『イクリプス』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】

『イクリプス』|【名作長編 祟られ屋シリーズ】洒落怖・怖い話・都市伝説 祟られ屋シリーズ

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『イクリプス』

2038 :イクリプス ◆cmuuOjbHnQ:2012/12/21(金) 06:16:07 ID:Y4grlhQ20

 

俺は、キムさんに辞表を提出して実家に戻った。
はいそうですかと、簡単に辞めさせてもらえる業界ではない。
だが、俺に残された時間は少ない。
俺のために動いてくれている一木氏や榊夫妻とも、シンさんやキムさんとも、二度と会うつもりはなかった。
向こうが何と言おうとも、俺は呪術の世界とは二度と関わりは持たない。そう誓ったのだ。
『定められた日』とやらが近づいた為か、或いは裏切り者の俺に『呪詛』でも仕掛けられているのか……
俺の肉体の変調が確実に始まっていた。
体重がどんどん減少して行き、70kg程あった体重が60kgを切りそうな所まで落ちていた。
キムさん達からのアクションは全くなかった。
それは、不気味なほどだった。
俺は、Pに頼んで姉と妹に監視者を付けた。
キムさん達による拉致を恐れたからだ。
もちろん、そういった事態を防ぐために、他にも手は打ってあった。
俺は、可能な限りマミと行動を共にした。
マミの卒業が目の前に近付いてきた、そんなある日のことだった。
俺は、街中で一人の男に呼び止められた。
キムさんのボディーガードの一人で、同じ空手道場の同門3人組で一番若い徐だった。

徐は、急激に痩せて人相の変わった俺に驚きを隠せない様子だった。
「久しぶりだな、拝み屋」
「徐か……何をしに来た?」
「そういきり立つなよ。別に社長に命令されて来た訳じゃないのだから」
「そうか?」
「判っていると思うが、社長はお前を手放すつもりはない。
ただ、暫くお前の自由にさせておけと言っている。
俺たちが、お前の家族や友人に手出しすることはない。だから、早まった真似だけはするな」
「判った。お前たちが手出ししてこない限り、俺の方も何もしないよ。約束しよう」

「お前と一緒にいた、あの娘は……あんな小娘のためにお前は?」
「ああ、そうだ。おかしいか?」
「馬鹿げている。
お前は社長やシン会長にも気に入られて、期待もされている。
俺たちと違って学もあるし、『呪術』って売りもあるからな。
黙っていても、あと2・3年もすれば幹部だろ?
もう、危ない橋を渡らなくても、金や女がいくらでも自由になる身分じゃないか!
何も、あんな小娘に拘らなくても、他にいい女はいくらでもいるだろう。
あの娘と一緒になるにしても、良い暮らしができるだろう。
今更抜けてどうしようって言うんだ?
堅気になってサラリーマンにでもなろうってか?
無理だよ、お呼びじゃねえって。
俺たちにはツブシなんて効かないんだ。他に行き場なんてないんだよ!」

「そういう問題じゃないんだよ。お前には判らないかもしれないけどな。
ぬるま湯に浸かりすぎて感覚が麻痺しているんだ。俺もお前も。
異常な世界に安住してしまっているんだよ。独りならそれも良いだろう。
でも、異常な世界にどっぷりと浸かりながら、普通の結婚生活や家族生活を送ることはできないよ。俺にはな。
熱湯に入るのか、冷水に飛び込むのかは判らないけれど、取り敢えずぬるま湯からは出ることにした。
ここまで来るのにウダウダと時間を食ってしまったが、抜けて後悔はないさ」
「判ったよ……、俺はもう何も言わない。
……お前、あの娘と一緒になるのか?」
「ああ、そのつもりだ」
「そうか。……それじゃあ、一杯奢らせてくれ。前祝いだ」
「判った。付き合うよ」
ハイペースでグラスを空けながら徐は昔話をした。
権さんに命じられてタイマンを張ったこと、仕事や道場でのこと、そしてアリサのこと……
「拝み屋……今度こそ上手くやれよ。幸せにな」
「ああ、ありがとうな」
そう言って、俺は徐と別れた。

