『もういいかい』
122 :もういいかい ◆oJUBn2VTGE:2010/08/29(日) 21:20:14 ID:zEqctehg0
師匠から聞いた話だ。
大学二回生の春だった。
休日の昼間に僕と加奈子さんは、とある集会所に来ていた。平屋のさほど大きくない建物だ。
バイト先の調査事務所の所長から、話を聞きにいくように指示されただけで、
なんの準備もなしに、渡された地図を頼りにやって来たのだった。
迎えてくれたのは五十年配の女性。
玄関から入ってすぐの襖を開けると十畳ほどの日本間があり、そこへ通された。
地区の寄り合いに利用される集会所で、鎌田さんというその女性はそこの鍵を管理しているらしい。
その鎌田さんのご主人が地区長をしていて、また彼女自身、地区の婦人会の会長とのことだった。
その土地の名主的な家柄ということだろう。
鎌田さんがほっそりした顔に困惑げな表情を浮かべて切り出したのは、その集会所にまつわるお化けの話だった。
「気持ちの悪い声、ですか」
「ええ」
加奈子さんの言葉に頷きながら、彼女は気味悪そうに視線を部屋の中に彷徨わせる。
思わずその視線を追いかけるが、なにも変わったものは見つからなかった。
話を聞くに、かなり以前からこの集会所の中で、
誰のものとも知れない声が、どこからともなく聞こえてくることがあったそうだ。
昼のさなかであればこそ、夜の集会所ともなれば人ごこちのしない不気味さで、
ましてたった一人居残って片付け物をしている時に、誰もいないはずの部屋の中から声がするともなれば、
その恐ろしさいかばかりか、ということらしい。
昔から密かにささやかれていた噂話だったのが、
このところのオカルトブームのせいか、地区の子どもたちの間でその噂が一人歩きしはじめ、
『お化けの声に話しかけられたら、返事をしないと殺される』だの、
逆に『返事をしてしまうと、床下に引きずり込まれる』だのといった恐ろしげな怪談になってしまい、
子ども同士で物陰に隠れて、脅かしあいをするのが流行り、
気の弱い子が気絶して、救急車を呼ぶような騒ぎも起こってしまったとのことだった。
「お寺や神職に、お払いをしてもらわなかったんですか」
加奈子さんがそう問うと、鎌田さんは答えにくそうに「あ、ええ」と曖昧な返事をした。
その様子から僕は、『お払いをしてもらっても、怪異が終わらなかった』という裏を読み取った。
たぶん加奈子さんもそう思っただろう。
そうでもなければ、こんな話が小さな興信所に持ち込まれるわけはない。
たとえ『お化け』がらみの依頼をいくつも解決し、業界内では多少名の知れた看板娘がいるにしてもだ。
「その噂はいつごろからあるんです」
「さあ……二十年、いえ、二十五年くらい前だったか、この集会所は一度建て替えをしてまして、
その前からあったかどうか」
そう言って鎌田さんは首を捻った。
ということは、はっきり分からないくらい昔からある噂ということか。
「あなた自身は、その声を聞いたことがありますか」
ハッと表情を硬くして、鎌田さんは曖昧に頷く。
「声だけなんですか。姿を見たという人は?」
「私は……見たことはございませんけれど」
言いよどむ。
見たという噂は歩いている。そう受け取った。
しかし、『気持ちの悪い声が聞こえる』という噂がメインであることは間違いないようなので、
『なにかを見た』という噂の方は信憑性がさらに低い。
「少し、見させてください」
加奈子さんは立ち上がり、周囲を軽く見回しただけで襖に手を掛けた。
日本間から出ると、真剣な表情で集会所の中を一通り見て回る。
もう一回り小さい部屋に、トイレ、台所。祭りで使うような提灯や、小道具でいっぱいの物置。
二階もなく、あっという間にもう見るべき場所はなくなってしまった。
ついて回っているあいだ、僕も何か違和感がないかとアンテナを張っていたが、特に感じるものはなかった。
しかし加奈子さんは、僕より遥かにそういう違和感を感じ取る能力が高い。畏敬を込めて師匠と呼ぶほどにだ。
その師匠が難しい顔をして廊下の天井を睨んでいる。
一緒にそちらを見上げるが、木目が波打っているだけで何も変なところはない。
