのだろうか。
そう思ったとき、私の耳がある異変をとらえた。
「し」と誰かが短く言う。
息を呑む私たちの耳に、鳥の鳴き声のようなものが聞こえて来た。

ギャアギャアギャア……

カラスだ。
私はとっさにそう思った。公園の中じゃない。
全員が身構える。
鳴き声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
ブランコが錆びた音を立ててキャップ女が降りて来る。

「なんて言ったと思う?」

誰にともなく、そう問い掛ける。

「警戒せよ、だ」

彼女は私の顔を見てそう言った。なぜかデジャヴのようなものを感じた。
足音を殺して、全員が公園の出口に向かう。行動に転じるのが早い。躊躇わない。

私も深呼吸をしてからそれに続く。
公園の敷地を出てから、すぐにアスファルトを擦る靴の音がやけに大きく響くことに気づく。
眼鏡の男の革靴だ。みんな足音を殺しているのに。
複数の睨むような視線に気づきもしない様子で、彼は先頭を切って公園に面した道路を右方向へと進む。
月の光に照らされる誰もいない夜の道を、5つの影が走り抜ける。
5つ? 振り向くと、小さな少女が厚手の服をヒラヒラさせながら、少し離れてついて来ている。
青い眼が月光に濡れたように妖しく輝いて見える。
あれも肉体を持った人間なのだろうか。なんだかこの夜の街ではすべてが戯画のように思える。
そしてこれから、なにかもっと恐ろしいものを見てしまうような気がして足を止めたくなる。
それは、昼と地続きの夜を生きる人にはけっして見えないもの。
引き抜かれた道路標識などとはまた違う、自分の中の良識を一部、そして確実に訂正しなくてはならないような、そんなものを。
私はいつのまにか現実と瓜二つの異界に紛れ込んでいるのではないだろうか。
慎重に足を動かしながらそんなことを考える。
細長い緑地が住宅地の区画を分けていて、その一段高い舗装レンガの歩道の上に大きな木が枝を四方に張っていた。
生い茂る葉が月を覆い隠し、その真下に出来た闇に紛れるように小動物の蠢く影が見えた。
立ち止まる私たちの目の前でギャアギャアという不快な声を上げ、その影がふたつ飛び立った。
カラスだ。2羽は鈍重な翼を振り乱して、あっというまに夜の空へ消えて行く。
私たちは息を潜めてカラスたちがいた場所を覗き込む。暗がりに、それはいる。
ああ。やはりこちらが夢なのかも知れない。私の知っている世界では、こんなことは起きない。

「エエエエエエエ……」

弱弱しい声を搾り出すようにして、身を捩じらせる。
それは、まるで巣から落ちてしまったカラスの雛のように見えた。
さっきの2羽が心配して覗き込んでいた両親だろう。
けれどあの悲鳴のような鳴き声は、我が子を案じる親のそれではなかった。

警戒せよ。警戒せよ。この異物を、警戒せよ。
そう言っていたような気がする。

「エエエエエエエ……」

そんな力ない呻きが、ありえないほど小さな人間の顔から漏れる。
赤ん坊のようなその顔の下には、薄汚れた羽毛に包まれたカラスの雛の胴体がくっ付いている。
それは生きていること自体が耐えられない苦痛であるかのように小さな身体をくねらせて、レンガの上を這いずっている。
それを見下ろしている誰もが息を呑み、動けないでいた。
掠れながら呻き声は続く。私の知るそれより、はるかに小さい赤ん坊の顔は、閉じられた目から涙を流しながらクシャクシャと歪んで小刻みに震えている。
やがてその呻き声が少しずつ変調し、聞こえる部分と聞こえない部分が生まれ始める。

「こ、これは、おい、なんだ、これは……」

眼鏡の男が口を押さえて震えている。

「黙りなさい」

その隣でおばさんが短く、しかし強い口調で言う。
風が吹いて頭上の葉がざわめいた。声が聞こえなくなり、私たちは自然と顔を近づける。

「…………か…………い…………に……………」

赤ん坊の頭部を持つそれは、呻きながら同じ言葉を繰り返し始めた。
なんと言っている? 耳を澄ますけれど、目に見えない誰かの手がその耳を塞ごうとしている。
いや、その手は私の中の危険を察知する敏感な部分から、伸びているのかも知れない。
でももう遅い。聞こえる。