数日後、キムさんのボディーガードで徐の先輩の朴が俺の前に姿を現した。
身構える俺に朴は言った。
「徐の行方を知らないか?」
俺は、徐が俺を訪ねてきたことを話した。
徐の行方は知らないことも。
徐は追われていた。ガード対象の女……大口のクライアントの愛人と駆け落ちしたらしい。
その女は、クライアントの『金庫番』だった。
どうやら、徐の件以外にも、キムさんのビジネスはケチの付き通しらしかった。
俺のことなどに関わっている場合ではないらしい。
俺は『休職扱い』という事だった。
原因は定かではないが、キムさんが急速に『運気』を落としているのは確かだった。
キムさんたちと手を切ろうとして、四苦八苦していたPの方も、纏まった『手切れ金』を払うことで足抜けに成功していた。
完全に焼きが回った状態のキムさん、そしてシンさん達は、その勢力を確実に削り取られていった。

やがて、マミの高校卒業の日がやってきた。
日を改めて、俺は父と母、姉夫婦と妹、そしてP夫妻を呼んで食事会を開いた。
両親とマミ以外の面々は痩せこけた俺の姿に驚きを隠せないようだった。
この時の体重は55kgを割っていたか。
義兄は、そんな俺を心配し「近いうちに検査に来なさい」と言ってくれた。
だが、普通の医者にこの症状の原因は判らないだろうし、治療も不可能だろう。
俺の体調自体はすこぶる良好で、チェンフィですら、俺の症状の原因は判らなかったからだ。
「卒業おめでとう、マミちゃん!」皆がマミを祝福した。
「ありがとう!……XXさん、約束、覚えていますよね?」
「ああ。でも、俺はもう、結構いい年のオッサンだぞ?」「いいです。私、多分、ファザコンだと思うし」
「そのうちメタボって、腹とかも出てくるぞ」「むしろ、最近痩せすぎだと思います」
「オヤジを見れば判るだろうけど、確実にハゲるぞ?」「構いません。今だって坊主頭じゃないですか」
「最近加齢臭が……」「そうですか?わたし、XXさんの匂い、好きですよ」
「……」「もう良いですよね?……私、今でも、あの時よりもXXさんのこと大好きです。だから……」
「待て、そこから先は俺が言うから」
俺は深呼吸をして気持ちを落ち着けた。これほど緊張するものだとは!
「マミ、俺と結婚してくれるか?」「はい。でも条件があります」
「条件?」
「はい。私、XXさんと、おじさん達みたいな夫婦になるのが夢だったんです」
「ちょっと待て!『アレ』はどこに出しても恥ずかしいバカップルだぞ?」
「おいおい、親を捕まえてアレとか、馬鹿はないだろ!」
「それに、マミちゃん、おじさん、おばさんじゃなくて、お父さん、お母さんでしょ?
マザー・イン・ローだけどね」

「うん……ずっと、そう呼びたかった。ありがとう、お父さん、お母さん」
「それで、条件って?」
「毎日、私も言いますから、愛してるって言ってください」
「……お、おう」
「それと、毎日3回……5回はキスして下さい」
「……恥ずかしいな」
「お父さんは、毎日してますよ?」
「それは、あの二人がおかしいんだ!」
「私は、そうして欲しいんです。してくれますよね?」
「判ったよ。仰せのままに」
「ありがとう。私、こんなにワガママだけどXXさんの奥さんにしてくれますか?」
「もちろんだ!」
……それは、至福の瞬間だった。
このまま時が永遠に止まって欲しい、そう、俺は思った。

母が小さな箱を取り出した。
「昔、お父さんに貰ったものなの。サイズは直してあるから、マミちゃんにあげて」
俺はマミの左手の薬指に指輪を嵌めた。
「ありがとう!」
マミがポタポタと涙を流した。
泣き止んだマミが指輪の嵌った薬指を俺に向けて言った。
「ねえ、XXさん見て。とても、綺麗」
「ああ」
「もっと近くで。……目を瞑って」
俺は目を瞑らなかった。
「何で、目を瞑ってくれないんですか?」
ミユキが言った。
「古臭い手口よね。2度も引っかかったら馬鹿だわ」
不意を打つように俺はマミにキスした。
「最初から騙し討ちされてたまるか!」
顔を赤くしながら、マミは言った。
「私、XXさんとキスするの初めてじゃないですよ?」
「え?」
「初めて、XXさんのアパートに行った時に……XXさんは寝てたけどね」
……あの時か!