『どうしました』と言おうとして、手で制された。
「何か聞こえる気がするんだけど、なんとも言えないな」
思わず耳を澄ます。しかし何も聞こえない。
師匠が神経を集中し始めたのが分かる。表情が無くなり、身動きをしなくなる。
僕は固唾を飲んでそれを見守る。鎌田さんが後ろで気味悪そうに佇んでいる。
師匠の気配が揺らぐ。ゆらゆらと、まるでそこから消えて行きそうな錯覚。
僕は怖くなって、彼女を現実に戻すために肩を叩こうかと逡巡した。
「わかんない」
ふいに彼女が戻ってくる。その声に僕は少しほっとする。
結局、怪異に遭遇したという体験談が多い夜まで様子を見ることになった。
鎌田さんは半信半疑というか、困ったような顔のまま僕らに鍵を預け、
「よろしくお願いします」と言いおいて立ち去った。
昼の三時過ぎだった。
今日はこの集会所を使うような予定も特にないらしく、僕と師匠はひっそりとした室内に腰を据えた。
探索もしたばかりだったのでとりあえずすることもなく、
玄関からすぐの日本間で古い型のテレビをつけて、さほど面白くもない旅番組を見ていた。
「気持ちの悪い声って、なんなんでしょうね」
ぼそりと口にした僕に、座布団を数枚並べてその上に寝転がっていた師匠が顔を上げる。
「お化けだといいな」
「お化けだといいですね」
賛同しつつも、自分たち以外のなんの気配も感じないことに疑惑を抱いていた。
異常に霊感の強い師匠でさえ『なんとも言えない』と言っているのだ。
もし何らかの霊的存在が巣食っていたとしても、微弱で矮小なやつに違いない。
噂にあるように、『話しかけられたら返事をしないと殺される』だとか、
『返事をしてしまうと床下に引きずり込まれる』といった素晴らしい体験は、間違いなくできないだろう。
溜め息をついて僕はトイレに立った。
廊下に出る時、ギィ、と床が鳴いて、無駄に広い集会所の壁や天井に反響した。
防音構造になっているのか、外の音があまり中まで響いてこない。
なるほど、これで中の音がやけに大きく聞こえて、ちょっとした物音でも気になってしまうのか。
トイレから戻り、またテレビの前に寝そべる。
時間だけが過ぎていく。
チッチッチッチ……という壁にかかった時計の音が、テレビが静かになる瞬間にだけやけに大きく響く。
鎌田さんから食べていいと言われていた台所の柏餅を日本間に持ち込んで、自分で淹れたお茶と一緒に口にする。
「うまいな」
「うまいですね」
やがて夕暮れがやってきて、小さな窓からも光が失われていく。
知らぬ間にうとうとしていた。
師匠がなにか言った気がした。
畳の跡が頬に張り付き、剥がす時にヒリリとする。半覚醒の頭で言葉を認識しようとする。
ああ、そうか。
『もういいかい』
そう言われたのだ。
身体を起こすと、周囲を見渡す。師匠がテレビの前で、うつ伏せになったまま死んだように寝ている。
あれ?師匠じゃなかったのか。
じゃあ、一体誰が。
そう思った瞬間、もう一度聞こえた。今度ははっきりと。
『もういいかい』
立ち上がって身構える。どこから聞こえた?
分からなかった。ただ、その言葉の余韻が室内から廊下に向けて動き、襖を通り抜けていったのを感じた。
この日本間には僕と師匠しかいない。はずだ。
これか。噂は。
緊張して襖に手をかける。そろそろとずらして、首だけで覗き込む。
廊下はすでに暗く、ひっそりと静まり返っている。
闇の戸張りの向こうに人の気配はまったく感じない。
だからこそ異様な空気がひしひしと伝わってくる。
僕はそっと襖を閉め、室内を振り返る。
師匠はまだ寝ている。膝をついて揺り起こす。
もぞもぞと動いていたが、めんどくさそうな声で「お化け以外見たくない」と呟いたのが聞こえた。
「見えないから問題なんですよ」
僕は白いストレッチパンツのお尻の部分を、遠慮なく叩いた。
「ッてぇな!」
師匠が乱暴な口調で起き上がったその瞬間だった。
『もういいかい』
どこからともなくそんな問いかけが降ってきた。思わず二人とも動きが硬直する。
視線だけを走らせて室内を観察するが、なにも目に見える異常はない。
なんだ?これからなにが起こる?