か・わ・い・そ・う・に。

そう言っているのが、聞こえる。
涙を流し、苦痛に身を悶えさせながらそれは、かわいそうに、かわいそうに、という言葉を繰り返しているのだ。

「くだん、だ」

眼鏡の男が呆然として呟いた。

くだん? くだんというのは確か、人の顔と牛の身体を持つ化け物のことだ。
生まれてすぐに災いに関する予言を残して死んでしまうという話を聞いたことがある。
人の頭部と、動物の胴体を持っている部分だけしか合っていない。
そう言えば最近、身体が2種類以上の動物で構成された化け物のことを考えたことがあるな。
あれはなんのことだったか。はるか昔のことのように思える。そうだ。あれは間崎京子の謎掛けだ。共通点はなに? 化け物を生んだのは誰?
思考がぐるぐると回る。

「なにか来る!」

キャップ女の鋭い声に振り向くと、黒い塊がこちらに向かって飛び込んで来た。
一番後ろで屈んでいた青い眼の少女が弾けるようにそれを避け、勢い余って尻餅をつく。
私を含む他の4人も瞬時に身体を反転させて、その体当たりから身をかわす。
黒い塊は荒い息遣いを撒き散らしながら、歯茎を見せて私たちを威嚇するように唸り声を上げる。
犬だ。首輪もしていない。野犬だ。
目は血走って、焦点が合っていないように見える。
地面に手をついていた私はすぐに立ち上がり、犬から離れる。
他の人たちも後ずさりしながら木の下から遠ざかる。おばさんが尻餅をついてまま動けないでいる少女を抱き起こしながら慌てて逃げ出す。
犬は、離れていく人間には興味を示さずに、舌を垂らしながら木の根元の暗がりへ首を伸ばした。
そして、ぐるるるる、という唸り声と、肉が咀嚼される気持ちの悪い音が聞こえて来る。

「く、喰ってる」

10メートル以上離れた場所から、腰の引けた状態の眼鏡の男が絶句する。
もうその木の下からは人の声は聞こえない。
ただ肉と骨が噛み砕かれる音だけが夜陰に篭ったように響いているだけだ。
私はどうしようもなく気分が悪くなり、そちらを正視できないほどの悪寒に全身が震え始めた。

遠巻きにそれを眺めることしか出来ない私たちが動きを止めているその前で、徐々に犬の立てる物音が小さくなり、やがて湿り気のある呼吸音だけになる。
空腹を収めることが出来たのか、犬は始めとは全く違う緩慢な動きで舌を這わせ、口の周りを舐め始める。
見えた訳ではない。犬は向こうを向いたままだ。ただそういうイメージを抱かせる音がピチャピチャと聞こえている。
そしてひとしきり肉食の余韻を味わった後、犬は一声鳴いて木の幹を回り込むようにして闇に消えていった。
その最後に鳴いた声は気味の悪い声色で、耳にこびり付いたようにいつまでも離れない。
かわいそうに。
と、私の耳には確かにそう聞こえた。
犬の影が見えなくなると住宅街の中の緑地は静けさを取り戻す。

「なんだったの」

おばさんが少女の手を取ったまま声を絞り出し、眼鏡の男が恐る恐る木の根元に近づいていく。

「喰われてる」

そんな言葉に私も首を伸ばすが、そこには黒い血の染みと散らばった羽毛しか残ってはいなかった。

「畸形、だったのか?」

自問するように眼鏡の男が口走る。
それを受けて、キャップ女が「なわけないだろ」と嘲る。
私もそう思う。畸形だろうがなんだろうが、自然界があんな冒涜的な存在を許すとは思えなかった。ならば……

「幻覚?」

私の言葉に全員の視線が集まる。

「でも、みんな同じものを見たんだろ。その……くだんみたいなやつを」
「ちょっと待て。あんただけ牛を見たのかよ」

キャップ女が突っかかる。

「ち、違う。じゃあなんて言うんだよ、ああいう人間の顔したやつを」
「そう言えば、人面犬ってのが昔いたねぇ」

とおばさんが少しずれたことを言う。

「くだんなら、予言をするんだろ。戦争とか、疫病とかを」

キャップ女が両手を広げてみせる。

「言ってたじゃないか」
「かわいそうに、が予言か?。いったい誰がかわいそうだっていうんだ」

その言葉に、言った本人も含め、全員が緊張するのが分かった。
ざわざわと葉が揺れる。
そうだ。かわいそうなのは、誰だ?
脳裏に、何度も夢で見た光景が圧縮されて早回しのように再生される。
この場所に来た理由を忘れるところだった。
とっさに空を見る。
月は、雲に隠れることもなく輝いている。
月の位置。そして一番背の高いビルの位置。
近い。と思う。