姉が声をかけてきた。
「ねえ、あなたたち、そろそろ席に着かない?
店員さんが困っているわよ」
久子が呆れたように続けた。
「あんた達、バカップルの才能十分よ。
見ているこっちが恥ずかしい。
人前でこれだけイチャつければ大したものよ。ご馳走様」
店員が注文していなかったシャンパンを持ってきた。
「おめでとうございます。これは、当店からのサービスです」
俺たちは乾杯した。
「あまり派手には出来ないけれど、ウェディングドレス、必ず着せてやるからな」
「はい。……お母さんにも見せてあげたかったな……」
義兄が言った。
「でも、成人式の晴れ着姿は見せてあげられたじゃないか。お母さん、喜んでいたよ」
ユファは、マミの成人を見届けると、耐え続けた全ての糸が切れたかのように意識を失い、二度と目覚めることなく亡くなった。
40歳の誕生日の少し前のことだった。

俺たちはPを連れて自宅に戻った。
そして、マミに全てを打ち明けた。
これまでの俺たちのことを、そして、一木燿子の霊視のことを。
「そんなの……ただの迷信じゃないですか!バカバカしい!」
「Pよ、俺たちの10何年間、一言で切り捨てられちまったな」
「そうだな」Pは苦笑いした。
「マミ、お前が言うように、ただのくだらない迷信だ。
俺は、『定められた日』とやらの後も生き抜くつもりだ。
だから、その日が過ぎたあと、全てがスッキリと片付くまで待っていて欲しいんだ。
ドレスは来年までお預けだ。いいね?」
「はい。……私たち、ずっと、一緒ですよね?」
「当たり前だ」
「なら、いいです。
ドレス、じっくりと時間をかけて選んでおきます」
「すまない……そうしてくれ」

マミとの平穏な日々は続いていた。
5月21日の朝だった。
俺は、内容は思い出せないが、得体の知れない悪夢の中にいた。
夢から目覚めようとするのだが、どう足掻いても目覚めることができない。
悪夢の中で苦闘していた俺はマミに起こされた。
「XXさん、そろそろ起きないと始まっちゃいますよ?」
「おはよう、マミ」
目を閉じたマミに軽くキスをする。
「今日も可愛いね。愛してるよ」
「私もです。愛してます」
両親が、俺が子供の頃から続けてきた朝のセレモニーは、俺とマミの習慣となっていた。
餓鬼の時分には『恥ずかしい親だ』と思っていたのだが、今は忘れると落ち着かない。
「珈琲を淹れるから、顔を洗ってきてください」
「ああ、ありがとう」
時刻は7時20分位になっていた。
「そろそろですよ」
両親とマミと共に庭に出て、日食眼鏡を目に当て空を見上げた。
空の真ん中で欠けていった太陽が小さな金色の輪を作った。
金環日食が始まった。
その瞬間、俺は異常な感覚に囚われた。
全身を静電気に覆われたような、産毛を逆立てられたようなザワザワとした感覚だ。
軽い目眩を感じていた俺に、「綺麗ですよ」と言ってマミが日食眼鏡を渡してきた。
眼鏡を受け取った俺の体は、気持ちの悪い浮遊感の中にあり、動かなかった。
眼鏡を手に持ったまま立ち尽くす俺に、心配そうにマミが声をかけてきた。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫。軽い立ち眩みだ。夜勤続きだから、寝不足かな?」
だが、俺は異様な感覚と妙な胸騒ぎを覚えていた。
これは、長年慣れ親しみ、忘れようとしていた感覚に近いものだ。
今、この瞬間、何かが起こった。
……直接ではないが、俺にも関係のある何かだ。
不吉な予感に、俺は恐怖を感じていた。
心配そうに俺の手を握ってきたマミの手を俺は握り返した。
俺の掌は、冷たい汗で濡れていた。
やがて、天体ショーは終わりを迎えた。

日食のあった週の週末だった。
登録されていないアドレスから『緊急』と言う件名で、俺の携帯に一通のメールが入っていた。
キムさんからだった。
内容は、『マサさんが見つかった』と言うものだった。
そして、指定された日時にキムさんの事務所に来て欲しいと書かれていた。
俺は、メールを消去した。
俺には、もう関わりのないことだ。
絶対に、行くものか!