ドッドッドッ、という心臓の音を聞きながら考える。
噂ではなんと言っていた?
返事だ。返事はするのが正解か、しないのが正解か。『もういいかい』に対してする返事は……
「師匠」
横目で見ると「黙ってろ」という一言。
緊張しながらもじっとしていると、また得体の知れないその声の余韻が、空中に糸を引いたようにすうっ、と動き、
今度はテレビのある壁の向こうに消えていった。
壁の向こうは外のはずだ。
はぁっと息を吐き、初めて自分が息を止めていたことに気づく。
師匠は間を置かずに走り出した。
廊下に出て、電気を点けて回る。トイレや台所、物置ともう一つの小部屋。
すべて一通り探索したが、自分たち以外の第三者はどこにも潜んではいなかった。
玄関に戻ってきてドアを見ると、自分たちで施錠した時のままだった。
腕時計を見ると夜の八時過ぎ。ほんの少しうとうとしたつもりだったのに、こんなに時間が経っている。
「さっきのはなんでしょう」
恐る恐る訊く僕に、師匠はかぶりを振った。
「言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった。普通の霊とは違う気がする。かと言って物霊とも……」
僕は『もういいかい』という、さっきの言葉の声色を思い出そうとする。
男か、女か。そして若いのか、年寄りなのか。
しかし駄目だった。
空気を振動させて伝わった音ならば、記憶の中に確実に残っているはずだが、
あの声は直接脳に響いたとでも言うのか、まったく勝手が違った。
まるで幻聴を思い出そうとするように、捕らえどころのない感じ。
余計な情報が刻一刻と揮発し、『もういいかい』という言葉の意味だけが純粋に脳裏に刻印されていく。
最後に壁の向こうに余韻が消えていったような気がしたことを思い出し、玄関の扉に目を向ける。
師匠も頷いて、玄関の段差を降り靴に足を入れた。
扉を開けて外に出ると、明るさに慣れた目に夜の空気がどろどろと黒い幕となってまとわりついてきた。
古い家の並ぶ閑静な住宅街の一角にある集会所の敷地は広く、玄関から表の道路まで少し距離があった。
その間の砂利道を歩いてくる黒い人影に気づいた。
「どうかされましたか」
怪訝そうな表情が、敷地の隅の街灯の明かりに照らし出される。鎌田さんが両手にお盆を抱えて立っていた。
ホッとして、「ええ、それが」と言いかけるのを師匠が制した。
「ちょっと訊きたいことがありますが、いいですか」
「え、ええ、はい」
鎌田さんは玄関の扉を開けてお盆を置いた。
ラップに包まれたお握りが六つと、惣菜らしいタッパーがのっていた。夜食を持ってきてくれたようだ。
「姿を見た、という人はいないんですね」
「え、ああ、噂ですか。そうですね、あんまり。声がすると。みんな」
「あなたは聞いたことが?」
「……気のせいかも知れませんが」
「もういいかい」
師匠の言葉に、鎌田さんは肩をビクリとさせる。
やはり。
「噂では、返事をするとどうだとか、しないとどうだとか言っていましたが、実際に」
そこまで言った時、また聞こえた。
『もういいかい』という声が、どこからともなく、そしてどこへともなく。
だが、今度はその声と同時に、なにか別の気配が高まるのを感じた。
それはほんのわずかな違和感だったが、僕の首筋をひやりと撫でて、師匠を一瞬で反応させた。
玄関から飛び出して走り出す。
集会所の壁伝いに左側へ回り込む。
自転車が何台か置き捨てられている場所を膨らみながらかわし、玄関正面から見て敷地の右奥へと向かう。