「月はどっちからどっちへ動く?」と眼鏡の男が周囲に投げ掛ける。
「太陽と同じだろ。あっちからこっちだ」とキャップ女が指でアーチを作る。

「あ、でも1時間に何度動くんだっけ? 忘れたな。あんた、現役だろ?」

いきなり振られて動揺したが、「たぶん、15度」と答える。

「1時間、ちょい過ぎくらいか、今」

そう言いながら眼鏡の男が指で輪ッかを作って月を覗き込む。

「15度って、どんくらいだ」

輪ッかを目に当てたまま呟くが、誰も返事をしなかった。
「でもたぶん、近いわね」とおばさんが真剣な表情で言う。

「手分けして、虱潰しに探すか」

眼鏡の男の提案に、賛同の声は上がらなかった。
やがて「こんな時間に一般人を叩き起こして回ったら、警察呼ばれるな」と自己解決したように溜息をつく。
暫し気分的にも空間的にも停滞の時間が訪れた。
キャップ女とおばさんが、小声でなにかを話し合っている。
眼鏡の男はぶつぶつと独りごとを言っていたが、木の幹に隠れるように寄り添っていた青い眼の少女に向かって「おまえもなんか言えよ」と投げ掛けた。

少女は、身構えたようにじっとしたまま瞼をぱちぱちとしている。
私はさっきのフラッシュバックに引っ掛かるものを感じてもう一度夢の光景を思い出そうとする。
それは些細なことのようで、また同時にとても重要な意味を持っているような気がする。
どこだ? 揺らめく記憶の海に顔を漬ける。
刃物の感触? 違う。ロックが外れる音。チェーンを外すための背伸び。叩かれるドア。
違う。まだ、その前だ。足音。その足音を、母親のものだと知っている。足音は、下から登ってくる……
ハッと顔を上げた。
確かに、足音は下の方から聞こえて来た。何故それをもっと深く考えなかったのか。
2階以上だ。2階以上の場所に玄関があるということは、集合住宅。マンションか、アパートか。
私は夜の中へ駆け出した。他の人たちの驚いた顔を背中に残して。
考えろ。フラットな場所の足音ではない。登ってくる音だった。
マンションなら、部屋の中から通路の端の階段を登ってくる足音が聞こえるだろうか。
端部屋なら、可能性はある。でも、例えば、階段が部屋の玄関のすぐ前に配置されているようなアパートなら、もっと……
私の視線の先に、それは現れた。
比較的古い家が並んでいる一角に、木造の小さな2階建てのアパートがひっそりと佇んでいる。
1階に3部屋、2階にも3部屋。玄関側が道に面している。
ささやかな手すりの向こうにドアが6つ、平面に並んで見える。
1階から2階へ上がる階段は、1階の右端のドアの前から2階の左端のドアの前へ伸びている。
赤い錆が浮いた安っぽい鉄製の階段だ。登れば、カン、カン、とさぞ騒々しい音を立てることだろう。
立ち尽くす私に、ようやく他の人たちが追いついて来た。