だが、キムさんからの知らせは俺の心に引っかかり続けた。
悟られまいとしたが、マミは直ぐに俺の様子がおかしいことに気づいたようだ。
問い詰められて、俺はマミにキムさんからのメールの事を話した。
「そのマサって人が、XXさんの先生で、XXさんを『呪術』の世界に引き込んだ人なんですよね?」
「まあ、そういう事になるのかな」
「行って下さい……XXさんの心は今、ここにはないから。
でも、私のところに帰って来てくれますよね?」
「ああ、必ず!……当たり前だろ?
俺の帰れる場所は、マミのいるここだけだからな」

俺は、キムさんの事務所に行った。
半年ぶりか。
事務所の雰囲気は、物の配置こそそのままだったが、暗く沈んだものに変わっていた。
事務所には、キムさんの他、シンさん、P、イサムとその姉の香織がいた。
皆、マサさんとあの『井戸』の関係者だった。
俺たちは、マサさんが来るのを待った。
だが、姿を現したのは意外な人物だった。

「……アンタが、何故ここに?」
5・6歳くらいの男児を連れた中年女性。
この女と俺は面識があった。
俺とPが呪術の世界に引き込まれる切っ掛けとなった事件で、俺たちに『生霊』を飛ばして来た女だった。
彼女はマサさんの『代理人』として来たらしい。
「今、『主人』と会っても、意思の疎通は不可能ですから」
……法律的にどうなっているのかは判らないが、マサさんは、俺たちを『斬った』この女と結婚していたのだ。
かつて、この女に付けられた『傷』の跡が疼いた。
俺もPも、イサムも全く気付いていなかった、意外な事実だった。
キムさんに「知っていましたか?」と尋ねた。
だがキムさんの答えも「知らなかった」と言うものだった。
『監視者』であるキムさんに気付かれる事なく、マサさんは密かに妻と子を設けていたのだ。
『組織』にとっては、重大な裏切り行為だ。
だが、マサさんの気持ちは理解できた。
呪術の家に生まれ育ったマサさんは、ある意味、俺以上に呪術の世界を忌み嫌い、抜けたがっていたからだ。
俺は、マサさんの叔母の一木燿子の言葉を思い出した。
彼女は、そして、マサさんの母親の一木祥子は、このことを知っていたのかもしれない。

『生霊の女』……マサさんの妻の話によると、マサさんが姿を消した直接の原因は、マサさんの『呪いの井戸』が霊的に『破壊』されてしまった為らしい。
あの時か……俺はすぐに思い当たった。
マサさんが寺尾昌弘に『同化の行』を用いて『潜った』あの時だ。
マサさんは俺に、寺尾昌弘の魂が引き込まれていた『世界』からマサさんを引き上げるのに、あの『井戸』を使えと言った。
あの時、『呪いの井戸』は霊的に破壊されたに違いない。
……まさか、あれは、俺に井戸を破壊させるために仕組んだことだったのか?
俺の背筋に冷たいものが走った。

『井戸』の崩壊後、マサさんは井戸を封じる『儀式』を行っていたらしい。
そして、『儀式』は完成した。
そう、あの日食のあった朝だ。
マサさんは全身全霊を注いだ『儀式』の後遺症で『五感』を失い、意思の疎通は不可能な状態ということだ。
最後の儀式を行う前に台湾から呼び寄せた治療師……チェンフィの父親が、『屍』状態のマサさんのフォローをしているらしい。
回復には日食の日から49日掛かるということだ。
だが、その49日以内に、井戸の『中身』を封印する『仕上げの儀式』を行わなければならないらしい。
女とキムさんたちの打ち合わせが別室で行われていた。
Pが一服するために外に出ていった。
続いてイサムが「何か買ってきます」と言ってコンビニに出かけた。
香織もイサムに付いて外に出て行く。

部屋には、俺と男児だけが残った。
俺と彼の目が合った。
子供の癖に、なんて恐ろしい目をしているんだ……俺は、彼の目から目を逸らせなくなっていた。
この子は……間違えなく『新しい子供』の一人だろう。
室内の耐え難い静寂を破って彼が声をかけてきた。
「オジサン、アッパのお友達?」
「ああ……」
『アッパ』という単語の発音、そしてその声で確信した。
マサさんに『移入の行』を行い、『井戸』を探していた俺の背後から声を掛けて導いた主は彼だ。
「オジサンは4番目だからね」
「4番目?何のことだ?」
「直ぐに判るよ」
やがて、キムさんたちの打ち合わせは終わった。
俺たちは2台の車に分乗して、移動を開始した。
マサさんの『井戸』のある、あの場所へ。