敷地の端の煉瓦塀のあたりは砂利だったが、集会所の側の地面はコンクリで舗装されている。
その壁際に、プロパンガスのボンベが二基立てられている。
小さな窓に見覚えがあった。頭の中で集会所の間取りを思い浮かべる。ちょうど台所の裏手だ。
師匠はその壁際の地面に両手をついて這いつくばる。這っている蟻を見つけようとするような格好だった。
しかしその目の焦点は遥か地面の下に向かっている。
「なにか、埋まっているな、ここに」
コンクリ舗装の地面を食い入るように見つめたまま、師匠は呟いた。
僕は少し手前で立ち止まり、固唾を飲んでその様子を眺める。
ようやく鎌田さんが追いついてきて、怯えたように「どうしましたか」と問いかけた。
師匠はその声が聞こえなかったかのように、ひたすら地面を舐めるように見ていたが、
やがて身体を起こし、「なにか、埋まっていますね、ここに」と言った。
僕はこちらの方角からなにか気配のようなものを感じ取っただけだったが、師匠は確実に場所まで特定したらしい。
「なにかと言いますと?」
「それが知りたいんですよ。この下はなんです?もしかして、地下室かなにかがあるんじゃないですか」
鎌田さんは首を捻っていたが、「そんなものはありません」と断言した。
確かにそれもそうだろう。
平屋のなんの変哲もない集会所に、地下室など似つかわしくないし、
中を探索した結果、それらしき地下への出入り口はなかった。
小さな貯蔵庫の類もないということを付け加えられ、師匠は考え込む。
「じゃあ、浄化槽は?」
一瞬ハッとしたが、さっきトイレに行った時、普通に水洗式だったことを思い出す。
いやしかし、水洗式でも、下水ではなく浄化槽で汚物を溜めるということもあるのだろうか。
「浄化槽は……」
鎌田さんが答えようとした時に、表のほうから懐中電灯の光がゆらゆらと近づいてくるのが見えた。
「なんの騒ぎです」
近所の人だろうか。五十年配の痩せた男性が、緊張したような面持ちでやってきた。
後ろにはその奥さんらしい女性。
「ええと……」
鎌田さんがどう説明したものか迷っていると、
かまわず師匠はその痩せた男に向かって、「この下に浄化槽はありますか?」と訊いた。
男は怪訝な顔をしながらも、「ないよ」と即答した。「今は下水が通ったから」と続ける。
「だったら、下水が通る前は?」
「通る前?」
少し思い出すような表情を浮かべた後、男は表の方を指差した。
「浄化槽はあったけど、玄関の横だな」
そう言えば、トイレは玄関から入ってすぐ左手にあった。浄化槽はその表側に埋まっていたのだろう。
師匠は考え込む。ぶつぶつとなにか呟いている。
いつの間にか男の奥さんらしい女性が消えている。
鎌田さんに向かってなにかジェスチャーをしていたので予感はあったが、しばらくすると数人の足音が聞こえてきた。
「この人が霊能者?」
そんな無遠慮な声が掛かった。小太りのおばさんが興味津々という感じに近寄ってくる。
どうやら、婦人会長の鎌田さんが、独断でこっそり調査事務所に依頼したというわけでもないようだ。
師匠は露骨に嫌な顔をして、それでも増えた地元の人々に向かって再び問いかけた。
「この集会所の建て替えは、いつの話ですか?」
鎌田さんにも訊いた質問だ。
何人かが顔を見合わせ、今年大学卒業のナントカ君が生まれた頃だという情報から、『二十二年前』という結論が出た。
「その建て替えの前から、気持ちの悪い声に関する噂はありましたか」
ざわざわする。
気味悪そうにその中の一人が、「あったと思う」と言った。
建て替えの前からあった?