「なんなのよ」
「待て、そうか、足音か」
「このアパートがそうなのか」
「……」

アパートに敷地に入り込み、階段のそばについた黄色い電灯の明かりを頼りに、駐輪場のそばの郵便受けを覗き込む。

上下に3つずつ並んだ銀色の箱には、101から203の数字が殴り書きされている。
名前は書かれていない。そして101と、201、そして203の箱にはチラシの類が溢れんばかりに詰め込まれている。
綺麗に片付けられた番号の部屋には、現在まともに住んでいる入居者がいるということだろう。
2階で綺麗なのは202だけだ。
道理で、母親の足音だと分かったはずだ。階段を登ってくるものは、他にいないのだろう。
同じようにその意味を理解したらしい人たちの息を呑む気配が伝わって来る。
階段を見上げながらそちらに歩こうとすると、いきなり猫の鳴き声が響いた。
見ると、青い眼の少女の前から1匹の汚らしい猫が逃げて行くところだった。
敷地の隅に設置されたゴミ置き場らしきスペースだ。黒いビニール袋やダンボールが重ねられている。
青い眼の少女は猫の去ったゴミ置き場から目を逸らさずにじっとしていた。
その異様な気配に気づいた私もそちらに足を向ける。
じっとりと汗が滲み始める。さっき走ったせいばかりではない。
暗い予感に空間がグニャグニャと歪む。私の鼻は微かな臭気を感知していた。肉の匂い。腐っていく匂い。
ゴミ置き場が近くなったり、遠ざかったりする。雑草が足に絡まって、前に進まない。どこからともなく荒い息遣い。
そしてその中に混じって、かわいそうに、かわいそうに、という声が聞こえる。
幻聴だ。雑草も丈が短い。ゴミ置き場も動いたりなんかしない。
理性が、障害をひとつ、ひとつと追い払っていく。
けれど臭気だけは依然としてあった。
ひときわ中身の詰まった黒いゴミ袋が、スペースの真ん中に捨てられている。
2重、いや3重にでもされているのか、やけにごわごわしている。
誰も息を殺してそれを見つめている。肩が触れないギリギリの距離で、皆が並んでいる。
胸に杭が断続的に打ち込まれているような感じ。手をそこに当てる。見たくない。

でも目を逸らせない。
眼鏡の男が、腰の引けたままゴミ袋の上部に出来た破れ目に指をかける。さっきの猫の仕業だろうか。
ガサガサという音とともに、中身が月の光の下に現れる。
土気色の肌。
目を閉じたまま、口を半開きにした幼い女の子の顔が、ゴミ袋の破れ目から覗いている。
生きている人間の顔ではなかった。
それを見た瞬間、全身の血が沸騰した。
足が土を蹴り、無意識に階段の方へ駆け出す。
けれど次の瞬間、前に回りこんだ何者かの手に肩を押さえられる。遠慮のない力だった。
目の前に顔が現れる。目深に被ったキャップの下の険しい表情。

「落ち着け」

その言葉が私に投げ掛けられるすぐ横を、眼鏡の男がなにか喚きながら駆け抜けようとする。
キャップ女は間髪要れずに右足を引っ掛け、眼鏡の男はその場に転倒した。
「なにするのよ」とおばさんが叫んで、私の背中を押す。
その力は私の前進しようとする力と併わさり、じりじりとキャップ女は後退を始める。

「落ち着け。なにをする気だ」

なにをする気? 決まってる。報復をしなければいけない。同じ目に遭わせてやる。
子どもをゴミ同然に捨てながら、202号室のドアの向こうにのうのうと生きているあの母親を。
「どきなさいよ」とおばさんが上ずった声でキャップ女を怒鳴りつける。
すぐ横では眼鏡の男が立ちあがろうとする。
「クソッ」と呻きながら、キャップ女が右足を跳ね上げ、男の顔面を蹴った。
ジャストミートはしなかったが、眼鏡が弾けるように宙に飛んで草むらに消えた。
「うわっ」と、眼鏡の男は両手で顔を押さえる。
足を上げたせいでバランスを崩したキャップ女が体勢を立て直す前に、私は掴まれた肩を振りほどきながら一気に突進した。

一瞬、押し返されるような強い反動があったが、堰が切れるようにその壁が崩れる。
3人が絡み合うようにひっくり返り、勢いあまったキャップ女の側頭部が階段の基部のコンクリートに叩きつけられるのが目に入った。
私も地面に肘を強く打っていた。痛みに顔を顰めるが、すぐに立ちあがろうとする。
でもなにかが太腿の裏に乗っている。邪魔だ。おばさんの胴体か。
「アイタタタタ」じゃない。すぐに部屋に行かないと。この頭を掻き回すざわめきが、どこかに去っていってしまう気がして。
いきなり服を引っ張られた。後ろからだ。首を廻すと、青い眼の少女が震えながら私の上着を両手で掴んでいる。頭を振って、なんらかの否定の意を表現しようとしている。

