お兄ちゃんの妹で良かった
ちょっと記憶が飛んでいる部分もあるとは思うけれど、投下。
私の両親はとても仲が良く、どちらもどちらにべた惚れ状態。
両親は自営業をしていて、職場が車で1時間程度。
いつも母親が早くに帰ってきていた。
母が早くに帰ってくると言っても、仕事に切りがついてから。
そのため、夕食が出来上がる時間までは習い事に行き安全な時間を確保させてもらっていた。
毎日、色々と習い事をさせてもらえていたことは環境のせいとは言え、とても感謝している。
私は兄と一緒に習い事に通っては、覚えの悪い私を兄は「おまえのペースも大切だ」と言っていた。
私の休日(土日)になると、私は自営業先に両親と一緒に行き、両親と一緒に夜に自宅に帰ってきていた。
夏休み、冬休みなど長期休暇はあってないようなもので、一緒に旅行に行ったのは今でも鮮烈に覚えている2カ所だけ。
自宅は私家族+母方祖母の5人暮らし。
祖母はとても良いまじめな人なのだけれど、当時の私には辛かった。
やはり、親を見ると嬉しく思う年頃だったので
「私の前では違う態度、この子は二重人格!!」
といつも言われていた。
みんながやっていたように、家事の手伝いをしてみたいと思い、申し出ると
「私のやり方が気に入らないの!誰に言われたの!!」
と、やらせてくれない。
それでも、かって出てみると「ジト目」で見てくる。
家の手伝いは、やってはいけないことだと思った。
「みんなが夕飯のサラダを作った、とかシチュー作ったっていうの、私もそうやってお手伝いしたみたい」
と兄に言うと
「おばあちゃんは大切にしなきゃいけない、嫌でもおばあちゃんの料理が食べられない時がくるそれまでは、甘えさせてもらおうよ。だから、その後は○○(私の名前)の味しか食べれないんだなー」
と言うので、祖母の料理をいただけたり、家事を目の当たりに出来る風景が、とても誇らしく思った。
そんな生活が当然だったため、中学進学を選ぶ段階で自宅よりも自営業先に帰りたいという気持ちが強く、中学受験をするものだと思っていた。
その受験勉強さながらに、父親が自営業先の従業員と不倫していることを知った。
もちろん、母も知っていて、その事実は母から知らされた。
私もバカだったので「こんなやつのために、帰る必要はない!勉強する必要もない!」とそのまま地元の公立中学に進学し、情けないことに引きこもりのようになっていた。
父は帰ってこなくなった。
祖母も家を出た。
でも、両親はまだ自営を一緒にやっていた。
そして、だんだん父が帰ってくるようになって、当たり前に望んでいた家庭が戻ってきたように思った。
将来は両親の自営業を継ぎたいという気持ちもあり、勉強がしたかった。
だけれど、その意味が自分には持てない、という気持ちしかなかった。
荒みながらも、引きこもる術しかないので、犯罪に手を染めたと言うと自宅でお酒に手を出してみた程度。
それでも、心機一転して「誰のため、私のため」と思い中学受験したかった学校の高校を受けようと思っていた。
そんな矢先に、母親が私も信頼していた動物病院の先生と不倫していることを知った。
みんな死んじゃえ!!と思った。
父は自分を省みずに母を罵った。
私は父と母、双方を信頼できないと思った。
そして、高校受験の日がやってきた。
ろくに学校にも行っておらず、色々と荒みながらも(いわゆる厨二)、全く希望していないような自営業先に近いランクも付けられないような私立高校に進学した。
「高校は面接試験しか無かったのに」
と思っていたのも記憶が無いからのよう。
実際は学力試験があったし、私も受けていたらしい。
私はそこで1位だったようだ。それほどのレベルの高校だ。
そのため、「進学クラス」と言われるクラスに入ることができた。
また、その高校は昔からある学校ならではのコネクションがあり、たまたま私の行きたい分野の学校を指定校推薦として持っていた。
そうこうしている間に自営業先の経営がかなり破綻していた。
愛が無くてもお金だけで育ててもらっていた私の全てが崩れた。
私はこれからのことを考えて大学進学がどうしてもしたかった。
将来、宝の持ち腐れになろうと「学士、修士」がなくては通用しない進路もある。
しかし、それは兄を私大に通わせたから、指定校推薦が行きたい分野にあるおまえは大学にこだわらなくても良いじゃないかということで、諦めた。
(実際に兄は大学でないと勉強が出来ないこと、私は専門学校でも勉強できること、であった。私は大好きな兄が最優先であったので、諦める理由が兄であるなら、当然だとも思った。)
そして、私は専門学校に進学した。
二十歳になるのを待って、自分でアパートが契約できる日を待ち焦がれ、一人暮らしを夢見た。
両親は一人暮らしは駄目だけれど、兄となら暮らしならと許可してくれた。
私が家を出る間際、両親は色々とおかしかった。
その間に両親は自営業がうまくいかずに自己破産した。
兄も持病が悪化して入院中だった。
私は心配して、休日に実家に戻った。
その夜、「なんだか悪い予感がする」と母が言うので、子供の時ぶりに母と同じ布団で寝ていた。
寝てどれだけたったか解らないけれど、目を覚ますと父が包丁を持って、私たちのベッドの前で立っていた。
「危ないよ」とか冷静になだめるつもりでも、逆上させるばかりだった。
怪我はなかったけれど、ここにはいられない、と母と車に飛び乗り家を出た。
ペットを飼っていたので、その子達はとても心配だったけれど。