では、今の集会所の構造にこだわってはいけないということか。
「では建て替え前に、浄化槽はどこにありましたか」という師匠の問い掛けには、すぐに返答があった。
「トイレの位置は変わってないから、同じ玄関の横」
「だったら、そのさらに前でもいいですから、
とにかく、この地下になにか埋まるような心当たりはありませんか」
ざわざわと相談に入る。
いつの間にかまた人が増えてきている。
子どもの姿が表の方に見えたが、すぐに母親らしい女性に引っ張って行かれた。
なんだか大ごとになってきたな。
僕は師匠の後ろに控えたまま、困ったような興奮してきたような、複雑な気持ちで事態を見守っていた。
何度かのやりとりの結果、数十年前にこの集会所が出来る前には、
この敷地は近所の工務店の資材置き場に使われていた、ということが分かった。
その頃、工務店を手伝っていたという初老の男性がたまたまその中にいて、
「地下になにか埋めるようなことはなかったと思う」と言った。
実直そうな物言いではっきりそう告げられると、なんだかもう手詰まりな感じがしてしまったが、
次の師匠の問い掛けで空気が一変した。
「その資材置き場の頃に、気持ちの悪い声の噂はありませんでしたか」
初老の男性は目を剥いて驚きの表情を浮かべた。そして今、重要な事実に気づいたように絶句した。
「……あった」
ええっ?と周囲からも驚きの声が上がる。
「いや、言われて思い出したんだが、確かにあった。そうだ。ヨシミツさんも聞いたと言って怖がってた」
本人も、今の噂と若き日の体験談が結びつくことにはじめて思い至ったようで、頬が紅潮していた。
「どんな声を聞いたんです」と師匠が畳み掛ける。
初老の男性は、「いや、自分は聞いたわけじゃないが」ともぐもぐ言ったあと、
『夜、子どもが遊んでいるような声がする』という怪談じみた話が、従業員たちの間に広がっていたことを話した。
なんだこれは。集会所の建て替えどころの話じゃない。いったいどこまで遡るんだ?
話の行く末にドキドキしていると、師匠がさらに畳み掛ける。
「資材置き場の前は、ここにはなにが?」
この問いには、なかなか即答できる人が現れなかった。
やがておずおずと六十歳くらいの女性が手を挙げて、「松原さんの地所だったはずです」と言った。
その言葉に「そう言えば」という声があがる。
だが、直接当時を知る人は誰もいなかった。かなり古い話なのだろう。
「こりゃあ、うちの年寄りを連れてこにゃあ」と言って妙に嬉しそうにこの場を離れる人がいた。
師匠はもう一度地面に這いつくばり、コンクリの地面をコンコンと叩いたり撫でたりしながら、
なにかを感じ取ろうとするように、目を閉じたり開いたりを繰り返していた。
やがて八十歳は超えていると思われる女性が、息子に連れられてやってきた。
夜の九時を回ろうかという時間に、急に外へ連れ出されたにも関わらず、
泰然自若として、足取りも落ち着き払っていた。
師匠は身体を起こし、そのおばあさんに向かって訊いた。
「ここには、松原さんという方の家があったんですか」
「ええ、ええ、ございました」
「戦前ですか」
「ええ、日中戦争の前に家を引き払いまして、一家揃って隣町へ引っ越されました」
「では、まだ松原さんがここにおられた頃に、家を訪ねられたことは?」
おばあさんの丁寧な口調に、自然と師匠の口調も改まっている。
「ございました。私と一つ違いの、やよいさんというお姉さんがおりまして、よく一緒に遊んでおりましたので」
「その頃、今のこのあたりは、松原家でいうとなにがあった場所でしょうか」
この問いには答えられず、小首を傾げた。
「地下室、もしくは防空壕のようなものは?」
続いての問いにも記憶が定かでないらしく、かぶりを振るだけだった。
「では……」
師匠が一瞬、舌なめずりをしたような気がした。
「このあたりに浄化槽、いや、便槽はありませんでしたか?」
おばあさんは『あ』という顔をした。
「当時はもちろんボットン便所でしたが、確か、玄関からこちらに向かったところに、あったような気がします」
「ここが大事なところなんですが、どうでしょう。その家で、誰かいなくなった人はいませんか?」
いなくなった?