「離せ」

そう口にした瞬間、なにか蛇のようなものが首の根元に絡みついた。
ついで、ぴたりとその本体が私のうなじのあたりに接着する。

「悪いね」

そんな言葉が耳元で囁かれ、絡みついたものが私の首を締め上げる。狙いは気道ではない。頚動脈だ。
とっさに腕を背後に回そうとするが、もっと力の強い別のなにかが私の胴体ごと腕を挟み込む。
意識が遠のいていく。夜空には月が冷え冷えと輝いている。星はあまり見えない。
暗い。月も暗くなっていく。苦しいけれど、少し心地よい。
そこで世界はぶつりと途絶えた。

目が覚めたとき、私はベンチで横になっていた。額の上に水で濡れたハンカチが乗っている。
指で摘みながら身体を起こすと、銀色の光が目に入った。
公園だ。辺りは暗い。街灯に照らされた大きな銀杏の木の影がこちらに伸びて来ている。キィキィとブランコが揺れる音がする。

「起きたな」

ブランコが止まり、そちらからいくつかの影が歩み寄ってくる。

「良かった。なかなか気がつかないからどうしようかと思ったのよ」

おばさんがホッとしたような顔で言った。

「だから言ったろ。寝てるだけだって」

キャップ女が疲れたような動きで右手を広げる。
じわじわと記憶が蘇って来た。そうだ。私は、裸締めで落とされたのだ。彼女に。
私は目を閉じ、ドス黒い感情が身体の中に残っていないのを確認する。
あれほど目標を破壊したかった衝動がすべて体外に流れ出してしまったかのように、すっきりとした気分だった。
「ぼ、僕たちはあの子の思念に同調しすぎたんだ」と眼鏡の男が言った。

「あ、あやうく、人殺しをさせられるところだった」
「ほんと勘弁して欲しいよ。3対1だったんだから。おっと、あの青い眼のお嬢ちゃんも入れて3対2か。まあ手荒な真似して悪かったな」

力なく笑うキャップ女に眼鏡の男が頭を下げる。

「いや、おかげで助かった。ありがとう」

その眼鏡のフレームは少し歪んでしまっている。
私はそのとき、キャップ女の頬を伝う黒い筋に気がついた。
こめかみから伸びる乾いた血の跡だ。
転倒したときに階段の基部で打った部分か。

「ああ、これか。カスリ傷だ」
「痕にならないといいけど」

とおばさんが心配げに言う。

「他にもいっぱいあるし、いいよ別に」

そんなやり取りを聞きながら、私は肝心なことを思い出した。

「あの子は、どうなったんですか」

一瞬、風が冷たくなる。
キャップ女がゆっくりと口を開く。

「現場維持のまま、撤退して来た。……おい、ここでまたキレんなよ。とにかく、ここから先は警察の仕事だ。わたしたちが動いていい段階は終わったんだ」

あの子を、あの子の死体を、ゴミ袋に入れられた状態のまま放置したのか。
思わずカッとしかける。

「あの子は、母親を殺さなかった。殺す夢を見ても、殺さなかった。最後まで、殺されるまで、殺さなかった。ギリギリのところで、そんな選択をした。わたしたちが、この街の人たちが、こうして静かな夜の中にいられるのもそのおかげだ」

目に映る住宅街の明かりはほとんどなく、目に映るすべてが夏の夜の底に眠っている。

「ここに来るべきじゃなかった。そんな警告すら、あの子はしていたような気がする。もう終わったことだ。招かれざる侵入者は。目を閉じて去るべきだ」

キャップの下の真剣な目がそっと伏せられた。
警告。そうか、あのコーンや道路標識はそのためなのか。
ではあの、カラスとヒトがくっついたような不気味な生き物は?
誰もその答えは持っていなかった。分からない。分からないことだらけだ。
私は自分の住む世界のすぐそばで、目を凝らしても見えない奇妙なものたちが蠢いていることを認めざるを得ないのだろうか。
子どものころから占いは好きだったけれど、心のどこかではこんなもの当たるわけないと思っていた。
それでも続けたのは、予感のようなものがあったからなのかも知れない。
100回否定されても、101回目が真実の相貌を覗かせれば、私たちの世界のあり方は反転する。
そんな期待を持っていたのかも知れない。