目的地には、意外なほど直ぐに到着した。
まさか、こんな場所にあったとは……俺もPも、イサムたちも驚きを隠せずにいた。
封印の鉄杭は全て引き抜かれて無く、井戸も埋め戻されて痕跡しか残っていなかった。
倉庫も解体されており、民家が一軒残っているだけだ。
残された家に俺たちは上がり込んだ。
懐かしい。
かつて、半年近く過ごした家だ。
居間の床には、鉄枠で補強された立方体の木箱が置かれていた。
俺はイサムと顔を見合わせた。
ヤスさんが話していた『井戸の中身』に違いない。
女が言った。
「この箱をある場所に運び封印しなければなりません。
皆さんは、あの井戸と深い関わりを持っています。
皆さんの中から一人、この箱を運んで頂く方を決めます。
よろしいですね?」
女の言葉には、逆らえない強制力があった。

一人目はシンさんだった。
老体のシンさんが全身の力を込めて持ち上げようとしたが、箱はビクともしなかった。
二人目はキムさん。
やはり、箱は動かない。
三人目はPだ!
『よせ!その箱に触れるんじゃない!』そう言おうとしたが、少年の視線に射竦められた俺は、言葉を発することが出来なかった。
イサムの方に視線を移すと、イサムも恐怖の表情を浮かべたまま金縛りにでもあったかのように固まっていた。
Pが箱に手を掛け、力を込めた。
「うっ、重い!」
僅かに箱は持ち上がったが、揚げきる事は出来ず、重そうな音を立ててPは床に箱を落とした。
Pに続いて香織が箱に近付いた。
今にも泣きそうな表情でイサムが首を振る。
俺は、香織に声をかけた。
「大の男が持ち上げられないんだ、女のアンタにできる訳がない。
時間の無駄だ。俺が先にやるよ」
俺は覚悟を決めて、箱に手を掛けた。
持ち上げる瞬間は恐ろしく重く感じた。
だが、床から離れると箱は意外な程簡単に持ち上がった。
「……なんだ、軽いじゃないか。……俺で決まりだな」
目を真っ赤にしたイサムが安堵の表情を浮かべていた。
「そうですね。あなたにお願いしたいと思います」

箱の封印場所は、俺の知っている場所だった。
***神社……かつて、朝鮮から持ち込まれた最悪の呪物『呪いの鉄壷』が封印されていた神社だ。
「この子を連れて、***神社で最後の儀式を行ってください」
俺は少年を連れて山の麓まで車で行き、背中に木箱と儀式の道具を背負って緑溢れる山の奥へと向かった。
麓から目的地まで大人の男の足でも6時間以上掛かる。
川原が見えたところで一泊し、翌朝から川沿いに進んで正午前に目的地の***神社に到着した。
ここまで、俺と少年は一切の言葉を交わさなかった。
それも、儀式の一部だからだ。
俺は、気が狂いそうだった。
少年の視線が心底恐ろしかった。
俺の思考を覗かれている……深層心理、いやもっと深い、俺自身も到達することの適わない『魂の深奥』まで見透かされている、そんな恐怖だ。

俺は少年に食事させてから、洞窟の中で仮眠を取った。
目が覚めると、日が落ちかけていた。
俺はメモを見ながら儀式の準備を進めた。お互いが、用意された数10種類の中から籤で相手の唱える『呪文』を1つづつ選び出した。
短い呪文を交互に唱えながら、以前は鉄壷の収まっていた縦穴の中に起こした火の中に、糸で綴じられた『本』の頁を1枚づつ破って投入した。
恐ろしく単純な『儀式』を続けていると、儀式を行っている自分と、もう一人の自分が分離したような、妙な精神状態になってきた。
穴の中の炎に意識を集中していた俺は、少年の視線が俺に注がれていることに気づいた。
俺は、彼の『恐ろしい眼』を見ないように、さらに炎への精神集中を強めた。
『同化』するかのように、意識が炎の中に入り込む。
だが、次の瞬間、俺と少年の視線が交錯し、俺は少年の眼に魅入られていた。
言葉では表現し難い、異常な状態だ。
そして、炎に集中している意識と、少年の眼に囚われている意識の他にもう一つの意識があった。
その意識が、自問自答しているのか、少年と話しているのか、他の『誰か』と話しているのかは判らないが『会話』していた。
初めは何を言っているのか判らなかったが、会話の内容は徐々に明瞭になっていった。

「それでは、『呪術』に意味なんて無いじゃないか!」
『そう、人は同じ木の同じ小枝から生えた、1枚の小さな葉。
目の前の他者は、自分自身の一部。それを傷付けることは自らを傷つけることに等しい』