最初は「亡くなった人はいませんか?」と訊いたのだと思った。
しかし師匠は、確かに「いなくなった人はいませんか?」と訊いたのだった。
行方不明になった人ということか。
おばあさんは記憶を辿るように伏目がちに小さく頷いていたが、やがてほっそりした声で「ちえさん」と呟いた。
「やよいさんには、二つか三つ年下の妹さんがおりました。
今はなんと申すのでしょうか。その……知恵遅れの子でした。
いつもやよいさんの後ろをついてまわって、おねえちゃんおねえちゃんと、
傍から見ても、それはそれは懐いておりました。
やよいさんも知恵遅れの妹を心配して、あれこれと世話をやいていたのを覚えております」
「いなくなったのは?」
「さあ、それが……」
おばあさんは困ったような顔をして、懸命に記憶を呼び覚まそうとしていたが、
どうやらはっきりと分からないらしかった。
分かったことと言えば、その松原ちえという女の子が恐らく十歳を過ぎた頃、ある日急に姿が見えなくなった、
ということだった。
「どこかにもらわれて行ったか、どうかしたのだと思うのですが」
子ども心にも大した事件ではなかったということか。
それとも、姉のやよいさんと仲の良かった娘からすれば、その姉にべったりの妹はむしろお邪魔虫であり、
ある日急にいなくなっても、心配するようなことはなかったのだろうか。
「松原ちえ」
師匠はゆっくりと呟いて、もう一度地面に這いつくばった。
コンクリに額をぴったりとつけて、目を閉じる。
「ちえ」
もう一度そう呟く。その瞬間、僕にも分かった。
さっき玄関で『もういいかい』と聞こえた時に、こちらの方角から感じた気配のようなものが、
足元からじわじわと湧き上がってくるのを。
足先が重くなっていく。ずぶずぶとコンクリの中に靴がめり込んで行くような錯覚を覚える。
「チャンネルが合った」
ぼそりと師匠がそう言う。そして「おまえは?」と訊く。僕はかぶりを振る。
師匠が言うのは、僕が今感じている程度の感覚ではないのだろうから。
這ったまま師匠の左手が差し出される。僕はそれを躊躇いがちに握る。
その瞬間、自分の視界に被るように別の視界が開けた。
ノイズのようなものが走り、不鮮明だが笑っている女の子が見えた。
十代前半だろうか。着物を着ている。
その子が木の幹に向かって顔を伏せた。
なにか言っている。
数だ。数をかぞえている。
視界が動いた。木と女の子に背を向けて走り出す。
途中で茂みを掻き分けようとしていたが、諦めてまた走る。
呼ぶ声。返事をする。家が映る。古い木造家屋。その縁側を回り込む。隣の家の垣根。そのそばに井戸。
小さな離れのような建物が見え、木戸が風で揺れている。
また呼ぶ声。返事をする。視界がしゃがむ。
木戸の傍に頑丈そうな板が地面に埋まっている。それを苦労しながら取り外す。中を覗き込む。暗い。
視界が振り返る。家と垣根の間、その向こうにはまだ人影は見えない。
地面に開いた穴に視界は滑り落ちていく。
臭気。
腰まで汚泥のようなものに浸かる。暗い。上を見ると、丸い穴から空が覗いている。
呼ぶ声。今度は小さな声で返事。見つからないように。
時間が過ぎる。
探す声。
やがて遠ざかる。
さらに時間が過ぎる。なんだか楽しい気分。
空から声。
なんだ、危ないな。開いているじゃないか。
丸い穴から見下ろす男の顔。驚く。眉間に皺。
視界は半月になる。笑いかけているのだ。