『変わってる途中、みたいな』

そうだ。私は変わりつつある。
何故だか、身体が武者震いのようなざわめきに包まれる。
その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた。それも強烈に。誰もいないはずの背後の空間から。
キャップ女の身体が目にもとまらないスピードで動き、私の座るベンチの端に足を掛けたかと思うと、全身のバネを使って虚空に跳躍した。
そして闇の一部をもぎ取るようにその右手が宙を引き裂く。
一瞬空気が弾けるような感覚があり、耳鳴りが頭の中で荒れ狂い、そしてすぐに消え去る。

キャップ女の身体が落ちて来る。そして土の上で受身を取る。

「逃がした」

起き上がりながら指を鳴らす。
なにが起こったのか分からず、みんな唖然としていた。

「今、空中に眼球が浮かんでたろ?」

誰も見ていない。頭を振るみんなに構わず彼女は続ける。

「あれは、今回の件とは別だな。個人的なもの。あんたについてたんだ。心当たり、あるか」

名指しされて私は混乱する。
誰かに見られているような感覚は確かにあった。
先輩の家でポルターガイスト現象の話を聞いた夜。
いや、その感覚はその前から知っている。
なんだ? 視線。冷たい視線。笑っているような視線。表情を変えずに、微笑が嘲笑に変わって行くような……
私の中にある女の顔が浮かぶ。その女は、私のことはなんでも知っていると言った。
そして私が駆けずり回って調べたようなことを、まるで先回りでもするようにすべて知っていた。はっきりとは言わないが、間違いなく。

「気に入らないな。ああいう、顕微鏡覗いてマスかいてるような輩は」

キャップ女は口の端を上げて犬歯を覗かせた。

「迷惑なやつなら、シメてやろうか」

強い意志を秘めた炎が瞳の中で揺らめいている。私はそれにひとときの間、見とれてしまった。

「ま、困ったことになったら言えよ。私はいつでも――」

夜をうろついているから。
彼女はそう言って、ずれてしまったキャップを深く被り直し、私たちに背を向けて歩き始めた。

「そういやさ」

思いついたように急に立ち止まって振り向く。

「こんくらいの背の、若いニイちゃん、誰か見なかった?」

私たちのようにこの住宅街までたどり着いた人間という意味だろうか?
全員が首を横に振る。

「あの、ボケェ」

キャップ女はそう吐き捨てる。

「じゃあこ~んな眉毛の、ゴツイ奴は?」

またみんなの首だけが左右に振られる。

「アンニャロー」

そう言っておかしげに笑い、「じゃあね」とまた踵を返して歩き出す。

「あ、そうそう。ケーサツ、電話しとくから。逃げといた方がいいよ。わたしたちみたいな連中はこんなことに関わると、めんどくさいだろ。いろいろと」

前を向いたまま、高く上げた右手を振って見せた。
その影が公園の出口へ消えて行くのを見届けたあとで、残された私たちは顔を見合わせた。

「ぼ、僕も帰る。明日は朝から会議なんだ。じゃ、じゃあね」

眼鏡の男が踵を返そうとする。
その回転がピタリと止まって、もう一度その顔がこちらに向いた。

「僕は、変なものを、よく見るんだけど、お化けとか、そんなの、だけじゃなくて、なんていうかな。その、もう一人のキミが、いるよね」

ドキッとした。秘密を覗かれた気がして。

「それ、きっと悪いものじゃないから。気にしないでいいと思うよ」

じゃあ、と言って彼は去って行った。

「あら、そう言えばあの外人さんの子どもは?」

おばさんがキョロキョロと辺りを見回す。
銀杏の木の影に二つの光が見えた。
次の瞬間、太い幹の裏側にスッと隠れる。

「ちょっと。おうちまで送ってあげるから、わたしと一緒に帰りましょう」

おばさんが木の幹に沿って、裏側に回り込む。
まるで眼鏡の男が始めにしたような光景だ。
しかし見つめる私の目の前で、おばさんだけが反対側から出て来る。
女の子の姿はない。

「あら? いない」

狐につままれたような顔で木の裏側を見ようとおばさんが再び回り込もうとする。
女の子が上手に逃げている訳ではない。
私の目にもおばさんだけがグルグルと木の周りを回っているようにしか見えない。