ここも記憶が途切れている、けれど、ペットはみんな無事だった。
しばらくして、私は所用で地元を数日離れた。
心配だったので実家に帰ったら、実家が売り家になっていた。
私は県外の親戚の家でお世話になることになり、通学時間に2時間ぐらいかかるようになった。
お世話をしてくれた親戚には今でも足向けできない。
何がどうなっても、どうでも良かったが。
結局、母と兄、私と3人で住むアパートを見つけた。
アパートの大家さんはとてもいい人だったけれど、色目を使うおじさんで、母に気があったようだ。
両親の自己破産や、入院のこともあり、兄は留年を余儀なくされ、私は学費の安い専門学校だったのに加えて特待生で勉強させてもらえていたので卒業できた。
卒業して、資格を取ることができた。
これからは、私が母も兄も、何も心配のないところで生活させてやる!!と意気込んで働いていた。
そんな矢先、兄が治らない病気になった。
死期の迫る病気だった。
信じられなかった。
「どうやったら、兄の病気を私が変われますか」と真剣に聞いては、「かわいそうな人」という視線をいくら感じただろう。私は真剣だった。
いつも、誰にでも優しく、何よりこんな変な崩れた家族でありながら、いつも妹として私を見てくれていた。
この人を失っては、私は生きていけない。
だけれど、兄の性格として、その目が妹でなくても、きっと私以外の人でも救われる人が確実にいる。
だから、兄が死ぬのはどうしても避けたかった。
そのために、神様や仏様が、「誰かの命」を欲しがっているとしたら、私は喜んで、自分の命を差し出していた。
それでも、兄は死んでしまった。
兄のお見舞いに、数年ぶりに父親に会ったりもしていた。
会ったら殺してしまいそう!と身震いしてシミュレーションしていたけれど、あっさりだった。
そして、当たり前のように兄の亡くなった後の話もしていた。
「バカにするんじゃない、これ以上!!」
と罵っても、あまり通じてなかったと思う
お葬式は、両親健在ながらに、私が喪主をさせて頂いた。
兄が、そう望んでいるとは思わないけれど(とても形式を重んじる人だった)それでも、兄以上に兄を思っている人は私しかいないと、思いこんでいた。
縁の途絶えた父方の親戚は、このような儀式の中で笑っていた。
「久々にあえたね~」って。
おまえが市ね!!って思ってしまった。ごめんなさい。
誰一人、欠けても、その人の日常が崩れてしまうのに、私はおかしかった。
私は看護師だった。
兄の学費を払いながら、仕事をしていた。
実家に○○円入れなさいよ!とは言われていたかもしれないけれど、それ以上に兄の学費を払うのは当たり前だった。
大好きな兄に、屈辱だったかも知れないけれど、やっと恩返しができてるんだ、こんなと下世話なところだけど。
そして、最愛のお兄ちゃんを、看護師として看取った。
死語の処置もした。動かず、苦しまない、痛がらないお兄ちゃんが、辛かった。
いつもみたいに、悲鳴を上げてくれて良かったのに。
兄が亡くなってから、すぐに両親は「今しか話せる機会がない!」とばかりに離婚話を進めはじめた。私を板挟みに。
いつも、父・母・兄・私がいる、これが「家族」だといつも夢見ていたのに。
でも、結局は私が「壊した」のです。。。
両親どちらかが言い始めた「離婚届」を。
これだけ別居しておいて、心が離れておいて、子供を巻き込んでおいて、その離婚届を
「(兄を亡くした私が)喜んでお互いのサインをもらいに行った」
と思いこんでいる。
当たり前の家族がいる生活を、親以上に誰が望んでいると思うの。
そんな子供が、喜んで両親のサインを片方ずつにもらいに行ったって、ほんとに思ってるの、かな。
とても…とても…とても、悔しい。
子供のために別れない両親が他に居るとしたら、もっと上手に演技して家族で居て欲しい。
「あなたが成人したら別れますから」
なんて本音は死ぬ前提でしか言ってはいけない。
あなたは、その人の親になった瞬間に、妻よりも、親である立場を何より最優先して欲しい。
これ、子供のエゴ。です、ごめんなさい。
やっと、お兄ちゃんの学費ローンが終わった。実はずいぶん前に。
卒業してくれていたら、生きていてくれたら、どれだけ、いっぱいくだらない話でむかついていらついて、たよりたくなっていたんだろうね。
払った記念に卒業させてくれたら、いいのにね(笑)
当たり前が、当然でなくなることを知らなかった。
でも、両親が「絶対的に自分を無条件で愛してくれる」前提ですら私たちはなかったはずなのに。
何を求めていたんだろう。
その後もいくつかありますが、最後に書いたことが兄の7回忌前にできたことです。
この辺ではき出しておかないと、ちょっと私が辛かった。
ココまで書いたら、知ってる人には身ばれしてるかもしれない。
そして、修羅場っていうピークが解りづらくてごめんなさい。
いくつもありすぎて、よく分からない。
家族って当たり前すぎるから、無条件に自分を受け入れてくれる存在なのかもしれないけれど、その無条件を疑って始めた子供というのは大人になっても、日々自分との戦いだったりします。
それでも、私は胸を張って言えるのは。
お兄ちゃんの妹で良かった!!
今でも私はお兄ちゃんの妹で、お兄ちゃんのことをそう呼べるのは私以外にいないのが唯一の自慢。
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