ますます険しくなる男の顔。震える頬。短い時間の間に複雑な変化をして、そして穴から離れる。
次に丸い空の穴から男が見えた時、その手には大きな石が握られていた。
打ち下ろされる手。
衝撃。赤く染まる視界。暗転……
ハッと我に返った。
師匠は左手を引きながら「見えたか」と訊いてくる。こんなことができるのは最近知ったことだった。
僕よりも師匠の方が遥かに霊感が強く、師匠に見えて僕には見えないということが多々あったのだが、
そんな時に師匠の身体のどこかに触れていると、どういう効果なのか、ほぼ同じレベルで見えてしまうことがあったのだ。
交霊術などで参加者同士が手を繋ぐのと同じことなのだろうか。
周囲にざわざわした空気が戻ってくる。
僕らを奇異の目で見つめる人々に師匠は向き直った。
「この下に、松原ちえさんが埋まっています」
剣呑な言葉に驚きの声が上がれば、「やっぱり」というような声も上がった。
そして、半分以上は疑わしげな声。
姉とかくれんぼをして遊んでいる最中に、便槽に隠れたちえさんと、偶然それを見つけてしまった父親。
そしてどういう心理が働いたのか、衝動的に娘を石で打って殺してしまう。
それからは恐らくだが、便槽をコンクリかなにかでそのまま埋め立て、ちえさんはいなくなってしまったことになった。
訥々と語った師匠に、頷く人もいれば、胡散臭そうな顔を隠さない人もいる。
しかし、当時の松原ちえを知るおばあちゃんは、涙を浮かべて言葉を発せない状態になっていた。
「じゃあ、集会所で聞こえた気持ちの悪い声は、そのちえさんが?」
誰かが言った言葉に師匠はかぶりを振った。
「私たちが聞いたのは、『もういいかい』という言葉でした。ちえさんは隠れる側でした。
だから、ちえさんなら『まあだだよ』、もしくは『もういいよ』と返すはずです」
そうだ。『もういいかい』は探す側の言葉。探しているのは誰だ?
「やよいさんが……」
おばあさんがようやくそれだけを言った。ハンカチで涙を止めようと目元を赤くしている。
松原やよいが、ある日かくれんぼの最中に急にいなくなった妹を探して、今も彷徨っているというのか。
その魂だか思念だかで。
胡散臭げだった人々も、気味の悪い怪談から人情話になりそうなせいか、納得したような雰囲気になってきた。
確かに、現にそんな気持ちの悪い声の噂が広がっている以上、これは落とし処としては取っ付き易いのだろう。
しかし僕は、最初に師匠が言っていた、
『言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった』という言葉が引っ掛かっていた。
そこまで言うのであれば、単純な霊などではないはずだ。
俄然、井戸端会議になってしまった場所で、
それぞれの雑談の波を越えて、師匠はまだ涙を拭いているおばあさんに話しかけた。
「すみません。あと一つだけ。隣町へ引っ越した後、やよいさんはどうされました」
「……結婚されて、どこかへ行かれていたはずですが、
二十年くらい前に旦那様と死に別れて、隣町へ戻ってらっしゃいました。
その後は、私ともまた往来がございまして、親しくしておりましたが、
確かあれは五,六年前だったかと思いますが、胸を悪くして、入院先の病院で亡くなりました」
「五,六年前」
師匠はそう呟くと、違うというように首を振った。
「オッカムの剃刀だ」と、僕に耳打ちする。
「いいか。声が聞こえるという噂は、やよいさんの存命中からあった。
では生霊か?