女の子は忽然と消えていた。

「なんだったのかしら」

おばさんは立ち止まり首を捻っていたが、気を取り直したように私の方を見た。

「わたし、市内で占い師をしてるから、今度会ったららタダで占ってあげるわよ」

そう言ってウインクをしたあと、痛そうに腰をさすりながら公園の出口へ歩いて行った。
一人残された私は、今までにあった様々な出来事が頭の中に渦を巻いて、軽い混乱状態に陥っていた。
蛾が、街灯にぶつかって嫌な音を立てる。
色々な言葉が脳裏を駆け巡り、目が回りそうだ。
その中でも、ある言葉が重いコントラストで視界に覆い被さってくる。

「救えなかった」

それを口にしてみると、ゴミ袋から覗く土気色の顔がフラッシュバックする。
そして暗い気持ちが、段々と心の奥底に浸透し始める。
ゴミ置き場に無造作に捨てるなんて、死体を隠そうという意思が感じられない。
まるで本当のゴミを捨てるようなあっけなさだ。
どんな家庭で、どんな母親だったのか知らないけれど、精神鑑定とやらでひょっとすると罪に問われなくなるのかも知れない。子どもを殺したのに。
いや、直接手を下したのかどうかは分からない。
だけど彼女はしかるべき罪に問われるべきだ。
ふつふつとドス黒い感情が胸の内に湧き始める。
いけない。
顔を上げて、深呼吸をする。呼吸の数だけ、視界がクリアになっていく気がする。
また同じ過ちに身を委ねるところだった。
しっかりしないと。もう自分しかいないのだから。
ゆっくりと土を踏みしめ、公園の出口に向かう。そして車止めのそばにとめてあった自転車に跨る。
終わったんだ。全部。
そう呟いて、夜の道を、帰るべき家に向かってハンドルを切った。
雲に隠れたのか、月はもう見えなかった。

『幕のあとで』

疲れ果て、最後の気力を振り絞って自転車を漕いでいた私は、家まであと少しという場所まで来ていた。
すべてが終わったという安心感と、なにもできなかったという無力感で、力が抜けそうになる足を叱咤してどうにか前に進んでいた。
両側に家が立ち並ぶ住宅地だったが、街灯の数が足らないのか、いつも夜に通ると少し心細くなる一角だった。
その暗い夜道の向こうに、緑色の光が見える。
公衆電話のボックスだ。
子どものころの経験から、お化けの電話と呼んでいる例の箱。
今、その電話ボックスからヒトを不安にさせるような音が漏れて来ている。
DiLiLiLiLiLiLi……DiLiLiLiLiLiLi……と、息継ぎをするように。
それに気づいたとき、一瞬ドキッとしたがすぐにその正体に思い当たる。
またあの女だ。
私が帰る時間を見計らって、ずっと鳴らしていたのだろうか。
それとも今も、私の行く先をどこかで覗き見ているのだろうか。
どっちにしろ、近所迷惑だ。こんな夜中に。
無視したいのは山々だったが、溜息をついて自転車を降りる。
内側に折れるドアを抜け、箱の中に滑り込む。ベルの音が大きくなった。
緑色の鈍重そうなそのフォルムを一瞥したあと、受話器をフックから外す。
そして耳と顎をくっつける。

「もしもし」

私の呼び掛けに、受話器の向こう側で誰かの呼吸音が微かに聞こえた。

「もしもし?」

もう一度繰り返す。耳を澄まして少し待つ。
ようやく、受話器から声が聞こえて来た。

「あなたはだあれ?」

間崎京子じゃない。
一気に緊張した。爪先から頭まで、電流が走り抜ける。

「あなたは誰なのかな。若い子ね。同い年くらいかな」

聞いたことのない声だ。けれど相手は若い女性であることだけは分かる。

「まあいいわ。言うべきことを言うね。……あなたは今、すべてが終わったと思っているわね。でもだめ。終わってないの」

淡々と語る口調は、いったいこの世のものなのだろうか。
私の脳が生み出した幻覚ではないという保障は? なんという名前だったか、あの近所の男の子。
お化け電話から声が聞こえると言って怯えて逃げ出した子。私の耳には聞こえなかった。
誰か、今すぐここへ来て、私の代わりに受話器に耳をあててくれないか。

「あなたは死体の顔を見たわね。すっかり血が抜けたみたいに土気色をしていた。いったいどれくらい前に死んだのかしら。6時間? 半日? 一日? どちらにしても、きっとあなたが駆けつける前からとっくに死んでいたわね。そう、死臭も嗅いだはずよ」

なんだ? なにを言ってる?
なにを、言ってるんだ?