『声』は、『新しい子供達』が出現してきた理由を語っていた。
彼らの出現は変化の『予兆』に過ぎない。
『3人目の聖者』は、聖者として転生を重ね、彼らと同じ意識を持ち、彼らと繋がり、過去世からの記憶を全て持っている。
『新しい子供達』とは、転生を重ねて積み重なった経験値が一定のレベルを超えた『古い魂』らしい。
第3段階以降、『古い魂』は徐々に『新しい子供達』と同種の人類として転生し始める。
それと同時に、『過去世』を持たない『新しい魂』も生み出されるらしい。
だが、古い人間である我々も含めて、それらは全て一つの生命体の一部。
人間だけでなく、樹木や動物、山や海、空気や水、土や石までもが、ひとつの生命体の一部らしい。
『声』は、全てを包括する生命体を『樹』と表現した。
個人としての我々は『樹』の末端に生えた1枚の『葉』に過ぎない。
我々古い世代の人間は、末端の1枚の『葉』としてしか『自己』を認識できない。
それ故に、目の前にある別の末端である『葉』を自分とは別の他者として認識してしまう。
だが、他者とは認識の限界から生じる錯覚であり、万物は一つの生命体である『樹』の一部分でしかないのだ。
肉体という殻を持ち、殻の内側に『顕在意識』という個別の意思を持った『葉』は、『枝』との間に壁を作ってしまう。
この『壁』を意識的に乗り越える技術が『瞑想』であり、『呪術』なのだ。
『個』となり、潜在意識、或いは集合的無意識との間に壁を作った人間は、『言葉』を使って末端としての『葉』同士でコミュニケーションを取るようになった。
言葉によるコミュニケーションは『顕在意識』をより強固なものとし、錯覚であるところの『他者』の認識をも強固なものにした。

『言葉』は、非常に強い力を持っていた。
言葉により思考する人間の強固な顕在意識は、末端でありながら、より『幹』に近い階層の意識……潜在意識に影響を及ぼすようになった。
そして、目の前の他者を自己の一部と認識できなくなった人間は、自己の一部であるところの他者に『呪詛』を仕掛けるようになった。
つまるところ、『呪詛』とは自分自身に向けられた自傷行為に過ぎないのだ。
この世界には、一つの法則がある。
生命体としての『樹』の存続に有益なものは『善』であり、害を成すものは『悪』なのだ。
その意味で、自傷行為である『呪詛』は、世界の法則……『律』に反する絶対的な悪なのだ。
際限なく呪詛を振り撒く存在は、自らを傷つけ冒す病変……癌細胞のような存在で悪である。
一本の大きな『枝』としての人類の『集合的無意識』は、『葉』としての『個』を産み出し、『魂』に経験を積ませて、その記憶を集積することによって『人類』全体の成長を図ろうとしている。
集積された魂の記憶……『歴史』の事実に反する虚偽の言葉を振り撒き、人類全体の『魂』の成長を阻害する存在……それもまた、悪である。
他者への慈愛や赦し、施しは『命』の傷ついた部分に『栄養』を分け与える行為であり、善であり功徳である。
他者からの慈愛や赦し、施しに対する『感謝』は、与えた者に対する『癒し』であり、善であり功徳である。
そして、感謝を受けることにより得られる喜びもまた功徳である。
『布施』は、それに対する『感謝』と両輪となることで、善と功徳の拡大再生産となり、『魂』の成長を促す。
だが、与えられることのみを望み、『感謝』しない存在は『善のサイクル』を断ち切る者であり悪である。
『悪』は生命の『歪み』であり、許容できなくなった『歪み』は生命に備わった『免疫反応』によって消去される。
多くの『個』としての人の死や、『部分』としての民族や国家の滅亡は、歪みを是正する作用として『善』足り得るのだ。
今、この世界は歪みが飽和点に近付きつつある。
第3段階の『新しい子供達』の出現と共に現れるという『過去世』を持たない魂を持つ子供の為に、歪みの全ては是正されようとしている。
その消滅が『新しい子供達』出現の端緒となる『旧世代の偉大な霊力』の持ち主、『3人の聖者』は、急激な是正を食い止める存在らしい。
そして、三段階を経て現れる『新しい子供達』……膨大な過去世を蓄積させた魂は、大きな破滅を経ることなく歪みを是正する為に現れた存在。
緩やかに、穏便に『歪み』を修正する者、『調律者』なのだ。
集合的無意識……或いは生命の『樹』の深い階層、『人類の枝』までを自己と認識できる彼らが、全体としての意思と個別の意識を持つのは当然だろう。
そして、是正され排除されるべき『呪詛』に関わる旧世代の能力者……『悪』の存在が、彼らの意思を『敵意』と感じ、その能力が通用しないのもまた当然のことなのだろう。