生霊になってまで、昔いなくなった妹を探していたというのであれば美談だが、本人は隣町に住んでいるんだ。
生身で来ればいいんだから、わざわざ生霊になる必要もない。
では、昔妹がいなくなったことを、普段は忘れているかほとんど認識していないとして、
夜眠っている時にだけそれを思い出し、魂が肉体から離れて、隣町から探しに来ているのか。
そして、五,六年前にやよいさんが死んだ後も、今度は死霊となって、以前と変わらない現れ方で妹を探し続けてる?」
師匠の囁きを聞いていると、なんだかややこしくなってきた。
「生霊から死霊へ、そのまま引き継がれる怪異なんて、聞いたことがない。
それ以外にも、めんどくさい前提が多すぎる。
オッカムの剃刀というのは、哲学だか論理学だかの言葉でな、
ある現象を同じ程度にうまく説明する仮説があるなら、より単純な方がより良い仮説である、っていう金言だ。
私なら、こう仮説するね。『もういいかい』と言って探しに来ているのは、松原やよいではない」
それはただの反論で、仮説ではないでしょう。
そう返そうと思ったが、ぞくりとする悪寒に口をつぐんだ。
では一体、なにが松原ちえを探して集会所を彷徨っているというのか。
僕らを無視してざわざわと思い思いの会話をしている人々の中で、
師匠はゆっくりと、考えをまとめようとするように呟く。
「子どもなんだ。かくれんぼをしていた子ども。
探しにくるはずの鬼。なかなか見つけてくれない。わたしはここにいるのに。ここに。この地面に下に。
そうか。遊び相手だ。遊び相手がいない子どもはどうする?孤独の中で架空の遊び相手を作る。
イマジナリー・コンパニオンだ」
師匠の独り言を聞いて僕も思い当たった。
イマジナリー・コンパニオンは、幼児期に特有の空想上の友だちのことだ。
しかし、本来それは本人にしか見えないし、知覚できないもののはずだ。
「いや、触媒があれば、混線するように、他者が知覚することもありうる」
経験があるのか、師匠はそう断言する。
「触媒って……」
問い掛ける僕に、師匠は地面を指さす。
「本人だ」
松原ちえの霊魂だか残留思念だかを通して、僕らにも彼女の架空の遊び相手の声が聞こえるというのか。
この世にはいない架空のかくれんぼの鬼の声が。
一体それはどんな姿をしているのだろう。
想像しかけた。
師匠の表情が変わる。
『しまった』と口元が動く。
『もういいかい』
聞こえた。確かに聞こえた。またあの声が。
周囲を見たが、反応しているのは僕と師匠だけだった。
みんなお喋りに夢中だ。
しかし、異常なものはなにも見つからない。
夜空や集会所の壁、台所の窓、プロパンのボンベ、そして地面を順番に見回すが、なにも見つからない。
しかし、ゾクゾクと背筋の毛が逆立つ。
なんだ。異様な気配。どこからともなく異様な気配を感じる。
『まあだだよ』と言ってしまいたくなるのを必死で堪える。
師匠は脂汗を浮かべて、目を剥いたまま俯いている。息が荒い。
「いま、わたしに触るなよ」
それだけをようやく搾り出すように呟く。
口元が声にならない言葉を紡いでいた。僕はそれを読み取る。
『チャンネルがあっちまった』と、そう言っている。
師匠には見えている。
胸が脈打つ。想像しまいとする。なにを想像したくないのか。もちろん、いないはずのかくれんぼの鬼。
十歳そこそこの知的障害を持つ少女が、父親に石で打ち殺された少女が、
そのまま地面の底に埋められた少女が、ずっと誰かがみつけてくれるのを待ち続けるその少女が、空想で創りあげた鬼。
夜な夜な集会所を彷徨うなにか。
ああ、想像しまいとして、想像してしまう。思考が止まらない。
やがて、数分にも数時間にも思える時間が過ぎ去り、硬直した肩を師匠が叩いた。
「もう消えた」
かくれんぼの鬼をやりすごすには、じっと息を殺して耐えるしかないということを、今さら思い出す。
師匠の顔色は蒼白になっている。一体どんな恐ろしいものを見たのか。
顔を上げた師匠は慌しくそこに集まった人々に向かって、「今日はもう解散してください」と言った。
そして、「明日以降なるべく早く、この下を掘り起こして遺体を見つけ、丁寧に弔ってあげてください」と。
集まった人々がガヤガヤと、それでもなんとか全員帰ってくれた頃には、夜の十時を過ぎていた。
最後に残った鎌田さんに師匠は言った。
「もしこの下から遺体が出てきても、警察には私のことは言わないで下さい。
地区で井戸を掘ろうとしたとか、なにか適当なことを言って、上手く誤魔化して下さい」
「はあ」
反応が鈍い鎌田さんに念押しをする。
大事な所だ。警察に目をつけられるとやりにくくてかなわない。
今回のケースは古い話なのでまだいいが、
彼らは犯人しか知りえないことを知っている者は、とりあえず犯人と見做して対応するものだから。
「それから……」
師匠は少し言いよどんでから、「できたら」と続けた。
「みいつけた、と言ってあげて下さい」
鍵を返しながら、軽く頭を下げた。
[完]
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