「あなたの、あなたがたの最後に見た夢は、いったい誰の見た光景なんでしょうね」

爪先から頭まで電流の走り抜けた場所に、今度は冷たい金属を流し込まれたような悪寒が発生する。

「終わってないのよ。途絶えたはずの意識に、続きがあった。そのかわいそうな子どもの魂は、肉体の檻から解き放たれて、今は夜の闇を彷徨っているわ。そして少しずつ、とっても恐ろしいものに生まれ変わろうとしている。それは檻の中にあっても街中に手が届くような力を持っていた。名前はまだない。怪物に、名前をつけてはいけない。きっと取り返しのつかないことになるから」

ねえ、聞いてる?
受話器の向こうで誰かが首を傾げる。

「あなたはもう一度それに遭うことになる。そして病いにも似た刻印を押され、真綿で締められるような苦しみの中に身を置くことになる。忘れないで。今夜出会った人たちがきっと助けになるでしょう。顔をよく覚えておくことね。あ、でもだめ。一人はいなくなる。『代が替わる』のね」

なにを言ってるんだ、いったい。

「わたしにも分からないのよ。ただこんな電話を掛けたという記憶があるだけ。夢の中でわたしが話してるのね。それを再現してるのよ。運命が変えられるかどうかは分からない。でも心構えをするってことが、大事になることだってあるでしょう」

クラノキ、と彼女は名乗った。

「顔も知らない人の夢を見るなんて珍しいな。きっといつかあなたとわたしは友だちになるのかも知れないね。そのころのわたしは、今夜の電話のことなんて忘れてしまってるでしょうけど」

じゃあ、お休みなさい。
そう言って電話は切られた。
混乱する頭を抱えて、私は電話ボックスを出る。

夢。まるで夢の中だ。なにが現実なんだろう。
ポルターガイスト現象の焦点だった少女が、エキドナが、怪物たちのマリアが、最期に恐ろしい怪物を産み落としたというのか。
それがやがて私に苦しみをもたらすと? なんなのだ。どこからどこまでが現実なんだ。
目を閉じて、一秒数えよう。目を開けたら、他愛もなくありふれた土曜日の朝でありますように。

そのときだ。
目を閉じた私の中に、説明しがたい奇妙な感覚が生まれた。
それは言うならば、どこか分からない場所で、なんだか分からないものが、急に大きくなっていくような感覚。
私の五感とは全く関係なく、それが分かるのである。
私は辺りを見回す。離れたところにあったはずの街灯がもう消えてしまって、見えない。
大きくなってる。まだ大きくなってる。
熱を出したときに、布団の中で感じたことのあるような感覚だ。
象くらい? クジラくらい? もっとだ。もっと大きい。ビルくらい? ピラミッドくらい?
もっと。もっと、大きい。

私は訳もなく涙が出そうな感情に襲われた。それは恐怖だろうか。哀しみだろうか。
道の真ん中で空を見上げた。
月が見えない。
大きい。とてつもなく大きい。山よりも。天体よりも。どんなものよりも大きい。
夜に、鱗が生えたような。
呆然と立ち尽くす私の遥か上空を、にび色の魚鱗のようなものが閃いて、音もなく闇の彼方へと消えていった。

……
薄っすらと目を開けて、シーツの白さにまた目を閉じる。
土曜日の朝。カーテンから射し込み、ベッドの上に折り畳まれる、優しい光。
窓の外からスズメの鳴き声が聞こえる。
いったい、スズメはなんのために囀っているのだろう。
ベッドの上に身体を起こす。
この私は昨日までの私だろうか。
あくびをひとつする。髪の毛の中に指を入れる。気分はそんなに悪くない。朝が来たのなら。
『運命が変えられるかどうかは分からない』という言葉が昨日の記憶から蘇り、羽根が生えたように周囲を飛び回り始めた。
もう一度寝そべって、シーツに指で文字を書く。

fate

暫くそれを眺めたあとで、手前にもう一つ文字をくっつけた。

no

それから、私は久しぶりに笑った。
怖い夢は、見なかった気がする。

[完]

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