ここに書いたことは、俺が受け取ったイメージが、俺自身の知識や『個』としての俺の認識力と言うフィルターを通ることによって表現されたものに過ぎない。
だが、どの段階だったのかは判らないが『新しい子供達』と、恐らくは彼の息子を介して『接触』したマサさんは、全ての呪術を捨てる覚悟を決め実行したのだ。

やがて、朝がやってきて、『儀式』は終わった。
俺は、マサさんの息子に尋ねた。
「なぜ、俺だったんだ?」
彼は俺に、あの恐ろしい視線を向けながら、頭の中に直接響く不思議な声で答えた。
『もうすぐ、妹が生まれるんだ。
妹は、オジサンのことが大好きなんだよ。早くオジサンに会いたいって。
でも、オジサンは妹には会えない。“第3段階”が少し先に伸ばされたから。
オジサンには時間がないからね』
……何を言ってるんだ?
混乱する俺に彼はさらに言葉を続けた。
『オジサンにはチャンスをあげる。僕たちの仲間を救って、守ってくれているから』
「仲間?」
『マミだよ。あの子は、まだ目覚めていないけれどね。
オジサンがいなくなると、あの子が悲しむから……そうなると、あの子は『罪』を犯して、二度と僕らとは繋がれなくなってしまう』
……確かに、マミが生まれたのは1990年……彼女は、第1段階の『新しい子供』だというのか。
『オジサンには、マミと共に、これから生まれてくる3人の子供達……僕らの仲間を守ってもらいたいんだ。
でもね、その為には、オジサンに呪詛を……恨みや怒りの感情を捨ててもらわなければならない』
「俺は……呪詛なんて、とっくの昔に捨てているぞ?」
『そう言う意味じゃないんだよ。オジサンの“血”の中に潜んでいる恨みだよ。
オジサンの中には“鬼”が住んでいる。それを抑えて来たものが失われて目覚め始めているんだ。
自分でも判っているんじゃない?オジサンの体は、それに耐えられる強さがなくて、食べられてしまっているんだよ』
……何を言っているんだ?
『まだ、少しだけ時間があるから、答えは急がなくていいよ。
僕らの提案を受け入れてくれるなら、一言、あの言葉を言ってね。
そうすれば、そこから全てが始まるから』
……あの言葉?俺には何の事か判らなかった。今でも判らない。
マサさんの息子に今一度、訊ねようと思ったが、彼の目からは、あの恐ろしい光は消えていた。

俺は、メモに記された手順に従って『箱』を封印し、少年を連れて山を降りた。
その足で、キムさんの事務所に向かい、少年を母親の許に送り届けた。
そして、キムさんに宣言した。
「俺は二度と呪術と関わりは持たない。呪術と関わる人間とも関わらない。
これが本当に最後だ。
長いあいだ世話になっておいて、こんな言い草はないと思うが、二度と俺に関わらないでくれ」
「……そうか、判った。だが、ケジメだけは取らせてもらう。
何をしてもらうかはこれから決める。もう一度連絡する。それで本当に最後だ」

俺はマミの許に帰った。
時間は恐ろしい速さで過ぎていった。
……とうとう『定めらた日』とやらが、来てしまった。
24日は、二人きりで過ごそう……
翌朝、婚姻届を出しに行って、忘れられない二人の記念日にしよう……マミと交わした約束は恐らく、果たせないだろう。
だが、俺は諦めない。
父との約束通り、最後の瞬間まで足掻き続けるつもりだ。

我が黄金に燃え立つ弓をよこせ!
我が欲望の矢をよこせ!
我が槍をよこせ!雲よほどけろ!
我が炎の戦車をよこせ!
決して精神の戦いをやめないぞ
我が剣をいたずらに眠らせておくこともしないぞ

願わくば、事の顛末を報告したいが、それが出来るかは判らない。
ほんの気まぐれで始めたことだったが、この投稿をくだらない文章を5年間も吐き出し続けたケジメとしたい。

[完]

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